第二部 感謝の祭儀について

第一章 感謝の祭儀の本質

<感謝の祭儀はキリスト教の中心>

65 キリスト教の頂点であり、中心ともいうべきものは神聖な感謝の神秘である。大祭司キリストはかつて感謝の祭儀(Eucharistia)を制定し、これが教会の中でキリストの奉仕者によって永遠に更新されるように命じられた。尊敬する兄弟の皆さん、これは教会の祭礼の中で第一に重要なものであるから、しばらくこの問題について考え、この非常に重大な問題に注意を向けようではないか。

§ 1 キリストの奉献と感謝の奉献

<感謝の祭儀はキリストの自己奉献の継続>

66 「メルキセデクにかたどった永遠の祭司」(詩110(109)・4)である主キリストは、「この世にある自分の人々を愛された」(ヨハネ13・1)ので、「渡される夜、最後の晩餐において、最愛の花嫁である教会に、人間の本性が要求するところに応じて見えるささげものを残そうとされた。それによって、十字架上でただ一度でなし遂げられた流血のいけにえが表わされ、その記念が世の終わりまで保たれ、またその救いの力が、われわれの日々犯す罪のゆるしのために分け与えられる。‥‥キリストはパンとぶどう酒の形態のもとに、自分のからだと血を父である神にささげ、使徒たちが同じしるしのもとにそれを受けるようゆ〔548〕だねられた。その時キリストは使徒を新約の司祭と定め、使徒と司祭職の後継者に、それをささげよう命じられた。」(トリエント公会議第22総会第1章)

<感謝の祭儀は真の奉献である>

67 したがってこの祭壇上の荘厳な奉献は、イエズス・キリストの苦しみと死の単なる追憶ではなく、真の固有の奉献であり、大祭司〔キリスト〕は、この無血のいけにえによって、かって十字架上で行なわれたのと同じように、自分を最もふさわしいささげものとして、永遠の父にささげられる。「それはささげ方が違うだけで唯一の同じささげものであり、あの時十字架上で自分をささげられたかたと同じかたが今司祭職のつとめを通してささげるのである。」(同前第2章)

<ささげる祭司はキリスト>

68 したがって、それは同じ祭司イエズス・キリストであり、奉仕者はその代理をしているだけである。実に、奉仕者は、司祭職への聖別を受けることによって大祭司に似たものとなり、キリスト自身の力と名により行動できるようになる(聖トマス神学大全Ⅲ ・22・4)。奉仕者は、その司祭的行為によって、いわばキリストに「舌を貸し、手を与える」(ヨハネ・クリゾストム ヨハネ福音書注解86・4)のである。

<ささげものもキリスト>

69 ささげものも同じく救い主自身であり、実際にからだと血とをもって人間性に従ってささげられる。しかし、キリストが奉献する形がちがっている。十字架上においては、キリストはご自身とその苦しみをまったく神にささげ、自由意志によって受けた流血の死によってこのささげものを奉献された。しかし祭壇においては、人性はすでに栄光化され、「死はキリストに対してもはや何の力も持っていない」(ローマ6・9)ので、血を流すことはありえない。しかし、神の賢明な配慮によって、救い主のいけにえは、死を象徴する外的なしるしによって、驚くべき方法で示される。パンがキリストのからだに、ぶどう酒がその血に「実体変化」(transsubstantiatio)することによって、キリストのからだも血も実在する。キリストのおられる聖体の形態は、流血によるからだと血の分離を象徴している。〔549〕このようにして、カルヴァリオで現実に起こったキリストの死の記念は、祭壇で奉献されるたびごとにくり返して示される。しるしが〔パンとぶどう酒に〕分れていることは、キリスト・イエズスが、いけにえの状態にあることを意味し、表現しているのである。〔典礼憲章では、感謝の祭儀の本質を、キリストの十字架上の死ばかりでなく、主が復活へと過ぎ越された神秘を記念するキリスト者の共同祭儀と見ている。典47−48参照〕

§ 2 感謝の祭儀の目的

<1賛 美>

70 さらにその目的もみな同一である。第一は、天の父に栄光を帰すことである。イエズス・キリストは、生まれてから死に至るまで、神の栄光を熱烈に求め、十字架からは、血のいけにえが、芳しいかおりを放ちながら天に上って行った。この賛美の叫びが絶えず続くようにと、感謝の奉献において、枝体は神であるかしらと一致し、かしらとともに、天使・大天使と声を合わせて神に絶え間なく賛美の歌を歌い(ローマ・ミサ典礼書 叙唱 参照)、全能の〔神である〕父に、すべての誉れと栄光をささげるのである(同前典文〔第一奉献文〕参照)。

<2感謝>

71 第二の目的は神にふさわしい感謝をささげることである。神である救い主は、永遠の父の最愛の子であり、父の限りない愛を知っておられるので、かれだけが神にふさわしい感謝の歌をささげることができた。これこそ、最後の晩餐で「感謝をささげられた」(マルコ14・23)とき、意図し望まれたことであった。十字架につけられても感謝をやめず、祭壇上の荘厳な奉献においても感謝を続けられる。それゆえこの奉献は、エウカリスチア(Eucharistia)、すなわち「感謝の祭儀」と呼ばれる。それは、「まことにとうといたいせつな務め」(ローマ・ミサ典礼書 叙唱)なのである。

<3償い>

72 第三の目的は、償い、なだめ、和解である。キリスト以外のだれも、全能の神に人類の罪に対する完全な償いを果たすことができなかったことは疑いもない。そのために十字架の上でいけにえになり、「わたしたちの罪のために、いや、わたしたちの罪だけではなく全世界の罪のためのあがない」(一ヨハネ2・2)としてささげられることを望まれた。祭壇上においても、われわれのあがないのために、永遠の滅びから救われ、選ばれた者の群れに加わる〔ローマ・ミサ典礼書 典文〕ことができるようにと、日々ご自分をささげられる。それはつかの間のいのちを生きているわれわれのためだけでなく、「キリストのうちに〔550〕いこうすべての人、信仰をもって わたしたちに先だち、安らかに眠る人々」(ローマ・ミサ典礼書 典文)のためにもささげられる。われわれは生きていても死んでしまっても、「キリストからだけは離れることがない」(聖アウグスチヌスDe Trinitate 13,19)。

<4願い>

73 第四の目的は懇願である。人間は、あの放蕩息子のように、天の父からいただいた全財産を使い果たしてしまい、極度の貧しさとみじめさに陥っている。しかしキリストは十字架の上から、「大声の叫びと涙をもって……祈りと懇願をささげ、その敬謙さによって聞き入れられたのです」(ヘブライ5・7)。祭壇の上においても、同じく有効な方法で、神への仲介者となり、すべての祝福と恵みに満されるよう〔ローマ・ミサ典礼書 典文 参照〕求めてくださるのである。

§ 3 完全であるが未完成なキリストの奉献

<十字架上の奏献の力は感謝の奉献を通して働く>

74 このように、トリエント公会議が、十字架のもつ救いの力は、感謝の奉献を通して働き、われわれが日々犯す罪を打ち砕くということを確信した理由を理解することができる(第22総会第1章参照)。

<十字架上の奉献の完全性>

75 諸国民の使徒〔パウロ〕は、十字架上の奉献の豊かな完全性と充溢性を述べるにあたって、キリストはただ一つのささげものによって、清められた人々を永遠にわたって完全にされた(ヘブライ10・14参照)と言っている。この奉献の価値(promerita)はまったく無限で広大なものであって、いかなる時代、いかなる所の人にもあまねく及ぶ。なぜなら、人となった神自身が、祭司となり、同時にいけにえとなるのであり、そのささげたものは永遠の父の意向にかないまったく完全なものだからであり、そして、キリストは人類のかしらとして死をお受けになったからである。「見よ、われらが買いとられたこの取り引きを。キリストは木にかけられた。見よ、何という価で買いとられたかを。……キリストは血を流された。その血で買いとられた。傷のない小羊の血で買いとられた。神のひとりの子の血で買いとられた。……買い手はキリスト、価は血、買った物は全世界である。」(聖アウグスチヌス 詩編注解147・16)

<恵みはすべての人に及ばなければならない>

76 しかしこの取り引きは、直接に完全な効果をもたらすのではない。キリストは、自分〔551〕自身を対価として世界を買い取られた後、なお人々の魂を現実に手に入れる必要がある。したがって、そのあがないと救いが、ひとりひとりのものとなり、世の終わりまで続くあらゆる時代のすべての人にまで至り、有効なものとなって、神に受け入れられるためには、各人がいのちをかけて十字架の奉献に触れ、そこから流れ出る価値を分け与えられる必要がある。いわば、キリストは、流した血を満たした、償いと救いのための池をカルヴアリオに、造られたと言うことができる。しかし、この池で浴し、罪の汚れを洗い流さない限り、清められ、救われることはないのである。

<ひとりひとりの協力の必要性>

77 したがって、罪びとひとりひとりが小羊の血によって清められるためには、キリスト信者の協力が必要である。なぜなら、一般的に言えば、確かにキリストは、その流血の死によって全人類を父と和解させたのであるが、すべての人が、特に秘跡と感謝の奉献によって十字架に近づき、十字架によって生み出した救いの実を得るように導かれることを望まれた。このひとりひとりの行動的参加によって、枝体はいっそう神であるかしらに似たものとなり、かしらから流れ出る救いが枝体に分け与えられる。このようにしてわたしたちは、「キリストとともに十字架につけられたのです。生きているのはもはやわたしではありません。わたしのうちにキリストが生きておられるのです。」(ガラテヤ2・19−20)という聖パウロのことばをくり返すことができる。わたしが かつて別の機会にじゆうぶん明らかに説明したように、キリスト・イエズスが、「十字架上でなくなられた時は、救いの限りない宝を教会に与えられたが、そこに教会の協力はなかった。しかし、この同じ宝の分配に際しては、この救いのわざが汚れない花嫁とともに行なわれるばかりでなく、教会の活動の中から いわばわき出ることをお望みになるのである。」(回章 ミステチ・コルポリス一九四三年六月二九日〔中央出版社回勅シリーズ6 東大教養学部カトリック研究会訳 67ページ〕)

<感謝の奉献を通じて十字架の救いに参加する>

78 祭壇上の荘厳な奉献は、神である救い主の十字架から生じた救いの恵みを信者に分け与える道具の中でもぬきん出てすぐれている。「この いけにえの記念が行なわれるたびに、われわれの救いのわざが行なわれる」(ローマ・ミサ典礼書聖霊降臨後第九主日 奉納祈願)〔552〕のである。しかしこれは、けして流血の奉献の尊厳をそこなうのではなく、トリエント公会議が強調したように(第22総会第2章および条項4参照)、その偉大さと必要性を示し、より明らかに表わすのである。日々ささげられることは、主イエズス・キリストの十字架のほかには救いがありえない(ガラテヤ6・14参照)ということを覚えさせ、栄光と感謝とをささげる賛歌が休みなく続くよう「日の出るところから…没するところまで、」(マラキ1・11)この奉献を続けるよう神が望んでおられることを思い起こさせる。神の正義にふれる罪を打ち砕くためには、絶えざる創造主の助けと、神である救い主の血が必要であるから、人は創造主に賛歌をささげる義務を負っている。

第二章 信徒の参加

§ 1 全信者が奉献する

<感謝の祭儀への参加は全信者の義務>

79 尊敬する兄弟の皆さん、感謝の奉献に参加することは、このうえなく重大な義務であり、大きな栄誉であることをすべてのキリスト信者に知っていただきたい。〔典14・1〕しかも、ただ慢然と無関心な心で参加したり、他のことに心をそらしたりするのではなく、「あなたがたの間では、キリスト・イエズスのような心構えを持ちなさい。」(フィリピ2・5)という使徒のことばにならって大祭司と最も親密に一致するほど熱心に行動的に参加しなければならない。キリストと一つになり、キリストを通してささげ、キリストとともに自己を奉献しなければならない。

<キリストとともに自己をささげる>

80 たしかにキリストは祭司である。しかしそれは自分のためではなくわれわれのための祭司である。キリストは全人類の名によって祈りと恭順の心を永遠の父にささげるからである。同様に、キリストはいけにえであるが、それはわれわれのためのいけにえであって、罪に傾いている人類のために自分を身代わりとしてくださったのである。「あなたがたの間では、キリスト・イエズスのような心構えを持ちなさい。」という使徒の勧めは、すべてのキリスト者が人力の及ぶ限り、神である救い主が自分をささげられたときのあの心構えを、自分の心に再現することを命じている。それは魂のへりくだり、神の最高のみいつに対する礼拝、賛美、感謝の心構えである。われわれは、いわばいけにえの状態に自分をおき、〔553〕〔教11・1〕福音の教えに従って自己を否定し、自由に自発的に罪を悔い改め、罪をきらいそれを償わなくてはならない。結局われわれは皆、キリストとともに十字架上で神秘的に死に、パウロと同じく「わたしはキリストとともに十字架につけられたのです。(ガラテヤ2・19)と言わなければならない。

§ 2 司祭固有の権能

<信徒には司祭の権能がない>

81 キリスト信者が感謝の奉献に参加すると言っても、信者が司祭の権能を有するという意味ではない。このことを、あなたがたの群れのひとりひとりにじゅうぶん明白に理解させることが必要不可欠である。

<共通祭司職と位階的司祭職の違い>

82 尊敬する兄弟の皆さん、今日、すでに断罪された誤謬(トリエント公会議第23回総会第4章)に近づいている人がいる。かれらは、新約時代においては、洗礼の泉によって清められたすべての人に共通な祭司職だけがあり、イエズス・キリストが最後の晩餐において同じことを行なうようにと使徒に与えた命令は、教会の全キリスト信者に直接向けられたものであって、後になって初めて位階的な司祭職がそこから起こったと主張している。そして、信者が真の祭司的権限を持っているのであるから、司祭はただ共同体からの委託によって行動するのであると主張する。このことから、かれらは、感謝の奉献を真の「共同祭儀」(concelebratio)とみなして、会衆の出席なしに私的に〔ミサを〕奉献するより、会衆とともに在席して「共同祭儀」をしたほうがはるかにすぐれていると考えている。〔ピオ十二世自身一九五六年にアシジで開かれた司牧典礼大会で、司祭大会などの場合のこの種の共同祭儀を認め、この考えを多少修正された。第二バチカン公会議は、共同執行を広く認めることによって、この間題を解決した。典57参照。〕

<司祭だけがキリストの代理者である>

83 このような陥りやすい誤謬が、イエズス・キリストの神秘体の中で司祭の持つ特別な地位に言及した際に述べた貞理に明白に反していることは言うまでもない。しかしここでは一点だけに注意を喚起しておきたい。司祭が会衆を代表して行動するのは、全体のかしらであり、全体のために自分をささげられる主イエズス・キリストの代理をしているからであり、〔教28・1〕したがって司祭は、キリストよりは低く会衆よりは高いキリストの奉仕者(聖ロベルトウス・ベラルミヌスDe Missa 2,4参照)として祭壇に近づく。他方、会衆は、〔554〕神である救い主の代理でもなく、自分と神との仲介者でもないので、司祭の権能を有していないのである。

§ 3 信徒も感謝の奉献に加わる

<信徒も奉献に参加する>

84 以上のことは信仰によって確かなことである。しかし同時に、キリスト信者もまた、異なった方法によって神のいけにえを奉献するということを忘れてはならない。

<教会の伝統のあかし>

85 このことは、わたしの前任の諸教皇や教会博士たちがすでにじゅうぶん明らかに述べているところである。世々記念すべきイノチェンチウス三世は、「司祭だけがささげるのではなく、すべての信者もささげるのである。特別な方法によって司祭の奉仕を通して行なわれることは、普遍的な方法によって信者の望みによって行なわれる。」(De sacro Altarismysterio 3,6)と言っている。聖ロベルトゥス・ベラルミヌスがこのことについて述べたいくつかのことばから、一つのことばを引用したい。「ささげものは、まず第一にキリストのペルソナにおいて奉献される。したがって聖変化の後に続く奉献は、キリストが奉献したささげものを、全教会がいわば同意し、同時にキリストとともにそれをささげることのあかしである。」(De Missa 1,27)

<祭式自体のあかし>

86 さらに感謝の奉献の祭式や祈りも、いけにえの奉献が司祭によって会衆とともに行なわれることを明らかに示している。奉仕者〔司祭〕は、パンとぶどう酒の奉納の後、会衆のほうに向かって明確に呼びかける。「兄弟の皆さん、わたしと皆さんとのささげものが全能の、神である父のみ前に受け入れられるよう祈りなさい。」(ローマ・ミサ典礼書ミサ通常式文〔文字通りの訳〕)そればかりでなく、神にいけにえを奉献する祈りは、ほとんど複数形であり、会衆も同じものをささげ、同じ尊い奉献に参加するものであることを一度ならず示している。たとえば、「わたしたちと……この賛美のいけにえを奉献し……。わたしたち……奉仕者と全家族……のこの奉献をこころよく受け入れ、……。わたしたち……奉仕者と聖なる民……も、……あなたの与えられたたまもののうちから、清く、とうとく、汚れのないいけにえを、栄光の神、あなたにささげます。」(ローマ・ミサ典礼書 典文〔第一奉献文〕)

<キリスト者全体がキリストの祭司職に参与する>

〔555〕87 キリスト信者が このような尊厳に高められていることは、驚くべきことではない。洗礼の沐浴によって、キリスト者は、全体として、祭司キリストのからだの一員となり、〔典14・1〕魂に いわば刻まれた「刻印」によって、神への礼拝に任じられ、各自の役割に応じて、キリスト自身の祭司職に参与しているのである。〔教10・2〕

§ 4 信徒の参加の意味

<「信者も奉献に参加する」という意味>

88 いつの時代においてもカトリック教会は、信仰に照らされた人間の理性によって、神に関する事がらをできるだけ深く理解しようと努力してきた。したがって、キリスト者が感謝の奉献〔ミサ〕の典文の中で自分もいけにえをささげると言われているのはどういう意味かということを、敬謙な感覚によって理解しようと努めるのはよいことである。そこでこの敬謙な欲求にこたえるために、この問題を手短かに明確に説明したい。

<自分の行動によって>

89 まず第一に、本質から縁の遠い理由がある。キリスト信者は、教会の祭式に出席する際に、しばしば司祭の祈りと、自分の祈りとを、交互に声を出して唱える。また、古代にはよく行なわれていたが、信者はキリストのからだと血になるべきパンとぶどう酒を祭壇の奉仕者にまで持って行くことがある。さらに、信者は、自分の意向のために神的ないけにえ〔ミサ〕をささげるよう司祭に依頼することがある。

<司祭を通して、司祭とともに>

90 しかし、すべてのキリスト者、特に祭壇のもとに参集したキリスト者がいけにえをささげると言われているのには、さらに深い理由がある。

91 この最も重要な問題について危険な誤りが起こらないように、「ささげる」という語の本来の意味を明確に定義しなくてはならない。無血の奉献によって、聖別のことばが述べられる時、キリストがいけにえの状態で祭壇上に現存されるものとなるが、これは司祭ひとりによって行なわれ、しかも司祭はキリストの代理として行なうのであってキリスト信者の代理としてではない。そして司祭は神であるいけにえを祭壇に供えることによって、神聖な三位一体の栄光と、全教会の益のためのささげものとして、神である父にそれを奉献する。従って、厳密な意味でキリスト信者が独自の方法で奉献に参加するのは、次の二点においてである。つまり信者は、第一に司祭の手を通して、第二にある意味で司祭とともに〔典48〕、〔556〕ささげものを奉献する。会衆も奉献に参加するのであるから、会衆の奉献自身も祭礼の礼拝に含まれるのである。

<司祭の手を通して>

92 キリスト信者が司祭の手を通してささげものを奉献するということは、祭壇の奉仕者〔司祭〕がかしらであるキリストの代理として、全枝体の名のもとにささげるということから理解できる。これが全教会はキリストを通してささげものを奉献すると言われる理由である。〔典礼憲章は「司祭の手を通して」という表現を信者の参加から見て不じゅうぶんなものとしている。典48参照。〕

<司祭とともに>

次に、会衆が司祭とともに奉献するといっても、教会の信者ひとりひとりが司祭と同じようにみずから目に見える典礼祭儀を行なうということではない。典礼祭儀はそのために神から召された奉仕者のみの使命である。会衆が司祭とともに奉献するというのは、むしろ賛美、懇願、償い、感謝をささげたいという会衆の望みを、司祭の望みすなわち内的な意向と一致させ、さらに大祭司〔キリスト〕のそれと一致させ、いけにえを奉献すること自身により、司祭の行なう外的な祭式を通して、これらの望みを父である神に示すからである。奉献を行なう外的な祭式は、その本性からいって、内的な礼拝を表わすものでなければならない。〔新約の〕新しいおきてによる奉献は、主たる奉献者キリスト、およびキリストとともに、キリストを通して、神秘体の全枝体が、神にふさわしい栄光と尊敬をささげる最高の崇拝を表わすものでなければならない。

§ 5 私的挙式のミサの価値

<私的挙式のミサを非難してはならない>

93 この教えが、特に最近熱心に進められた祭礼の研究によって解明されたことは、わたしの喜びとするところである。しかし同時に、教会の真の教えと一致しない真理の誇張や歪曲を大いに悲しまざるをえない。〔当同体的祭儀が私的挙式に優先すべきことは典27に明らかにされた。私的挙式のミサの問題については、目黒摩天雄「聖体祭儀の共同司式」カトリック神学第五巻一五四ページ(一九六六)に言及されている。〕

94 私的に、会衆の出席なしにささげられたミサをまったく非難し、本来のささげ方を逸脱していると言う人がいる。また、何人かの司祭が同時に複数の祭壇でいけにえをささげると、共同体を分裂させ、一致を危険にさらすから、そのようなことは許されないと主張する人も少なくない。〔一九六七年五月二五日に礼部聖者から発行された「聖体祭儀指針」17番では、むしろこの危険を認め、避けるよう注意している。〕 同様に、奉献が力と効果を持つためには、会衆の承認と同意が必要であるとさえ主張する人がいる。

<私的挙式のミサも社会的性格をもつ>

〔557〕95 このことについて、聖体の奉献の社会的性格に訴えることは誤りである。神である救い主が最後の晩餐で行なったことを司祭がくり返すたびに、奉献が真に完成される。この奉献は、いつ、どこでも、必然的に、かつその本質からして、社会的な性格を持つ。〔典27・2〕なぜなら、ささげる〔司祭〕は、キリストの名と、神である救い主をかしらとしていただくキリスト信者の名との両者の名によってそれを行なうのであり、神聖な全教会のため、生きる者死んだ者のために(ローマ・ミサ典礼書 典文)それを神にささげるからである。もちろんわたしはしばしば敬謙に〔ミサに〕出席することを望み勧める。しかし、キリスト信者が出席しているかいないかにかかわらず、ミサは確かにそのように行なわれる。なぜなら、教会の奉仕者〔司祭〕が行なうことには、会衆の同意が必要ないからである。

<なるべく私的にミサをささげないように>

96 さて以上述べてきたことから明らかなように、たとえ司祭が侍者なしにミサをささげたとしても、それはキリストと教会の名によってささげられたものであり、その効果、特に共同体的な効果を失うことはない。しかしわたしは、教会法八一三条に従って、司祭が、奉仕と応答をする奉仕者〔侍者〕なしに祭壇に上らないよう望み勧める。これは母なる教会が常に命じてきたことでもある。

§ 6 信者の自己奉献

<信者は自己を奉献しなくてはならない>

97 しかし、ミサにおいてキリスト信者が神であるいけにえを天の父にささげる奉献によってじゅうぶんな効果を得るためには、さらに必要なことがある。それは自分自身をささげものとして奉献しなければならないということである。

<常に自分を霊的ないけにえとしてささげなければならない>

98 この奉献は、単に祭礼による奉献だけに限らない。使徒のかしら〔ぺトロ〕が望んでいるように、わたしたちは生きた石としてキリストの上に建てられ、「聖なる祭司となって、イエズス・キリストを通して、神に喜ばれる霊的ないけにえをささげ」(一ペトロ2・5)なければならない。使徒パウロは、時代を超えたことばによってキリスト者を励ましている。「そういうわけで、自分自身を生きたいけにえとして神にささげるように勧めます。これ〔558〕が神に喜ばれる正しい礼拝なのです。」(ローマ12・1)キリスト信者が真に、「その信仰と真心を、あなたはご存じです。」(ローマ・ミサ典礼書 典文)と言えるほど典礼行為に熱心に参加するならば、必ず、ひとりひとりの信仰は愛によってより熱心になり、信仰心は強められ、燃え立つ。そうすれば、ひとりひとりが皆神の栄光のために身をささげ、ひどい苦しみを受けられたイエズス・キリストとできるだけ似たものとなるよう深く望み、大祭司とともに、大祭司を通して、自分を霊的なささげものとしてささげるようになるのである。〔教11・1〕

<典礼文からの教え>

99 司祭叙階の日に、司教が教会の名によって教会の奉仕者〔司祭〕に与える訓戒もこれと同じことを、教えている。「あなたがたのなすことを知り、行なうことにならえ。主の死の神秘を祝うときには、自分のからだを悪と欲に死ぬようにせよ。」(ローマ・司教典礼書 司祭の叙階)また典礼書の中には、祭礼に参加するために祭壇に近づくキリスト者にも、同じような訓戒が与えられている。「この祭壇の上では、無垢が尊ばれ、高慢が屠られ、怒りが滅ぼされ、不節制とあらゆる欲望が打ち倒され、きじばとの代りに愛が、若ばとの代りに無垢がささげられるように。」(同前祭壇聖別叙唱)祭壇を囲むとき、われわれは心を改めなければならない。あらゆる罪を取り除き、キリストを通じて超自然的生命を養うあらゆるものを注意深く保護し強め、そして自分をも、汚れのないいけにえとともに、永遠の父の意にかなうささげものとして奉献しなければならない。

<見えるしるしによって>

100 教会は祭礼の規定を通して、あらゆる手段を使い、できるだけふさわしい方法で、この神聖な目的に達するよう努力している。朗読、聖書の解説、その他奉仕者の行なう説教、一年の周期で示される諸神秘〔典礼暦〕のみならず、祭服や祭式やその外的な付属物もす〔559〕べてこの目的に役だっている。これらすべては、「かくも重大な奉献〔ミサ〕の尊厳を認識させ、信者の心が、敬謙と信仰心の目に見えるしるしを通じて、この奉献の中に隠れている高貴な事がらを観想するよう励ます」(トリエント公会議第22総会第5章参照)ことを目ざしている。

§ 7 キリストと一致して

<キリストと一致して自己を奉献する>

101 このように祭礼のあらゆる要素は、われわれの魂が、十字架の神秘を通して神である救い主の姿を表わすように構成されている。諸国民の使徒〔パウロ〕のことばにあるように、「わたしはキリストとともに十字架につけられたのです。生きているのはもはやわたしではありません。わたしのうちにキリストが生きておられるのです。」(ガラテヤ2・19−20)このように、われわれは永遠の父のより大いなる栄光のために、キリストと一致していわば一つのささげものとなるのである。

<感謝の祭儀はキリストのからだ全体の奉献>

102 したがって、感謝の奉献において神のいけにえをささげるキリスト者は、心を改め、心を高めなければならない。聖アウグスチヌスが書いているように、主の食卓に備えてあるものは、わたしたちの神秘(説教272参照)、すなわち主キリスト自身であって、わたしたちがキリストのからだであり、(一コリント12・27参照)、からだの枝体である(エフエソ5・30参照)その結合のかしら、象徴である。聖ロベルトゥス・ベラルミヌスは、ヒッポの博士〔アウグスチヌス〕の説に従って、祭壇上の奉献〔ミサ〕は、キリストの神秘体全体、すなわち救われた者の共同体が、大祭司キリストを通じてささげる奉献全体を意味すると言っている(聖ロベルトゥス・ベラルミヌスDe Missa 2,3参照)。このように、われわれのために苦しまれたかしらと一致して、みなが自分自身を永遠の父にささげることは、最もふさわしく正しいことである。アウグスチヌスが言うように、祭壇の秘跡〔ミサ〕においては、教会のささげるものによって、教会自身もささげられるということが、教会に示される(神国論10・6参照)のである。

<大祭司キリストとの一致>

103 だからキリスト信者は洗礼の聖なる沐浴によってどれほどの品位に高められたか〔典14・1〕を忘れず、ただ単に一般的に、キリストの枝体、教会の子となって感謝の奉献に参加するだけで満足してはならない。それにとどまることなく、祭礼の精神に従って、大祭司と地上におけるその奉仕と自発的に緊密に一致し、ことにささげるものが聖別されるとき〔560〕には、特別に一致結合しなければならない。また、「キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに、聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに、すべての誉れと栄光は、世々に至るまで」(ローマ・ミサ典礼書 奉献文)という荘厳なことばが唱えられて、会衆がそれに「アーメン」と答える時、主とともにそれをささげる。〔典14・1〕またキリスト者は、自分自身と、自分の心配ごと、苦しみと恐れ、不幸と必要事を、十字架につけられたかしらとともにささげることを忘れてはならない。

§ 8 行動的参加

<信徒の行動的参加への努力>

104 キリスト者が感謝の奉献により容易にかつ有益に参加できるために、「ローマ・ミサ典礼書」を適当な方法で会衆に与え、キリスト信者が司祭と一致して、同じことばで教会と心を一にして祈るよう努力することは、称賛に価することである。同じように、祭礼が外的にも、集まったすべての人々が実際に参加する宗教行為となるよう努める人々も、称賛に価する。これにはいろいろな方法がありうる。全会衆が祭式の規定に従って司祭のことばに答えてもよいし、ミサの種々の部分にふさわしい聖歌を歌ってもよいし、両者を組み合わせてもよい。また盛儀ミサにおいては、イエズス・キリストの奉仕者の祈りに答え、典礼聖歌をいっしょに歌うこともできる。

<すべてのミサは共同体的なものである>

105 しかし、このような奉献への参加は、教会の指示と祭式の規定を忠実に守るのでなければ、称賛にも価しないし、勧めることもできない。この規定は、キリスト者の信仰心や、キリストとその見える奉仕者との親密な一致を強め養い、われわれを新約の大祭司に似たものとするような内的な意向と態度を鼓舞するという目的をもっている。またこれは、外的にも、神と人との仲介者(一テモテ2・5参照)によってささげられる奉献が、その本質か〔561〕らして、神秘体全体の行為としてみられるべきであるということを示している。しかし、このような会衆の参加は、奉献に公的、共同体的性格を与えるために絶対に必要なものではない。そのうえ、共唱ミサは盛儀ミサの代わりをすることはできない。たとえ盛儀ミサが助祭と副助祭の奉仕だけでささげられたとしても、その祭式の荘厳さと儀式のすばらしさによって特別な価値をもっている。もちろん、教会の希望どおりに、多数の会衆がしばしば敬謙な心で出席するならば、そのすばらしさと荘厳さはさらに増すのである。

<多様性のある参加の方法>

106 しかし、このような付加的なことをあまりにも強調し、それなしには典礼行為が目的を達することができないという誤った主張に迷わされている人も、真理と理性的な道とから離れているということを注意してほしい。

107 たとえ「ローマ・ミサ典礼書」が国語に訳されていても、キリスト信者の中にはこれを使用できない人も多く、典礼祭儀や式文をふさわしく理解することも、すべての人に可能なわけではない。各人の才能、性質、感情はそれぞれ異なっているので、すべての人を同じような祈り、聖歌、行為によって同じように動かし導くことはできない。そのうえ、各人は違った魂の欲求や傾向を持っているし、ひとりの人についても常に同じではない。前に述べたような意見にまどわされ、必ずしもすべてのキリスト者が感謝の奉献に参加してその益にあずかりうるわけではないと言ってはならない。もっとやさしい他の方法、たとえばイエズス・キリストの諸神秘について敬謙な黙想、他の信心業、ミサの式文とは異なっているがその本質と一致する他の祈りなどによって、すべてのキリスト者はミサに参加できるのである。

<司教区典礼委員会>

108 尊敬する兄弟の皆さん、あなたがたの司教区や管轄区域内における会衆の典礼行為への〔562〕参加が、「ミサ典礼書」の規準に合い、礼部聖省や教会法が示している規定に合致するよう調整し指導することを勧める。秩序正しく、ふさわしく、すべてのことが実行され、いかなる個人も、たとえ司祭といえども、かってに聖堂を実験場として使うようなことがあってはならない。この目的のため各教区に、すでに置かれている典礼音楽や教会芸術のための委員会と並んで、典礼使徒職のための委員会を設置し〔典45〕、すべてが使徒座の規定に合わせて行なわれるよう注意深く配慮することを望んでいる。

<修道会>

109 修道会においては、それぞれの会則が定めていることを正しく守り、各会の上長の事前の同意なしに新しいことを取り入れてはならない。

<すべての方法はキリストとの結合を目ざす>

110 キリスト信者が感謝の奉献やその他の典礼行為に参加する外的な方法や形態は多種多様でいろいろ異なっているが、会衆の魂が神である救い主とできるだけ緊密に結びつき、各人の生活が日ごとに聖性に満たされ、天の父の栄光を日々増大させるように、常に努力しなくてはならない。

第三章 聖体拝領

§ 1 拝領の意味

<奉献となる必要条件>

111 祭壇上の荘厳な奉献〔ミサ〕は、神のかての拝領によって完了する。しかしだれもが知っているように、これが奉献として完結するためには、会衆は受けなくても、少くとも司祭が天のかてを受けることが必要である。会衆も聖なる食卓につくことは、大いに望ましいことである。

<教会の伝統の教え>

112 これに関して、先任者べネデイクト十四世が、トリエント公会議の決定を説明したことばをくり返したい。「まず第一に……司祭だけが聖体を受ける私的挙式のミサ (Missa privata)は、主キリストが定めた無血の真の完全な奉献の本質をそこなうものであり、許されないという考えが信者のうちに起こらないように。トリエント公会議が、教会の不変の伝〔563〕統が保持してきた教えに基づいて、それに反するルターの新しい教えを排斥したことを知り、少なくともそれがよく教えられているように。」(回章Certiores effecti一七四二年一一月一三日§ 1)「司祭のみが秘跡を拝領するミサは不法であり、また、したがって廃止さるべきである、と言うものは、破門される。」(トリエント公会議第22総会条項8)

<信者の拝領は絶対的に必要なことではない>

113 神の食卓に来るキリスト信者がいなければミサをささげることを拒むという者は、真理の道からそれる。ミサでは単にいけにえを奉献するだけでなく、それと同時に兄弟的な一致を示す宴を行なうのであるが、共同の食事がいわば最高潮であり、信者が司祭とともに聖体の宴に参加することが絶対必要であると安易に主張する人はさらに重大な誤りを犯すことになる。〔典27参照〕

<拝領は奉献の完成であって本質ではない>

114 感謝の奉献は本質的に、神であるいけにえの無血の奉献であり、それは〔パンとぶどう酒の〕形態の分離によって、また永遠の父への奉献によって神秘的な方法で示されるということをくり返し強調したい。拝領はこの奉献の完成であり、秘跡的な一致による奉献への参加である。拝領は〔ミサを〕ささげる奉仕者〔司祭〕には絶対必要であり、キリスト信者には強く勧められている。

§ 2 拝領の勧め

<教会は信者の拝領を勧める>

115 しかし、真理の師である教会は、カトリックの信仰の純粋性を力を尽くして守るよう努めるとともに、注意深い母として、子らが、信仰の最大の恵み〔秘跡の拝領〕に熱心にしばしば参加するよう強く勧めている。

<望みによる拝領>

116 もしキリスト者が、実際に感謝の宴に参加することが容易でないならば、少なくとも望みによってそれを受けるよう望んでいる。すなわち、いきいきした信仰を喚起し、深い謙虚な気持を持って、神である救い主のみ旨にまったく信頼し、できるだけの愛の火を燃えたたせて、救い主と一致することを勧めている。

<秘跡的な拝領>

〔564〕117 しかしそれだけではじゅうぶんでない。以上述べたように、天使のパンの宴に加わりこの奉献に「秘跡的に」参加することができるのであるから、母なる教会は、子らひとりひとりがすべて、「主のあがないの恵みを絶えず感じる」(ローマ・ミサ典礼書 聖体の祭日集会祈願)ように、「これを取って食べなさい。……これをわたしの記念として行ないなさい。」(一コリント11・24)という主キリストの招待を繰り返している。この点についてトリエント公会議は、イエズス・キリストとその汚れない花嫁〔教会〕の望みをいわば反映して、「信者はミサのたびに、その荘厳な奉献の効果をより豊かに受けるために、ただ霊的に〔拝領する〕だけでなく、実際に秘跡的に拝領するように」(第22総会第6章)と強く勧めている。

§ 3 司牧上の勧告

<同じミサで聖別された聖体を受ける勧め>

記念すべき前任者、ベネディクト十四世は、信者も奉献に参加しているということを、聖体を拝領することによってさらに明らかに示すために、ミサに出席してただ天のかてを食するというだけでなく、むしろ同じミサにおいて聖別されたホスチアを受けようとする人人の信仰心をほめておられる。〔典55〕もちろん、教皇も言われたように、以前にふさわしく聖別された聖体のパンを受けたとしても、真に実際にこの奉献に参加していることは言うまでもない。教皇はこう書いておられる。「執行司祭がそのミサで奉献したささげものの一部を授けた人も、保存されていた聖体を授けた人も、同じ奉献に参加している。しかしそれだからといって、ミサの出席者が同じ奉献に参加し、自分にふさわしい方法でささげものをしようという敬謙で正しい願いに司祭が応じることを教会は決して禁じてこなかったし、今も禁じていない。教会はむしろこれを承認し、おろそかにしないよう望み、おちどや怠慢のためにこのような信者の参加を拒むような司祭がいれば、それを非難するであろう。」(回章Certiores effecti § 3)

<頻繁な拝領>

118 神よ、皆が教会のこの熱心な招きに自由に自発的にこたえるよう助けてください。キリ〔565〕スト信者が、できれば毎日でも、この奉献にただ霊的に参加するだけでなく秘跡を拝領し、皆のために永遠の父にささげられたイエズス・キリストのからだを受けるように計らってください。兄弟の皆さん、あなたがたの司牧にゆだねられている者の魂に、イエズス・キリストへの熱心と、飽くことのないかわきを喚起しなさい。あなたがたの導きによって、子どもや青少年たちが祭壇を囲み、その純潔といきいきした熱情を神である救い主にささげるように。既婚の人もこの群れに加わり、神の食卓で養われ力を得て、自分にゆだねられた子どもをイエズス・キリストの心と愛に習わせるように。労働者もこの食物を食べることができて、有効に完全に力を回復し、労働に対する天の永遠の報いを準備するように。あらゆる階級のあらゆる人々を連れて来て、家をいっぱいにしなさい(ルカ14・23参照)。これこそすべての人が必要としている生命のパンだからである。イエズス・キリストの教会が持っているのは、われわれの魂の希望と願いを満すこの一つのパンだけである。このパンによって、われわれはイエズス・キリストと密接に一致し、「一つのからだ」(一コリント10・17)となり、兄弟のように一致して、同じ天からのかてを食べ唯一のパンを裂くことによって、不死の霊薬を食すのである(殉教者イグナチオ エフエゾ人へ20参照〔ネラン・川添訳「アンチオケのイグナチオ書簡」36ページ〕)。〔典10参照〕

<会衆の拝領は司祭の拝領の後に>

119 会衆の聖体拝領は、司祭が祭壇から神のかてを食した後にするのが、一番適当であり、典礼の規定にもかなっている。前にも述べたように、自分が出席するミサにおいて聖別されたホスチアを受け、「いま祭壇で神聖なからだと血にともに結ばれるわたしたちが、天の祝福と恵みに満たされますように」(ローマミサ典礼書 典文)ということばを真に実現しようとする努力は、称賛に値するものである。〔典55〕

<なるべく正しい方法で>

120 しかしながら、聖体のパンをミサの前または後に分配してもよいし、司祭の拝領の直後〔566〕に行なわれる場合であっても、以前に聖別されたホスチアを配ることも許されるし、そういうことも少なくない。前に示したとおり、このような場合でも、会衆は感謝の奉献に正しく参加しているのであり、この方がよりやさしく永遠の生命の食卓に近づくことができる場合も少なくない。しかし、たとえ教会が母としての寛容によって、子らの霊的な必要性を満たすよう努めるといっても、信者のほうとしては教会の祭礼が勧めることをゆるがせにすることなく、重大な反対の理由がない限り、神秘体の生きた一致を明らかに祭壇で表わすためにすべてのことを守らなければならない。

§ 4 感謝

<祭式後の感謝>

121 典礼法規によって定められている典礼行為はこれで終了するのであるが、天のかてを味わった人々はさらに感謝を続けなければならない。聖体を受け、公式の祭式が終わった後も、心を集中し、神である師と親密に一致し、事情の許す限り、親しい有益な対話を続けることは、まったくふさわしいことである。祭壇上の奉献はそれ自身感謝の行為であり、感謝の祈りは各自の個人的信心に類することであって共同体の利益のためではないから、聖体の祭儀の後にこのような感謝を加える必要はないと主張し教えている人は、ことばの意味より文字づらを重んずる誤りに陥っている。〔新しいミサ典礼書の総則は、聖体拝領の直後にしばらくの間共同の沈黙の祈りをすすめることによって、よりよい解決を示した。〕

<典礼文の教え>

122 このような考えとは反対に、秘跡の本質そのものが、それを受けることによってキリスト教的な聖性が実を結ぶことを要請している。確かにここで共同体の公的な集会は解散するのであるが、各個人はキリストと一致して心の中で賛歌をうたい続け、「すべてのことについて、いつも主イエズス・キリストの名において神である父に感謝」(エフェソ5・20)し〔567〕なければならない。感謝の奉献の典礼自身も、「主よ、わたしたちに、いつも感謝の心を保たせてください」(ローマ・ミサ典礼書昇天後の主日拝領祈願)「あなたを絶えず賛美するように」(同聖霊降臨後第一主日 拝領祈願)とのことばによって、われわれに祈ることを勧めている。常に神に感謝をささげ、絶えず神を賛美しなければならないのであるから、教会が司祭(教会法810)とキリスト信者に、聖体拝領の後に少なくともしばらく神である救い主と語り合うことを勧め、典礼書の中に、奉仕者〔司祭〕が典礼を行なう前や神のかてを食する前にふさわしい準備をし、ミサの後に神に感謝を表わすための免償付の祈りを入れたと言って、教会をとがめたり非難したりすることはできない。祭礼はキリスト者ひとりひとりの内的な感情をおさえるのではなく、信者がイエズス・キリストに同化され、キリストを通じて、天の父に向かうように勧め鼓舞している。そのため教会は、祭壇から尊いパンを受けた人が神にふさわしい感謝をささげるよう要求する。神である救い主は喜んでわれわれの祈りを聞き、心から話し合い、愛に燃えるみ心をのがれ場として与えようと望んでおられる。

<恵みを広めるために必要>

123 実際、聖体にあふれるあらゆる宝を豊かに受け、能力に応じてその宝を他人に与え、それによって主・キリストがすべての魂に力を満たすようになるためには、ひとりひとりの個人的な感謝がぜひとも必要である。

<感謝の祈りの勧め>

124 尊敬する兄弟の皆さん、聖体のかてを食した後や集会が公式に解散した後に、神である救い主と親密に一致し、親しく語り合い、感謝し、ふさわしい賛美をささげ、助けを求め、この秘跡の効果を減ずることすべてを魂から取り除き、うちに働くイエズス・キリストの働〔胴〕きに協力しようとする人々を称賛せずにいられようか。特に、〔神から〕受けた決意を実行し、キリスト者として与えられた力を実践し〔神の〕無限の愛からいただいた恵みをそれぞれの必要に応じて生かすように勧める。事実、黄金の書「キリストにならいて」の著者は、典礼の定めと精神に従ってこう書いている。「静かな所にいて、おまえの神を味わい楽しむがよい。おまえは、全世界でさえも奪うことのできないかたをわがものとしたからである。」(4・12〔光明社訳五一〇ページ〕)

<キリストと一致Lて感謝の祈りをささげる>

125 キリストと固く結ばれたわれわれすべては、いわばキリストの心の中に沈み、キリストと一致し、キリストが尊い三位一体にささげる最もふさわしい礼拝のわざに参加し、キリストが天の父にささげる感謝と賛美に加わり、天地と声を合わせて、「神のお造りになったすべてのものは神を祝せよ」(ダニエル3・57)とたたえなければならない。こうして、キリストの名によって願い、助けを求める(ヨハネ16・23参照)のに最もふさわしいこの時に、われわれは一致して天の助けを祈り求め、「われわれ自身を、あなたへの永遠のささげものにしてください」(ローマ・ミサ典礼書 三位一体の祝日奉納祈願)と祈りつつ、われわれ自身をいけにえとしてささげるのである。

<キリストのうちにとどまる>

126 神である救い主は、「わたしにとどまりなさい。」(ヨハネ15・4)という熱心な勧めを絶えずくり返しておられる。聖体の秘跡によって、キリストはわれわれのうちに、われわれはキリストのうちにとどまる。キリストがわれわれのうちにとどまり、生きて働かれるように、われわれもキリストのうちにとどまり、キリストを通じて生き、働かなければならない。〔典7参照〕

第四章 聖体礼拝

§ 1 その歴史と神学的基礎

<聖体は礼拝すべきもの>

127 周知のように、聖体のかては、「真に現実に、実体的に、主イエズス・キリストの霊魂〔569〕と神性に結びついたからだと血」(トリエント公会議第13総会条項1)を含んでいる。したがって、教会がその初期からパンの形態のもとに、キリストのからだを礼拝してきたことは驚くにあたらない。これは、ミサの祭式自身が奉仕者に対して、ひざまずくか、最敬礼をすることによって、神聖な秘跡を礼拝するよう命じていることから明らかである。

<教会の伝統の教え>

128 教会の諸公会議が教えているように、「人となった神のみことばとその肉体に唯一の礼拝」(第二コンスタンチノープル公会議 Anath.de trib.Capit.,can.9 なおエフェソ公会議 Anath.Cyrill.,can.8と対照せよ。トリエント公会議第13総会条項6およびピオ六世憲章Auctorum fidei 61参照)をささげることは始めから教会の伝統であった。聖アウグスチヌスも、「礼拝してからでなければこの肉を食してはならない。」と述べ、さらに、礼拝すれば罪にならないが、礼拝しなければ罪を犯すことになる(詩編注解98・9参照)と付け加えている。

<聖体礼拝の祭儀の発展>

129 この教義上の原理から、奉献の祭儀〔ミサ〕とは別に、聖体礼拝の祭儀が起こり発展してきた。病人や死の危険に際している人々のために聖体を保存したことから、会堂に安置した天のかてを礼拝するという称賛すべき習慣が生じた。この礼拝の祭儀は堅く不動の基礎に基づいている。聖体は、ささげものであると同時に秘跡であり、恵みを与えるだけでなく、その恵みの創始者自身が不変に存在されているという点で、他の秘跡とは異なっている。教会がわれわれに、聖体のヴェールの下に隠されているキリストを礼拝し、絶えず必要としている天上の恵み、地上的な恵みを請い求めるよう命じる時、教会は、このヴェールの下に花婿〔キリスト〕がおられるという信仰を表わし、キリストに感謝をささげ、キリストとの親密な一致を喜ぶのである。

§ 2 聖体礼拝の形態

<聖体礼拝の種々の形>

130 時代を経るにつれて、教会はこの礼拝のためのさまざまな形式を導入し、常により美しく、より益あるものとなるよう努めてきた。たとえば、聖ひつへの信心深い日々の訪問〔570〕〔聖体訪問〕、聖なる秘跡による祝福〔聖体降福式〕町や村での、特に聖体大会中の荘厳な〔聖体〕行列、公に顕示された尊い秘跡〔聖体〕の礼拝などである。このような公の礼拝は、短時間のこともあるし、数時間から四十時間に及ぶこともある。各教会を順に巡って一年間続けられることもあり、ある場合には修道者によって日中だけでなく、夜中も続けられ、信者もこれに参加することがある。

<聖体礼拝は典礼から生まれたもの>

131 このような信心業は、地上における戦いの教会の信仰と超自然的生命の増大のために驚くほど寄与してきた。地上の教会はいわば〔天上の〕勝利の教会と声を合わせて、神と〔ほふられた」(黙5・12、7・10)小羊とに、絶えず賛美の歌をささげている。したがって教会は、幾世紀にわたってあまねく広まったこの信心業を是認するばかりでなく、それを採用し、権威をもって勧めている(トリエント公会議第13総会第5章および条項6参照)。これは典礼の精神から生まれたものであるから、ふさわしい荘厳さと教会の祭式と規定にかなった信仰と信仰心をもって行なわれるならば、典礼的な生活のために大いに役だつことは疑いない。

<歴史的キリスト、秘跡的キリスト、栄光のキリスト>

132 この聖体の礼拝によって、いわゆる歴史的キリスト、すなわちかつて地上で生活されたキリストと、現在祭壇上の尊い秘跡のうちにおられるキリストと、天において栄光のうちに勝利を得、天の恵みを与えられるキリストとを混同させたり、思い違いさせたりすると主張してはならない。むしろ、このような礼拝によって、信者が教会の信仰をあかしし、十字架上で苦しまれたかたと同じ神のみことば、おとめマリアの子が聖休のうちに隠れて現存し、天の国において統治されていることを荘厳に告白するのだということを強調しなければならない。聖ヨハネ・クリゾストモスはこう言っている。「キリストのからだが示されるのを見るとき、『このからだのおかげで、わたしはもはや土や灰でなく、もはやとらわれびとでもなく、自由である。』と言いなさい。このからだによって、天の国と、天でわたし〔571〕を待っている宝、つまり永遠の生命、天使の大群、キリストとの交わりを期待することができる。釘で刺し貫ぬかれ、鞭で打たれたこのからだは、死の犠牲にはならなかった。……槍で刺され、血を流した このからだから、救いの泉がわき出した。血の泉と水の泉である。……そのからだを持って食べるようにと、キリストはわれわれにそれを与えられた。何という大きな愛であろうか。」(一コリント注解24・4)

<聖体による祝福>

133 いろいろな信心業を聖体による祝福の祭式〔聖体降福式〕によって終了するという習慣がキリスト者の間に広まっているが、これは特に称賛されるべきものである。司祭が、深く頭をたれている大勢のキリスト者の前で天使のパンを天に高くかかげ、十字架のしるしを描きながら、われわれを愛して十字架につけられた子に目をとめてくださるよう父に祈り、われわれの救い主となり、兄弟となることを望まれたキリストのゆえに、キリストを通して、天のたまものを、傷のない小羊の血によってあがなわれたわれわれ(一ペトロ1・19参照)の上に注いでくださるよう祈る。何とすぐれたこと、益あることであろうか。

<聖堂は信者のために開放すべきである>

134 尊敬する兄弟の皆さん、聖堂は、時代を超えたキリスト教国の人々の信仰と信仰心によって建てられたものであり、全能の神にささげる絶え間ない栄光の賛歌であり、聖体の形態のもとに隠れておられる救い主の住いであるから、「重荷を負って苦労している者はみな、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11・28)という愛に満ちた招きにこたえて、いつでも多くの信者が救い主の足もとに集まることができるように、聖堂を開放しておくよう、できるだけの配慮をしてほしい。教会が神の家であり、恵みを求めて入る者に求めるものが与えられ(ローマ・ミサ典礼書 献堂式のミサ 集会祈願参照)、天からの慰めを得るところであるように。

結論

<聖体は人類に平和をもたらす>

135 このようにしてはじめて、人類家族全体に調和と平和が訪れ、心と魂を一つにして希望と愛の歌を歌うことができるのである。〔572〕「よい牧者、まことのパンよ、イエズス、われらをあわれみ、養い、守り、いける者の国でまことの幸福を味わせてください。」(ローマ・ミサ典礼書 聖体の祭日 続唱 ラウダ・シオン)

次へ