避妊についての告白
クリス・モスマイヤー
若いころ、カトリックの教えについてあまり興味がなかったので、わたしには教えのあちこち分からないところがありました。わたしが分からなかった教えの一つは教会による避妊の禁止でした。それが重大な問題であるとはどうしても思えなかったものです。おそらく、それは米国のカトリック信者でこの点に関して忠実であるのが五%に満たない、という事実によるものだったのでしょう。しかし、教会は常に避妊が結婚の聖性に反する重大な罪であると教え続けています。多数の信者がこの掟に従わなくても、教会が教えを変更することはありません。
青年時代
わたしが通っていた教会立の高校で宗教の時間にあったことを思い出します。ある友人がクラスを代表するような形で教師に次の質問をしました。
「先生、先生はわたしたちが避妊することと、十代の女の子が妊娠するのとどちらを選びますか?」
「わたしが望むのは君たちがセックスなどしないことなんがね」とその教師は答えたものです。
そんな答えはわたしにもクラスのみんなにもちゃんちゃらおかしくて、受け容れがたいものでした。だって、それはわたしたちが出した二つの選択肢のどちらでもなかったからです。どうせみんながそうするのだから、妊娠などしない方がいいに決まっているではありませんか? このような反応とわたしたちの質問の仕方を考察すると、わたしたちが不道徳な社会にどっぷり浸っていたことがよく分かります。婚前セックスが悪いことは百も承知しているくせに、わたしたちは罪を犯さないことよりも、なぜ罪になる行為をするとゆるされないのかという議論を教師に吹っかけていたのです。
教師を困らせたあのわたしたちの質問は次のように言い換えることもできるでしょう。「わたしたちが人の家に侵入して泥棒をするとき黒い服を着ることを望みますか? それともわたしたちが十五年間も牢屋に入っていることを望みますか?」こんな選択であれば正解などあろうわけがありません。倫理神学者は「罪を犯さない」という第三の選択がない限り、こんな質問には答えることができません。
罪を犯すか? 犯さないか?
それから何年か経って、わたしは大学生になっていました。高校時代のクラスメートがガールフレンドを妊娠させました。不幸なことに、現代、こういうことはしょっちゅうあるので、これだけではそれほど興味深いことでもありません。わたしがあきれてしまったのは、そのカップルが、罪になるからという理由で避妊をしてはいけないと思っていたことでした。
この事件に対するわたしの反応は今考えると恥ずかしい限りです。直接この二人に向かって言ったわけではありませんが、婚前セックスが罪であることを指摘しつつこう言ったものです。「結婚もしていなのにセックスなんかすると地獄にいくかもしれないじゃないか。避妊しないからこの世でももう地獄が始まったようなものだ」。
あのころからするとわたしも年を取ったものです。見合っただけ知恵も増していることを希望します。今だったらあんなことは言いません。しかし、こんな混乱した考え方にしがみついている人間が世の中にはまだたくさんいることに間違いありません。
確かに、あの二人が言ったことは珍妙でした。罪を犯さないようにあれほど入念の注意をしながら、別のとんでもない罪を犯してしたわけですから。しかし、これには案外筋が通っているのかもしれません。未婚の二人のセックスは罪です。情熱に突き動かされたかどうかは別問題で、罪は罪です。避妊することによって、自分たちの性的結合がもたらすかもしれない結果、つまり赤ちゃんを望まないことを認めるので、彼らは自分たちがしていることが悪であることを認めてしまいます。彼らは互いに全面的に結ばれるのに必要な決意がないのに、あたかもそのような決意があるかのように振る舞うのです。