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振り返って考えると…

鹿児島教区司祭 成相明人

フマネ・ヴィテ研究会  〒891-2106 垂水市中央町26

電話 & Fax 0994-32-0313

(ヴァチカンの道26号で不採用になった文章)

わたしのつたない文章を、今まで根気よく読んで下さった「ヴァチカンの道」読者の皆さんに感謝します。振り返ってみるとあちらこちらに間違いがあって、汗顔の至りです。しかし、日本教会が教皇様と真の一致に至るべし、という主張について訂正する気持ちは毛頭ありません。今回は21〜25号を振り返って、いくつかの訂正とか追加をさせて下さい。

重要な出来事としては4月19日から5月14日にかけて、ローマでアジア特別シノドスが開催されました。日本の司教様方がアジアの、そして日本の独自性を主張なさる前に、回勅「フマネ・ヴィテ」の教えを100パーセント受け入れていれば、もっと説得力があったろうにと思われます。池永大司教様がおっしゃる神の姿を描写する際の「母性的な表現」にしても、一寸心配。ミサ典文に関して大司教様の持論は、ご一緒する会議などでの会話をお聞きする限り、日本のミサ典文ぐらい日本に任せてくれ、ということであるとお見受けしました。フェミニスト言語を採用した英語圏のミサ朗読集が、ヴァチカンによって不許可になったという一つのことを取ってみても、こういう大事なことに関してヴァチカンの指導はまだまだ必要であると思われますが、いかがなものでしょう? 言い過ぎであるとは思いますが、ヴァチカンの監督・指導を欲せず、ヴァチカンからの独立を求める地方教会の態度は真面目な信徒をとんでもない方向に追いやります。そして、その兆しはすでに日本の教会内にも見られます。

21号

19ページ。カトリック医師会が講師として呼んだ松本清一教授は、家族計画協会でなく、日本優生学会会長の誤認でした。失礼。しかし、その悪さは同じ。劣性の人間であれば生まれないようにしよう、不妊手術をしてしまえというのが優生学であれば、松本教授に教えを請うカトリック医師会は狂っています。神様の教えは無条件に「汝殺すなかれ」です。教会もカトリック医師会もこれには従わなければなりません。

21ページ。滞日外国人と連帯する会発行の「住民として地域で暮らすための情報—移住労働者—生活マニュアル」には避妊と中絶のための情報があります。責任者は小林賢吾神父でした。その後わたしたちが抗議し、ローマにも報告した結果、改訂版でこれらの項目が消えました。しかし、エイズ予防のためにコンドーム使用という指導はしっかと残っています。小林神父によると、浜尾司教様の認可があるそうです。浜尾司教様がそう確信なさっているからでしょうか? 司教様は今回ローマに行かれることになりましたが、向こうではよく本物の倫理神学を勉強なさることを期待します。小林神父は北海道のある牧場の牛小屋の中で飼い葉桶を祭壇にしてミサをなさったという報告を受けました。聖家族の清貧にならったと聞きましたが、こういうことはよくありません。何もかも昔のやり方がいいという立場は、回勅「メディアトル・デイ」で禁止されています。彼はその後、還俗しています。

22号

23ページでは米国ノートルダム大学の悪口を言いました。いろいろ問題を抱えていながらも、最近改善の兆しが見られるようになったことを米国の雑誌が報告しています。同号では、カトリック教会を自分たち好みの教会にしてしまおうとする米国のCall to Actionの解説をしましたが、目標を百万人に定めて進めていた彼らの署名運動の成果は、たった37000人でした。非カトリック信徒とか教会にまったく行っていないカトリック信徒の署名もかなりあることが判明しています。それら非合法的署名も含めて、米国カトリック信者の10,000人中6人しか賛成しなかったことになります。

23号

18ページ。池永大司教様にはきついことを言いました。撤回するつもりはまったくありませんが、回勅は教皇様の通常の教導職ですから、例えば共産主義に対する態度が以前の教皇様の教えと違ってしまった回勅「パーチェム・イン・テリス」のような場合、教皇様に間違いがあることもあり得ることは認めましょう。ですから回勅が教皇様の個人的意見に過ぎないこと、間違うこともあり得ます。ただし、教会の伝統的な教えを回勅の中で教皇様が繰り返される場合、わたしたちは教導職の最高の重みを感じ取らなければなりません。

22ページ。「カトリック新聞購読を止めさせる運動をめでたく中止する」と書きましたが、最近、また相も変わらず変な新聞になりました。前編集長山本量太郎神父には謝罪しなければなりません。編集長がだれであっても駄目なものは駄目なのですね! 問題は記者たちにあるか司教様方にあるかのどちらかでしょう。皆さん、カトリック新聞を読んで日本流のカトリック信者にならないように気をつけましょう。6月14日のカトリック新聞に掲載された、日本司教協議会によるインド・パキスタンの原爆実験反対に、わたしは恥ずかしさで顔を赤らめました。政府も国民もみんな反対だからカトリック司教団もしゃしゃり出て反対しましょう、というのでは、心ある信者は恥ずかしくてたまりません。人工避妊ピル反対にはあれほど尻込みしていた司教様方がえらく元気よく原爆実験反対をなさいますが、あんなものは放置しておいても日本国政府も含めて他のほとんどの人たちが反対するのですから、司教様方は司教様方でなければできないような、倫理的にも格調高い産児制限ピル反対運動をなさった方がいいのです。しかし、これは無い物ねだりかもしれません。なぜかと言えば、司教様方の方針だと、やむを得ぬ場合は人工避妊を認めると解釈できる文書をお出しになっているからです。1968年10月のあの恥ずかしい司教団声明はカトリックの教えではありませんから、そろそろ撤回なさることをお勧めします。

23ページの書評。ジャン・マリ・モレッティ著「いのちはだれのもの—生命倫理、進化、創造について—神父と若者の対話」について厳しい書評を書きました。女子パウロ会からは無視されましたが、その後フマネ・ヴィテ研究会はラッチンガー枢機卿と女子パウロ会の総長様に報告したところ、総長のシスター・ジョヴァンナマリア・カララから以下のお手紙をいただきました。部分的に引用します。" ...ho ricevulto la sua gentile lettera del 22 maggio u.s., della quale ha inviato copia anche a Sr. Teresia Tajiri, Superiora provinciale delle Figlie di San Pauolo del Giappone, e ho letto il suo desiderio che sia ritirato dalla diffusione il libro Inochi wa dare no mono perche..." 神の民の善にかかわることですから、日本語訳は省略しないで以下に全文紹介します。

5月22日付けの手紙を受け取り、そのコピーを女子聖パウロ会日本管区長シスター田尻律子に送りました。お手紙によると「いのちはだれのもの」はカトリック教会の公式の教えに反しているので、市場から引き揚げられることをあなたは望んでいらっしゃいます。わたしは日本の会員にさらに詳しく説明を求めるつもりです。そして、もしその本が教会の教えに反しているのであれば、書店から引き揚げられるべきです。

よく気がついて下さったことを感謝しています。神様のみ栄えのために、わたしたちがさらに人間的、キリスト教的価値、そしてすべての善を広めることができるよう、わたしたちのためにお祈り下さい。

24号

23ページにあるデュプランティス博士の講演資料「人工避妊ピル上陸を阻止しよう」は博士の後援会実行委員会代表の平田国夫提供となっていましたが、あれは平田さんとわたしの間に生じた誤解でした。平田さんや多くの方にご迷惑をかけました。あれはフマネ・ヴィテ研究会提供が本当です。いつもきついことを言うフマネ・ヴィテ研究会提供だと、司教様方に拒否反応があるだろうとわたしが心配したからです。わたしたちの努力のせいかどうかは分かりませんが、ピル解禁は当分延期になりそうです。これは、日本カトリック司教団から厚生大臣にピル反対の申し入れをなさる余裕期間を神様が恵んで下さったもの、と思えてなりません。フマネ・ヴィテ研究会提供の諸資料は日本の諸宗教団体にも出回っていますので、他の宗教団体からピル反対の声が挙がり、その結果日本でピルが禁止されることになると、司教様方はお株を奪われ、日本カトリック教会の汚点として歴史に残ることになります。倫理的な観点からピルの悪を説くことは司教様方のご専門であるはずではありませんか? カトリック医師会と日本宣教研究会に司教様方は産児制限ピル反対の作文を依頼なさったところ、資料として彼らが欲しがったのは、平田さんとフマネ・ヴィテ研究会提供のウィルクス著「消費者のためのピルとその他の薬品ガイドブック」でした。この本も現在出版準備中です。

38ページの「メーリング・リストIHMMLのお勧め」ですが、管理人・指導司祭であるわたしとその他の管理人たちの間に内紛が生じています。メジュゴリエでの出現が偽物であるという多くの文書やヴィデオを米国から入手して、わたし自身、間違いなくメジュゴリエでの出現が本物でないことが分かり、指導司祭としてIHMMLでメジュゴリエのメッセージが宣伝されることを禁止しました。行き過ぎと文句は言われますが、偽りの宣伝をする権利はだれにもないわけですから、会員のホーム・ページでもメジュゴリエの宣伝を禁止してしまいました。もちろん推進者たちは納得しません。メジュゴリエはカトリック教会内のカルトです。重症の人たちの救出は非常に困難と思われます。現在、メジュゴリエの真相を暴く二冊の本を翻訳し終わり、出版の準備をしています。カトリック新聞や聖母の騎士にまでメジュゴリエ巡礼の広告が掲載されるほどの時代です。これはおそらく米国や英国でのメジュゴリエ暴露作戦が功を奏して、かの地への巡礼が下火になってきたせいでしょう。メジュゴリエの真実は、推進派の言い分だけ聞いていれば永遠に分かることはありません。

42ページにある「ガラバンダルの御出現」の広告に関しては、ひたすらお詫びを乞い願わなければなりません。わたしは軽率でした。ガラバンダルの出現は教会公認でないどころか、悪魔によるものであると思われています。確かに、不思議な現象はほとんど全部が実際に起こりました。これは証明済みで、否が応でも認めざるを得ません。しかし、それらの現象が神からのものでない、というのがサンタンデルの歴代司教様方の決定です。分かった以上それには従わなければなりません。翻訳も全部済んでいましたが、出版社には出版を許可していません。かなり大きな本でしたから、それを訳したわたしは、おかげで、ガラバンダルに詳しくなりました。「出現を見た」コンチータに関しても、彼女が真実を述べない人であるという驚くべき、意外な物的証拠を最近入手しましたが、ガラバンダルについては別の機会に詳説しましょう。故人になられましたが、尊敬するフェデリコ・バルバロ神父様にはメジュゴリエを支持する著作があります。敬愛するアロイジオ・デル・コル神父様には小さな本ですが、ガラバンダルの出現に関する著作があります。東京教区の志村辰弥神父様はリットル・ペッブルに惑わされました。牧者を打てば羊は散る、と言われますが、悪魔がどれほど教会内の混乱と魂の滅びを望んでいるかは、こういうことからもうかがわれます。メジュゴリエ、ガラバンダルも、その他諸々の私的啓示の推進者たちが、その地方の司教様方の方針に逆らって運動を続けるなど、異端的ではありますが、幸いなことに教会からはっきり宣言された異端ではありません。異端宣言は教会の伝家の宝刀ですから、そう簡単に発動されることがありません。ですから、わたしも含めて、騙された神父や信徒も教会の外に飛び出してしまったわけではありません。教会の外には救いがないわけですから、神に感謝! 破門と言えば、「神学ダイジェスト」の最新号に「ヴァチカンへの道」の読者たちはスリランカのバラスリヤ神父の破門が解除されて、教会に復帰したことを残念がっているだろう、という意味のことが編集後記に書かれてありました。破門された人は教会の外に出されたわけですから、教会が間違っているのでない限り、救いがありません。ですから、バラスリヤ神父の破門が解かれたことでわたしたちは喜んでいます。しかも「ヴァチカンへの道」と(わざとなのでしょうか?)名前を間違えて書いてありました。これは「ヴァチカンの道」に対する編集者の心からの軽蔑を示すためなのでしょうか? この二つの点で「神学ダイジェスト」の編集者は公に謝罪しなければなりません。

メジュゴリエに関しては次のように考えるとよく分かります。例えば、広島教区で元女子プロレス選手であった萩原ミミさんとやらが始めたカトリックのカルトを、三末司教様ははっきりと禁止なさっています。さて、司教様のこのような指導にもかかわらず、世界中から巡礼が訪れると仮定しましょう。司教様が重ねて、ミミさんは本物の預言者などではないと宣言なさいます。それにも関わらず、某国からは司教協議会の会長である某大司教様が、ミミさんのご託宣に耳を傾けるためにお見えになります(日本の司教様方がメジュゴリエに巡礼なさっていないことを心から希望します)。三末司教様はこのような場合、司教同士の連帯性はいったいどうなってしまったのであろう、と言って嘆かれないでしょうか? たとえ、ミミさんの取り次ぎで「奇跡」とか回心があっても、駄目なものは駄目なのです。仮に、奇跡的回心があったとしても、マリア様が、わざわざ遠いところから全財産を売り払って来た哀れな巡礼者をかわいそうに思って、ミミさんが本当の預言者などではないにもかかわらず、回心を恵んで下さった、と考えることができます。ミミさんはその後未婚の母親になられたという噂を聞きますが、それでも彼女を慕う人々がいるのも世紀末ならではのことでしょう。さて、メジュゴリエにしてもガラバンダルにしても、出回っている情報が推進派のものばかりであるというのが現状です。今回フマネ・ヴィテ研究会がアップロードしたメジュゴリエ批判書をよく読んでいただきたいものです。メジュゴリエが属するモスタル教区の前教区長ザニッチ司教の以下の言い分を聞いてみましょう。

メジュゴリエの出来事に関するこの盲目振りは司祭や司教たちにまで広がっています。イタリアの多くの司祭たちはその教区の司教、調査委員会、ユーゴスラヴィアの司教たち、フランシスコ会の一部、教区司祭たちがそれらの出来事を信じていないことを、聞くことができたはずです。わたしはそれらの出来事について問い合わせに来た訪問客には門を開き、時間を惜しみませんでした。それなのに、彼らは真実を避けました。ある司教たちに連帯意識が欠けていることには特に驚かされます。わたしの判断を押しつけようとは思いませんが、すべての人、特に司教たちのように教会内で権威ある地位にあれば、自分の立場を決める前に、メジュゴリエの出来事をよく調査する良心上の義務があるはずです。

マリア様、どうなっているのでしょうか? 九年間もあの人たちはあなたを客寄せに乱用してきました。いつでも自分たちの都合の好いときに、彼らはあなたと話すと主張し、あなたをまるで銀行の窓口にいる女の子のように見なしています。彼らはメッセージを勝手に作っています。あなたがいらして、そこにお現れになると彼らは言いますが、自分たちの言い分が正しいことを証明するための証拠は、それ以上何もありません。全世界が「大いなる印」を待ち望んでいます。判断力のないものたちは今でもそれを待ち望み、信じています。不幸なことに、この偽りの騒ぎは教会に大きな恥と醜聞をもたらすでしょう。会士の不従順を理由に、フランシスコ会総長による管区の廃止という脅迫さえあるというのに、これらの出来事を扇動するものたちには、回心の兆しがありません。


以上はわたしが書きたかったことの一部に過ぎません。別の機会に正確な証拠文書も付けて、これらの出来事に関するもっと詳しい本を出版することを希望します。


メジュゴリエでは多くの祈りと信心が見られます。多くの人たちの回心もあったと伝えられます。わたしのところには心を打つ多くの手紙が寄せられています。ですから、わたしは遅かれ早かれ失望する人たちのためには気の毒に思っています。しかし、メジュゴリエの出来事には狂信、迷信、デマがつきまとっています。また、「平和の元后」の名の下に、わたしは多くの礼を失した攻撃の手紙を受け取っています。その内容は公表しません。これらの出来事に関してたとえよいことがあったとしても、世界を神のもとに従わせるために偽と嘘を正当化することはできません。「わたしは真理を証するためにこの世に来た」(ヨハネ十八・三十七)。もし第六戒にこだわらなければ、もし離婚を許せば、もしだれにでも信じたいことだけ信ずることを許せば、教会はもっと信者を増やすことができることでしょう。しかし、イエスは真理のために十字架にかけられました。殉教者たちも真理を証するために血を流しました。聖パウロは信徒にこう書いています。「あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい」(ガラテア一・九)。現代、世界中の多くの祈祷グループがイヴィカ・ヴェゴ神父の祈祷書を使用し、いわゆる聖母からのメッセージを黙想します。あたかもこれらの方が聖書とか教会の教導職より大事であるかのように…わたしが信じるに、聖母はこれらの出来事にもかかわらず、教会がキリストの真理を生きるために必要な恵みを祈り求めて下さるでしょう。

また、おそらく心から熱心な人たちがわたしを誤解し、わたしを聖母の敵であると思いこんでいることも知っています。わたしは何度もルルドや、その他教会が認めている御出現の場所にお参りしています。わたしがしていることは真理と教会の擁護に他なりません。そのためにわたしは命を捧げることができることを神に祈っています(「メジュゴリエの出現は真実か?」から引用)。     モスタル教区長 司教 パヴァオ・ザニッチ  

信徒が、司教や神父など教会の指導者たちに不信感を抱くとき、信徒は真面目であればあるほど、何か確かなものを求めて、聖霊との直接交信とか聖母マリアからの私的啓示に頼りたくなるものです。他にもいろいろあるでしょうが、その不信感の一つの原因は、特に回勅「フマネ・ヴィテ」に関する教皇様に対する司教様方の偽善的な面従腹背です。多言語を話される教皇様といえども、研究社発行の新カトリック大事典を日本の司教様が贈呈なさったとき、さっと計画産児の項目がある678ページを開いて、〇〇司教様、これは何かの間違いではないですか、と注意することはおできにならないのです。この点に関してはわたしの方から駐日ヴァチカン大使に注意を喚起しておきましょう。こういうわたしであれば、ガラバンダルの聖母のメッセージ中に「多くの枢機卿、司教、司祭たちは滅びの道を選び、自分たちと共にさらに多くの魂を引き連れています」という言葉などを見つけると、つい「本当だ、そしてガラバンダルの出現も本物だ」と思ってしまうのです。悪魔は巧妙ですから、嘘ばかり言うと人を騙すことができないことを承知しています。ですから、真実を実に巧みに利用してわたしたちを信用させておいてから、嘘を信じ込ませてしまいます。ですから、これらの私的啓示を見破る非常に効果的な方法は、間違い、矛盾、本人もしくは第三者による編集、訂正、削除などが一つでも指摘できれば、その「預言者」が偽物であるということがはっきり分かるのです。それが本当にマリア様の言葉であれば、人間が後から勝手に消してしまったり、訂正してしまったりしていいわけがありません。

以下に、ピーター・ヴァルデ・マンニュス(ペンネーム)著" Private Revelation" (私的啓示)にあるウィリアム・T・ウェルシュ神父による序文を引用します。

ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からの印を求め、議論を仕掛けた。イエスは、心の中で嘆いて言われた。「どうして、今の時代のものたちは印を欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決して印は与えられない」(マルコ八・十一〜十二)。

この小さな本「私的啓示」は、現代世界各地で報告される出現や異常な現象に対して、カトリック信者が取るべき正しい態度がどのようなものでなければならないか、を思い起こさせる試みである。 著者の態度が否定的で、偏狭であると思う読者もいるであろうが、事実はその反対で、著者はこの点に関する教会の伝統的教えを推進することで、本物の私的啓示を守ることになるのである。アヴィラの聖テレジアとか十字架の聖ヨハネのような偉大なカトリックの神秘体験家の警告と忠告を無視して、聖母もしくは主キリストのメッセージを広めていると主張するのであれば、それはまったく新しい神秘神学体系を作りだそうとするに等しい。

伝承の歴史を見ると、神が人への語りかけを望まれることを知ることができる。また、神はしばしば悪魔が「光の天使」を装って、聖人たちの謙遜を試みるためにさえにも、現れることを許されたことも知っている。

もし現代の似非神秘体験家たちが、啓示の真偽を識別するための決まりを無視できると思うのであれば、彼らは間違っている。教会が公式にそれらを認可するまで慎重な保留の構えを取るとか、これらの出現を信じようとしなければ、それは「心が閉ざされている証拠」であるなどと主張するのは誤った論証である。心が閉ざされているのはまさにそのような人たちに他ならない。なぜなら、彼らは欺瞞と悪魔の干渉の大きな可能性について思いを馳せることを拒否するからである。実に、彼らは悪魔が「聖母マリア」の姿で出現することによって選ばれた者たちを欺くことは不可能である、ということを根本原理にしている。

わたしたちは決してこんな子供っぽさ、これほど貧相な神秘神学を受け入れることはできない。それだけでなく、わたしたちは地上で悪魔が行ってきた悪の歴史によって、悪の神秘の作用を理解することができる。悪魔は、人がどれほど強力に善に惹きつけられるかを承知しているので、常に神の業を真似ようとする。悪魔は本物のキリストの教会に似た偽の「キリストの」教会を作ってきているではないか?

悪魔は偽物のキリストの教えでもって偽物のイエス・キリストを作り出す。そして今、偽物の「マリア様」を本物のマリア様と入れ替えようとしている。

(ルルド、ラサレット、ファチマ、秋田などのように)教会の認定がある本物の聖母のメッセージに従う代わりに、多くのカトリック信者が騙されて、ノーラ、ベイサイド、メジュゴリエなどでの偽りの出現を追っかけている。ファチマの聖母ははっきりと「神様はわたしの汚れない心に対する信心を確立なさることをお望みです」とおっしゃっている。これは神の意志である。もし悪魔が、初土曜日の信心に代えて金曜日の断食とか信心を守らせることでカトリック信者を神の意志に背かせることができれば、聖母の本当の願いへの忠実さを失わせることになり、その結果、カトリック信者は神の意志に従うことを止めてしまうのである。

ここに事の核心がある。わたしたちが神に捧げることのできるものの中でもっとも尊いものは自由意志である。だから神は、わたしたちに神の意志にわたしたちの意志を一致させることに他ならない従順をお求めになるのである。もし悪魔が、自分の指定する時と所でロザリオを唱えることを要求して、わたしたちをそれに従わせることができれば、それはもう悪魔の勝利になるのである。なぜかと言えば、そうすることによってわたしたちが神の意志に一致しなくなるからである。古から伝わった格言を紹介しよう。「悪魔はわたしたちに何か善を行うような霊感を与える。その目的はわたしたちがそれよりさらに大きな善をさせないことである」。

故に、偽りの出現を避けることによって、わたしたちは悪い霊への従順を避け、神に従順であることができる。真実の出現と本物の私的啓示だけに従うことの大切さが分かっていただければ幸いである。

25号

35ページでは鹿児島の新カテドラルについて触れています。ザヴィエル来日450周年を記念して、青年たちが50年後に開くタイムカプセルを企画しました。50年後に開封されるというその手紙を書きながら、なんだか変な気がしました。それを自分も見ない、今大人の人たちもほとんど目にすることがないでしょう。緊急なメッセージなので、以下にその一部を公表します。  

「ヴァチカンの道」という年3回発行の雑誌がありますが、その中で、司教様方には、教皇様と一致して回勅「フマネ・ヴィテ」に完全に従うことをわたしは主張しています。証拠書類として中央協議会発行のカトリック要理改訂版を同封します。213〜214ページを見れば分かるように、これはカトリックの教えではありません。そこには、簡単に言えば人工避妊はいいけれど、人工妊娠中絶はいけません、という世間の価値観とあまり変わらないものをカトリックの教えとして提示してあります。

このような日本の教会に神の恵みが豊かにあるわけがありません。どの司教様も召しだしが少ないことで悩んでおられます。召しだしが神の恵みであるなら、これは当然の現象であると言わねばなりません。洗礼についても同じ。大事なこの点で教皇様と一致できなければ、外のいろいろな点でも問題が出てきます。50年先、つまりわたしたちがもうこの世にいないとき、今建築中である司教座聖堂であるザヴィエル教会は存在するのでしょうか? 皆さん、50年前にこのような聖堂に反対した人たちがいたことを思い起こして下さい。司祭会議などの公の場で、わたしは反対しました。「司教様、御聖体を安置するあの小聖堂はまるで公衆便所のようではありませんか? あれでは御聖体を大事にしていると言えません」あれは聖堂とか教会などと言うより、多目的ホールなのに、司教様は司教座聖堂だからあれでいいと主張なさいました。御聖体を玄関手前の別棟になっている小聖堂に安置して、それでも御聖体を尊敬していることになるのでしょうか? とんでもないことです! 二階の多目的ホールで前を向いてひざまずくと、いや、もうひざまずくこともないわけだから、座ると、御聖体は後方、しかも下方に位置することになります。この方角は心理学的に言えば大事でない方角でしかありません。後方はオ〇〇がにおっていく方向、下方はウ〇〇が落ちていく方向です。これからどうなっていくのか分かりませんが、次の司教様が、現在司教様が司教座聖堂で座られるちょうどそこに御聖体を安置なさり、今度ザヴィエル渡来450年記念にできる新司教座聖堂の付録のような小聖堂を、それを建てた司教様のお墓にすればいいと思います。死者が復活するそのとき、司教様がすぐに自分の過ちをお認めになるように!このようにザヴィエル渡来450周年記念は、へんてこな司教座聖堂建設と絡まって、胡散臭いものになってしまいました。500周年記念にもう少しましな新しい司教座聖堂が建っていることを希望します。

最後に

ヴァチカンの道誌上で何度か宣伝していただいたマシャド著「ファチマの聖母」について一言。巻頭に島本大司教様が書かれているように、教皇様と全世界の司教たちによるマリア様へのロシアの奉献は完全な形でなされていません。著者には85ページ末にそれと逆の記述があります。出版後、ファチマのその後に興味を持ち始め、いろいろ外国の文献を読み始めた結果、驚くべき事実を次から次に知るにいたりました。この点で、著者は間違っています。しかし、この点を除けば本書はファチマに関して最適の入門書です。

フマネ・ヴィテ研究会は生命問題に真剣に取り組んできましたが、本研究会は生命問題と共に特にファチマのマリア様と教会のオーソドクシーについて考えるつもりです。