×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

過熱した日本の人口調節

カトリック神父 アントニー・ジンマーマン

1948年時点の日本は人口過剰?

1945年、第二次世界大戦直後、日本沿岸に押し寄せた人間の津波は歴史にもまれな衝撃をもたらしました。1945年9月2日、日本は、戦艦ミズーリ号の艦上で降伏条件を受け入れ、国土の46%と広域に及ぶ漁業権を喪失したのでした。 空襲は橋、道路、通信設備の破壊は言うまでもなく、生産施設の44%と都市の40%を破壊していました。食糧事情も悪く、国民は一日1,000カロリーの配給で、飢えを忍んでいました。私が来日した1948年1月、合衆国は200億ドル相当の緊急援助の食糧その他をつぎ込んで、大規模な救援活動を行い、大飢餓と、おそらく広範囲にわたったであろう疫病から日本を救ったのでした。

麻痺し、萎縮し、極貧に陥った日本に600万の兵隊と引き揚げ者が海外から帰国してきて、食糧配給の列に加わりました。そして、再会した夫婦が戦後のベビーブームをもたらしたのは当然の成りゆきでした。人口は1945年の7,200万から1948年は8,000万に膨張し、人口学の専門家群が一夜の中に出現し、声を合わせて、人口調節運動の必要を説いたものです。

1948年、日本は人口過剰と産児制限の話で持ちきりでした。ダグラス・マッカーサー元帥が率いる連合軍の司令部は、そのような日本の状態を見極めるために、強力なアメリカ人専門家のチームを動員しました。彼らが日本の天然資源の驚くほどの不足を指摘したことは、ある意味では当然のことでした。その中の何人かは公然と日本の経済・社会的生存のためには、産児制限が必要であると主張したものです。マッカーサー元帥は公的には彼らの勧告を採用せず、公開書簡で、彼らの考えが「個人的なものであり、占領軍の権威ある意見とか見解に基づくものではない」と発表しました。

しかし、アメリカ人の専門家による報道へのリークは、全国の報道関係者にもてはやされ、結局、アメリカが日本に産児制限政策を採用することを迫っている、ということに、なってしまいました。日本の諸悪は人口過剰によるもので、解決策として急進的な産児制限を主張することが政治的に正しいと、多くの人が考えるようになりました。毎日新聞が総力を挙げて日本の赤ちゃん攻撃の先頭に立ったものです。戦時中の「生めよ、増やせよ」政策の正反対、というわけです。

1948年、専門家とマスコミが作り上げた紋切り型の見解は、日本は8,000万人以上の人口を養うことができない、それ以上人口が増えると、1)永久に合衆国の食糧援助に頼る、2)永久に人間以下の生活水準に甘んじる、3)生活空間を求めて再び戦争に走る、という三つの選択肢しかない、というものでした。

人口減を提唱するプロパガンダは、ちょうど日本上空を吹き荒れる台風のように、手が付けられなくなっていました。北海道北端の稚内から、九州南端の鹿児島に至る日本の隅から隅まで、産児制限の方法が教えられるようになりました。劇場ではそのやり方を教える映画が上映され、PTAでもその件で話し合いがなされ、新聞も毎日、関連記事を書き立てるという時代でした。

1948年7月13日いわゆる優生保護法は、人工避妊(15条)と人工妊娠中絶を合法化しました(14条)。この法は、「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母胎の健康を著しく害する恐れのある」妊娠を、人工的に終結することを、特定の医師に許可するものです。

約8,000人の産婦人科医が、人工妊娠中絶手術を施す資格を得るために、所定の課程を終了しましたが、これは正に打ち出の小づちでした。助産婦は赤ちゃん減少の影響をもろに受け、時には縄張まで定めて、コンドームを売って収入を補ったものです。インド人が聖なる牛に逆らえないように、日本が人口過剰であることにはもう異論の余地がなく、子供を少なく生むことこそ社会に対する義務であると、母親たちが考えるほどでした。「政府の指示に従わないで、恥知らずにも次から次に子供を生む」人並みでない女性は、すぐに悪口を言われました。住まいも、一律に二子家庭がやっと入れるように小さく作られるようになりました。隣に三人目の赤ちゃんの泣き声が聞こえようものなら、隣人たちはお祝いの喜びではなく、敵意をむき出しにしたものです。ほとんどの家庭で日常茶飯事として人工妊娠中絶が行われるようになりました。家族計画の約三分の二は人工避妊でなく人工妊娠中絶によって達成されました。

1994年の今、わたしたちが1948年の間違いを批判するのはいとも簡単なことです。戦後の日本で食糧危機と就職難の原因になったのは、赤ちゃんたちではありませんでした。日本の工業が回復し、好調になり、朝鮮戦争によって初期の活動にはずみがつくと、労働力の提供が間に合わないほど仕事口が広がりました。1948年の赤ちゃんたちが1968年には生産者になり、農民たちは驚くほど収穫をあげ、すぐに米は生産過剰になってしまいます。

第二次世界大戦後半世紀たった今、日本の膨大な労働力と生産施設は、小さすぎる国内消費者人口の消費量に比べると、はるかに大き過ぎるのです。彼らの過剰生産物は高速船でアメリカとヨーロッパに運ばれるためにふ頭に積み上げられ、かの地での貿易不均衡のための怒りとジャパン・バッシングの原因となっています。

このように、1948年の悲観的予測はことごとく外れてしまいました。もし、日本人が空腹であれば、それは食べるものが不足しているからでなく、ダイエットをしているからです。アメリカ人からの施しを受けて生きているのではなく、日本人は余剰工業生産物をアメリカに輸出しています。人口過剰の日本から日本人が外国に移民するのではなく、もうかる仕事を求めて日本に不法入国する外国人は後を絶ちません。領土を増やすために戦争をするどころか、平和主義に徹底してしまった日本は、国連の和平活動に少数の自衛隊員を派遣する度に政治的危機に陥ります。そして、国内では、首都圏が過疎地帯から人々を引きつけます。決してその逆ではありません。人口の専門家が、独善的な専門知識をもって予測したすべてのことは、はずれました。いわゆる専門家といわれる人たちが日本の実情について無知であったことは明らかです。

しかし、1948年に反・ベビー運動が回し始めた世論の不器用なはずみ車は、今に至るまで回り続け、止まるところを知らぬ破壊行為を続けています。日本人の赤ちゃんに対する態度は頑固です。子供なんて要らない。何で結婚しなきゃいけないの。夫はもう一人子供が欲しいのに、医者は一人より二人の方がいいと勧めているのに、若い母親たちは第二子に、もう拒否反応を示します。日本は急速に国全体が老人ホームになりつつあります。これは若い世代にとっては、特に喜ばしいことではありません。人口学的年齢構造は、ちょうどエジプトのピラミッドをひっくり返したかのようになります。つまり、若い人たちの狭い底辺が、高年齢層の広い上辺に押しつぶされるような状態になります。かつて、生むはずの人数の子供を生まなかった親たちが、今、人数が少なすぎる若年層におんぶしてもらうことを期待するのは、公平であるといえません。

反・人口基金の金づるを求めて、1994年4月来日した国連人口活動基金の行政局長ナフィス・サディック女史が直面したのは、正にこのような情況でした。日本の産児制限の推進運動は、とっくの昔に終息しており、日本人はいまや減少する出生率について心配していました。何年か前に、中国の大躍進と文化革命が大失敗に終わったように、日本で反・人口宣伝が大失敗に終わったことを、彼女にもはっきり分かったことでしょう。女史は、かねての反・赤ちゃん論調を低めて、日本の出産率低下が、女性が担う外での仕事と子育て・家事の責任という二重の重荷によるものである、などといったあいまいな発言をしました。女史は「この重荷を男女が分かち合わなければ、女性は子供を生もうとはしないだろう」などと、フェミニストの決まり文句を使って声明したものです。

しかし、夫にも家事を手伝わせるという彼女が提唱した余りにも単純な解決は、それがたとえ称賛に値するものであるにしても、日本で壊れてしまったものを修復できるわけはありません。メディアの、長年にわたる大々的な反・母性宣伝 — 実はこれこそが反・人口プロパガンダの正体なのですが — これこそが、男女を問わず、母性を過小評価させるのです。頑迷な、母性を軽視するあの反乱の影響が、いまだに世論を支配し、経済をゆがめています。反・母性の感情が女性を家庭から追い出して、彼女たちはどこか別のところで満たされたいと望みます。経済は家庭でなく、ものを生産するようにできています。もし、一般世論と経済的パターンが再び母性を尊重するようになれば、多分、男女とも家庭生活を大事にし、子供を歓迎するようになるでしょう。もし、これが世間の望むことであれば、そして、これが経済も良しとする方向であれば、男たちは喜んで、子供がたくさんいる家庭の仕事の責任を果たすでしょう。

サディック女史の来日の目的は、反・赤ちゃん運動の活動資金を、日本に求めることでした。しかし、毎日新聞は、女史のそういう思惑に遠慮することもなく、日本の家庭には、老齢化する両親を補充できない、平均わずか1.5人しか子供がいない、という報道をしたものです。その報道によると、この低出生率は、「減少一方の人口が、日本の老人を養うことができるのだろう、と心配している政府当局の困惑の原因となっている」(1994年1月31日)のです。ですから今、毎日新聞に望みたいのは、日本と国連に反・ベビー運動を慎むように呼びかける、ということです。反・母性宣伝は、当然生まれるはずより少なく生むように親たちを説得するのですが、これは次の世代にとって公正なことではありません。

 赤ちゃんは日本の未来

日本はそれでも、まだ、絶望する必要はありません。少子家庭は — 例えば、子供が一人、まったくなし、または結婚すら考えない、などと — ますます小さくなりつつはありますが、多子家庭が存在しないわけではありません。子供たちの20%は、既に二人子供がいる家庭に生まれてきます。1989年に241,193人の赤ちゃんたちを待っていたのは、二人またはそれ以上のお兄ちゃんやお姉ちゃんたちでした。人口学的現実のゆっくりした旋回によって、多子家庭が少子家庭より多数派になる傾向があり、彼らこそ日本を相続する人たちなのです。大家族の中で育った子供たちは人間と家庭生活の中に、企業が与えることのできない喜びを見いだします。彼らの、生命に対する健康な積極的な態度は国の宝であるといえましょう。

ピルが日本からどのように閉め出されたか?

日本にとって、もう一つ良かったことは、産児調節ピルの禁止と学校での生々しい性教育の拒否でした。両親たちは賢明にも、ピルが市場に出回れば、若い人たちが不道徳になるだろうと察したのです。最近、ピルを合法化しようとする再度の運動がありましたが、幸いなことにまた失敗に終わりました。

産児制限ピルを日本が拒否したときの経緯について、 あまり知られていない秘密に触れることをお許し下さい。古屋芳雄博士は1960年代、ピルに反対する舞台の裏で動いた大物でした。彼は1959年日本家族計画連盟の会長に選ばれ、それ以後の決定的な期間その地位にとどまりました。彼は厚生省からも、人口問題に関する委員会、その他の政府諸諮問機関のメンバーでした。

もし私の思い違いでなければ、ニューヨークの人口委員会と彼との特別な関係が、日本ではさらに大きな政治的な力になっていたようです。例えば、当時、ニューヨークに本拠をおく同委員会の人口学担当の理事であったダッドリー・カーク氏は、英訳された、古屋博士の論文「家族計画の先駆者であること(1963年)」の序文を書きました。同委員会のもう一人の有力メンバーであったドロシー・ノルトマン女史も同書中にその書評を書いて、古屋博士を読者に紹介しました。このような人間関係が、厚生省での古屋博士の名声を高め、影響力を増加させたことと思います。厚生省はピル禁止の決定をしました。

私は折りに触れ、古屋博士を一人の友人として訪問したものですが、その都度、シカゴ市オークパークの公衆保健担当官ハーバート・ラトナー博士が、提供してくれた資料の山を持参したものです。多分、まだ初期のそのころ、世界中のどこを探しても、ラトナー博士ほどピルの評判を落としてくれた医者はいなかっただろう、と思われます。古屋博士は、他にも理由があったかもしれませんが、政府の役人たちを説得して、日本での産児調節ピル使用の合法化にストップをかけました。彼とその他のピル反対の同志は、ピルが使用者本人だけでなく、その子供、孫にまでもたらす健康障害について熱心に説いたものです。彼らの反対は実を結び、ピルを禁止する政府の決定は現在に至るまで有効です。

日本から産児調節ピルを閉め出す手助けをすることは多分、家族計画連盟とニューヨークの人口委員会の意図ではなかったでしょう。しかし、この場合、彼らの気付きもしない影響がおそらくそこに作用していたと、考えられます。日本の女性は、世界中で6000万の女性がピルの副作用でこうむっている障害を免れたわけですから、大いに感謝すべきでしょう。

結論

私の提案は次の通りです。日本の経験から学び、反・赤ちゃんの宣伝はいい加減にして、国連や発展途上国でそれを過熱させるのはやめましょう。放置しておいても、親は家庭内の人口問題を大体の場合うまく解決するものです。彼らはその性質上、家族計画連盟、国連人口基金、USエイドなどからとやかく言われなくても、自分の家庭に一番良いことを望むようになっているものです。そして長い目で見ると、両親が自分たちの家庭にとって一番良いと思うことが、国のためにも、全世界に散らばる人類の人口にとっても、同様に良いことなのです。

カイロ国連人口会議では、英語とスペイン語の、4,000部にも及ぶこの論文のコピーが、Population Research Instituteのメンバーによって参加者、報道陣、その他に配られました。日本の皆さんにも、是非、その翻訳を読んでいただきたいと思い、翻訳を依頼しました。

Copyright 1994 by Population Research Institute, 4 Family Life, Front Royal, Virginia, U.S.A. 

Originally an article in Social Justice Review 126, July/August 1994. Translated with permission from the same Institute and the author by Fr. John A. Nariai, Humanae Vitae Research Institute, Japan