ペトロ神父のQ & A に意義あり!

『フマネ・ヴィテ』研究会 成相明人

以下の引用 「気軽に、ペトロ神父にたずねてみよう〜」 は 『フマネ・ヴィテ』 研究会の見解ではありません。くれぐれもお間違いのないように! ペトロ神父のホームページにあった回答に問題があるので、ここに疑問を提起します。公の場での公の回答であったので公の場で反論します。ペトロ神父の人格、聖徳に疑義を差し挟むわけではありません。なお、この記事の掲載についてはペトロ神父の了解を得てあります。おそらく、神父様のホームページに何らかの説明なり、回答なりがあるでしょう。カトリック教会の名誉、質問者の救霊にもかかわることですから、できることなら取り消していただきたいものです。

ただ、このような場でカトリック教会の正式教義だけでなく、一部でペトロ神父の個人的見解が示される、とありますが、これは質問する人を混乱させます。個々のマスターベーションが罪であるかも知れないし、罪であるかも知れないのであれば、質問者は答えてもらったことにはなりません。質問者は自分にはマスターベーションの習慣があるけれども、そのままの状態で天国にいけるかどうかが心配なのではありませんか? しっかりしたカトリックの教えを聞かされなかった質問者たちが質問に対するこの答えのためにマスターベーションの習慣から逃れることができず、救霊を全うできなければ、ペトロ神父には責任があるということになります。ですから、彼の個人的意見などは必要ありません。100%カトリックの答えがあればそれで十分なのです。質問者がこのホームページに来てくれるかどうか知りませんが、その内にこのホームページのことが話題になって、彼らの耳に入ることを願っています。

カトリックの教えのどこを見てもペトロ神父のような答えはありませんから、あの答えは彼の個人的意見に過ぎないと思われます。天国に行きたければ、いくら神父の意見といえどもその個人的見解に従うのでなく、教会の教えを優先させなければなりません。聞きたいことを答えてくれたと言って喜んでいれば、とんでもないことになります。個々のケースについては事情が違うので、はっきり言えないという意味のことをペトロ神父おっしゃっていますが、教会はむしろこの点を明白に一般化して教えています。ある人が自由にマスターベーションすることを選択すれば、その行為は非常に悪い、つまり大罪であると教えています。ただし、知的障害などがあるために自由がない場合であれば、その責任は軽くなるか、無になってしまうかも知れません。ローラー、メイ、ブール著の Catholic Sexual Ethics を原文で引用します。
" Throughout her history the Church has consistently held that masturbation, when it is a freely chosen act, is seriously wrong...The Fathers of the Church, the Medieval Scholastics, and all moral theologians until most recent times have been unanimous in condemning every deliberate act of masturbation as a serious violation of the virtue of chastity" page 187.

質問の文面から見ると質問者たちがそれほど精神薄弱であるとも思われません。ですから、マスターベーションの習慣があるのであれば、その人にはそういうことを止める義務があります。止めるためには罪の機会を避け、秘跡と祈りに頼らなければなりません。誘惑に打ち勝つのが苦しければ、その苦しみを十字架にかけられて苦しまれたキリストの償いに合わせて神に捧げることができます。

Q28の方は文面から、プロテスタントであると推察されます。しかし、プロテスタントにはこういう場合に役立つ告白という制度がありません。牧師がいくら厳しくても、その罪を犯してしまった人を許す権能は持ちません。プロテスタントの信者は牧師に打ち明けても恥ずかしい思いをするだけでしかありません。性の倫理に関して戒律が厳しいのはむしろカトリックの方です。避妊を最初に容認したのはプロテスタントです。その日付は1930年8月14日、場所は英国はロンドンのランベス宮殿、英国国教の本部に当たる場所です。それ以来、死の文化は一般社会とプロテスタント教会で増殖し続けています。残念なことにカトリック教会もその影響を免れてはいません。しかし、少なくとも公的に現在に至るまで中絶はおろか避妊が悪であると一貫して教え続けているのはカトリック教会だけです。繰り返しますが、以下の引用は 『フマネ・ヴィテ』 研究会の答えではなく、ペトロ神父のホームページにあった答えです。幸いにしてもう削除されていますが、それまでに多くの人たちの目に触れたことでしょう。実に残念なことでした。

『フマネ・ヴィテ』研究会  成相明人

気軽に、ペトロ神父にたずねてみよう〜

Q & A  28 29 30

注意:  ここでの回答はカトリックの正式教義ですが、一部でペトロ神父個人の考えも示されています。

 Q(28)

Q 1 はじめまして。お忙しいところメールを開いていただきありがとうございます。
 私が、今回ぺトロ神父におたずねしたいのは、「罪」 についてです。私は、今年の3月に、「Y教会」 で洗礼を受け、クリスチャンになりました。 厳しい戒律のなかで、私が絶えきれなかったのは、申しあげにくいことなのですが、マスターべーションをしてはいけないということでした。
 自分の性欲を抑えなければならないというのは、私には難しいことでした。マスターベーションをてはいけないという掟は、カトリックにおいても同じなのでしょうか? カトリックの方は、プロテスタントよりも、戒律は比較的自由だとお聞きしたのですが・・・ (男性、24才)

Q 2  私は74才、毎日電話サービスを聞いております。いつか性欲の問題を取り上げられるかと、期待していました・・・。実は三十年前に私は離婚しました。女と性交をしていないですが、ずっと自慰行為で悩んできました。これは罪ですか。 (男性、74才)

 A

 74才の方は電話で尋ねて来られましたが、このふたつの質問は同じことになりますからここでいっしょに答えたいです。
 カトリック教会の教えではマスターベーションと言う時、人は快感を覚えるために意図的に性器を触れたりすることです。これは罪です。

 逆説ではないのですが、「快感を覚えるために意図的に」 行動することの中には深い意味があると思います。人は神経質や習慣、あるいはさまざまな心理学的な理由で、性欲を抑え切れない場合があります。こうした場合、罪が軽いと言うのか、罪でははなくなることもあるでしょう。

 ですから、教会の教えははっきりしていますが、ひとりひとりの事情が変わるので、一概には言えません。罪だと断言もできなければ、罪ではないとも言えません。

 人間はみな、罪人です。それでいいということでは決してありません。「天の父が完全であるようにあなたがたも完全であれ」 と主が、高い理想を見せて下さいます。純潔はすてきな美徳です。清い体と清い心を育てる必要があります。自分が罪人だと認めながら、祈りと努力をもって神様に向かって歩みましょう。