四章 人口過剰の神話

*反・人口イデオロギーに取り付かれた国連人口活動基金
*巨額の資金によって肥大化した人口神話
*「人口増加は人類にとって悪いことではありません」…ジュリアン・シモン
*世界の人口増加と経済の発展は両立
*人口政策に関する教会の教え
*自然な家族計画は家族のためであって人口政策のためではありません
*人口の「目標値」は強制手段になってしまいます
*人口増加を抑える「第二次人口革命」
*人口増加を必要とする発展途上国
*人口を抑制する必要性は明白ではありません
*結論・多子家庭はわたしたちの支持と称賛に値します

反・人口イデオロギー一に取り付かれた国連人口活動基金(UNFPA)

一九九〇年以来、ニカラグアの文部大臣を務めているフンベルト・ベッリ氏は、自分自身の体験から、人口過剰の神話が、国連人口活動基金のイデオロギーを、どれほど支配しているか知り尽くしています。ベッリ氏は、人口と発展に関する国連カイロ会議に、ニカラグア政府が派遣した代表でした。彼の報告によると、人口過剰神話は、当然のこととされていて、それに質問を差し挟む人さえいない始末でした。それはまるで、インドの聖なる牛のような存在で、討論の対象外の問題でした。産児調節は、目の前に迫っている世界的な大危機から救ってくれる、唯一の希望であるかのような取り扱いを受けました。このような演出のために、人口過剰の神話は、まるで、質問不可のドグマであるかのような扱いを受けました。

まず…第三世界にとって最大の問題は人口増加である、という…反人口の偏見があります。これはドグマですから、だれも疑義を差し挟むことができません。

国連人口活動基金を通じて、先進工業諸国が推進する、明らかにイデオロギー的な提携関係があります。現在、かつてなく、反人口の偏見というイデオロギーで、世界のすみずみまでおおい尽くそうとする試みがなされています(HLIの人口研究所主催の大会での演説・The Cairo Examiner 一九九四年秋、一五〜一七ページ)。

国際家族計画連盟が乗っ取ってしまった国連人口活動基金の、これらの会議での宣伝と洗脳のあらしを堪え忍ばねばならなかったベッリ氏には、心から同情します。わたし自身も、一九六五、一九七四、一九八四年に開催された、カイロ以前の世界人口会議に三回出席しております。わたしの印象では、二回目以降の会議は回数を重ねる度に政治的になってしまいました。それに引き替え、ベオグラードでの第一回会議は、人口学と科学全般のためにより生産的であったようです。しかし、政治的操作にもかかわらず、それぞれの会議から確かに何かの収穫は期待できます。

一九六五年のベオグラード会議、最初の三日間は、オブザーバーであった産児制限賛成の国際家族計画連盟代表団による、容赦ないプロパガンダ攻勢に迷惑させられました。しかし、この騒々しいグループが引き揚げた後は、皆、落ちついて真剣な討議をすることができました。活字にして五巻にもなる議事録を読んでも分かるように、しっかりした科学的論文の発表がありました。たとえば、シモン・クズネッツの研究は、地平線を展望するかの感がしたものです。それは、全体的に見ると、歴史に記録のある各国の経済的発展の中に、いわゆる急速な人口増加に起因する経済成長、もしくは経済成長の不可避的なブレーキは観測できないことを示唆しました。引き続いて聞かれた同様な性質の研究発表は、人口増加が経済発展にとって有害である、という考えに強く反論したものです。まともな科学者なら、よほど限定的装飾語で制限しない限り、このような単純極まりない主張をすることはありません。

一九七四年のブカレスト会議は、残念なことに、国連人口活動基金の拠出と人口減計画に突破口を与えてしまいました。この会議で印象に残ったのは、マルサス理論丸飲みの西側資本主義諸国に中国代表が浴びせた軽べつの言葉でした。通訳に自分のペースに合わせるよう発破をかけながらの、彼の火のような熱弁は機関銃弾のように会議場の壁に跳ね返ったものです。彼の発言をまとめると「人口増加はそれ自体はよいものであるが、それが問題になるのは政府の無能さに責任がある」というものでした。

第三世界には、世界人口の七〇%以上にあたる三〇億近い人口があります。この事実を、どのようにして正しく解釈するかを、ここでわたしたちは、まず、決定しなければなりません。ある超大国が断定的に主張しているのは、「人口爆発」が、アジア、アフリカ、ラテンアメリカで起こっており、そのために、「人類の破滅」が迫っているということです。もう一つの超大国は、ある会議でマルサス主義に反対したと思えば、別のところでは「急速な人口増加は、発展途上国の首にかけられた、石うすのようなものだ」といったたぐいの厚かましいプロパガンダをしています。「米国とソ連」、この二つのスーパーパワーは、二重唱をしながら、熱心に第三世界の人口増加を、大きな悪に仕立て上げようとしています。このうそに反論しなければ、世界人口のどのような討論にも正しい出発点はない、ということになるでしょう。世界のすべてのものの中で、人間こそもっとも大切なものです。ひとたび、人々が自分自身の手にその運命を握りさえすれば、彼らには、奇跡が可能になります。労働者、創造者、道具の使用者としての人間は、社会の生産力の中で、決定的な要因になります。人間は、まずは生産者であって、その次に消費者です…(Population and Development Review 一九九四年六月、四五一ページ参照)。

しかし中国は、ブカレスト会議直後、一八〇度の政策転換をしてしまいました。全体主義的反・赤ちゃん政策を採用した後、人口増加に賛成であったあの演説は、一夜にして、ジキル博士がハイド博士に変身するかのように、変化してしまいました。しかし中国に関しては、その政府が再度「世界のすべてのものの中で、人間こそもっとも大切なものです」という、あの基本的な洞察をいつか採用する日を待ち望みたいものです。これは、現在の「一子政策」の愚より、はるかに、古くからの中国の知恵に合致するものです。中国研究者、チェン・フアンーチァン博士が言うように「孔子の例から、中国人はいつでも、人民は国の財産の主要な要素であると考えます」孔子は、国は外国からの移住者を奨励すべきである、と言っています。そして、もし為政者の質が高ければ、「人々は子どもたちをおぶって四方からやってくる」と言いました(チャン、一八〇ページ参照)。だから、孔子の英知によれば、よい政府こそ、人口を積極的な国家の財産にするかぎです。

一九八四年のメキシコ会議で、米国は人工妊娠中絶は決して「家族計画の方法として推進される」べきではないと主張し、会議はこの箇条を採用しました。しかし、それは反対者たちののどに引っかかった魚の骨のようなものでした。

一九九四年会議の準備草案を書いた計画責任者たちは、メキシコシティーの反・中絶条項を逆転しようと努力し、大規模な人工妊娠中絶計画の提案もしました。彼らは、会議が伝統的な家族を信頼に値しないものにし、そのかわり、解放された性道徳を推奨するように、ずる賢く立ち回りました。発展に関するすべての問題点を解決するために提案された草案の全般的態度は、人口増加を抑えることに尽きました。しかし、いくつかの回教国とカトリック諸国に支持されたバチカンの強力な反対運動は、その草案の急進的反・赤ちゃん条項と、同じ様な全体的調子をかなり弱めました。これは、世界の人々の目に映る、国達人口活動基金のすべての反・赤ちゃん運動の評判を落とし、新しい方向に針路を変更するのに大いに役立ったと、わたしは信じています。APニュースはこの点について次のように伝えています。

バチカンに対する重要な譲歩によって、妥協案では、人工妊娠中絶が決して家族計画の手段として推進されるべきでない、という一九八四年人口会議の条項が復活した…米国がプロ・チョイス政策を広めようとしている、というバチカンの攻撃で米国副大統領アル・ゴア氏は、守勢に立たされた。彼は、会議中、米国が産児制限の手段として人工妊娠中絶に賛成したことはなかった、と何度も主張した(Mainichi Daily News 一九九四年九月九日)。

カイロ会議の結果、カトリック教会と、そのイデオロギーで国連人口活動基金を支配してしまっている家族計画連盟の二者には、同意できる共通の場がほとんどないことが、ますます明白になると、わたしは信じます。反・赤ちゃんイデオロギーによる現在の考え方から自由になるまで、国連人口活動基金が頼りにならないことがはっきりしました。だから教会は賢明に、将来も、家庭を守るために自分にある資産をもっとよく生かすことが望まれます。国連にとっては、その「発展」部門と国連人口活動基金を完全に分離してしまう方が賢明である、とわたしは信じます。その間、教会は神のメッセージを伝えるものとして、避妊と人工妊娠中絶を禁じる神法を変更することはできません。また、子どもの数の決定という両親に属する権利を政府に帰することもできません。教会と家族計画連盟が同意することは決してないでしょう。ある賢人は次のように言っています。

一度背かれれば、兄弟はとりでのように、いさかいをすれば、城のかんぬきのようになる(箴言一八・一九)。

巨額の資金によって広まる人口過剰の神括

一九九四年のカイロ会議の結果として、特に心配しなければならないことは、人口増加を抑えるために、予算をさらに増額するようにという勧告です。その「計画」は、現在の年額六〇億ドルから、二〇〇〇年までには一七〇億ドルの支出を勧告しています。金は、「どん欲は道徳を堕落させる」というシャイロックの法則に従って、健全な人口政策をゆがめる傾向があります。三〇年前のことになりますが、わたしは、韓国政府のあるカトリックの高官に「避妊が人工妊娠中絶につながることは既知の事実であるのに、なぜ韓国の厚生省は人工避妊を支持するのですか」と質問したことがあります。彼の答えは次のようなものでした。「残念なことですが、厚生省の役人たちは、いつも予算が少なくて困っています。実際に動かせる金に不足しているのです。ところが、人口政策に予算を付けるという提案であれば、それが何であっても、米国から直ちに同意と資金を得ることができるのです」国連人口活動基金が、一〇万人に給料を払って、反・人口増加の使者を、今後、発展途上国に展開できれば(平均支出毎年一人当たり一七万ドルとして一七〇億ドル)、将来、これらの発展途上国では、大規模な反・赤ちゃん運動が予想されます。これらの国々のいくつかでは、すでに今日、信じられないような赤ちゃん攻撃の雰囲気が高まっています。タンザニア・パラミホから、ジュリアン・カンガラウェ神父は次のように報告しています。

わたしたちは、この国での反・生命運動の急激な加速度に警戒する必要を感じています。不妊のための精管切除術、人工避妊薬、コンドーム、ノープラントは、すべて、すさまじい圧力のもとで人々に勧められます。そのスポンサーは、USAID/UNICEFその他です。ラジオのプログラムは、すべて、民衆を洗脳してしまうために、人々を激しく責めたてます。わたしたちは、説教台から、そしてその他の手段で反撃はしていますが…(私信、一九九四年八月八日)。

「人口過剰神話」は、主にマス・メディアの創造によるものであり、その起源は極最近のものでしかありません。わたしたちの祖父や祖母たちは、人口過剰のことなどあまり心配していませんでした。米国は、外国から移住者が流入している間、経済の急発展を遂げました。三〇〇年間に、米国の人口は五〇〇万から二億五〇〇〇万に増加して、他の諸国の発展のけん引車になりました。アントン・ドヴォルザーク(一八四一〜一九〇四)は、その絶妙な「新世界交響曲」で、生き生きしたアメリカの発展を体験したことを祝い、工業化によるアメリカの進路を不滅のものにしました。ドヴォルザークの音楽に産児制限とか、発展途上国援助とかの不協和音は少しもありません。アメリカ合衆国の人々と移住者たちは、自分自身を発展させたのです。彼らは(原文・わたしたちは)、先祖たちより、はるかに豊かに暮らしているというのに、なぜ、そんなに心配するのでしょうか。メディアによる情報頒布を可能にした金が、人口過剰がわたしたちの第一の敵であるという、現在まかり通っている真っ赤なうそを、信じさせてしまったことは否定できません。悪い金は、道徳を腐敗させます。

ジョン・D・ロックフェラー二世は、一九七四年ブカレストの世界人口会議の際の非公式会合に出席していました。そこで、彼は自分が一人の青年として、自分の大きな資産を、人類の善のために、どうすればもっとも有効に使うことができるかを探した、と語りました。結局、それは人口抑制運動である、という結論に達し、四〇年にわたる活動の後、人口問題は、不可分に発展問題につながる、と考えるようになった、と彼は驚きを隠せないブカレスト会議の参加者たちに発表したものです。「彼は、四〇年におよぶ産児制限のための努力の後の心境の変化であると、これを説明した」と報じられました(ブカレスト、AFP、毎日新聞に掲載、一九七四年八月二九日)。しかし、一九七四年に彼が心境の変化を発表して以来、現在に至るまで、ロックフェラー財団から資金援助を受ける諸事業の行動には、ごくわずかの変化しか見られません。その反・人口の諸計画は、もう一方の発展のための諸計画を、完全に、そして常時、おおい隠し続けています。

ロックフェラー財団は、メディアを通じて人口増加の脅威を大声で宣伝し続けてきました。わたしたちは、このような事業のありかたを断固として批判しなければなりません。人々は、簡単にだまされやすいからです。人口過密の世界という想像上の怪物は、それについて考え始めると、わたしたちを悩ませ始めます。アダムとエバが始めたこの足し算とかけ算は、一体どこに行き着くのだろうか、わたしたちの世代はよくても、次の世代はどうなるのだろうか、といった具合です。

マーガレット・サンガー夫人は、性が快楽のためだけにあって、わたしたちは、子どもを生むことなくそれを享受しなければならない、という要旨で、多くの聴衆を魅了したものです。家族計画達盟内の彼女の弟子たちは、いまなお、米国の学校内で、わたしたち(米国人・訳者)の税金から給料を受け取りながら、わたしたちの子どもたちにこういうことを教え続けています。子どもたちは、好奇心があるので、大喜びで彼らのメッセージに耳を傾けます。人口過剰の脅威は、いま、性的放縦を勧める際のもっともらしい言い訳になってしまいました。しかし、人口過剰は、現在、予見できる将来に、脅威、しかも本物の脅威なのでしょうか。それとも、人口増加は、命のたまものを享受し、しかも、かなり高い生活レベルにあるわたしたちも含めての社会にとって、一番よいことなのでしょうか。

反・人口の諸基金から金を受け取っていない、何人かの立派な科学者たちは、世の終わりの予言者たちが描いているのと、まったく異なる予想図を描いてくれます。たとえば、ジュリアン・L・シモンは、わたしたちに人口の増加を喜び、祝うよう、招きます。なぜなら、人間は、生活向上に貢献するための最良の資源だからです。以下に、彼の論文の一つを選んで掲載しましょう。

「人口増加は人類にとって悪いことではありません」…ジュリアン・シモン

人間が多すぎるとか、赤ちゃんが生まれすぎるとかいうヒステリー症状が、再発しています。テレビは、人口が増えれば生活はいまよりもっと貧しくなり、先々はさらに悪化する、などと同じことを繰り返す、故アンドレイ・サハロフとかダン・ラザーを、有名人だからという理由だけで引っぱり出してきます。新聞も、両手を挙げて賛意を表します。一九八九年六月三日、ワシントン・ポストの典型的な社説は「発展途上国では…受胎率が、経済発展、健康、教育の機会にとって足かせになる」と述べています。ノーベル賞受賞者レオン・レーテルマンも、アメリカ科学振興協会会長候補としての声明の中で、「人口過剰」がわたしたちの「現在の諸危機」の一つである、と言っています(一九八九年発表)。全国婦人連合(NOW・National Organization of Women)会長は、現在の人口増加が、「破滅的」であると警告します(ナット・ヘントフ、ワシントン・ポスト、一九八九年七月二九日)。ウースター実験生物学財団の理事長は、「人口過剰と、ますます悪化する環境を改善するために…」人工避妊薬の研究のための予算を増額するよう、呼びかけました(ウォール・ストリート・ジャーナル、一九八九年八月一四日)。以上は、一夏だけのサンプルに過ぎません。

人口増加についての誤った信念は、わたしたちにとって高くつきます。それは、国の経済と政治システムから、注意をそらしてしまいます。しかし、わたしたちには、国の政治、経済システムはその経済成長にとって、決定的なものであることが、いま、よく分かっています。貧しい国での急速な人口増加が経済成長を遅らせるという誤った思いこみがなかったら、多分もっと急速に、また、もっと多くの国が、全体主義とか中央経済計画などと無縁な自由な経済改革を採用したことでしょう。富裕な諸国にも、人口増加と天然資源の不足という想像上の帰結に対する誤った思いこみがあります。それは、合成燃料推進とか、もっと資源に不自由している時代であれば適当であったかもしれない飛行機の開発、などの計画による無駄の原因になってきました。現在見られるような米国政府の反・人口増加の外交政策は、政治的には、危険なものです。なぜかというと、そうすることによって、インディラ・ガンジーが不妊化政策のために政権移譲を迫られたときのように、世界の諸国から、米国人が人種差別的であるというレッテルを張られてしまうからです。さらに、人口増加は経済発展を遅らせるという誤った信念があります。それは、中国、インドネシア、ベトナムのように、本来なら夫婦が決定する聖にして価値ある選択の一つ…夫婦が、生み育てることを望む子どもの数…という個人的自由に属することの強制、否定などの非人間的な諸計画を支持させます。

これらの思想は他の公の出来事にも影響します。一九七三年、最高裁判所判事ポッター・ステュワートが、ロー対ウェイドの判決の際に投じた一票は、ボブ・ウッドワードとスコット・アームストロングによると、正にこのような思想に影響されたものでした。「ステュワートが見るに、人工妊娠中絶は人口制御のための合理的な解決になりつつあった」(ニューズ・ウィーク、一九八七年九月一四日に引用)。一九八九年ウェブスター裁判のとき、サンドラ・デイ・オカナー判事は、前法務次官チャールス・フリードにした仮定的質問の中に、再度、人口過剰の問題を持ち込みました。以下がその質問です。「将来、わたしたちに深刻な人口過剰の問題があると仮定して、女性たちに何人か子どもを生んだ後は、国家に人工妊娠中絶を強制する権利があると思いますか」人工妊娠中絶に対する個人的態度が、どんなものであっても…不健全な議論は、こういう討論のときには持ち込まれない方がいいように思えます。このような思想の垂れ流しは、長い目で見ると高くつくものです。

それでも、いまは一九七〇年の「地球の日」に引き続いて、多くの人を不安におとし入れたあのころとは異なります。人口増加が紋切り型の世論とメディアが信じているような化け物ではないということは、いま科学的にしっかり証明されています。一九八〇年代に、経済発展にとって急速な人口増加が果たす役割に対する科学的思考には変革が起きました。現在までに、経済学者たちはほとんど完全に、人口増加が経済発展に決定的なマイナスの要素である、という以前の考え方から離れてしまっています。人口増加が、あるケースでは小さなマイナス要素でさえあるか、または長い目で見ると、それは利益になるかどうかという点については、いまでも議論がなされています。しかし、もはや、米国とか他の国々の政策の基盤であった以前の考え方に科学的支持はありません。

二五年間もの間、米国の「援助」の諸制度は、飢餓に苦しむ子どもたち、文盲、公害、天然資源の供給、緩慢な発展ぶりなどの世界経済発展問題を、誤って評価してきました。世界銀行、国務省の国際発展のための援助(USAID)、国連人口活動基金(UNFPA)、環境諸団体などは、その原因が人口増加…人口 「爆発」または「爆弾」、「人口禍」…であると言い続けてきました。この思想は、アメリカ合衆国の発展途上国援助に関する理論の中核でした。ほとんど同じ期間に、人口増加の諸効果については、この紋切り型の知恵に矛盾する、確固とした一群の統計的な証拠が、実は、存在し続けていたのです。それらの証拠は、発展途上国に対するアメリカ合衆国の人口政策を裏付けていた諸思想が、間違いであったことを示すものです。

「公式の」変換点は、「人口増加と経済発展」という題の、一九八六年の国立調査審議会と国立科学院(National Research Coucil-National Academy of Science・NRC・NAS)による報告です。これは、同じタイトルで同じ協会から一九七一年に出された報告を、ほとんど全面的にひっくり返してしまいました。あれほど警戒の的であった資源の特殊な問題について、NRC・NASは次のように結論しています。「有限の資源の供給不足は、経済発展にとって、それほど重要ではない制約に過ぎません…資源枯渇をもたらすとする、急速な人口増加の衝撃の心配は、しばしば誇張されていました」そして一般的結論は、せいぜい「結局、わたしたちは緩慢な人口増加の方が、ほとんどの発展途上国にとって有益であろうという結論に達した」という程度のものです。つまり、国立調査審議会と国立科学院は、人口増加がプラスとマイナスの方向に働いている力を発見したのです。また、その結論はすべての国に必ずしも当てはまらず、そして効果の大きさは、そこに効果があると信じられるときでさえも不明である、ということです。これは、増加した人たちを、発展にとって全面的なお荷物であると考える、過去の一枚岩の性格付けからの顕著な変化であるといえます。しかし、この思想の革命を、メディアはいまのところ取り上げていません。そのために、この問題に関する一般人の考え方にはまだなんら影響を及ぼしていません。

現在、一世紀以上にわたるデータが入手可能ないくつかの国を対象にした、二〇数件程度のしっかりした統計的研究があります。また、第二次世界大戦以来のデータが入手可能な、多くの国に関する研究も存在します。その基本的な方法は、各国の人口成長とその経済発展の率を調べます。それから、サンプル中のすべてのデータを見て…高いい人口成長率を持つ諸国の経済成長率が、平均より低いかどうか、そして低人口成長率を持つ諸国の経済成長率が、平均より高いかどうかを…調べます。

これらの研究の明りょうな一致点は、より速い人口増加率はより遅い経済成長率とは結びつかない、ということです。平均して、人口増加がより速かった国は、経済的により遅くは発展しなかったといえます。つまり、より急速な人口増加は、より緩慢な経済成長の原因であるという信念を裏付ける基礎が、統計の中に実は存在しないということです。

それにつけ加えて、同じ文化、歴史、生活水準を共有しながら、第二次世界大戦後、分割されてしまった東西ドイツ、北朝鮮と韓国、中国と台湾などの対になっている国から、強力な追加証拠があります。それぞれのケースにおいて、中央で計画が作られる共産国は、一平方キロ当たりの人口で計測すると、市場指向の非共産国よりもより少ない人口の「圧力」のもとで出発しました。そして共産主義国家も非共産主義国家も、大体同程度の出生率と人口増加率を持っていました。

市場指向型の経済は、経済的には、中央計画型の経済よりはるかにいい成績を上げ、給料もより速く上がりました。一人当たり何個電話があるかなどの下部構造の主要指数は、さらに高いレベルの発展ぶりを見せてくれます。自動車や新聞などの個人の富と個人消費指数も、中央計画、中央制御型の経済と比較して、市場指向の企業経済の方がはるかに有利であることを示しています。さらに、市場指向の諸国では、少なくとも、中央計画の国と同じ程度早期に、そして同じ程度の速度で、出生率が下がっていったのです。

これらのデータは、計画経済よりも企業システムの方が、よりよく機能するという確固とした証拠を示してくれます。この経済発展の強力な説明は、もっともらしい説明としての人口増加の足下をすくってしまいます。そして、自由がある、という条件のもとでは、人口増加は、短期的に見ると、政府が計画する経済の条件の下でよりは、問題としてより小さく、そして、長期的に見ると、より多くの利点をもたらします。

わたしたちは、マルサス理論に内包されるあの説得力ある常識が、なぜ間違っているのだろうと、必ず考えてしまいます。確かに、短期間だけを考えれば、追加された人間…赤ちゃんとか移住者…は、不可避的に、すべての人間にとって、より低い生活水準を意味するでしょう。親であればこれは、だれにでも理解できることです。消費者が増えると、増えた人数で分けられた定量の入手可能な在庫品の分け前はより少なくなります。同じく、現在あるだけの資材を使って働く労働者たちの場合であれば、一人あたりの生産量は少なくなります。後者の効果は「収益逓減の法」といわれ、マルサスが初めてその思想を発表したときの中心理論でした。

しかし、もし、人々が使って働く資本が、その期間内に定量でないケースも分析すると、マルサスの収益逓減の論理は、当てはまらなくなります。そして、簡単な事実は、不足に適応する時間が、いくらかでもあれば、資源という基盤は、同量に留まらずに、人々はいろんな種類の資材を作ってしまいます。馬に引かせる運輸量の限界が、大問題になったころには、鉄道と自動車が登場しました。校舎が一杯になってしまうと、わたしたちは、新しい学校…古いものよりもっと現代的でいいもの…を建ててしまいます。

人手によって作られる生産財と同様なことが、天然資源についてもいわれます。前世紀、ビリヤードで使うぞうげのボールの材料になる象のきばが不足したとき、代用品には、賞金が提供されたものです。それで、セルロイドが発明され、後には、わたしたちが、いま、使っているプラスチックが登場しました。一六世紀に、木が少なくなったとき、英国人は、石炭を使い始めました。電話通信のためには、人工衛星と砂から生産されるファイバー・オプティックスが、高価な鋼に取って変わりました。そして、新しい原料は、従来のものより安くなるのが常です。文明の全過程は、正にこういうものでした。

まさか、と思われるかもしれませんが、資源の不足は…つまり、不足の経済的度合いの係数は…全歴史の行程を見ると常に、上がるより下がる傾向があります。この傾向は、少なくとも、人間歴史の中に見られる、他のどんな傾向とも同じくらい信頼できます。すべての天然資源の一定量を購入するために必要な賃金によって計測した値段は、データが存在する限りさかのぼってみても、下がる一方です。一ポンドの銅…すべての金属、そして、他の天然資源の典型的なもの…はアメリカ人にとって、現在、時間給で計って、二世紀前の二〇分の一で買うことができます。そして多分三〇〇〇年前と比較すれば、現在は、当時の一〇〇〇分の一の値段で購入できるということでしょう。一八〇〇年以来の米国のその歴史は、グラフ1に示されます。天然資源の価格は、グラフ2が示すように、消費財と比較しても下がってきています。

グラフ1

資源創造の過程には意外な面があります。一時的もしくは期待される不足は…それが、人口増加、収入増、または、他の理由によるものであっても…その不足に対応して作り出された知的、物的資本がもたらす利益のせいで、その不足自体が存在しなかったときより、わたしたちを豊かにします。それは、過去においては常に真実でした。それ故に、わたしたちは種々の問題を解決する必要があるだけでなく、人口と収入の増加がもたらす種々の問題を、むしろ必要とするということは、おそらく未来においても真実でしょう。

不足が減少するという考えは理解を絶します。なぜならそれは、わたしたちが一定量の資源で出発し、その中の幾分かを消費すればそれだけ残りが少なくなる、という常識に基づく推論を真っ向から無視しているからです。しかし、実際問題として、わたしたちがその資源を発見し、その資源がどのように使用できるかを確認し、それらの資源を入手し、加工する方法を開発するまで、その資源は存在すらしないのです。わたしたちはこれらの課題を日ごとに発達する技術でこなします。だから、不足が減少するのです。

グラフ2

全般的傾向としては、天然資源は、経済発達に伴って、ますますその重要性を失いつつあります。採掘産業は、現代経済の中では二〇分の一もしくはそれ以下、という小さな部分を占めるに過ぎません。しかし、この部門は、貧しい経済の中にあって不当に大きな分け前にあずかっています。日本とか香港は、天然資源の不足を克服しているといえます。昔であったら、資源からこのように独立することは不可能でした。またアメリカ経済にとって農業はきわめて大事な部分であると思われていますが、もし明日そのすべての所有権を失ってしまっても、アメリカはその年間GNPのわずか約九%を失うに過ぎません。これは、時がたつにつれて、天然資源の不足が経済発展にとっては増大する束縛であるというより、ブレーキとしての役を果たすことが少なくなっていることの追加証拠です。

しかし、一つの決定的な「天然資源」つまり人間は、ますます不足してきています。以前より多くの人間が地上に住んでいるのは確かな事実ではあります。しかし、もしわたしたちが人間の不足を、経済資源の不足を測定するのと同じ方法…市場価値…で計ってみると、人間は、実に、ますます少なくなっています。なぜなら、世界中どこでも、時間当たり労働賃金が上昇しているからです。一例を挙げると、エジプトの農業賃金は、上昇してきており、人々は、湾岸地域での労働力の需要が高まったために、働き手が少ないことに不満を漏らしています。わずか数年前、エジプトで労働は供給過剰であるといわれていたのにです。

ある人々が主張するように、ますます増加しつつある空気と水の汚染のために、人口増加を抑制しなければならない、という考えもあまり意味がありません。実際に、わたしたちの空気と水は、年々、汚くなっているのではなく、米国の例をみれば、一九六一〜一九七四年の間に、少しずつ改善されつつあります。これは紋切り型の従来の考えとは正反対です。

もっとも重要で、驚くべき人口学的事実…わたしの意見では、人間による歴史上最大の成功…は世界の死亡率の「最近の」低下です。出生時の平均余命が、二〇歳ちよっとから二〇代後半に上昇するのに何千年もかかったのに、わずか過去二世紀の間に、先進諸国での平均余命は三〇歳未満から七五歳前後まで急上昇しました。これより偉大な出来事を人類はかつて経験したことがありません。

そして第二次世界大戦のしばらく後の一九五〇年代に、貧しい国々の平均余命も、農業、衛生、医療の進歩に伴って、一五いや二〇年ぐらい伸びました。これは人類にとってどえらい勝利ではありませんか。この死亡率の減少こそ、以前より現在、世界人口が増加していることの原因なのです。

言い方を変えれば、一九世紀に惑星地球は一〇億人しか養うことができませんでした。一万年前は、たったの四〇〇万人だけが生き長らえることができました。現在、五〇億人の人たちが、以前より、平均しての話ではありますが、もっと長く、もっと健康に生きています。世界人口の増加が意味するのはわたしたち人類が、死に打ち勝ったということに他なりません。

人類を愛する人であれば、荒々しい自然の力を人間の頭脳と組織が克服したのですから、普通なら飛び上がって喜んでもおかしくありません。それなのに多くの人は、人口増加が発展のために邪魔になると心配して、こんなにたくさんの人々が生きて生命のたまものを享受していることを嘆き悲しむのです。この見当違いの心配が、夫婦が決定することのできるもっとも貴重な選択…彼らが何人子どもを生み、育てるか…という個人の自由を束縛したり、否定したりする非人間的な計画に賛同させるのです。

グラフ3 米国の飲料水の傾向

グラフ4 全米推定大気中放出物質の要約

それから、戦争と暴力の化け物もいます。「抑制無しの人口増加に原因がある戦争の多発」に対する恐怖心を引き起こす、典型的な最近の見出しを一つ紹介しましょう。「過剰人口増加はアメリカ合衆国にとって安全上の脅威」というものです。これは、ヒットラーの「野望」の絶叫とか日本の高人口密度は領土の追加を要求する、といった第二次世界大戦前の日本人の信念を思い起こさせます。

人口と戦争の関係についての科学的な文献については、聞いたことがありません。注目に値するのは、クインシー・ライトによるあの偉大な、時代を通じての戦争の研究(一九六八)、ナツリ・チュークリによる最近の戦争に関する研究(一九七四)、ゲイリー・ツークによる、一入七〇〜一九一三年のヨーロッパの研究(一九八五)などです。これらの系統的分析の研究が示すデータは、人口増加と経済的資源を求めての闘争に起因する、政治的不安定との相互関係を示しません。いわゆる、相互関係と称するものは、だれでも(特に、CIAと国防省)が本当である、と「知っている」、例の考え方の一つです。しかし、一見完ぺきに論理的であるように見える、この理論を裏付けるような事実に基づく根拠はありません。

人口と人口増加のもっとも重要な利点は、有益な知識の在庫が増加するということです。頭脳は、手や口と同じく、いや、手や口にもまして経済的に重要です。進歩は、優秀な人間がいるかどうかに大きくかかっています。世界の進歩を速めるための主燃料は、人間の知識の蓄積です。そして、究極的資源は自分たちとその家族のために、そして必然的にすべての人の利益のために、自分たちの意志と想像力を活用する人々、技術を持ったやる気のある人々、希望に満ちた人々です。

しかし、いくら技術を持っていても、人々が自分の才能を開花させ、実らせるために、一生懸命に働き、危険さえおかすためには、動機を提供するような社会的経済的な体制がなければなりません。このような体制の決定的要素は、私有財産の尊敬、経済的自由と両立する法に基づく、公平で納得のいく市場のルールです。このようなやり方の中にこそ、正義、英知、限りない経済的、人間的発展の約束があります。

わたしたちの展望は、次の二つのうち、どちらでしょうか。人口抑制運動に狂奔する世の終わりの予言者たちが提供するのは、制限、減少を続ける資源、生き残りゲーム、管理、劣化、恐怖、争いなどです。これらは、政府による市場と家庭内の事情へのより大きな介入を要請します。それとも、わたしたちの展望は、楽天的に、人々を重荷でなく、資源であると見なす人たちと同じであるべきでしょうか。それは、減少する制限、増加する資源と可能性、皆が勝者になるゲーム、創造、高まる興奮です。個人も、会社も、個人的幸福の追求の中で自発的に行動して、公平なゲームのルールによってだけ規制されるときに、経済的進歩を維持増進し、自由を推進するために必要なものを生産するであろうという信念です。

わたしたちのムードとしては、どちらが好ましいのでしょうか。人口抑制論者たちは、わたしたちが悲しく、心配していなければならない、と言います。わたしと他の多くの人々は、そう思いません。むしろ、もろもろの傾向は、人間生活を…健康に、しかも世界中で急速に高まりつつある教育と機会の可能性に恵まれて…支える新発見の能力を喜び祝うよう招いている、と考えます。人口抑制論者の、あまりにも心配しすぎる態度は、失望とあきらめになってしまう、とわたしは信じます。人類のエネルギーあふれる努力があれば、過去にもそうであったように、将来、わたしたちの数、健康、富、機会はすべて増加するであろうと期待することは、合理的であると思います。

以下ジュリアン・L・シモンの転載記事に関する文献(原文のまま)

Additional references may be found in my The ultimate Resource (Princeton: PUP,1981),and“Population Growth,and Foreig Aid”in The Cato Journal 7,Spring-Summer,1987.Choucri,Nazli,Population Dynamics and International Violence,(Lexington,MA: Lexington Books,1974).Zuk,Gary,“National Growth and International Conflict: A Reevaluation of Choucri and North`s Thesis,”Journal of Politics(1985),47: 269-281.

ジュリアン・L・シモン教授の紹介

ジュリアン・L・シモン博士は、メリーランド大学経営学部の教授です。彼にはThe Economic Consequences of Immigration (Basil Blackwell、一九八九年)という近刊があります。その他、一二冊以上の著作があり、その中にはThe Ultimate Resource(Princeton,PUP、一九八一年)が含まれます。この記事は著者の許可を得て掲載されました。

経済的発展と両立する人口増加

ジュリアン・シモンが孤立しているのではなく、他の科学者たちもこのような考え方に賛意を表していることを示すために、ここに追加の著者たちを何人か紹介しましょう。かなり以前のことですが、一九六二年、ハーバード大学のシモン・クズネッツ教授は急速な人口増加が、急速な経済発展と、実は、双子の兄弟であるという特徴があると発表しました。この論文は、ニューデリーで開かれたアジア人口会議の参加者たちに衝撃を与えたものです。歴史的に、現代の経済成長を特徴づける一人あたりの生産の高い伸び率は、まずは、人口減のためでなく、むしろ、高率の人口増加に伴って出現したことは事実である、と彼は書いています。両方とも…一人当たりの高生産と高人口増加率…同じ根本的過程の徴侯、つまり、一般的に経済的社会的組織の諸問題に、新しい科学的手段と知識を適用するということでした。討論のリーダーは、高人口増加率が、経済的成長と発展にとって主な阻害要素であるという思いこみは、再検討の余地がある、という結論を出しました(会議中に筆者が取ったノートから)。

急速な人口増加こそ、実は、ある国が成功裏に経済的離陸を始め、引き続き強力にそして永続的に経済的成熟を達成する際に、わたしたちが、普通、期待する一つの要素なのです。アメリカ合衆国の人口は、狩猟、収集、その他自給自足的な農業中心の経済から、現在のハイテク・スーパー経済に移行する三〇〇年間に、二五倍以上も増加しています。その時期多かった多子家庭と、仕事を渇望して移住してきた何百万もの人々の労働力の貢献が、アメリカ経済の生産性をますます高レベルに押し上げました。

ほぼ同じように、発展途上諸国の若い世代は、将来の国家経済発展にとって、極めて当然な、自然の配剤である、といえます。新しい発展途上国の、健康で、栄養の行き届いた、規律ある、熱心な、若い労働力が、工業化にとってなぜ必要であるかを、理解するのは簡単なことです。古い世代の労働者たちが、技術的革新を成し遂げようとしても、彼らはたぶん余りにも多くの部族のタブーに制約されているでしょう。もっと可能性があるのは、彼らが貧弱な食生活、季節ごとのマラリアの発作、胃腸に巣くう寄生虫、衰弱の原因になるその他の病気によって、おそらくは健康を害しているであろうということです。彼らの技術的知識は、焼き畑農業、苦労しながら、棒とくわなどを使用する、人力に頼る耕作といった原始的手段に限られているかもしれません。彼らはその労働力の七〇〜八五%を、ひたすら生存に必要な食糧、繊維、住居を確保するために費やしていることでしょう。

現代、健康な若い世代は、向上した健康を享受し、食生活を改善し、学校に行って新しい技術を身につけます。生産額にすると、すぐに彼らの両親の二〇倍もの生産を始めるとき、以前からの状態を、全面的に、速やかに変化させることができます。論理的にいえば、新しい労働力がより強ければ強いほど、より数が多ければ多いほど、他の要素が適正であると仮定した上で、国家はその経済を急速に改善できるでしょう。しかし…これがかぎなのですが…よい政府と青少年のいい教育が必要です。自由な企業は、人々がよく働き、資本を投下し、革新し、移住し、自分たちの持つ可能性を十分に引き出すように動機づけるものです。そうなれば、社会的な福利と生活レベルの向上は、大きな進歩を遂げます。

健康な青少年人口の急増は、国の最良の資産であり、新しい国家経済を発達させるために必要な推進力そのものを提供します。時が経つにつれて、地方の経済も都市の生産性に伴われて、改善されます。そして、食糧、繊維、基本的な住居を生産するためには、労働力の一五%で足りるようになります。典型的に、地方から都市に移住してきている残りの八五%は農鉱業から仕事を替えてしまいます。彼らは新たに必要となる道路、通信設備、工場を建設します。病院、学校、郵便制度、印刷業、銀行を運営し、放送、スポーツ、娯楽に従事し、研究者になり、文化的な事柄の追求を職業にするようになります。

アメリカ合衆国の例を見ましょう。今日、二億五〇〇〇万の全人口の〇・五%にあたる一、二二六、○○○人が、農業に従事しています(合衆国の一九九一年度Statistical Abstract`六四四ページによると、一九八九年度の数字は、男性九五五、○○○、女性二七〇、○○○人になっています)。彼らが二億五〇〇〇万人のアメリカ人と国外の無数の人たちのための食糧、繊維を産出します。これは、一人で、優に二〇〇人は養っている計算になります。もちろん、わたしはここで、あまりにも単純化しているきらいはあります。そして、家族農場が個人経営者でなく、銀行が支配する農業企業にとって代わられたことは、大きな文化的損失ではあります。しかし、これらの数字は、もっと効率の悪い経済と対比して、この工業化された国で人々を養うのが、どんなに簡単になったかを示してくれます。現在、二億五〇〇〇万人が、どちらかといえば恵まれた生活をしているアメリカ合衆国で、昔は、おそらく五〇〇万人程度のインディアンたちが、生存していくために一生懸命働かねばなりませんでした。

「二〇〇〇年もの間、日本は、食糧供給量に見合った安定した人口を持っていました。人口が三〇〇〇万を超過すると、飢餓とか疫病のために、再度、養っていけるだけの二〇〇〇万という人口に落ちついていくのが常でした。人々の食事といえば、ご飯と塩辛い漬物を日に二回が相場でした。これは今世紀の初期にあっても同じでした」と、Morse Saitoは書いています(Mainichi Daily News 一九九四年九月二二日)。それでは、どのようにして日本は、平均寿命を尺度にしますと、世界でもっとも健康であると思われる、一億二五〇〇万人の人間を養っていけるのでしょうか。男性の平均寿命は、現在七六歳、女性の場合だと八二歳で、これはまだ上向くことが見込まれます。日本人の平均年収は、二、八二二、○○○円で、これはアメリカ人の平均年収、二、三一二、○○○円を上回ります(World Bank Atlas 一九九四年)。

日本は、健康、平均寿命、収入もこれほど顕著に伸ばしながら、劇的に、この島国の人口を三〇〇〇万から一億二五〇〇万に増加させまして。それなら、たとえば、現在二五〇〇万の人口を持つケニアが、今後、何十年かの期間に同じことを達成することを妨げる、どのような理由があるのでしょうか。開発と、開発に携わってくれる人々を、のどから手が出るほど欲している人口二七〇〇万のタンザニア、そして、他の多くの国々はどうなるのでしょうか。ジュリアン・シモンが的確に指摘するように、人民と政府が、自らの発展のための適切な条件を保持するという条件で、国の一番大事な資源は人間です。第一の条件は、もちろん、国が平和であるということです。第二は、わたしに言わせれば、よい政府でしょう。政府がよければ、その一番大事な資源…人々…の教育と企業を最大限に大事にするでしょう。もっとも不必要なのは、人口過剰の危険を説教するラジオによるプロパガンダとコンドームの無償配布によって、若い労働者たちを破滅的に減らすことをねらう、国連人口活動基金、家族計画連盟、USAIDです。一九九三年、わたしはタンザニアのダル・エス・サラームを訪問する機会を得ましたが、そこでふ頭に置かれてあったコンテナ一には、USAIDが無償供与したという、四七〇〇万個のコンドームが入っているということでした。

日本の労働者たちは、絶え間なく…食糧、繊維、基礎資財を供給する…一次産業の層から、製造、建設、運輸の二次産業の層、諸サービス業の三次産業の層、ついには娯楽、芸術分野の層に移行してきています。過去の日本では、三〇〇〇万人が定期的な飢餓に苦しみ、天然痘や肺結核は子どもたちと若い人たちの世代に、頻繁に、壊滅的被害をもたらしていました。現在の日本では、一億二五〇〇万人の人たちが、比較的よい健康とよい食事を享受しています。次頁の表は、労働がどのように産業の層を、一次から二次、三次産業にと移行してきたかを示しています。たとえば、一九四八年、労働力の四九%は、主に、食糧、織推の生産と基礎資財の確保に振り向けられていました。一九九〇年の七・二%と比較してみてください。残りの労働力は、生活レベル、保健サービス、教育、旅行の機会、生活のすべての分野で、人間の快適さを確保するために使われています。

日本の産業が雇用する労働人口分布(%)

年度 一次産業 二次産業 三次産業
1948 49.0 23.8 22.7
1958 32.8 27.1 40.1
1978 11.7 34.4 53.7
1990 7.2 33.6 58.7

ネイサン・キーフィッツは、「一九世紀の学者たちと異なり、現代経済学着たちは、人口増加と人口密度は、発展に悪い結果をもたらし得るが、特に経済政策が間違っていない限り、それは厳しいものではない、と考える。技術的発達によって自由市場で発見・発明される種々の代替品が、物資の不足といったような大きな困難を、解決する」と言っています(Population Index 一九九一年春、五〜二二ページ)。

すこし前に触れたように、シモン・クズネッツの先駆者的研究は、一九六五年のベオグラード人口会議に強い影響を与えました。彼は、人口の急増が例外無く経済発展を阻害する、というドグマを歴史は支持しないこと、そして、種々の要因によりながらも、その道がまた真であり得ることも指摘しました。以下彼を引用しましょう。

一人当たりの生産高上昇率に対する人口増加の普遍的、そして、意味のあるどんな直接的影響も、もし前者が一般に認められた経済成長のはかりであるとすれば、存在しなかったし、いまも存在しません。少なくとも、これが近い過去にみられる人口増加率の域に対する結論です。ある国々で、高人口増加率には一人当たり生産高の高成長率が伴い、他の国々で、低人口増加率には一人当たり生産高の低成長率が伴いました。また他の国々では、低人口成長率が一人当たり生産高の高成長率を伴いました。この関係の多様性は、先進国にも発展途上国の中にもみられます。しかし全体的に見ると、先進諸国は一九世紀と二〇世紀初期、世界のどの地域よりも高い人口増加率を示しました(World Population Congress 一九六五年、一巻、三〇七ページ・国連刊行物)。

先進諸国が、人口増加の波に乗ってこのような経済的成功にこぎ着けていることを、データが示している、という最後の文章には特に意義があります。

ジュリアン・シモンは、長い目で見ると、人口増加は経済成長を支持する傾向があることを関連データから推論しました。「これらの諸研究は、人口増加が持つ経済発展への積極的な長期的影響の存在と、一致しています」(Population and Development Review 一九八九年六月)すなわち、最初の投資が済むと、人口学的成長は経済成長を強化する傾向があります。

一九八四年のメキシコ会議で、ヘルマン・カーンとジュリアン・シモンは、二一人のそれぞれの分野の専門家の寄稿を自分たちで編集した論文を配布しました。この論文は、政府が人口政策を実施してなんらかの利益をもたらし得ることを、真っ向から否定しています。その論文は、一九八〇年の「地球二〇〇〇年報告」の勧告を「根拠がなく、受け入れがたい。また、無知でごう慢である」と、こき下ろしています(四八ページ)。彼らは、政府が、資源、環境、人口問題について人々にもっと「意識」させるような手段をとるべきではない、と考えます。「わたしたちは思うに、人々はこれらの問題について、根拠のない、誇張された警告で脅かされて、大きな損害を受けてきました。科学的に根拠を持たない、これらの考えの浅い警告の多くは、政府の諸機関にその発信源があります。社会資源の配置という観点から、その結果は破壊的です」(四六ページ)。これらの優秀な学者たちは、それから、一九八〇年発表のあの悲観的な「グローバル二〇〇〇レポート」を次のように根本的に書き直してしまいます。

わたしたちの結論は、むやみな安心感を与えないにもかかわらず、人々を安心させます。物理的諸条件(制度的そして政治的条件に起因するものと区別される)による、世界のいろいろな問題の可能性は常に付きまといますが、過去にそうであったように、将来はおそらく解決に向かうものと、思われます。環境、資源、人口からの緊張は、少なくなりつつあり、それは時が経つにつれて、この惑星上の人間生活の質への影響は、いまより少なくなるでしょう。これらの緊張が原因で、過去においては、常に、多くの人が、食糧、住居、健康、就職のことで苦労しました。しかし、これからの傾向は、このような苦しみが増えるのではなく、少なくなるということです。特に重要で注目に値するのは、全世界を通じてより長寿、より健康な生活に向かう傾向です。増加してきた知識のために、地球の「定員」は、もうその「定員」という言葉が無意味になってしまうぐらい、過去何十年、何世紀そして何千年にわたって、増加し続けています。これらの傾向は、地球の天然資源基地と、地上の人類の運命の進歩的発展と富裕化を指し示します(五〇ページ)。

これらの専門家たちの意見は、それ故に、人口問題について人々を「教育する」諸政府は、無益というより有害なことをしている、というものです。産児制限計画を導入・支持すれば、自分たちの経済に益になるどころか、害になる、というものです。教会は、産児制限を道徳の欠如の故に非難し続けてきました。いま、これらの経済学者たちは、それを、経済的無益さの故に、短く言えば、経済の観点から、どんな形であっても人口制限を推進するのは間違いであると非難しています。

世界の人口学的成長と経済成長は同時進行的

世界の経済状態と物的生活レベルの俯瞰図は、どこでも、漸次的にではあっても、改善を示しています。飢餓と栄養不足は世界の各地でまだ大きな問題ではあるし、随所での戦争は悲惨であるにもかかわらず、全体的にみれば、栄養状態は改善をみており、健康と人間生活の快適さという点でも同じことがいえます。食糧生産は、最近の数十年をみると人口増加率よりも速い率で、かなり着実に増加しつつあり、また、将来もその傾向は続きそうです。国連食糧農業機構(FAO)は、一九九三年一一月一二日、ほとんどの発展途上諸国が、着実にその栄養状態を改善していることを発表しました。「世界の一人当たりの食糧供給状態は、三〇年前と比較して一八%程度向上しています」(AFP−時事)。急速な人口増加のために世界はますます住み難くなっていく、というメディアの警告にもかかわらず、データは、まったく別な事態を示しています。世界の事態は、いま、食糧と日常生活の快適さをみる限り、以前と比較して、ますます改善されつつあります。そして、これは世界のもっとも急速な人口増加の期間に起きています。言うまでもなく、この人口増加は、地方における自給自足の生活から、技術中心経済への移行が進行している期間に改善された健康と栄養状態のために起きる、一時的な人口学的突出であるとみなされます。

人口政策に関して、なぜ、それほど大声で意見を言い、政策を考える必要があるのでしょうか。ネイサン・キーフィッツは、それを巧みに説明してくれます。いろいろなシンク・タンクは別々の分野にあって、お互いの意見の違いを調整するための意見の交換がありません。しかし、諸政府はだれかから助言を仰がねばならず、政府がどのような政策を選ぼうとも必ず支持者がいるというわけです。

現代の学問の世界で、知識は学問の分野別にまとまっています。どの分野でも、正しい理論が確立されるための道具(専門誌等)は、ほとんどの場合、まあまあ、うまく機能します。多くの問題は互いに重複することがありません…ところが、人口問題となると、経済、生物学、社会学、その他に広がっています。異なった観点によって隔離され、各分野の人々は外部の人々に、ただちには理解できない言語を使用します。それぞれが、その分野を深く研究していないほとんどの人にとって、余りにも膨大な知識の集積を持っています。またそういうことを研究しようとする外部の人にはほとんどなんらの報いもなく、諸分野は相矛盾する諸結論について、それらを解決できるどころか、あまり真剣にさえなれません。

人口、環境…について決定をしなければならない、行政担当者たちのために組織された科学にとって、これは余りにも難しすぎる問題なのです。何を決定するのでも、彼らは、経済学者とか生物学者の中から、好みの科学者を選んでお墨付きをもらうことができます(Population Index 一九九一年春、五〜二二ページ・六ページから引用)。

経済学着たちはこう言い、生物学者たちはああ言います。社会学者たちはまた別のことを言います。そしてこの三者は互いに会って話し合うこともありません。この不一致があるから、産児制限推進者たちは、人口抑制のためますます多くの資金を獲得するために、自分たちに都合のいい統計だけを選んで使用することができます。

教会公文書と人口政策

世界の人口増加は、政府の政策によって抑制されなければならない、と信じているカトリックのスポークスマンたちがいます。彼らは、大体、人工避妊に反対する教会の教えを受け入れることに困難を感じている人たちです。あるカトリック大学の総長、ハーバード大学で学んだことさえある経済学者である、ある司祭が、わたしに話してくれたことを紹介しましょう。「暴走する世界の人口増加を抑えるために、産児制限が必要であることには疑いの余地がない。しかし、発展途上諸国の人々の大半は、間近に迫る人口学的悪夢から覚めるために、自然にかなった家族計画を採用するわけがない。そんなことは期待する方が世間知らず、非現実的というものだ。故に、連中に避妊薬(剤)を提供する必要がある。『フマネ・ヴィテ』にある教皇の教えは、現実を分かっていない人のたわごとである」と彼は言うのです。この司祭は、以上のように宣言していたのですが、もう亡き人になりました。(主よ、彼に永遠の安息をお与えください。アーメン。)反『フマネ・ヴィテ』の毒麦は、世の畑で小麦と一緒に育ちます。(マタイ一三・二五参照)。

当然のことながら、人工避妊と人工妊娠中絶に対して寛容なベシュケ神父のあの倫理の教科書は、人口過剰について非常な強気で論じています。

生まれる子供の数に責任をとることの必要性と、人口抑制の正当化は、普遍的に認められていることであり、もはやカトリック教会の中では論争の対象にはなりません。論争されているのはその目的を、どのように達成できるか、という点だけです(カール・H・ペシュケ神父、第Ⅱ 巻、一九八七年版、四六八ページ、一九九三年版、五〇一ページ)。

別の司祭・倫理神学者はさらに一歩踏み込んで、教会が多子家庭に反対している、などと言います。

カトリック教会は、原則的に、人口増加を制限する必要があることに同意し、多子家庭を奨励する文化的偏見を克服することを目標にするプログラムを提唱します。教会は、夫婦に人口抑制の必要性と産児調節の適切な手段について啓発する、教育的プログラムを支持します(マーク・オキーフ神父、The Priest Magazine 一九九一年八月)。

以上はオキーフ神父の個人的神学かもしれませんが、新しい『カトリック教会のカテキズム』の二三七三番は、彼の主張と正反対のことを述べています。

2373 聖書と教会の伝統的な慣行は、多子家庭を神の祝福と両親の寛大さの印とみなします。

彼の反・多子家庭の主張を強化するために、オキーフ神父は、教皇パウロ六世の『ポプロールム・プログレッシオ』三七を引用していますが、無駄なことです。彼は自分の目的のために次の段落の意味を歪曲しています。以下は『現代世界憲章』八七に典拠があり、その文脈の中で理解されなければなりません。

加速的な人口の増加が、進歩の問題をいっそう困難なものにしている場合がきわめて多いのは、事実であります。人口の規模が獲得可能な資源よりも、もっと急速に増大するので、人々は一種の袋小路に閉じこめられたような気がしています。そこで、人口の増加を過激な手段を講じて抑えよう、とする誘惑が大きくなっています。公権はこの問題に、その権限の範囲内で、適切な広報活動を行い、適当な手段を用いて介入することができます。しかし、それらの手段とは、道徳法の要請にかない、夫婦の正当な自由を尊重するような手段でなければなりません。結婚と産児という侵すべからざる権利を欠いては、もはや人間の尊厳が存在しなくなります。そこで、子どもの数については、最終的には両親が、すべてを考慮に入れた上で決定しなければなりません。すなわち、神のみ前に立って、自分たち夫婦とこれまでに生んだ子どもたち、さらに属している共同体にたいする責任を考慮することが要求されます。しかも権威をもって正しく解釈された神の法によって照らされ、神への信頼によって支えられた良心の要請に従って、決定しなければなりません。

この段落は『現代世界憲章』八七を反映しています。そして後者は、明らかに、多子家庭に反対していると解釈することはできません。同文書五〇で、教会は「二人の賢明な同意の上で、寛大にたくさんの子供を立派に育てるよう受け入れる」両親を称賛しています。脚注で『現代世界憲章』は一九五八年一月二〇日の教皇ピオ十二世の教話に触れています。教皇はそこで、多子家庭を「神からもっとも祝福され、特に、教会からはそのもっとも大事な宝物として愛され、高く評価されている人たち」と、称賛の言葉しか口にしていませんでした。(以下さらに追加)。

『現代世界憲章』八七は、「急激な人口増加から生ずる困難に悩んでいる」国々に対する、国際的協力の必要を指摘します。もし、教会がこのような問題のために、両親がもっと少なく子どもを生むように宣言する意図があったのなら、正にこの箇所でそういうことを教えたはずでした。この段落で教会はそう教えていません。だから、「寛大にたくさんの子供を立派に育てるよう受け入れる両親」を称賛している、『現代世界憲章』五〇の、上述の箇所の教えに、教会は一貫して留まっていることを示します。憲章の明確な結論は、諸民族と各政府は関連問題を解決するために適切な手段をとるべきである、しかし、これらの解決が、子どもの数を決める両親の権利を侵害してはならない、ということです。『現代世界憲章』八七の一部をさらに引用します。

政府は自国内の人口問題に関して、その固有の権限の範囲において、たとえば社会と家族に関する立法、農村人口の都市への移動、国の状態と必要に関する情報などについて、権利と義務を持っている…

世界の人口増加、少なくともある国々の人口増加を、すべての手段と公権のあらゆる種類の介入とによって根本的に減少させなければならない、と主張する人々が多くいます。道徳法に反する解決策は、たとえそれが公的または私的に奨励され、時には命令されていても、これを避けるよう、公会議はすべての人に勧告します。人間には結婚と子供を産むことについて譲ることのできない権利があります。そのために、子供を何人生むかの決定は、両親の正当な判断に属するものであり、決して公権の判断にゆだねることはできません。

教会は、その教えで、家族にただ一人、もしくは二人の子どもだけしか許されないと宣言する政府の権利は認めません(中国)。同様に、教会の教えは論理的に、多子家庭に対する制限を立法化し、産児制限の実行を奨励する「目標人口達成計画」に反対します。

自然にかなった家族計画(NFP)は国家の人口政策の道具ではありません

教会は、政府が産児制限のための政策を実施できるために、人工避妊と人工妊娠中絶の代案として、自然にかなった家族計画(NFP)の推進を提案するのでしょうか。とんでもないことです。

自然にかなった家族計画は、夫婦が性行為を定期的に控えることを包含します。これは、夫婦が互いに愛し合い、子どもたちを愛し、快楽を我慢し、強い意志力を行使するための二人のエネルギーを強力に要求します。このためには確信と動機づけが必要です。概して、彼らの禁欲が、自分たちの家族の善につながり、神の同意があるという確信がある夫婦は、定期的な禁欲に成功します。

しかし、夫婦が定期的に禁欲しようとする動機が強く、純粋でないこともあり得ます。また夫婦の心にとって、禁欲がそれほど大事ではなく、彼らの知性が確信していないことも考えられます。そういう場合、大体、努力しようとするものはあまりいません。また、ずっと続けることのできる人は、なおさら少なくなるでしょう。もし、多くの夫婦が、家庭内の「人口過剰」が本物であると感じ、その理由のために、それだけの子どもたちをよく教育できないと感じるなら、自然にかなった家族計画に従って、良心的産児を実行することができます。自然にかなった家族計画が普及すれば、その総体的効果は、国家全体の人口学的傾向に影響するようになるでしょう。夫婦は、大体において、家族の福利のために、必要な犠牲はする用意があるものです。しかし、夫婦にとって、その必要が本当にあることがはっきり納得できないのに、政府が、彼らに自然にかなった家族計画運動を人口抑制のために実施するよう要請した場合、劇的な人口学的結果の実現は疑わしいものです。

そして、これは諸政府が人口政策を実施するために、不道徳な方法による産児制限を推進しないように要請する、教会の正しさを裏付けるものです。自分たちの家庭の幸福のため、また明らかなそして緊急の社会的問題のためであれば、大部分の夫婦は自然にかなった家族計画を実行するであろう、と賢明な教会はみているに違いありません。また、人口過剰問題が本物であり、ただのイデオロギーの産物でないことを両親が確信しない限り、政府がいくら自然にかなった家族計画を推進しても、無駄であると教会は知っています。

人口の「目棲値」は強制手段になってしまいます

一九八四年メキシコシティーの世界人口会議で、多数の参加者が熱心に支持した「人口目標値」に、バチカン代表は同意しませんでした。バチカン代表団長ヤン・ショット司教(現在枢機卿)は、数的人口目標値はその達成のために種々の強制手段を伴うこと、さらに、このような目標が、経済援助の条件として利用される可能性を指摘しました。ついで、彼は参加者たちに、「達成される出生率低下」に、社会・経済的援助がリンクされる危険を訴えました。さらに、「人口政策を人口抑制と結びつけるのは単純すぎるし、非現実的です。人口政策の中心には人間の健康と福利がなければなりません。そして、人間は常に、政府の政策の単なる目的としてではなく、大事にされねばならない貴重な善、生活への能動的参加者、という観点からみられるべきです」とつけ加えています(メキシコシティー、一九八四年八月九日)。言い替えると、バチカンは人口政策と産児政策を同一視しないということです。

フィリピン司教団の家庭生活委員会は、あの一九八四年度の世界大会の参加者たちに、強制的な人口目標に反対する厳しい批判文を配りました。フィリピン司教団家庭生活委員会の主席秘書、シスター・プレシラ・C・ファブリカンテは、世界銀行を次のような言葉で非難しています。

一九六〇年代後半から、フィリピソ政府はわたしたちの国の家庭生活に、直接もしくは間接的に影響を与える人口政策を実行してきています。そして、この計画は世界銀行に資金を仰ぐ他の発展途上国に存在するものと、同じであるようにみえます。人工妊娠中絶はこのプログラムの一部です。わたしたちは、人工妊娠中絶がそのほんの一部分にしか過ぎない全体の構造と戦わずに、人工妊娠中絶だけと戦うことはできません。

つまり、世界銀行は疑うことを知らない発展途上国に人工避妊というトロイの馬を引っぱり込み、いったん侵入に成功すると、中絶の悪魔の軍団がその国を席けんするために、その腹の中から騒々しく姿を現します。その文書の中で、フィリピン司教団家庭生活委員会の議長ヘスス・Y・ヴァレラ司教は、ちょうどエイズ・ウィルスのように、人口目標がどれほど道徳的な防御と自由を破壊してしまうかを書いています。

人口抑制の国家計画は、公的には大統領行政命令一七一(一九六九年)と二三三(一九七〇)で、人口に関する委員会の設立で発足しました…

その計画の運動は過激なもので、一家庭あたり子どもは四人から、三人、そして二人だけ、二〇〇〇年には一人にするというものでした(第三次五ケ年計画、一九八一〜一九八五年)。それはまた、「人工避妊だけ」の政策から、不妊手術にその矛先を向け替えています。明白に中絶促進的な避妊リングは提供され続けています。

この計画には、人心操作が欠かせません。人間行動に特定の目標値として定められた、いろいろな結果が望まれるとき、決定の自由は邪魔になります。それで、種々の物的な誘惑、社会的罰(無給出産休暇、少額の減税その他)…が適用されます。

意外な正直さで、国連人口活動基金の刊行物 Populi は、諸政府によって決定される人口総数目標の達成は、時としては「医師たち、診療を受ける女性たちに強制されている」ことを認めました。もし希望を聞かれると、多くの女性たちは避妊リングを拒否するので、三人以上子どもを生んでいるすべての女性たちに「ある医師たちは、黙ってそれを装着してしまう」のです。医師たちは、時にはそうするよう命令を受けています。従わなければ、病院での安定した仕事を失ってしまうのです(Populi 一九九四年七/八月、一一ページ)。その中でも悪名高いのが、政府が決定した「法定の子どもの数」を超過してしまった女性たちに、本人が拒否するにもかかわらず、医師たちが人工妊娠中絶をするよう強制している中国の例です。地方官吏たちはもし割り当て数以内に出産数を抑えないと、罰金、降格、解雇の高い危険を冒します。ですから彼らは「服従を強制するため、食料配給切符の拒否、給料の没収、脅迫、暴力などの手段によって」自分たちの同胞を強制します(ジョン・S・エイアド、“The China Model”in Population Research Institute Review 一九九四年七/八月、二ページ)。強制力を持つえさは、目標を達成するためにインド、バングラデシュ、エジプトでも、日常茶飯事のこととして使用されます(エイアド、同書)。諸政府のそのような立場とは正反対に、カトリック教会は常に、子どもたちの数を決定するのは、両親の権利であり、政府は彼らに代わってこの決定を下す権利のないことを宣言し続けます。

教会と良心的産児

良心的産児の一部として人間社会に対する義務に言及している『フマネ・ヴィテ』一〇の段落について、何を言えばいいのでしょうか。その段落を以下に引用します。「さらにここにいう良心的産児は、神によって定められ、正しい良心が忠実な解釈者の役を果たす、いわゆる客観的道徳秩序に属する別の深い理由を持っています。それゆえ、良心的産児の任務は、夫婦が、神に対し、自分自身に対し、また人類社会に対する自分の義務を、事物と価値の段階に従って認めることを要求します」世界が、もうすでに、本当に人口過剰であると信じる人たちは、『フマネ・ヴィテ』一〇から、世界がすでに人口過剰であると推定されるので、良心的産児は、多子家庭を一律に禁止していると結論するかもしれません。

二つの答えがあるはずです。(一)教会は世界に人間が多すぎると認めたことはありません。それ故に『フマネ・ヴィテ』一〇で、教会は、このような仮定の、根拠のない問題のために、夫婦がより少なく子どもを生まねばならない、などとは教えていません。(二)社会的義務は夫婦に、もし、その家庭に、その子どもたちが社会にとって重荷になる傾向のある遺伝的な欠陥があれば、子どもを少なく生むように要請、または、忠告するかもしれません。同様に、子どもを適切に教育することをなおざりにする夫婦は、自分たちがその義務を果たさずに、社会に彼らを教育するよう押しつけるわけですから、無責任に子どもを生まないようにするべきです。『フマネ・ヴィテ』一〇で言われているのは、夫婦が子どもたちを適切に教育する努力をするよう、予見と賢明を持つ必要があるということです。

最後に、日本やその他の各国で、二〜三人の子どもしか生ませない社会経済的な圧力について二言つけ加えましょう。良心的産児といっても、ここでは、その正当性にはいくらかの制限がある、とわたしはあえて言います。もし夫婦が、これらの圧力に自分たちだけで立ち向かうことをためらうなら、そして、たくさんの兄弟姉妹がいるということで子どもたちが仲間からからかわれることを望まないのであれば、これらの圧力は、彼らが理想より少なく子どもを生むための、納得できる動機になるかもしれません。偏見のあるゆがんだ社会状態と世論は、夫婦が一般の傾向に従って生きるためにいくらかの言い訳にはなりますが、それには、彼らが人工避妊、人工妊娠中絶、不妊手術をしないという条件を守らねばなりません。しかし、もし夫婦に勇気があるなら、そんなことより、真理を大事にして欲しいものです。適切に比較的多数の子どもを生み育てるように、神が与えた権利を行使し、客観的には、多子家庭に反対する間違った社会的圧力の方を是正するべきです。

一九八〇年の世界代表司教会議と「家庭について」相談した後、教皇ヨハネ・パウロ二世は、新しい命を拒否する究極的理由は「人々の心の中での神の不在です。神の愛のみが世界のどのような恐れよりも強く、それらに打ち勝つことができるのです」(『ファミリアーリス・コンソルチオ』三〇)。教会は、反・生命的メンタリティーを、神の積極的な愛からの逸脱、神の善のすばらしい贈り物の拒否、と見なしています。教会は、多くの人々が「時として、人口学的増加が生活の質に及ぼす危険を誇張する、環境学者や未来学者たちの研究から引き出される、ある種の恐怖」の犠牲者になってしまったことに、失望しています(『ファミリアーリス・コンソルチオ』三〇)。

ペシュケ神父とオキーフ神父を本来なら尊敬したいところですが(上述)、教会は良心的産児における責任を提唱していても、人口抑制を推進したことは一度もありません。正反対に、教会は、しつけのいい多子家庭を心から愛し、好意をもって見ます。過去、現在(そしておそらくは将来)の教会文書は、国家的、もしくは、世界的人口増加を制限するために、子どもを少なく生むようになどとは教えていません。諸メディアは「人口過剰」を解決するために産児制限を主張して、ありとあらゆる宣伝をします。しかし教会は、「寛大に多くの子どもたちを立派に育てるために受け入れる」両親たちを、以前にそうしていたように、いまも称賛し続けます(『現代世界憲章』五〇)。

ある神学者が「国家が人口過剰であるとき、夫婦には少なく子どもを生む義務があり、国家が人口が少ないとき、夫婦は多く子どもを生む義務がある」という声明の草稿を提出したことがありました。しかし、それがしつけのいい多子家庭に対する教会の明白な賛同と相いれないことを考慮して、彼はその草稿を撤回しました。その草稿は、一九八〇年の世界代表司教会議の参加者たちに渡されるために準備中であった本、Natural Family Planning,Nature`s Way-God`s Way(総編集者、ジンマーマン、デ・ランス、ミルウォーキー、一九八〇年)から消去されました。あのさからいの文章がその本に残ったと仮定すると、それが、家庭の外のいわゆる人口過剰問題を解決するため、両親による産児制限を認めることになったであろう唯一の教会文書になったことでしょう。その文は、監督にあたっていたバチカン職員の見ている目の前で消し去られました。故に、人口過剰問題を解決するため両親が産児制限することを容認するバチカンの文書は存在しません。

Studies in Family Planning の一九九一年三/四月号には、「教会によく出席するカトリック信者であれば、人工避妊を実施している可能性は低い。また、ピルとかダイアフラムの使用レベルも、同様に、低い。反面、カトリック信者が人工避妊をしている場合、男性であればコンドームの使用が多い。リズム法の使用が多く、不妊手術を受けている率も高い」(一一一ページ)という記述があります。このようなデータが示すのは、主任司祭たちがもっと勇気を出して人工妊娠中絶、人工避妊、不妊手術(そして結果的には離婚)についての説教をするべきである、ということでしょう。また、もっと多くの主任司祭たちが、その小教区を自然にかなった家族計画の使徒職に携わらせなければなりません。そうすれば、再度ミサの出席率や献金も上向くだろうという希望をつなげるというものです。

統計は、米国と日本でのカトリック信者の出生率が平均より、やや高いことを示しています。米国の五、九〇〇万のカトリック信者の幼児洗礼率は一八/一〇〇〇人よりやや高く、これは全国の出生率一六/一〇〇〇人を上回っています。日本の場合、四〇万人のカトリック信者がいますが、幼児洗礼率は一三/一〇〇〇人よりやや高く、同じく全国の出生率一一/一〇〇〇人を上回っています。もし、「揺りかごの戦い」があるとすれば、これら二つの国ではカトリック信者が、少し優勢であるといえるでしょう。

人口抑制政策に関するいろいろな意見は、時が経ったり、政府が代わったりすれば、変化していくものですが、教会の教導職の教えは、その上に教会が建っている岩のように微動さえしません。わたしたちは人口増加の利点、不利点についての人口学者、経済学者、生物学者、社会学者、その他のすべての意見を学習することなどできません。そんなことは、実は、必要ではありません。わたしたちは、教会の英知を自分のものにし、それをわたしたちの民に伝えるとき、確固とした地面の上に立つことになります。教会は英知をもって、政府ではなく、夫婦に子どもの数を決定する権利があることを、わたしたちが理解するように、照らしてくれます。「子どもを何人生むかに関する決定は、両親の判断に依存するものであり、決して公権の判断に委ねることはできません」(『現代世界憲章』八七)。

健康で多子家庭の子どもを適切に教育できる両親に、国家もしくは世界の人口増加を減少させる、という特定の目的のために産児制限をするよう要請する教導職の文書は、存在しません。教会は家庭が社会の基本的単位であることを知っています。そして、家庭こそが、自分たち自身の共通善を養い、保護するために政府を組織します。両親たちが人口を供給します。そして政府には、この特定の人々の活動を調整し、彼らの共通善のために彼らを組織づける義務があります。神も家庭も、夫婦が何人子どもを生んでよい、などということを命令する権利を政府に与えるものではありません。

「第二次人口革命」が人口増加を制御する

「人口諸傾向の倫理・司牧的次元」という文書があります。バチカンの家庭問題に関する教皇立委員会は、その中で、工業中心の先進世界の大部分で現在見られる、人口学的減少傾向を表現するために、「第二次人口革命」という言い方を作り出しました(八)。第一次人口革命は、生活水準が上がって、幼児と青少年の死亡率が下がったときに、大規模な人口増加をもたらしました。第二次人口革命は、現在、先進諸国で、数多くの理由のために、人口増加が失速、停止、後進状態になってしまったことを指します。

以下は、バチカン文書に基づくものではなく、この「第二次人口革命」についてのわたしの評価です。有名なイタリアの統計学者、コラード・ジーニは一九二九年シカゴ大学での連続講義で、過去繁栄した多くの国々は、再生産性を喪失したために、現在、消滅してしまっているか、衰退中であることを指摘しました。国家的な再生産性の喪失は、人口の大半が、下層階扱から上層階級へと、社会的放物線にそって上り詰めたとき、遅かれ早かれ見えてきました。上層階級の夫婦に限って、出産に間隔をあけることを勧める議論に喜んで耳を傾けることなどは、ジーニ博士にとっては、再生産にかける動機も力も減少しつつあることの印でした。この「上層階級」メンタリティーは、過去の歴史の中で、数多くの国々が消滅していったことと関連づけられます。

過去において、多くの国々は、人口が増えつつあった隣国より天然資源には恵まれていたにもかかわらず、衰退もしくは完全な消滅状態に入っていきました。ジーニは、この事実に気づいたとき、再生産が常に生活に必要な資源を圧迫すると主張するマルサス理論を捨てました。

工集化と都市化が「第二次人口革命」を加速します

ジーニは、人々が経済的に下層から上層階級に移行するにつれて、受胎能力が低下することについて語りました。その過程における、彼が言う生物学的受胎能力の衰退を、肯定しようが否定しようが、わたしたちは、現代、受胎能力が都市化と工業化に伴って下降していることに気づきます。理由を見つけるのは、さほど難しくありません。現在、ヨーロッパ、アメリカ、アジア各地の先進諸国で受胎能力の可視的低下が観測されます。それは、世界の人口増加が産児制限政策をことさら推進しなくても、経済が発展しさえすれば、どこでも低下するだろうと信じてもいい理由をわたしたちに与えてくれます。

たとえば日本の再生産率、一・五が意味するのは、大人の七五%だけが生まれてくる赤ちゃんによって置き換えられるということです。その原因は何なのでしょう。三〇年ほど前まで、産児制限の宣伝は、日本の母性をひどく痛めつけていました。いっこうに止まろうとしない「はずみ車」効果は別としても、漸進的工業化には受胎能力の衰退をもたらす第二次人口革命、その他の自然的諸要素が伴います。ここで、農村の自給生活、もしくは比較的発達していない経済と、高度に工業化した経済とを比べてみましょう。

一、農村地方での自給自足経済のもとでは、五〇%にも及ぶ子どもたちが大人になる前に死亡していました。現代のすばらしく発展した条件の下では、生まれてくる赤ちゃんの九八%が大人になります。今日、親たちは同じ数の子孫を確保するために、自給自足経済のころの、高い乳幼児死亡率の状態のもとで必要だった数の半分の子どもを生めばすみます。

二、五〇%の赤ちゃんが死亡していたころ、自然はおそらく、もっと強壮な子どもたちを選択していたのでしょう。これらの子どもたちは大人になったとき、比較的に多産でした。現代、それほど多産でないものたちも生き残り、達成される出生率を抑えます。正確な統計こそないものの、これは理にかなう結論であるように見えます。

三、識字率が高く、技術的に洗練された社会に参入するために準備される子どもたちの修学期間は、必然的に長くなります。農村地方での自給自足経済のもとでは、平均初婚年齢は低く留まる傾向がありますが、高度に発展した経済の特徴である初等、中等、そして高等教育の普及に伴って、この年齢は高くなる傾向があります。出生率は初婚の平均年齢に非常に敏感に影響されます。

四、農村地方での自給自足経済のもとでは、幼い子どもたちでさえ両親の手助けをするので、子どもたちは資産と考えられます。しかし、都市化された環境の下で、子どもたちは両親にとってより大きな経済的負担なので、出産と出産の間に期間を欲するようになります。

五、発達した経済圏の両親は、たとえば教職、医療サービス、研究などの高度な専門的職業で社会に奉仕できます。それで、彼らの多くは、子どもをたくさん生み、育てる代わりに、これらの職業に生きがいを見いだします。

六、日本では現代、教育費が高騰していて、これも両親に多くの子どもを欲しがらせない理由になっています。経済的生産が技術的になればなるほど、その種の環境に住む人たちを教育する費用が高騰するのは明白な事実です。

七、日本では、高等教育を受け、高給を得られる職業に就ける多くの女性たちが、晩婚になる傾向があるどころか、フルタイムのキャリアを選択して、結婚する意志を持たない場合さえあります。結婚して、母親であることとキャリア、つまり、パートタイムの仕事を両立させるために、出産数を少なくして子どもたちが保育所か幼稚園に入るのを待って、仕事に復帰する傾向もあります。

八、日本ではほぼ終了してしまった田舎から都市への移住は、少なくとも一時的に、昔からの先祖代々の三世代同居家族をなくしてしまいました。両親や祖父母から遠く離れて都会に住む若い夫婦は、いわゆる核家族を形成します。三世代同居家族の構造を大昔から支え続けてきたしがらみや社会的圧力から、彼らはいまや解放されています。旧来の社会では、子供を生んだ母親は大事にされ、両親や親類から支援を受けたものですが、現代では、独りぼっちです。新しく子供が生まれる度に、普通ならその子を褒めそやす身内のものからの助力も期待できないので、子どもの養育は犠牲を意味します。三世代同居家族の崩壊と核家族の形成は、世界の多くの国で、子供を持ちたいという動機自体を減少させている普通の要因です。一九九二年に、発展途上国地域の都市居住者の率は三五%でした。先進国地域の場合は、七三%(sic)で、世界の平均は四四%です(The State of World Population 一九九三年、国連人口活動基金、四八ページ)。

これはあくまで仮定の話です。将来、人類の福利のために絶対的人口過剰を予防し、生態系を保存し、オゾン・ホールにふたをかぶせ、温暖化現象をくい止め、世界を居住可能に保つため人口制限の他に何も手段がない時代がくると、仮定しましょう。それを世界の人々が納得して認めるのであれば、そのとき、親たちが適切に教育できるよりも少ない数の子どもを生まなければならない、と教会は認めるかもしれません。しかし、いまはその時ではありません。わたしは、おそらくそんなときは来ないのではないか、と推定します。むしろ、十戒をきちんと守りさえすれば、わたしたちは、人間が多ければ多い程いいことを理解するでしょう。

二〇、二一世紀の物的生産力の増加は余りにも急速です。多くの家庭は、消費財とメディアの宣伝攻勢に幻惑されてしまいます。わたしが思うに、多子家庭の素朴な、しかし大きな喜びの味を、人々は忘れてしまうのではないでしょうか。消費財は家庭を貧しくする、というマーフィーの法則は、生活水準が上がれば上がるほど真実になります。多くの親たちも、子どもたちによい教育を与え、自分たちのキャリアを追求し、何か他の方法で人類の善に貢献できる時間とエネルギーを確保することを選択します。それで自分たちの場合、正直なところ子どもは三、四人で十分であると信じ込んでいます。これらの要因を総合するとき、分かってくるのは、世界中で、将来、皆が成熟した経済・社会的発展を遂げた暁に、人口は安定するだろうということです。

日本で母親たちは「学校、衣類、旅費、おもちゃなどの子育ての費用が高いので、二人以上の子どもを育てることが不可能である」と不平を言います。現在の情勢では、二〇年後、日本の人口は現在の一億二五〇〇万から一億三〇〇〇万を少し切るところまで増加し、その後は長期にわたって減少を続けるでしょう。消費財が多すぎて子どものいる場所がありません。戦前、そして戦時中、家族のサイズが大きかったころ、親たちには子どもをたくさん育てる余裕がありました。しかし、現代、彼らはいくら努力しても、そんなことはできないと感じています。

日本のメディアが母性を軽視してきたこと、そして、親と学校の連合が、子供たちの教育に高値を付けすぎてきたことは認めねばならないでしょう。このような行き過ぎによって、人々は、低出生率に結びつくような諸条件を、自分自身に科してしまったのです。しかし、日本と他の多くの国は、経済・文化的に高度に発展した国が、いとも簡単に、人口増加の低速化と最終的衰退の「第二次人口革命」に突入してしまうか、を示してくれることでしょう。先進諸国は人口過剰でなく、将来の人口不足からの恐怖の方をもっと心配しなければなりません。

しかし今日でも、少なくとも日本の六家族のうち一家族には、三〜一〇人の子どもがいます。たとえば、一九八九年の一、二四二、一九三人の赤ちゃんのうち二四二、一九三人、一九・四%には二人以上のお兄ちゃんかお姉ちゃんがいました(助産婦雑誌、一九九一年一〇月、二二ページ)。日本のこの相当な数の少数派の家庭で追加の子どもが生まれるとき、比較的多子家庭の楽しい生活の諸伝統が、生き延びることになるのでしょう。大ざっぱに言えば、彼らが日本の未来を相続することになります。この活気ある忍耐強い家族のメンバーたちが、日本の人口過剰の原因になることは考えられません。子どもを少ししか生まなかった大部分の家庭が、漸次的な人口学的衰退に入っていくとき、国の活気の源になるのは、正にこういう人たちなのです。

もう少し追加しましょう。以上とその他の考察は、乳幼児と子どもの死亡率が低下する第一次人口学的移行の際に、なぜ人口が増加するか、さらに、全般的な生活レベルが顕著に上がってくると、なぜ増加の速度が鈍くなるかを示しています。ジーニはこの現象を理論づけて、ある国の人口の大半が下層階扱から上層階級の生活に移行すると、受胎率が低下すると言いました。今日わたしたちは、農村地方での自給自足経済の低い生活レベルから、ハイテク経済の豊かな生活条件の中に移行した経済的先進国が、普遍的、劇的でさえある受胎率の低下を経験していることを知っています。「貧乏人の子沢山」ということわざと逆の現象が起こるというわけです。

先進諸国は大きな人口増加の曲線に沿って高い生活レベルに移行しました。その経験が、発展途上諸国にとって有効なモデルであるのなら、後者の人口がいま増加すれば、その生活レベルも、先進諸国と同様に上昇することが期待できます。全体的にいって、先進諸国は、国家的産児制限運動の必要無しに、急速な経済成長を遂げました。実に、産児制限政策は、合衆国とその他の先進諸国の経済発展の急速なペースを、過去に緩めてしまった可能性もあります。他の条件が同じであることを前提にすれば、もし、ハイテク経済に移行する過程で、産児制限によって若い労働力が不足していたら、経済発展は、もっと緩慢だったであろうことが予想されます。もし、その分析が正しいとすると、国連人口活動基金は、産児制限運動の推進によって、発展途上諸国に経済的善でなく、経済的悪を働いている、ということになります。

いまは少なくとも一部が書き換えられてはいるものの、カイロ会議のための第一次草案は、実は、人口と発展のためのブループリントなどではありませんでした。それはむしろ、国連の反人口、そして反発展の無駄話のための計画であるような感じさえしました。もし、発展途上諸国が、邪魔されずに人口増加と経済発展の自然の曲線に従うことを許されたと仮定しましょう。そしてもし、兄弟的連帯のうちに諸国が協力すれば、発展途上諸国はアメリカ合衆国と他の諸国とほぼ同じように、自分たちの新世界交響曲を聴くことができるでしょう。

世界の人口増加を低下させねばならない本当の必要性はいまは明白ではありません

国連人口活動基金は世界の人口増加率が一九七五年以来年間一・七%で、本質的には変わらない、と述べています(The State of World Population 一九九三年、一ページ)。出生率は一九七五〜一九八〇年の三・八から、一九九〇〜一九九五年の推定は三・三に低下します。以前の人口増加のために、人口は毎年増加してはいます。増加した人口は、一九七五年に七、二〇〇万人、一九九二年度に九、三〇〇万人でした。「それは一九九五〜二〇〇〇年の間に頂点に達するであろう」ことが予測されます。

国連人口活動基金は、それ故に次の三〇年間、人口急増化が、世界人口の主な特徴であろう、と続けています。「一九九三年の世界人口五五億七、○○○万は、二〇〇〇年には六二億五〇〇〇万、二〇二五年には八五億、二〇五〇年には一〇〇億になることが見込まれます。顕著な成長は、おそらく二一五〇年ごろまでで、それは一一六億のレベルになるまで続くであろう」(同書)。成長を止めるためのすべての努力にもかかわらず、この予想に従えば、わたしたちは少なくとも現在の倍の人口増加を予想して、準備しなければなりません。それならわたしたちは、この創造主の計画と命のたまもののすばらしさを、世の終わりの日が来たと言って、やきもきするよりは、いっそのこと、みなで喜び祝った方がいいと思いませんか。

もし、来世紀、わたしたちの地球に一一〇億の人たちが住むようになるのであれば、彼らはほぼ確かに、わたしたち五七億人が今日享受しているより、もっと快適な生活を送っているでしょう。二五億人しかこの地上にいなかった一九五〇年ごろ、その二倍の人間が住んでいる今日、どんなにいい暮らしができるか想像もできませんでした。一九五〇年に、わたしたちは、今日のように、車で高速道路を走ることなど、想像さえできませんでした。当時海外にジェット機で旅行できましたか。当時は、今日のような暖冷房装最もありませんでした。スーパーマーケットに行くと、当時、手に入らなかった国内外の食料品が山のように積み上げられています。当時は今日のように、カメラ、ラジオ、テレビ、書籍、雑誌、新聞、野球に競馬を、欲しいときに入手できませんでした。わたしたちが、平和を守り、秩序ある家庭生活を送り、節制し、子どもたちをよく教育し、自分自身を理性にかなって治めさえすれば、人間にとってのいい生活が、いま、やっと始まりかけたばかりのように思われます。

教皇ヨハネ・パウロⅡ 世は以下のように賢明に勧めておられます。「その方法の善し悪しを問わず、出生率を低下させるという危険な近道の誘惑に抵抗することは、大事なことです」(一九九四年九月五日、カイロ会議に言及してのアンジェルスの黙想)。そして、あの賢者が言ったように「知識がなければ欲しても不毛です。あまり足を急がせると過ちを犯す」のです(歳言一九・二)。この賢者は国連に次の言葉を言ってやればいいのです。「産児制限のことで急いではなりません。すべてのことには季節と時期があります。明日、国々は発展するでしょう。両親はそのとき、自分たちの家族にとって何が一番良いことかを、今日すでに知っているように、知るでしょう。善意の人たちはすべて、自然にかなった家族計画を実行するでしょう。自然にかなった家族計画こそもっとも理性的な家族計画ですから」

多子家庭は教会と世界の宝物

今日、高度に発展して、いい生活を楽しんでいる世界の諸国の、急速で健全な社会経済的発展のゆりかごは多子家庭でした。多子家庭の中に明白に存在する愛の喜びと生きることへの情熱はあふれ出て、先進諸国に彼らが非常に必要としていた活力を提供したのです。先進国のため発展途上国のためを問わず、多子家庭は一つの世代から次の世代へと豊かな人間性の通路を提供します。ですから、わたしたちは、一九五九年、多子家庭連盟にあてて、子どもがたくさんいる健康な家庭について、目を細めて語られた現代の偉大な神学者教皇ピオ十二世の知恵に見習いたいものです。第二バチカン公会議の教父たちは、この教話を『現代世界憲章』五〇の脚注で引用することによって、それを自らのものとしました。

あなたたちは神からもっとも祝福され、教会からもっとも大事な宝物として愛され、大事に思われている多子家庭です。そして、あなたたちはすべての多子家庭を代表しています。なぜかというと、これらの家庭は、世界に教会の教えの真実さとその慣行の健全さを確信させるのに役立ちます。またよい模範を通じて、他のすべての家族と市民社会自体が大きな利益を受ける三つのことを、ことさらに明白に、証してくれているからです。

多子家庭は、キリスト信者の身体的道徳的な健康、神への生きた信仰と神の摂理への信頼、カトリック信者の結婚の実りと喜びにあふれる聖性を指し示してくれます。

確かに、その異教的傾向とともに現代世界に出現したもっとも害の多い間違いの一つは、結婿の実り多さを「社会の病」と分類したことです。この病に侵されていることが分かった国は全力を挙げ、あらゆる手段を用いて、この病をいやすように勤めるべきであると、ある人たちは熱心に説き続けます。これが、「家族計画」の美名の下に宣伝されるプロパガンダの原型です…

「社会の病」であるどころか、多子家庭は国の道徳的身体的健康の保証です。赤ちゃんの泣き声が、いつでもゆりかごから聞こえてくる家庭では、自然に諸徳が栄えます。あたかも、それが新鮮で活気を与えてくれる春の息吹のように、そこで新たにされる幼い命によって追い出されてしまうかのように、悪徳の方が逃げ出してしまいます。

ですから、弱く、わがままであるものたちが、あなたたちを見習いますように。教会は、あなたたちとともに、世界中の元気な多子家庭の親子たちを、神である聖霊の聖化する働きにささげることが可能になったことで、あなたたちに満足しています。同様に、どの政府も常に、国民を育て、教育するためにあなたたちが払っているすべての犠牲に対して、愛と感謝を示さねばなりません。

現在の教皇も実にしばしば、小教区や、家族の集まりなどに出かけていって話されます。そういう場で、わたしが知っている限り、政府と世界が、人口の諸問題に対処する手助けをするために、両親たちに子どもを少なく生むようになどとは、一言もおっしゃっていません。親たちに向けたその典型的な忠告は「寛大でありなさい、子どもたちには、おもちゃではなく、弟や妹を与えなさい」ということです。一九七九年、ワシントン・キャピトル・モールに集ったアメリカ人たちに、教皇は次のように語っておられます。

子どもを何人生むかという決定と、彼らのために払うことになる犠牲は、快適さを増し静かな生活を維持するという観点からのみ考えられてはなりません。秘蹟からくみ取られた恵みに支えられ、教会の教えに導かれ、神のみ前にこのことを静かに考えてください。親たちは、子どもたちにある種の娯楽とか、物的にいい環境を与えることより大事なことがあるのに気づかねばなりません。彼らを人間的に成長させ、どの年齢にあっても、また、どんなときでも助けてくれる兄弟姉妹を与えないことの方が、はるかに深刻であることを思い起こして欲しいのです(ワシントン・キャピトル・モールでの教話、一九七九年一〇月七日)。

一九九〇年、教皇はイタリアの司教協議会にも、次のような教話をなさっています。

家族が健康であれば、夫婦は、生命を愛している証拠に、また、摂理に信頼するものを決して見捨てない、神の摂理への信頼の具体的あかしとして、子どもたちを寛大に受け入れる方法を見つけるものです。これは、特に、キリスト教の精神によって訓練されていて、子どもたちを生むことからくる、理由のない恐れによって征服されることを拒む若い夫婦について当てはまります。彼らは、「子どもは婚姻のもっとも貴重なたまものであり」(『現代世界憲章』50)、また「命を愛される主」(知恵の書一一・二六)からの、祝福の印であることを知っています。だから彼らは、子どもを持つのを先に延ばし続ける、多くの、理由のない、利己的な諸傾向に打ち勝つすべを、見つけるでしょう(一九九〇年四月二八日イタリア司教協議会主催の家庭司牧大会での教話から、英語版週刊オッセルバトーレ・ロマーノ、一九九〇年五月七日)。

結輪

両親が、子どもたちを適切な環境でよく教育する目的で、ある程度の間隔を置くための家族計画なら、カトリックの諸原理と完全に一致しています。しかし、自然にかなった家族計画でも、国家もしくは世界の人口を減少させるためのものであれば、それは教会も常識ある夫婦も認めないでしょう。

聖パウロはテモテに、偽りの教えで弱い信徒たちを惑わすものたちについて、「こういう人々を避けなさい」と、強く勧めました(二テモテ三・五)。わたしたちは、いつも反人口主義の人たちから遠く離れて生きるわけにはいきません。彼らの方が常に近寄ってくるからです。彼らの口にふたをすることは不可能ですが、彼らの言いなりにならないよう気をつけましょう。

この章の趣旨は、一九九四年三月一八日、ヨハネ・パウロ二世がナフィス・サディック女史にあてて書き送られた言葉に要約されます。教会は、一九九四年国連人口活動基金の専務理事、一九九四年人口と発展についてのカイロ国連国際会議の事務総長であった彼女に、以下の忠告をしています。周知の通り、女史は人口減政策を採用する諸政府を強く擁護しています。彼女の運動に、教皇は真っ向から反対なさいます。教皇は彼女に、政府の権利に優先する親の権利、その結果として、神の前に責任感をもって多子家庭を持つことを決定する親の権利について、カトリック教会の永遠の諸原則を繰り返されました。事実上、教皇はすべての親たちに、サディク夫人と両親の権利を強奪しようとしている諸政府の反人口政策を、人間故の誤りとして、全面的に無視することを許可したと言えましょう。

わたしには、家庭の安全を確保する義務があります。現代、夫婦が生む子どもたちの数とその間隔を、すべての社会的法律的強制から束縛されないで、自分たちが、責任をもって決定する自由を彼らに確保するように、特別の注意が向けられることを、わたしは要請します。そういうことを親に代わって決定するのは、政府とかその他の諸機関の目的であってはなりません。彼らの役目は、むしろ、親たちが神、自分自身、自分たちがその部分である社会、客観的な道徳秩序に対する責任に照らし合わせて、親たちが適当な決定をすることを可能にするような社会の条件を作り出すことにあります。教会が「良心的産児」と呼ぶものは、無制限な生殖の問題とか、子どもたちの教育に関連してくるものが何であるかの無知ではありません。むしろ、親たちに、客観的道徳規範に照らして、社会的人口学的な現実、自分たちの置かれた状況と正当な希望にも配慮しながら、賢明に、責任をもって、自分たちの不可侵の自由を行使できるようにすることです。夫婦に、子どもを生むのは一人、せいぜい二人だけ、などと説得するためのすべての宣伝とか偽りの情報などは、断固として排除されるべきです。そして、寛大な心で多子家庭であることを選択する夫婦は、支持されてしかるべきです(英語版週刊オッセルバトーレ・ロマーノ、一九九四年三月二三日)。

サディク夫人への勧告は、すべての家庭への勧告であり、いまもいつも有効です。寛大な心で多子家庭であることを選択する夫婦は、支持されるべきです。