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以下は日本カトリック教会がどれほどいい加減であったかの証拠。これは『フマネ・ヴィテ』研究会の主張ではないので、くれぐれもお間違いのないように! ペトロの後継者であるローマ教皇に忠実である日本にあるローマ・カトリック教会ではなく、日本カトリック教会の姿はまさにこれです! カトリック出版社ももっと良心的に、カトリックの仮面をかぶりながら、カトリックでない教えを宣伝する著者は忌避しなければなりません。あなたたちの判断力、センスス・カトリクスはどうなっているんですか? このほど引退した森司教も含めて、こういうことを認めてきたカトリック教会に神の恵みがなくても不思議ではありません。日本の司教様方、恥を知れ! 失礼しました。敬語を使うべきでした。恥をお知りになって下さい。バチカンには翻訳を送付済み。お叱りの言葉を送りたい司教様方、励ましの言葉を送りたいまじめな信者の方々はnariai123@icloud.com にどうぞメールを送って下さい。

『フマネ・ヴィテ』研究会 成相明人

 

神様ヘルプ!

森 一弘

『手作りの教会』編集部編  中央出版社

59〜62ページ

*ホアン・マシア神父へのインタビュー

このアンケートをごらんになつて、どうお思いになりますか?

私個人の倫理神学者としての考えですか。これでいいと思いますよ。しかし直接に避妊とか中絶の倫理問題にふれる前に、この中にある言葉について…。

「教えに対して後ろめたく…、しかたなく避妊…」と言われているけれど、教会の教えをどう受けとめているのかということです。すべての教会の発言(教皇、司教、司祭)を普遍なものと考えているかたが多いようですが、すべて普遍ではなく、変わることもあることを知らなければなりません。また、福音の本質は喜びであるから、しかたなくでは福音的ではありません。

夫婦生活をどんなふうに(互いに思いやりながら)いとなむかが問題であって、避妊するか、中絶するかが最初の問題ではありません。その前にもっと大きな問題があります。

避妊を罪と思っていらっしゃるようですが…

避妊そのものは罪ではありません。ある時、私は聞かれました。「避妊は罪ですか」と。私は「どんな避妊ですか」と聞きましたら、器具を使用する方法でした。つまり、器具を使用することは人為的だから罪、自然ではない。自然ならば罪ではないと思っておられるようです。しかし、そうとは限りません。自然の方法といわれても、場合によって罪になり得ます。夫は妻を大切にしないで自分が思うままに妻を求める。この場合夫は自然であるが奥さんの気持ちを全く考えていない。しかし、奥さんを大切にし、中絶はしたくない、だから互いに大切にし合って良心的に避妊をすることは罪ではない。

罪とゆるしの考え方を根本から考えなければならないと思います。

パウロ六世は、『フマネ・ヴィテ』を書き、世界の多くの司教たちが根本的主旨は認めていますが、もっと広く解釈してただしがきをつけました。教会の公式発言は確かに器具の使用はいけないとされていますが、神学者たちは疑問を持っています。大事なことは、互いに相手の尊厳を大切にしているかが問題で、ただ人為的、人口的(原文のまま)だけで、良い、悪いを決めることはできません。このアンケートの中に、「器具を使うことは本当はいけないのでしょうが、中絶ということを考えた時、それよりも前に気をつけていたほうがよいと思います。大切な命を闇にほうむることになるような状態に苦しむよりは、器具を使うことのほうがよいと思います」とありますが、私は賛成です。そして中絶の問題は根本的に時限(原文のまま)の異なる問題です。

また一言で器具と言いますが、リング(IDU)にも二つの問題があります。医療上の問題と心理的問題であって、倫理問題としないことです。リングは中絶でなく、避妊です。

アンケートの中の「私はご主人の考え方が常識的であり、器具の使用により、次に来るもっと大きな悩み(中絶等)を回避できるならば、何も罪意識を持つことはないと思います」という答えに私も神学者として全くそのとおりですと申し上げます。

自然的方法はオギノ式だけでなくいろいろありますが、これを絶対的なものにしてはいけない。確かに自然的方法は評価されてきていますが、これだけが教会ですすめるものでもない。私は教会の発言をけなしているのではなく、教会が敢えているものに対して大人としての受けとめ方を実行しているつもりです。決して反対はしていません。人為的方法も自然的方法の一部に入ります。そしてそれが場合によっては自然であります。

人為的な器具、避妊薬、リングも使い方によって自然と思います。それは、夫婦で話し合って、二人の心身にとって何がよいか互いに理解して、器具あるいは避妊薬、またはリングを選ぶことが自然であり、それが健全だと思います。

                       (上智大学神学部教授 イエズス会士)

 


かつて、「マルコ・ポーロ」という雑誌が、確か、反・ユダヤ的な記事を載せて、廃刊に追い込まれたことがありました。大阪教区の「声」誌も、以下のような記事を掲載したのであれば、責任者の処罰と廃刊があってもおかしくなかったでしょう。今からでも遅くありません。カトリックの雑誌でありながら、内容に悪魔的なものがあれば、もうそれはカトリックの名に値しないのです。反論・応援はnariai123@icloud.com にどうぞ。 なお、この記事は英文に翻訳され、バチカン教理省ヨセフ・ラッツィンガー枢機卿にも送付済みです。

 


特集: 科学と宗教  「声」 1987年8・9月号

バチカンと生命の倫理

—  最近の教書の問題点  — 

J・マシア

イエズス会司祭・上智大学神学部教授

教会の現場で受ける相談

医学と医療の場合、その進歩のために臨床の現場での経験が大きな役割を果たす。倫理の場合にも、いわば治療の現場でのような経験も必要だと思う。私は神学部で倫理を教えているので、倫理の原則、判断の基準、各論の問題などを学問的に扱っているのだが、ひとりの司祭として教会の現場で具体的な相談を受けるとき、倫理の再検討が必要であることを日々痛感させられている。今ここで、私が受けた相談のいくつかを紹介してみる。

避妊の問題に悩んでいたひとりの若い主婦が次のように言った、「避妊は中絶と比べると小さな罪ですから、そちらを選んでも仕方がないのではないでしょうか」と。私はそれに、「中絶と避妊がそれぞれ大へん違う次元のことであるのは確かですが、どうして奥さんは罪にもならないことを小さな罪と呼ぶのですか」と答えた。この主婦は多少とまどってから、「でも、教会は避妊を認めないのではないですか、カトリックではいけないのではないですか」と言った。

この女性のように、避妊を漠然と悪いことと思いこんでいる信者が少なくないのではないかと思う。そうした信者をその誤解から解放するためには、彼らの指導をする司祭の再教育から始めなければならないであろう。

四十代前半のある主婦が妊娠することを非常に心配していた。子供をすでに二人持っていて、彼女の置かれている具体的な経済状態を考えると、三人目の子供が生まれることは大へんな重荷であった。この主婦は悩みながら私に言った、「よくないとは思うのですけれども、もし妊娠したら、止むをえずおろさなければならないでしょう」と。このことばはまだ妊娠していないときに言われたのであるから、私は質問した、「避妊の方法について何もご存じないのですか。」 彼女は、「避妊はカトリックではいけないのではないですか」と言った。私はつくづく、もし披女が中絶するようなことになったら、避妊に関する狭い考え方を披女に教えた司祭の責任は重大ではないかと思った。

もうひとりの主婦はかなり若い時に二人の子供を産んでから、主人との相談のうえで、医師の指導のもとにリング(子宮内の避妊器具)をつけてもらって使っていた。ある日私の所に相談に釆て、「この方法を使って悪いことをしているので、教会には行きますが、秘跡にはあずかっていません」と言った。私は「その方法のどこが悪いのですか」と言って安心させた。結局この主婦は自然的方法以外の避任、すなわち人工的手段による避妊はよくないことであると教わっていたのである。そのようなつまらない問題のために、そのかたが教会に釆なくなるようなことにでもなれば残念だと私は思う。人工的か自然的かは問題ではない。医師と必要な相談を行ったうえで、夫婦で話し合って、自分たちにはどの避妊方法が肉体的にも精神的にも健全であるかを考えればよいわけである。

今年の三月バチカンの教理省から生殖の尊厳に関して出された教書が日本の新聞で報道されたとき、ある信徒の夫婦が心配して言った、「人工授精の方法を使わないと自分たちには子供が生まれる可能性がないと言われて…後はばかばかしいから省略

 

皆さん、以下は日本司教団の発行にはなっていますが、バチカン文書です。こんなものをお出しになるのですから、日本の司教様方はもっと一貫して教皇様の教えを伝えて下さらなければなりません。以上に見たように、とんでもないことがカトリック教会の名の下に教えられていても、司教様方は何もしてこられなかったというのが実状です。こういうことは正に分裂症とでも言うべきです。


 

教皇庁教理省・カトリック中央協議会

生命のはじまりに関する教書

人間の生命のはじまりに対する尊重と

生殖家庭の尊厳に関する

現代のいくつかの疑問に答えて

第一章 人間の受精卵に対する尊重(20〜21ページ)から引用

かつての『堕胎に関する教理聖省の宣言』の中の教えを再び述べたい。

「卵子が受精した瞬間から父親や母親のそれとは異なる一つの新しい生命がはじまる。それは、自分自身の成長を遂げるもう一人の人間の生命である。受精のときにすでに人間となるのでなければ、その後において人間となる機会はありえないであろう。この不変かつ明白な事実は現代遺伝学の成果によって裏づけられている。すなわち、現代遺伝学によれば受胎の瞬間から、受精卵の中にはその生命体が将来何になるのかというプログラムが組み込まれていることが証明された。それはつまり、受精卵は一人の人間、しかも特定の特徴をすでに備えた一人の個人となるということを意味する。受胎のときから人間の生命は冒険を始めるが、それが持つさまざまの偉大な能力は、発揮されるまでに時間がかかるのである」

この教えは現在なお妥当である。もし確証が必要ならば、人間に関する生物科学の成果にょってさらに確認することができる。すなわち、それによれば、受精によって生じた接合子において、新しい個人の生物学上のアイデンティティーはすでに形成されているとされる。

もちろん、いつ霊魂が宿るかということは経験による実験的データからだけでは示すことはできないが、にもかかわらず、受精卵についての科学的なこれらの結論は重要な示唆を与えているといえよう。それを踏まえたうえで理性に基づいて考えるならば、われわれは、人間の生命が初めに現れた瞬間から、そこに一つの人格の存在を見いだすことができる。ヒトの個体(human individual)であるものが人格的存在(human person)でないということがありえるだろうか。人格(バーソン)の定義について教会は哲学的な発言をしているわけではない。ただ、倫理の立場から人工中絶を絶えず断罪するのである。この教えはこれまで変わっていないし、今後も変わりえない。

したがって人間の生命は、その存在の最初の瞬間から、すなわち接合子が形成された瞬間から、肉体と精神とからなる全体性を備えた一人の人間として、倫理的に無条件の尊重を要求する。人間は、受胎の瞬間から人間として尊重され、扱われるべきである。そして、その同じ瞬間から人間としての権利、とりわけ無害な人間だれにでも備わっている不可侵の権利が認められなければならない。

この教えを思い起こすことにより、この分野において生物医科学の発達によって生じた多くの問題への解答のための根本的な基準が得られるであろう。つまり、受精卵は人間として扱われるべきである以上、それは傷つけられることなく守られるべきであり、医療に関していえば、できるかぎり他の人間と同じように世話と看護を受けるべきであるといえる。

*接合子とは、二つの配偶子の核が融合したときに生じる細胞である。