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東京教区のメッセージ・ボードを読んだ感想

以下は東京教区の掲示板にあったとして転送されてきました。更に、同じ質問と答えを読んださる方からもメールが寄せられました。その後にわたし自身のコメントも付け加えます。

『フマネ・ヴィテ』研究会 成相明人

カトリック東京教区BBSより転載。

http: //hpmboard2.nifty.com/cgi-bin/bbs_by_date.cgi?user_id=AEH02036

 

55. どういうことでしょうか。 学生  2001/07/21 (土) 09: 30

質問です。 福音書が読まれる前に額・胸・口に十字のしるしをするのは無くなったのですか?だとしたらこれは聖座の許可はあるのですか?

無かったとしたら問題です。若者として申し上げます。カトリックは外国の宗教だからといってカトリックの基本理念を変えてまでも日本人に合った、日本人のメンタリティーにあった教会作りにわたしは断固として反対です。教皇様、ローマ聖座に忠実な教会を目指して欲しいです。

いま若者の教会離れが起こっていると言われていますが人間の価値観と倫理観で持って教会作りをすすめているうちは若者は戻ってきません。教会に対しての信仰をもっと厚くしない限り若者は教会に来ないし、ましてや召命も増えません。世俗的な妥協を教会が繰り返している限りもはや教会に対して魅力はありません。

ローマ聖座にたいして教会がしっかり一致団結しないと日本のカトック教会に将来はないとおもっています。若者が無意識的に深い信仰を求めているのです。不信仰のこの社会で寄りすがる所は教会だけです。その教会がこの社会と同じで、どこに魅力があるのですか。もっと司教様方は自信を持ってカトリックの正統的な教えを広めてください。よろしくお願いします。

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57. Re: どういうことでしょうか。 チェレ  2001/07/21 (土) 16: 02

ローマカトリック教会は国際的な組織です。しかし 世界各国で福音の力を発揮するために言葉、表現、メッセージを伝えるしるしを各国の文化に多少合わせる必要があります。

ヨーロッパ人が使っていたしるしが世界中で理解されると限りません。
それでローマのカトリック教会(60年代の教皇ヨハネ23世)は世界の代表者を集めて公会議を開きました(第2バチカン公会議)。その中で典礼の刷新も決められました。各国の人が理解しやすい、生き生きとした典礼になるようにそれぞれ工夫しても良いということになりました。

日本の教会の典礼係は大きな改革はしなかったが、多少イタリアの典礼と違うところを取り入れた。それもいちいちローマの聖座に許可をもらって取り入れた小さな変化です。福音の前に額・胸・口に十字のしるしをする変わりに、司祭が福音書に十字架をしるすこともその一例です。またはこの掲示板に前に出された問題、ミサのはじめの悔い改めの祈りに「Mea culpa, 私の謝り(sic)なり」という言葉を入れなかったこともその一例です。

若者向きのミサのギター演奏やバンドー(sic)演奏もよく批判されますが、カトリックの本場であるイタリア(ローマ市内も)これはよく行われています。

日本の教会の責任者が、ローマカトリック教会の精神に基づいて工夫したこと(しかも必ずローマの許可を得て変えたこと)のために日本の教会の責任者を批判するのは失礼だと思いませんか。

日本の司教団はローマ教皇と聖座と綿密な交わりを保っています。ローマ教皇も、聖座の諸長官も日本の司教団を信頼しています。私も3月に日本の司教団の教皇庁訪問に参加させていただいて、この綿密な交わりを近くから見たので保証します。

でも「学生さん」は本当にカトリックですか。
最近カトリックの名前を名乗るカルト集団やカトリック教会との交わりから外れた右派はよく日本の司教団を攻撃しているようです。


私が知っている「若者たち」はみんな、わかりやすい、生き生きとした典礼を強く望んでいます

まず、学生さんは日本の教会がローマ聖座に忠実であって欲しいと思っていらっしゃいます。彼は、「日本人に合った日本人のメンタリティーに合った」とはいえ、「カトリックの基本理念を変えてまでも」の教会作りには反対なのです。「カトリックの基本理念」とは、「教皇様、ローマ聖座に忠実な教会」です。また、学生さんは教会に信仰を求めています。しかも深い信仰を。「世俗的な妥協を教会が繰り返している限り、もはや教会に魅力はありません。若者は無意識に深い信仰を求めているのです。不信仰のこの社会で寄りすがる所は教会だけです」だから、司教様たちを励まして、「もっと司教様方は自信を持って」下さい。「カトリックの正統的な教えを広めてください。よろしくお願いします」と願っています。非常に好感の持てる、率直な意見ではないでしょうか。このような願いにわたしであったらこうお返事したでしょう。


学生さん、

大変良いメッセージをありがとうございました。おっしゃるとおりです。「カトリックは外国の宗教だからといってカトリックの基本理念を変えてまでも日本人に合った、日本人のメンタリティーに合った教会作り」をしてはなりません。わたしたちは、常に永遠のローマの教えとその教導職に一致して、正に全世界に通用する本当の意味での「カトリック」教会の発展を日本において望み、そのために働き、力を尽くしたいと思っています。

わたしたちは、極東の日本という孤島にいようとも、歴代の教皇様の不可謬の教え、真理の教師にして母なる永遠のローマに忠実な教会を目指しています。わたしたちは、ますます御聖体に真にいらっしゃるわたしたちの主イエズス・キリストに対する信仰と、ミサの犠牲に対する揺るぎない信仰、無原罪の御宿りである聖母マリア様に対する信仰をますますあつくしたいと望んでいます。そして、唯一の真の神聖三位一体に対する信仰と愛とから、わたしたちのために尊き御血潮をすべて流されたわたしたちの主イエズス・キリストへの愛と感謝とから、わたしたちの御母聖母マリア様に対する崇敬と敬慕から、多くの若者が十字架と犠牲を学ぶことを信じています。

わたしたちは、十字架の犠牲によって得られた超自然の聖寵の文明を日本に築きたいのです。イエズス・キリストの聖心の王国を、日本に築きたいのです。日本の若者は、わたしたちの主イエズス・キリストを知らず、神がわたしたちのためにして下さった犠牲を知らず、神の十戒を学ばず、闇のうちにいます。彼らは、残念ながら、虚栄と快楽、利己主義と官能のままに、ポルノと暴力、不倫と不道徳の氾濫したマスコミに囲まれて生きています。わたしたちは、このように神を無視して生きる日本に対して「逆らいの印」になりましょう。

学生さん、どうぞがんばって下さい。日本におけるカトリック教会が、異教のまっただ中にあって、地の塩として正統信仰を堅持するのみならず、これを世の光として全日本に輝かせることができるように、お祈り下さい。神様の祝福が豊かにありますように!」

ところで、チェレ神父様の反応はそうではありませんでした。まず、「ヨーロッパ人が使っていたしるしが世界中で理解されると限りません。」とおっしゃり、「ヨーロッパ人が使っていたしるしが世界中で理解されない」と思っておられるようです。なにか、ヨーロッパ人のコンプレックスのような感じがします。

でも、2001年7月27日の現在の日本をよく見て下さい。鉄道、バス、自動車、地下鉄、飛行機、民主主義議会制度、主権在民、男女平等、憲法、太陽暦、夏休み、クリスマス・セール、バレンタイン・デー、義務教育、大学制度、株式市場、洋服、ネクタイ、革靴、ホテル、サッカー、野球、バスケットボール、オリンピック、エアコン、コンピューター、テレビ、コカコーラ、マクドナルド、ディズニーランド、新聞、ラジオ、電話、映画、ビデオ、ファックス、インターネット、eメール、携帯電話、国際化、云々。日本人の少年少女は、アメリカの映画の真似をして、べったりくっついていちゃいちゃしているのをいやでも目にしなければならないときがあります。

日本人がこんなにまでして政治、経済、社会制度、教育制度、医療制度、ヨーロッパ人やアメリカ人の真似をして、宗教だけは真似をしては駄目だというのでしょうか?チェレ神父様は、日本人が今でも筆に墨を付けて半紙に手紙を書いて、ちょんまげを結って、ちゃぶ台にあぐらをかいて梅干しとご飯だけを食べていると思っているのかしら?今でも日本人女性は、大和撫子で、着物を着て、男性とは恥ずかしくて話もできないとでも思っていらっしゃるのでしょうか?いいえ、チェレ神父様はそう思っていないようです。こうおっしゃいます。「若者向きのミサのギター演奏やバンドー演奏もよく批判されますが、カトリックの本場であるイタリア(ローマ市内も)これはよく行われています。」

そう、これが本音のようです。ヨーロッパに見習え、です。いま、ヨーロッパから、新しい流れが来たからそれに習え、です。それが新しい神学で、新しい典礼で、新しいキリスト教なのです。ヨーロッパ人がおまえたちアジア人のために「インカルチャレーション」ということを考えてやったから、これを実践せよ、おっしゃっているようです。

でも、わたしたちは、日本をキリスト教化し、福音化することを望みますが、キリスト教と福音を日本化することを望みません。わたしたちの主は、その御昇天の前に弟子たちにこう命じ給うたからです。「わたしには天と地の一切の権威が与えられている。行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊との聖名によって洗礼を授け、わたしが命じたことを全て守るように教えよ」(マテオ28: 18-20)と。

それだけではありません。チェレ神父様は、今度は、おまえに何が分かるのかと攻撃なさいます。ナイス1の時には、司教様方は兄弟として草の根の声を聞こうと会議を開き、「ともすると内向きに閉ざされがちであったわたしたちの姿勢を真剣に反省し、神であるにもかかわらず兄弟の一人となられたキリストにならい、すべての人に開かれ、すべての人の憩い、力、希望となる信仰共同体を育てるように務めたいと思います。」と宣言しました。カリタス・ジャパンは、同性愛の人々からさえも「叫び」を聞こうとしました。東京大司教の岡田大司教様は着座式の中で、「わたしたちの教会がすべての人に開かれた教会、特に弱い立場に置かれている人々、圧迫されている貧しい人々にとって、やすらぎ、なぐさめ、はげまし、力、希望、救いとなる共同体として成長するよう、力を尽くします。」と決意表明をなさいました。東京教区は大司教様のメッセージ「新しい一歩」で提案された課題に取り組むため、教会委員連合会を開き、教区集会を開き、小教区、地域共同体で意見を出して欲しい、と言っています。こうして、何か日本のカトリック教会が、「教える」という主の命令の代わりに、「教えてもらいたい」と言う姿勢をとっており、すべての人から意見を求め、開かれた教会になりたい、と表明しているのです。

そこで、学生さんが、これを単純に信じて率直な意見を提案すると、今度は「日本の教会の責任者を批判するのは失礼だと思いませんか。」とおっしゃるのです。何か、ダブル・スタンダードのようです。「司教様方は自信を持ってカトリックの正統的な教えを広めてください。よろしくお願いします。」と言うと、侮辱されたとお思いになるのです。そして、今度は「そんなことを言うおまえはだれだ?おまえに何が分かるのか?」とでもおっしゃりたいようです。「日本の司教団はローマ教皇と聖座と綿密な交わりを保っています。ローマ教皇も、聖座の諸長官も日本の司教団を信頼しています」その証拠は「わたしが言うから本当だ」です。「わたしも3月に日本の司教団の教皇庁訪問に参加させていただいて、この綿密な交わりを近くから見たので保証します」と、今度は、学生さんを疑ってかかります。

学生さんのメッセージをよく読むと、彼は、「教皇様、ローマ聖座に忠実な教会を目指して欲しい、世俗的な妥協を繰り返している限りもはや教会に対して魅力はない、若者は、教会に深い信仰を求めている、不信仰のこの社会で寄りすがる所は教会だけ、だから、もっと司教様方は自信を持ってください、教皇様、ローマ聖座に忠実なカトリックの正統的な教えを広めて下さい」と言っているのです。極めてカトリック的な主張ではないでしょうか? でも、チェレ神父様にはそうは映らなかったようです。「でも学生さんは本当にカトリックですか?」(!)チェレ神父様は、司教様の今のやり方に少しでも疑問を持つ人たちに対しては、「カルト」とか、「右翼」とか、「教会の交わりから離れた」とかレッテルを付けて、聞く耳は持たないようです。そして、そういう人々を教会の隅に追いやって、弱い立場に置き、受け入れようとなさいません。「最近カトリックの名前を名乗るカルト集団やカトリック教会との交わりから外れた右派はよく日本の司教団を攻撃しているようです」でも東京教区は「すべての人に開かれた教会、特に弱い立場に置かれている人々、圧迫されている貧しい人々にとって、やすらぎ、なぐさめ、はげまし、力、希望、救いとなる共同体として成長するよう、力を尽く」すのではないのでしょうか?

日本におけるカトリック教会がいつもローマと一致していて欲しい、そう言うことを望む本当の意味でのカトリック信者が、教会に安心していられる共同体としてあることが、まず大切なのではないでしょうか。チェレ神父様は、学生さんのようなことを望む人は、カトリックでも若者でもない、と切り捨てておられます。「わたしが知っている若者たちはみんな、わかりやすい、生き生きとした典礼を強く望んでいます」つまり「福音書が読まれる前に額・胸・口に十字のしるしをする」などというのは、わかりやすくなく、死んだ典礼であって、もっと、今、カトリックの本場であるイタリア、ヨーロッパでやっているような、若者向きのミサのギター演奏やバンドー演奏をどんどんやって、もっと変わらなければ駄目だ、とおっしゃりたいようです。何か、矛盾していると思いました。こう思ったのはわたしだけでしょうか?日本のカトリック教会のためにますますお祈りをしなければなりませんね。

この「さる方」は一体だれでしょう?

日本の司教様方が真にローマと一致しているのであれば、なぜ、「インエスティマビレ・ドーヌム」とか「メモリアーレ・ドミニ」のような文書が、信徒の目から隠されなければならないのでしょうか? それだけではありません。「インエスティマビレ・ドーヌム」を翻訳・出版したフランス人宣教師マリ・ジャック神父(パリ外国宣教会)は国外追放になりました。回勅『フマネ・ヴィテ』にしても、まるで秘密文書扱いです。祭壇上から大きな声でこの回勅のメッセージを説教する神父が日本に何人いますか? 四国から送られてくるプロ・ライフ・ニュースの受け取りを拒絶なさる神父様方も数多くいます。日本の司教様方はほぼ全員プロ・ライフ・ニュースに執筆して、中絶に反対なさいましたが、一人だけ執筆を拒否なさった方もいらっしゃいます。理由はおそらく「中絶経験者を傷つけることになるであろう」ということなのでしょうが…世界各国を訪問なさるたびに生命の尊重を訴えられる教皇様ですが、1982年、日本訪問の際、マニラまでお迎えに行った日本カトリック司教団の二人の代表は、教皇様に「日本では中絶問題に触れないように」と願い、教皇様は準備していた原稿を使用なさいませんでした。この問題に触れられなかったのは日本とイギリスでだけでした。日本で教皇様が話されたのは、ひたすら、戦争は人間の業…という戦争反対のお話しだけでした。戦争には元々反対の日本人ですから、教皇様は各地で歓迎されました。しかし、その後、教皇様はマザー・テレサが来日した際、結局、自分が言いたかったことをすべて言わせられました。見事な連係プレーでした。

まだあります。「カトリック教会のカテキズム」(日本語訳)はまだ出版されていません。翻訳はとっくにできあがっているというのに…シスター菊池が訳し、ネメシェギ神父様が監修したこの本は正確な日本語に訳されています。第一部はローマに送られ、承認を得ています。残り2〜4部はまだ日本の司教団が抑えています。用語の日本化を図って、元々完全にできていた原稿に手を加えているからです。余りにも手を加え過ぎて、現在、それをまたある程度元に戻す作業をしていると聞くと、もう、とてもじゃないが、日本の教会がローマと完全に一致しているとは思えません。内部の事情に詳しいある方から聞きましたが、6月の司教会議ではこの件に関してローマから厳しい叱責の言葉があった…ということです。

聖フランシスコ・ザビエル来日四百五十周年記念式典に、教皇様はショーカ枢機卿様を派遣してくださいました。日本の司教様方、特に、鹿児島の司教様はそのことについて非常に感謝していらっしゃいましたが、あの枢機卿様は外交官でありながら、まったく外交的ではなく、日本の教会を手厳しく批判・非難なさっています。カトリック新聞は肝心なところが分からないように枢機卿の説教を編集してありましたが、わたしが下線を引いておいたところをつないで読むと、何と、「日本の教会は聖でないから、キリシタン時代にあれほど増加した信徒が、現代、増加しない」と読むことができます。

『フマネ・ヴィテ』研究会 成相明人