二章 人工妊娠中絶
*直接的人工妊娠中絶と間接的人工妊娠中絶との区別
*本質的に悪である直接的人工妊娠中絶はどのようなときにも許されません
*赤ちゃんを救うために命をささげた母親たち
*強姦と妊娠の防止
*人工妊娠中絶は現代の巨悪
*人間を殺すことがもたらす非人間化
*プロ・ライフの使徒職
*ダン博士によるヘーリング神父・ペシュケ神父の偽ケースに対する批判
教会のおきて
「堕胎を企てるものにして、既遂の場合は、伴事的破門制裁を受ける。」(『新教会法典』一三九八)
「生命は妊娠したときから細心の注意をもって守られなければならない。堕胎と幼児殺害は恐るべき犯罪である」(『教会憲章』五一)
直接的人工妊娠中絶は本質的に悪です
人工妊娠中絶は、子どもを殺すことがその行為の直接の対象であるとき、その行為の意図が何であっても、直接的といわれます。すなわち、その行為は、子どもを直接に攻撃して殺します。母親の治療が直接の対象であるとき、人工妊娠中絶は間接的である、といわれます。すなわち、副作用もしくは間接的結果として胎児の死が予想されたとしても、その行為自体の直接的対象は、あくまでも母親の体または器官です。言い換えると、医師は、その行為によって、母親を治療する目的のために胎児を殺すのではないということです。
例えば、もし、妊婦の高血圧状態を、胎児を中絶することによって治療するとき、医師は、母親の病気を治癒する目的で、直接に子どもを殺す罪を犯します。子どもを殺すことが、その母親の病気を治療するための手段となります。彼は、道徳的に非合法な直接的人工妊娠中絶の罪を負います。
もし、その反対に、医師が、ガンにかかった子宮を切除したり、放射線で子宮を治療したりするとき、行為の直接対象は母親の器官です。その治療行為の結果、子宮内の胎児が死んだとしても、それは、彼が母親を治療する手段ではありません。それは、直接的治療行為の間接的な結果、もしくは、副作用に過ぎません。間接的中絶は、時として母親の生命を救うため、または、彼女の生命、健康への重大な脅威を除去するために許容されます。しかし、後に詳説しますが、母親は、このような場合、子どもの命を救うために、自分の生命をささげる選択をすることもできます。可能でさえあれば、医師は、母子両方を救うために、そのような治療を延期しなければなりません。
受精した卵子の、子宮への移動が妨げられて、妊娠がファロビアン・チューブ内で起きる子宮外妊娠の場合、胎児からの組織の侵入が、母親のファロビアン・チューブの組織を弱化します。チューブの充血した血管は、そのうちに破裂することが予想されます。この場合、母親の致死的出血の差し迫った危険があります。突然の血管破裂は、もしその母親が、設備の整った病院で直ちに緊急の処置を受けなければ、ほぼ確かに、彼女の命を奪うことになります。それ故に、母親の器官が、彼女の生命を脅かしていることになります。この理由のために、彼女には、自分の生命を救うために、その器官の直接的治療を受ける権利があります。その副作用として、チューブ内の胎児が死ななければならないにもかかわらず、彼女の生命を救うために、まずは、そのチューブの切除が許されるのです。チューブの破裂が起こるとき、胎児はいずれ死ぬことになります。子宮外妊娠は、胎児が胎外で生存できるまで待っても、子どもを助けることができないケースにあたります。
つまり、母親の身体と器官の直接的治療が、結果として、間接的に、胎児の生命を奪うことになっても、そのような治療は許されます。しかし、母親は、自分自身の生命だけでなく、可能でさえあれば、胎児の生命を救う努力もしなければなりません。それが緊急でなければ、そして医学的に可能でさえあれば、早期帝王切開手術によるものであっても、子どもが出産後生存できるまで、その治療は延期されねばなりません。
直接的人工妊娠中絶と間接的人工妊娠中絶の区別をしたいま、わたしたちは、「母親か、子どもか」の問題が、今日、果たして真に学問的であるかどうか、についても調べる必要があります。もし、ある妊婦が、医師から「あなたの命を救うために、人工妊娠中絶をしなければならない」などと言われても、真に受けてはいけません。正しい答えは、彼女と子どもの両方を救うために、別の、もっと有能な医師の診察を受けるように勧めることです。
一つの例を挙げましょう。ある東京の妊婦が、出血し始めたとき、医師は、人工妊娠中絶によって彼女の命を救おうとしました。しかし、婦長は「いいえ、先生。この患者のことは、わたしがよく知っています。母子とも救いましょうよ」と、断固として反対したものです。婦長もその母親も、ミネソタ・カレッジヴィル・セント・ジョンズ・カレッジで、HLIのポール・マルクス神父のプロ・ライフ大会に参加していたので、一部の医師たちのやり口を心得ていました。びっくりした医師は、それでも彼女に投薬したうえで、入院して絶対安静するよう、命じました。そのうちに出血は止まり、やがて非常に元気な男の赤ちゃんが生まれました。お産が終わってみると、出血も身体の不調も、まるでうそのようでした。元気に生まれたその男の子は、婦長と母親が、すぐに産婦人科用の外科器具を使いたがる医師に「中絶はいやです」と言う勇気があったから、助かりました。その命でもって、いま、彼は学友たちと元気に学業を競い合っています。
婦人科・産婦人科医としての長年の経歴の中で、一五、○○○人の赤ちゃんを取り上げてきたH・P・ダン博士は、今日、母親の生命を救うために、人工妊娠中絶が、本当に必要であるとは、信じていません。「世界各地の医学雑誌から、六〇以上の症例を調べてみました。しかし、人工妊娠中絶の必要を暗示するような医学的兆候は、まったく見つけることができなかった」、と彼は書いています(The Doctor and Christian Marriage 一一三ページ)。それらに目を通した他の良心的医師たちの結論も、まったく同じでした。
それでもなお、直接的人工妊娠中絶に頼らないと母親の生命が救えない、ということが本当にあったとしても、母親の生命を救うという善のために、直接的人工妊娠中絶の悪を行うことは許されません。「目的を達成するための手段として・・・この場合、もう一つの生命を救う目的で・・・罪のない人間の生命を、直接に奪うことは不法です」教皇ピオ十二世は、教導職の教えの中で、この原理を繰り返しています(一九五一年一一月二六日のThe Family Front大会での教話)。そして、この原理のために命をささげた、英雄的な母親の例を紹介なさいました。
一つの例をここで皆さんに紹介したい、と思います…それは一九〇五年のことです。高貴な生まれの、そしてさらにもっと高貴な心の持ち主であった若い女性がいました。しかし、彼女の健康は、それほど優れてはいませんでした…ある日、彼女は、自分が、妊娠していることに気づきました。しかし、すぐに、彼女は、体の不調を訴え始めました。彼女の担当であった二人の主治医は、最善をつくして、彼女を治療していたのですが、病状がただ事でないことに気づきました。持病であった肺先端の不具合、以前の病巣の跡にできた新しい組織が、再度、悪化していたのです。彼らの診断は、直ちに人工妊娠中絶をしなければ、彼女の生命は失われる、というものでした。彼女の夫も、ことの重大性をかんがみて、その悩み多い解決に同意していました。
担当の助産婦が、医師たちの決定を彼女に告げ、彼らの判断に従うよう、こい願いましたが、彼女ははっきり言いました。「ご親切にありがとう。だけど、わたしには、たとえどんなことがあっても、自分の子どもの命を奪うことなんてできないわ。この子が、お腹の中でもう動き始めているのが、わたしには分かるの。この子には、生きる権利があるんだわ。この子は、神様からの贈り物なのよ。この子が神様を愛し、神様を楽しむためには、神様を知らなくてはならないの」夫も必死に嘆願しました。しかし、彼女の意志は固く、彼女はその時が来るのを、静かに待つだけでした。そして、女の赤ちゃんが無事に生まれました。それはよかったのですが、その直後、母親の病気は悪化し、肺動脈弁の病変が拡がって、手が付けられぬ程になりました。ニケ月後、彼女の地上での最後の日が訪れました。元気のいい乳母のもとで、すくすく、育っていた彼女のかわいい赤ちゃんを、最後に一目見た彼女は、満足そうに微笑みながら静かに息を引き取りました。
そして何年かが経過しました。ある修道院で、病気の子どもたちの上にかがみ込み、母性愛あふれるまなざしで、彼らを見つめながら、彼らに、自分の命そのものを与えつくさんばかりの若い修道女が、孤児たちの世話と教育に没頭しています。もうお分かりでしょう。愛の生けにえになったあの母親の娘です。いま、彼女は、その寛大な心で、見捨てられた子どもたちの中にあって、すばらしい愛の業を実践しています。母親の英雄的な死は、決して、無駄でなかったことが分かります(Andrea Majocci,With Surgival Knives and Scissors 一九四〇年、ニ一ページ参照)。
赤ちゃんを助けるために命をささげた母親たち
上のケースで、母親は、直接的人工妊娠中絶の罪を犯す代わりに、自分の命をささげました。
もう一つの例は、許されるはずの間接的人工妊娠中絶さえも拒否して、自分の子どもを救った母親の話です。女医であったジァンナ・ベレッタ・モラは、一九六二年四月二八日に亡くなりました。それは、ほぼ確実に胎内の子どもを殺すことにはなっても、自分の生命は救ったであろう手術を、彼女が拒否したからです。一九九四年四月二四日、教皇ヨハネ・パウロ二世は彼女を列福しました。以下は、その際の教皇による称賛の言葉です。
ジァンナ・ベレッタ・モラは、学生時代は模範的な学生、教会生活においても熱心な女性、そして、幸せな妻であり、母でした。彼女は、おなかの中にいる子どもを救うために、自分の命を生けにえにすることを知っていました。彼女が生んだ、その娘は、今日、ここにわたしたちとともにいます。医師として、彼女は、自分に何が起きるかを、よく承知していました。しかし、彼女は、その犠牲的行為の前でたじろぎませんでした。彼女の徳は、そのために、今日、さん然と輝いています(英語版週刊オッセルバトーレ・ロマーノ、一九九四年四月二七日)。
ジァンナは、小児科医でした。彼女は、もし、自分か子どもかのどちらかを選ばねばならないときには、子どもの方を選択するように、夫には言ってありました。彼らには、すでに、三人の子どもがいました。第四子を妊娠していた当時、彼女は三九歳でした。そして、子宮ガンにかかっていた彼女は、医師として、自分に生命の危険があることをよく承知していました。子宮摘出手術を受けて、赤ちゃんを間接的に中絶する代わりに、彼女は、その子を生む決意をし、夫のピエトロも彼女の決断に同意していました。
女の赤ちゃん、ジァンナ・エンマヌエッラは、一九六二年四月ニ一日に生まれましたが、ガンをひどく悪化させてしまった母親は、七日後に死亡しました。夫ビエトロは、「本質的な点は簡単です。彼女の胎内にいた子どもにとって、彼女は、自分が摂理そのものである、と信じていたのです」と、説明してくれます。二人とも、四人の子どもたちが、母親なしで育たねばならないことを知ってはいました。しかし、たとえ母親の命を犠牲にしてでも、「大事なことは、一つの命を救うことである」という点で、二人は一致していました(The Catholic World Report 一九九三年二月、一二〜一三ページ)。
イタリア人に衝撃を与えたもう一つの例、カーラ・レヴァーティ・アルデンギのケースを紹介しましょう。彼女は、悪性の腫瘍を、その出産の二年前に摘出していました。彼女は、妊娠した後、化学療法も外科的手術も、間接的に胎児の人工妊娠中絶につながるので、拒否することに決め、出産できるまで生き続けようと、懸命に努力しました。しかし、ガンは、急性で、その子は、二五週間で、帝王切開によって胎内から取り出されました。彼女は一九九三年一月二五日、その切開手術の八時間後に息を引き取りました。そして、八日後、彼女の赤ちゃんステファノも、天国のお母さんのもとに旅立ちました。イタリアの新聞には、賛否両論が、あふれるように掲載されました。しかし、この件についてジェローム・ルジョンヌ博士が、一人の母親の決断として、次のように結論しています。
この女性は、自分が死ぬことなどは、求めませんでした。ただ、ひたすら求めたのは、彼女の子どもの命に危害を及ぼさないということでした。彼女は、病気を求めたわけではなく、病気によって苦しめられたのです。彼女は「治療のために、子どもを死なせることになるのなら、その治療を受ける前に、まず子供が無事生まれるまで待つ危険の方を選ぶ」と言っていました。これは、正に英雄的な行為です。わたしは心からの賞賛を惜しみません。彼女は、正に、母親としての決断をしたのですから(The Catholic World Report 一九九三年三月、一六ページ)。
強姦と妊娠の予防
もし、それが可能であれば、女性は、強姦による妊娠を避けるべきです。それは、神の一般的計画によれば、妊娠は、結婚生活に関連づけられているからです。ですから、理論的に突き詰めて考えると、女性は強姦が予想されるとき、人工妊娠中絶をもたらすことのない、ダイアフラムのような避妊器具を使用することさえ許されます。
しかし、例えば、ピル、ノープラント、避妊リングのように、人工妊娠中絶をもたらし得るような他の手段は、強姦された結果の妊娠を、たとえ予防的に防ぐためであっても、原則的に許されません。
ユージーン・ダイアモンド博士は、強姦があった後、処方される、いわゆる「モーニング・アフター」ピルは、人工妊娠中絶剤である可能性があることを指摘します。性交直後の避妊のために処方される普通の分量は、一〇〇ミクログラムのオヴラル(エストロゲンとプロゲストゲンの組み合わせ)で、一二時間後に、同量を、再び服用します。博士は、精子が最良の条件のもとで、射精が終わったあと子宮頚管、子宮、ファロピアン・チューブを経由して受精する場所にたどり着くのに、わずか数分、おそらくは五分ぐらいかかる、と考えています。強姦された後、女性が、病院で手当を受けるまで、数分以上かかることは、容易に予想されないでしょうか。それ故に、妊娠を避けるためのどのような治療も、同時に、人工妊娠中絶の原因になり得ます。もし、女性が強姦によってすでに妊娠している場合、オヴラルを服用すれば、接合体のチューブ移動に何らかの作用を及ぼし、その受精卵の着床が妨害されることになります。このように、強姦によって、比較的まれにではあっても妊娠してしまった場合、このような治療の結果は、人工妊娠中絶の実行になってしまいます(“Rape Protocol in Linacre Quarterly 一九九二年八月参照)。
以上の理由のため、強姦の後、道徳的に許される治療と称して、普通、処方されるオヴラルの服用は、それが人工妊娠中絶剤であるかなり高い可能性があるので、除外されるべきです(Diamond,op.cit.一四参照)。同じ原則は、同様な性質の他の治療についても、当てはまります。もしも、女性が、強姦によって実際に妊娠した場合・・・一回の強姦で妊娠することはきわめてまれではありますが・・・まわりの人たちは、犠牲者を励まし、それが、たとえ不幸な出来事ではあっても、新しい命を歓迎し、支持する善に、変えていくようにしなければなりません。もし、彼女がそう希望するなら、生まれてくる子供は養子として別の家庭に引き取られるのが適当な解決でしょう。
強姦されて妊娠した場合でも人工妊娠中絶は道徳的ではありません
強姦の結果生まれる子供に、父親の犯罪の責任がないことは、はっきりしています。子どもは、その母親に攻撃を加えているわけではありません。その子は、両親から命を受けただけでなく、神からも直接、命を受けます。その生命は、いま、その母親が保護し、世話するよう神から彼女に委託されています。彼女の忠実と愛があれば、神は、悪から善を生じさせることができます。
教皇ヨハネ・パウロ二世は、一九九三年二月二日、サラエヴォの大司教に、次のような書簡を送って、強姦された被害者たちと、そのすでに生まれた、そして、いまから生まれることが予想される子どもたちに、司牧的な世話を欠かすことのないように、励ましておられます。「たとえ、どのような事態が過去にあったとしても、そのことについて、生まれてくる子供たちにはまったく責任がなく、彼らは潔白です。それ故に、彼らが母親たちを攻撃している、とは決して考えられないことを、強調しなければなりません。だから、全共同体は、これらの悲しみに打ちひしがれている女性たちとその家族を慰め、この暴力行為の悪を、愛と受容の行為に変容させる手助けをしなければなりません。福音は、暴力に対して暴力で対抗してはいけない、と教えています」(マタイ五・三八〜四一参照)(Inside the Vatican 一九九三年春、六〜七ページ、詳しくは関連記事を参照)。
強姦された母親たちは、同じ仲間である人間から、自分たちの尊厳を踏みにじられた、と感じています。もし、周囲のものが、彼女らが身ごもっている胎児を、殺すように強制するなら、彼女たちが女であること自体が、再び、踏みにじられてしまいます。そうではなく、このような状態を彼女たちが受けとめ、子どもに暴力行為を働かないように励ます社会は、彼女たちが、自尊心を取り戻して、立ち直る手助けをします。強姦によってこの世に生まれる子供たちは、他の人間よりも、命のたまものを受けたことで、神と社会に感謝しないわけがありません。
人工妊娠中絶・・・現代の巨悪
人工妊娠中絶、つまり、出産前に、熟慮の上で、直接に子どもたちを殺すことは、現代、不幸なことに、非常に頻繁に見られる犯罪です。普通、外科手術による人工妊娠中絶は、最近の国連統計によると、年間約四五〇〇万件あるとみられますが、正確な数は不明です。
それに加えて、ピル、避妊リング、ノープラント、デポープロヴェラ、オヴラルのようなモーニング・アフター・ピル、ダノクリン等々の使用によって、きわめて多数の人工妊娠中絶が実施されているのが現状です。例えば、ある研究は、銅の避妊リングを装着したグループの中二〇〇人、つまり一二〜一九パーセントの女性には、妊娠初期の徴侯があり、その後、流産したことを示しています(J・マックリーン、二五ページ)。女性の生理周期が年間約十三回なので、十六%の十三倍、避妊リングを使用する一人の女性は、年間、約二回人工避妊に失敗します。もし、この率を、世界中に散らばる八〇〇〇万の避妊リング使用者に当てはめると、年間、さらに、一億六〇〇〇万の人工妊娠中絶があることを意味します。
さらに、六〇〇〇万人に及ぶホルモン調節による人工避妊薬使用者には、計画外の排卵が、四・七%あると推定できます(米国の推定ピル使用者、全国人工妊娠中絶連盟、ポストン、一九八五年六月九〜一二日、Mitteilun)。そして、これらの計画外排卵の妊娠率が二五%であれば、それが意味するのは、それ以外に、毎年、九〇〇万の人工妊娠中絶が行われるということです(“Project Abortifacients”HLI Reports 一九九一年六月参照)。非常に大ざっぱな計算ではありますが、これらの数字を合計すると、一億一四〇〇万件の出生数より多い、合計二億四〇〇〇万の人工妊娠中絶が、毎年、行われていることになります。
殺人は殺人者自身を非人間化します
自分の子どもを殺す女性は、重大な犯罪でもって、自分の人格に傷跡を残します。彼女は、すでに、犯罪者、第二のカインになります。彼女に人工妊娠中絶手術をした医師も、また形相的に協力したすべての人間も、同罪です。しばしば、人工妊娠中絶をする女性は、婚前または婚外性交という本質的な悪を犯したあげく、人工避妊に失敗しています。これらはすべて、この女性の自己イメージを低下させます。聖化の努力も、自分の生活状態にそぐわないので、彼女には、それが偽善としか思えないのかもしれません。この罪と悪の自覚を、彼女は、もし、家族があれば家族の中に、そして、一般社会の中に持ち込みます。それ故に、人工妊娠中絶は、個人、家族、社会の中に道徳的な悪を助長します。
人工妊娠中絶の悪、そして、それに先行するもろもろの罪は、人工妊娠中絶をする人たちの生活のすべての面に、そして、そこから人類全体に・・・まずは、近所、国、人種、教会にあふれでてきます。毎年、五〇〇〇万組前後の男女が、人工妊娠中絶によって自分自身を汚します。そして、おそらく、出産可能な年齢にある八億八〇〇〇万組の男女のうち、三億四〇〇〇万組が・・・人工避妊・・・人工妊娠中絶・・・不妊手術の生活様式を生きていると、推定されます。人間の不幸と災難を望み、喜ぶ悪魔の災いの大釜は、煮えくり返って、世界中に悪を垂れ流さないでしょうか(Studies in Family Planning 一九八八年一一/一二月中の数字を見よ)。離婚、不倫、幼児虐待、十代の殺人、無神論、無宗教、厭世主義、無気力な生活、戦争、詐欺・・・これらは皆、全人類に悪影響を与える現代の疫病である人工妊娠中絶の愚かさをえさにして太ります。
この巨悪にはまったカトリック信者の夫婦からは、祈りにおける喜び、福音を伝える力、主日のミサが大事であるという信仰が、どこかに吹き飛んでしまいます。わたしたちは、主日だというのに、教会が半分しか埋まっていないのを目にします。人間が少ないという理由で、また広範囲にわたる信仰の喪失、投げやりな生活態度のために、多くの教会が閉鎖され、カトリックの学校や神学校が合併されるのを体験します。子どもたちの模範になるはずの両親たちには、もはや、霊的な力がありません。自分たちが、霊的に愚かであるために、子どもたちに与える霊的な遺産は、最小限しかありません。
わたしたちは、今日の人工妊娠中絶のはんらんをマスコミ、神学者、司教たちのせいにしたがります。しかし、実際に、人工妊娠中絶をするものたちは、その責任を逃れることができる訳はありません。人工妊娠中絶をする人たちは、いまや、どこにでもいます。人工妊娠中絶をしているのは、○○叔父さんであり、○○叔母さんであり、医師の○○先生なのです。西側世界を、再度、キリスト教化するために、そして、世界を福音化するために、わたしたちは、カイン・・・人工妊娠中絶・・・を、わたしたちの間から追放しなければなりません。聖書を読むと、カインの子孫は人を殺し続け、しかもそのことを自慢します。
さてレメクは妻たちに言った。「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し打ち傷の報いに若ものを殺す。カインのための復讐が七倍ならレメクのためには七十七倍」
(創世記四・二三〜二四)
もしわたしたちが、平和を愛する世代でありたければ、わたしたちは、わたしたちの間から、人工妊娠中絶の暴力を一掃しなければなりません。昔から、神は、人間に、仲間である人間の生命に対して絶対的尊敬を、要求なさっています。神にとって、人間は、すべての被造物のいわば焦点でした。それで神は、人間による、他の人間の生命に対する尊敬の欠如は、ご自分への尊敬の欠如、とみなされました。「人を殺すとき、人殺しは仲間の人間だけでなく、神をも軽べつしている」(NIV創世記九・六の解説)。
カインとアベル物語中にある聖書の原初的メッセージは、正に以上のようなものです。洪水後の、ノアとその子孫に対する神の厳しい命令も、また、同様なものです。「人間の生命を尊敬しなさい」神は、動物からさえも、人の命については、賠償を要求なさいます。ましてや、人間からは、どれほどの賠償を要求なさることでしょうか。
また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間同士の血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流すものは人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。(創世記 九・五〜六)。
それ故に、ノアのときから、計画的殺人の罪を犯したものは、死刑によって罰されることになりました。モーセの律法のもとでも、イスラエル人たちは、同じ法に服しました(出エジプ上一一・一二〜一四、民数記三五・一六〜三二参照)。後の神政政治にあっては、人を殺した動物は、石殺しにされました(出エジプト二一・二八〜三二)。そして、人を殺したものは、彼が祭壇に逃れたとしても、死刑にされるのでした。「しかし、人が故意に隣人を殺そうとして暴力を振るうならば、あなたは、彼を、わたしの祭壇のもとからでも連れ出して、処刑することができる」(出エジプト二一・一四)。このような民の法は、道徳法を、強力に支持しました。犯罪者たちが実際に処刑されたときのその一連の所作は、犯罪の恐ろしさと、神のみ前での、その邪悪さを劇的に表現したに違いありません。
現代、諸国の政府が人工妊娠中絶による殺人を法律によって厳しく罰さないとしても、それは人工妊娠中絶を禁止する道徳法を緩めるものではありません。奴隷制度に関してですが、アブラハム・リンカーンの「どのような法も、わたしが悪事をする権利を与えない」という言葉があります。ジョセフ・モイラン判事は、ある女の子に、その赤ちゃんの人工妊娠中絶を許可することを忌避するために、職を辞した人です。その際に引用したのが、リンカーンのこの言葉でした(Our Sunday Visitor 一九九三年一〇月三日)。人工妊娠中絶について、現代、国の法律が緩やかであるために、人々はそれほど罪悪感を感じなくなっているのかもしれません。しかし、人工妊娠中絶の犯罪は、いまも、いつも、そして永遠に「殺してはならない」という神のおきてへの背きなのです。
プロ・ライフの使徒職
ヤコブは、次のように書いています。「あなた方の中に、真理から迷い出たものがいて、だれかが、その人を真理へ連れ戻すならば、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです」(ヤコブ五・一九〜二〇)。そして、今日、一人の女性に人工妊娠中絶を思いとどまらせ、医師、看護婦の殺人関与を止めさせることができれば、ヤコブが書いているように、「死から」こういう人たちを救い出し・・・自分と他の人たちの、多くの罪を覆います。
人工妊娠中絶の罪を犯してしまった人たちのために、よい知らせは、彼らが、完全にいやされた上に、ご褒美までもらえる、ということです。夕方まで何もしないで、市場に立っていた労働者たちは、たった一時間働いて、一日分の給料を受け取りました。遠くの地で遊びほうけて、その後無事に、また賢くなって家に帰り着いた放蕩息子は、彼の体験学習の前よりも、もっと幸せに、その後、家で暮らしたではないですか。泣いたペトロは、キリストを裏切って痛悔した後、以前威張っていたころより、はるかに、主に忠実になりました。回心した人工妊娠中絶経験者も、常に、神の家族に帰って来て大歓迎を受けることができます。
仮面をかぶった直接的人工妊娠中絶の偽ケース
K・ペシュケ神父のChristian Ethics 第Ⅱ 巻、一九八七年版、三六二〜三六三ページに、次のようなケースが、非常に疑わしい解決を添えて提示されています。これは、一九九三年の改訂版では削除されています。しかし、それ以前の版によって、世界中の数多くの神学生が誤った教育を受けているので、そのケースと反論を、ここに掲載することにしました。
B・ヘーリングは、多量の出血の原因となっていた子宮内の腫瘍に苦しんでいた、ある妊婦のケースを取り上げています。致死的な出血を止めるため、主治医は、子宮を切開して、その中身を取り出すことにしました。その結果、子宮は収縮して、出血は止まりました。しかし、直接的に、そして、間接的に望まれた悪い結果の原則に従うと、この処置は許されない、と考えられねばなりません。胎児を子宮から取り出すことは、法に背く直接的人工妊娠中絶に相当します。このような処置で、初めて妊娠したこの女性の子宮を助けることができた事情は、この処置を正当とする理由にはなりません。しかし、子宮全体を病気の器官として、中の子供もともに、除去してしまえば、これは間接的人工妊娠中絶になるので、許されます。
ヘーリング神父はこれが、健全な道徳であるかを疑っていますが、それはもっともです。
・・・なぜならば、なされ得たはずの多くの善が、なされなかったり、実行不可能にされてしまうからです。そして、胎児だけが、除去される代わりに、子宮が、胎児とともに取り出されてしまうのは、非合理的であり、関係者にとっては、道徳的に我慢がなりません。もしくは、胎児の治療的人工妊娠中絶によって、少なくとも母親だけでも助ける代わりに、母親が子供とともに死ななければならないのなら、それについても同じことがいえます。
・・・結果的に、健康と生命への肉体的損害について考えると、それがより小さな悪であるので、直接的、治療的人工妊娠中絶は、間接的、治療的人工妊娠中絶と同じく、許されるように思われます(ペシュケ神父、前掲書、三六二〜三六三ページ)。
わたしの意見は、次の通りです。このケースを読むとき、すべての事実が、ここに、提示されているかが疑わしいと思いました。文脈は、ヘーリング神父とペシュケ神父が、直接的人工妊娠中絶が時としては許される(本当は許されない)という、もっともらしい議論に、余りにも固執し過ぎたことを、暗示します。彼らは、何かを見過ごしたのでしょうか。とにかく、直接的人工妊娠中絶は、決して許されません。『真理の輝き』は、このことを再び力強く、明りょうに教えてくれます。
わたしは、それで、経験に富んだ産婦人科医、H・パトリック・ダン博士に、このケースを送って、意見を仰ぎました。博士が取り上げた赤ちゃんの数は、一五、○○○人に及びます。神学生には、よく分かりにくいこの分野の事柄を、博士の返事は、明快に解明してくれます。ですから、少し長くなりますが、次に、その全文を引用しましょう。これを読めば、わたしたちは、よい医師であるために、直接的人工妊娠中絶を禁止する道徳法に背く必要がまったくないことが、よく分かります。それでは、ダン博士の、いかにも専門家らしい以下の答えを読んでください。
著者の文体は、正確さに欠け、しばしば理解するのは困難です。それは、時として、センチメンタルになり、感情に訴えているとしか思えません。例えば、「・・・子宮が胎児とともに取り出されてしまうのは、非合理的であり、関係者にとっては、道徳的に我慢がならない・・・」の代わりに、彼は「感情的に我慢がならない」と書くべきでした。道徳は、その適用が困難であっても、我慢できないという性質のものではありません。
彼とヘーリング神父が、医学的問題に頭をつっこみたいのなら、彼らは、もっと正確でなければなりません。また、教養ある信徒であれば、だれでも、普通なら理解できるような、正しい医学用語を使用するべきでしょう。例えば、「子宮全部を病気の(sick)器官として・・・除去してしまえば(to take out)」の箇所は、「異常な(pathological)器官・・・」、とか「子宮切除術を施した(performed a hysterectomy)」と言えたでしょうに。間接的に「望まれた(willed)悪い結果は、しばしば(許容されます)」、「望まれた(willed)」というより「許容された(permitted)」の方が、この文脈の中では、もっと正確だったことでしょう。
さて、ヘーリング神父が引用する「多量の出血の原因となっていた子宮内の腫瘍に苦しんでいたある妊婦」について話しましょう。
腫瘍とは何でしょう。著者は、これを正確に書けたはずです。「腫瘍」は常に悪性であることを暗示します。この場合に(非常にまれに、二〇、○○○人に一人ぐらいの率で)起こりうるのは、子宮頚管ガンですが、そうであれば出血は持続的ではあっても、致命的に多量ではありません。類繊維腫への悪化(つまり肉腫になること)は膣の出血の原因にはなりません。
腹部の手術(子宮切除術)によって、子宮内の胎児が除去され、出血が止まったということは、普通使われている意味での腫瘍が、初めから存在しなかったということです。それは、単なる、妊娠に伴う一つの病状であったに過ぎません。つまり、流産の危ぐで、おそらく、もっと可能性が高いのは、胎盤下降(つまり、正常位置である器官内の上部でなく、下部に位置している胎盤・・・後産、もしくは、えな)である、と思われます。このような状況だと、胎盤は、内口、つまり、赤ちゃんが普通生まれてくる子宮頚管の産道への開口部を覆ってしまいます。そして、子宮が大きくなるにつれて、出血が始まるのを避けることはできません。
この病状は、しばしば、妊娠初期の偶発的な流産の原因になります。多くの場合、出血は妊娠期間の最後の月までありません。そして、それは、普通、帝王切開による出産を要します。
引用されたケースでは、おそらく、出血が、妊娠一四〜二六週に起きたもののように思われます。そういう場合、時には輸血が必要ですし、そのような処置で、十分に対応できるものなのです。わたしの経験では、輸血したにもかかわらず、出血が生命に危険であり続けたことはありません。しかし、時として、産婦人科医に帝王切開を急がせるかもしれませんが、これはこれで、未熟児で生まれてくる危険を呈する原因となります。倫理的に、「生存可能な出産時期は」、非常な未熟状態、つまり、二一〜二二週程度です。それで、倫理的な問題をヘーリング神父が投じるのなら、この胎児は、これよりももっと未熟児であったはずです。彼は、ここで、正確な胎児の成熟度を説明するべきでした。もし、警戒を要するような出血があれば、しばしば、患者の陣痛が始まりますが、それは実に、自然の流産ということです。もしくは、胎児が子宮内で、酸素欠乏のために死ぬことになりますが、そうすれば、どこを探しても、倫理的な問題は見つからない、という結果になります。
滅多にないことですが、このケースから推定できるように、胎児が、未熟な場合、出血のもう一つの原因は、胎盤分離(着床箇所の大きな凝固した血液の固まりのために、胎盤が子宮壁から分離すること)です。これは痛み、ショック、時として血液凝固能力の喪失につながります。
もし、著者が述べている程度の出血があれは、推定できるのは、大きな胎盤後部の血液凝固があるということです。それは胎児を、短時間で胎内死させるでしょう。この場合も、帝王切開術、つまり、子宮の内容の摘出を選択するにあたって、道徳的問題は存在しません。
故に、以上のケースは、非常に珍しいことになります。このようなケースは、奇怪であり、ほとんどあり得ません。これが、新しい倫理的基準を確立したり、すでに確立された処置法を廃止したりする際の基準に採用されていいものでしょうか。
ダン博士の観察は、直接的人工妊娠中絶が、このケースの正しい処置ではなかったことを示しています。ましてや、直接的人工妊娠中絶は、決して許容できる道徳的解決ではありません。明らかに、ヘーリング神父とペシュケ神父には、そのケースを適切に提示する医学的能力が欠けていました。誤った医学的データから、誤った道徳的結論を導き出すことによって、彼らは、神学生の役に立ったとはいえません。神学生たちには、間違った結論が導き出される間違った情報を、彼らの教授から受け取らない権利があります。
最後のケース
神学校の教室で教えた経験から、わたしは一つのことを学びました。彼らは、学期中に、直接的人工妊娠中絶が、本質的に悪であると習っています。「同情しなければならないような」答案が期待されるように思われる場合に直面すると、神学生たちは、つい、せっかく学んだことを忘れてしまう、ということでした。口答試験の際、次の問いには、かなりの神学生たちから、正解を聞くことができませんでした。
この女性には、すでに、六人の子どもがいます。彼女はさらに、もう一人妊娠しました。彼女は申し分のない妻であり、母親です。みんなのために、神のみ前で、最善のことを、したいと、望んでいます。これ以上の子どもを養うことはできないし、夫の収入が不十分であることも、よく承知しています。さて、あなたは彼女の告解を聞いています。彼女は、その子を人工妊娠中絶する許可を願っています。それは決して、利己主義からではなく、夫、子ども、神への愛、純粋の義務感から出るものです。
この設問に困惑した神学生は、「そうですねー。彼女に生命に対する尊敬があり、神と家族に対する義務感からそうするのであれば、それは許されると思います」何と回りくどく、分かりにくい答えでしょう。正解は、もちろん、「いいえ」です。母親は、よい意向のために、悪を行っては、いけないのです。悪を行うことによって、彼女は、悪い人になります。どのような母親であっても、自分の家族のためにそうする、と言いながら、悪人になってしまう義務は、ありません。神の法は、絶対で永遠です。「殺してはならない。直接的人工妊娠中絶をしてはならない」