カトリック教会のカテキスムス

1993 Libreria Editrice Vaticana
(聖櫃の位置に関連する箇所)

1322 御聖体はキリスト教入信を完成します。洗礼によって王的司祭職の尊厳に高められ、堅信によってさらに深くキリストに結ばれて、同化され、全共同体とともに御聖体によって主ご自身の犠牲に与ります。

1323 「われわれの救い主は、渡されたその夜、最後の晩さんにおいて、自分のからだと血による聖体の犠牲を制定した。それは、十字架の犠牲を主の再臨まで世々に永続させ、しかも、愛する花嫁である教会に、自分の死と復活の記念を託するためであった。それは、いつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずなであり、キリストが食され、心は恩恵に満たされ、未来の栄光の保証がわれわれに与えられる復活の祝宴である。」(SC 47)

1324 御聖体は「キリスト教生活全体の泉であり頂点」です(LG 11)。「諸秘跡も、すべての教会的役務も使徒職の仕事も、すべては聖体祭儀と結ばれ、これに秩序づけられている。事実、聖体祭儀の中に教会の霊的富のすべて、すなわち、我々の過ぎ越しであり生きたパンであるキリスト自身が含まれている」(PO 5)。

1328〜1332

御言葉と聖霊の力によるキリストの臨在

1373 「死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるキリスト・イエスは」その教会にいろいろな方法によってご自分の教会に存在なさいます(ローマ8: 34)。すなわち、御言葉のうちに、その教会の祈りのうちに、「二人または三人が私の名によって集まっているところに」(マタイ18: 20)、貧しい人たち、病んでいる人、牢獄に入っている人たちの中に、ご自分がその起源である秘跡の中に、ミサの生け贄の中に、司祭職の役務を果たす人々の中に存在なさいます。しかし「特に、聖体の両形態のもとに現存して」おられます(SC 7)。

1374 御聖体の両形態によるキリストの存在様式は他に類を見ません。それは御聖体を「すべての秘跡が目指す霊的生活の完成と目的」(St. Thomas Aquinas, S Th III,73,3c)として、他のすべての秘跡に君臨させます。至聖なる御聖体の秘跡の中に「真に、現実に、そして実体的に我々の主イェズス・キリストの体と血がその霊魂と神性とともに、すなわちキリスト全部が含まれている」(トレント公会議 1551年:DS 1651)。「この存在は『真』であると言われますが、それはそれ以外の存在様式をあたかも『真』でなくなるかのように、それらを除外してしまうことを意図するものではなく、それがもっとも完全な意味での臨在だからです。つまり、それはそれによって神であり人であるキリストが完全にご自分を存在させるあり方だからです」(MF 39)。

1375 キリストがこの秘跡のうちに存在するようになるのは、パンとぶどう酒のキリストの体と血への変化によります。教父たちはこの変化をもたらすキリストの言葉と聖霊の働きの効力に対する教会の信仰を強く肯定しました。ヨハネ・クリゾストモは次のように宣言しています。

奉納されたものをキリストの体と血に変化させるのは人間でなく、わたしたちのために十字架にかかられた方、キリストご自身です。キリストご自身に成り代わって司祭は聖変化の言葉、つまり「これはわたしの体である」と唱えます。しかし、それらの言葉の効力と恩寵は神からのものです。この言葉が奉納されたものを変化させます(ヨハネ・クリゾストモ、De prod. Jud. I, 6: PG 49, 380C.)。

 

そして聖変化について聖アンブロジオは次のように言っています。

これは自然が作り出したのでなく、祝福による聖別にかかることを確信しましょう.。祝福の力は自然の力を克服するのです。なぜなら、祝福することによって自然そのものが変化させられるからです…無から存在していなかったものを造り出すことができるキリストの言葉は、存在しているものを前にはそうでなかったものに変化させることができないでしょうか。ものの性質を変えることよりもものに本来の性質を与えることより優れた行為ではないでしょうか(聖アンブロジオ、De myst. 9,50; 52: PL 16,422-423)。

1376 トレント公会議は、カトリックの信仰をまとめて以下のように宣言しています。「我々の救い主キリストは、パンの形色の中に自分の体をささげた。そのため、神の教会は変わることのなく常にこれを信じてきた。この聖なる教会会議も繰り返して宣言する。すなわち、パンとブドー酒の聖別によって、パンの実体はことごとく我々の主キリストの実体となり、ブドー酒の実体はことごとくその血の実体に変化する。聖なるカトリック教会は、この変化を便宜上、適切に全実態変化と言い表している」(DS 1642)。

1377 キリストの御聖体による存在は、聖変化の瞬間に始まり、御聖体の形色が継続する限り続きます。キリストはパンとブドー酒(sic)の両形色およびそのどの部分の中にも欠けるところなく存在し、

1378 御聖体の礼拝。ミサ典礼の中でわたしたちはパンとブドー酒(sic)両形色の下にキリストが真に存在なさっているという信仰を、種々ある方法の中でも、なかんずく主を礼拝する印として跪いたり、おじぎをしたりして表現します。「カトリック教会は、御聖体に対して、ミサの間だけでなくミサ以外にも、聖別されたホスチアを最大限の注意を払って保存し、また信徒が荘厳に礼拝できるために顕示したり、聖体行列をしたりすることによって、崇拝を示します」(MF 56)。

1379 聖櫃は、病者とミサに参加できなかった人たちに御聖体を持っていくことができるように、御聖体を保存する相応しい場所として意図されました。御聖体におけるキリストの現存への信仰が深まるにつれて、教会は御聖体の形色の下に存在なさる主に対する沈黙の礼拝の意味に注意をはらい始めました。まさにそのために、聖櫃は教会の中でも特に相応しい場所に設置されるべきです。同じく、聖櫃は御聖体にキリストが存在なさるという真理を強調し、かつ明示するように作られるべきです。

1380 キリストがこの比類ない方法によって、ご自分の教会の中に存在し続けることを望まれたのには深い意味がありました。キリストは、ご自分の愛するものたちと目に見える形では別れることになっていたので、秘跡的にわたしたちと共にいることを望まれました。わたしたちを救うために十字架上にご自分の命をささげようとしておられたので、「極みまで」、ご自分の命をささげるほどにわたしたちを愛されたその愛を記念する印を残すことを望まれました(ヨハネ13: 1)。キリストはわたしたちを愛して、命をささげられた方として、御聖体におけるその存在によってわたしたちの中に神秘的に留まられます(ガラテア2: 20参照)。しかも、この愛を表し、伝える印の下にわたしたちと共にいて下さいます。

教会と世界にとって御聖体礼拝は非常に必要です。この愛の秘跡の中にイエズス様ご自身がわたしたちを待っておられます。イエズス様を礼拝し、信仰に満ちて黙想し、世界が犯す大きな負い目と不正を償う意図をもって、会いに行く時間を惜しまないようにしましょう(教皇ヨハネ・パウロ二世、Dominicae cenae 3)。

1381 聖トマスによれば「この秘跡の中にキリストの真の体と真の血が存在するということをわたしたちは『感覚でなく、神の権威に頼る信仰によってだけ』理解できます」。このために、ルカ22: 19の注釈で聖キリロは「これはあなたたちのために渡されるわたしの体である」という聖書の言葉について「それが本当であるかどうか疑問に思わないようにしなさい。そうではなく、救い主の言葉を信仰の中に受け入れなさい。(キリストは)真理ですから偽ることができません」(S Th III, 75, I. MF 18.)。

パンとブドウ酒の形のもとに、隠れています神よ、つつしんであなたを礼拝します。あなたを見つめながらも全く見る力のないわたしは、その心のすべてをあなたに委ねます。

 

今ここに見るところ、触れるところ、味わうところでは、あなたを認めることができません。ただ聞くところによってのみ確信します。神の御子のいわれたことは、何ごとであれ信じます。このことばにまさる真実は、世にはないからです。