五章 離婚と再婚後に秘蹟を受けることについて

*兄妹として暮らす解決は可能
*『ファミリアーリス・コンソルチオ』に提示される教義
*不規則な状態にある人たちを助ける司牧者
*ローマに上告することによる内的法定による解決

洗礼を受けた夫婦の初婚が確かに有効であったが、離婚に終わったとき、そして、配偶者が生存しているうちに、そのうちの一人または二人とも二番目の「結婚」をしているが、彼らは聖体拝領ができるでしょうか。答えは、彼らが兄妹のように暮らしていて、スキヤンダルがない場合の他は、「いいえ」です。ペシュケ神父の教科書第Ⅱ 巻、(一九八七年版、四五八ページ以下・一九九三年版四八八ページ以下)は、この点で読者の誤解を招きます。一九九三年七月一〇日に出された三人のドイツ司教による共同教書も、この点では、同様に誤解されやすいものです(HLI Reports,Vol.12,No.4、一九九四年四月にその批判と非難が掲載されています。しかし、すでにそれらの司教たちは自分たちの教書が過ちであったとして撤回しています。補遺に追加の説明)。『ファミリアーリス・コンソルチオ』は遵守されるべき規範として以下を提示しています。

兄妹として暮らす解決

『フアミリアーリス・コンソルチオ』八四で示唆された兄妹として暮らす解決は、不規則な状態にある男女にとって、もし、彼らに強い信仰があり、彼らが司牧的指導と秘跡を受けるなら、現実問題として可能です。人間の小さな力だけで可能でないことも、神は可能にしてくださいます。

教会史の記録には、一〇世紀まで、多くの既婚者が助祭、司祭、司教に叙階され、彼らと妻たちは禁欲の義務を引き受けることを承諾し、夫婦としての権利をもはや行使せず、兄妹として暮らしました。キリスト教文化の期待は、聖職者のこのような生き方を支持しました。数人の教皇たちでさえ、正にこのような家庭に生まれ、育ったのは歴史的事実です。その他、何人もの司教、教父、聖人たちも同様な環境の出身です。同じ家に住みながら、完全な純潔を保てることを知っていました(拙著「使徒時代に起源がある聖職者の独身制度」を参照)。

教会史の最初の一〇世紀の間、多くの聖職者たちは兄妹関係の独身生活を送りました。このような模範は、ある男女、特に、無効な結合のもとに居をともにしながら、子どもたちの教育のために別居できない、やむを得ない事情のある人々にとって可能な解決を示唆します。

教皇大聖レオ(四四〇〜四六一)は、結婚している聖職者たち・・・彼ら全員に性行為を控える義務があったわけですが・・・に、別居はしないように、しかし、同居しながらも完全な貞潔を保つよう勧告をしています。教皇は、伝統に従って、聖職者の独身制度の規定は有効である、と言っているのです。彼は、テサロニケのアナスタシウスに次のように書いています。「もし、ある人が、いまだに結婚の快楽に決別していないことが発覚したなら、レビの地位つまり司祭職および司教職の最高の位階にふさわしくない」(PL五四、六七二b〜六七三a)。同教皇は、ナルボンヌのルスティクスに次のように書いています。

禁欲の法は祭壇の奉仕者にとっても、司教、司祭にとっても同じであります。彼らがまだ一般信徒もしくは読師であったとき、彼らは自由に妻をめとり、子どもを設けても構いませんでした。しかし、ひとたび上述した位階に達したら、以前許されていたことも、もはや許されなくなります。これが、彼らの結合が肉体的なものから霊的なものになり、妻を家から出すことなく、結婚の愛を守りつつも、夫婦の行為をやめて、彼女たちとあたかも結婚していないかのように暮らさねばならない理由です」(quo et salva sit charitas connubiorum,etcesset opera nuptiarum、ナルボンヌのルスティクスへの手紙、四五八年ごろ、PL五四、一二〇四・コッチーニ、二六二ページ)。

聖アンブロジオ(三三三〜三九七)は、ヴェルチェッリの教会の既婚もしくは独身の聖職者たちに、乱用を避け、完全な禁欲を忠実に遵守するよう、次のように勧告しました。「聖なる奉仕の恵みを完全な身体の中に、不廃の清さに伴われて受け、既婚者の交わりと無関係である皆さん。この奉仕が、背きと汚れから免れ、どのような形、どのような程度であっても夫婦関係からどのような傷も受けてはなりません。わたしは次の理由のために、この問題に触れないわけにはいきません。遠く離れた多くの場所で、司祭職にあるものまでも含めて、奉仕の役目を果たしているあるものたちは、時として子どもを設けた上で、このことについて言い訳をしようとしています・・・司祭よ、助祭よ・・・諸神秘の執行にあなた方の清い身体をささげなさい」(PL一六、一〇四b〜一〇五b、コッチーニ、二三六ページ)。乱用があることは重々承知していたにもかかわらず、聖アンブロジオは、当時施行されていた規律を緩めようとはしませんでした。

聖アウグスチノ(三五四〜四三〇)は、四一九年ボレンツィウスに、信者の夫たちは、事情があって妻から離れているときも、純潔に生きるように勧めています。また、彼らの模範として、自らは望まなかったのに(inviti)、彼らに授けられた叙階によって負わされた義務として、その後ずっと、彼らの妻たちとの性的関係を断念して、純潔の規則を守っている司祭団のメンバーがいることに触れました。そのとき、彼はアンブロジオが、どのようにして司教に選ばれたか、また彼自身がどのようにしてヒッポの司教になったかを考えていたことでしょう。そして、人が一度叙階されると、禁欲を保つ義務が課されるのと同様に、妻と離れて暮らさなければならない夫たちも、貞潔に生きる既婚の(もしくは独身の)聖職者に見習って貞潔に生きるように、と勧告しています。

それが、わたしたちが彼らを励まし・・・(そして)彼らに模範として、自分の意志に反してこのような重荷を担うように、しばしば、強制されたこれらの聖職者の禁欲について話す理由なのです。しかし、いったんそれを引き受けたら、死ぬまで彼らはその義務に忠実に留まります・・・もし、大勢の主の奉仕者たちが、キリストの相続のさらに光栄ある場を受けるために、突然、何の前触れもなく、彼らに負わされたくびきを担うのなら、ましてや、あなたたちは、神の国で少なく輝くことの恐れでなく、むしろ火のゲヘンナで焼かれる恐れから、姦通を避け、禁欲を守るべきではありませんか(GSEL四一、四〇九・コッチーニ、二八九〜二九〇ページ)。

歴史は上記のように、何世紀もの間、夫が聖職位に上げられた後、結婚した男女が完全な禁欲を守ることを期待されていたことを教えてくれます。この事実は、無効な結婚をしていても別居できない理由のある現代の男女たちにも、性的関係を断念して、かつて結婚生活を送っていた聖職者たちの歴史的モデルを見習うよう勧められるべきであることを、示唆します。不必要なスキャンダルが避けられることを条件にして、彼らが回心の秘跡と聖体の秘跡に近づく道は、このようにして開かれます。熱心な祈りと頻繁な秘跡の拝領によって、彼らは家族と神への義務を同時に果たすことができます。彼らの兄妹関係による解決は、結婚の永続性と恵みの力の生きたあかしになります。

それ故に、もし、無効な結婚をしている男女が、回心の秘跡と聖体の秘跡を受ける許可を願うとき、そして彼らの理由が、子どもたちの教育といった、納得いくものであるとき、司牧者たちは、小教区の他のメンバーに対するスキャンダルを避けつつ、ともに兄妹関係による解決を選択して、彼らの真剣さと彼らの神への愛を証明するよう、賢明に励ますことができます。

教導職の教え

一九八〇年の世界代表司教会議は、この司牧的問題について長時間の討論を重ね、その結果、教皇ヨハネ・パウロ二世は、従うべき指針を発表しました。以下引用する『ファミリアーリス・コンソルチオ』のいくつかの段落は、現在施行されている諸ガイドラインと、なぜこれらにわたしたちが従わねばならないかの教義的・司牧的理由を説明しています。

離婚した後で再婚した人たち

残念ながらよくあることは、離婚した人々が再婚していることです。もちろん、カトリック教会での結婚式を挙げずにです。このことは、他の諸悪と並んでますますカトリック信者にも影響を及ぼしている悪の一つですから、確固たる態度をもって手遅れとならないよう、この問題に対処しなければなりません。シノドスは、この問題を特に検討しました。すべての人々、特に受洗している人々を救いに導くために建てられた教会は、秘跡としての前の結婚のきずなに結ばれているにもかかわらず再婚した人々を、彼らの思いのままに放置することはでききません。ですから、教会はこれらの人々へ手を差し伸べる努力をします。

司牧者は、真実を知るために、様々な状況を注意深く識別していく義務のあることを、わきまえていなければなりません。事実、最初の結婚を貫こうと誠心誠意努力したにもかかわらず、不当に放棄された人々と、自分の重大な過ちによって教会法上有効な結婚を破たんに導いた人々との間には、相違があります。さらに、子どもを養育していくために再婚した人々や、やり直しのきかないほど破たんしてしまった前の結婚は、最初から有効ではなかつた、と自分の良心において主観的に確信している人々もいます。

シノドスとともに、わたしは司牧者と信徒の共同体に向けて切に呼びかけます。離婚した人々を助け、彼らが自分は教会から離れてしまっていると考えることのないよう、彼らにかかわってください。洗礼を受けている彼らは、教会生活にあずかりながら忍耐をもって祈り続け、愛の業や正義を求める共同体の努力に貢献しなければなりません。また子どもをキリスト教の信仰のもとで教育して、回心の心と実践を身につけるよう努めながら、日々、神の恵みを求めるように、励まされなければなりません。教会全体で彼らのために祈って勇気づけ、教会がいつくしみ深い母であることを示しながら、信仰と希望のうちに彼らを支えていきましょう。

しかし再婚した離婚者には聖体拝領が許されない、という教会の態度は変わりません。このような人々の生活と状態は、聖体によって表され実現されているキリストと教会との一致に客観的に矛盾する、という事実から、聖体拝領が認められません。その他にも、これには司牧上の特別な理由があります。すなわち、仮にこれらの人々に聖体拝領が認められるならば、信徒が結婚の不解消性の教会の教えに関して、誤りや混乱に陥る恐れがあるでしょう。

聖体拝領への道を開く回心の秘跡のゆるしの恵みは、契約の印とキリストへの忠実を損なったことを悔やみながら、誠心誠意、結婚の不解消性と矛盾しない生き方をする用意のある人々にだけ、与えられることが可能です。つまり、実際には、例えば子どもの養育などの重大な理由によって再婚している男女が、もはや別居するという義務を満たせないこともあります。そういう場合、「完全な禁欲、つまり夫婦生活に固有の行為を慎むこと」を自らに課することを意味します。

同様に、結婚の秘跡に対するふさわしい尊敬と、夫婦や家庭それに信徒の共同体に対する配慮から、司牧者が、だれであろうとも、離婚者の再婚の司式をとり行うことはどのような形式においても許されません。そのような式は、秘跡的に有効な新たな結婚式という印象を与えかねず、有効に結ばれた結婚の不解消性に関して、人々を誤りに導くおそれがあるからです。

このように対処することによって、教会は、キリストと彼のもたらした真理に対する自らの忠実さを表しているのです。しかし、同時に、教会はこれらの自分の子どもたちに対し、特に自らの責任によらずして配偶者に捨てられた人たちに、母としての心遣いを示しています。

教会は確固として信念をもって、主の教えを否認したまま、このような状態の中で生活している人々も、忍耐強く、祈りと償いと愛のわざに励むならば、神からの回心と救いの恵みを受けることができることを信じています。

以上につけ加えて、兄妹のように暮らすことを選択しないために、不法な状態、つまり、罪の状態にある男女であっても、決して絶望することはありません。彼らは、子どもたちを育てるために、ミサと祈りに上述の方法で参加して、聖体と回心の秘跡にあずかるのを控えなければなりません。そうすることによって、彼らは、結婚の不解消性と教会の聖性に、独特な、そして、聖なるあかしをすることができます。以下は、教皇ヨハネ・パウロⅡ 世が、『ファミリアーリス・コンソルチオ』を引用して、マラウイの司教協議会に話されたことでもあります(英語版週刊オッセルバトーレ・ロマーノ、一九九三年九月二九日)。

結婚の不解消性と忠実の計り知れない価値をあかしすることは、キリスト信者の夫婦たちのもっとも尊く、また、緊急な役目の一つです・・・謙そんな、しかし勇気ある方法で、彼らは、神とイエス・キリストが一人ひとりの人間を愛している、あの決して裏切ることのない愛の「印」・・・小さいけれど尊い印、時には誘惑に負けてしまっても、再び立ち上がる印・・・であり続けるという、自分たちに託された役割を果たします。

もう少しつけ加えると、教会において男女が本当に結婚するとき、彼らは、「死がわたしたちを分かつまで」、つまり、生涯の終わりまでの忠実を相互に約束します。お互いに対するこの約束こそ、夫婦がもっとも大事にするきわめて大事な贈り物です。もし教会が離婚した人に再婚を許すようなことがあれば、教会はこの破られることのない一生涯の約束に基づく貴重な連帯を破壊してしまいます。そして、結婚した人たちから、彼らの結婚の永続性の中にこそ見いだされる、大きな喜びと信頼を奪ってしまうことになります。

神は、そもそも、結婚を永続的なものとして制定なさいました。その永続性が、人々の不従順のために、守られていなかったので、キリストはそれを復活なさいました。そして、結婚を、その救いの力と恵みに結びつける秘跡の位に上げて、聖化してくださいました。キリストに対する不従順は、まず、悔い改められなければなりません。キリストの委託を受けた教会は、上述したように、離婚した人々に、再婚を認めないことによって、さらに、違反したものたちに秘跡の執行を拒むことによって、結婚するときに人々が交わす生涯にわたる約束を固めます。

無効な結婚をしている男女も教会の成員です

一九九四年八月一〇日の一般謁見で、教皇ヨハネ・パウロⅡ 世は、司牧者たちに対して、不規則な結婚をしているカトリック信者に、細心の注意をもって仕えるように勧告なさいました。

今日、その他にもたくさんの人たちが、神と教会のおきてに従うことを拒んでいます。教会は、このような人たちがいることに対して敏感であり、心配せずにはいられません。まず、わたしが、使徒的勧告『フアミリアーリス・コンソルチオ』の中で、特に注目した「別居している人たち」そして「離婚した人たち」がいます(八三参照)。そして、独自な道徳的、経済的、社会的困難に直面している「未婚の母」たちがいます。彼らが直面しなければならない問題に対する、彼ら個人の現在の状態の責任が、たとえ、どのようなものであっても、わたしは彼らに、彼らがいつでも教会に属していることを強調します。彼らの困難な事情を知っている牧者は、彼らを見捨ててはいけません。その反対に牧者であれば、彼らを助け、慰めるためにできる限りのことをしてやり、彼らに自分たちも、常にキリストの群に属していると感じることができるように、最善を尽くすべきです。教会は、真理の要求と家庭と社会自体の共通善に反する慣習を許容することはできません。困難にあるすべての人々を愛し、理解し、助け続けなければなりません。

教皇は、次いで、再婚をせずに、子どもたちを教育しようとしている離婚家庭の親たちに励ましの言葉をかけられます。

教会は、離婚歴がありながら結婚の約束に忠実に留まり、再婚せずに、子どもたちを養うために、最善を尽くしている人々に対して、特に連帯感を感じます。困難の最中にありながら、寛大に生きるキリスト信者の一貫性の見事な証人として彼らを褒めたたえます。

一九八八年三月三〇日オーストリア司教協議会は、無効な再婚をした男女が、回心と聖体の秘跡にあずかることは控えながらも、教会の生活に参加し続けることには意義があり、それは有益であるという声明を出しました。

教皇も、離婚した後、再婚した男女が秘跡にあずかることの禁止は、決して同情がないからではないことを強調なさいました。それはむしろ、結婚の不解消性の中に示される忠実と愛を守るためです。これらのキリスト信者は決して教会から閉め出されてはいません。むしろ、彼らは大きな配慮と愛に値します。ラッツィンガー枢機卿は以下のように強調しておられます。「彼らも、神のみ言葉との一致、教会の祈りの生活、(秘跡的な一致がたとえなくても、感謝の祭儀への本物の参加である)聖体祭儀に参加できます。教会の愛徳の業、世界における正義実現のために働く教会に協力する数多くの機会もあります。また、彼らの子どもたちに福音のメッセージをもたらすことも、彼らの大事な使命です。基本的な、キリスト信者らしい、教会的な生き方の一部分である改俊と反省、そのわざに参加することもできますし、是非ともそうするべきです(司祭、助祭、司牧協力者への手紙、Ⅱ 、三)。

司牧者たちは、離婚後、再婚した男女が、兄妹として、禁欲を守って暮らすことに同意しない場合があることも承知しています。しかしこの男女が、ミサに出席し続けて共同体の一員として留まり、その信仰と希望を絶やさないように、司牧者は、最善を尽くして励まさなければなりません。神は、その真剣な努力を顧みて、彼らをお助けになります。彼らは、信仰、祈り、聖体拝領の禁止という教会の裁定への従順によって、結婚が死に至るまで続くことを証します。また、信仰を保ちさえすれば、神は自分たちを哀れんで、ついには悔い改めと和解に導いてくださる神に信頼していることも、彼らは神、教会、仲間である小教区の成員たちに証します。

回心は、典型的に一歩一歩、神のすべてのおきてを、最終的に、完全に受け入れるにいたるまで導いた多くの段階の過去の歴史があって、初めて可能なのです。放蕩息子は、自分の惨めな体験の間に、もとの家での平和の恩恵について反省する時間を過ごした後で、父の家に帰りました。司牧者たちは、離婚後再婚したすべての男女に、彼らの信仰を実践し、祈り、希望し、愛徳の業を行い、放蕩息子をついには完全な回心に導いたあのノスタルジアを心の中に保つように、励ますべきです。

いまは、罪の状態に生きているこれらのカトリック信者には、神の子たちとしての洗礼の印が、永遠に刻み込まれています。人工避妊をし続けているという理由で、ミサには来るけれど、聖体拝領には来ない男女についても、同じことが言えます(一章参照)。彼らは、弟のヨセフを殺そうとしたけれども、結果的には、彼を奴隷として売り飛ばしてしまったヤコブの罪深い息子たちのように、選ばれた民の一部です。創世記は、とてもひどい罪人たちであった、あの契約の相続者たちに対する神の忠実さの神秘を伝えてくれます。神は彼らを見放しませんでしたが、彼らの罪をおおい隠すために、白いペンキをその上に塗ったりもしませんでした。神は、その愛のため、決して彼らを見捨てませんでしたが、同時に、彼らが自分たちの過去の悪を見て、悔い改めるまでは、満足なさいませんでした。聖書は、世の終わりまでこの真実を告げます。創世記は、ヨゼフの兄弟たちがどれほど悪意に満ちて、彼を奴隷として、エジプトに売ってしまったかを語ります。しかし実は、その背後で、神はあるよい目的のためにヨセフをエジプトに送ったのでした。神は、彼らの悪い計画を完全によい結果に変えてしまわれました。信じられないような神のこの計画は、彼が兄たちを許したとき、初めて彼らに明らかにされました。

ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトに売った弟のヨセフです。しかし、いまは、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」(創世記四五・四〜五)。

ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなた方はわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」(創世記五〇・一九〜二〇)。

聖書に見られるように、神のお気に入りの計画は、わたしたちが描く曲がった線をきれいな真っすぐな善の線に変えてしまうことです。聖パウロも同じ意見です。「神を愛するものたち、つまり、ご計画に従って召されたものたちには、万事が益になるようにともに働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ八・二八)ですから、わたしたちは、時が来れば、この神の良さを、忠実に、ミサに来て祈る罪人たちも、味わうであろうことを確信できます。もし彼らがあきらめなければ、彼らの司牧者と、支持を惜しまない共同体の助けもあって、生きている間に再び悪に打ち勝つことができます。教会の教えに従って、彼らは、カトリック共同体の一員として礼拝に参加するべきですが、罪の状態に住んでいる限り、聖体拝領は控えなければなりません。

創世記にあるヤコブの息子たちの物語は、ご自分にかたどり、ご自分に似せて造られた人間、そのお気に入りの被造物を、神がどのように導かれるかのいい例です。聖書は、ヨセフの人殺しの兄弟たちの悪さを隠そうとしないどころか、かえって、それをはっきりと描きます。その上で、その後の生活の中で起こる出来事に追い立てられるかのように、彼らの過去の悪から、神が、善を生じさせたことをはっきりと教えます。善人ぶった兄たちは、初めはヨセフから非常に厳しい取り扱いを受けます。それも実は「厳しい愛」だったのでしょう。しかし、その厳しい処置は、彼らの目を覚ますのに役立ちました。そして初めて、彼らはヨセフと、そして自分自身とも和解できました。

わたしたちは、いわば教会に留まっていて、放蕩息子の兄のような立場にあります。わたしたちの罪のために苦しんで死んだキリストが、巡礼団の中の罪人であるわたしたち全員を導いて、ともに、歩いてくださっていることを忘れてはなりません。

ケース

あなたは○子さんの告白を聴いています。教会の法廷は、彼女の最初の結婚が無効であることを証明することはできない、それ故に、現在同せいしている男性と再婚することもできないと、判断しました。しかし、それにもかかわらず、彼女は、その最初の結婚が無効であったことを、確信しています。彼女の言葉から判断して、あなたも彼女の再婚は可能ではないか、と思います。あなたはこの内的法廷の判決で、彼女に聖体拝領を許可しますか。

答えは「いいえ」です。あなたは彼女に聖体拝領を許可してはいけません。結婚と再婚の試みは、内的法廷、つまり、彼女と神の間だけの問題ではありません。それは、公的な影響を持つ社会制度でもあります。教会が外的法廷で解けなかったものを、どんな司祭であっても、内的法廷でそれと異なる解き方をすることはできません。聴罪司祭とそのような男女は、教会の手続きと教会法を自分勝手に変えてしまってはなりません。共通善のために、わたしたちは教会の法律と決定に従わなければならないのです。

しかし、聴罪司祭としてあなたはこのケースをローマの内赦院に提出することができます。内赦院は時と事情によっては、再婚の自由の宣言を出すこともあります。これだけが内的法廷による合法的な解決です。その他のすべては、たとえそれが 「同情心のある」司牧者とか聴罪師によって、誤って解かれたとしても、教え、理性、教会法上の手続き、健全な神学に背きます。もっと詳しく勉強したければ、ウィリアム・スミス師の記事、“Remarrieied Divorcees and the Eucharist,”The Priest、「オーストラリア、一九九三年冬/春、七ページを読んでください(補遺その二はその翻訳)。

バチカンの発言

以上を書き終えてしばらく後の一九九四年一〇月一四日、無効な結婚をしている、離婚したカトリック信者の聖体拝領の禁止を再確認する文書が出されました。教会の教えに反した例外措置を認めていた三人のドイツ人司教たちは、過ちを認めて、方針を変更しました。ラッツィンガー枢機卿が署名し、教皇ヨハネ・パウロ二世に承認されたその手紙は、次のようなものです。

イエス・キリストの言葉に忠実に留まり、教会は、もし、前の結婚が有効であれば、新しい結合を有効なものとして認めることはできないことを確認します。

もし、離婚した人たちが市民法上の結婚をした場合、彼らは、客観的に、神のおきてに背いた状態に自分自身を置くことになります。その結果、この状態が継続する限り、彼らは聖体拝領ができません(Catholic News Service アメリカ合衆国、一九九四年一〇月一四日)。

同文書には追加して、教会は司牧的な方法でこれらの人々とともに歩き、彼らを状況が許す限り、カトリック教会の生活に参加するよう招くであろう、と書かれてあります。聖体拝領ができるために、これらの男女は別れなければなりません。もし、子どもがいるとか他の理由があって、別居が実際上難しければ、「彼らは、結婚した人に特有の行動を控えることによる、完全な禁欲の状態のもとに暮らす義務があります。」

長い目で見れば、この教えは結婚の永続性の強力な支えです。そして、願わくは、こういうことが動機となって、大きな困難が生じたときにも、危機にある夫婦が、彼らの結婚を救うために、格別な努力をするようになって欲しいものです。