補遺 その二
「再婚した人」と聖体拝領
ウィリアム・スミス師
(The Priest,Vol.5,♯♯6,7、一九九三年冬/春、七ページから転載)
一九九三年三月一七日のSydney Catholic Weekly 一〇〜一一ページの常設記事「Frontline」の大見出しの下には、「夢が死ぬときの離婚の傷」という論文が掲載されています。そこに見られる、ある種の思いこみと助言は、カトリックの教義とは相容れません。この記事は、悲しいことに、カトリックの教えを、ゆがめて紹介しています。最近、頻繁に見られるこのような記事は教会の教えに真っ向から反し、まったく自分勝手な「司牧的慣行」を助長し続けています。
問題
この記事の呼び物執筆者ベリンダ・ヒックマンは、結婚の永続性と良心の重大な問題についてのカトリック教会の教義を提示していません。彼女の記事を読んで分かるのは、この点についての教会の本当の教えが、ちまたでどれほど曲げて伝えられ、どれほど誤解されているか、ということです。ここでは、彼女の善意ではなく、彼女の正確さが問題です。彼女は明らかに、離婚した上で無効な結婚をした人々の、霊的な善を心配するあまりの同情に突き動かされています。しかし、記事中のいかにも寛大な種々の勧めは、疑うことを知らないカトリック信者を誤解に導きます。そして、最近、ますます頻繁に見られるようになった「司牧的慣行」を信者は要求します。これについては後述。
その背景と用語
まず、問題に関する背景を見てみましょう。わたしたちが問題にしているのは、教会裁判所がある結婚を無効と宣言した上で、教会法的に有効な次の結婚を許可するためには、不十分な証拠しかない場合です。外的法廷、この場合、教会裁判所はその結婚を有効なものである、という推定に立たざるを得ません。当然のこととして、裁判所は次の結婚をする許可を出しません。なぜかといえば、そうしなければ教会裁判所は、客観的に、教会法の立場から当然与えられるはずの尊敬と保護を、どの結婚にも保証できないという混乱をもたらすだけだからです。
しかし、次に進む前に、まず、用語の解釈をしておきましょう。このようなケースで登場する「外的法廷」とは、公的に入手可能で、証拠能力のある外的な証拠に基づいて、結婚のケースを調査する責任を持つ教会裁判所のことです。「内的法廷」とは、ある人が、霊的指導者の助言に基づいて、よくあることですが、外的法廷では入手不可能であったり、証拠能力がなかったりする事柄に関して、正しい良心を形成する個々の良心の私的な法廷のことです。
ウィリアム・スミス師
以下は、The Fellowship of Catholic Scholars Newsletter 九巻三号、一九八六年六月、一六〜一七ページのウィリアム・スミス師の寄稿の要約です。同誌の提供と許可によぅて、以下を再掲します。スミス師は、いわゆる「内的法廷」方式に基づく解決には、健全な教義、健全な論理、健全な教会法、健全な神学と司牧的慣行の、少なくとも四つの問題点があると述べています。
(一)教義の観点から
ある人たちが、「内的法廷」とか「善意の良心」による解決などと呼んでいるものは、まさにトレント公会議が第二四総会七条(DS.1807)で、非難していることに他ならない、と思えます。特に、トレントの教父たちの、“Matrimonii vinculum non posse dissolvi”という言葉が、正確に何を意味したかについて、学識豊かな人々の解釈には事欠きません。その一例にビエット・フランセンを引用しましょう。
この七条は、教科書などで結婚の『本質的不解消性』と呼んでいるものです。つまり、不倫があっても、そのこと自体によって(ipso facto)結婚が解消されないということです。また、ルーテルが、その著書De captivitate babylonica で主張しているように、配偶者たちが自分たちの良心に従ってそう決定した、という理由だけでも、結婚は解消しないということを述べています(P・フランセン、“Divorce on the Grounds of Adultery”in The Future of Marriage As Institution,New Concilium 55,NY,Herder & Herder 一九七〇、九六ページ)。
さて、トレント公会議のあの有名な七条の区別とニュアンス(特に、東方教会に関して言及しなかったこと)はわたしも認めましょう。しかし、ある人たちが提案する「善意の良心」による解決は、正にトレント公会議が非難したものに他ならないように思えます。それ故に、このような提案は健全な教義に反します。
(二)論理の観点から
J・T・カトワール師は、初めの結婚の有効性についての推定が間違っているかもしれないと書いています。彼は続けて「あなたは罪の状態に生きていると思いますか。あなたはいまの結婚が姦通と同じであると思いますか」という質問をすることによって、内的法廷で問題を解決しようとします。もし、当人が、教会の声明を知った上で、自分の生活の状態を霊的指導司祭のもとで反省し、関連する問題に悩み抜いたとしましょう。「それでも本人に罪を犯しているという意識がなければ、彼に聖体拝領を拒むべきではありません」と指導しています(J・T・カトワール、Catholics & Broken Marriage,Notre Dame,Ind.: Ave Maria Press 一九七九年、五九ページ)。
これは両方とも、非論理的であり、主観的確信による自律のゆがんだ考え方に基づいています。同じ結婚のもう一人の配偶者が同じ過程を踏み、同じ声明を読み、同じ質問をされ、そして罪の意識を持ったと仮定してみましょう。彼女は彼と結婚しているのに、彼はもはや彼女と結婚していない、という事態を信じられますか。
考え方と現実の秩序を混乱させることは、論理の欠如以外の何物でもありません。ある人が絶対的に、主観的には・・・「誠実な」そして「善意の」良心において・・・確信していても、それは結婚のきずなの存在論的な状態を元に戻したり、解消したりするものではありません。
(三)教会法の観点から
教会法一四二〇条§1は、法務代理すなわち法務長官を任命することを指示し、一四二五条§1、一、イ)は、婚姻のきずなが、合議制裁判所に留保されることの中に含まれることを指示しています。
いわゆる「内的法廷」方式の解決を主張するあるものたちはその適用を、当該裁判所に提訴されたけれど、何らかの理由で条件が不備、もしくは不完全であるとして却下されたものに限っています。また他のものたちはこのような制限を設けません。しかし、事実上(内的法廷を通じて)外的法廷で法務長官が解けなかったものを、司祭でありさえすれば、だれであっても、内的法廷でこれを解けるということは、教会法的には無意味です。
内的法廷による解決の提唱者たちの回答は、自分たちが聖体拝領をする主観的な資格だけを判断している、ということでしょう。しかし、結婚は、社会的な影響のある、社会的な秘跡です。わたしたちは、それがあたかも全体の問題の完全な理解であるようなふりをして、この間題の一つの側面だけを取り上げることはできません。
(四)神学・司牧の観点から
わたしは、教皇ヨハネ・パウロⅡ 世の『ファミリアーリス・コンソルチオ』の中で明言され、繰り返されているほどの明りょうさで、この質問群に詳しく答えた教皇文書は存在しないのではないかと思います。
・・・しかし、再婚した離婚者には聖体拝領が許されないという教会の態度は変わりません。このような人々の生活と状態は、聖体によって表され、実現しているキリストと教会との一致に客観的に矛盾するという事実から、聖体拝領が認められません・・・
同様に、結婚の秘跡に対するふさわしい尊敬・・・から、司牧者がだれであろうとも離婚者の再婚の司式は、どのような形式であっても許されません(教皇ヨハネ・パウロⅡ 世、『ファミリアーリス・コンソルチオ』八四、一九八一年一一月二二日)。
同様の教えは、同じく教皇ヨハネ・パウロⅡ 世のReconciliatio et Poenitentia 三四(一九八四年一二月二日)でも、繰り返されています。
以上、要点だけを手短に述べました。しかし、これ以上、いわゆる「内的法廷」もしくは、いわゆる「善意の良心」による解決を提案し続けることは、健全な教義、健全な論理、健全な教会法、健全な神学と司牧的慣行に反しているように思われます。教会の最高指導者たちが否定しているのに、このような可能性を提示し続けることは、問題を抱えた人々に、満たされることのない偽りの希望を提供するものです。こういうことは、司牧的に極端な無責任行為であるといえます(以上がスミス師の記事からの引用)。
スミス師は、良心の形成について書くときには、「正しい」という語を非常に慎重に使用します。その道に、The Frontline の記事で、その地方ではよく知られたいわゆる「内的法廷による解決」の提唱者として、しばしば引用されるジョン・ホッスル神父は、「善意の」という言葉を好みます。この文脈で、「正しい」は、ある行為の客観的な真理に直接的に注目させます。それに反して、「善意の」は行為者の主観的な誠実さに注目させるのです。これは、ある人々が善くあろう、善いことをしようと欲するだけで、彼らが常に正しく行動するとは限らないという一つの単純な事実の重要性を示します。良心に関する道徳的問題は、基本的な要素としてこのことを含むものです。それはなぜかというと、ある決定についての個人的な誠実さは、それが正しい決定であるという保証ではないからです。そして、正しい良心を形成したい人は教会の教えを仰ぐ義務があるからです。