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 問題の日本語訳 ラテン語原文 典礼委員会が日本の教会とは関係無しとしたLiturgiam authenticam

新しいミサ典書総則

掲載の目的と翻訳の問題点

『フマネ・ヴィテ』研究会 成相明人

わたしのホームページに掲載された新ミサ総則の翻訳は、わたしの翻訳ではありません。感謝などしないで下さい。これは世間に密かに出回っている翻訳を入手、掲載したものです。翻訳者は典礼の専門家であると思われます。敢えてこれをわたしのサイトに掲載した理由は、この翻訳と先々出されるであろう改訂ミサ典書の総則と比較すれば、意図的改ざんが発見できると思ったからです。ところが、読者からの指摘で改ざん・誤訳が、この翻訳の中にもすでに発見されています。以下の投書をお読み下さい。

ホームページにあるローマ・ミサ典礼書新総則の翻訳は大変ありがたく、全国の多くの方々に読まれていることと思います。

訳文中の157番に、過去の日本語誤訳(改ざん)が使われています。「神に選ばれたがその資格が無いのでは」とする深い信仰でなく、「私が神を選ぶ立場」としているかのような未熟な信仰の言葉になっています(添付ファイル157.doc)。ほかに、御聖体とパンの峻別が曖昧な訳語もあります。

以前、女子パウロHPに「宗教は合理的な部分だけを信じないとオームになる」という某補佐司教の誤導が掲載されていたことがあります。

「パンを神とする明白なキチガイ信心は排したいので、カトリック信仰は尊敬する程度にとどめておきたい」という風に誤導されてきた信徒達からみると全くのキチガイとしかみえない最低HPとしての立場において、神父様は密かに訳文の監修を、とお願いの次第です。

先日、某氏が下記のようにご指摘なさった行き過ぎは、拝領前の信仰告白において最悪。氏ご懸念のように日本語訳こそ要改訂と思います。

−−−−−−−記(某氏)−−−−−−−−−−−
今月初め、教皇庁典礼秘跡省が翻訳に関する典礼式文についての指針を発表した。その内容を検討した結果、これは英語圏における一部の行き過ぎを懸念してのことであり、本委員会としては全文を翻訳して出版する必要性を見出さなかった。ただし、その要約については関係者に配付する。

※英語圏における行き過ぎって・・・・日本語圏でもそうとう行き過ぎてると思いますが。
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改訂されては困る方々の危機感は対抗措置を素早いものにしたようです。ほぼ勝利した悪魔はなぜ怠けないのか? 彼らに勤勉の徳は無いとすれば、悪魔の首領が特別強烈な霊的ムチを使うからでは、となります。従って、地獄は苛烈な場所に違いありません。

以下ラテン語、英語、日本語の順番に157、161、162番を掲載します。問題点は読んで、比較すればお分かりと思いますが、下に記します。

157. Oratione conclusa, sacerdos genuflectit, accipit hostiam, eamque aliquantulum elevatam super patenam vel super calicem tenens, versus ad populum, dicit: Ecce Agnus Dei, et una cum populo semel subdit: Domine, non sum dignus.

157 At the conclusion of the prayer, the priest genuflects, takes the Eucharistic bread, and, holding it slightly above the paten or above the chalice, while facing the people, says: This is the Lamb of God. With the people he adds, once only: Lord, I am not worthy.

157  祈りが終ると、司祭は跪き、パテナあるいはカリスに添えてホスチアを奉持し、会衆に向かって「神の小羊の食卓に招かれた者は幸い」と唱える。そして、会衆とともに「主よ、あなたは神の子キリスト……」を一度唱える。

161. Si Communio sub specie tantum panis fit, sacerdos hostiam parum elevatam unicuique ostendit dicens: Corpus Christi. Communicandus respondet: Amen, et Sacramentum recipit, ore vel, ubi concessum sit, manu, pro libitu suo. Communicandus statim ac sacram hostiam recipit, eam ex integro consumit.

161 If Communion is given only under the form of bread, the priest raises the Eucharistic bread slightly and shows it to each one, saying: The body of Christ. The communicants reply: Amen, and receive the Sacrament as they choose, either on the tongue, or in the hand, where this is allowed. As soon as the communicant receives the sacred host it is consumed in its entirety.

161 パンだけの拝領であれば、司祭はパンを取り上げて一人ひとりに示し、「キリストのからだ」と言う。拝領者は「アーメン」と答え、口で、あるいは許可されている場合は手で秘跡を受ける。拝領者はホスチアを受けるとすぐにすべてを食べる。

162. In distribuenda Communione sacerdotem adiuvare possunt alii presbyteri forte praesentes. Si isti praesto non sunt et communicantium numerus valde magnus, sacerdos in adiutorium sibi vocare potest ministros extraordinarios, idest acolythum rite institutum aut etiam alios fideles, qui ad hoc rite deputati sint.96 In casu necessitatis, sacerdos potest fideles idoneos, ad actum deputare.97

Hi ministri ad altare ne accedant antequam sacerdos Communionem sumpserit, semperque vas ubi continentur Ss.ae Eucharistiae species, fidelibus distribuendae, e manu sacerdotis celebrantis accipiant.

162 In the distribution of Communion, other priests who happen to be present may assist the priest celebrant with the distribution of Communion. If such priests are not available, and there is a truly great number of communicants, the priest may call upon extraordinary ministers to assist him, i.e., formally instituted acolytes or even some of the faithful who have been commissioned according to the prescribed rite. In case of necessity, the priest may commission suitable members of the faithful for the occasion.

These ministers do not approach the altar before the priest has received Communion and always accept from the hands of the priest the vessel which contains either species of the Blessed Eucharist for distribution to the faithful.

162  パンを配るとき、そこに居合わせた他の司祭が司式者を助けることができる。このような司祭が同席せず、拝領者の数が非常に多い場合には、司祭は自分を助けるよう臨時の奉仕者を、正しく選任された祭壇奉仕者もしくはこのことのために正しく任命された他の信者にも命じることが出来る。必要なら、司祭はふさわしい信者を臨時に任命することが出来る。

これらの奉仕者は司祭が拝領する前に祭壇に近づくことは出来ない。そして、信者に配るために両方の形態の御聖体を入れた祭器を司式司祭の手から渡される。

前にもどこかで書いたジョークですが、テロリストとリタジスト(典礼専門家)の違いは何でしょう? テロリストとは交渉ができるが、リタジストとは交渉ができません。これは冗談でありながら、冗談ではありません。アッ!と気づいたときには信者が従わなければならない掟として、典礼専門家の思いつきがまるで神の掟、教会の掟のように信者をがんじがらめに縛り上げます。避けることができないとは言え、翻訳すること自体すでに問題を含みます。翻訳者が自分の主観、自分の思想、自分の誤謬を原文に加えるからです。典礼に関して、日本の典礼学者の思想はローマ離れ、カトリック教会のプロテスタント化、信仰の弱体化でしょうか? 「ある人々からは『日本カトリック教会最低のHP』と評価されている本サイトの責任者である神父様には密かに訳文の監修を」との願いもありますので、余り密かにではありませんが、具体的に一つ一つの項目を見ていきましょう。

157 「神の小羊の食卓に招かれた者は幸い」の原文はミサ典書では" Ecce Agnus Dei, ecce qui tollit peccata mundi. Beati qui ad cenam Agni vocati sunt." つまり「見よ、神の子羊、見よ、世の罪を除き給う神の子羊を。(神の)子羊の食卓に招かれた者は幸い」です。その中の一部分を採用したのが現在使用されている文です。できるだけ短くしようとする意図の他に、十字架の生贄によって世の罪を除かれたことを忘れさせようと言う魂胆があるように思われます。そして国際的にも悪名高いあの翻訳というよりすり替え「主よ、あなたは神の子キリスト…」が信徒の応答です。せめて、ここではそれを忘れて、原文に忠実に「主よ、わたしは主をわたしの家にお迎えするに足らない至らぬ者です」と訳さなかったということは、訳者が昔の誤訳・不完全訳を使用して楽をしようと思ったのでなく、訳者が邪悪な意図を持っていたと感じさせられます。「ふさわしくない」という言い方を他の言い方にすり替えてしまったのは、御聖体をいただくのにわたしたちがふさわしいと思っているからでしょう。

161 「パンだけの拝領であれば」と訳してありますが、原文は" sub specie tantum panis" つまり「パンの形色のもとでのみの拝領」となっています。これは誤訳でないでしょう。意図的に、御聖体がイエズス・キリストの御体ではなく、ただのパンでしかない…という異端思想で信者を洗脳したければ、このように訳してしまうのです。幸い今回はこのようにして、典礼学者と典礼委員会をわたしたちは監視しています。この訳者は誰からも監視されないと思いこんで、こんなめちゃくちゃな訳をしていますが、残念でした。

「拝領者はホスチアを受けると」は" sacram hostiam" つまり「聖なるホスチア」が正解です。ただのホスチアとは書いてありません。ここにも意図的なものを感じます。ホスチアは聖です。イエズス・キリストです。原文にそう書いてあるのに、訳者はただのホスチアにしてしまいました。これはおそらく訳者には御聖体に対する信仰が薄いか、皆無であるからでしょう。司祭に「キリストの御体」でなく「キリストのからだ」と典礼委員会が言わせたい背景がこの説明を読めば理解できるでしょう。「キリストのからだ」の意味は御聖体のことでなく、わたしたちがキリストの神秘体に属していることを指す、という説明を聞いて、まさかと思いましたが、どうも本当のようです。

162 「パンを配るとき」とありますが、原文は" In distribuenda Communione" つまり、「御聖体を配るとき」もしくは「御聖体を拝領させるとき」となっています。カトリックの典礼では御聖体のことをパンと言う場合もあります。でも、ここではそのような曖昧さを避けています。日本語訳では曖昧どころか、あたかも御聖体は御聖体でなく、ただのパンである…と言わんばかりの訳です。「他の司祭が司式者を助けることができる」司式者ではなく、司式司祭が正しい。「司式者」と「司式司祭」とではあまり違いがないようにも思えます。このようにして信者は洗脳され、ついには厳密な意味での司祭の司祭職と信徒の一般司祭職の区別がつかなくなり、カトリック教会はプロテスタント化します。そのような試みはあちこちに見られます。

以下はLiturgiam Authenticamに関するニュースです。英語で" Et cum spirtu tuo" を" And also with you" つまり「主はあなたと共に」と訳しているのが「主はあなたの霊と共に」でなければならない…と厳しく叱責しています。であれば日本語の「また司祭と共に」も不合格になることでしょう。でも、ホルヘ・メディーナ・エステベス枢機卿は日本語が分からないのをいいことにして、日本カトリック教会典礼委員会は「その内容を検討した結果、これは英語圏における一部の行き過ぎを懸念してのことであり、本委員会としては全文を翻訳して出版する必要性を見出さなかった」としました。こんなにおかしな話はありません。これは怠慢と言うより、横着、悪意、不従順です。以下の文章をどなたか訳してください。日本の教会にとっても非常に大事な文書です。それほど長くありません。希望者は連絡をお願いします。 

付録

B年の朗読について日本語では第一朗読に創世記3・16〜19になっています。そして福音がマルコ1・40〜45。第一朗読と福音は関連づけられているのが普通ですが、この二つの朗読に関連はありません。幸いなことに、午前に日本語ミサ、午後英語ミサをしていたわたしは第一朗読の違いに気づきました。英語ミサ、日本を除く世界中で選択されていた第一朗読は別の箇所でした。福音書はライ病者の癒しの話でした。それも聖書にはライ病者と書いているのに日本の教会では「重い皮膚病」となっています。第一朗読は当然それに関連する箇所であるはずです。今ここには英語の朗読集がありませんが、確かレビ記13章45節が含まれていたはずです(判明し次第この箇所は書き直します)。

重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、神をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状がある限り、その人は汚れている。その人は一人で宿営の外に住まねばならない。

当時の医療事情、衛生思想からすれば、こうするほかにライ病の蔓延を防ぐ手段がなかったのでしょう。ライ病者の悲しみ、絶望がどれ程のものであったか想像してみましょう。しかし、イエズス様はこの様な人々を癒されました。癒された人々の感謝と喜びがどのようなものであったかをわたしたちが理解するのは、正しく選択された第一朗読を聞いた後でこの日の福音にあるライ病者の癒しの話を聞いて、初めて可能になります。でも、日本の典礼委員会はライ病患者に気を利かしたつもりか、関連がなく、当たり障りのない創世記3・16〜19ですり替えをしてしまいました。これは誤訳の更に上を行くものであり、これは善意と言うより愚かさでしかありません。典礼委員会はおそらく、日本人の感受性が外国人とは違う…などの愚論を述べるでしょうが、わたしたちが聞きたいのは謝罪と訂正の約束です。日本人である前にわたしたちは人間ではありませんか? 日本人は特別…? 馬鹿馬鹿しいことです。

以上は誤訳というより聖書の朗読箇所のすり替えです。ローマの許可を得た…などと言うのでしょうが、疑わしいものです。大体そういう許可を願うこと自体が問題でした。わたしたちはもう嘘を聞きたくありません。日本の教会は過去にも過ちをたくさん犯してきました。「靖国神社は宗教でない」という妥協は今も続いています。靖国参拝に行くという信徒を叱ったわたしは、司教から「遺族の心情が分からないのか?」と叱られました。長崎の故老から聞いた話では、戦時中、カトリックの家庭祭壇には十字架と並んで伊勢神宮のお札が祀られていた…軍部の指導とか圧力があったのでしょうが、こういうことがもし本当にあったのであれば、原爆が小倉でなく長崎に落下することを神さまが許されたのもうなずけます。回勅『フマネ・ヴィテ』に関する日本司教団の声明もいい加減なものでした。あんなものに従っていたら救霊は諦めなければならなくなります。この件に関しては近い内に関連書籍を本サイト上で発表します。

「司教になると死ぬまで御馳走の食いはぐれがない…でも死ぬまで真理を聞くこともない…」これはアメリカで聞いたジョークですが、こんなことが本当でないことを希望します。どうぞ、ここで読んだことは各地の司教様方に報告してください。

VATICAN CRACKS DOWN ON LITURGICAL TRANSLATIONS

Catholic World News
Feature
[MAY. 07, 2001]

VATICAN, May 7, 01 (CWNew.s.com) The Vatican has issued new norms for the translation of liturgical texts, repudiating the principles that have been used in recent English-language translations.

The new Vatican instruction specifically says that translators:

- Should not adapt the original Latin texts, but render them faithfully in the vernacular language;
- Should preserve gender-based references, especially in the Scriptures rather than changing texts to more " inclusive" language; - Should obtain Vatican approval at each step in the process of translation, editing, and adaptation of texts.

In a 50-page document that was made public on May 7, the Congregation for Divine Worship stresses the need for a faithful rendering of the liturgical text approved by the Holy See. The document, entitled Liturgiam Authenticam, is signed by Cardinal Jorge Medina Estevez, the prefect of the Congregation for Divine Worship. But the document also stresses that the text has the explicit support of Pope John Paul II, who " approved this Instruction and confirmed it by his own authority."

Although Vatican officials say for the record that there have been no serious problems with liturgical translations, informed sources acknowledge that the new document is a response to sharp disagreements over English-language translations. The International Committee on English in the Liturgy (ICEL), which has until recently produced all official translations for English-speaking countries, has been heavily criticized by Catholic activistsュ and, more recently, by some American bishops.

In fact, the principles set forth in Liturgiam Authenticam clearly contradict the policies used by ICEL for years. The Vatican's new definitive rules would raise questions about the translations now available in use in English-speaking countries, including the latest Lectionary. These same guidelines, if they were applied consistenly to translations of the Scriptures, could call into question the translations used in the New Revised Standard Version, the Revised New American Bible, and the Jerusalem Bible.

Some changes mandated by the new Vatican instruction are sure to command immediate attention. For example, the document insists on " the use of the first person singular" in the opening of the Nicene Creed, so that the Creed should begin " I believe" rather than " We believe." And the document calls for the Congregation to reply, " And with your spirit" rather than " And also with you," when the celebrant says, " The Lord be with you." But the more important message of Liturgiam Authenticam is the rejection of ICEL's overall approach to translation.

  Since the Second Vatican Council, liturgical translations have been done by national episcopal conferences or, as in the case with English translations by commissions set up jointly by the bishops of different countries that share a common language. These translations must be approved by the Holy See before being put into use. During the past decade, the Vatican has refused to grant approval for several English-language translations, and approved others only after having insisted on substantial modifications.

The Congregation for Divine Worship indicates that the purpose of Liturgiam Authenticam is to provide official norms for translations, to guide the work of the bishops・conference. The document makes it clear that these norms supersede the guidelines set forth in previous Vatican statements. Officials of the Congregation stress that there is "nothing new" in the document. Rather, they suggest, the Vatican is making the record clear in order to curb translators from indulging in their own novelties.

The Latin texts that are submitted to translators, the Congregation for Divine Worship points out, "are themselves the fruit of the liturgical renewal." Those texts do not need to be "renewed" by translators, the document emphasizes; they should merely be translated accurately.

Similarly, Liturgiam Authenticam denies that translators have the authority to prepare "alternative" texts. Again, the document stresses, the job of the translator is simply to render the Latin text into the vernacular language, without editorial changes.

The most heated disputes about liturgical translation have centered on the use of "inclusive" language. The Congregation rejects the effort to strip all gender-based references out of the liturgy. Thus, for example, the document says: "The term 'fathers,' found in many biblical passages and liturgical texts of ecclesiastical composition, is to be rendered by the corresponding masculine word into vernacular languages insofar as it may be seen to refer to the Patriarchs or the kings of the chosen people in the Old Testament, or to the Fathers of the Church."

Moreover, Liturgiam Authenticam dismisses the fundamental argument used by proponents of "inclusive" language: the idea that gender-specific language might cause some people (in most cases women) to think they were being "excluded" from the message of the liturgy. Preachers and teachers should ensure that no Catholic feels excluded from the liturgy, the Congregation for Divine Worship says. But that task is not a function of translation. The new document explains: "Similarly, it is the task of catechists or of the homilist to transmit that right interpretation of the texts that excludes any prejudice or unjust discrimination on the basis of persons, gender, social condition, race or other criteria, which has no foundation at all in the texts of the Sacred Liturgy."