補遺 その三

「試験管受精」は人間の尊厳に背く

ロンドンでの出来事が明らかにする受精卵凍結が引き起こす倫理的諸問題
筆者 ジーノ・コンチェッティ神父 OFM
(英語版週間オッセルヴァトーレ・ロマーノ一九九六年二月一四日)

もし、ロンドンからのニュースが本当であれば、それは身の毛のよだつようなことです。法が規定した期限が過ぎているという理由で、英国にある複数の病院に保存されている無数の受精卵の内、九〇〇〇体が、親からも省みられぬまま、廃棄処分の危機に瀕しています。

ロンドンからの情報によると、彼らの運命については、次の四つの可能性があります。まずは、適当な容器の中で保存し続ける、それぞれの親に引き取ってもらう、子供を欲しがっている不妊症に悩む夫婦に・・・もし彼らが希望すれば・・・提供すること。そしてもう一つの何ともやりきれない選択は、それらの受精卵を処分してしまうか、実験などに使用することです。

もっともおぞましい最後の選択を除外すれば、残るのは三つです。(少なくとも現代の医学技術の状態では)彼らを保存し続けることは、問題を引き延ばすだけですから、これも除外しなければなりません。第二の仮説、つまり「親が引き取ること」は、倫理秩序への違反度が低く、人類学的見地からして、もっとも実行可能であると言えるでしょう。両親が、自分たちから生じたものを「引き取り」、自分たちの生物学的協力と自分たちの同意によってこの世にもたらした人間の生命を誕生させ、育て、名付け、家庭と教育を授ける義務を果たすとき、当然するべきことをしたことになります。

これらの受精卵が子供を欲しがっている夫婦に「贈与される」という仮説は、複雑な問題をはらみ、簡単に同意しかねます。法的観点から見ると、児童や乳幼児の養子縁組についての法律条項があっても、試験管受精による受精卵についての法律はありません。また、試験管受精による受精卵を、該当する夫婦、もしくは、独身の女性が引き取ることを義務づける法律も存在しません。乳幼児の養子縁組と見捨てられた受精卵の養子縁組との間には、類比があるのでは、という意見もありはしました。しかし、このような仕方で問題を解決しようとした人はまだいません。カトリック教会は、児童や乳幼児の養子縁組みを奨励することはあっても、受精卵の養子縁組については沈黙を守っています。

この明らかな行き詰まりの解決は、そのそもそもの始めにあります。教理省は『ドヌム・ヴィテ』で、次に挙げるいくつかの原理を確立しています。新しい人間の生命は、二つの生殖体が合体したその瞬間から始まります。人間はその存在の最初の瞬間から一人の人格として尊敬されねばなりません。試験管内受精は、人間の尊厳、結婚の尊厳に反するから、許されません。保存目的の受精卵生成は許されません。最終的には破壊するために受精卵を生成したり、廃棄可能な生物学的材料として利用したりすることは不道徳です。たとえ受精卵の生存のためとはいえ、その凍結は人間の尊厳に反します。

以上が、教会が受精卵生成、保存、着床に基づく方法である試験管受精を断罪する主な理由です。妊娠を達成するためとはいえ、受精卵生成は、実際に必要とされる数を越える受精卵生成を意味します。不必要な受精卵は処分されるか保存される運命にあります。

ロンドンからのニュースは、再度、わたしたちを、劇的に、以上の問題に直面させます。特別なセンターに保存されている九〇〇〇の受精卵は、サイズとしては一つの村の人口に相当します。市当局や保健所関係者たちは、これらの受精卵をどう取り扱えばいいのか分からないまま、窮地に立たされています。両親を探し出し、自分たちの受精卵を育てるか子供のいない夫婦に譲るという英国医師協会の担当者の提案は、生命への権利と受精卵の利益にとって、もっとも受け入れ易いものではあります。

しかし、真の解決は、繰り返しますが、そもそもの初めにあります。結婚の枠の中であっても、子供を産むためとはいえ、受精卵生成は許されません。ドナーが関係するときは、なおさら許されません。人間の生命は最高の価値を持つ善です。だから、それはある人たちの欲求とか意志の対象に成り下がってしまってはなりません。それは、男と女に、責任ある、人格間の、同時的行為によって、一夫一婦制の、かつ、解消されることのない結婚の中で伝達するように命じられた神によって創造されました。受精卵生成に頼ることは、聖書にはっきり書かれてあるこれらの必要条件に反しています。

医療関係者も、受精卵生成のために生殖体を提供した人たちも、自分たちのものに他ならないその責任から逃れることはできません。まさに自分たちの細胞の融合から発生した新しい人間の生命について、自分の責任を認めないとすれば、それは卑しい、神を恐れない、人間の業とも思えない下劣な責任放棄です。

ロンドンでのこの事件が提起するこの複雑な問題は、ドナーたちと社会一般、また健康保険制度に、市民としての道徳的責任に強く訴えかけます。問題の受精卵の中に存在する人間たちは、沈黙の中に、自分たちの生成にかかわった全ての人間を激しく非難しています。試験管の中で生成され、凍結状態で保存されている彼らは、人間の意志の「囚人」であり、自分たちの生殺与奪を決定する人たちの思いに自分たちの運命を委ねなければなりません。その人たちが受精卵を生かす決定を下すとしても、それが自分たちの屈辱を減少するわけではありません。破壊と死に運命づけられているものたちに代わって、神はカインへの警告を繰り返されます。「おまえの兄弟の血が大地の中からわたしに叫んでいる」と。