神学者たちの反乱

社会にもたらしたその致命的諸結果

「わたしは従わない!」

アルフレッド・ホイスラー

『フマネ・ヴィテ』研究会 成相明人訳

しかし、だれが植え、だれが水をやるにしても、ペトロの信仰のうちにとどまって植え、ペトロの教えを受け入れた者でなければ、神は成長させて下さいません。民の重要なことがらが、吟味されるためにローマ教皇に申告され、彼の判断によって決められることになっており、ローマ教皇のもとに、母なる教会の奉仕者たちは組織され、彼の責任を分担し、ゆだねられた権限を行使するのです。                   

司教殉教者 トマス・ベケットの言葉
                    —12月29日の聖務日課から—

序言
 

かなりの数になる著名な神学者たちは、残念なことに、自分たちの知名度を悪用してきました。彼らは、ここ何年もの間、過労気味の司教たちや多くの人たちを欺き続けてきたのです。彼らが、すでに、信仰への忠実さを失っていることに、ある人たちは気づいていました。しかし、彼らの背信が、この珠玉の小冊子(原著はドイツ語、本訳は英語から)によって、初めて、文書の形で、公にされることになりました。これら「カトリック」神学者たちの教会への背信行為は、道徳一般、特に性道徳の分野では、目も当てられないほどです。

教皇パウロ六世は、先見の明に富んだ方でした。1968年、教皇は人工避妊・不妊手術、人工妊娠中絶がもたらす性道徳の混乱と家庭の危機について警告を発して、回勅『フマネ・ヴィテ』を発表なさいました。この回勅が、神学者たちの反乱を引き起こしたのです。今になってみると明白に分かることですが、パウロ六世は、正に、預言者でした。現代、ますます多くの人々が、人工避妊こそ、諸々の性的乱れの源である悪そのものであると見なし始めました。人工避妊と人工妊娠中絶の間に、ひそやかに確立される関係にも、さらに多くの人々が気づくようになりました。さらに多くの人々に気づいて欲しいものです。洞察溢れるこの小冊子を読み終えた読者は、必ず、わたしの主張を理解できると信じます。

このドイツ人の医師は、主にドイツの事情、ドイツの神学者について語っていますが、読者の脳裏には、ジョージタウン大学で教えているイエズス会のリチャード・マッコーミック神父、カトリック大学のチャールス・E・カラン神父、デトロイトのアントニー・コスニック神父、ノートル・ダム大学のリチャード・P・マックブライエン神父、その他大勢の反乱神学者の名が思い浮かぶはずです。信徒を誤らせたとして、アルフレッド・ホイスラー博士が告発しているドイツの知識人、神学生、修道者、特に司祭と司教たちより、これら米国の反乱神学者たちの罪が軽いわけはありません。

カラン神父の提唱する「妥協倫理」、マッコーミック神父の「極中庸」、コスニック神父の「全体的誠実」などを、わたしたちが指針にできるわけはありません。そんなことをすれば、どうにもならない泥沼にはまり込むだけです。

この小冊子が多くの人々の心と精神にしみこみますように。この小冊子が、わたしたちの神学者、教師、司祭、司教たちによって欺かれた多くの魂を再び柵の中に導き — その結果として、読者が自分たちの信仰の全ての要求に100%応え、心の平安を手に入れ、究極的に永遠の至福に至る助けとなりますように。

ポール・マルクス、O.S.B.

Human Life International創立者 )

 

神学者たちの反乱

社会にもたらしたその致命的諸結果

アルフレッド・ホイスラー

「わたしは従わない!」

ヒポクラテスの誓い

紀元前450年、ギリシアの哲学者プロタゴラスは、人間こそ万物の尺度であると主張しました。彼の教えは宗教の基礎を揺るがせ、道徳の崩壊を促し、公的秩序の段階的衰退を招きました。紀元前370年に死んだギリシアの医師ヒポクラテスが、このような堕落の諸症状に反対して戦い始めたことは、彼が弟子たちに要求した宣誓が、今日に至るまで残っているために、広く認められています。ヒポクラテスの誓いを、以下、簡単に述べます。

わたしは、医学の神アポロによって以下を誓います。わたしは、たとえ人から依頼されても、決して死をもたらす毒を処方したり、そのような薬を勧めたりしません。わたしは決して女性が堕胎する手助けをしません — 

それ以来、キリスト教とアラブの文化は、この誓いを、医療の倫理的指針として受け入れてきています。現代に至っても、全世界で医療に従事する全ての人に、この誓いは受け入れられていました。

ところが、過去20年以来(1966年以降・訳者)、驚くべきことに、わたしの多くの同僚が、主に、馬鹿馬鹿しいとか、進歩にとって障害になるなどの理由で、自分たちを拘束するこの指針に疑問を持ち始めました。であれば、なぜこのような不幸な事態に至ってしまったかを知りたくもなるものです。

公会議後生じた神学の混乱

わたしは、第二バチカン公会議以降のカトリック神学における — 特に人工避妊と人工妊娠中絶に関する — ある種の傾向を分析することによって、この問題を深めることができると思います。

第二バチカン公会議(1962­ 1965)が終わり、司教たちがそれぞれの任地に帰着したとき、たとえ全員ではなかったとしても、多くの司教たちは、自分たちが大仕事を成し遂げたと確信していました。彼らは、公会議に自分たちが参加し、貢献したことを誇りに思っていましたし、公会議諸決議の結果として、希望に満ちた新しい生命、新しい力が教会の中に開花することを期待したものです。

この期待が実現されなかったのは、決して、公会議に欠陥があったからではありません。公会議後の発展をよく観察した人なら、誰でもその本当の理由を知っています。第二バチカン公会議以後のカトリック教会と、公会議が意図するはずもなかった多元主義の中に見られたように — 時代の精神に迎合しようとする傾向は、人間の必要に合わせて神の意志を解釈する方向に、人間を向かわせました。神学的に混乱し「人間化」が幅を利かせた公会議直後の時期、以前は不可侵で、聖であった多くのものが失われました。そして、以前無かった多くのもの、特筆すべきは主観主義と多元主義が、導入されました。神学は、以前のように神中心というより、不適切な人類学にすり寄って行きました。

このような事態になってしまえば、それまで広く受け入れられてきた教会の教導職が、いわゆる指導役である神学の教授たちから挑戦されるようになることは、目に見えていました。しかし、神学教授たちはほとんど全てが、しばしばどうでもよい、些細なことに関する、そして多くの場合、嘘でもある発表を垂れ流します。その結果生じる危機の中にあって、人々は、もはやどの教えが正しいのか判断できなくなります。今日、教会内でなされる多くの議論にしても、果てしなく続くだけでなく、曖昧そのものです。教会の指導能力が疑問視される理由は、正にここにあります。

教会の公会議以降の進展における特に重大な問題点として、わたしは、人工妊娠中絶と産児制限を指摘したいと思います。ご存じの通り、教皇ピオ十一世は、1930年、回勅『カスティ・コンヌビイ』の中でキリスト教的結婚についての教義を詳説しておられます。そこに述べられてあることの意味が、現代、少なくなってしまったわけではありません。多くの言語に翻訳されているあの有名なDie Natur der menschlichen Sexualitat(人間の性の性質)の著者であるフルダのゲオルグ・ジグムンド教授は、この回勅を「キリスト教的結婚の大憲章」と呼んでいます。正にその通り。この回勅の教えは、後継者である全ての教皇によって今日に至るまで、再確認されています。

人工避妊・妊娠中絶についての伝統的教義

ピオ十二世当時から第二バチカン公会議の終わりに至るまで、カトリック教会は、一致していました。結婚と性道徳の問題に関しては、常に一つの考えしかありませんでした。神学教授たちは、教会の教えを解釈はしても、決して反対することはありませんでした。神学生たちは、世界中どこでも同じ教えを受けたものです。全ての司祭たちは、彼らの性格、背景、能力の違いにも関わらず、その同じ教えを支持していました。現代しばしば見られるような主観主義、「反対」、多元主義などは存在しませんでした。何でも批判し、しばしば信徒を誤りに導き、驚かせ、困らせる聖職者の組織だったグループなどもありませんでした。もし、わたしたちが、人工妊娠中絶と218条(人工妊娠中絶に一定の制限を加えているドイツの法律)の諸問題を解決する緊急の必要性を理解したければ、公会議後のこれらの悲しむべき発展を考慮に入れなければなりません。

ドイツ司教団の左傾化

ワイマール共和国時代から、218条に変更を加えようとする社会民主党の提案による動きが既に存在したことを、わたしたちは記憶に止めなければなりません。ワイマール共和国帝政議会内で常時、変更のために動いたにもかかわらず、一度も過半数を味方に付け得なかったのは、ドイツ帝国代議員、プロシア検事総長、社会民主党の刑法学者、ハイデルベルグのラトブルック教授でした。

国家社会主義者たちがユダヤ人、ジプシー、精神病者、政府批判分子を何百万人も虐殺した後だというのに、なぜ、218条の変更が議会の障壁を、いとも簡単に越えることができたのでしょうか。既存の218条は、1976年6月21日、緩やかというより、むしろ、どのような場合の人工妊娠中絶でも合法化してしまう218条に取って代わられました。また、同様な法律改編が、なぜ、フランスとかイタリアのようなローマ・カトリック諸国でも起こり得たのでしょうか。わたしたちは、カトリック教会自体の内部に変化があったという結論に行き着いてしまいます — その変化というのは" apertura a sinistra" つまり、現代の解放に対する傾向に迎合する左翼運動に他なりません。それは、人間を全ての責務、全ての道徳的義務、そして神に対するどのような形の信仰からさえも、完全に解放すると主張する文化革命の目的、最終的にはその結果に他なりません。人間の「解放」をもたらすと称するこの運動は、過去二十年にわたって進行してきていました。教皇ピオ十二世から教皇ヨハネ・パウロ二世に到るまで、全ての教皇が教会の正統的教義を力強く守り、「伝承されてきたものは何一つ変更されてはならない」という教皇に関する教義に忠実であり続けたことには疑いの余地がありません。しかし、問題は、カトリック教会が全体としてどのように振る舞ってきたかです。

ドイツ司教協議会「ケーニッヒシュタイン宣言」に同意

ドイツの司教協議会が度々示したように、司教たちは人工妊娠中絶を拒否するという点では、おそらく一致していたでしょう。不孝なことに、何人かの神学教授たちは誤った考え方をするようになっていました。さらには、産児制限に関する意見には、余りにも開きが大きすぎて、ドイツ司教協議会は「ケーニッヒシュタイン宣言」で回勅『フマネ・ヴィテ』について、修正意見を採用しました。この1968年の宣言は、回勅『フマネ・ヴィテ』に対する致命的な不同意でした。最終的には、たった一票の差で産児制限に関する決定は、それぞれの夫婦に任せるということになりました。これがヴュルツブルグ全国司教会議の決定ですが、それは教皇の教えとは異なっています。

反乱神学者ベックルとラーナー

第二バチカン公会議後、Frankfurter Allgemeine Zeitung fur Deutschlandは、ボン在住の倫理学博士フランツ・ベックル教授の評論に紙面一面を費やしました。その内容は、多元的社会にあって、教会の教義に基づいた道徳規準を導入する責任が政府にあるのか、また、あるとすれば、どの程度までその責任があるのかを論じたものでした。ベックル教授は、その国民の間に異なる態度と信条があるとき、この責任を政府が果たすには無理があると、強く主張しました。218条の改変についての議論が既に始まっていたところでしたから、わたしには、不吉な出来事が到来するのではないかという悪い予感がしたものです。以前の218条を常に目の敵にしていた勢力は、好機到来、今こそ勝利のチャンスとばかり、その改変をたくらみました。彼等は、ドイツ知識人がこの点で一致していなかったことを幸い、実に巧妙に、人工妊娠中絶の合法化を議会に提出しました。

218条の件で最先頭に立って旗を振っていたイエズス会のカール・ラーナー博士は、Naturvissenschaft und Theologie誌(brochure 11, p.86, 1970)に、次のような一文を寄せていました。「わたしの意見では、人間化以前に、いくつかの生物学的発展段階があると思います。しかし、これらの発展段階は、人間になる方向に向けられたものです。これらの発展段階をなぜ系統発生学から存在論的発生学に移行させることができないのでしょうか」これを読みながら、わたしは、現代もっとも高名な教会史博士ヒューベルト・イェディン教授の「教会の危機は司教の危機であり、聖職者の危機である」という言葉を思い出していました。ラーナー教授に反論して、フライブルグ大学病理学研究所の元所長E・ビュッヒナー教授は" Wann entsteht der Mensch?" 「人間はどの時点から人間か」という評論で、このような説が、何年も前から生物学者に支持されてきたとしても、わたしはこの仮説を「支持できない」と反論しました(Rheinischer Merkur, No. 7, 2,1973。出版社Rheinischer Merkurから特別発行版として入手可能)。

イエズス会のオズヴァルト・フォン・ネル—ブロイヌング教授はStimmen der Zeit誌(Vol 190, p.172, 1972)に次のように書いています。「(多くの医師と人類学者たちから)子宮内で育つものが…例えば、最初の3ヶ月の期間…本当に人間であるかどうかは、ますます疑問視されるようになっています」これを評して、ビュッヒナー教授は「オズヴァルト・フォン・ネル—ブロイヌング教授は、今、議論が進行中なのに、どのようにしてこの発言の責任を取るつもりなのでしょう」と、反論しました。

ネル—ブロイヌング教授に公平でありたいので、わたしは、彼が1975年にはその発言を取り消したことを追記しなければなりません。それにもかかわらず、ラーナーとネル—ブロイヌング神父を始め、高名なカトリック神学教授たちが、なぜ、218条の改変にかかわる論議に巻き込まれねばならなかったのでしょう。彼等は、科学的に不正確なだけでなく、カトリック教会の伝統的教義に真っ向から反する意見を支持し、発表したのです。公会議以前であれば、このような行為は、カトリック教会の神学教授、ましてやイエズス会士にとっては、考えることさえできなかったはずです。

人工妊娠中絶 — 人類の悲劇

1976年6月21日、ゆるやかになった新しい218条が発効したとき、わたしは非常に心配したものです。わたしは、急増が見込まれる人工妊娠中絶やその他の不幸な諸展開を心配して、ある聖職者とこの件に関して話し合おうとしました。しかし、彼は、神学が公会議後どのように発展するかに心を奪われてしまっていて、単に、次のように答えてくれたものです。「過去数年にわたる神学的研究の結果、現代、人工避妊ピルの使用を認めることができるようになりましたよ。神学の研究は、人工妊娠中絶すら、ある一定の時期までなら、そしてある特定のケースであれば、合法化することにも成功するでしょうよ」

こういう状態ですから、家庭の年であるというのに、わたしの同国人が「もし、既に二人子供がいるのであれば、人工妊娠中絶の出番ですよ。インドと中国は人口過剰じゃないですか」という発言をしたとしても驚くには当たりません。これにはどう答えればいいのでしょうか。答えは申命記8・11〜20にあります。

わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい。あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない渇いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。もしあなたが、あなたの神、主を忘れて他の神々に従い、それに仕えて、ひれ伏すようなことがあれば、わたしは、今日、あなたたちに証言する。あなたたちは必ず滅びる。主があなたたちの前から滅ぼされた国々と同じように、あなたたちも、あなたたちの神、主の御声に聞き従わないがゆえに、滅び去る。

人工妊娠中絶がわたしたちをどこに導くかについて、わたしたちは、今、旧約聖書の言葉を読みました。人工妊娠中絶をするように説得するもの、それに同意するもの、それを望むものが、幸せになれないことは、長い経験からはっきりしています。人工妊娠中絶の結果被る心と体への損傷に苦しむ人の割合は、35%にも及びます。よくある後遺症は、女性生殖諸器官の慢性的炎症の結果起こる永続的不妊症です。人工妊娠中絶は、例外なく、生理的には完全に自然な現象である出産以上に、健康に害を及ぼします。自然に反することは常に不健康であるというのに、なぜ、人工妊娠中絶だけが例外であると考えられるのでしょうか。

以上、わたしは、主に人工妊娠中絶について話してきました。間違いなく、これは現代最大の不幸に他なりません。第二の大きな不幸は、間違った産児制限、特に、人工妊娠中絶作用のある、いわゆる排卵抑制剤と避妊リングの使用です。第三の大きな不幸が不妊手術です。

ピル — 人工妊娠中絶促進剤

第二バチカン公会議の期間中に新しく開発された、いわゆる、排卵抑制剤に関する諸問題は、緊急に解決される必要がありました。ピルの開発者、生みの親は、グレゴリー・ピンカス(1967年死去)という人物です。彼は、この新しい革命的な産児制限法が、それ以前のいろいろな方法より安全になりさえすれば、間違いなく世に受け入れられるであろうと考えていました。意識的か、無意識的かは分かりませんが、そのためか、彼は、その初期、ホルモン処方に当たって、もっと高濃度、もっと長期にわたって効力を保つ分量を使用していました。使用されたホルモンは、ゲスタゲン(合成黄体ホルモン)とエストロゲン(合成小胞ホルモン)でした。間もなく、投薬量を増やした結果として、ある種の欠点、不具合、健康を損なう危険性が発見されました。もっとも頻度の高かった後遺症群は血栓症、塞栓症、脳卒中、心臓麻痺、肝臓障害、偏頭痛、うつ病などでした。

ピルのその他の副作用もすぐに観察されるようになりました。1967年、アメリカの研究者たち(ゴールドツィーハー、ミアス、グアル)は、いわゆる排卵抑制剤は、決められたとおり正確に服用されても、実は、排卵を抑制しなかったケースが7%にもなることを突き止めました。つまり、ピルは、受精を防止することができなかったのです。ゲッティンゲンのエリック・ブレッシュミット博士が、人間の受精卵について徹底的に行った研究の中で指摘したように、人間の生命は受精の瞬間に始まります。ピルには、始まったばかりの人間生命を殺してしまう可能性があります。ピルは、着床を妨げることが可能です。その結果、この人間の生命は受精の後、排除され、破壊されてしまいます。「着床の妨害は早期の人工妊娠中絶である」これが、1976年9月、マインツのF・ペーターゾン教授が執筆し、同博士が当時会長であったGesellschaft gegen Nidations­ hemmung(着床妨害反対協会)が頒布したチラシのタイトルです。

ピルが着床を妨害する傾向は、回勅『フマネ・ヴィテ』が出された前年1967年には、すでに知られていました。わたし自身は、世界最大のホルモン製造を誇る(株)シェリングの幹部からそのことを耳にしていました。当時、ヨーロッパで、多くの研究者が、その事実を確認しています。ですから疑いなく、ドイツの倫理神学者の中の何人かはそのことを承知していたはずです。1967年、わたしも含めて、多くの医師たちは既に初期の人工妊娠中絶の可能性があることから、ピルについて道徳的疑問の声をあげていました。

いわゆる排卵抑制剤には、どれを取ってみても、数々の有害な副作用があるので、過去数年間の傾向は、ホルモン含有量を最小限に押さえたピルの開発ということでした。確かに、この種のピルには母胎に対する副作用が少なくなっています。しかし、これはより頻繁に受精卵の着床を妨げるので、より多くの早期人工妊娠中絶の原因となります。この問題に関しては、1976年6月18〜23日、ミネソタ州カレッジヴィル、セント・ジョン大学のヒューマン・ライフ・センターで開催されたNFP国際シンポジウムで、当時、セント・ルイス大学で婦人科の教授であったトマス・ヒルガー博士の発表があります。博士によると、ピルは本来なら排卵を抑制できるはずでしたが、ホルモン含有量が少なくなってしまった後、ピルが抑制する排卵のケースは50%台に下がりました。もし、子宮頸部粘液に対するホルモンの影響が精子の移動を妨げるために不十分であれば、子宮内壁の変化が着床を妨害してしまうであろうことを認めなければならない、博士はこう発表しました。ヒルガー博士は、続いて、これらの基礎的事実は、当然、倫理的意味合いを持ってくるし、同じことは、着床の妨害によって産児制限を狙う避妊リングにも当てはまると説明しました。わたしは、ドイツの倫理神学教授たちが、なぜ、良心のとがめを感じることを認めようとしないのか、釈明を求めなければなりません。

新薬 — 人工避妊剤RU38486

1982年4月、ある日刊新聞は、喜ばしい論調で、フランスの婦人科医がほぼ100%の確率で人工妊娠中絶を引き起こすピルを開発したことを伝えました。初期、つまり、60年代は、ホルモン投与が着床を妨害できる可能性は7%でした。70年代になるとその可能性は50%になりました。そして今や可能性は100%になったというのです。そして、その偉業がわずか15年で達成されたと報道していました。「悪行の呪いはそれが絶えず新しい悪を生み続けるということです」

最新のピルはミッテラン政権のもとで国有化されつつあるフランスのルッセル・ユクラフ社が製造しています。同社はドイツのヘフスト社の関連会社でした。このピルの影響は反プロゲステロンと呼べます。RU38486Kの暗号名で知られたこの新しい物質は、特別なプロゲステロン受容器官にプロゲステロンの5倍もの親和性でもって付着します。プロゲステロン、つまり、自然が提供する黄体ホルモンは、初期のヒト受精卵が子宮壁に着床し、そこからさらに発達するための養分を摂取することを可能にします。母親がRU38486を服用すると、胎内の若い人間の生命、受精卵は着床できなくなるか、たとえ着床できたとしても、子宮内壁に「巣」を造り、そこに留まることが不可能になります。どちらに転んでも、受精卵は排除され、生理が再開します。

RU38486は、以前のピルのように、常用するものではなく、生理がないときだけ服用します。つまり、受精の可能性があるときにだけ使用します。RU38486はその諸受容器官でプロゲステロンに取って代わるわけですから、開発者が誇るように、100%、人工妊娠中絶をもたらします。三日間毎日、RU38486を50㎎服用すると、48時間以内に生理は再会します。この人工妊娠中絶促進薬は、例えば、6〜8週間という妊娠後期の女性たちにも服用されてきました。11件の中9件で「流産」の結果がでました。妊娠した女性を対象にしたこの実験は、今年(1982)ジュネーヴ地方の病院で、医学博士ウォルター・ヘルマン教授の監督下で実施されました。女性にとっての好ましくない副作用もしくは健康に害があるような結果があったかどうかについては、まだ調査されていません。

ルッセル・ユクラフ社は3、4年内に製造法が進歩して、この化合物の商品化が可能であると見ています。WHO(世界保健機構)とロックフェラー財団はRU38486の研究にかかる費用のほとんど全額を負担することになっています。ただし、完成の暁には、ルッセル・ユクラフ社が自分たちに、最低の値段つまりほとんど原価で、製品を引き渡すことになっています。彼等の計画は、この化合物を未発展諸国で使用することに他なりません。

RU38486は、いわゆる無害な「反赤ちゃんピル」によって引き起こされる人工妊娠中絶を通じて、人類滅亡の可能性を高めます。(" die anti­ Baby Pille" 反赤ちゃんピルという無神経な言い回しは、標準的なドイツ語です。" die anti­ Baby Condum" 反赤ちゃんコンドームという言い方もあります。)1967年、様子を窺いながら登場したものが、今や絶対的現実になってしまいました。つまり、最早、ホルモンによる人工避妊と人工妊娠中絶の区別が消え失せてしまったのです。アメリカ人が" do­ it­ yourself" の人工妊娠中絶と呼んでいるRU38486が、将来は、標準的人工妊娠中絶法になるであろうと思われると言っても過言ではありません。

この新しい方法によって人間は、全ての義務から、一見、自由になります。また、神の掟からも解放されるようにみえます。受精の後、女性は、望みのまま、外部の助けを借りず、いつでも妊娠から逃れることができるようになります。婦人科の医師もほとんど不要になります。考えるだけでも恐ろしいことではありませんか。それは、予見すらできない結果を伴う犯罪に他なりません。人間が自分の行為の裁判官、全ての人間の生命の主人になってしまうのです。メディアの一部と共に浮かれることなどとんでもないことです。人間が自分の墓穴を掘り、自分の滅亡を計画することになりますから。

 

回勅『フマネ・ヴィテ』に対する反対の嵐

教皇パウロ六世は、公会議の決議に従って、人工避妊、特に、ピルによって促進される人工避妊の問題と取り組まなければなりませんでした。教皇は、文献に現れた全ての調査結果を細かく調べ、世界中の数多くの専門家たちの意見に耳を傾けました。その時点では、まだ、いわゆる排卵抑制剤の影響が、まだ十分に知られていなかったので、教皇に任命された神学者たちの委員会も結論に達することができず、問題を含んだ「多数」意見を答申しました。教皇の医学顧問たちは、教皇に、最大級の注意を払うよう忠告し、委員会によるピル容認の答申は拒絶するよう勧告しました。

長いこと待たれた回勅『フマネ・ヴィテ』の発表から一週間もたたない中に、教皇は、教話の中で、自分の良心の命ずるところについて、次のように話されました。「今回のように、全ての人々に仕える自分の義務の重みを、厳しく感じたことはありませんでした…実に、皆さんに、特に結婚しているキリスト信者の皆さんに — わたしの言葉は厳し過ぎて実行が困難であると感じるかもしれませんが — キリスト教の信仰に対する忠実のみが、このはっきりした厳しさを打ち出させたことを、理解していただきたいと思います」教皇は、世界中のキリスト信者でない複数の医師を含む多くの医師たちから、教会が、ピルに対して寛容な態度をとることについての不安を訴える声があったこと、彼等の不安を無視する決定を下せなかったことを話されました。

ジークフリート・エルンスト博士ピルに抗議

医師たちの不安の一例を挙げると、1964年6月、" Ulmer Denkschrift" 「ウルム・メモランダム」として話題になった「反赤ちゃん」ピルの広告に対する医師たちの抗議が発表されました。このメモランダムに署名したのは、400人の医師、45人の教授(その内25人は婦人科医)でした。その中には、フライブルグ、ハイデルベルグ、チュービンゲン各大学付属婦人科クリニックの所長が含まれます。真っ先に署名したのはステュットガルト在住の医師であり、名誉神学博士でもあった故ハンス・ノイファー教授でした。彼はテュービンゲン大学の名誉議員、連邦医学協会とドイツ医学会議の名誉会長も務めていました。このメモランダムは、主に、ドイツ語圏ヨーロッパ医師協会の初代会長であった、わたしの同僚ジークフリート・エルンスト博士の提案で実現し、発表にこぎ着けたものです。

ウルム・メモランダム、「反赤ちゃんピルの普及に反対する医師たちの抗議」は、人工避妊といわゆる排卵抑制剤使用に関係する産児制限の全ての面に関するものでした。そのほとんど全ての考察と憂慮は、その後、世界的な進展の中で杞憂でなかったことが、確認されました。教皇が、ローマで回勅『フマネ・ヴィテ』の構想を練っていたとき、このメモランダムの影響力が無かったわけがないと、推定できます。

ウルム・メモランダムが世界中で尊敬を勝ち取ったにもかかわらず、ドイツ国内ではよく理解されず、もっと支持と支援が期待されてもよかったカトリック信者たちからさえもあまり読まれなかったことが、やがて明らかになってきました。司教たちは、その配下の全司祭にこの情報を徹底することができたはずです。そのかわりに、メモランダムは、Aktion Sorge um Deutschland(緊急事態のドイツのための行動)によって、いくつかの版にわたって「文書No.1」というタイトルで日の目を見ました。この雑誌はダルムシュタット—エーベルシュタットのマリア姉妹会というプロテスタント修道女会に支持されています。その正反対に、1970年5月13日、いわゆる多数意見を上程した際に一役買った教皇の神学委員会に属するアウエル博士は、次のような感想を発表しています。「医師たちの行動グループがあのモットー(回勅『フマネ・ヴィテ』を援護して)のもとに集まることには問題が多く、不幸なことでさえあります…医師たちが教皇の諸回勅を援護するなどもってのほかです。反対に、彼等がなすべきことは、その知識を総動員して、全力で、社会の討論に加わることではありませんか」これほどの反対運動は、ラテン・アメリカ、アングロ・サクソン系諸国、第三世界では起こっていませんでした。回勅のもっとも手強い敵は、倫理神学者たちとその弟子たちでした。さらに、ドイツの司教協議会が発したケーニッヒシュタイン宣言は、全てをまったく自分たちの主観的判断に任せていました。抵抗がなかったわけではなく、ヴュルツブルグ教会会議(1971〜73)は、不幸なことに教会の教義に反抗して、各夫婦に自分たちの産児制限法を選択する決定権が与えられるべきであるという倫理神学者ベックルの提案を、たった一票の差の賛成多数で決定したのです。その教会会議当時、ピルと避妊リングが受精卵の着床を妨害する人工妊娠中絶促進作用が、既に明らかになっていたにもかかわらずにです。残念なことでした。

ドイツは回勅『フマネ・ヴィテ』を拒絶

ですから、夫婦の緊密な関係にかかわり、時として緊急を要する決定を左右するこのような重要な問題において、多くのカトリック、その他のドイツ人夫婦が、望んでもいない副作用について知ろうともせずに、もっとも抵抗の少ない道であるピル使用に走ったとしても、それは驚くべきことでしょうか。危険な副作用に関して、メディアは当時から今に至るまで、大したことはないという扱いをし続けています。教会がこの点を明確に説明しなかったことは重大な怠慢というほかありません。以前は、ある特定の主日に、結婚した人々のために、結婚についての教書が読み上げられたものでした。このしきたりがもはや無くなってしまったことを、多くの信徒たちが指摘しています。ドイツの司教たちは、この主題に関してもはや何も語るべきことを持たないのでしょうか。それとも、ある偏見に満ちた倫理神学者たちが、教える権威は自分たちの方にあると信じているのでしょうか。

回勅『フマネ・ヴィテ』にある人工的産児制限法の明白な禁止は、ローマ・カトリック教会だけの教えではありません。それは聖書の教えそのものです。また、プロテスタントが、この伝統から段階的に離れ始めた今世紀初頭に到るまで、それが、全キリスト教諸派の一致した宗教的伝統でした。偉大な二人のプロテスタント神学者、テュービンゲンのアドルフ・シュラッターとカール・ハイムが、1929年と1956年発行の共著Die Christliche Ethik(キリスト教倫理)で述べているように、ドイツのプロテスタント共同体も、1927年まではどのような形の人工的産児制限も退けていました。この禁止はユダヤ教徒、回教徒、特に東方教会の信徒によって遵守されていました。

『フマネ・ヴィテ』拒絶とその不吉な結果

私たちを驚かせ、不安に陥れたこの嘆かわしい展開の諸帰結は、今日ますますはっきりその全貌を表してきました。1972年以来、ドイツの出生率は死亡率を下回っています。ドイツの人口が減少しつつあるのです。ドイツ人は世界中のどの民族も追い抜いて、またもや世界一になりました。子供の数が世界のどの国よりも少ないのです。わたしたちは子供の数が0もしくは一人っ子家庭のゴールを達成しました。同時に、わたしたちの国で働いている外国、主に、トルコからの労働者のほぼ全ての家庭には、大勢子供が産まれています。多くの町で小学一年生の半数は外国人の子供たちです。この展開を見るとき、20年後に引退する現在40歳代の人たちの年金を誰が払ってくれるのか、気になるところです。ドイツ経済研究所の予測では、2000年以前に何か大きな変化が起きなければ、ドイツの人口は600万人減少し、その過半数が老人という事態になります。

現在の傾向をコンピュータに入力して予測すると、100年後には、現在わたしたちがドイツ人として理解しているようなドイツ人は一人もいなくなるということになります。わたしたちは幼稚園と小学校その他の学校の閉鎖、少なくとも、学級数減という事態に慣れなければならないでしょう。教師は職を失い、小児科医と小児科病院の需要は減少の一途を辿るでしょう。ステュットガルトに限っていえば、既に、いくつかのよく知られた小児科クリニックは閉鎖に追い込まれています。婦人科クリニックの産科病棟は、既に、減少しつつあります。また、いくつかの産科病棟は、完全閉鎖されました。この展開は、ドイツ経済がかかえる非常に深刻な問題をはっきり示しています。消費者と熟練労働者の損失のため、人的経済的資源の大規模な衰退が心配されます。悲観的な人たちは、すでにドイツ経済が崩壊しつつあると信じています。

ヨーロッパ・その他の地域での出生率低下

世界最貧国の出生率は、ドイツの5倍にもなります。現在、世界の全ての子供の5人中4人は発展途上国で生まれています。人類と教会の将来は、わたしたちでなく彼等にかかっています。次の世紀、第三世界の人口が先進国にもたらす圧力は、劇的に増加するはずです。その原因は、もちろん、二つのグループに属する諸国の出生率の差がますます開いてしまうことにあります。国連の最新予測によれば、先進国の人口は、次の世紀の半ばまで徐々に減少しますが、第三世界の人口増加は21世紀の終わりにならないと止まらないといわれます。従って、世界人口に占める先進国の人口比は、23%から13%への低下が見込まれます。人口減の最先端を突っ走っているのがドイツです。ドイツの出生率が、これ以上低下しないとしても、2050年に予測されるドイツの人口は、現在のメキシコ・シティー(1500万)とサン・パウロ(1350万)を合わせた、わずか2850万人ということになります。

以下は、最高出生率と最低出生率それぞれ5ヶ国の表です(1000人に対する出生数)。

高出生率の国 低出生率の国
ニジェール 51.4 ドイツ 9.8
マラウィ 51.1 スイス 11.5
マラウィ 50.8 スウェーデン 11.8
エチオピア 49.9 大英帝国 12.0
ナイジェリア  49.8 デンマーク 12.5

出生率低下がドイツ教会にどのような影響をもたらしているかを見てみましょう。わたしは、ヴルテンベルグの低地にある、元々ドイツ騎士団の管轄下にあった三つの小教区の洗礼統計から正確な数字を挙げることができます。三者とも第二次世界大戦までは、ほぼ独立したカトリック小教区でした。ロッテンブルグ—ステュットガルト司教区の、以前ドイツ騎士団が管轄していたその他全ての小教区と同様、皆、非常にしっかりした小教区という評判のある小教区でした。どの小教区にも大勢の子供がいて、聖職者、修道志願者も、同様に、数多くいることで知られていました。以下に、これら小教区の洗礼数の表を掲載します。

1951 1961 1976
小教区 A 33 37 17
小教区 B 54 62 13
小教区 C 57 63 22


幼児洗礼の減少

これらの統計が不吉なものとしてわたしの目に映るのは、人口自体が減少していないからです。それどころか、1960以来、どの小教区を取ってみても所帯数は急増しています。さらには、1951年、1961年にはまだ移住して来ていなかった地中海地方からの移民が、今はそこに住んでいます。これらの移民が人口の出生・洗礼の減少をある程度食い止めていることは大いに考えられます。

上記の表に現れた三小教区の洗礼数の変化から、読者にもはっきり分かってもらえたことと思いますが、出生率低下は、正にピルの普及と共に始まっています。その地方の助産婦がこの事実を確認することができます。実は、このような現象はだれもが知っていることで、新聞などでは、よく「ピル曲線」という表現が使用されます。ピル曲線は、教会の次世代にも影響を及ぼします。つまり、献金は言うに及ばす、聖職者、修道志願者が減少することは明らかです。新しい教会を建てる必要はなくなり、既存の建物を維持して行くだけで満足しなければならないでしょう。

ウルム・メモランダムが、1961年、ピルに関して予言したことは一つ残らず実現しています。危険なほどの出生率低下、社会の不道徳化、ポルノの堂々たる宣伝と公共の場でのヌード、倫理的価値観皆無の性教育、尊敬心の欠落、聖職者の独身制度への嘲笑、その結果として司祭・修道者の持つ社会的影響の失墜、召命の減少、婚前・婚外セックスの蔓延、離婚と人工妊娠中絶の増加 — 全体的に見て、前代未聞の世界的な道徳的・知的汚染、これは、正しく、レーニンが世界制覇を夢見ていた当時から、東側が望み続けている文化革命に他なりません。

 

ケーニッヒシュタイン宣言はスキャンダル

神学者たちが回勅『フマネ・ヴィテ』を罵倒、嘲笑したにもかかわらず、この回勅が正しかったことは、人工的・不自然な産児制限、特に、ピルと避妊リングに頼る産児制限が世界的にもたらした悪い結果によって、証明済みです。歴史が、教皇パウロ六世を預言者的教皇として記録に残すであろうことは、間違いありません。ドイツの司教協議会が公式かつ公に回勅『フマネ・ヴィテ』の権威を認め、ケーニッヒシュタイン宣言の中に見られるような、回勅を修正する発言を撤回するする時期はすでに来ています。同じ事情を抱えていたオーストリア司教団も、何年か前、勇敢にも、恥を忍んでそうしました。

ドイツ司教団がケーニッヒシュタイン宣言に同意したのは浅はかでした。この文書で、回勅『フマネ・ヴィテ』の反対者たちは、結婚行為の中で愛を示し、強めるためにピルが必要であると主張したのです。これは産児制限に関する教皇委員会の「多数意見」でもありました。しかし、ピルと避妊リングによる産児制限は、彼等が主張した実りをもたらしませんでした。乱交と離婚は、世界中に蔓延し、アメリカでは二組の結婚の中一組は離婚に追い込まれます。英国での統計も、これとほとんど変わりません。ここ、中央ヨーロッパでも離婚率は急上昇しています。どこを見ても、宗教生活、ミサ出席は危険なほど低下しています。これらの現象には、多くの原因があるのかもしれません。しかし、主な理由は、人々の生活の中に見られる性的放縦の影響に他なりません。

男性の立場から見ると、ピルと避妊リングがあれば、女性はいつでも利用可能になります。多くの場合、こういうことは、女性を男性の欲望の対象に貶めることになってしまいます。女性が、常時、利用可能になれば、男女間に存在する性の衝動に不可欠なサスペンスが弱まります。常時入手可能なものは、時が経つにつれて価値を失ってしまいます。ラインランドの幸福かつ愉快な人々の間には「しばしの別離は愛の冠」という格言があります。社会学のフランクフルト学派創立者マックス・ホルクハイマー教授が1970年以下の文を書きました。「ピルの代価は男女の性愛の終わり」「ピルはロメオとジュリエットを博物館送りにしてしまう」「わたしたちはこの進歩(ピル)に代価を払わねばなりません。その代価は最終的に愛の終わりに行き着く、欲望の急速な低下に他なりません」

浅薄な「新道徳」と決別する必要

わたしたちは、どのようにして、小さな尺度で見るとそれぞれの教会、大きな尺度で見ると全教会の未来を確保できるのでしょうか。一つの公式、一つの道しかありません。それは、わたしたちが、この浅薄な「新道徳」を捨て、創造の業の中にはっきり示された神の秩序に向き直ることです。人間中心の「新道徳」から、神中心の道徳に切り替えることです。ロマノ・グワルディーニは、1940年、Die Offenbarung(啓示)を書いたとき、その著作の第二、三部で新・旧約聖書の中での啓示を描写するに先だって、世界の存在を通しての啓示について語っています。これはわたしたちにとっていい模範になります。人間が知性と経験だけに頼って行動できるようになると信じるのは間違いです。

経験が人間に道徳法を教えるのではない

このように信じようとすれば、わたしたちにとって必要になるのは、まったく偽りの人間観でしょう。自然の法は人間に与えられるものです。人は自分の利益のためにもそれを受け入れなければなりません。「この世界は、もっとも深遠な法と生命への諸権利を基本的に尊敬することが、同時に、自己保存のためにも最善の道であるようになっています。最後の責任ある問いは、いかにしてわたしが英雄的にこの事態から抜け出せるかでなく、いかにして将来の世代が生き残るかということです」これは、ディートリッヒ・ボンヘッファーの言葉です。彼は、高名な神学者であり、第二次世界大戦中ドイツ反体制派の一人でした。彼がヒットラーによって処刑されたことはご存じのはずです。

ですから、ヨハンネス・グリュンデル教授が評論" Die Erfahrung als Grundlage einer christlichen Ehe moral?" (Neue Gesprache, 7/8, 1977)の中で「現代、(人間の)経験には、道徳規準の価値を発見し、確立するために決定的影響力が与えられている」と書いていることを鵜呑みにするのは、間違っているだけでなく、危険極まりありません。このような意見には断固として反対する必要があります。人間に読み書きの能力が備わるずっと以前から、否、もっと遡って、その発達の原始的段階から、自然の法は、現代と全く同じ拘束力を持っていました。もし人がこの法に自分を合わせれば、万事うまく行きました。もしこの法への従順を拒否すれば、損をするのは自分自身でした。「神の知恵は、この世の全てよりはるかに永遠の昔から存在するのです」

グリュンデルの発言は、少なくとも、公会議に引き続くドイツ語圏倫理神学の立場を反映するものです。わたしを含めて、世界中の多くの医師たちは、ことに、過去わずか何十年かの間に人間生物学の分野でなされた膨大な諸発見のために、彼の立場は過ちであり、危険であると考えます。1975年3月19日、ロマノ・グァルディーニ賞を受賞した際発表された、ビュックナーの著作" Leib und Verleblichung in Biologie und Pathologie" (生物学と病理学における身体とその成長)(Therapie und Gegenwart 114号、特別版)の中から、わたしは次の文章を見つけだしました。「2300年以上も前に、アリストテレスは、動物の有機体の振る舞いと発達の構成要素の観察から、人間と動物は、その発達とその全存在において、その有機体の構造と機能のデザインについて正確な知識を持つ、不可視の生命力によって規定されていると結論づけました」600年前、トマス・アクイナスも同じことを教えました。今世紀になってからは、ドゥリーシュとミュンヘンのコンラッド—マルチウスがこの説を新たにしています。しかし、20年前から、わたしたちは、その生命力が染色体の中に秘められていることを知るようになりました。DNAの染色体コードは、受精卵と成長を遂げた有機体の代謝、組織、機能的計画を内在させています。DNAコードは、細胞の原形質の中の伝令役の物質を確保して、蛋白質合成のために、それぞれを正しく機能させます。このような過程を経て、遺伝子は、常時、その形の一定性を保ちます。

ピルと避妊リングの着床妨害効果

上記を長々と引用するのは、実際の内容と自然の法の教えの永続性が、古代から中世期を経て現代に到るまで、批判に耐え続けてきたことを示したかったからです。この永続性は、今日、もはや適用されていないのでしょうか。公会議後の神学における傾向は、人間中心主義的な理由から、このような教えから縁を切らなければいけないと信じることのようです。ですから、ピルと避妊リングの持つ着床妨害効果は、産児制限に関するあらゆる議論から閉め出されてしまいます。聖職者にも — 特に、普通の信徒でない — 神学研究者たちにも、知識が不足しています。ミズーリ州・セント・ルイス大学婦人科の元教授トマス・ヒルガー博士は、1976年6月、今日、主に使用されているより少量のホルモンを含む産児制限ピルを使用するとき、一回の生理周期中に排卵が抑制される(つまり一時的不妊化される)率は、たった50%の場合だけ、つまり、ピルが作用するのは、子宮頸部粘液の粘度の増加(人工避妊)もしくは着床の妨害または中断(初期人工妊娠中絶)によることを暴露しました。マインツにあるGesellschaft gegen Nidationshemmung(着床妨害反対協会)の会長、医学博士ペーターゾン教授は、この情報を発表しており、それは結婚講座、聖職者の高等教育講座、神学者たちの研究センターなどのように当然あるべきところに、出回っています。マインツ大学の医学試験官ペーターゾン博士は、もし自分がその必要性について確信がなかったら、着床妨害に反対する教育運動にかかわることによって、公の批判を自分に招くようなことをしないはずです。人間の生命は、父親の精子が母親の卵子と合体するとき — 受精の瞬間 — に始まります。今日、細胞生物学のもっとも進んだ研究からわたしたちが知り得たことからして、この主張に議論の余地はありません。着床をどんな形で妨害しても、それは一人一人の人間生命の不可侵性と聖性を守る、基本的倫理基準に逆らっています。

ラーナーの説く「人間化」の謬説

人間には魂が徐々に与えられるという仮説は、論理という点から考えても、わたしには、とんでもない間違いであるように思えます。 — だからこそ、わたしは繰り返します — ドイツ語圏でもっとも影響力ある神学者カール・ラーナー教授S.J.がこのような考え方を是認することは不可解です。彼はQuestiones Disputatae 12/13,1965、Naturwissenschaft und Theologie 11,1970に掲載の評論" Das Problem der Hominisation" (人間化の問題)でこのような考えを支持しました。

ゲッチンゲンの医学博士エリック・ブレッシュミッツ教授は、その著書Vom Ei zum Embryo(卵子から受精卵へ)の中で — 人間の魂が徐々に与えられることによってではなく — 「父親の精子が母親の卵子を受精させるその瞬間から一人の人間が存在する」と書いています。

ピルを擁護するドイツの倫理神学者たちは、ラーナーの間違った主張を引き合いに出します。彼等は、人間の魂は、受精の瞬間でなく、もっと後から — ともかく、着床以前でないある時点で — 与えられると信じています。

幸運にも、ロマノ・グァルディーニが、遺伝子コード発見の6年前に当たる1947年、ドイツ神学の名誉と評判を救ってくれていました。彼はFrankfurter Hefte(フランクフルト小誌)に「受精卵の初期、受精後約100日に到るまで、受精卵は、まだ自分の魂を持たず、完全に母胎器官の一部である存在であるといわれていました。ここでいわれる存在が発達の特定の段階に達したとき、初めてその存在になると主張するのは、当然な成り行きでしょう。これを人間の生命にも当てはめようとするのです。しかし、人の変異サイクルは、親たちの細胞の合体で始まり、形態学的完成でその頂点に達し、死に至るまで続くのです。故に、人は受精の瞬間から人なのです」ロマノ・グァルディーニが、このような文を、遺伝子コード解明以前に書けたことは感嘆に値します。遺伝子コードの発見があった今日に至るまで、ドイツの神学者たちが、ラーナーの仮説を信じ続けていることは、わたしの理解を絶します。

ヘーリングの謬説は大きなつまずき

ドイツ倫理神学者バーナード・ヘーリングは、「リズム」法による自然にかなった産児制限は非理性的であり、受け入れることのできない欠点があるという間違った主張をしています。彼は1976年アメリカの神学雑誌Theological Studies(神学研究)1,1976とドイツの神学雑誌Theologie der Gegenwart(現代神学)1,1976でこのような主張をしています。その主張によると、自然にかなった産児制限法の使用は、自発性の流産と奇形児誕生の増加につながるのだそうです。彼は、あたかも、読者に、それ以上の議論をすることは不可能であり、これらのデータはすでに証明済みであるかのように、自説を展開しています。へーリングは自分の主張を裏付けるために、P・ゲレロによる論文を引用します。ゲレロの論文も、回勅『フマネ・ヴィテ』発表の前に、教皇の手元にあったといわれます。

反証として、卒業論文は、普通、学生が書くものであって、最高の信憑性に値しないものであることを申し添えなければなりません。もし、この論文が、極めて重要な新発見に関する発表であったなら、へーリングの目に留まるまで8年もの長い期間はかからなかったはずです。ある種の動物の生殖生理学からのデータを使って、人間に関する結論を得ようとしたことが、ゲレロの間違いでした。Kinderzahl und Liebesehe(子供の数と恋愛結婚)というよく知られた本の著者ヨセフ・レーツァー博士は、パデボルンのBonifatiusdruckerei出版社から1976年1月に刊行された評論" Verantwortete Elternschaft­ Warum sollte die Zeitwahl problematisch sein?" (責任産児 — なぜリズム法がそんなに問題でなければならないのだろうか)の中で次のように書いています。「へーリングは、無批判、不注意、そしてほとんど無責任とさえ思われるやり方で自分の本を書きました」ヘーリングほどの神学者が、なぜ、こんなことをしてしまったのか、驚きを禁じ得ません。付言すれば、彼は医学的データをよく理解せず、正しい解釈をしていません。

ヘーリングのいい加減な主張は、アメリカで手厳しく批判を受けて、退けられました。1976年6月ミネソタ州カレッジヴィルのHuman Life Centerで開催されたNFPシンポジウムは、参加者全員がアメリカ・ヨーロッパ・アジア、アフリカ、オーストラリアからの専門家という高度なものでした。彼等が、全員一致して、ヘーリングの不正確さを攻撃したものです。トマス・ヒルガー博士は、ヘーリングが、ピルと避妊リング使用に関する道徳的疑惑について一言も言及しなかったことを残念がりました。以下は、博士の発言。「不幸にして、これらの方法を使用する女性たちは、それが、人工避妊の問題であると思いこんでいます。しかし、避妊リングの主な作用は、妊娠ごく初期の、もしくはその後に起こる人工妊娠中絶に他なりません。現在使用されているホルモン含有量の低いピルには流産を誘発するおそれがあります」

Human Life Centerの所長ポール・マルクス神父は、この発言にコメントして、次のように述べています。「つまり、ピルと避妊リングは、アメリカ合衆国内だけでも毎年、何百万件もの人工妊娠中絶の原因となっているということです — これは病院とかクリニックで行われる人工妊娠中絶の何倍にもなる数字です」ヘーリングもこのシンポジウムに参加するように招待されていましたが、出席を辞退しました。

アメリカの神学雑誌Theological Studies(1977年1月)は、ヘーリングの不正確な評論に対する反論として、ヒルガースの論説を掲載しました。しかし、それに対応するドイツのTheologie der Gegenwartは、未だに反論を掲載していません。Theologie der Gegenwartの編集陣と大量の通信をやりとりしたあげく、1977年12月22日の最終メモランダムで判明したのは、編集陣の一員としてヘーリングが、ヒルガースの論評の翻訳と掲載に同意しようとしなかったということでした。

しかし、ヘーリングの評論は、ドイツで多くの悪い実を結びました。多くの人々は、自分たちの態度を正当化するために、そのような評論を大歓迎したのです。複数の反論があったことすら問題になりませんでしたし、そのような反論に耳を傾ける人たちもいなかったのです。論争の一方側だけが脚光を浴びたといえるでしょう。ミュンヘンのヨハネス・グリュンデルとかテュービンゲンのヴィルヘルム・コルフのような倫理神学者たちは、それ以上調べることもせず、ヘーリングによる問題だらけの発見を、ひたすら繰り返したものです。グリュンデルはヘーリングの、証明もされていない不正確な主張を、国際的刊行物コンキリウムの中で、自分の論説" Naturgeschichtliche Voraussetzungen sittlichen Handelns" (道徳的行為の前提としての自然史)の中に取り込みました。コンキリウムの編集陣に、この偽説の発表を訂正する可能性について、3回も手紙を送ったのですが、返事はありませんでした。ついには、グリュンデル自身に連絡が付きましたが、彼は(1977年5月27日と10月3日付けの手紙で)訂正を拒みました。コルフも、他の場所でヘーリングの間違いを拡散し続けました。その結果は多くの聖職者たちの動揺です。彼の発表の場となったのは、二、三の例を挙げると、1977年9月バーデンバーデン発行の医学雑誌Herz/ Kreislauf(心臓と循環)、1977年1月ローテンブクグ—ステュットガルト教区アカデミー発行のMaterial Dienst(物的サービス)、1977年9月 Anzeigerr fur die Katholische Geistlichkeit(カトリック聖職者のためのニュースレター)などです。わたしは、一個人としてMaterial Dienstに反論を掲載してくれるように依頼したのですが、同誌は科学雑誌ではないという理由で、拒絶されました。わたしが、ローテンブクグ—ステュットガルト教区の権威筋に苦情を申し立てた結果、ついに、1〜1ページ半のタイプ文書の原稿をローテンブクグ—ステュットガルト教区の司祭評議会の機関誌Informationenに掲載してもらえることになりました。それで、わたしは原稿を締切に間に合うように送ったのですが、宗教的な重大問題にかかわるその投稿は — わたしが予想したとおり — 紙面に現れることがありませんでした。原稿を受け取ったという確認もなければ、不掲載理由の説明もありませんでした。

レーツァー博士ヘーリングの謬説を退ける

ヨセフ・レーツァー博士は、その評論" Verantwortete Elternschaft" の中で「ヘーリングの主張を他の神学者たちが単に繰り返すだけなので、皆さんにお聞きしたいのですが、倫理神学者ヘーリングには、純粋に医学的なことに関しても、これほどの権威をもって不正確な情報を広めることができるほどの資格があるのでしょうか」と、いみじくも書いています。さらに驚くべきことは、それぞれの分野で、十分な資格のある神学の専門家たちが、医学に関しては素人もいいところのヘーリングの素人臭い主張を、しかもこれほど大きな影響力を持つ彼の言い分を、無批判に受け入れていることです。他の点では人気のあるこの人は一体どうなってしまったのでしょうか(永遠の謎)。結婚した普通の人たちが、自分たちと子供たちの行為について不必要な大心配をすることになるというのに、このような教えが、聖職者、倫理神学者、大学教授に備わっているはずの道徳的義務と、果たして両立できるのでしょうか。それとも、信徒によい忠告を与えるはずの聖職者たちは、これほど根拠のない説に目をくらまされたのでしょうか。ですから、信頼に値しないことを倫理神学者たちが書き、彼等がその不正確な意見を、考えもなく拡散するとき、わたしたちは絶望したくなるほど、驚きあきれるのです。ヘーリングの間違いが、もうすでに拡散してしまっているかもしれない場で、適切な訂正がなされるために、公に教える人たちに、わたしたちは公正さを期待します。このような事実誤認と嘘の上に、行為の基礎を置く倫理神学が存在するとすれば、それは惨めなものでしかありません。

最後にもう一つ大事なことが残っています。ヘーリングが、医学データを解釈しようとした試みの不幸さは、同時に、倫理神学が時代遅れにならないように、自然科学におけるその時代の最新の発見を取り入れなければならないと考えた、倫理神学者たちのあるグループの大失敗の典型的な一例ではありませんか。ヘーリングの例は、倫理神学者たちが、独力ではこれらの問題を解決できないことを示していないでしょうか。この分野を専門とする倫理神学者たちは間違った道を突っ走らなかったでしょうか。そして、倫理神学者たちの実際の仕事がもっと他の場所にあるのではないか、という問いが発せられても、いいのではありませんか。

なぜ、わたしが、皆さんにここまで、暴露してしまったのでしょうか。その理由はただ一つ。それは、カトリック教会の中で、第二バチカン公会議が終わって以来、取られてきた進路を、これ以上進み続けることはできないし、また進んではならないということを、皆さんにも確信していただくことに他なりません。もし、わたしたち全員が、キリスト者として、これらの大事な問題で一致できなければ、わたしたちが集まっていることに意味はありません。わたしたちは、再び、同じ言葉を話すことを学ばなければなりません。そして公に、一つのまとまったグループとして、わたしたちはこの一つ信念を唯一のものとして支持しなければなりません。このようにして初めて、わたしたちは人から耳を傾けてもらえるようになり、わたしたちの立場の正当さを、再び、信じてもらえるようになるでしょう。ローマであった先回の司教会議は、このことを印象的に証明しました。しかし、不幸なことに、一つだけ例外がありました。ドイツ人のカトリック家庭連盟会長が、直ちに、公に、しかも、根拠のない批判でもって、司教たちの決議を拒絶したのです。カトリック女性連盟(アメリカのカトリック女性連盟とは異なる)もこれに同調しました。こういうことがあってはなりません。

「神の恵みがあれば、全てよし」

さて、そろそろ、わたしの元々の主題に立ち返りましょう。わたしたちドイツ人とドイツの教会に未来はあるのでしょうか。わたしはこの質問には、条件付きで、肯定的に答えたいと思います。神の祝福を大事にする教会共同体は生き残ることができます。「神の恵みがあれば、全てよし」という格言は、昔、小学校のどの初等読本にも見られたものです。世俗化した現代の教科書に、この格言を見いだすことは、もうできません。しかし、この格言は、今日生きているわたしたち全員にとって真実です。全般的な出生率低下にもかかわらず、ある共同体には、このような現象が全く見あたりません。自然法によっても啓示される神の意志と秩序に従って生活しようとする人たちに、神の祝福は、豊かに下ります。ボックムにあるルール大学で教えていたエルメッケ教授は、このことに関して、次のようにいっています。「人間の研究が全ての道徳と倫理の鍵です。これをもっと学問的に言えば、倫理は、人類学の標準規定に他なりません。人間がそれであるものは、即、人間がそうあるように務めなければならないものであり、その行動によって、常にそうなるよう努力しなければならないものです」

キリスト信者を名乗るわたしたちも、そして全ての教会共同体も、皆、再び、人間の自然の傾きと能力の全てと共に、人間の中に内在する神の秩序への尊敬を学び取り、身につけなければなりません。人間は、創造の冠ではありませんか。であれば、ピルとか避妊リングを使ったり、人工妊娠中絶をしたりして、創造を汚すとき、その結果としての罪は、はるかに重くります。わたしに言わせれば、これらの行為は、人間による神の秩序への介入に他なりません。

畏れは、宗教への第一歩に他なりません。1923年、駐日フランス大使ポール・クローデルは、日本人大学生のための講演で「わたしたちを取り巻く神秘を前にしての毎日の私的な生活を別としても、畏敬は…創造された全てのものに対して魂が取る態度です。なぜかと言えば、全ては同じ父の子供であり、全てはその同じ意思の表れに他ならないからです」

マザー・テレサとNFP

現代の医学研究ににると、自分たちの産児を計画するために、人工避妊の諸方法は不必要です。例えば、マザー・テレサは、インド、その他の場所で教えている自然な家族計画は、神の意志に従いつつ、自分たちの受胎能力を制限する方法を提供しています。疑いもなく、これらの方法は、犠牲を要求します。しかし、これらの方法は、家族と国家の健康を害しません。この方法を教えている人たち、そして心理学者たちが、口を揃えて語るのは、これらの自然にかなった方法を使用する家庭には、子供を歓迎する雰囲気が溢れているということです。人工避妊に頼る場合に見られる、子供に対する極端に否定的な雰囲気とは好対照ではありませんか。人工避妊は性的放縦、離婚をもたらし、わたしたちの若い人たちを堕落させ、女性の尊厳をひどく痛めつけてしまいました。

昨年、わたしは、ジュネーヴの南わずか50キロ、サヴォイ高地にある同名の湖の畔にあるアネシーを訪問しました。偉大な教会博士サレジオの聖フランシスコが、1602年から死去の年までそこに住み、アネシーの大聖堂に葬られています。聖フランシスコは、人間にとっての価値基準は、変わることのない効力を持ち、人間が、他の被造物と比較して、天地の差があるほど、高貴であることを説きました。

人間は宇宙を完成します。知性は人間を、愛は知性を完成します — そして、神への愛は人間の愛を完成します。だから神の愛は、宇宙の究極目的、完成、冠なのです。

スイスの作家アウグスト・ストリンドベルクは、自分の経験からそれを知っていました。

聖書にあるこの世界の概念からして、たとえ、それがエロス、アフロダイテ、ヴィーナスなどと呼ばれていたとしても、性的愛を自分たちの神とか女神にすることは冒涜になるでしょう。神の名をこのように乱用することは、真の神、宇宙の創造主に対して人が犯すことのできる最悪の罪、偶像崇拝に当たるでしょう。現代、男女を打ちのめしてしまった全ての悲惨は、男が第一戒を忘れ去り、女を自分の神としてしまったことから発します。

ジークムント教授は、その評論Ehenot und Geburtenschwund(結婚に関する諸問題と出生率低下)の中で、その反対もまた真であることを説いています。この文脈で、独身制には、内在的価値を持つ新しい光が当てられているように思えます。独身制は、唯一の神を公に認めることであり、女性を神とすることを公に断念することに他なりません。ここで彼が指摘する女性の偶像化は、毎日のように、女性解放運動に、雑誌の写真欄 — その他全てのメディア — に見ることができます。ですから以下の格言は、今日、そして常に、人類の歴史のどの時点にとっても、特に、わたしたちの国民の将来、わたしたちの教会の未来にとっても真実です。「神の掟は全て確固として立つ。それらに従って行動するものもまた同じく確固として立つ」

ヒポクラテスの誓いへの忠実

わたしは、ラッツィンガー枢機卿が、1970年レーゲンスブルグで教壇に立っていた当時執筆したDie Kirche in Jahre 2000(2000年における教会)の一つの章からの引用で、この小冊子を終えたいと思います。

教会の未来は、深く根を下ろす人たち、信仰の全要求を生き抜く人たちによって形作られることが可能であり、実際に形作られることでしょう。それは、もっと安楽な道を選ぶ人たち、苦しみと自分たちの信仰の要求を逃れる人、信仰の本質的事柄さえわきまえずに、新しいものは何でも軽薄に受け入れる人たちによって、それほど影響されることもないでしょう。同じことを、もっと積極的な言い方に言い換えると、教会の未来は聖人によって形作られるのです。いつもと同じく、今回も — 宗教や信仰に関する現代のスローガンよりもっと深く理解する人たちによって」

親愛なる同僚の皆さん。常に、ヒポクラテスの誓いを念頭に置きましょう。現代は、彼の時代に酷似しています。彼の誓いを守り続けましょう。人間の本当の姿、人間の地位、人間の尊厳を支持し、守るために、わたしたち医師が、まず、自分たちから動き始めましょう。間違ったイデオロギーのしもべに成り下がらないようにしましょう。苦しんでいる人々のしもべであり続け、全ての人間の生命を大事にし、全ての人を看病し、そして性的犯罪の手助けは、もうお仕舞いにしましょう — なかんずく、殺さないようにしましょう。

医学博士 アルフレッド・ホイスラー

シュパイヤーにて、1982年10月30日