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第一部

革 命

一章 現代人の危機

現代世界 — 国家、家庭、経済、文化、その他 — を揺るがせている数多くの危機は、人間自体を活動の舞台とするただ一つの基本的危機の多様な側面にしかすぎません。つまり、これらの危機は魂のもっとも深い諸問題に根があり、そこから現代人の全人格と彼のすべての活動に広がるのです。

二章 

現代西欧キリスト信者が直面する危機

特に、これは西欧キリスト信者、つまりヨーロッパ人とその子孫であるカナダ人、アメリカ人、ラテン・アメリカ人、オーストラリア人の危機であると言えましょう。ここでは危機を正にそのようなものとして捕らえましょう。それは西欧の影響が及び、かつ根を下ろしている程度に応じて、他民族にとっても危機であると言えます。その場合、危機はそれぞれの文化、文明、それら西欧の肯定的または否定的文化、文明との衝突に応じた諸問題と絡み合っています。

三章 

この危機の特徴

国によって、この危機を異なるものにする要素がどれほど深いものであったとしても、そこには常に五つの主な特徴が存在します。

1 その普遍性

この危機は普遍的です。その程度が多かれ少なかれ、この危機の影響を免れる民族はありません。

2 その一体性

この危機は一つです。それぞれの国で互いに関係なく肩を並べて発達し、それでもある種の相似があるために相互に関連しているようなものではありません。

山火事は周辺にある何千本もの木が自立的に、平行して燃えるのではありません。その燃焼現象の一体性は、森林という生命統一体に影響を与えます。それだけでなく、炎が広がる大きな力は、異なった木々の無数の炎が混じり合い、増大する熱に由来します。実に、そこで起こるすべてのことは、何千という部分的な火事を、その一つ一つの偶有性に違いがあったとしても、すべて包み込みつつ、その山火事を一つの出来事にするようにし向けるものです。

西欧キリスト教社会は複数のキリスト教国家を吸収してしまうことなく、それらを超越する一つの全体を構成していました。この生命ある統一体の中で一つの危機が生じ、最終的には、何世紀にもわたって常に互いに絡み合い、また刺激を与えてきた漸進的な地方的危機が組み合わされ、溶け合った熱を通じて全体に影響を及ぼしました。結果的に、公的にはカトリック国家群からなる家族であったキリスト教社会は、とっくの昔に消えてしまいました。西欧キリスト信者たちはその生き残りにしかすぎません。そして彼らは今この同じ悪の下に苦しんでいます。

3 その全体性

どの国をとっても、この危機は事態のあり方そのものによって、魂のすべての能力、文化のすべての分野、さらには人間行為のすべての分野で、それが拡散させ、展開する諸問題の深いレベルで起こります。

4 その支配主義

表面的に見れば、現代の出来事は混乱して説明がつかないように見えます。いろいろな点から見て、そのとおりではあります。

しかし、ここで分析しているこの大危機という観点からそれらを考察すると、これら多くの、一見無秩序な勢力の集合の徹底的に終始一貫した、強力な結果を見分けることができます。

実に、これら気違いじみた勢力の衝動のもとに、西欧諸国はどこでも同じ形態をとりながら、キリスト教文明とは正反対の方向に徐々に進んでいます。このようにして、この危機は混乱をもたらすすべての勢力を有能かつ従順な臣下として従えた女王のようであります。

5 その発展性

この危機は目を見張らせるような、孤立したエピソードではありません。その反対に、それはすでに五世紀もの間の危機的過程を経てきました。それは、西欧人の魂と文化の奥深くで発生して、十五世紀以来連続的痙攣を引き起こしてきた原因と結果の長い鎖です。この過程には、教会に忍び寄る神秘的な敵についてピオ十二世が言われた以下の言葉が当てはまります。

それはどこにでも潜んでいます。それは暴力的で、同時に抜け目がありません。過去何世紀かにわたってそれはキリストの神秘的な組織体の中にある知的、道徳的、社会的一致を崩壊させようとしています。それは恩寵抜きの自然、信仰抜きの理性、そして時としては権威抜きの自由を求めています。それは、キリストは良いが教会は要らない、後には神は良いがキリストはどうも苦手、ついには恐れることもなく神は死んだとか、神は初めから存在しなかったなどとためらいなく主張して、ますますはっきりと姿を現しつつある「敵」です。そして今や、世界の構造を、人類の上にのしかかる脅威の原因と著者が呼ぶ神抜きの経済、神抜きの法律、神抜きの政治等を基礎にして組み立てようとしています。

 

この過程を、思いがけなく起こった原因と結果の純然たる偶然の帰結と見なしてはなりません。すでにその初めから、この危機にはその可能性を現実化する十分な力を蓄えていました。それには今でも最終的蜂起によってその論理的帰結である究極破壊をもたらすだけの力があります。

(文化、社会、経済、民族、地理…的)な種々の外的要因によって影響されたり、条件づけられたりして、それは時として複雑な道をたどります。しかしそれはその悲劇的終末に向かってひたすら進むのみです。

A 中世期の崩壊

導入で著者はこの過程の主要な特徴を素描しました。ここではそれに少しく肉を付けてみましょう。

十四世紀、キリスト教的ヨーロッパでは考え方の変化が起きました。十五世紀になるとそれはますますはっきりしてきます。地上的快楽に対する渇望は燃える欲望になりました。娯楽はますます頻度を増し、大がかりになり、人々を夢中にさせるようになりました。衣服、作法、言語、文学、美術、気まぐれと感覚の満足に満たされた生活は、ますます欲望と軟弱をその特徴とするようになりました。徐々に、以前の真剣さとか質素は価値を失うことになります。全体的傾向は陽気、愛想の良さ、お祭り気分へと向かいました。人心は犠牲心、十字架への信心、聖性と永遠の生命へのあこがれから離れました。以前、キリスト教的禁欲主義の至高表現であった騎士道精神は、欲望によって感傷的なものに成り下がりました。恋愛に関する文学がすべての国々に流行し、過剰なぜいたくとその結果である物欲が全社会階級に蔓延しました。

知識層にあってこの道徳的雰囲気は、これ見よがしの空虚な論争、無定見な詭弁、学識の愚かしいひけらかしのような魂の傲慢を明らかに示すようになりました。それはスコラ哲学が克服したはずの昔の哲学の傾向を褒め称えるようになりました。以前にあった信仰の十全への熱意が冷めるにつれて、これらの傾向は新しい衣をまとって再登場しました。ローマ法の専門知識を売り物にするローマ法専門家が説く絶対論は、野心満々の君主たちから歓迎されました。この間、国の大小を問わず、フランスの聖ルイ王とかスペインの聖フェルディナンド王の頃のように、王権をしかるべき範囲に収めておこうとする昔の意志は衰えてしまいました。

B 偽改革とルネッサンス

魂のこの新しいあり方は十二,十三世紀にその高みに到達していた事態とは根本的に異なる事態への、認めることを多かれ少なかれ拒んだかもしれませんが、強力な願望を内包していました。

古代への誇張されたそしてしばしば手放しの賛嘆は、この願望を表現する手段となりました。それまでの中世期的伝統との直接的対決を避けるために、人間至上主義とルネッサンスはしばしば教会、超自然、宗教の精神的価値を二次的次元に追いやろうと試みました。同時に、ヨーロッパでは異教の道徳学者に霊感を受けた人間の原型が、これらの運動によって一つの理想と見なされ始めます。この人間の原型とそれに伴う文化文明は実に、現代の貪欲な、官能的、世俗的、実用主義的人間、そして私たちがその深みにますます引きずり込まれつつある物質文明文化の先駆けでした。キリスト教的ルネッサンスをもたらそうとする努力もありましたたが、それは新異教主義を漸進的勝利に導いた諸要因をその極初期の段階で粉砕できませんでした。

ヨーロッパのある地域で、この新異教主義は本物の異端になることなく発達しました。それはかなりの抵抗を受けました。それが魂の奥に確立されたときでさえも、少なくともその初期の段階で、人々に信仰を捨てるよう要求しませんでした。

しかし、その他の国では、それは公然と教会を攻撃しました。異教的生き方は傲慢と欲望を満足させますが、正にその傲慢と欲望がプロテスタントを生み出しました。

傲慢は聖書に対する疑いの精神、その勝手な検証と自然的解釈を生みました。それはどの派にあっても普遍教会の専制君主的特徴、つまり教皇制度を否定する教会権威に対する反乱を引き起こしました。また原理主義的派閥に属するあるものたちは教会の寡頭政治とでも呼ばれるべきもの、つまり教会の王子である司教たちをも否定し去りました。さらにあるものたちは、司祭職の位階制的特徴そのものさえも否定し去りました。そのかわりにそれを、司祭職の力の真の保持者であると主張する単なる人々の集団の権威に依拠するものにしてしまいました。

精神的次元で、プロテスタントにおける欲望の勝利は、聖職者の独身制度廃止と離婚導入によって確認されました。

C フランス革命

フランスでは、カトリック信者間にあった人間至上主義とルネッサンスの強い影響が、種々の因果関係も重なり合って止めどなく広がりました。

ヤンセニズムと、不幸なことに、もっともキリスト教的であったこの王国に十六世紀のプロテスタンティズムが残したその他のパン種によって、信徒の熱意が失せていたこともあって、この影響は、十八世紀にもなると昔からの習慣のほぼ普遍的崩壊、物事の軽く表面的な考え方、非宗教の漸進的勝利に道を開いた地上的生活の崇拝導入に成功します。

教会に対する猜疑心、キリストの神性の否定、理神論、初期の無神論がこの棄教の諸段階です。

フランス革命は、ルネッサンスの新異教主義とプロテスタンティズムの後継者であり、これら二者に酷似していました。その実りは偽改革とすべての点で対照的でした。それが理神論と無神論に陥る前に設立を試みた立憲教会は、フランス教会をプロテスタントの精神に適応させるということでした。フランス革命が目論んだ政治的事業は、極端な原理主義プロテスタント諸派が教会組織に関して採用した「改革」を、国家の域でも実施することでしかありませんでした。

— 王に対する反乱は教皇に対する反乱に通じます。

— 平民が貴族階級に反乱するのは、教会の「平民」である信徒が教会の「貴族」である聖職者に対する反乱に通じます。

— 主権在民の肯定は、程度の差はあるものの、ある宗派で見られる信徒による支配に通じます。

D 共産主義

プロテスタンティズムに由来するある派閥は、自分たちの宗教的傾向を直接、政治の分野に適用して、共和制の精神を培いました。十七世紀サレジオのフランシスコはサヴォイ公にこれらの共和制的傾向について警告しています。他の宗派はもっと急進的でした。彼らは今日使われる意味での共産主義者でなければ、少なくとも前共産主義者と呼ばれるべき人たちでした。

フランス革命からバベーフの共産主義運動が起こりました。その後、十九世紀のユートピア的共産主義諸派と、いわゆるマルクスの科学的共産主義が燃えさかる革命精神と共に登場してきます。

これは全く論理的な帰結ではありませんか? 普通、理神論の実は無神論です。離婚を禁止する壊れやすい障壁に反抗すれば、当然、次の段階は自由恋愛になります。自分より上のものはすべて敵視する傲慢は、ついに最後の不平等つまり富を攻撃しなければなりませんでした。世界共和国、教会または国家の権威の抑圧、すべての教会の廃止、労働者による中間的独裁制の後に来る国家自体の廃止の夢に酔った革命的過程は、今やそのもっとも新しく、極端な二十世紀の新野蛮主義をもたらしています。

E 君主政体、共和制、宗教

どのような誤解も避けるために強調しておきますが、此の論文は共和国が必然的に革命政権であると主張するものではありません。種々の政治形態について、レオ十三世ははっきりと「どのような政権であってもそれが誠実に、そのために社会的権威が設置された目的、つまり、共通善に進んでいる限り良いものである」ことを宣言なさっています。

著者がここで革命的とするのは、それが人間の尊厳と物事の秩序に本質的にそぐわないという原則に則って君主制、貴族政治に反する敵意です。この誤謬はピオ十世が一九一〇年八月二十五日、使徒的書簡 Notre charge apostoliqueで非難されています。この書簡であの偉大にして聖なる教皇は「民主主義だけが完全な正義の支配の始まりとなる」とするルシヨンの主張を断罪なさっています。そして続けられます。「これは他により良いものがないので我慢しなければならない無能な政府の範疇に入れられてしまう他の形態の政府にとって侮辱ではなかろうか?」。

私たちが研究中の過程に深く根ざしているこの間違いを考慮しなければ、理論上では教皇ピオ六世が最良の形態とされた君主制(" praestantioris monarchici regiminis forma" )が、由緒ある王家や王朝を転覆さた十九〜二十世紀の敵意に満ちた世界的運動の対象となったことの説明がつきません。著者に言わせれば、世界に見られる共和国の大量生産は革命の典型的な実り、その主な側面です。

具体的なそしてその地方独自の諸理由のために、ある人が自分の国のために貴族政治とか君主制でなく民主主義を選択しても、彼が合法的権威の諸権利を尊重する限り、彼を革命運動家であるとすることはできません。しかし、もし彼が革命の万人人類平等主義に動かされて原則的に君主制とか貴族政治を憎悪し、これらの制度を本質的に不正であり、非人間的であると考えるのであれば、彼は革命運動家と呼ばれることになります。

この反君主制、反貴族政的憎悪から伝統を敵とし、エリートを迫害し、生活全般のトーンを低下させ、そんなものが文化とか文明であり得るという条件の下にですが、文化、文明の基調をなす下品な雰囲気を生み出す民衆扇動的民主主義が生まれます。

ピオ十世が描写なさった民主主義とこの革命的民主主義の間には、どれほどの距離があることでしょう!

歴史は、本物の民主主義が栄えるところで、人々の生活にだれも破壊することのできない健全な伝統がしみ通っています。これら諸伝統の代表的旗手はまず、指導層に属する人々、つまり村落とか町、特定の地域とか国全体の雰囲気を決定する男女、もしくは団体です。ここから、どの文明国でも、例えば広く認められた評判のある学士院のように、その言葉におけるもっとも徹底した意味での貴族的制度の存在と影響が説明できます。貴族と言われる人たちもその内に含まれます。

お分かりのように、革命的民主主義の精神は、教会の教えを大事にする民主主義に生命を与える精神と全く異なります。

F 革命、反革命、独裁制

以上が、革命と政府の形態に関するカトリックの考え方の位置づけに関する考察でした。これを読んだ読者は、独裁制が革命的であるのか反革命的であるのか知りたくなるのではないでしょうか?

この質問に明確に答えるために — 多くの混乱し、かつ偏向した答えがありますが — 一般的意見によれば独裁制に関して無差別に結びつけられているある種の要素を一つ一つ区別する必要があります。理論上の独裁制を今世紀実際に経験した独裁制と混同して、一般人は独裁制を独裁者が無制限の権力を握って国を治めることであると考えています。ある人たちはそれが国にとって有益であると言い、またある人たちはそれが有害であると言います。どちらにしても、このような状態が独裁制であることに変わりはありません。

さて、この概念には二つの異なる要素があります。

— 無制限な国家権力

— 一人の人物への国家権力の集中

一般の考えは二番目の要素に集中しますが、少なくとも、もし独裁制を公権が司法秩序を停止して、気の向くままにすべての権利を処置する状態であると認識するのであれば、最初の方こそが基本的要素です。独裁制が王によってしかれ得ることは明らかです。(王による独裁、つまり司法権の停止と王による公権の無制限な行使は、ある程度まで公権の行使に制限があったフランス革命以前の旧制度とか、ましてや組織的な中世時代の君主制とは区別されなければなりません。)明らかに独裁制は選挙で国民に選ばれた指導者、世襲による貴族、銀行家集団、もしくは大衆によってさえ行使され得ます。

それ自体として、指導者とか集団による独裁制は革命的でも反革命的でもありません。それはその成り立ちの事情とか、行為によって革命的であったり反革命的であったりします。政権が一人の指導者の手中にあったとしても、集団の手中にあったとしてもそれは同じです。

人民の福祉のために個人の権利の停止とより大きな公権の行使が必要になる状況もあります。故に、独裁制も時としては合法であり得ます。

反革命的独裁制 — ひたすら秩序を目指す独裁制 — には以下三つの本質的要件がなければなりません。                  

●それは、もし諸権利を停止するのであれば、秩序を乱すためでなく、それを維持するためでなければなりません。秩序が意味するのは単に物質的静穏でなく、物事のそれぞれの目的と価値の大きさに応じたあり方を意味します。ですから、これは、実際上より見かけ上で諸権利を停止することであり、秩序自体と共通善を無視して、悪の勢力がそれまで乱用していた司法上の保証を一時我慢することであると言えます。このような犠牲はひたすら善人たちの本当の諸権利を保護するものです。

●その定義からして、この停止は一時的なものです。それは一刻も早い秩序と静穏の回復を可能にする状況を生み出さなければなりません。独裁制は、それがよいものである限りその存在理由そのものを終結させます。国家生活の種々の部門において、公権の介入はそれぞれの部門が当然の自律のもとに生きることができるような方法で、実施されなければなりません。このようにして、各家庭は、その活動の範囲を越えることに限って補助的にのみより上の社会的グループの助力を受けながら、その性質上可能であることはすべて自分ですることが許されねばなりません。これらのグループもまた、自分たちが普通備える能力を越えることに限ってそれらの属する自治体からの補助を受けるべきです。同じことが自治体とそれが属するより広い区域、そしてそれらの区域と国の間にも言えます。

●現今、合法的独裁制の本質的目的は反革命でなければなりません。しかしこれは革命を打破するために普通独裁制が必要であるこを意味するのではありません。しかし、ある場合には、それが必要かもしれません。

それに反して、革命的独裁制は永続することを目的とします。それは本物の諸権利を侵害し、それらを破壊することを目的として社会のすべての分野に浸透します。それがこの破壊を実行するときは、まず家庭生活を分裂させ、真のエリートを迫害します。社会の位階制を転覆させ、大衆の間には理想郷的な夢を育て無秩序な野望を奨励します。このようにして、社会にある諸グループの真の生活が消滅し、すべては政府に従属するものになります。つまり、それは革命の業にとって好都合です。このような独裁制の典型的な例がヒットラー主義です。

この理由で、革命的独裁制は基本的には反・カトリックです。実に真にカトリック的状況の下ではこのような状態が生まれる素地はありません。

これは、ある特定の国における革命的独裁制が、教会の好意を求めたことがなかったことを意味するものではありません。しかし、これは教会当局が革命のペースにとって邪魔になり始めると、すぐに公然または隠然の迫害に変容する政治的態度の問題に過ぎません。

1 一九五二年十月十二日、ピオ十二世がイタリアのカトリックアクション同盟の男性たちに話した教話、Discorsi e radiomessagi di Sua Santità Pio XII。(Vatican: Tipografia Poliglotta Vaticana 、一九五三年) 十四巻三百五十九ページ。

2 Sainte-Beuve著 É tudes des lundis — XVIIè me siè cle — Saint Franç ois de Sales (Paris: Librarie Garnier、一九二八年) 三百六十四ページ。

3 レオ十三世、回勅 " Au milieu des sollicitudes" 、一八九二年二月十六日、Bonnes Presse、パリ、第三巻百十六ページ。

4 聖ピオ五世、Notre charge apostolique, Acta Apostolicae Sedis、第二巻六百十八ページ。

5 ピオ六世、一七九三年六月十七日、枢機卿団への教話、Les Enseignements Pontificaux  — La Paix Inté rieure des Nations、ソレム修道院(パリ、デクレ& シ)八ページ。

6 ピオ十二世、ローマ貴族への教話、一九四六年一月十六日、Discorsi e radiomessagi、七巻、三百四十ページ。

四章

革命過程の変化

前章での分析から分かるように、革命過程は西欧キリスト信者の無秩序な諸傾向と彼らが許した誤謬が徐々に発達したものです。

各段階において、これらの傾向と誤謬には特有の性格があります。そのため革命は歴史の進行と共に変身します。

革命の全般的輪郭の中に見られる変身は、より小さなスケールで、その全体的エピソードの中にある各段階に見られます。

そこからして、フランス革命の精神はまず貴族的、教会的仮面と言語を用いたものです。それは宮廷に出没し、王の評議会のメンバーでもありました。後にそれは市民階級化し、君主制と貴族制度の無血廃止、明言こそ避けたものの平和理にカトリック教会抑圧をねらいます。それは可能になり次第、ジャコバン党になり、血塗れの恐怖政治に変身しました。

しかし、ジャコバン派によって冒された行き過ぎは反動の原因となりました。革命はその方向を変え、同じ段階を逆行しました。ジャコバン党からそれは総裁政府(Directoire)になりました。ナポレオンの登場と共に、それは教会にも和解を持ちかけ、亡命貴族たちに帰国の門戸を開きました。ついにはブルボン王朝の帰国さえ歓迎するのです。フランス革命は終わったのですが、その革命過程が終わったのではありませんでした。シャルル十世の失墜とルイ・フィリップの登場に伴い、それは再び暴発します。このように、それは順を追う変身を通じて、そしてその成功と失敗さえも利用して、現在の激動状態に移行しました。

ですから革命は、前進するためにも、またしばしば必要な戦術的撤退のためにも、変身を利用するのです。

いつも生きているこの運動は、時として死んだ振りをしてきました。これがそのもっとも興味深い変身の一つです。表面的に、ある国の状態は全く静穏に見えます。反革命の反動は緩やかになり、眠ってしまいます。しかし、宗教、文化、社会、または経済生活の深みで、革命の発酵は絶えず広がっています。そして、この見せかけ上の期間が終わると、しばしば以前より激しい思いもかけない蜂起が起こります。

五章

傾向、思想、事実に見られる革命の三層

1 傾向に見られる革命

前述のように、この革命は種々の段階から成り立つ一つの過程です。その究極的起源は、その魂かつ奥深く秘められた推進力となる、ある種の無秩序な傾向の集合です。

ですから革命の中には、時間的にある程度重なり合う三つの層を区別することもできます。

第一のそしてもっとも深いレベルは、いろいろな傾向の中に見られる危機です。これらの無秩序な傾向はその性質からして実現に向けて闘争します。それらは自分たちに反する物事の全秩序に適応しようとせずに、考え方、あり方、芸術的表現、習慣を直接的に直ちに — 少なくとも習慣的には — 思想自体に触れることなく、少しずつ変更しようとします。

2 思想に見られる革命

その危機はこれらの深い層からイデオロギー的な領域に移行します。これはポール・ブルジェがその名著Le Dé mon du Midi(真昼の悪魔)の中で「人は考えているようにしか生きられない。そうでなければ人は遅かれ早かれ生きてきたようにしか考えないようになるからだ」と断言していることとも一致しています。これらの深い傾向の無秩序さに動かされて、新しい教義が爆発的に発生してきます。初期にあってこれらの教義は、従来の教義と調和を保てるように見せかけてそれらとの共存を求めます。しかし一般的に言って、これはすぐに戦争状態になってしまいます。

3 出来事に見られる革命

次の段階として、この思想の変容は出来事の分野に見られるようになります。ここでは有血無血の手段を問わず、制度、法律、習慣は宗教的、現世的両社会において変貌を遂げます。これが第三の危機であり、出来事の分野の中で起きるものです。

 観察

A 革命の深さは年代的段階とは一致しない

これらの深さは、ある意味では、段階的です。しかし精密に分析してみると、それらの中に見られる種々の革命活動はそのうちに互いに混じり合ってしまい、これらの異なる深さが区別されうる時間的単位の一つであることが分かります。

B 革命の三段階に見られる区別

これら三つの深さは常に明瞭に区別されているわけではありません。その区別がどの程度できるかはケースによって異なります。

C 革命過程は防止不可能ではない

これら異なる深さを通じての民衆の運動はコントロールできます。第一段階に踏み入ったとしても必ずしも最後まで突き進むこと、また次の深さに陥っていくことを意味しません。その反対に、恩寵の助力を受けた人間の自由意志はどのような危機も乗り越えることができます。革命自体を押しとどめ、征服することさえできます。

革命の以上の側面を描写するのは、医師がある病気の死の瞬間に至るまでの完全な経過を描写したとしても、その病気が不治の病ではないようなものです。

1 第一部三、五章参照。七章の三も参照。

2 ポール・ブルジェ、Le Dé mon du Midi(真昼の悪魔)(パリ、Librairie Plon、一九一四年)、第二巻三百七十五ページ。

六章  革命の進行

以上で革命の進行、つまりその発展的特徴、その変身、人の魂最奥での勃発、その行動による外面化についてある程度の理解が得られたことでしょう。お分かりのように、革命にはそれ自身有り余るほどのダイナミズムがあります。革命の進行についてさらに研究すると、それはさらに深く理解できます。

1 革命の推進力

A 革命と無秩序な傾向

革命が持つ最強の推進力はその乱れた秩序にあります。

そのために革命は、荒れ狂う自然の力が人間の抑制に欠ける欲望の具体的イメージであるところから、台風、地震、竜巻などに比較されてきました。

B 革命の発作はすでにその種の中に潜む

大地震に似て、邪悪な欲望には巨大な力があります — ひたすら破壊する力が。

その大爆発の最初の瞬間に、この力にはすでにそれが最悪の極端に走った場合に示すであろう有毒性の胚芽があります。例えば、プロテスタントの最初の不服従の中に共産主義の無政府主義的渇望をすでに含蓄的に見ることができます。彼の明白な宣言の観点からすると、ルーテルはルーテル以上ではないわけですけれど、すべての傾向、魂のあり方、ルーテル派の測りがたい大爆発は、含蓄的にであってもすでにその中に、間違いなくかつ完全にヴォルテール、ロベスピエール、マルクス、レーニンの精神を内包していました。

C 革命は自分自身の主張を駄目にする

これらの無秩序な諸傾向は、むずがゆさとか悪徳のように広がります。満足すればするほどひどくなるというものです。これらの傾向に必ず伴うのが道徳の危機、異端、革命です。その一つ一つはさらにそのような傾向を助長します。そして後者は類比的運動によって新しい危機、新しい誤謬、新しい革命を生み出します。ですから、今、読者もなぜ今日の世界がこれほど極端に神を恐れず、不道徳であるか、どうしようもなく無秩序で不和であるかお分かりでしょう。

2 革命に見られる見かけ上の間隔

ことさらに静かな時期の存在があると、つい革命は終わったかと思いがちです。そこからして、革命の過程は連続的でなく、従って一つではないように見えます。

しかし、これらの静かな時期は革命の一つの変容でしかありません。合間と思い込まれている — 見かけ上静かな時期は通常、革命が静かに深く発酵していた時期でした。例えば、フランスの王政復古(一八一四〜一八三〇年)の時期がそれにあたります。

3 洗練から洗練への進化

以上見てきたところから、革命の一つ一つの段階は、それぞれの前の段階がより洗練されたものにほかなりません。自然主義的ヒューマニズムとプロテスタンティズムはフランス革命によって洗練されました。そしてフランス革命は現代のボルシェヴィズムの大きな革命的過程によってさらに洗練されました。

事実、重力による加速度に似たクレッシェンドに動かされ、自分自身が達成した実績に興奮する無秩序な欲望はますます加速を早めます。そのような進化の下に誤謬は誤謬を産み、革命はさらなる革命へと道を開きます。

4 革命の調和ある速度

この革命の過程は二つの異なる速度で実現します。一つは急速ですが、一般的に短期的には失敗することになります。もう一つは速度こそそれほどないものの、通常成功しています。

A 急進的進化

例えば、共産主義以前にあった再洗礼派の運動はいろいろな面で、偽革命のすべてもしくはほぼすべての精神と傾向を直接採用しましたが、結果は失敗でした。

B 緩慢な進化

プロテスタントのもっと節度ある動きは四世紀もかけて、緩慢に、ダイナミズムと不活発の段階を経る洗練に洗練を重ねて、上記の極点に向かって西側世界の進化を何らかの形で漸次的に助けてきました。

C これら二つの速度間の調和

革命の進行におけるこれら二つの速度の役割は研究する価値があります。急進的運動は革命の役に立っていないと思われるかもしれませんが、実際、そうではありません。これら極端主義の爆発は水準を高め、ついには少しずつそれに近づいてしまう中間層を引きつけ、極端な過激派が唱道する固定目標を生み出します。このようにして、社会主義は共産主義を毛嫌いするように見えても、人々は心の底でそれを賞賛し、それに引き寄せられるのです。

それ以前に、同じことがフランス革命の最後の炎が燃え上がった際の共産主義者バベフと彼の取り巻き連中について言えるでしょう。彼らは鎮圧されてしまいましたが、社会は少しずつではあっても彼らが望んだ方向に動き始めるのです。ですから、極端主義者たちの失敗は単に見かけ上のものに過ぎません。彼らは、間接的にではあっても強力に革命の進歩に役立ちます。なぜかと言えば、それはふらちで、腹立たしい怪物である自分たちの革命を実現するために、「用心深いものたち」とか「中庸派」とか平均層に属する多数の人間を少しずつ取り込んでしまうからです。

5 反対への反論

以上の概念を考慮した今、ここまで適切に分析することができなかったいくつかの反対に反論することができます。

A 緩慢な革命運動家と「準反革命運動家」

急速な進行のリズムに従ってきた人と、緩慢な進行のリズムに従ってゆっくりと革命運動家になりつつある人の違いは何でしょうか? 革命過程が前者の中で始まったのであれば、それほどの抵抗は受けなかったでしょう。徳と真理は彼の魂の極表面にしかありませんでしたから、彼の場合、革命過程は火花がありさえすれば燃え出す枯れ木のようでした。その反対に、この過程が緩慢に起こるとき、それは少なくとも革命が部分的には緑が残った薪に出合ったようなものでした。つまり、それは革命的精神から来る行動に敵対する強力な真理や徳に遭遇しているのです。このような状況にある魂は革命と秩序という二つの相反する原則によって引き裂かれることになります。

これら二原則の共存は、非常に幅のある状況を生み出すかもしれません。

a 緩慢な革命運動家は革命に身を任せてしまいます。抵抗するとしてもそれは行動を伴わない抵抗でしかありません。

b どこかに反革命的「固まり」のある、緩慢な革命運動家も同じく革命に身を任せますが、ある特定の点で抵抗を示します。ですから、例えば、彼は貴族趣味を捨てきれないという点以外のあらゆる点で、社会主義者であるかもしれません。場合にもよりますが、こういう人は社会主義の下品さを攻撃することさえありかねません。これは明らかに一つの抵抗運動ですが、それは習慣とか印象などから成り立つ細かい問題における抵抗にしか過ぎません。それは原則に立ち返りません。正にそのために、これは余り問題にならない抵抗にしか過ぎませんし、その個人の死と共に消えてしまいます。もしそれが社会的集団の中で起きるとすると、革命は遅かれ早かれ容赦なく暴力もしくは説得によって一世代または数世代の中にそのような抵抗を解体してしまいます。

c 「準反革命運動家」は以上と異なりますが、その差異は彼の中では「凝固」過程がもっと強く基本的原則、と言ってももちろんすべてではなく、いくつかの原則に振り向けられています。彼の中にあって革命に対する反動はもっと根強く、活発です。それは惰性以上の抵抗です。少なくとも理論上で、彼が根っからの反革命運動家になるのは容易です。革命に行き過ぎがあろうものなら、彼は完全な変身を遂げます。彼の中にある良い諸傾向の具体化は揺るぎない確信に変容します。しかし、幸運に恵まれてその変容を達成できるまで「準革命運動家」は反革命の兵士とは見なされません。

緩慢な速度の革命運動家と「準反革命運動家」が、革命による征服をいとも簡単に受け入れるのは、彼らの典型的日和見主義のせいです。例えば、政教一致のテーゼを肯定していても実際には一致していない国で、こういう人たちは適切な条件の下に二者の一致を最終的に復旧する努力を何らすることなく毎日を生きています。

B プロテスタント君主制とカトリック共和国

この論文への反論として以下が言えるでしょう。もし、世界的共和制運動がプロテスタント精神の実りであるのなら、今日の世界にあって多くのプロテスタント諸国が君主制を保っているのに、カトリックの王はなぜたった一人だけなのでしょう?

答は簡単です。イギリス、オランダ、北欧諸国では一連の歴史的、心理的、その他の理由で君主制には親近感があります。革命がそれらの国に導入されたとき、それは君主制に対する感情が「凝固」してしまうのを阻止できませんでした。そのようなわけで、革命が他の分野で浸透しても、これらの国で君主制は頑固に生存し続けます。「生存」…正にそのとおり。緩慢な死は生存と呼ばれ得ます。単なる見せ物に成り下がっている英国王室とか、首長が終身かつ世襲の地位を占める共和国に変容したその他プロテスタントの王国は静かに苦しんでいます。このまま事態が進行すれば、これらの君主制は沈黙の中に最後を迎えることになるのでしょう。

この生存には他の理由もあることを否定しませんが、本論の目的に含まれるとても大事なこの要素を強調したいと思います。

その反面、ラテン系諸国では外的かつ可視的な規律と、強力で権威ある公権への執着は多くの理由のためにそれほどありません。

従って、革命はそれら諸国の中に深く根ざした君主制への執着に遭遇しませんでした。ですから彼らの君主制を廃止するのはいとも簡単でした。しかし、今に至るまでそれには宗教を放棄させるほどの力があったためしがありません。

C プロテスタントの禁欲主義

本論には、あるプロテスタント教派が行き過ぎと思えるほど禁欲的であるという事実から反論が可能かもしれません。しかし、それではなぜプロテスタンティズムのすべてを生活享楽の希求心が爆発したものとして説明できるのでしょうか?

ここでさえも、反論に答えるのは困難ではありません。革命がある種の環境に浸透したとき、そこで見いだしたのは禁欲主義への強い愛着でした。「凝固」が形成されました。革命は傲慢に関しては全く成功だったにもかかわらず、欲望の面ではそれほどの成功を収めませんでした。そのような環境で、生活の喜びは肉の粗野な快楽からより傲慢の密やかな快楽からきます。非常なる傲慢によって強められた禁欲主義が、欲望には行き過ぎるぐらいに反動したのかもしれません。しかしどのように頑固であったとしても、この反動は実を結びません。遅かれ早かれ、支持が無かったり、暴力に訴えたりで、それは革命によって滅ぼされてしまいます。地球の再生につながる生命の息吹は堅く、冷たく、ミーラのようなピューリタニズムからは生まれません。

D 革命の統一戦線

このような「凝固」と結晶化は、普通、革命諸勢力間に衝突をもたらします。このように考えるとき、悪の力は互いに分断していて、革命過程が統一されているという著者の思い込みは間違っている、と読者は考えたくなるかもしれません。

しかし、そのような考えは幻想にしか過ぎません。偶発的になら少々不一致があっても、本質的な点で彼らに調和があることを示す根深い本能に従って、これらの勢力にはカトリック教会に反対する機会があり次第一致する、という驚くべき能力があります。

自分たちの中に善の要素が何もないので、革命勢力は悪に関してのみ驚くほど有能です。それで、彼らはそれぞれ自分たちの立場から教会を攻撃します。教会はまるで大勢の敵軍に包囲された町のようになります。

革命勢力の中には教会の教えを信じる振りをしながら、革命精神に魂を売り渡したカトリック信者の存在に言及することは大事です。公然の敵より千倍も危険なこれらの人物は教会を内側から攻撃します。彼らについて、ピオ十世が次のようなことを書いておられます。

この世の子らは光の子らより賢いにもかかわらず、彼らの脅しと暴力は、もしカトリック信者と自称する多くの人々が彼らと協力しなければ、疑いなくそれほどの成功を収めなかったでしょう。そうです。不幸なことに、敵と手に手を取って歩いているように見え、光と闇の間に同盟関係を、正義と不正の間に調和を確立しようと試みる人たちがいます。彼らは霊的なことがらに介入し、市民にもっとも不正な法律を少なくとも我慢するように要求する公権に対して、最悪の諸原則に基づくいわゆる進歩的なカトリックの教えに従ってこびを示します。人は二人の主人に仕えることができない、という聖書のみ言葉が存在していないかのようではありませんか? 彼らは、おそらく知らない中に敵に味方するだけでなく、断罪された考えを支持しながら誠実さと非難されようもない教えを装い、不用心な友人をだまして懐柔し、本来なら教会が宣言する誤謬に反発するはずの単純な人たちを誤りに導くので、公然の敵よりもはるかに危険で、有害です。このようにして彼らは人々を分裂させ、一致を失わせ、敵に対して力を合わせるはずの軍隊を弱めてしまいます。

6 革命エージェント — フリーメーソンとその他の秘密結社

ここで革命諸勢力の推進力を研究しているので、いまそのエージェントについて触れなければなりません。

人々の単なる情熱とか誤謬が、一つの目的つまり革命の勝利達成のためこれほど多様な手段を統合することができるとは信じられません。

予期せぬ出来事に満ちた何世紀もの期間にわたる変転の中で、革命のように終始一貫しかつ連続した過程を生み出すことは、幾世代にもわたる非常に優れた知性と強力な力の持ち主である共謀者群の介入なしには不可能であるように思えます。このような共謀者なしに革命が現今の状態に達成されたと考えるのは、まるで窓から投げ捨てられた何百という文字が地面に、例えばカルドッチの " Ode to Satan" (悪魔に捧げる叙情詩)のような文芸作品のとおりに並ぶようなものです。

これまでのところ、革命諸推進力は比類ない悪知恵の持ち主によって革命過程の実行手段として操作されてきました。

一般的に言って、革命運動としては — その性質がどんなものであろうとも — その主張を普及し、その悪巧みを連携させるために初期から現代に至るまでそれに起因するすべてのセクトを挙げることができます。しかし他のセクトが補助機関として組織づけられるマスター・セクトはフリーメーソンにほかなりません。これは教皇文書、特に、一八八四年四月二十日に出されたレオ十三世の回勅 " Humanum genus" を読めば明らかです。

これらの陰謀家、特にフリーメーソンの成功は、彼らの驚くべき組織力と陰謀の能力だけでなく、彼らが自分たちの目的を達成するために、革命の深い本質と — 政治、社会学、心理学、美術、経済、その他の法則である — 自然の学問を実に明瞭に理解していることにもよります。

このようにして、混乱と破壊のエージェントは自分が持つ能力に頼るだけでなく、自分自身より千倍も強い自然の力を研究して動かす科学者のようです。

以上は革命の成功を大まかに説明するだけでなく、反革命の兵士のためには重要な道標になります。

1 ジョセフ・フスライン神父S・J・、Social Wellsprings: Fourteen Epochal Documents by Pope  Leo XIIIのレオ十三世の回勅 " Quod Apostolici muneris" 、一八七八年十二月二十八日(ミルウォーキー、Bruce Publishing Co.、一九四〇年)、十五ページ参照。

2 第一部四章を見よ。

3 本章1のCを見よ。

4 第二部八章2を見よ。

5 第一部九章を見よ。

6 著者が指しているのはベルギー王。後に、ホアン・カルロス皇太子がスペイン王位に就いた。 — 編集者

7 I Papi e la Gioventú (ローマ、Editrice A.V.E.、一九四四年)三十六ページ、ピオ九世、ミラノの聖アンブローズ・サークル総裁と会員への手紙、一八七三年三月六日。

七章

革命の本質

手短にキリスト教西欧世界の危機を描写し終えたので、次はその分析に入りましょう。

1 もっとも徹底した革命

前述のように、ここで考察してきたこの危機的過程が革命なのです。

A 革命という言葉の意味

革命とは合法的政権もしくは秩序を破壊し、その代わりに非合法的政権とか非合法的状況の導入を目指すことです。

B 流血革命と無血革命

厳密に言えば、このような意味で革命は無血革命であるかもしれません。現在考察中の革命はあらゆる手段を使って過去に発生してきましたし、これからも発生し続けるでしょう。ある革命は流血の、またあるものは無血の革命です。例えば、今世紀にあった二つの世界大戦は、そのもっとも深い結果という観点から見ると最大の流血を伴う革命挿話であったと言えましょう。他方、すべてのもしくはほとんどすべての国におけるますます社会主義的立法措置は、もっとも顕著な無血革命の発展であると言えます。

C 革命の大きさ

革命はしばしば転覆した合法的権威を、何ら合法的に主張する資格のない統治者で置き換えてきました。しかし、革命がそれだけであると思うと大間違いです。その主な目標は個人または家系のある権利を侵すことではなく、その欲するのものははるかに大きいのです。それは物事のすべての合法的秩序を破壊し、非合法的状況とすり替えることです。「物事の秩序」では言い尽くせません。革命が根本的に反対の考え方で置き換えることによって廃止しようとしているのは、宇宙観と人間のあり方なのです。

D もっとも徹底した革命

この意味で、それは単に一つの革命と言うより革命そのものなのです。

E もっとも徹底した秩序破壊

実に、破壊の対象になっている秩序は中世期キリスト教世界です。さて、中世期キリスト教世界は、単に多くあるものの中の一つの秩序、また可能であった多くの秩序の中の一つではありませんでした。それは時間空間に固有な状況の中にあって、人々の中に確立されるべきであった唯一の合法的秩序、つまりキリスト教文明の実現でした。

回勅 " Immortale Dei" の中で、レオ十三世は中世期キリスト教世界を以下のように描写しています。

福音の哲学が諸国家を律していた時代がありました。その時期、キリスト教的知恵と神的な徳の影響は諸国の法律、制度、習慣、文明社会のすべての範疇と利害関係に浸透していました。当時、イエス・キリストの制定による宗教はそれにふさわしい尊敬を受けつつ確固として社会に根を下ろし、諸君主の好意と統治者たちの合法的保護の下に各地で隆盛を極めていました。その当時司祭職と国家は相互に好意を持ち、調和のうちに結ばれていました。このように組織された市民社会は長く記憶されるに値する期待以上の実りを結びました。どのような敵の策略も数多くの文書に記録されたその実りを滅ぼしたり、おとしめたりすることはできません。

十五世紀に始まった、啓示と自然法の教師である教会の教えにのっとる人と物事のあり方は現代ほぼ破壊され尽くされたと言えましょう。しかし、人間と物事のこのようなあり方こそ最高の秩序でした。現代社会には正に正反対の混乱が浸透しています。ですから、これはもっとも徹底した革命であると言えましょう。

疑いなく、現在の革命には先駆者と前印がありました。例えば、アリウスとモハメッドはルーテルの前印でした。また、時代は異なりますが、空想的社会改良家たちは革命のそれと酷似した日々を夢見ていました。最後に、何度かにわたって、人々またはいくつかのグループは、革命の怪物にも類似した事態を確立しようとしました。

しかし、これらすべての夢とか前印は、今私たちがその過程を生きている革命と比較すると全く比べものになりません。その急進性、普遍性、能力によって革命はかつて見られないほど深く、広く浸透しています。物事を考える多くの人たちは現代が反キリストの時代ではなかろうかと考えます。実に、ヨハネ二十三世の言葉から判断すると、そういう時代はあまり遠くないように見えます。

さらに、悪の霊が神の国を滅ぼすためにあらゆる手段を探し求めているこの恐ろしい時代にあって、もしあなたたちの町が五十年前の地震による破壊よりも、はるかに大きい損害を被ることを望まないのであれば、それを守るために最大限の努力を惜しんではなりません。ひとたび教会から離れたり、現代の誤ったイデオロギーの奴隷になったりする魂を生き返らせるのが、そんな努力よりどれほど困難であるか考えてご覧なさい。

2 革命とその合法性

A 最高の合法性

一般的に言って、合法性の概念は王朝とか政府の文脈の中で考えられます。レオ十三世の回勅 " Au milieu des sollicitudes" の教えを心に留めたとしても、王朝と政府の合法性の問題を無視することはできません。なぜなら、それは正しい良心を持つ人ならだれでも最大限の注意を払わなければならない、非常に重要な道徳上の問題だからです。

しかし、合法性の概念はそれ以外の問題にも当てはまります。

すべての王室と地上の権力の模範と根元である、主イエス・キリストの王権が実現される、特徴ある、より高い合法性も存在します。合法的統治者のために戦うことは重大な義務でさえあります。しかし、権威者たちの合法性をそれ自身において善であり、優れていると見るだけでなく、さらには教会の教えに基づくすべての物事のあり方を通して実現されるさらにより高い善、つまり全社会の秩序、すべての人間的制度と環境の合法性を実現するための手段として見る必要があります。

B カトリック文化、文明

故に、反革命の理想はカトリック文化、文明を復興、推進することにあります。このテーマは、カトリック文化、文明を定義しなければ、十分に系統立てて説明したことになりません。文化、文明はいろいろな意味で使われることは承知しています。明らかに、ここで用語法論に深入りするつもりはありません。ここでは単に特定の現実を示すための比較的正確な符丁としてこれらの言葉を用いることにしましょう。著者はここで用語法論について詳述するより、これらの現実について正しい見方を提供したいのです。

聖寵の状態にある魂は、多かれ少なかれすべての徳を備えています。信仰に照らされて、そういう魂は宇宙に関する唯一の真の展望を形成する要素を備えています。

カトリック文化の基本的要素は、教会の教えに基づく宇宙観です。この文化は学識の所有、つまりこのような完成に必要な情報の所有だけでなく、この情報をカトリックの教えに基づいて分析し、調和させることです。この文化は神学、哲学、科学の分野だけに制限されるのでなく、人間的知識のすべてに及びます。それは芸術にも反映され、生活のすべての側面に浸透する諸価値の肯定を意味します。

カトリック文明はすべての人間関係、人間的制度、そして教会の教えに基づく国家体系です。

C カトリック文明の神聖な特徴

それは、このような物事の秩序が基本的に聖であり、聖なる教会の権威、特に霊的事柄に関する直接的権威、世俗的事柄に関することが魂の救いに関する限りにおいて間接的権威がある教皇の権威の承認を必然的に含むことを、含蓄的に意味します。

実に、社会と国家の目的は共通して徳の高い生活です。さて、人間が実践することを期待される徳はキリスト教的徳であり、その中でも第一は神の愛です。ですから、社会と国家には聖なる目的があると言えます。

疑いなく、魂の救いを容易にする適切な手段を所有するのは教会です。しかし社会と国家も同じ目的のために間接的手段を持ち、それはより高い動力因に動かされると、自分だけの力では不可能だった良い結果を生み出すことになります。

D 最高の文化、文明

以上から、カトリック文化、文明が最高の文化、文明であると推論するのは容易です。忘れてならないのは、それがカトリック国の国民によってのみ実現され得るという点です。実に、人は自分自身の理性によって自然法の原則を知ることができても、教会の教導職に導かれない民族はそのすべてに関する知識を永続的に保持することができません。そのために、真の宗教を持たない人たちは、十戒のすべての掟を永続的に実践することはできません。このような条件の下で、そして神の掟の知識と遵守なしにキリスト教的秩序は存在し得ないので、最高の文化、文明は聖なるカトリック教会の中だけにしか存在し得ません。実に聖ピオ十世が言っているように文化は、

それがより純粋にキリスト教的であればあるほど、真理であり、永続的であり、貴重な実りを豊かにもたらします。それがキリスト教的理想から離れれば離れるほど、社会にとって不幸なことですが、ますます堕落します。このように、物事の内在的性質に従って、教会は実にキリスト教文明の守護者、保護者にもなります。10

E もっとも徹底した非合法性

もし、これが秩序と合法性であれば、その秩序の正反対である革命が何であるかも一目瞭然です。それはもっとも徹底した無秩序であり非合法性です。

3 革命に見られる傲慢、欲望、形而上学的価値

形而上学的価値であるとされる二つの観念、つまり絶対的平等と完全な自由は革命精神をよく表現しています。それに火を付けるのが傲慢と欲望の二つです。

著者が本論でどのような意味で欲望を理解しているか説明しなければなりません。手短に言えば、霊的著作の著者の用法に従って革命の推進力としての欲望に言及するとき、それが意味するのは秩序のない欲望です。そして、日常の言葉と同様に、秩序のない欲望の中に三つの欲望つまり肉の欲、目の欲、生活のおごりの結果として人間の中にあるすべての罪への衝動を含みます。11

A 傲慢と人類平等主義

おごる人は他者の権威の下にいるとき、まずは、自分が重荷に感じるくびきを憎みます。

次の段階として、おごる人は一般的にすべての権威とくびきを、そしてそれ以上に抽象的に考えられた権威の原則自体を憎みます。

彼はすべての権威を憎むので、どのような種類のものであっても自分より優れたものを憎みます。そのすべての中に神に対する心からの憎悪があります。12

すべての不平等に対するこの憎悪によって、高位にある人々が自分以外の権威を受け入れることを避けようとして、地位を危うくしたり、失ったりすることすらあります。

さらに憎悪が高まるとき、傲慢は人をして無政府状態を目的にして戦わせ、たとえ自分に最高権力が与えられるとしても、それを拒否させたりします。なぜかと言えば、そのような権力の存在自体が含蓄的に — おごる人も含めて — すべての人がその下にあり得る権威の原則をあかしするものだからです。

傲慢は、ですから、最高に急進的で完全な人類平等主義に行き着き得ます。

この急進的そして形而上学的人類平等主義には種々の側面があります。

a 人間と神との平等。汎神論、内在論、宗教を装うもろもろの秘教は人と神を対等の立場に置き、人に神的特徴を与えようとします。無神論者も人類平等主義者です。なぜなら人間が神であるとする愚かしさを避けるために、神が存在しないと宣言する愚かしさに陥るからです。世俗主義も一種の無神論ですから人類平等主義になります。その主張は、神の存在を確かに知ることが不可能であるから、この世界で人はあたかも神が存在しないかのように振る舞うべきであるというのです。つまり人は神を引きずりおろしてしまったかのように振る舞うべきであるというのです。

b 教会内の人類平等主義。叙階による権能を持つ司祭職、教導職、裁治権、もしくは少なくとも位階的階級のある司祭制度の廃止されるべきです。

c 種々の宗教間の平等。宗教によるすべての差別は人間の基本的平等に反するので避けるべきです。それ故に異なる宗教は厳格に平等な扱いを受けるべきです。一つの宗教が真理であり、他がそうでないと主張するのは福音的謙遜に反し、人の心を閉ざしてしまうので賢明でなく、自分が他より優れていると主張することになります。

d 政治の分野における平等。統治者と被統治者間にある不平等の廃止、または少なくとも減少。権力は神からでなく、大衆に由来します。大衆が命令すると政府は従わなければなりません。君主制と貴族政治は反人類平等主義的であるので本質的に邪悪な政権として追放されねばなりません。民主主義だけが合法的であり、正しく、福音的なのです。13

e 社会構成における平等。階級、特に世襲制度の階級、社会が指向する方向と文化、習慣の一般的風潮への貴族的影響の停止。知的な仕事が肉体労働に比較して優れていることに由来する自然的位階制は、両者間の差別を克服することによって消滅します。

f 個人と国家の間にある中間組織とどの社会的団体にもある特権の廃止。革命が王たちの絶対主義をどれほど嫌っても、それは中間組織と中世期的、構造上の君主制をさらに憎むのです。それは君主制の絶対主義が、最高位の階級にあるものさえも含めてすべての臣下をより下の持ち場での相互的平等の水準におとしめてしまうからです。それは正に社会主義社会で大都市に人口が集中して最高調に達している個人の絶滅、無名化を予告するものだからです。廃止されるべき中間グループの筆頭に挙げられるのが家庭です。革命はそれを絶滅するまでは、まずあらゆる手段を使ってその価値をおとしめ、ずたずたにし、けなすのです。

g 経済的平等。だれも何も所有しません。すべては集団のものです。個人が受け取るその労働に見合った報酬、職業選択の自由もろとも、私有財産は廃止されます。

h 存在の外面的様相の平等。多様性は容易に身分の不平等になります。だから衣服、住居、家財道具、習慣、その他の差は可能な限り廃止されます。

i 個人の平等。プロパガンダは個人を、それぞれの特異性とその命さえも奪うことによっていわば規格化します。男女間にある心理、身のこなしの差異さえも可能な限り奪われてしまいがちです。そのために、異なっていても調和のある個人から成立し、共通するもので結ばれる人々、本質的に人々の大家族は消えてしまいます。その代わりに空虚で、集団的、奴隷的魂の大衆が発生するのです。14

j すべての社会的関係の平等。大人と子供、雇用者と被雇用者、教師と学生、夫と妻、両親と子供たち、その他。

k 国際秩序における平等。国家は一定の領土に対して完全な主権を行使する独立した民族からなります。故に、統治権は公の法律によれば財産のイメージがあります。その特徴で他の民族と区別される民族の概念と主権の概念を受け入れてしまったら、その途端、能力、徳、人口、その他の不平等を受け入れることになります。ですから基本的に人類平等主義である革命はすべての人種、民族、国々を一つの人種、民族、国にまとめることを夢見るのです。15

l 国の中にある様々な地方の平等。同じ理由で、そして類似した手段を使用して、革命は一つの国の中での — 政治的、文化的、その他の — 健全な地方主義を廃止したがります。

m 人類平等主義と神への憎悪。聖トマス・アクイナスは、被造物の多様性とその位階的位付けは、創造主の完全性がそのためにすべての被造物の中にさらに美しく輝くので、それ自体において良いものである、と教えます。16 聖人はさらに摂理は天使たちの間にさえ、17また地上の楽園そしてこの追放の地でも、人間の間に不平等を創造なさったと言います。18 ですから、原則としてすべての不平等を憎むことは、形而上学的に創造主と被造物の間にある相似のすばらしさに反対することになります。それは神を憎むことにほかなりません。

n 不平等への制限。もちろん、このような教条的説明から、不平等がいつでも、そして必ず良いという結論にはなりません。

 すべての人間はその本質においては同じです。異なるのはその偶有性においてだけです。単に人間であるという事実に起因する諸権利、つまり生命、良い評判、十分な生活条件(それ故に労働)、私有財産、結婚、そして特に真の宗教の実践の権利はすべての人にとって同じです。これらの権利を脅かす不平等は摂理の定めた秩序に反しています。しかし、これらの制限の範囲内で徳、才能、美貌、体力、家族、伝統、その他から偶有的に発生する不平等は正しいものであり、宇宙の秩序にかなっています。19

B 欲望と自由主義

あらゆる種類の人類平等主義を生み出す傲慢に並んで、広い意味での欲望は自由主義の原因です。これら傲慢と欲望の情けない深みの底に、著者は実に多くの観点から相互に矛盾する平等と自由という革命の二つの形而上学的原則の合流点を見るのです。

a 魂の中の位階制。すべての可視、不可視の被造物に位階的印を与えた神は、人間の魂にも同じことをなさいました。知性は意志を指導し、また後者は感覚を治めるべきです。原罪の結果、人の中で感覚の欲求と理性に導かれる意志の間には常に摩擦が存在します。「私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦います」20

しかし、とことん反逆を企てる臣下を統治する君主に成り下がったとしても、意志には…神の恩寵に抵抗しないという条件の下に…常に勝利を収める手段があります。21

b 魂の中の人類平等主義。革命過程は平均化の達成ですが、それはしばしば、従わなければならない人々から統治機能を強奪すること以外の何ものでもありませんでした。この過程が魂の諸機能の関係に及ぶとき、それは抑制不在の欲望の嘆かわしい独裁に、弱り切って傷だらけの意志と盲目になった知性、特に慎みと恥じらいの感情を、嵐にも似た欲望の支配に委ねることになってしまいます。

革命が絶対的自由を形而上学的原則として主張するとき、その目的は最悪の欲望ともっとも有害な誤謬の支配を正当化することです。

c 人類平等主義と自由主義。抑制のない欲望の要求するままに考え、感じ、何でもする権利 — この倒錯が自由主義の本質です。これはさらに極端な自由主義の主張にはっきりと現れます。それらを分析すれば、自由主義は善に向かう自由に興味を示さないないことが分かります。自由主義は悪への自由になら大いに興味を持ちます。一旦権力を手に入れると、自由主義は直ちに、おそらくは大喜びで、可能な限り善の自由を束縛しようとします。その反面、種々のやり方で悪の自由なら保護、奨励、推進しようとします。ですから、それは善を全面的に支持し、悪を可能な限り制限するカトリック文明とは反対の立場にあります。

さて、悪をする自由は正に人が内面的に「革命運動家」である限り、つまり、彼が知性と意志を統治するはずの欲望の独裁に同意する限り、与えられる自由です。

以上でお分かりのように、自由主義と人類平等主義は同じ木になる実です。

ついでながら、傲慢はどのような形の権威に対しても憎悪を生み出す際、22明らかに進歩的態度をもたらします。そしてこの意味で、傲慢は自由主義の中で積極的役割を演じる要因であると考えられなければなりません。しかし革命は、人々の能力とそれを適用する度合いが異なり、放置すれば自由が不平等になることに気付いたとき、不平等に対する憎悪から自由を犠牲にすることを選択しました。これはその過程の中にあって一つの通過点に過ぎない社会主義的段階の起こりとなりました。革命の究極目的は、完全な自由と完全な平等が共存するような物事の情態を確立することです。

このように、歴史的に見ると、社会主義運動は自由主義の洗練されたものに過ぎません。根っからの自由主義者に社会主義を受け入れさせるのは、正に、そのもとで(時としては禁欲主義の名の下に)妬み、怠惰、欲望のような最悪でもっとも暴力的欲望の組織的遂行が奨励されても、多くの良いこと、もしくは少なくとも無害なことが独裁的に禁止されているからです。反面、自由主義者は社会主義政権における権力の拡大が、組織の論理の中では最終的無政府状態という、彼らが心から欲する目標を達成するための手段に過ぎないことを見抜きます。

ですから、ある種の子供っぽい、時代遅れの自由主義者たちと社会主義者たちの間に起こる衝突の数々は革命過程における表面的出来事であるに過ぎません。それは革命の深い論理とか、よく見れば同時に社会主義でもあり、自由主義でもある方向への情け容赦ない進展にとってことさら邪魔にならない誤解にしか過ぎません。

d ロックンロール世代。魂の中で起こる革命の過程は、ここで述べるように、最近の世代、特にロックンロールの催眠術にかかった今日の十代の若者たちの中に、知性の制御または意志の効果的参与がない本能的反応の自発行動と、現実の系統立った分析でなく幻想と感情の優先を特徴とする思考法を生み出しました。おおむね、これは論理の役割と意志の真の形成を事実上抹殺してしまう教育の実りです。

e 人類平等主義、自由主義、無政府主義。無秩序な欲望が暴走すれば、この順序で一方では規制と法律を他方では不平等を憎むようになりります。この暴走はこのようにして、階級とか政府のない社会に住む進化した人類の完全な秩序、不平等などとは無縁なもっとも完全な自由を謳歌できるマルクス主義の無政府主義が提唱する理想郷的概念に至ります。お分かりのように、この理想は考えられるかぎりもっとも自由であると同時にもっとも平等です。

実に、マルクス主義の無政府主義的理想郷は、人間人格が高度に進歩して、国家も政府も存在しない社会でそれが自由に発達できる状態なのです。

政府も存在しないのに完全な秩序の中に生きることになるこの社会の中で、経済的生産は組織化され、高度に発展することになり、知的労働と肉体労働の違いは過去のものになるでしょう。まだ決定されてはいないけれど、階級を形成しないような選択的過程が経済の方向をもっとも才能のある人々の手に委ねることになるでしょう。

以上が不平等の唯一そして微々たる残り物になるでしょう。しかし、この無政府主義的共産主義社会は歴史の最終段階ではありませんから、その残り物さえもその後の発展では一掃されると想像するのは間違いではないようです。

5 レオ十三世、回勅 " Immortale Dei" 、一八八五年十一月一日、パリ、Bonnes Presse、二巻三十九ページ。

6 ヨハネ二十三世、一九五八年十二月二十八日、メッシーナ市を破壊した地震の五十周年記念日に同市民に宛てられたラジオ放送(週刊フランス語版)、一九五九年一月二十三日。

7 聖トマス・アクイナス、De Regimine Principium, I, 14-15参照。

8 第一ヴァティカン公会議第三会期、二章(デンツィンガー千八百七十六)参照。

9 トレント公会議第六会期、二章(デンツィンガー八百十二)参照。

10 聖ピオ十世、回勅 " Il fermo proposito" 、一九〇五年六月十一日、パリ、Bonne Presse、第二巻九十二ページ。

11 1ヨハネ二・十六参照。

12 本章mを見よ。

13 聖ピオ十世、使徒的書簡Notre charge apostolique、一九一〇年八月二十五日、American Catholic Quarterly Review、三十五巻(一九一〇年十月)、七百ページ参照。

14 ヴィンセント・A・ワイゼルマンス、Major Addresses of Pope Pius XII (St. Paul: North Central Publishing Co.、一九六一年)第二巻八十一〜八十二ページのピオ十二世、クリスマスのラジオ放送、一九四四年参照。

15 第一部十一章3を見よ。

16 Summa Contra Gentiles、II,45;  Summa Theologica, I, q. 47, a.2参照。

17 Summa Theologica, I, q. 50, a.4参照。

18 同q.96,aa. 3,4。

19 ピオ十二世、クリスマスの放送、一九四四年、前掲書、八十一〜八十二ページ参照。

20 ローマ人への手紙七・二十三。

21 ローマ人への手紙七・二十五参照。

22 本章3のAを見よ。

八章

知性、意志、人間的行為の決定における感性

ここまで考察してくると、次は知性、意志、誤謬と欲望の間にある関係における感性の役割について解明しなければなりません。

ある無秩序な欲望を正当化するために、すべての誤謬は知性によって考えつかれたものである、と主張しているようにみえることも可能です。であれば、自由主義的格言を肯定する倫理神学者は、常に自由主義的傾向によって動かされていることになってしまいます。

それはここで主張していることは異なります。倫理神学者は単に原罪の影響を受けた知性の弱さのせいで自由主義的結論に達するかもしれません。そのような場合、例えば不注意のように、性質を異にする道徳的欠陥が必然的にあるのでしょうか? それは本論の範囲外にある問題です。           

本論が主張するのは、歴史的に見て、この革命には極端に暴力的な激情の発作というパン種にその究極的起源があったという点です。そして、この過程において教義的誤謬も大きな役割を果たしたことを決して否定するものではありません。

ド・メートル、ド・ボナルド、ドノソ・コルテス、その他の — 価値ある著者たちはこれらの誤謬および十五から十六世紀、そして二十世紀に至るまで一つの誤謬がもう一つの誤謬から生まれてきたいきさつについて数多くの研究を発表してきました。故に、ここでこの点に深入りするつもりはありません。

しかし、私たちが体験している革命過程の、厳密に思想的諸側面に対する欲望要因と、その影響の重要性に焦点を合わせることが適切であるようには見えます。なぜかと言えば、著者が見る限り、この点に余り注意が払われていないからです。そのために、人々は革命を全体的に見ることをせず、従って不適切な反革命的方法を採用するのです。

それでは欲望が思想に影響を与える方法について付言しておきましょう。

1 堕落した本性、恵みと自由意志

本性に備わる能力だけによって、人は多くの真理を知り、種々の徳を実践することができます。しかし恩寵の助けなしに十戒について十分な知識を持ち、それを実践し続けるのは不可能です。    

つまり、楽園を追放された人間には常に知性の弱さがあり、まず考える前から掟に反逆するよういざなう傾向に影響されるということです。

2 革命の胚芽

反逆しようとするこの基本的傾向には、時として自由意志の同意があります。堕落した人間は、このように、十戒のあれやこれやに反してしまいます。しかし、人のこのような反逆はさらに進んで、多かれ少なかれ本人も認めたがらない道徳的秩序全体の憎悪になってしまいます。本質的に革命的であるこの憎悪は教義的誤謬の原因となり、さらには、道徳法と啓示された教義そのものに反する原則を、意識的かつあからさまに公言するようになります。これは正に聖霊に反する罪です。

この憎悪が西欧歴史にみられるもっとも深い傾向を動かし始めたとき、革命が始まりました。その過程は現在も発展しつつあります。そしてその教義的誤謬には、現代見られる大棄教のもっとも能動的原因である憎悪の紛れもない痕跡があります。その性質からして、この憎悪は単にある教義上の誤謬に帰してしまうことはできません。それは極端に悪化した無秩序な欲望です。

この革命に適用される以上の主張は、すべての誤謬の根に常に無秩序な欲望があることを意味するものではありません。また特定の個人、そして社会的グループの中にさえも誤謬が欲望の無秩序を解き放ったことを否定するものでもありません。ここで主張するのは単に、全体的にそしてその主な出来事を取り上げて考察された、革命過程には抑制皆無の欲望に、そのもっとも能動的で根本的な原因があったということです。

3 革命と不誠実

次のような反対もあり得るでしょう。もし革命過程において欲望がそれほど重要であるなら、その犠牲者は常に、少なくともある程度、不誠実であるようには見えないでしょうか? 例えば、もしプロテスタンティズムが革命の子であれば、すべてのプロテスタントは裏切り者になるのでしょうか? これは、他の宗教を信じる善意の人たちがいるかもしれないことを認めている教会の教えに反していないでしょうか?

完全に善意の人で基本的には反革命精神の持ち主でありながら、自分に責任のない落ち度から(宗教的、哲学的、政治的、その他の)革命の詭弁術の網に捉えられることがあり得るのは明白です。このような人には責任がありません。

必要な変更を加えると、同じことは、自分では望まなかった知性のかげりのために革命理論のある部分を受け入れる人についても言えます。

しかし、もしだれかが革命に付き物の無秩序な欲望に動かされて、それと同じ精神を持つのであれば、逆の答えをしなければなりません。

そのような状態の下にある革命運動家は、革命の破壊的原則がとても良いものであると確信しているかもしれません。ですから、彼は不誠実ではないでしょうが、自分が陥っている誤謬に関しては責任があるでしょう。

また、革命運動家は自分に確信がなかったり、部分的にのみ確信している思想を提唱するようになっているかもしれません。そのような場合、彼は部分的もしくは全面的に不誠実であることになります。

この意味で、偽革命とフランス革命の否定には、マルクス思想が包含されていたと主張するとき、これら二つの運動の熱烈な信奉者たちが、マルクス思想が発表される前からすでに意識的にマルクス主義者であり、偽善的に自分たちの意見を隠していたと主張するものではないことを強調するのはほとんど不必要であるようにみえます。

魂の能力の秩序ある布置、従って、聖寵に照らされ、教会教導職に導かれた知性が明晰を増すことはキリスト教的徳の特徴です。ですから、聖人であればどの聖人であっても平衡感覚と公平さの模範なのです。その判断の客観性と善に対するその意志の確固たる指向性は無秩序な欲望の毒気などによって、いささかも左右されるものではありません。

その反対に、人が徳を失い、これらの欲望のくびきに屈してしまっている程度に応じて、それらの欲望に関連するすべてのことにおいてその客観性は薄れてしまいます。この客観性は特に自己判断という点で狂ってしまいます。

それぞれの具体的ケースにおいて、革命精神に目をくらまされた十六または十八世紀の穏やかな革命運動家たちが、その思想の深い意味と究極的な結果をどの程度意識していたかは、神様だけの秘密です。

ともかく、すべての革命運動家がマルクス主義者であったという仮定は成立しません。

1 第一部七章2Dを見よ。

2 この真理についてドノーソ・コルテスの重要な展開は本書と直接に関係があります。彼のObras Completas (Madrid: Biblioteca de Autores Cristianos、一九四六年) 第二巻三百七十七ページの " Ensoyo sobre el Catolicismo, el Liberalismo y el Socialismo" を見よ。

九章

「準反革命」も革命の子

ここまで述べてきたことは、実践的観察のための良い基礎になります。

この内的革命によって侵された精神は、例えば非常に伝統的、道徳的環境に育つなどのある種の状況のためとか、または、たまたま一つ、もしくは多くの点で反革命的態度を保っているかもしれません。

しかし、これらの「準反革命運動家たち」の考え方の中で、革命精神はやはり首位を占めるでしょう。

 大部分がこのような考え方をする人々の中にあって、革命は人々の考え方が変わらない限り、抑圧不可能でしょう。

 ですから、革命の統一性からして結果的には、徹底した反革命運動家だけが本物の反革命運動家なのです。

 その魂の中で革命の偶像がよちよち歩きし始めている「準反革命運動家」の状態は少々異なっています。これについては後述。

1 第一部六章5のAを見よ。

2 第二部十二章10を見よ。

十章

革命における文化、芸術、環境

魂、つまり人々の考え方の奥底での革命過程の複雑さと領域を描写した今、革命の進行における文化、芸術、環境にどれほどの重要性があるかを指摘することにしましょう。

1 文化

革命思想は、その起源である諸傾向が信奉者及びその他の人たちの目に受容可能であるような印象を与えることを可能にします。後者の真の確信を揺るがせ、このようにして彼らの反逆に傾きがちな欲望を解き放ち、燃え上がらせるために革命運動家に利用されるこれらの思想は革命によって作り出される制度を示唆し、形成します。そして、知識または文化の思いもかけぬ分野にまで浸透しています。なぜかと言うと革命と反革命の闘争の中で直接的、または少なくとも間接的にこれらの分野が関わっていないことは不可能だからです。

2 芸術

ある種の形、色、音、香り、味、その他と魂のある種の状態との間に神秘的かつ賛嘆に値する関係を神が確立したとすると、芸術を通して考え方が深く影響され、人間、家族、民族が、心底から革命的な魂の状態を形成するよう誘導され得ることは明白です。フランス革命と当時流行したファッションとか、現今の革命と今日のファッションとか芸術における、いわゆる進歩主義に属する諸派に見られる、行き過ぎと混沌との類比を想起すれば、著者が言おうとしていることがお分かりでしょう。

3 環境

環境は、良かれ悪しかれ、習慣形成に寄与し得ます。環境が善に寄与する程度に応じて、それは反動の感嘆に値する障壁でもって、もしくは健全な習慣として保たれてきたすべての事柄の惰性でもって革命に抵抗できます。反面、それが悪に寄与する程度に応じて、それは革命精神の巨大な毒とエネルギーを魂に伝えることが可能です。

4 革命過程における芸術と環境の歴史的役割

                            

正にこの理由のために、組織的かつ漸進的にどこまでも趣味が悪くなる習慣とかライフスタイルの一般化、ある種の現代美術のプロレタリア化は、ある種の法律の立法化とかある種の本質的には政治的な制度を確立するのと同じか、またはもっと多く、人類平等主義の勝利に貢献しています。

またもしある人が、例えば、不道徳で不可知論的映画の上映を止めさせることができれば、それは国会の場で左翼内閣の崩壊に成功するよりも、反革命に寄与したことになるのも確かです。

十一章

罪と贖罪についての革命

および革命がもたらす理想郷

革命が持つ多くの側面の中で、それが善悪、原罪、贖罪の概念を過小評価する、もしくは否定するように、若い人たちを教育することを強調するのは大事です。

1 革命は罪と贖罪を否定

前述したように、革命は罪の果実です。しかし、もし革命がそれを認めると、自分自身の覆面を脱ぎ捨てることになりますから、自分の利益になりません。

ですから、革命はその罪深い根元について沈黙を保つだけでなく、罪の概念そのものさえ否定する傾向があります。その根元的否定は原罪、自罪に関するだけでなく、主に以下の事柄にも影響されています。

●道徳法の有効性と存在を否定する、もしくはこの法に世俗主義の空虚な馬鹿馬鹿しい根拠しか与えない哲学的もしくは法律的組織。

●道徳法の存在を直接否定することはないにしても、それを無視するような魂の状態を大衆の中に作り出すプロパガンダの徹底。徳に向けられるはずの尊敬は金、職業、効率、成功、安全、健康、肉体美、筋力、快感に向けられてしまいます。

革命は現代人の罪の概念自体、善悪の区別を滅ぼしつつあります。それで、そのこと自体によって、それは我らの主イエス・キリストの贖罪を否定しています。もし罪が存在しないのなら、贖罪は不可解になり、歴史と人生にとってどのような論理的関係も失ってしまいます。

2 自由主義と社会主義における罪の否定 その歴史的例

その一つ一つの段階で革命は常に、罪の存在を軽く扱ったり、根本的に否定しようとしてきています。

 

A 個人の原罪を否定

革命は、その進歩的かつ個人的側面で、人には不可謬の理性、強固な意志、秩序に抑制された欲望が備わっていると教えました。ここからして、完全な存在と思われた — 個人はすべてであり、おそらく一時的には必要かもしれない政府は無もしくはほとんど無である…といったような人間世界に関する秩序の概念が生まれてくるのです。無知が誤謬と犯罪の唯一の原因であるとされていた時代には、牢獄を閉鎖する近道は学校を開設することが近道であると思われていました。しかし、個人に原罪がないというのはこれらの考え違いの基本的ドグマでした。

国家が優勢になる可能性、および民衆の事柄から関心を反らすことになる派閥の形成に対する進歩主義者の強力な武器はは政治的自由と普遍参政権でした。

B 大衆と国家の原罪を否定

すでに前世紀、この概念が少なくとも一部分は不正確であることは明らかになっていました。しかし革命が後退することはありませんでした。自分の誤りを認めるよりも、それは別の誤り、つまり大衆と国家が原罪抜きに生まれたという概念を持ち込みました。この概念によると、個人は利己主義に傾きがちであり、過ちを犯し得るが、大衆はいつでも正しく、自分たちの欲望に駆られて暴走することはないとします。彼らの非の打ち所ない行動手段は国家であり、過ちを犯し得ない表現の手段つまり普遍参政権です。そこから、いつでも大衆の強い意志の実現に導く、社会主義思想に染まった国会とか、カリスマ的独裁者の強い意志が生じることになります。

3 革命運動家の理想郷は科学と技術による救い

ある意味で、単に一個人、大衆、国家にそのすべての信頼を置くとしても、革命が最終的に信用するのは個人です。科学と技術のおかげで自己充足している個人は、そのすべての問題を解決し、苦痛、貧困、無知、不安定、その他原罪と自在の結果と考えられるすべての事柄を克服することが可能です。

革命が約束する理想郷で、普遍的共和国に包含される諸国は地理的名称でしかなくなります。そこには社会的不平等も経済的不平等も存在しなくなります。そしてそれは、超自然を抜きにして人間に決定的幸福をもたらすために、科学と技術、プロパガンダと心理学で運営されることになります。

人間は科学によって悪に打ち勝っており、この世を技術的に住み良い楽園にしてしまっているはずなので、このような世界にとって私たちの主イエス・キリストによる贖罪の場はありません。そして人は生命の半永久的引き延ばしによっていつか死さえ克服することを希望するようになるのでしょう。

十二章

革命の平和主義かつ反軍隊主義的性格

前章で明らかにしたことからもお分かりのように、革命の平和主義かつ反軍隊主義的性格は容易に理解できます。

1 科学は戦争、軍隊、警察を無用にする

科学は戦争が悪であり、技術がそのすべての原因に打ち勝つことができることを証明したわけですから、技術がもたらす革命の楽園において平和は恒久的でなければなりません。

ですから革命と軍隊は基本的に両立せず、軍隊は廃止されなければならないことになり、普遍的共和国にとって必要なのは警察だけということになります。それも科学と技術の進歩が犯罪の絶滅を達成し次第廃止されることになるのでしょう。

2 革命と制服の間にある教義上の矛盾

単にそれが存在するということによって、制服は、疑いもなく幾分か一般的ではありますけれど、確かに反革命的性格があることを含蓄的にあかしします。

— そのために人は生命さえもなげうつべき生命以上の価値の存在 — これは冒険と苦痛に対する嫌悪と安全の崇拝、この世の生命への執着を特徴とする社会主義的考え方とは正反対です。

— 道徳の存在。軍隊的条件は名誉、善に仕え悪と戦うなどの概念に基づくものだからです。

3 革命の気質は軍隊生活に反する

最後に、革命と軍隊精神は気質的に両立しません。革命はそれが全権を掌握するまではかまびすしく、大げさであり、策動的です。直接的、劇的、簡単な方法で問題を解決する — つまり軍事的解決 — は革命の現在の気質に合いません。ここでは身近に見られる革命の現在の段階を想起しつつ「現在」という言葉を強調したいと思います。なぜなら全権を掌握した革命ほど独裁的で残酷なものは存在しないからです。ロシアがその良い例を提供してくれています。しかしそこでさえも、軍隊精神は暗殺者の精神とはかなり異なるわけですから、逸脱が見られました。

*  *  *

革命の理想郷を種々の側面から分析したところで、革命の研究を終えることにしましょう。

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