補遺 その一

カール・ペシュケ神父著
Christian Ethics第Ⅱ巻の
いくつかの誤謬と弱点

カール・ペシュケ神父の倫理神学の教科書の以下の批判は、その内容を本書と比較することを希望する人たちのために、補遺に収録することにしました。ペシュケ神父の教科書の初版は一九七八年、七版は一九九三年に出されています。ここで、わたしは主に、四版(一九八七年)、六版(一九九〇年)、七版(一九九三年)に触れることにしましょう。批判は全体についてではなく、生命に関する事柄、つまり人工避妊、人工妊娠中絶、離婚と「再婚」に関してだけです

ペシュケ神父の教科書が、特に発展途上国の多くの神学校で使用されてきたことは注目に値します。一九九〇年版には、著者が、当時、ローマの教皇立ウルバニアナ大学で、倫理神学教授であったことが記載されています。その後、著者はその職を辞任しています。彼はラッツィンガー枢機卿と面談し、その結果、自分の教科書を書き直すことを申し出ました。この諸変更点は、一九九三年版の教科書に反映するはずでしたが、その版でさえ、まだまだ問題が多く残されています。

著者は一九七五年版の第Ⅰ 巻の導入部で、自分がどれほど、ベルナルド・ヘーリング神父CSSRに負うところが多いかを述べています。「何と言っても、ヘーリング教授から著者はもっとも多くのことを学びました。著者はその著作と思想から、実に多くを得るところがありました」(Ⅵ ページ)。不幸なことに、ヘーリング神父は『フマネ・ヴィテ』の徹底的な大敵になってしまっています。過去、二〇何年かにわたって、ペシュケとヘーリング両神父は、数多くの神学生たちを、明らかに『フマネ・ヴィテ』を一〇〇%支持しない態度で、影響し続けてきています。それでは、生命に関する事柄について批判されねばならない、ChristianEthics第Ⅱ 巻における、ペシュケ神父の具体的弱点の数々とは、一体、どのようなものでしょうか。

人工妊娠中絶・一九八七年版、三五三〜三六四ページは、直接的人工妊娠中絶は、時としては許されるということを提唱しています。教皇の教えはごくわずかしか反映されておらず、ヘーリング、その他の反対者たちが、これでもかこれでもかと引用されます。この教科書は、受精卵が着床するまでは人間でないとほのめかします。それは、四〇〜五〇%の極初期の受精卵が自然の過程によって失われてしまうと述べていますが、これは誤りです。著者は、ある直接的人工妊娠中絶の正しさを弁護するヘーリング神父によって提示される、一つのケースを引き合いに出します。しかし、これは本書の二章「人工妊娠中絶」の章で、ダン博士が医学的な観点から、まったくお話にならないと決めつけています。

一九九三年版では、この誤った「ケース」を削除してあります。しかし、三一四〜三三〇ページを読んでみると、ある場合には、治療を目的とする、直接的人工妊娠中絶が許されることをほのめかす、基本的あいまいさが残されています。例えば、三二九ページは、このような誤った考えを支持する多くの著者が列挙されています。そして、ペシュケ神父自身もこれは正しく思えると結論しています(三三〇ページ)。

人工避妊・一九八七年版、四七一〜四七九ページに、教皇の方針は、やはりわずかしか反映されず、その反面『フマネ・ヴィテ』の反対者たちには多くのスペースを割いています。著者は、人工避妊をしている人でも、それは重大なことではないので、罪の告白無しに、聖体を拝領してよいのではないかと提案しています(四七六ページ)。四七五ページで、彼は、『フマネ・ヴィテ』は、おそらく、いままで出されたものの中では、もっとも異論の多かった回勅であっただろう、と言います。この教科書が与える印象は、人工避妊についての教会の教えには、異論を差し挟む余地がある、というものです。一九九〇年版は、このような考えを補強しています。そのために『フマネ・ヴィテ』のその禁止を「守ることができない夫婦」には、人工避妊について、いくらか譲歩した、日本司教協議会の声明を引用します(一九九〇年版、四七九ページ)。

ペシュケ神父が、一九六八年の日本司教協議会の声明を引用した時、同じ司教団が、一九八四年、「人工避妊以外の産児調節法が学ばれるべきである」と、信者が自然にかなった家族計画の手段を学ぶように要請していたことも、つけ加えられるべきでした。

一九九七年版、五〇五〜五一〇ページは、一九八七、一九九〇年版と比べると、かなりの進歩が見られます。しかし、人工避妊が重大な問題であるかについて疑問を投げかけ(五〇八ページ)、ある夫婦たちにとって、人工避妊禁止の遵守は「不可能である」かもしれない、と暗示します(五一〇ページ)。反対の立場の人々があまりにも数多く引き合いに出されて、『フマネ・ヴィテ』は、権威ある指導者というより、まるで敗者であるかのような扱いを受けます。

離婚、「再婚」、聖体拝領・一九八七年版、四五七〜四六〇ページで、著者は、普通の聴罪司祭による「内的法廷」方式の解決を「再婚した夫婦」たちに認めます。もし、彼らが「自分たちが本当は罪の中に生きているのではない、という結論に達しているなら」彼らが聖体拝領することを認めています(四五八ページ)。この基本的なあいまいさは、一九九〇年版にも引き継がれます(四五八ページ)。一九九三年版ではいくらかの改訂がなされてはいますが(四八六〜四九一ページ)、著者は、最終的解決はまだなされていないと判断しています(四九一)。

これだけ書けば、ペシュケ神父の教科書を使用する人たちに、警戒信号を出せたのではないか、と思います。蔵言一八・九は「仕事に手抜きするものは、それを破壊するものの兄弟だ」と言っています。これをペシュケ神父の教科書に適用して、わたしたちは、「それが『フマネ・ヴィテ』の弁護に手抜きをしているので、その教えを破壊するものの兄弟である」と結論します。