教皇ピオ十二世回勅
「メディアトール・デイ」

使徒座との間に平和と交わりを保っている尊敬する兄弟の皆さん、総大司教、首座大司教、大司教、司教、および、その他の教区長へ

教会の祭礼について

司教にして、教皇、ピオ十二世

尊敬する兄弟の皆さん、あいさつと使徒的祝福をお受けください。

序  文

§ 1 祭礼の本質

< 大祭司キリスト>

〔521〕1「神と人間との仲介者」(一テモテ2・5)、天を開かれた大祭司、神の子イエズス(ヘブライ4・14参照)は、人類に超自然の恩恵を豊かに満たすために、愛のわざをみずから引き受けられた。その際意図されたことは、疑いもなく、人間と創造主との間の、罪によって乱された秩序を回復し、原罪を受けて汚されているアダムのあわれな子孫を、すべてのものの源であり最高の目的である天の父に立ち帰らせることであった。そのために、地上で過ごされた間、救いのわざの開始と、神の国の到来を告げたばかりでなく、不断の祈りと自己奉献によって、われわれの良心を死んだ行ないから清めて生きる神に仕えさせるため、十字架にかかって汚れのないご自分を神にささげるまで、人々の魂の救いのために働〔522〕かれた(ヘブライ9・14参照)。こうしてすべての人々は、かれらを腐敗と滅亡に無惨におとしいれていた道から呼びもどされ、各自の協力を通じて、汚れのない小羊の血から生じた聖性を自己のものとし、ふさわしい栄光を神に帰すために〔典7・2〕、再び神のもとに導かれたのである。〔教3参照〕

<キリストの祭司職を教会が継続する>

2 しかし神である救い主は、死すべきからだをもって、祈りと自己奉献によって始められた祭司的生活が、その神秘的なからだ、すなわち教会のうちに、幾世紀にわたって不断に継続されることを望まれた。そして、あらゆるところで清いささげものが奉献され(マラキ1・11参照)、日の出るところから、没するところまで、人々が罪から解放され、良心の勧めに従って、自由に自発的に神に仕えるようにと、目に見える司祭職を制定されたのである。〔典7・教7と8参照〕

<祭礼は祭司職の継続>

3 したがって教会は、創立者から受けた命令に忠実に従い、イエズス・キリストの祭司職を、特に教会の祭礼によって継続している〔典7・3参照〕。これは何より祭壇の上で行なわれる。そこでは十字架上の奉献が、ただ異なった方法によって、再現され(トリエント公会議第22総会第1章参照)、新たにされる(同第2章参照)。また、人間が超自然の生命に参与するための特別な道具である秘跡によって、さらに、至善至高の神に日ごとささげられる賛美の祈り〔聖務日課〕によって行なわれている。尊敬すべきわたしの前任者ピオ十一世は次のように述べておられる。「天においても地においても、祈る教会の姿はなんと麗しいものだろう。神の霊感を受けた詩編は、この地上で昼夜間断なく歌われていて、一日中、教会固有の祭礼によって聖別されない時間はない。そして、人生の各年代は、キリストの神秘体、すなわち教会の共同の祈りである感謝、賛美、祈願、および償いのわざに、それぞれの役割を持っている。」(回章Caritate Christi一九三二年五月三日)

§ 2 典礼運動

<典礼運動の高まり>

〔523〕4 前世紀の末から今世紀の初めにかけて、称賛すべき個人の努力によって、また特に有名な二、三のベネディクト会修道院の貴重かつ堅実な努力によって、祭礼に関する特別な研究論争が呼び起こされたことは、尊敬する兄弟の皆さんもよくご存知でしょう。こうしてただヨーロッパの国々ばかりでなく、さらに海外の国々にも、この間題について称賛に値する実り豊かな努力が進められた。また、西方および東方教会の典礼様式がじゆうぶん深く研究され、知られたところでは、神学の領域においても、キリスト者の霊的、個人的生活においても、この熱心な努力の豊かな成果を認めることができる。

<典礼運動の成果>

その結果、祭壇上の奉献の崇高な祭式〔ミサ〕をいっそうよく認識し、把握し、評価するようになり、秘跡にいっそう広くしばしば参加し、典礼的な祈りのよさをより深く味わうようになり、当然保持されるべきことながら‥‥聖体への礼拝を真のキリスト教的信仰心の源として、また中心として認めるようになった。そのうえ、キリスト信者全体はキリストをかしらとする一つの密接なからだを形成していること、祭礼に正しく参加することは、キリスト者のつとめであることが自覚されるに至った。

§ 3 教皇の任務

<使徒座の努力>

6 使徒座は、どの時代においても、ゆだねられた民が正しい行動的な典礼感覚に親しむよう熱心に努め、またこの教会の祭礼がふさわしい品位をもって外的に表現されるよう これに劣らず努力してきたことは、あなたがたももちろんご存知でしょう。同じょうにわたし自身も、一九四三年に、永遠の都ローマの四旬節の説教師のかたがたに慣例にならってお話ししたとき、かれらの話を聞く聴衆みなに感謝の奉献〔ミサ〕へのより行動的な参加を勧めるように促した。さらに、最近では、典礼の祈りをより正しく理解し、その真価と美しさをよりたやすく把握するようにと、カトリック教会の祈りの大部分を占めている詩編書を、新たに原文からラテン語に訳し直すよう取り計った(教皇自発勅令In cotidianis precibus一九四五年三月二四日参照)。

<教皇の任務>

〔524〕7 これらの努力は有益な成果を生み、わたしに少なからぬ慰めをもたらしているが、他方、ある人々によって唱えられているような改革には、よく注意して、企てられた計画が行き過ぎたり、少しでも害をもたらしたりすることのないよう、慎重に配慮することは、わたしの良心の命ずるところである。

§ 4 正 し い 道

<怠慢と行き過ぎ>

8 ある地方では、まことに遺憾なことに、教会の祭礼に対する感覚や知識や研究が、ふじゅうぶんであったりまったく欠けている一方、他方では、新しいことを追求する人々が、正しい教えと賢明の道から離れてゆくことを、多少不安と恐れをもって考慮せずにはいられない。祭礼の刷新に関して企てられる提案や要求には、しばしば理論的にも実際的にも、この聖なる事がらを危険に導き、時にはカトリックの信仰や修徳の教えにふれる誤りを犯している見解がはいりこむからである。

<純粋さ>

9 教会の最も英知に豊んだ教説とあらゆる意味で合致すべきこの聖なる学問〔神学〕の根本方針は、信仰と実践とにおける特別な純粋性でなければならない。したがって、正しく行なわれたことを称賛し、奨励し、正しい道から離れたものをくい止め、退けるのはわたしの務めなのである。

<正しい中庸>

10 しかし、消極的な人や怠慢な人は、わたしが誤った人を非難し、無謀な人を制するからといって、自分のほうが認められたと思ってはならない。また無分別な人はわたしが怠っている人や無知な人を正すときに、自分が称賛を受けているものと考えてはならない。

§ 5 回章の対象

<ラテン典礼様式を対象とする>

11 この回章の中でわたしが主としてラテン典礼について取り扱うのは、古代のすぐれた原典に由来する同様に尊重すべき東方教会の諸典礼様式を軽視しているからではなく、西方教会の現状が、わたしの権威の干渉を特に必要としているように思われるからである。〔カトリック東方諸教会に関する教令を参照〕

§ 6 世界平和

<人類の一致>

〔525〕12 したがってすべてのキリスト者は、共通の父の声を、恭順な広い心で聞くべきである。すべての人が、ご自分と固く結ばれて神の祭壇に近づき、同じ信仰を告白し、同じおきてに従い、同じ奉献に心と意志とを一つにして参加することを、父はひたすら望んでおられる。神に帰すべき栄光は確かにこれを要求し、現代人の生活状況もこれを必要としている。長い間の残酷な戦争が、民族間を敵意と殺害とによって引き裂いてしまった後、今や思慮ある人々はみな、よりよい方法を尽くして一致を回復しょうと努力している。しかしこの点については、いかなる計画も企ても、キリスト者が教えられ導かれるべきこのいきいきとした宗教的熱意と気力に至る偉大な効力を持つものはないと思う。このようにキリスト者は、同じ真理を心から信仰し、正しい牧者に自由に自発的に従い、神にふさわしい礼拝をささげ、一つの兄弟的な共同体を形成している。こうして「われわれは多数であっても、皆一つのパンに参加するから一体」なのである(一コリント10・17)

第一部 祭礼の本質とその発展

第一章 公的な礼拝としての祭礼

§ 1 神を礼拝するつとめ

<個人のつとめ>

13 人間にとって重大なつとめは、疑いもなく、各自が自己とその生活とを神に向けることである。「この神こそは、無限の根源としてわれわれが本来結ばれるべきもので、また最高の目的として常に選ぶよう心がけなければならないものである。われわれは罪を犯すことによって この目的を失うが、信仰と誠実とを示すことによって、またこれを取りもどさなければならない。」(聖トマス 神学大全 Ⅱ ・Ⅱ ・81・1)しかし、人が神の至上の権威と最高の教導権を認め、神から示された真理を謙虚に受け入れ、神から課されたおきてに敬謙に従い、自己の活動と熱心さを神に向け、さらに、ひと言で言えば、敬神徳を通じて唯一のまことの神に、ふさわしい礼拝と恭順をささげるとき、人は正しく神に向かって秩序づけられるのである。

<共同体のつとめ>

〔526〕14 このつとめは第一に個人を義務づけるものであるが、それはまた、社会的な相互関係によって形成されている人間共同全体のつとめでもある。なぜなら、この共同体も神の至上の権威のもとにあるからである。

<超自然的なつとめ>

15 この際注目すべきことは、神は人間を超自然的な秩序に高められたのであるから、人間には特別な形でこの義務が課されているということである。

§ 2 旧約の礼拝から新約の礼拝へ

<旧約の礼拝>


16 したがって旧約の立法者である神は、儀式に関するおきてを発布し、神に正当な礼拝をささげるために民が守らなければならない詳細な法規を定められた。そのために神は、種々のいけにえを制定し、その供え物を神にささげる各種の儀式を定め、契約のひつ、神殿、祝日に関することすべてを正確に指示された。神は祭司の部族および大祭司を制定され、司式者が身に着けるべき祭服に至るまで、またその他神への礼拝に関係あることすべてにわたって詳しく指図された(レビ記参照)。

17 それでも、このような礼拝は、新約の大祭司が天の父にささげる礼拝の、単なる影(ヘブライ10・1参照)に過ぎなかったのである。

<祭司キリストの活動>

18 しかし、「みことばは、人となられる」(ヨハネ1・14)や否や、祭司の職を身に帯びてみずからを世に示された。永遠の父に服従し、これをその全生涯を通じて絶え間なく続けられた。「キリストはこの世にはいられるにあたって、『神よ、わたしはあなたのみ旨を行なうためにまいりました。』と仰せになり」(ヘブライ10・5〜7)、そして、十字架上の流血の奉献において、これを驚くべき方法で完成された。すなわち、「このみ旨により、ただ一度ささげられたイエズス・キリストのからだによってわれわれは聖とされたのである」(ヘブライ10・10)。キリストが人間の中で活動されたのも、もちろん、この同じ目的のために他ならなかった。幼児としてエルサレムの神殿で主にささげられ、少年としてもふたたびこの地を訪れ、後には、民を教え、そこで祈るために再三再四この神殿にはいられ

〔527〕 た。公の活動を始められる前四十日間の断食を守り、その勧告と模範によって、昼夜を問わず神に祈りをささげるよう皆にすすめられた。真理の師として、死すべき人間が不死の神を認め、「恐れ退いて滅びに至る子ではなく、信じて命を救われる者であるよう」(ヘブライ10・39)、「すべての人を照らされる」(ヨハネ1・9)。牧者としては、その群れを導き生命の牧場に至らせ、皆が、キリストから、またキリストの示した正しい道からも引き離されることなく、そのいぶきと励ましによって聖なる生活を送るよう、おきてを定められた。最後の晩餐に際しては、荘厳な祭式と方法によって新しい過越祭を祝い、聖体の制定によって、それが継続されるよう定められた。次の日、天と地の間に立てられ、われわれに救いをもたらすために、生命のささげものを奉献し、その貫かれた胸から、人間の魂にあがないの宝をわかち与えるいわば秘跡そのものを流し出された。〔典5・2参照〕これらすべてを行なわれるにあたり、ただ天の父の栄光と、人間により高い聖性をもたらすことのみを目的とされたのである。〔教3参照〕

<永遠に続く新約の礼拝>

19 天上の至福にはいられたキリストは、地上での生活中に制定し、ささげた礼拝が、絶えず存続することを望まれる。すなわち、キリストは人類をみなしごとして捨て置くことなく、かえって、有効な、また状況に最も即応した保護によって常に助け、天において父の前に弁護者のつとめを果たしておられる(一ヨハネ2・1参照)。こうしてまた、神の現存が世世にわたって永続する教会、キリストが真理の柱(一テモテ3・15参照)、恩恵の分配者と定め、十字架上の奉献をもって創立し、聖化し、永久に固められた教会を通して、人類を助けておられるのである。(ボニファチゥス九世Ab origine mundi一三九一年十月七日、カリストゥス三世Summus Pontifex一四五六年一月一日、ピオ二世Triumphans Pastor一四五九年四月二二日、イノチェンチゥス十一世Triumphans Pastor一六七八年十月三日、参照)

<教会におけるキリストの現存>

〔528〕20 したがって教会は、受肉されたみことばと共通の目的、任務、役割を持っている。すなわち、教会は真理をすべての人に教え、人々を正しく治め導き、神の意にかない神に受け入れられるささげものを奉献し、それによって至高の創造者と被造物との間の、あの感嘆すべき結合と一致とを回復しなければならない。諸国民の使徒〔パウロ〕はこれを次のことばによって明らかに言い表わしている。「だからもうあなたがたはよそ者でも、他国人でもありません。聖徒たちと同じ市民、神の家族なのです。使徒と預言者との土台の上に建てられたものであり、そのすみの親石はキリスト・イエズスご自身です。キリストのうえに建物全体が建てられ、主のうちにある聖なる神殿に発展するのです。あなたがたも聖霊によって神の住居となるために、主のうちにあってともに建てられたのです」(エフェソ2・19〜22)。そのために神である救い主によって創立された共同体〔教会〕が、その教えと導きにより、またキリストが制定された奉献〔ミサ〕と秘跡により、そしてキリストから受けた任務の遂行によって、さらに祈りをささげ血を流してまで、ひたすら尽力し目指していることは、ほかでもなく、日一日と教会が拡大され、増大して行くことである。すなわちキリストが、死すべき人間の心のうちにあたかも築かれ、広げられ、また逆に人々の心が、キリストによって形づくられ、成長するならば、この目的は達成される。こうして、神のみいつが、意にかない法にかなった礼拝をお受けになる神聖な神殿は、この地上のさすらいの間に日々拡大されて行く。したがって、あらゆる典礼行為のうちに、神であるその創立者は教会と一致して現存しておられる。〔典7・2〕キリストは祭壇上の荘厳な奉献〔ミサ〕の際に、その奉仕者の人格のうちに現存されるとともに、また特に聖体の形態のもとに現存しておられる。最後に、神に向けられた賛美と祈りのうちにも、次のことばによって現存しておられる。「わたしの名によって、ふたり三人が集まるところには、わたしもそのうちにいる」(マタイ18・20)。したがって教会の祭礼とは、われわれの救い主、教会のかしらが天の父にささげ、またキリスト信者の共同体がその創造者に、そしてキリストを通して〔529〕永遠の父にささげる公の礼拝のことである。一口に言えば、教会の祭礼とはイエズス・キリストの神秘体の、すなわちそのかしらと枝体との公的な礼拝全体のことである。〔典7・3〕

§ 3 祭礼の起源と発展

<祭礼の起源>

21 典礼行為は、神に創立された教会とその起源をともにしている。初代教会のキリスト者は、「使徒たちの教えを聞き、兄弟のようにともに生活し、パンを裂くことと、祈りに専念していた」(使2・42)。司牧者がキリスト信者の集会を開きうるところではどこでも、祭壇が置かれ、そのうえで奉献〔ミサ〕が行なわれ、その回りでは、人を聖とし、神に栄光を帰す他の祭式も執り行なわれた。このような祭式のうち第一のものは秘跡であって、七つのすぐれた救いの源泉である。第二は、キリスト信者がお互いに結ばれて、使徒パウロの次の勧告に従って神を賛美する祈りである。「知恵を尽くして互いに教え、戒め合い、感謝のうちに、詩編、賛歌、霊歌をもって、心から神をほめたたえなさい。」(コロサイ3・16)。第三には律法書、預言書、福音書および使徒の書簡の朗読である。最後に、集会の指導者が神の教えてくださったおきてを思い起こさせ、これを〔実際に〕役だつよう説明し、またキリストの生涯の重大なできごとを想起させ、出席者一同を適当な勧告と模範によって激励する講話、いわゆる説教がある。〔典52〕

<祭礼の発展>

22 礼拝はキリスト者の状況と必要に基づいて設けられ、新しい祭式を発展させ、新しい儀式と式文によって豊かにされる。その目的は常に、「あのしるしによって、われわれ自身を激励し、どのくらい進歩したかを知らされて、さらに進歩するようにと激しく鼓舞するためである。それは、活動に先だつ熱情が強ければ強いほど、その活動は価値のあるものとなるからである。」(聖アウグスチヌス書簡130「プロバムへ」18)このようにして、魂はよりよく、よりふさわしく神へと高められ、イエズス・キリストの祭司職は万世にわたり常に生き続ける。つまり、教会の祭礼とはキリストの祭司職の実行にほかならないのである。

<生活の中の祭礼>

教会は神であるそのかしらと同様に、常にその子らとともにあり、天上の輝きに飾られ〔530〕て、いつか天の父に帰りゆくように、かれらを助け、聖なる生活へと励ます。教会は、地上の生命を受けた者を天上の生命によって高め、いわば再生させ、また不倶戴天の敵〔悪霊〕に対して戦うかれらを、聖霊の力をもって強めている。キリスト者を祭壇に呼び集め、感謝の奉献〔ミサ〕に参加してそれを祝うよう、くりかえし勧め、招いて励まし、かれらがさらに強められるように、天使のかてで養う。罪によって自己を傷つけ、汚してしまった人々を神と和解させ慰める。司祭の職につくよう神から召された人々を、法にかなった祭式によって聖別する。キリスト教的家庭をつくって営むよう召された人々には、天の恩恵とたまものによって、汚れない婚姻の結びを固める。さらに、この世の死すべき生命の最後の一時を、旅路のかてである聖体と、聖なる救いの塗油によって力づける。教会はその子らの遺体に愛情をこめて墓まで伴い、信心深く埋葬したうえ、他日ここから死に打ち勝って復活するよう十字架の墓碑を立て、かれらをその保護のもとに置く。教会はそのほかにも修道生活の完成のため神への奉仕に献身する人々を、荘厳な祝福と祈りをもって祝別する。最後に、償いの火によって浄化さるべき〔死者の〕魂にも救いの手を差し伸べて、取り次ぎと祈りを求めているかれらが、ついに永遠の至福に導かれるように援助しているのである。〔教11参照〕

第二章 信仰生活における祭礼の位置

§ 1 祭礼の外面と内面

<祭礼の外的要素>

23 教会が神にささげる礼拝全体は外的なものであると同時に内的でなければならない。外的であるというのは、肉体と魂とからなり立っている人間の本質がそれを要求するからであり、さらに「われわれが見えるものとなられた神を認めることによって、見えないものへの愛に強く引かれる」(ローマ・ミサ典礼書 降誕節の叙唱)よう神が定められたからである。そのうえ、魂からわきあがるものは、自然に感覚によって表現される。また、神に対する礼拝はただ個人に関するだけではなく、人類の共同体にも属するものであり、そのため社〔531〕会的なものでなければならない。もし宗教が、外的なきずなや外的なしるしを持たないなら、社会的であることはできない。けっきょく、外的な性格は、神秘体の一致を特別な方法で表わし、明らかにし、聖なる熱心を増し、その力を強め、日ごとその活動を高めるのである。「なぜなら、たとえこれらの祭式自体が完全性や聖性を持たないとしても、それは外的な宗教行為であり、しるしとして、精神を聖なるものに対する尊敬へと励まし、心を天上へと高め、信仰心を養い、愛徳を暖め、信仰を成長させ、〔神への〕献身を強め、教養の足りない者を教え、神への礼拝を整え、宗教を保ち、偽キリスト者や異端者から真の信者を区別するのである。」(ヨセフ・ボーナ枢機卿De divina psalmodia 19,3,1)

<祭礼の内的要素>

24 しかし、神に対する礼拝の特に重要な要素は、内的なものである。常にキリストのうちにあって生き、キリストに自己のすべてをささげなければならない。それは、キリストのうちにあって、キリストとともに、キリストによって、天の父に栄光をささげなければならないからである。教会の祭礼自身が、この二つの要素を互いに密接に結合するように要求している。祭礼は、礼拝の外的行為を規定するたびに、このことを幾重にも勧めてやまない。たとえば断食について、「われわれの〔四旬節の〕遵守が外的に表わすことを、内的に効果あるものとするように」(ローマ・ミサ典礼書 四旬節第二主日後の木曜日 奉納祈願)勧められている。このようにしなければ、宗教は必ずや、無意味な儀式や空虚な形式に陥ってしまうであろう。尊敬する兄弟の皆さんもご存じのように、神である師は、ただ声によってうまく調子よく合わせたり、芝居がかった演出をつかったりして神に栄光を帰そうと試みる人や、悪習に固執してそれを心から根絶せずに、自分で永遠の救いのために努力していると自負する人は、聖なる神殿にふさわしいものではなく、神殿より追い出さるべきであると考えられた(マルコ7・6とイザヤ29・13参照)。そのため、教会は、すべてのキリスト信者が救い主の足もとにひれ伏し、救い主に尊敬と愛を示すよう望んでいる。また、エルサレムに入城されるキリストを、喜びの声をあげて迎〔532〕えた〔ヘブライの〕子らの例にならって、集まった人々が賛歌を歌い、王の王であるすべての恵みの創始者に、栄えの歌と感謝をささげるよう望んでいる。あるときは嘆願、あるときには歓喜と感謝の祈りを口にのぼせ、ティベリアデ湖畔の使徒のように、主の愛と力ある助けを経験するよう、また、タボール山上のペトロのように、至福の光と霊感に心を奪われ、永遠の神に自己と、そのすべてをゆだねることを望んでいる。

<祭礼は儀式でも法でもない>

25 だから、外的な可感的な要素や、飾りのような儀式の外観だけを神への礼拝と考える人々は、教会の祭礼の、真の本来の概念と理念からまったくはずれている。また祭礼を、教会位階が、教会の儀式を指示し規定する法やおきての全体にすぎないと考える人々も、少なからぬまちがいを犯している。

§ 2 客観的な力と主体的な態度

<祭礼の効果>

26 精神と心が完全な生活を一心に求めていなければ神にふさわしく栄光をささげることはできないこと、また、教会が神であるそのかしらと一致して神にささげる礼拝には聖性に達するために最高の効果があることを、すべての人ははっきりと知らなければならない。

27 この効果は、感謝の奉献〔ミサ〕と秘跡の場合、特に第一に、「行なわれた〔秘跡自体の〕行ないから」(ex opere operato)生ずる。しかし、祈りや祭式によって感謝の奉献と秘跡を飾るイエズス・キリストの傷なき花嫁〔教会〕の行為や、また教会位階によって制定された準秘跡、および他の祭式の場合には、それが聖であり、かつかしらと緊密な結合のうちに行なわれる限り、この効果は特に、「行為者である教会の行ないから」(ex opere operantis Ecclesiae)生ずるのである。

<信仰心の新しい理解>

28 尊敬する兄弟の皆さん、わたしはこれに関連して、「客観的」信仰心と呼ばれているキリスト教的信仰心の新しい理論に、皆さんの注意を向けてほしいと思う。この理論は、キリストのからだの神秘や、恩恵の真の聖化の働きや、秘跡と感謝の奉献〔ミサ〕の神的な〔533〕効果を明らかに示すものであるが、同時に、いわゆる「主体的」信仰心または「個人的」信仰心を減少させ、あるいはまったく排除することを目ざしているようにも思われる。

<典礼祭儀のもつ客観的な力>

29 確かに、典礼祭儀において、特に祭壇上の荘厳な奉献〔ミサ〕において、われわれのあがないのわざが継続され、その実りがわれわれに与えられる。キリストは、秘跡と自己の奉献によってわれわれの救いのために日々働き、人類を清め、神にささげておられる。したがって、〔秘跡とキリストの自己奉献は〕われわれの魂を神であるイエズス・キリストの生命に真に参与させうる、いわば「客観的」な力を有している。それらの中に、枝体の信仰心をかしらの信仰心と結合させ、いわば全共同体の行為にまで高める効果が内在しているのは、われわれの力によるものではなく、神の力によるものである。このような深い推論から、ある人々は、すべてのキリスト教的な信仰心は、キリストのからだの神秘のうちに、いわゆる「個人的」または「主体的」な関連なしに存立していると結論し、教会の祭礼と密接には関係のない、公的な礼拝以外に行なわれる他の宗教行為は無視されるべきであると思い込んでいる。

30 右に述べた原則自身は確かに非常にすぐれたものであるが、二種の信仰心に関するこの結論は、まったく誤謬であり、人を欺くもの、最も有害なものであることを、皆さんに知ってもらいたい。

<主体的な態度の必要性>

31 秘跡と祭壇上の奉献〔ミサ〕とは、神であるかしらの恩恵を神秘体の枝体に伝え、わかち与えるキリスト自身の行為であるから、確かに そのうちに内在する力を持っている。しかし、それが ふさわしい効果を持つためには、われわれの魂が正しい状態になることが絶対に必要である。それゆえ使徒パウロは聖体について、「人はみな、自分をよく調べてから、このパンを食べ、この杯を飲みなさい。」(一コリント11・28)と勧告している。そのた〔534〕め教会は、魂を清めるすべてのつとめ、特に四旬節中のそれを、意味深く簡潔に、「キリスト教〔という〕軍隊の守備隊」(ローマ・ミサ典礼書 灰の水曜日 灰の式の終わりの祈願)と呼んでいるのである。確かに、このつとめは、恩恵の励ましと助けによって、神であるかしらと一致することを望んでいる枝体の努力であり、活動である。こうして、アウグスチヌスが言うように、「かしらのうちに、恩恵の源が現われる」(De praedestinatione sanctorum 31)のである。しかしここで注意すべきことは、この枝体は生きたものであり、固有の理性と意志とを与えられ備えられていることである。だから、枝体は、この源にロをつけ、生命のかてを食し、消化し、このかての働きを妨げるものすべてを取り除くことが、必要不可欠である。したがって、救いのわざは、それ自身としてはわれわれの意志から独立したものであるが、永遠の救いに到達するためには、われわれの魂の内的な努力を必要としていることを、忘れてはならない。

§ 3 祭礼と個人的信心業

<信心業の意味>

32 もし、各個心の私的・内的な信仰心が、祭壇上の荘厳な奉献〔ミサ〕や秘跡を無視し、救いをもたらす力から人を遠ざけるならば、それは確かに非難すべき無意味なことである。しかし、教会の祭礼に厳密な意味では関係のない信心の勧めや行ないも、人間の活動を天の父に向け、人々を償いと、神への聖なる尊敬へと有効に鼓舞し、世の誘惑と罪から遠ざけ、険しい道を通じて首尾よく聖性の頂へと導くものである限り、それは実際最高の称賛に値するばかりでなく、必要なものでもある。なぜなら、それは霊的生活の危険を発見させ、神の力を受けるよう励まし、イエズス・キリストへの奉仕のために、われわれ自身とそのすべてをささげる活発な努力を強めるからである。

<黙 想>

天使的博士〔トマス・アキナス〕が「献身」(devotio)と名づけた、真の意味での本来の信仰心とは、敬神徳の主要な行ないであって、「人間の活動を正しく秩序づけ、しっかりと神に向ける。それによって人は神への礼拝に関係あるすべてのことのために自分を自由に自発的にささげるのである。」(聖トマス神学大全Ⅱ ・Ⅱ ・82・1)この行ないを養い、励まし、強め、それがより完全な生活へと鼓舞するためには、超自然的な事がらを黙想し、霊的な修〔535〕行を行なうことが必要である。キリスト教の信仰を、ふさわしい方法で実行するためには、意志を全能の神にささげ、そのささげた意志の力によって、他の精神的機能を支配することが必要である。しかしあらゆる意志の行為は理性の活動を前提としているのであるから、奉献によって永遠の神に自己をささげようと望み、そう決心する前に、その宗教行為の前提となっている事実や理由を認識することが絶対必要である。たとえば、人間の究極目的、神の尊敬の崇高さ、創造主に対する義務、神がわれわれを豊かにしようと与えてくださる尽きない愛の宝、定められた目的に到達するために超自然の恩恵が必要であること、ひとりひとりが、からだの枝体のように、かしらイエズス・キリストと結ばれるよう神の摂理によって決められた特別の道などを知らなくてはならない。魂は時々悪い情念によって乱されるものであって、必ずしも愛の動機によって動かされるとは限らないから、神の正義を熟慮し黙想して有益な恐れをいだき、それによってキリスト教的な謙遜、償い、および生活態度の改善へと導かれることばまったくふさわしいことである。

<キリストとの一致へ>

33 しかし これらすべては、むなしい追憶や実のない思案に陥ってはならない。むしろ五感とその能力をカトリックの真理に照らされた心と理性に従わせるよう、それを行動的なものにしなければならない。黙想は、罪を償い、魂を清め、日々より親密にキリスとと結ばれ、いっそうキリストに似たものとなり、神の霊と必要な神の力をキリストからくむための励みとなり、そして、人を導き、常に燃え立たせて、生活を改め、義務を忠実に遂行し、熱心に宗教実践を果たし、熱烈に徳を高めるために、益あるものとならなければならない。「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものです。」(一コリント3・23参照)した〔536〕がって、神であるかしらから注ぎ込まれる生命と力とによって、心をこめてすべてを神の栄光にささげようと望むのなら、すべてを正しく「神中心的」に整えなければならない。「兄弟の皆さん、わたしたちは、キリストの血によって、はばかることなく聖所にはいることができます。キリストはその肉体である幕を通して新しい生きた道を開いてくださったのです。われわれには神の家を治める大祭司がおられるのです。だから心から悪を除き、からだを清い水で洗い、真心と完全な信仰とをもって聖所に近づこうではありませんか。……宣言した希望にとどまり、愛と善行を励まし合いましょう。」(ヘブライ10・19〜24)

<教会の働き>

34 ここから、イエズス・キリストの神秘体の枝体の調和のある均勢が生ずる。教会は、カトリックの信仰を教え、キリストの教えに対する従順を勧めて、最も祭司的な活動、すなわち人を聖化する活動への道を整え準備する。同様に教会は、神である救い主の生活をより深く黙想させ、信仰の神秘をより高く認識させて、われわれが天のかてを受け、強められ養なわれてキリストによって完全な生活へと進むことができるよう導く。教会の奉仕者ばかりでなく、キリスト信者ひとりひとりがこのようにイエズス・キリストの霊に満たされ、その活動によって、神の子と呼ばれる者皆が、定められた目的により容易に達することができるよう、個人の生活、家庭、社会、経済、政治の世界の活動にさえも、キリストの霊を浸透させようと努力している。

<祭礼に対する信心業の意味>

35 したがって、キリスト者の個人的な信心業と、魂の清めへ導くこのような宗教的熱意は、祭壇上の荘厳な奉献〔ミサ〕によりよく参加し、秘跡をより豊かに受け、神への祭儀を祝うよう力を与えて、祈りやキリスト教的節制への努力を励まし、神の恩恵の招きにただちに答え、救い主の徳に日々完全にならうよう力づける。〔典13・3参照〕これは単に自分の利〔537〕益のためだけでなく、教会全体のためでもある。教会の中で行なわれるあらゆる善は、かしらから生じ、全枝体に注いで力を与えるものだからである。

<祭礼と個人の信仰心とは矛盾しない>

36 それゆえ、霊的生活において、永遠の救いのために魂に恩恵を注ぎ込む神の働きと、神のたまものを空しくしない人間の自由な協力の間には、何の矛盾も対立もない(二コリント6・1参照)。「行なわれた〔秘跡自体の〕行ないから」(ex opere operato)生じる、秘跡の外的な儀式の効果と、秘跡を授けまたは受ける者の得た、「行為者の行ないから」(ex opere operantis)生じる効果との間にも何の矛盾もない。公的な祈りと個人的な祈りの間にも、正しい活動的生活と天上のことを観想する生活の間にも、修道生活と典礼的信仰心の間にも、さらには、教会位階の裁治権、教導権と、神への奉仕のつとめとして執行される司祭的権能との間にも一切矛盾はない。

<祭礼の優位>

37 重大な理由から、教会は、祭壇の役務上の奉仕者〔司祭〕と修道者が、定期的に、深い黙想、熱心な自己の究明や他の霊的なつとめを行なうよう義務づけている(教会法125・126・565・571・595・1367)。司祭と修道者は、ささげものを奉献し神をふさわしく賛美する典礼行為のために定められたものだからである。確かに、イエズス・キリストの花嫁の公的な祈りとしての典礼の祈りは、個人的な祈りよりも高い価値がある。〔典13・3参照〕しかし、この高い価値とは、この二種の祈りの間に、何らかの対立や矛盾を意味するものではない。両方とも同じ一つの霊によって鼓舞されるのであって、「キリストがすべてのすべてとなり」(コロサイ3・11)、キリストが わたしたちのうちに形づくられるまで(ガラテヤ4・19参照)同じ目的に向かって合流して行くのである。

第三章 祭礼と位階制度

〔538〕38 教会の祭礼をよりよく、より深く理解するためには、同じく重要な別の面を考えてみなければならない。

§ 1 司祭が祭礼をつかさどる

<位階制度の存在理由>

39 教会は一つの共同体として、固有の権威と位階制度を必要とする。キリストの神秘体のすべての枝体が、同じ宝を共有し、同じ目的に向かっているとしても、全員が同じ権能にあずかり、同じ行為ができるわけではない。それは、神である救い主が、自分の王国を、いわば天上の位階にならって、神聖な秩序のもとに永続させ、不動の基礎を土台とするよう望まれたからである。

<司祭職の起源と任務>

40 司祭的権能は、使徒、および使徒とその後継者から正当に按手を受けた人々にだけ与えられる。この権能によって、自分にゆだねられた民に対しては、イエズス・キリストの代理者となり、神に対しては自分の民を代表する。この司祭職は、遺産や血統によって受け継がれるものでもなく、キリスト者の共同体から生まれるものでも、民から任命されるものでもない。教会の奉仕者〔司祭〕は、民を代表して神の前に立つ前に、まず神である救い主からつかわされたものである。イエズス・キリストはキリスト者を枝体とするからだの かしらであるから、司祭はゆだねられた民に対して神の代理者である。司祭に与えられたこの権能は、人間的なものではなく、本質的に超自然的なものであり、神に由来するものである。「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもあなたがたをつかわす。」(ヨハネ20・21)「あなたがたに聞く者は、わたしに聞くものである。」(ルカ10・16)「全世界に行き、全被造者に福音をのべ伝えよ。信じて洗礼を受ける者は救われる。」(マルコ16・15−16)

<司祭職の伝達>

41 したがって、可見的で外的な〔形をとった〕イエズス・キリストの司祭職は、教会の中で、普遍的、一般的、不特定的に伝えられるのではなく、七つの秘跡の一つである叙階によ〔539〕る霊的な誕生として、選ばれた人々に与えられる。叙階の秘跡は、司祭の特別な生活条件と役務に固有な恵みを与えるばかりでなく、教会の奉仕者を祭司イエズス・キリストと同じ姿にあずからせ、この宗教行為を正当に行なう資格を与える消えない「刻印」を押す。この宗教行為は、人を清めるだけでなく、これによって神から与えられた規準と規定にかなう栄光が神にささげられる。

<司祭の権能>

42 洗礼が、すべてのキリスト者をキリスト者たらしめ、まだ清めの水によって洗われていない人々、つまりまだキリストの枝体でない人々から区別すると同じように、叙階の秘跡は、司祭たちを、このカリスマが与えられていない他のすべてのキリスト信者から区別する。〔信徒は、司祭としてのカリスマを受けていないが、信徒独白のカリスマが与えられている。教12・2参照〕天からの力を受けて召された者だけが、神聖な役務につくことができる。この役務によって、司祭は、祭壇に任ぜられたもの、いわば、天からの超自然的生命をイエズス・キリストの神秘体に分配する神の道具となる。そのうえ、すでに述べたように、司祭だけが、祭司イエズス・キリストと同じ姿にあずからせる消えない刻印を押されている。司祭の手だけが「主イエズス・キリストの名によって何を祝しても祝せられ、何を聖別しても聖別されるよう」(ローマ・司教典礼書 司祭の叙階 手の塗油)聖別されている。だから、キリストのうちに生きようと望む人はだれでも、司祭のもとにはせ行きなさい。司祭からこそ、慰めと霊的生活のためのかてとを得ることができる。司祭からこそ、罪への逸脱と堕落からいやされ、強められて、立ち上るための救いの薬を受けることができる。さらには、司祭によってこそ、結婚や家庭のきずなが祝福され、死すべき人生の最後の息が、永遠の幸福の入口へと導かれるのである。

<祭礼は教会位階のもとにある>

43 さて教会の祭礼は、第一に司祭によって、教会の名のもとに行なわれるものであるから、その構成、規則、形態は当然教会の権威のもとにある。それは、キリスト教の礼拝の本質に由来するとともに、歴史的な証明からも明らかである。

§ 2 祭礼は教会の信仰のあかし

<祭礼と教義>

〔540〕44 教会位階のもつこの議論の余地のない権利を保証するもう一つの理由は、祭礼が、教会からまったく確かなものとされている主要な教義と密接な関係を持っていることである。したがって、神によって啓示された真理の純粋性を守るために、祭礼は教会の最高の教導権の発したカトリックの信仰の原則と一致を保たなければならない。

<祭礼は信仰の規準ではない>

45 尊敬する兄弟の皆さん、これに関係してわたしが以下述べることについて、皆さんによく知ってもらいたい。教会の祭礼の中に、信仰によって保たれるべき真理のいわば識別手段があるという考えは誤りであり、偽りである。確かに、ある教義が典礼行為によって信仰心や聖性の実を結ぶという意味ならば教会から肯定されるべきであるが、それ以外の意味で言われるなら否定されなければならない。この意味で「祈りの規則は信仰の規則」(Lex orandi,lex credendi)と言われているのである。

<祭礼は信仰告白である>

46 しかし教会はそのように教えたり勧めたりするものではない。アウグスチヌスが短く的確に述べたように、教会が至高至善の神にささげる礼拝は、カトリックの信仰の絶えざる告白であり〔啓8・1参照〕、希望と愛の実行である。「信仰と希望と愛によって神を礼拝しなければならない」のである(Enchiridion c.3)。祭礼においては、神秘を祝い、奉献を行ない、秘跡を授与するばかりでなく、キリスト者のしるしであり、いわば合ことばである「信経」を唱え、歌い、また他の文書や、特に聖霊の霊感のもとに書かれた聖書を朗読することによって、カトリックの信仰を公に明白に告白する。したがって、祭礼全休は、教会の信仰を公に証明する限りにおいて、カトリックの信仰を含んでいる。

<祭礼は信仰告白として教義の証明になりうる>

47 それゆえ、ある真理を神から与えられたものと定義する場合にはいつでも、教皇と公会議は、いわゆる「神学的諸源泉」からくみ取るにあたって、その証明をこの教会の教え〔としての祭礼〕から引き出すことも少なくなかった。たとえば、前任者ピオ九世がおと〔541〕めマリアの無原罪の御やどりを教義決定したときもそのようにされた。これと同じように、ある真理について疑いや論争が起こったときにはいつでも、教会や教父たちは、昔から伝えられてきている尊敬すべき祭式から光を求めることを忘れなかった。だから、「祈りの規則から、信仰の規則を作れ」 (Legem credendi lexstatuat supplicandi)という有名な尊重すべき原則がある(De gratia Dei《Indiculus》)。したがって、祭礼は、絶対的なものとして、かつみずからの力によって、カトリックの信仰を指定したり制定したりすることはないが、祭礼は、教会の最高教導職のもとにある啓示された真理を告白するものであるから、キリスト教の教義のある特定の点を解明する重要な証明と確証を提供することができる。信仰と祭礼との関係を一般的絶対的に明らかにしたいならば、次のように述べるのが正しく有益であろう。「祈りの規則を、信仰の規則から作れ」(Lex credendi legem statuat supplicandi)。まったく同じことが他の対神徳についても適用される。「信仰、希望、愛をもってわれわれは絶えず祈る」のである。(聖アウグスチヌス 書簡130「プロバムヘ」18)

第四章 祭礼の発展

§ 1 祭礼は発展する

<教会は祭礼を発展させてきた>

48 教会位階は、教会の祭礼に関する事がらについて、常にその権利を行使してきた。神への礼拝を整え、規定を作り、神の栄光とキリスト者の益のために、常に新たな偉観と美によって豊かにしてきた。また、祭壇上の感謝の奉献と秘跡の本質を注意深く安全に維持しつつ、適当でないものを変え、イエズス・キリストと聖なる三位一体のよりおおいなる栄光と、キリスト者を教化し有益に鼓舞するために適当と思われるものをためらわず付け加えてきた。(憲章Divini cultus一九二八年十二月二〇日 参照)〔典21および23〕

<祭礼の発展は教会の生命力のあかしである>

49 教会の祭礼には人間的要素と神的要素とがある。後者は神である救い主が定めたものであるから人間は絶対にそれを変えてはならないが、前者は、教会位階が聖霊の助けのもとに〔542〕承認するならば、時代や事情や魂の必要に応じて、種々に変更することができる。こうして、東方でも西方でも祭式は驚くべき多様性を示している。初期のころにはわずかな形跡しかなかったいろいろな宗教上の慣習や信心業がその後しだいに進歩発展してきた。また、時とともに行なわれなくなった信心行事が新しい時代とともに再興し、復興する例もときどきある。これらすべては、イエズス・キリストの傷なき花嫁の幾世紀にわたって続いている生命力のあかしであり、教会の信仰、教会にゆだねられた民の信仰、そして教会の尽きることのない愛を告げるために、あらゆる時代に、神である花婿と交わされた ことばの雄弁さを物語っている。さらに、それは、教会が信者のうちに「キリストの心」を呼び起こし、日々それを増大させて行く賢明な教育と訓練を示している。

§ 2 発展の要因

50 教会の長い光栄ある歴史のうちに祭礼が進歩発展を遂げてきたことには、少なからぬ要因がある。

<1教義の発展>

51 たとえば、みことばの受肉、秘跡であり奉献である感謝の祭儀(Eucharistia)、神の母おとめマリアなどのカトリックの教義を、より確かに、より明らかに認識するように、新しい祭式の形態が導入された。それによって、典礼行為は、教会の教導職の宣言からより明く輝き出した光を、より完全に、よりふさわしく描き出し、それをキリスト者の心と魂にもたらすことができるよう、いわばそれを反映しているのである。

<2秘跡の発展>

52 教会の秘跡を授ける規律の絶えざる発展、たとえば告解の秘跡の施行、洗礼志顔者研修制度とその後代における廃止、ラテン教会における一つの形態だけによる聖体拝領などす〔543〕べては、疑いもなく、最古の祭式を時代とともに変化させ、新しく施行された規律によりふさわしい新しい祭式を、しだいに採用させた。〔ちょうどここにあげられた秘跡の儀式は、第二バチカン公会議後、さらに発展しっつある。〕

<3信心業の発展>

53 これらの発展や変化は、祭礼とは直接に関係のない信仰心の発露やそこから生まれる行ないに負うところも少なくない。神の驚くべき摂理によって、この信心業は、次々と起こり、人々の間に広まった。たとえば、日々進歩しより熱心になって行く、聖休に対する礼拝、救い主の苦しい受難、至聖なるイエズスの聖心、神の母であるおとめとその夫〔ヨセフ〕に対する信心などである。

<4信心行事の発展>

54 さらに状況に応じて、信仰心を表わすために公に行なわれる殉教者の墓への巡礼や、同じく信仰心を表わすための特別な断食、さらに少なからぬ教皇もみずからしばしば参加される、痛悔を表わすために永遠の都〔ローマ〕で祝われる指定聖堂への巡礼も、このために貢献してきた。

<5芸術の進歩>

55 また容易に知られるように、建築、絵画、音楽などの芸術の進歩も、祭礼の外的要素を確立し、さまざまな形態を形づくるのに非常に有効であった。

§ 3 教会位階の権威

<礼部聖省の設立>

56 教会は、神への礼拝の聖性を守るために、祭礼に関する事がらについてのこの同じ権利〔48参照〕を、信者個人や部分教会が軽々しく無分別に取り入れた悪習に対して行使してきた。特に十六世紀にはそのような慣習や習慣が非常に流行し、個人的に始められた習慣が、信仰と信仰心の純粋さを傷つけ、異端者の利益となり、異端者の誤謬を広める危険がみられるようになったとき、先任者のシクストゥス五世は、教会の正しい祭式を守り、あらゆる不純物の混入を防ぐために、一五八八年礼部聖省を設立された(憲章Immensa一五八八年一月二一日)。この聖省は今もなお、祭礼に関するすべてのことを注意深く規定し監督する任務をもっている(教会法253)。〔一九六九年、パウロ六世は礼部聖省の組織を改め、典礼聖省として新たに発足させた。〕

<典礼に対する教皇の権能>

〔544〕57 したがって、神への礼拝を行なう形式を承認し、規定し、新しい祭式を取り入れ、認可し、変更が必要だと認めるものを変更するのは、教皇ひとりの権限である(教会法1257)。〔典22・§ 1〕一方、司教は、神への礼拝に関する教会法の規定が正確に守られているかどうかを注意深く監視する権利と義務がある(教会法1261)。〔トリエントの公会議によって教皇に保留されていた司教の典礼に関する権限は、第二バチカン公会議によって、地域的な司教協議会に与えられた。典22・§ 2参照〕たとえ教役者であっても、キリスト者の共同体の信仰生活、すなわちイエズス・キリストの祭司職の行使である神への礼拝、至聖なる三位一体、受肉したみことば、そのとうとい母、そして天にある他の聖人たちへの尊敬など、人間の救いにかかわる聖なる尊い事がらを、個人的判断によって扱うことは許されない。〔典22・§ 3〕同じ理由によって、教会の規則や、神秘体の秩序、一致、調和、また少なからずカトリックの信仰の純粋性と関係のある外的行為について、個人は何の資格も持っていない。

<個人のかっては許されない>

58 確かに、教会は生きた有機体であるから、教義の純粋性によって安全に守られながら、祭礼に関しても常に成長発展し、時代の要請や必要に適応してきた。しかし、意識的に、新しい祭礼の習慣を取り入れたり、現行の規定や典礼注規(rubrica)にもはや合わない過去の祭式を復興させようとする人々の無謀や無思慮はきびしく非難されるべきである。尊敬する兄弟の皆さん、このようなことが、ささいな点だけでなく、最も重大な点においても生じているということは、わたしの大いに遺憾とするところである。実際、荘厳な感謝の奉献〔545〕〔ミサ〕において国語を使用したり〔典36・§ 2参照〕、重大な理由から特定の日を布告し定めてある祝日を移したり、現代に適さない、合わないという口実のもとに、公式の祈祷書から旧約聖書の引用をかってに削除したりする者がある。

<国語化は使徒座の許可による>

59 ラテン語の使用は、教会の大部分の地方に広まり、教会の一致の輝かしいすばらしいしるしであり、真の教えの腐敗に対する効果的な防壁である。もちろん、多くの祭式において国語を用いることは信者にとって非常に有益なことである〔典63参照〕が、それを許可するのは使徒座だけである。したがって、その同意や承諾なしにそのようなことを行なってはならない。すでに述べたように、典礼の秩序は、教皇の決定と意志にまったく従属しているからである。〔典礼における国語の併用は、典礼憲章によって始めてその道が開かれたが、その後急速に進展し、現在ではすべての秘跡の儀式にその可能性が認められている。〕

<新しい祭式にも価値がある>

60 同じょうに、古代の祭式や儀式をみな復興しようとする努力についても、この原則によって判断される。確かに、古代の典礼は尊敬に値するものであるが、古代の習慣を、ただそれが古代の味わいを反映しているというだけで、それ自身として、または新しい時代の事情にとって、よりふさわしいよりよいものとして存続すべきであるということにはならない。新しい典礼祭儀も、世の終わりまで教会を助けておられる(マタイ28・20参照)聖霊のいぶきを受けてできたものであって、尊敬と遵守に値するものである。また新しい祭式も、キリストの光栄ある花嫁が人々を聖性へと励まし導くものであって、同様の価値を持っている。

<すべてを古代にもどしても意味がない>

61 心と魂によって、教会の祭礼の起源にまでさかのぼることは、賢明なこと、ほむべきことである。祭礼の研究、特にその起源の研究によって、祝日の意味や、用いられる式文の意味、教会の祝祭の意味を、より深くより正確に知ることができる。これに反して、何が何でもすべてを古代の状況にもどそうとするのは、賢明でもないし、称賛すべきことでもない。たとえば、祭壇のもとの形を復興しようとしてテーブルをこれにかえようとする者、〔新しいミサ典礼書の総則には、祭壇は主の食卓でもあることが認められている。〕祭〔546〕服にはけっして黒色を用いないという人々、〔新しいミサ典礼書の総則によって、現在では葬儀ミサにも黒色の祭服を用いないことができる」聖画や聖像を聖堂から取り除こうという人々、〔187番参照〕救い主がお受けになった激しい苦難を表わさないような十字架を要求する人々、そして使徒座から与えられた規定に合っているのに混声音楽を非難したり否定したりする人々は、正しい道からはずれている。

<教義や教会法と同じく祭礼も進歩する>

62 賢明なカトリック者ならば、昔の公会議で採用された古い形式にかえろうと企て、教会が神の霊に導かれ助けられて実り豊かなものとして後世に確立し、守るべきものと布告したキリスト教の教義の表現を拒否するようなことはないであろう。同様に、賢明なカトリック者ならば、最も古い教会法典の源泉にみられる規定にもどるために、現行の法規を無視することはないであろう。祭礼の問題についても、古い祭式や習慣にたちもどろうと望み、変化しつつある状況に応じて神の摂理によって取り入れられた新しいものを拒否する人は、明らかに、賢明で正しい熱意に動かされているのではない。

<ピストアの教会会議>

63 このような思想や態度は、非合法なピストアの教会会議があおり立てた不健全な古代主義を復活させようとするものであり、またそれは、この会議を不法なものとし、人々の魂に大きな害を与えた種々の誤謬を復興しょうとするものである。神である創立者からゆだねられた「信仰の遺産」の常に忠実な守護者である教会は、当然のことながらそれを否定した(ピオ六世 憲章Auctorem fidei一七九四年八月二八日、31−34、39、62、66、69−74)。このような計画や先ばしりは、祭礼が、神の子とされた子らを、天の父に向かって救いの道を歩ませる聖性の効果を、減らし弱めるのである。

<教皇と司教の責任>

64 したがって、すべての事がらは、教会の司牧位階としかるべく一致して行なわれなければならない。だれも自分かってな規則を作ったり、それを自分の意志によって他の人に課し〔547〕たりするような僭越なことをしてはならない。神である救い主がすべての群れを牧するよう託した(ヨハネ21・15〜17参照)聖ペトロの後継者である教皇と、そしてまた、使徒座に従いつつ、「神の教会を治めるよう聖霊によって定められた」(使20・28参照)司教だけが、キリストの民を牧する権利と義務を有している。尊敬する兄弟の皆さん、だからあなたがたが自分の権威を守る時には‥‥もし必要なら健全な厳格さをもってしても‥‥、自分の役務上の義務を果たすだけでなく、教会の創立者の意向を尊重することにもなるのである。

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