日本カトリック司教団が

ボタンを掛け違えると…

四旬節課題小冊子「叫びII」とカトリック新聞 1998年2月15日号 を読んで

(ヴァチカンの道25号に掲載) 

成相明人 (鹿児島教区司祭)

皆さんも、2月15日のカトリック新聞一面の記事「四旬節課題小冊子を発行=カリタスジャパン=苦しみへの共感追求」と四旬節課題小冊子「叫びII」を読まれたことでしょう。以下はわたしの正直な感想です。とんでもないものを森一弘司教様(カトリック司教協議会事務局長)と野村純一司教様(社会福祉委員会・カリタスジャパン責任者)が出してくれたものだ、と思います。昨年の『叫び』に引き続いて、今年も、一番無防備な人たちがまったく無視されています。中絶される胎児のことは考えつかなかったのですか? 苦しむ人たちに信徒の目を向けたいのなら、当然、真っ先に挙げられるべきは、抹殺されてしまう赤ちゃんたちであるはずです。それに気づかない日本のカトリック教会は病気です。

「叫びII」には「見捨てられていたわたしを受け入れてくれた」と題する教皇様の四旬節メッセージが引用されています。確かに、ここにも中絶される胎児に対する言及はありませんが、教皇様はかねてから口が酸っぱくなるほどこの問題に触れておられます。ですから、教皇様のメッセージには、当然、中絶する母親と中絶される赤ちゃんのことが言外に含まれています。日本司教団の場合は、この大事な問題に対して態度が非常に曖昧です。人工避妊を悪であると断じている回勅『フマネ・ヴィテ』に対する従順度は不十分で、日本カトリック信者の出産率も未信者のそれと比べると、わずかに高いだけです。実際に、回勅『フマネ・ヴィテ』の精神に従って、人工避妊の悪を説く司教や司祭はわずかです。

四旬節が悔悛の季節であるなら、今までの罪の生活を悔い改めて主に立ち返ることこそ大切です。この小冊子では、心の目を他者に向けることにこだわって、自分を見つめる誘いがほとんど見られません。「カトリック教会は社会の底辺にいるこういう人たちのことを忘れていません。感心でしょう?」と言わんばかりの態度が鼻につきます。マリア様の御出現を体験したファチマの牧童ジャシンタは「多くの結婚がよい結婚でないので主を喜ばせません。神様に祝福されてもいません」と言っていますが、これは正に現代避妊社会における結婚のことです。今まで人工避妊で神様の恵みである赤ちゃんを拒否していたのであれば、悔い改めのこの時期に生活を改める誘いがあれば良かったのにと思いました。司祭たちも、この点について今まで沈黙を保ってきたのであれば、勇気を出して人工避妊の悪とその結果について説き始めなければなりません。

折しも、日本の厚生省は避妊ピル販売を許可しようとしています。2月の常任司教委員会はこの動きに対して公に司教団として反対することを拒絶しました。そこで司教様たちがおっしゃっていたのは「わたしたちは専門家ではないから」とか「他の国の司教団は反対したのだろうか?」とか「専門家に聞いてからでないと」とかなどでした。鹿児島の司教によると「どうせ許可になるだろうから」という声もあったそうです。大事なのは許可になるかならないかより、カトリック教会がどれほどピルに反対したかなのですが、この点は司教様方には分かっていないようです。ピルには道徳問題が絡んでいます。司教様方にお尋ねしますが、あなたたちこそ道徳や倫理の専門家ではありませんか? 司教の中の司教であられる教皇様は回勅『生命の福音』13と82で、はっきりと教会の立場を表明していらっしゃいます。司教様方が考えておられた専門家というのはだれのことか知りませんが、専門家というのはしばしば自分の意見を聞いてくれる人の意に添う答申をしたりするものです。気をお付け下さい。この問題に関しては教会の教えを大事にしつつ、深く研究した人の考えを聞くことが大事でした。名古屋の平田国夫さんは眼科医ですが、この問題には詳しい方です。彼は「ピル解禁を目前に控えた今、ピルについてほとんどご存じない司教様方にその作用や副作用について基本的なことを分かりやすくご説明しますので、2月16日から20日まで5日にわたって行われる司教総会の中でたった15分でいいですから、お時間を下さい」と頼みましたが、浜尾文郎司教を会長とする常任司教委員会は、それを拒否なさったとのことです。しかし本会議ではどういう訳か司教たちの間で意見交換が行われ、日本宣教研究所に要請して草案を書いてもらうことになりました。日本宣教研究所はカトリック医師会に相談すると言っていますが、カトリック医師会は講演会に日本優生学会会長を招いて、その話を拝聴した人たちですから、あまり期待はできません。

昨年の「叫び」で取り上げられたのは ①家庭内暴力 ②一人暮らし老人 ③アルコール依存症 ④保護処分を受けた少年 ⑤知的障害者 ⑥自閉症の息子を持つ親 ⑦路上生活者 ⑧滞日・日系外国人でした。今年は ①痴呆症 ②離婚 ③アダルトチルドレン ④聾唖者 ⑤薬物依存症 ⑥同性愛者 ⑦自己破産者 ⑧滞日外国人の叫びを取材・収録したと書いてあります。

その中のいずれを見ても、確かに同情に値し、決して無視してはならない人たちです。その意味では有意義と言えましょう。しかし、考えてみると、それほどの抵抗がないと思われるから「同情しましょう」と教会が大声を挙げているだけではありませんか? こんなことならことさら勇気が無くてもできます。勇気が要るどころか、信者たちも世の人たちも、このような教会の姿を見て褒めそやしてくれるかも知れません。パウロがテモテに言っているように、とがめるのも教会のつとめなのですが、悪をとがめる姿勢はどこにも見あたりません。まず昨年のテーマから見てみましょう。

① 家庭内暴力 なぜ若い人たちが荒れ狂うのでしょうか? 子が親や教師を殺し、親や教師が子を殺すことすら珍しくなくなりました。自分たちの命が大事でないと親、教師、子供たちは本能的に感じているからです。生命は性があって生まれます。性を神からの賜物として受け止めない避妊社会は生命を大事にしない社会です。避妊する夫婦が初めの一人か二人の子供だけ産むということは、その子たちも初めに生まれるという条件のもとにのみ受け入れるということです。避妊社会の子供たちが荒れないわけがありません。しかし、だれもこの事実を大声で言う人はいません。自分たちが人工避妊しているからです。

② 一人暮らし老人 子供が欲しかったのに子宝に恵まれず、やむを得ず一人暮らしをしている老人たちに石を投げつける気持ちは毛頭ありません。しかし、人工避妊をしたり、人工妊娠中絶をしたりして、子供を産むことを拒否した人たちには、今、自然が復讐しています。悔い改めがあれば神様はお許しになるでしょうが、自然の仕組みが自然に反する人間の行為を許すことは決してありません。わたしが知っている幸せな老人たちは、例外なく多子家庭の長であるおじいさんとおばあさんたちです。

③ アルコール依存症 これは一種の病気ですが、その発症のきっかけになるのは夫婦とか家庭内の不満とか不安ではないでしょうか? 親子夫婦が幸せで平安な気持ちであれば、依存症などにならずに済むのではないでしょうか? 避妊する夫婦に真の幸福はありません。愛していると口で言いながら、子供を望まないのであれば、結婚生活の中に嘘があります。

④ 保護処分を受けた少年 気の毒な少年少女が大勢います。親から無条件に受け入れられたと感じている少年少女であれば、概して、警察の世話などにはならないものです。人工的に避妊する夫婦は、すでに生まれている子供でさえも、先に生まれたというだけの理由で生んだのです。弟や妹を親が望まなかったのであれば、ましてや親が殺してしまったのであれば、子供たちが不安定になるのは当然です。そういう親も自分は良い人間であると思いたいから、人工避妊や人工妊娠中絶が悪いことであると認めたくありません。だから、自分たちが避妊や人工妊娠中絶したことを、平気で子供たちに話す場合があります。この耳で「神父さん、あの子も本当は欲しくなかった」と、その女の子の前で言う親に出会ったこともあります。たとえこれほどはっきり言わなくても、言葉の端々に自分たちの寝室の秘密は現れてしまいます。「子供は一人で十分」とか「二人以上は要らない」とか「子供は重荷」などがそれに当たります。声色、顔色、態度に現れる人工避妊メンタリティーを子供たちは敏感に感じ取るものです。

⑤ 知的障害者 愛されない知的障害者は不幸せであっても、生命を大事にする夫婦・家庭に生まれる障害者は、避妊社会にどっぷり浸っている人たちに理解できない幸せな生活を送っている例をいくらでも知っています。フィリピンではそういう子供が家族全員に幸せをもたらすと言って、大事にされます。

⑥ 自閉症の息子を持つ親 医師ではないので、詳しいことはわかりません。間違っていたら教えて下さい。しかし、自分を守るために自分を閉じてしまうのであれば、だれから、そして何から自分を守ろうとしているのでしょうか? 弟、妹を望まなかったり、中絶してしまったりする両親から自分を守らなければならない子供たちがもしいるとすれば、その子たちは不幸です。

⑦ 路上生活者 自分の家があり、幸せであれば、何も路上に住むことにはなりません。自分が家庭内で受け入れられないと感じるから、路上に住むのではありませんか? 避妊の意味が「あなたの子供など産みたくない」とか「お前の赤ん坊など見たくもない」とかいうことであれば、たとえ明瞭にそう意識しなくても、自分の全人格が拒絶されたと、感じるのは当然です。自分の存在が配偶者から拒絶されれば、家を飛び出したくなるのかもしれません。

⑧ 滞日・日系外国人 フランシスコ会の小林賢吾神父が編集した「移民として地域で暮らすための情報・移住労働者生活マニュアル」(初版)では、避妊と中絶の情報提供がなされています。日本の教会は滞日外国人には死に絶えて欲しかったのでしょうか? ローマからの指導の結果、改訂版が出ましたが、回収・廃棄されなかった初版は、日本各地で外国人労働者を助けるマニュアルであり続けます。この版の誤りについてはカトリック新聞などで、公的にその誤りを認め、改訂版と無償で交換しなければなりません。しかし、小林神父によると、浜尾司教様から明白な許可をもらったというその改訂版にも、エイズ予防のためにはコンドームを使用という指導があります。当然、これはカトリック教会の教えではありません。ですから、日本カトリック司教協議会会長、ひいては日本カトリック司教団と教皇様がこの点に関して異なる教えを教えているということになります。現代が大離教の時代という説もありますが、そのとおりだと思っています。教会の教えでないことをこれが教会の教えであると偽って教えたりすると、信徒に躓きを与えるだけでなく、自分の信仰と召しだしまでも失いかねません。

悲しいかな、今までのカトリック新聞の論調などを見ると、エイズ予防のためのコンドーム使用は、どうやら、日本カトリック教会の公式な立場になりそうです。カトリック新聞は日本司教団の新聞ですから、そこに書かれてあることから以上のように推定することは、あながち間違いではないでしょう。カトリック新聞2月22日号には「HIV諸問題に関するアンケートを全教区に配布」などという記事があります。「結婚していない人たちの純潔と結婚している人たちの忠実だけがエイズ予防の決め手」というカトリック教会の教えと異なる教えを、司教団は多数決で決定しようということでしょうか? 以上が昨年のテーマでした。以下が今年のテーマ。

① 痴呆症 胎内から墓場にいたるまでの生命が大事にされない社会、つまり避妊社会では、痴呆症の老人などが心から大事にされる保証はありません。ナチスドイツはこういう人たちを処分してしまいました。同じ精神は日本の優生保護法(現在は母胎保護法)に潜んでいるどころか、むき出しになっています。現在、出生前診断などが許され、望まれることなどにも、生まれてくる子に欠陥があれば、中絶してしまおうとか、少なくともその可能性について考えよう、ということですから、羊水検査などを受ける人は、無事に生まれる健康な子でさえも、ダウン症でない、欠陥がないという条件付きで生むことになります。神様の教えは無条件に「汝殺すなかれ」です。こういう社会は老人とか病人殺しを始めても不思議ではありません。

② 離婚 人工避妊をする夫婦が離婚しやすいことは心理学的にも、統計的にも分かっています。教会が人工避妊を明白に断罪しないので、信徒夫婦の中にも人工避妊と人工妊娠中絶があり、離婚があります。わたしの知人で、離婚されたある信徒男性はまだ若いのに病死しました。悲しいことです。自然に基づく家庭計画(ビリングス排卵法)を実行している夫婦には極端に離婚が少ないというのに、ビリングス排卵法に示す日本カトリック教会の熱意の何と低いことでしょう! その知識にしても皆無に等しいのはどういうことでしょうか? 一昨年、ビリングス博士が各地で講演なさったときわたしは通訳をつとめましたが、参加者の少なさには驚きました。東京カテドラルでのバザーなど競合する催しは延期してもおかしくないほど重要な講演会だったのに、と惜しまれます。昨年、ピル反対の講演に米国から来て下さったデュプランティス博士の講演会も、司教様方の後援があったにもかかわらず、参加者は今ひとつでした。

③ アダルトチルドレン 本文を読んで、親から十分に愛されなかった人たちの苦しみを感じ取れます。この言葉には初めて出会いましたが、その意味するのはそのような理由で大人になりきれなかった人たちのことでしょうか? 人は愛されないと感じるとき、孤独で不安定になります。

④ 聾唖者 助けを必要とする人たちがここにもいて、苦しんでいたことがわかります。そして、だれかがそこにいて手話通訳をしているのは嬉しいことです。しかし、これも行き過ぎは禁物。神戸のある教会のようにたった一人しかいない聾唖者のために、司祭が手話ミサをして、前列にいた子供たちが司祭のまねをして笑い転げていた、などという話を聞かされると、頭をひねってしまいます。その聾唖者は手話を理解できない人でした。イエス様が九十九頭の羊を放置して、一頭の迷える羊を探しに行かれたというのは、こういうことではないでしょう。これなどはこの司祭のバランス感覚の欠如、顕示欲としか思われません。

⑤ 薬物依存症 デュプランティス博士が、薬物依存の一因として、親から無条件に愛されないつらさは薬物でも使用しないと癒しようがない、という意味のことを言っておられます。親が無条件に子供を愛するということは人工的な避妊を一切しないということが必ず含まれます。

⑥ 同性愛者 米国やカナダでプロ・ライフ世界大会に参加すると、必ず男女の同性愛者たちが反対デモをしたり妨害をしたりします。プロ・ライフと同性愛は相容れません。前者は生命のために戦います。男と男、女と女の性関係である同性愛から新しい生命の誕生はありません。前者が生命の文化を大事にするのであれば、後者が大事にするのは死の文化に他なりません。両者が衝突するのは当然です。なぜ、現代、同性愛がこれほどまでに市民権を得たのでしょうか? 人権意識が発達してきたからとか、勇気を出してカミングアウトするようになったからではないでしょう。人工避妊ホルモンによる影響もあるかもしれません。しかし、避妊社会で一人っ子、二人っこであることが意味するのは、往々にして親から弟や妹を与えられることを拒まれたということ、つまり自分たちはたまたま運が良くて、一番目、二番目に生まれたから生んでもらえたということです。結婚しても、このような条件付きで親から愛された人たちは、自分たちの命にはそれだけの重みしかないから、自分たちには自分たちに似た子供を産み、育てる価値などないと思いたくなっても不思議ではありません。彼らは自分と配偶者に対して心から「イエス」と言うことができないのです。誤解しないで下さい。統計的、心理学的に言えばそうであるということで、実際に一人っ子、二人っ子だった夫婦が避妊行為をしている、と主張しているのではありません。晩婚その他のせいで一人、二人しか子宝に恵まれない方たちに石を投げつけるつもりはありません。何度も流産した気の毒な女性も身の回りにいます。健康上の理由、経済的な事情で子供を産むことができない夫婦がいることも知っています。不妊症に悩む女性にも同情します。しかし、厚生省の発表によるとコンドーム使用人口は77%になるといわれますから、今後、同性愛者はますます増えることでしょう。そして、このような人口学的傾向は簡単に修正ができません。

米国では同性愛を実行する人たちをゲイとかレスビアンと言い、単に同性愛の傾向があるだけの人をホモセクシュアルと呼びます。ですからここで「同性愛」はゲイとレスビアンのことを指すと思われます。そのような区別もせず、ただひたすらに同情するだけでは何の助けにもなりません。米国のカトリック教会にはこのような人たちを立ち直らせるためにCOURAGEと呼ばれるプログラムがあり、成功しています。しかし、「叫びII」は同性愛者であるKさんの「ありのままの自分でいたい」という言葉を取り次ぐだけ、つまり、ありのままの彼をわたしたちも受け入れましょう、と呼びかけているような印象を与えます。同性愛の行為は神様が忌み嫌われます。同性愛の傾向があるのは仕方ないことではあっても、同性愛の行為を止めなければ、それが善意の思い込みであるか、悔い改めがない限り、ゲイとかレスビアンは地獄に行くほかありません。(そう言えば、最近地獄を信じていない神学校の校長と話す機会がありました。彼の神学校に入学を希望していた子供の親に早速通報したのはもちろんです。)しかし、ここまで来ると、もう神様も天国も地獄も信じなくなっているのが普通です。そういうKさんを「ありのまま」受け入れていいものでしょうか? 取材者、編集者、責任者つまり二人の司教様には確固としたカトリック倫理神学があるようには見受けられません。

外れることをひたすら願いつつ、悲しみの中にわたしは以下の予言を紹介します。本誌前号で紹介したメーリングリストihmmlのある女性は、この調子だと、来年度の四旬節課題小冊子「叫びIII」では、不倫の男女の「わたしたちをありのままの姿で受け入れて欲しいという悲痛なメッセージが紹介されることでしょう」と書き込んでいます。やれやれ!

⑦ 自己破産者 大人社会のいじめを読むのはつらいことでした。Rさんのような人に教会が慰めになって良かったです。Rさんをいじめて、退職に追い込んだ社長も、きっと、人生のどこかで傷ついた人なのでしょう。この項はまともでした。

⑧ 滞日外国人 国に帰れないフィリピン女性の話でした。似たような話が身の回りにもありました。友だちのパスポートと書類で来日、結婚した女性が、夫の暴力のために離婚したいというので、相談に乗ったことがあります。話をよく聞いてみると、自分は他人の書類で結婚しているので、子供が一人いても、実はまだ独身なのだというややこしい話でした。その後、彼女は大阪方面に行ってしまいましたが、自分のアイデンティティーを大事にしない彼女が果たして幸せになれるのだろうか、と考え込んでしまいました。

「Mさんのなき夫Cさん」と書いてありますが、読み進んでいくと「Cさんは前の奥さんと離婚」とも書いてあります。Mさんに同情しつつも、イエス様も同じ言い方をなさるだろうか、と思ってしまいます。イエス様もカトリック教会も離婚は認めていないのです。しかし、日本カトリック教会はMさんの夫ではあり得なかった人をMさんの夫と呼んでいます。独自路線で離婚・再婚を認めようとする準備工作でしょうか? 現に、白柳誠一枢機卿の、人間は過ちを犯すものであるから、離婚・再婚した人たちにも御聖体拝領を許してはどうだろう、という意見を、カトリック新聞紙上で読んだ記憶があります。あれは枢機卿になられる前のことでしたから、枢機卿になられる前にはヴァティカン大使からもう一度公共要理を学ばれたというまことしやかな冗談を聞いたことがありました。そう言えば、東京教区の山根神父がこれとまったく同じ言葉で離婚・再婚した人々にも御聖体拝領を許すべきである、と一昨年の滞日外国人と連帯する会の担当司祭会議で発言していました。おそらく白柳枢機卿のお言葉の受け売りでしょう。

以上、思いつくままに読後感を書き連ねてみました。こんなつまらないものを、教会の資金を使って印刷・配布するなどとんでもないことです! 信徒が拠出した浄財の行方を監視するオンブズマン制度が必要だと思いませんか? 日本の教会諸文書を読む信者に批判力がなければ、彼らはだんだんと司教様方の世俗主義に洗脳されてしまいます。なるほどと思わせる材料の中に、同性愛容認、人工避妊、エイズ予防のためのコンドーム使用、離婚・再婚者の御聖体拝領、ローマからの独立などを巧妙に潜ませてあることには呆れてしまいます。日本カトリック教会の敵はもしかすると日本カトリック司教団ではないのか、と疑いたくもなります。疑ってはいけませんか? どうぞ、わたしが間違っていると説得して下さい。司教様方、一介の神父に過ぎないわたしにここまで言われて悔しくないのですか? わたしはあなた方との公開討論ならいつでも受けて立つつもりです。

キリスト教でない日本社会が死の文化に溺れるのは、ある程度やむを得ません。それでも、カトリック教会が地の塩、世の光であればいいのですが、肝心の教会はおかしくなっています。その一因は日本司教団の間違った指導にあると見ています。研究社の「新カトリック大事典」第二巻、計画産児の項678ページに、回勅『フマネ・ヴィテ』について、日本カトリック司教団が出した公式声明が引用されています。

この教えの実践が、数多くの夫婦にとって種々の困難をもたらすであろうことを、私たちはよく承知しています。その場合、善意をつくして回章に従順であろうと努力しつつ、しかもやむを得ぬ実際的・客観的事情のため、万一、ある点において回章の教えに沿うことができなかったとしても、それによって、神の愛から遠ざけられたと考えることなく、むしろ、神に対する信頼を深め、熱心に教会生活と、秘跡にあずかるよう、おすすめします。…ただし、どのような場合にも、一旦受胎したのちは、生命を尊重する義務のあることはいうまでもありません。

 

以上が、回勅『フマネ・ヴィテ』の教えと明らかに異なるのは言うまでもありません。執筆者である寺尾総一郎神父がこの日本司教団の文書を引用するだけでなく、それがとんでもない間違いであり、快楽主義の世俗に迎合したものであるかを解説していないのが惜しまれます。声明は回りくどく、分かりにくい文章ですが、要するに、日本では人工避妊の行為を例外的に認めましょう、土曜日に人工避妊の行為をしても、日曜日には御聖体拝領をしてもよい、人工避妊はしても良いが、人工妊娠中絶はまかりならぬということではありませんか?

「やむを得ぬ事情」などはいくらでも考えつくことができるものです。こんな文書は日本司教団による罪への誘いではあっても、解決の糸口にはなりません。回勅『フマネ・ヴィテ』は明瞭に人工避妊の悪を説きます。回勅『真理の輝き』は真理を証すために殉教者たちは血を流した、と司教様方を励ましているではありませんか? 回勅『生命の福音』では、人工避妊と人工妊娠中絶は同一の樹木に実る果実のように密接に結びついている、と教えています。正にそのとおり、両者とも赤ちゃんを望まないのです。人工避妊と人工妊娠中絶はもちろん同一の罪ではありません。ですから、地獄での罰には少々差があるとは思われます。しかし両者とも罰の期間は永遠です。

少しでも判断力のある信者が読めば、すぐに気が付く「叫びII」に紛れ込んでいる異常さは、今に始まったことではありません。ここまで狂ってしまったそもそもの原因は1968年日本司教団が、回勅『フマネ・ヴィテ』を日本に適合させようとして、愚かしくも不必要な小細工をしたからです。これは日本司教団によるボタンの掛け違え。あのとき司教様方はただひたすらに教皇パウロ六世に忠実を示せばよかったのです。今からでも遅くはありません。是非、自分たちが回勅『フマネ・ヴィテ』をないがしろにしたあの声明を撤回なさるようお勧めします。これほど大事なことに関して、各国司教団には教皇様に反対する権限がありません。地上で結べば天国でも結ばれ、地上でほどけば天国でもほどかれる天国の鍵は各国司教団でなく、ペトロとその後継者にだけ与えられています。

最近、引退した司教様方が次々と亡くなられます。合掌。カトリック新聞には死者の誉め言葉以外は掲載されませんが、そういう記事を読むとき、わたしはこの司教様は果たして教皇様に忠実だったのだろうか、と思ってしまいます。上記の文書を書いたり、承認したりした司教様方、1968年以降に叙階されていても、それを今まで放置してきた責任がある司教様方も、まだ明るい中に、立ち直って、わたしたちを正しい道に導いて下さい。正しい道とは教皇様が示される道です。それがカトリックの信仰ではなかったでしょうか? 浦和教区の長江恵司教は、ローマンカラーをしている司祭を「君はまだローマに従順なのか」などと叱っておられたのは有名な話です。

日本中どの教区でも、神学生の減少、司祭の老齢化は問題です。中学生のころ教わった肥料の主要三要素の窒素、燐酸、カリについて思い出しました。その内どれか一つが不足すると、残りの二つがいくらあっても効果がない、というものです。カフェテリア・カトリックとは正にそういうものです。信じたくない教えを信じないと、教えたくない教えを教えないと、外の大事な部分までが全部だめになるのです。生命問題でパウロ六世が教えられた回勅『フマネ・ヴィテ』の教えに完全に従わないとき、復活の信仰、御聖体に対する信仰と尊敬、マリア様を大事にする心、その他大事なことがらが次から次に薄れて、なくなってしまいます。ちなみに、鹿児島では、御聖体を、小さく、粗末で、建物の奥まったところでなく、正面玄関近くの、公衆便所と見まがうような別棟の建物に安置するという奇異な設計のカテドラルが建てられようとしており、心ある信者たちは嘆き、怒っています。二階には多目的ホールがあり、その脇の祭器室に御聖体の仮安置場を設けるそうですが、ホールとは別室ですし、信者は壁の向こうに御聖体が安置されているのかいないのか分からず、壁を隔てて礼拝するべきかどうか迷ってしまいます。これもボタンの掛け違えがもたらした一つの結末と言えましょう。召命減少の問題も、教皇様に忠実という路線に戻れば、神様が若い人たちを再びお召しになるのは間違いありません。しかし、残念ながら、日本の司教団が回勅『フマネ・ヴィテ』に無条件、かつ完全に忠実でない今は、その時期でありません。日本カトリック教会の季節は、悲しいかな、まだ寒く長い冬です。

後記 思いもかけない援軍について、3月3日の読売新聞から以下を引用しますので、その意味を考えてみて下さい。「ピル解禁大幅先送り・排出物の安全性再検討・ホルモン量の少ない低用量の経口避妊薬(ピル)の解禁問題を検討している厚生省の中央薬事審議会常任部会は二日、ピルの服用者が排出する合成ホルモンが生態系に及ぼす影響などを検討した上で、解禁の最終判断を下すことを決めた。これにより、当初は今春にも実現する予定だったピルの解禁は、大幅に遅れる見通しとなった。『分泌かく乱物質(環境ホルモン)』の自然界への影響が問題となる中、ピルの服用者の尿から排出される合成ホルモンについて、市民団体などが、環境に悪影響を及ぼすおそれがあると指摘している。」