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聖霊と回勅『フマネ・ヴィテ』
フランク・パヴォーネ
聖霊と回勅『フマネ・ヴィテ』
聖年である2000年に備えて聖霊に捧げられた1998年は、教会が回勅『フマネ・ヴィテ』発布30周年を祝った年でもありました。しかし、これら二つの出来事はカレンダー上のつながりよりもはるかに深く結ばれています。聖霊についてわたしたちが信じることは回勅『フマネ・ヴィテ』が伝える真理をより深く理解し、受容させます。
「わたしたちは主であり、命の与え主である聖霊を信じます。」
聖霊について使徒信条が宣言する第一の真理は、聖霊が主であるということです。聖霊は御父と御子にあらゆる意味で対等です。聖霊の知識、力、権威は異なっていたり、劣っていたりするものではありません。それ故に、聖霊がイエズス・キリストと御父の教えに関してわたしたちに免除を与えることはありません。聖霊の降臨を約束をなさった主は教えられました。「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなた方に告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなた方に告げるからである」(ヨハネ16・13〜14)。ですから、キリストの教会による決定的教導をとおして、わたしたちが知ることのできるキリストの意志に反する決定にだれかが聖霊に導かれる、ということは不可能です。人間生命とその伝達の聖性についての教えもそのような教えの中に含まれます。別の意味でも回勅『フマネ・ヴィテ』に関して聖霊は主であられます。回勅『フマネ・ヴィテ』は性、出産、「ピル」でなく、むしろわたしたちが神になれるという神話こそが現代の根本問題であると主張しています。教皇パウロ六世はこの文書の始めの方で次のように言っておられます。「なかんずく、人が自然の力を支配し、その合理的組織化に非常なる成功を収め、その支配力を生活の隅々、つまり肉体と精神の力、社会生活、生命伝達をつかさどる掟にまで及ぼそうとしていることに留意しなければなりません」(2)。
教皇はここで問題をもっと広い観点から見ておられます。わたしたちはすべてが自分たちに属していると考えますが、現実はどうかと言えば、わたしたちは神に属しているのです。回勅『フマネ・ヴィテ』は「人間の生命(の)」を意味しますが、人間の生命は神から来ます。神に属し、神に帰っていきます。聖パウロは「あなたたちはもはや自分自身のものではないのです。あなたたちは代価を払って買い取られたのです」と宣言しています。性と産児はわたしたちの生活と活動を構成する現実の全集合体の一側面です。「これはわたしの命。これはわたしの体。これはわたしの選択」と主張するわたしたちは、これらの活動すべてが自分自身に属しているという幻想に惑わされています。
聖書はこんなことよりもっとすばらしいことを伝えてくれます。つまり、それがわたしに神が下さった神の命、愛、自由であるというのです。つまり、自分が神に属するものとして生命を受け、自由に選択するとき、わたしは世界中の自由と権力を手にしたとしても達成することができないほどの生命、愛、自由を手に入れるのです。この生命、愛、自由は神の望まれることを行い、神のようになることの中に見いだされます。
これはまさにわたしたちの生活の中で聖霊が成し遂げられることなのです。ミサ中に聖変化が行われますが、その後で司祭は、パンと葡萄酒の要素を変化させたばかりの同じ聖霊によって人々が変化させられるように、と祈ります。「キリストの御体と御血によって養われるわたしたちがその聖霊に満たされ、キリストにおいて一つの体、一つの霊になることができますように」(第三奉献文)。聖霊への信心は聖霊にわたしたちを変えていただくこと、わたしたちの自由と選択を神との一致に高めることに尽きます。これが、なぜ夫婦の選択が新しい人間生命の由来において究極的要因ではないか、の根本理由です。わたしたちは人間生命に関して全権を持っているのではありません。この全権は主である神にのみ属します。
「生命の与え主」
聖霊は生命の与え主であるとも宣言されます。聖霊は創造の始めに水の面を動いていました(創世記1・1〜3)。聖霊は再び使徒たちの上に降り、息を吹きかけて、秩序と生命をもたらすために罪を赦し、神に対する反逆が引き起こした混乱と破壊に再び秩序をもたらす権威を彼らにお与えになりました(ヨハネ20・22〜23)。
聖霊はまさに愛であるがために生命の与え主であられます。回勅『フマネ・ヴィテ』が宣言する根本的洞察の一つは、愛と生命が必然的につながっているということです。その理由は簡単です。神において愛と生命は同じ、一つの現実だからです。「神は愛です」(Ⅰ ヨハネ4・8)。「わたしは生命です」(ヨハネ11・25、14・6)。聖霊は御父と御子が愛し合う愛です。自分を与え尽くすと新しい生命を生み出します。男と女は「神にかたどり、神に似せて」創造されました。このかたどりと似姿の一つの側面は、夫婦の結びが生命を生み出す愛であるということにあります。
生命に開かれているということは、わたしたちが性に付け加える何かではありません。実にわたしたちはなぜ神が、二人の人間の間にあり得るもっとも親密な愛を表現する行為を、新しい人間生命をも生み出すその同じ行為として定められたか、を考えてみるといいでしょう。神がそう望まれたのであれば、この二つの目的のために神は別々の行為を定めることがおできにならなかったでしょうか? 神にとって偶然はあり得ません。神は愛と生命がその性質自体においてつながっているので、両者を一つの行為の中に融合なさいました。現代の問題は社会が性に飲み込まれているということではありません。むしろ、社会は性を恐れています。それが示す現実と力のすべて、その起源、その最終目的を恐れています。性を正しく理解する人はその起源である神を認めざるを得ません。それだけではありません。「光あれ」(創世記1・3)と神が言われたとき始まった生命と愛のこの大きく、強力な動きにわたしたちを巻き込み、霊と花嫁が「主イエズスよ、来てください」(黙示録27・17)と言うときに達成される目的から、わたしたちは性を引き離すことができません。
「真理の霊」
聖霊は真理の霊です(ヨハネ14・17、16・13参照)。聖霊はわたしたちに信仰上の真理を理解させるだけではなく、創造された現実の意味と目的を理解させてくださいます。聖霊は性の行為が何を意味するかも分からせてくださいます。性には深い象徴的意味が込められています。それは視覚と感覚を越える事柄を語る言語です。性に関する教会の教えを多くの人は「それは結婚した人だけのもので、いつでも生命に対して開かれていなければならない」と思っています。確かにそのとおりではあります。しかしわたしたちは、性行為にはそのメッセージを矮小化したり、その全現実を否定したりする事が間違いであるほどに深い意味があることをもっと深く理解するときに、なぜそうであるか分かるでしょう。それは必ず、(結婚によって固められた)与え尽くす愛と生命を受け入れる姿勢の文脈の中になければなりません。なぜかと言えば、このような環境だけがそのメッセージを伝え、性のたまものがわたしたちに指し示し、わたしたちをそれに義務づけるより偉大な現実を受け入れることができるからです。教会はある環境の元での性が悪であると教えているだけではありません。それは性の全現実から逃げてはいけないと教えています。自分たちの都合に合わせて、わたしたちがその現実を変えてしまうようにコントロールできると考えること自体が間違っています。
わたしたちはわたしたち自身のものではありません。わたしたちは自分自身を所有していないので、自分自身の体も所有してはいません。性を所有しているわけでもありません。そうではなく、わたしたちは愛の中に自分を与えます。そして性はそのより大きな現実の象徴的表現です。そして、それは本当に現実です。自分を与える愛は、特に、泣き、食事を要求し、教育されなければならない子供の形を取るときに、何と現実的になることでしょう。子供たちはわたしたちに思いも寄らぬ成長を遂げさせ、しっかとコントロールしていたはずの、わたしたちの日々と生活を乱してくれます。それでも、彼らは彼らなしには完全に閉ざされていたはずの生活の側面をわたしたちにのぞかさせくれます。愛の実はわたしたちに愛を返してくれるのです。
これはわたしたち全部を合わせたより大きな現実です。それは聖三位一体の中で始まる自己贈与であり、それは十字架という思いもかけぬ方法でわたしたちに知らされました。そして、それは毎日、隣人、神、自分たち自身の永遠の運命との出会いにおけるわたしたちへの挑戦です。それは恐ろしくなるぐらいに現実的で巨大なのです。だから、これほどにも多くの人たちは、性が意味するすべての現実と意味に恐怖心を持つのです。それはまた教皇パウロ六世が回勅『フマネ・ヴィテ』を書かかれた理由です。
「慰め主」
和解の秘蹟で司祭が唱える赦しの言葉は「全能の神、あわれみ深い父は、御子キリストの死と復活によって世をご自分に立ち返らせ、罪の赦しのために聖霊を注がれました」です。主イエズスは「御父はあなたたちにもう一人の慰め主をお与えになるだろう」と約束なさいました(ヨハネ14・16)。慰め主は、わたしたちが罪を悔やみ、罪に打ち勝ち、自分たちの戦いの中にも赦しを見いださせるように、御父の前でわたしたちのために願い、取りなし、和解させ、希望を与えてくださる方です。
教皇パウロ六世は回勅『フマネ・ヴィテ』の中でこの慰めに満ちた希望を書いておられます。「ですから、私はあなたたちが信仰と希望に強められて、自分たちに課された労苦を快く担うことを希望します。…神の助けを願って常に祈りなさい。特に、御聖体の永遠の泉から恵みと愛を受けなさい。もし、罪を犯すことがあったとしても、失望せず、謙遜にそしていつでも和解の秘跡が豊かにもたらす神の慈悲に頼りなさい」(25)。
実に、この大事な記念の年を祝うにあたり、そしてわたしたちが聖霊に近づくに従って、また新しい千年期を迎えるに当たって、勇気を失うことのないようにしましょう。教会には常に回勅『フマネ・ヴィテ』に書かれてある真理を知り、生きる恩寵が与えられてきましたし、この恩寵はそれを受け入れる人々を決して失望させることはないでしょう。