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ネオ・カテクメナートゥス  

鹿児島教区司祭 成相明人

レデンプトール会司祭 ヨセフ・ミュイベルガー神父とのインタビュー

場所 阿久根カトリック教会

日時 2001年1月26日

成相

神父様は長いことローマで勉強なさっていました。その間、今、日本全国、特に四国で問題になっているネオ・カテクメナートゥスとのコンタクトもあったと思いますが…神父様は彼らの保護者であるコルデス大司教とも面識があると伺いました。今日はこのグループについて、神父様がご自分の体験を通じて知るに至ったことを、わたしたちに教えてくださると幸いです。

ミュイベルガー

わたしは1986年秋から1994年2月まで、ローマのラテラン大学(アカデミア・アルフォンシアナ)で勉強していました。司祭として勉強していたわけですから、ミサを捧げてくれるように依頼されると、当然、どこにでも喜んで行きました。現在、四国でいろいろ問題になっているネオ・カテクメナートゥス・ローマ本部からもそのような依頼を受けたことがあります。何も知らなかったわたしが喜んでその依頼に応じたのは言うまでもありません。

ミサの始めにわたしたちは告白の祈りを唱えるはずです。ところが、その代わりに、ある女性が20分も続く長い話をしました。その内容は、今でも覚えていますが、主に「Io sono niente、つまり自分がどんなに値打ちのないものであるか」という内容でした。わたしが思ったのは「なぜ、神様に創造された人間にそれほど値打ちがない、と言わなければならないのだろうか」ということでした。まだ、ミサが始まる前の出来事ですから、ミサに関する規則に抵触していたわけではありません。また、教会法によれば、ミサの説教は司祭がすることになっています。ですから、その決まりに従うためだったのでしょうか、わたしの二つの朗読の前に長い長い解説がありました。で、わたしの説教自体が始まるころ、会衆の集中力が失われていたのは明らかでした。ミサがもう始まっていたのですから、これは規則に抵触します。

成相

その集会があった場所とか時間帯についても一言。

ミュイベルガー

場所はローマ北部にあるカナダ人諸殉教者教会信徒会館の三階、時間は土曜日夜10時から日曜日午前1時まででした。つまり、このグループ以外の人たちが参加できないような時間と場所が設定されていたということです。参加者数は100人前後。年齢は15歳から80歳ぐらいまで。若い人たちの中には洗礼を受けていない人がいたこともミサの後で判明しました。

仮祭壇は四つの大きなテーブルを寄せ集めて作られていました。その上に大きな白いシーツがかけられ、真ん中にはユダヤ教のシナゴーグで見られるような7つの枝がある燭台がありました。カリスは新年のパーティーなどで使われる、2,3リットルも入る大きなボールでした。なぜ普通のカリスを 使用しないかという質問に対して、全員が御血を拝領するからだ、という返事がありました。

あの人たちが準備していたホスチアは、直径22センチ、厚さ3〜4センチもある堅い自家製のパンで、わたしは聖体拝領の際にそれを割ることができなかったほどです。するとそのグループの責任者がそばにやってきて、「問題ないですよ」と言って、テーブルの縁に御体を何回も打ち当てて、最後にはバリッと割ったものです。小さな御聖体のかけらが床に飛び散ったのは言うまでもありません。

御血の方はどうかというと、先述の大きな器を使います。とにかく全員が拝領します。ミサは食事であるから食べ物があれば、飲み物もなければ…ということなのでしょう。洗礼を受けていない人たちも含めて、全員の聖体拝領が何とか終わると、責任者が「これはわたしたちがやりますから」と言って、カリスを香部屋に持って行ってしまいました。そのときにまだ残っていた御血は1リットルほどありましたから、わたしはそれを全部拝領しなければならないのであろう、と思っていたものです。ミサの後、控えの間に行ってみると、確かに責任者が、残っていた御血を拝領し終わっていましたが、まだカリスには御血が付いたままでした。それを気にしていたわたしは、責任者から、会場の人たちと歓談するよう促されて、そこを出たのです。後ほどその責任者から聞かされて、初めて分かったのは、会衆の中には洗礼を受けていない人たちが何人も混じっていた、ということで、わたしは驚愕しました。一週間の後、再び、ミサを頼まれて行ってみますと、例のカリスには前の週の乾いた御血がまだこびりついたまま放置してあり、御血で赤く染まった聖布もカリスの中に残ったままでした。再度、わたしが彼らの依頼に応じたのは、一度だけで彼らを判断したくなかったからですが、二度目もやはり同じでした。さらに次の週、もう一度だけ行きましたが、今から考えると間違いであったと思います。でも、当時のことを考えてみますと、自分が体験したことが本当にあったのだろうか、とさえ思っていたようです。

感想を言いますと、このネオ・カテクメナートゥス運動は洗礼を受けていない人たちを教会に連れて来て、受洗にまで導くということでも高い評価を受けているのですが、これらの求道者たちは、ネオ・カテクメナートゥスが主催するミサの時間と場所から判断すると、小教区の一般信者たちとのつきあいがありません。それなのにどういうわけか、小教区が強化されるという評価だけは受けます。しかしこのやり方であれば、小教区の中にもう一つ別の小教区が生まれるだけではありませんか?また連中のミサにだけ与っていて、教会法で定めらる本来のミサ儀式に不慣れであれば、一般信徒が与る普通の小教区ミサに与ろうという気持ちにはなれないでしょう。典礼に関して教会の定めで規定されている事柄を守ろうとしないのであれば、他の面でも教会の掟を守ることは期待できません。裏に隠れているのは間違った神学です。つまり、彼らの神学は、教会は信徒の集まりによって成り立ち、信者の行動が教会を定義するという、マルティン・ルーテルの思想です。しかし、カトリック教会は制度であり、制度である教会には、位階制度があり、七つの秘蹟も含まれています。Ⅰ コリント12章によれば、すべての信者にはそれぞれの役割りがあります。ですから、わたしは、連中の中にあるのは強いプロテスタントの影響であると理解しました。

イタリアだけでなくドイツでも、ある小教区にネオ・カテクメナートゥスが入り込むと、必ず分裂がもたらされるのは事実です。わたしがこのような感想を連中に漏らすと、返答は決まって、自分たちは教会公認の団体である、と反論します。確かに、バチカンは指導司教として現在(Cor Unumの総裁)パウロ・ヨセフ・コルデス大司教(67歳)を任命しています。大司教も、この人たちの典礼に関する諸問題については、いろいろな人から注意や報告を受けています。コルデス大司教はネオ・カテクメナートゥスの保護司教として、時にはこのグループのためにミサもなさいます。しかし、この大司教が連中のために司式するミサに限って言えば、典礼諸規則は見事に守られるのです。つまり、ごく普通のおとなしいミサになります。ですから、大司教は連中に騙されているとしか思えません。まさに、こういうことは教会内に分裂をもたらす原因になるのではありませんか。司祭としてわたしは信者とともに宣教しています。ですから、バチカン公会議に由来しない活動は教会が必要とする一致を作り出すことができません。

さらに、ネオ・カテクメナートゥスの保護司教から報告を受ける教皇様にしても、このグループには騙されている、としか思えません。今回、四国での出来事を通じて、ネオ・カテクメナートスの正体がはっきりすることを望んでいます。教皇を始め、諸司教たちはネオ・カテクメナートゥスに騙されてはいけません。日本では四国、大分、新潟教区などにこの運動が入り込んでいますが、心配です。

この運動のカテキスタになる条件についても聞いてみました。それによると、3年間毎主日、ネオ・カテキスタ主催のミサと、同グループが毎年主催する10日間の黙想会に参加することだそうです。このような不十分な養成でまともな神学が学べるわけがありません。また、教える教授がネオ・カテクメナートゥスの人間であれば、そこから、もろもろの問題も生じます。

成相
東京、大阪その他多くの教区でこの人たちの運動は禁止されていますが、例えば、東京は日野にあるラ・サール会本部にある研修センターで、この人たちが集会を開いていることは知られています。その集会で、人々は全身浴による洗礼を受けています。ですから、その人たちが住む地区の主任司祭たちは、自分が知らないうちに、信者人口が増加している…ということになります。活動を禁止されているわけですから、恒常的にそれらの教区で活動することはできません。とすれば、普通の主日にこの人たちはどうしているのでしょうか?信徒としての登録はどこにされるのでしょうか?

わたしが思うに、ネオ・カテクメナートゥスを導入なさった日本の何人かの司教様方は司祭不足、召命不足を心配なさった挙げ句、溺れるものは藁をも掴む…とやらで、司祭ならいくらでも供給しましょう、と言うこの運動に頼られたのではないでしょうか。皆さん、日本の教会のため、司教様方のために祈りましょう。なお、ネオ・カテクメナートゥスの強い特徴は、教会に来なくなったカトリック信者の呼び込みである、と言われていることも付記しておきます。オッセルヴァトーレ・ロマーノなどを読むと、この運動はフォコラーレ等と並んで、最近もラッツィンガー枢機卿のお褒めの言葉をいただいているのは承知していますが、各地からのニュースを読むと、司教様方はもっと警戒なさる必要があるように思えてなりません。

ミュイベルガー神父様、今日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。