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ビリングス排卵法

司祭とカテキスタのための司牧ガイド

カトリック司祭 ダーモット・ハーリー著

フィジ島コロレヴ在住

(フィジ島・良心的産児連盟創立者)

『フマネ・ヴィテ』研究会 成相明人訳

原題 BILLINGS OVULATION METHOD

A Pastoral Approach for Priests and Other Parish Workers

著者 Fr. Dermot Hurley

原著初版出版年 一九九四年


司祭たちへのメッセージ

この書は小教区で働くすべての人々のために書かれていますが、その主な対象は兄弟である司祭のみなさんです。自分たちが独身であることから、みなさんは結婚とそれに関連する問題に関して話したり、教えたりする際、時として自信を持てないと感じることがあるかもしれません。

しかし正に独身であるにもかかわらず、また独身であるからこそ大きな貢献ができることを忘れがちです。独身であることなど気にする必要は全くありません。司牧、特に家庭訪問に際してみなさんは常に家庭と接触し、彼らの喜びと悲しみを分かち合い、彼らの問題に耳を傾け、彼らがどうこの問題に取り組んでいるか知ることができます。このこと自体が普通の夫婦よりもみなさんの方が、結婚した人たちに関するもっと豊かな知識を持ち得ることを示します。それに付け加えて、みなさんは研究し、人々の生活から学んだことを適用する時間にも恵まれています。

そしてみなさんは、自分たちの結婚についてなら司祭よりもっと詳しい一般の人たちより、時としてはもっと有利な立場にあるかもしれません。結婚した人々は、自分たち自身の結婚とその特有な関係から生じる非常に豊かな個人的経験のために、時として極めて異なった困難に出会うほかの夫婦を理解したり、援助したりするのが困難であり得ます。司祭には結婚に関するこのような個人的経験がないからこそ、その豊かさが彼の目をくらますことがありません。また、結婚した人たちの相談に乗り、彼らに忠告を与える際に、司祭の方が一般の人たちよりもはるかに有利な立場にあると言えましょう。

 


目次


序文

導入

いくつかの予備的定義                      

自然に基づく家族計画(NFP )

人工的手段による家族計画

避妊の間違い

回勅『フマネ・ヴィテ』と「多数意見」

複数の司教協議会が唱えた異議

異議を唱える神学者

良心に従うということ

間違った良心

メッセージの伝達・困難と問題

耳を貸そうとしない信徒

私たちは孤立しているのだろうか

世界の人口問題

夫婦生活の自然さとの関係

禁欲

「夫が酔っているとき」、その他

メッセージの伝達・その手段

避妊の悪影響

ビリングス排卵法の利点

補遺

1 受胎可能期のほかの徴候

2 コンドームの使用法

3 多数意見の客観的規範

4 不妊手術の結果に関するジェルメイン・グリーアの報告

5 フィジの習慣に関するラヴヴ教授の報告

6 ダイアフラム使用に関するジェルメイン・グリーアの報告

序文・神の摂理とビリングス排卵法

一九四八年、私はメルボルン市内のある小教区に在任していました。そこで私は、一人の司牧者として家族計画に関心を寄せるようになりました。当時の司祭たちにとっては、こういうことに関して信徒に「良心的なカトリック医師に相談するよう」助言するぐらいが関の山でした。やがて私たちは、信徒に忠告するだけの知識と熱意のある医師があまりいないことに気づきました。

当時の記憶をたどってみると、私はいつ「排卵日確定法を発見」というニュースが朝刊一面に掲載されるのだろうと、心待ちにしていたものです。そうすれば司牧的頭痛の種も無くなってしまうはずでした。後に、私たちは基礎体温法のことを耳にしました。しかし、一九七一年一月、メルボルン在任中に排卵法を学んだ私は、自分がそれまでずっと間違った希望を持ち続けていたことを思い知らされました。もし、神の定めで女性の月経周期中たった一日だけ受胎が可能であれば、人類はとっくの昔に滅亡していたに違いないことに気づいたからです。幸いなことに、それが神の計画ではありませんでした。神は女性たちに子宮頸管粘液(おりもの)のたまものをお与えになりました。そのために各排卵日前後の受胎可能期間は数日にわたるほど長くなりました。創造主は、女性を受胎可能にするおりものがある期間であれば、どの日の交わりでも受胎に結びつき得るようにして下さいました。

司祭である私は、それが神の摂理による救いの計画のすばらしい印であることを理解できました。それは今に至るまで続いている確信です。神は乳幼児の高死亡率と人類の短命が続いた何百万年もの間、人間が「地を満たす」に足りる十分な出産数を確保なさいました。もっと長く人間が生きるようになった現在と未来、その意味を学ぶ神の民は受胎に間隔を置いたり産児数を調節したりできるようになりました。

ビリングス排卵法の推進と普及が遅々として進まないと感じるとき、私たちは失望したくなるものです。医師たちは子宮頸管粘液について何百年も前から知ってはいました。しかし、ジョンとリン・ビリングス夫妻(両者とも医学博士)が女性たちに夫ともども自分でそれを正確に見分け、判断できるように教え始めたのはわずか二十年前のことです。女性たちは何万年も前から妊娠し、妊娠を可能にする子宮頸管粘液を経験し続けてきました。しかしその意味を知り、ほかの人たちにもその知識を分かつことができるようになったのは現代になってからです。

何千世代もの間、だれも知らなかったこの知識がこの世の女性たちに忘れ去られないだけでも、すでに大成功であると私自身は思っています。


 

ビリングス排卵法

導入

私は良心的産児計画連盟の同僚の要請に応じて、少しでも彼らの助けになればと思いこの小冊子を執筆しました。これを読んだ司祭、教師、小教区での協力者たちがフィジ島で自然に基づく家族計画(Natural Family Planning ­ NFP)ビリングス排卵法をさらに効果的に普及できることを希望します。同僚たちは私に、人々からよく受ける質問に答える形でこの小冊子を書くことを希望したので、本書はそのようなスタイルで書かれてあります。

異なる層の読者を念頭に置いてこれを書くときには問題が生じます。ある人たちはこのことに関してすでに詳しく知っているので、ほとんど説明の必要がありません。しかし、それほど詳しく知らない人には詳しく説明しなければなりません。ともかく、一般的にいって、私はビリングス排卵法を家族計画の文脈の中で取り扱うことにしましょう。そうすれば家族計画の種々の手段を説明したり、それらの倫理性を評価したり、またいくつかの司牧的指針を提案したりすることになり、本書が少し長くなりますが、それはやむを得ません。

いくつかの予備的定義

自然に基づく家族計画(NFP)とは?

自然に基づく家族計画(NFP)は、女性がその月経周期中わずか数日間だけ受胎可能であるという事実に基づきます。いろいろなNFPはこれらの受胎可能日を、妻の体に現れる種々の変化と印で夫婦が認識し、受胎を希望するか延期するかに応じてその期間に交わりを持つか、禁欲するかを決定することで産児数の計画を可能にする一定の規則を提供します。これらの方法はすべて「自然」であるとされます。なぜなら神が女性の体内に内蔵なさった、自然に備わる受胎可能期の特徴の意味を知るために、夫婦が自分たちに与えられた天与の知性を使うからです。

NFPにはいろいろな種類があるのですか?

それぞれが異なった徴候または徴候群に基づいて受胎可能期を夫婦に知らせる、リズム法、基礎体温法、ビリングス排卵法、徴候・体温法などがあります。

リズム法とは?

この方法は一九三〇年代に、それぞれ日本とオーストリアでこの方法を発見し、普及に努めた二人の科学者の名前にちなんで荻野・クナウス法とも呼ばれます。それは、過去の月経パターンを知っている女性が、前回の月経期間から一定の日数を数えて受胎可能日を推定する方法です。

しかし排卵日、従って受胎可能期間は前回の月経でなく、どの日かまだ確定できていない次回の月経と関係があります。ですからこの方法は、現在の周期が前回の周期と大体同じ長さである点に大いに頼ることになります。月経が不順であれば、この方法で受胎可能期間を知ることは非常に困難になります。いくら厳密にこの方法に従っていても当然誤差が出ました。月経が規則正しい多くの女性たちは当時この方法に非常に満足していました。しかし、月経不順の女性の場合、この方法には明らかな不確かさが伴いました。反対者たちはこの方法を評して「バチカン・ルーレット」などと悪口を言ったものです。

今日、これは歴史的な価値しか無いと言えましょう。私が知っている限り、この方法に頼るNFPグループはありません。この方法に満足した母親が娘たちとか友人に教えたのでない限り、この方法に頼っている人はおそらくいないでしょう。しかし、人工的家族計画を推進する多くの人たちは時として、どのNFPまたはすべてのNFPについて話すときも「リズム法」という言葉を使用します。おそらくもっと新しいNFPを知らないのでしょう。それとも、NFPをけなしたいだけなのかもしれません。リズム法という言葉を耳にするとき彼らが何を言いたいのか質問するといいでしょう。

基礎体温法とは?

この方法は、女性の基礎体温が排卵の際にごくわずか上昇することに基づきます。ですから、女性が毎日体温を測定、記録、比較すればいつ排卵があったか知ることができます。この現象は一九三〇年代にオランダで発見されました。その後、一九四〇〜一九五〇年代、主に英国のジョン・マーシャル博士が研究を続けました。

この方法によると、排卵日とその後に続く不妊期間を正確に推定することができます。しかし、女性の受胎可能期間は排卵の何日か前にすでに始まっています。故に、体温上昇は排卵以前の受胎可能期間についての情報を提供しません。この方法に従って排卵前の不妊期間を利用したい夫婦は、その期間をリズム法によって推定しなければなりません。女性の月経周期が不順であれば誤差の可能性を受け入れる心構えが必要です。

ビリングス排卵法とは?

この方法は、すべての受胎可能な女性に見られる各排卵日前の子宮頸管粘液の排出に基づきます。それは排卵の前触れであり、その期間に体内に入った精子の生存を助けます。それによって保護された精子は何日か後に子宮にたどり着き、排卵された卵子が受精することを可能にします。

この粘液の存在は、何百年も前から知られていました。メルボルンの二人の医師のチーム、ジョンとリン・ビリングス博士夫妻は、もともと基礎体温法を使用していた患者たちを診察していました。しかし、彼らは、排卵日よりもっと重要な意味がある受胎可能期間を非常に正確に推定することを可能にする子宮頸管粘液のこの性質に気づきました。その排出に女性たちが気づき、自分たちが経験するその性質の変化の意味を認識するように彼女らを教育できることに彼らは気づいたのです。

この方法は世界のほとんどの国に普及しています。それを知った女性たちの推定の正しさは、何回かにわたる厳正な科学的調査によっても明らかです。各地で行われた複数の聞き取り調査は妊娠を延ばす、または達成する手段としてこの方法が効果的であることを実証しています。世界中の多くの国での経験は、産児数を計画する手段として夫婦がこの方法を正確に学び、効果的に使えることを証明しています。

それは初め単に「排卵法」と呼ばれていましたが、その世界的普及に伴い、その規則には国によっていくつかの変化が導入されました。現在、ジョンとリン・ビリングス両博士が開発し、教えた方法とガイドラインを指す場合は「ビリングス排卵法(BOM)」という用語が使用されています。

徴候・体温法とは?

これはごく最近の発展です。女性が排卵日を知るために体温を測定し、それ以前の不妊期間を知るためには粘液パターンを使用することを指します。イングランド地方、ウェールズ地方のカトリック結婚相談所を含む多くのNFP指導者が、体温と粘液の両方を観察する方が、どちらか一方だけの場合より効果的であると考えます。しかし、ビリングス排卵法の指導者たちは、実際にこの方法が女性にとって必要以上に煩わしいだけであると確信しています。それだけでなく、それはもっと重要な粘液パターン変化に対する信頼心を低下させます。またその結果、間違いにも導き得るものであると考えられます。

私自身は、熱心なNFP指導者たちのこの異なる見解の勝敗を決定する立場にはありません。しかし、本書はビリングス排卵法を主に解説します。当地では体温計が使われることがあまりないからです。

女性の体内にはほかにも受胎可能期の印がありますか?

医学誌には受胎可能期に伴うそのほかの諸徴候が発表されています。その内のいくつかは補遺で取り上げました。科学者にとってそれらは興味深いかもしれません。また、ビリングス排卵法の使用者が自分の粘液から知り得たことを確認したり、補ったりするために使用してもいいでしょう。しかし、それらの内どれ一つとしてNFP法として単独に使えるほど確定的ではありません。

どのような家族計画が「人工的」ですか?そしてなぜですか?

この名前は何らかの外部装置とか薬品を使用することによって性行為の性質、またはその自然の結果を変更するすべての家族計画を指します。一般的に言って、教皇パウロ六世が回勅『フマネ・ヴィテ』で断罪なさったすべての手段は「人工的」であると言えます。私はそれらを障壁法、外科的手段、ホルモン法の三つに分類します。

障壁法とは?

産児制限での障壁法、その本来の厳密な意味での「避妊」は前世紀末に導入されました。それが発達したのは主に今世紀に入ってからです。これらの手段は女性の体内で精子が卵子に到達することを妨げて、性交に人為を加えます。

ダイアフラムは女性が使用する普通の「障壁法」です。これは、子宮頸部の入り口で膣からの通路を塞ぐために膣内に挿入されます。その失敗率が高いので、しばしば、補助手段として精子殺傷作用のあるジェリーを外側に塗ることで受胎の可能性を低下させます。そのほかに女性が使用する手段としては、精子の進入を防ぐ目的で子宮頸部にはめ込まれるプラスチック製の「子宮キャップ」があります。

現代使用されているコンドームはラテックスでできた男性用「障壁法」です。使用者は勃起したペニスを膣に挿入する前に、コンドームをペニスにかぶせて使用します。これも比較的失敗率の高い方法です。使用者がそれを使用説明書が指定するとおりに使わないことが原因に挙げられます(補遺二参照)。しかし、材質の脆弱さも精子が時としてそれを通過してしまう原因であると言われます。

ホルモン法の発達とともに、コンドームはほとんどの家族計画機関で試用されなくなりましたが、近年、多くの人々がエイズ防止の観点からそれが有効であると信じたために再登場を果たしました。 しかし、HIVウイルス通過防止に「失敗」する場合は決してまれではありません。HIVウイルスの三十倍ものサイズがある精子でさえもしばしばその障壁を通過して子宮頸部に到達し、妊娠の原因となります。HIVウイルスの通過は単なる妊娠でなく悲劇的死の原因になりがちです。

これは厳密な意味では障壁法ではないのですが、「性交中断法」も挙げておきましょう。この方法も性交の正常な行為に人為的に干渉するからです。名前のとおり、男性がそのペニスを射精前に膣から抜き出してしまうこと、つまり性交を中断することを意味します。創世記三十八・九の記述から、時としてオナニーとも呼ばれます。歴史的に言えば、これがほかのどの方法よりも古いと言えるでしょう。この方法は、いくつかの文化圏では今もって広く使用されていますが、失敗率の高さで有名です。

ホルモン法とは?

妊娠した女性の体はエストロゲンとプロゲステロンという二種類のホルモンを分泌します。この二つが妊娠と出産に備えて体を準備します。その結果の一つが妊娠中には卵巣から卵子の排出が止まるということです。一九六〇年代初期、医師たちはホルモンを利用する避妊ピルを発明しました。それを一定期間毎日服用する女性は新しい卵子の排出を抑制します。そのため、妊娠時と同じ結果が人工的に発生して、避妊が可能になります。

後に、種々の副作用に対処するために異なったホルモンの組み合わせが導入されました。その内のあるものは子宮内壁粘膜を変化させてその目的を果たします。つまり、それらの避妊ピルには、性交の結果受胎した場合、受精卵が子宮内壁に着床、生育することを妨げる作用があります。モーニング・アフター・ピルと呼ばれる別種の避妊ピルも開発されました。名前が示すようにこれは性交後に服用します。この種のピルに避妊作用はあリません。受精卵は子宮内で育ち始める前に、人工中絶されます。さらに別種のピルもあります。これは排卵を抑制し、抑制が不十分で排卵があって受胎した場合、受精卵を子宮に拒絶させ、次回の月経時に排出します。

注射によってホルモンを注入する複数の同種製品も、発売されました。その内のある製品は三〜六ヶ月にわたって不妊期間を継続させます。それらはその目的を達成するためごく微量のホルモンを血管内に流し続けます。

外科的手段にはどのようなものがありますか?

この種の外科的手段としては妊娠中絶が筆頭に挙げられます。おそらく一九七〇年代までこの方法はほとんどの国で非合法でした。しかし、特に日本と東ヨーロッパ諸国では早くからこの方法が望まれない妊娠を終結するために広く使用されていました。それは一種の「産児制限」または「家族計画」であると考えられたのです。そしてこの方法は妊娠中絶がもはや非合法でない諸国にも広がり得ます。

「避妊リング」(IUDまたは「loop」)は一九六〇年代に開発と生産が始まりました。それは各種の形状をしたプラスチック被覆コイルです。それは普通医師によって子宮内に装着されます。その結果、受精卵は子宮内に着床して生育し続けることができなくなります。上述した二番目のピルまたは注射と同様にこれも妊娠中絶を促進します。

不妊手術ももう一つの外科的手段です。これは精子をペニスに運ぶ小さな管( vas deferens )を切断してしまう精管切除術による男性の不妊手術でもあり得ます。術後は、性交と射精があっても卵子を授精させる精子が存在しません。女性の不妊手術の場合は、排卵後の卵子を子宮に運ぶための卵管を結索または切断する「卵管切断または結索」によります。術後の女性は性交があっても精子と合体するはずの卵子が所定の位置に存在しません。当然、赤ちゃんは生めなくなります。

道徳性の問題

なぜ教会は、これらの人為的家族計画とか避妊による産児制限を禁止するのですか?

質問自体を少し変更させて下さい。まず私たち自身が立場を明確にした上で人々に説明しなければなりません。教会は避妊を禁止します。しかしそれは教会が以前は金曜日に肉食を禁止したり、司祭たちの結婚を許可していないのとは違う理由によります。教会は単にそれが神によって禁じられているから許されないと教えているだけです。ほかの人たちが私たち自身と同じく、自分の力でそれが「間違っていること」であると分かったかもしれません。しかし、私たちは、司祭であっても信徒であっても特権をもってこれらの行為の不道徳性を知ることができました。なぜかと言えば、それが一九六八年教皇パウロ六世がその回勅『フマネ・ヴィテ』で繰り返された、教会の不動の教えであり続けたからです。しかし、なぜ教会がこう教えるのか、なぜ神の掟が上述のいろいろな避妊法を禁止しているのかを私たちが知っていることも役立ちます。ですから質問を少し違った形にしてみましょう。

種々の避妊法は神の法によってどのように禁止されているのでしょうか?

外科的手段による避妊、避妊の原因になる薬品とか器具は人間を殺します。だから、許されません。しかし、もし、妊婦が重い病気にかかったとしましょう。彼女が、自分の命を救うために手術を受けます。その結果、胎児が死ぬのであれば、その手術は許されます。これは、母胎を救うために、そして、そのための手段として、子宮外で生存不可能な胎児を、直接、子宮から除去する手術とは、性格が違います。この二者の相違については、よく理解する必要があります。前者の場合、胎児の死は予想されます。しかし、それは意図されない副作用です。手術は、その副作用なしに成功することもあり得ます。後者の場合、胎児の除去とその結果である不可避な死は、母胎の生命を救うために意図されます。

人工的に妊娠を中絶し得る、避妊剤による方法も同様に許されません。そういうことが頻繁に起こる訳でなくても同じです。同じ理由から、避妊リング、モーニング・アフター・ピル、その他、受胎した赤ちゃんの子宮内着床を妨げる裏処理作用のあるどのようなピルも許されません。これらはすべて妊娠中絶であり、第五戒によってすべての殺人と並んで禁止されています。

卵管結索によるものであろうと精管切除術によるものであろうと、不妊手術は人間の生命を殺し、またはその一部を破壊し、傷つけることを禁止する第五戒によって禁じられます。不妊手術は人間の健康な生命の力、身体の健康な部分を傷つけます。全身の健康もしくは生命がそれを要求するのであれば、病んでいる手足の切断はもちろん禁止されません。同じ理由でその後女性が再び妊娠できなくなるとしても、病んでいる卵巣とか子宮の除去は許されます。しかし、受胎を不可能にするために意識しつつ生きた健康な身体とその機能を傷つけたり、破壊したりするのは別の話です。それは第五戒によって禁止されています。

卵管結索と精管切除術は元どおりにできる場合もあります。しかし普通は永久的不妊をもたらします。初期の避妊剤と排卵を抑制する現代のすべてのピルは一時的不妊化をもたらすので許されません。一時的であっても人間の体の健康な力を破壊するからです。

すべての障壁法(コンドーム、ダイアフラム、性交中断)は神が生命の伝達のために使用されるように計画なさった聖なる生命の伝達行為を妨げます。性とその行使の聖なる力に関する神の法を簡潔に述べる第六戒はこれらをすべて禁止します。確かに神は性行為によって夫婦が愛を表現し、増進させることを計画なさいました。しかし、その行為は避妊行為があるときもはや生命を伝達できないようにその性格が変化してしまいます。その行為は神が愛を伝えるために意図なさったあの行為と似ても似つかぬものになり果ててしまいます。

教皇パウロ六世は回勅『フマネ・ヴィテ』の中で以下のように説明なさいました。「夫婦行為が相手の状態や正当な望みを考慮に入れずに、一方的に押しつけられる場合それは愛の真実の行為でない…ことは人々のよく知るところです。同様に、よく考えるならば、万物の創造主である神が独自の法にしたがって刻み込まれた生命伝達の機能に障害をもたらすような相互愛の行為が、夫婦の守るべき法を制定された神の計画にも、人間生命の造り主の意志にも反することを認めざるを得ないでしょう」(十三)。  

これは、特に私たちが住む性的な厳しさに欠ける西欧文化圏の神学的素養のない人たちは、簡単に納得できないかもしれません。この理由付けは正確な、深い洞察力無しには理解できません。性行為はもともと、基本的には遊びではなく生殖のためであり、私たちには性の快楽を、その責任と目的から切り離してしまう権利がありません。西欧文化圏の人たちはこれを理解しません。だから人間生命の価値とこの生命を伝達する聖なる力の価値を忘れ去ってしまいます。

快楽をその責任と目的から分離し、その行為の自然の結果を無にすることの邪悪さは、食生活で説明すればもっと分かりやすいでしょう。古代ローマ人たちは、満腹するまで食物を腹に詰め込むと、次は胃の中身を意図的に吐いてしまったと言われます。後で再度ご馳走を食べるために食卓に戻って食の快楽を味わうためでした。食べることの目的は体に力を与えるためではありませんか? ローマ人はその目的を味覚の満足という欲求に屈従させ、無に帰してしまったのです。

人間の生命は今でも種々の文化・宗教に属する多くの人々の間で高い価値があるとされます。反・子供、反・生命の毒はまだそういうところに根付いていません。ジェルメイン・グリーアが、最近、そういう人たちについて詩を書いています。「世界の喜びの多くは、まだ、子供たちが提供してくれている。生殖のあの快楽ではなく…」( Sex and Destiny 、二百十七ページ)。

ですから、西欧世界の思想の中にある盲点をその多くの神学者もろとも無視してしまいましょう。信者たちに、人間生命を伝達する聖なる力を妨げ、無にするこれらの避妊剤もしくは障壁法は間違いであり、神から禁止されていると勇気を出して、大声で教えましょう。これは今でも神の掟を私たちの毎日の生活に適用する教会が過去二千年と同様、常に教え続けてきたことにほかなりません。

この教えを受け入れないカトリック信者は、教会のほかの教えも疑問視するようになります。「心の平和とキリスト者間の一致を保持するためには道徳の問題についても、教義の問題と同様にすべての人が教会の教導職に従い、同じ言葉を述べることがもっとも大切であることは言うまでもありません」(回勅『フマネ・ヴィテ』二十八)。

しかし教皇委員会の過半数が避妊について教会の教義変更を求めませんでしたか?

これは今日に至るまでいつも繰り返して言われることなので、私たちの多くも耳にするところではあります。最近のロンドンの雑誌「 Tablet 」(一九九二年五月二日、五百五十ページ)で、トム・バーンズはこの点にさりげなく触れています。彼はこの問題が教皇によって専門家の委員会に委託されはしたが「その結論は無視されてしまった」と言っています。これは基本的にそのとおりです。なぜかと言えば、教皇は委員会の少数意見の意見と議論の方に従って、変更を求める過半数の要求を拒絶なさったからです。教皇には教導職があるという事実からしても教皇は当然そうすべきでした。

しかし、これが全部であるかと言えばそうでもありません。これらの文書を引用する人たちでさえも教皇委員会の三つの報告書を全部読んだ人は少ないでしょう。変更を求めた過半数がどのような「変更」を望んだかについては明確でなく、また彼らが一致していた訳でもありませんでした。それだけではありません。大事な点では彼らも伝統的教義が存続されることを望みました。彼らはバチカン公会議による産児制限の手段としての妊娠中絶の断罪を確認しました。また、「妊娠中絶を促進する十分な疑いがあるいくつかの介入」と同会議が指摘したことも断罪しています。(下線は著者による)これはもちろん、しばしば、妊娠中絶に関する教えの変更を求めたと言われるこのグループの人たちでさえ、明らかに避妊誘発的である避妊リングとか、もっと最近になってからできたモーニング・アフター・ピルだけでなく、時としては避妊を確かに誘発するとされる、ほかのほとんどの避妊薬さえも認めなかったことを意味します。

同様に、彼らは「不妊手術は責任を持って避妊をしないための手段としては一般的に言って除外されるべきである」と言っています。しかし、「一般的に」が何を意味するのかまで、立ち入って定義していません。つまり、この助言は教皇にとってあまり役に立たなかったということです。しかし、はっきりしているのは、彼らが家族計画の手段としてどのような不妊手術も認めなかったということです。

彼らは「障壁法」がある特定の場合に限って許されるべきである、とは言っています。いつその使用が正当化されるか決定するために彼らは四つの基準を挙げました。それらの「客観的基準」(補遺三参照)は不明確、不明瞭、かつ複雑でした。今それを読んでみても事情は同じです。自分たちの状況に当てはめて、確信を持って、それらを適用できる夫婦が果たしているのだろうか、としか思えません。

それで教皇は自分の義務が命じるとおりに、これらの人工的手段が発明され、利用され始めたころから教会が教えてきた、避妊に反対する教えを繰り返すほかなかったのです。

これらの事実は公開されており、幾度も指摘されてきています。この事実にもかかわらず、避妊推進に賛同する人たちは「教皇パウロ六世が、助言を受けるために設立したあの委員会の多数意見を退けたとき、その信憑性は極端に薄められた…」などと言いますが、これは悲しいことです。そういうことを言う人たちは意図的に真実を曲げているか、単に無知なのでしょう。

複数の全国司教協議会が回勅『フマネ・ヴィテ』以後、異議を唱えて、夫婦が罪を犯すことなく避妊することが可能であると主張する声明をどう説明しますか?

再度、質問は間違った前提に基づいています。なぜなら回勅『フマネ・ヴィテ』に異議を唱える人たちでさえも、たった六ヶ国の司教協議会の声明だけが教皇パウロ六世の教えと異なるように見えることを認めなければなりません。百ヶ国の中の六ヶ国は多数であるとは言えません。この議論に頼る人たちははっきりと教皇を支持したほかのすべての司教協議会にではなく、これら六ヶ国の司教協議会にだけ、私たちが耳を傾けなければならない理由を挙げることができません。

事実は、回勅『フマネ・ヴィテ』に異議を唱えていると言われるこれら六つの声明の、全部ではないとしてもそのほとんどで司教たちは「主観的罪」について語っています。つまりある夫婦は自分たちにとって避妊はよいことであると思い、たとえ間違っていたとしても、そのような良心に従って主観的には罪を犯さないで済んでいる可能性を指摘していたのです。これについては以下にもっと詳しく書きましょう。しかし、私はここで指摘しておかなければなりません。これらの司教協議会は、避妊がそれ自体において客観的によいものであり、合法的であるとは決して言っていない事実です。しかしもしどこかの司教協議会がそのようなことを言ったとしても、人々は教皇に反対して司教協議会に従う権利はありません。そうでなければ教会はとっくの昔に消滅したはずです。今日、教会は存在することすらできなかったでしょう。一九七七年オーストリア司教協議会がそうしたように、いくつかの司教協議会は後から以前の声明で不明確だった点を説明し直しています。

現代の教会にその教義を変更することを要求する「異議を唱える神学者たち」がいます。なぜ信者には彼らの意見に従うことが許可されないのですか?

これらの神学者たちは多くの司祭たちに、特に神学校時代に接触し、影響を与えています。彼らの意見に影響された司祭たちの仕事が困難であることは確かです。しかし事実を述べると、彼らは単に自分の意見を述べていたに過ぎません。彼らが教会に断罪されていることを教えるとき、彼らの大学での地位とか彼らが有名であるということなどは無意味です。普通の司牧者であれば彼らのこのような権威を認めたりしません。

忘れてならないのは彼らの間に一致が無いということです。性の倫理のこの分野でも彼らの立場は分かれています。現在私たちが信じている伝統的教義に取って代わるような唯一の積極的な教えに、彼らが全員同意している訳ではありません。ある人たちは産児制限の中絶促進作用のある方法を断罪しますし、そうしない神学者たちもいます。彼らの中の、有名でよく引用される神学者の多くは避妊だけでなく、マスターベーション、婚前セックス、離婚後の再婚、同性愛行為などのうち一つ、もしくはそれ以上を認めるよう提唱しています。教会は彼らの中のある者たちをもはや「カトリック神学者」として認めていません。

司牧生活、司牧の仕事の中で司祭たちが、倫理の問題に関して「異議を唱える」神学者たちの異なった、しばしば相反する意見のすべてに従うのは明らかに不可能です。そしてそれぞれの意見の中から特定の意見を選んで彼らに従おうにも、選択の基準がありません。確かに、特定の教義について教会に反対する神学者が一人いれば、私たちはいとも簡単に十人もしくはそれ以上教皇のその教えに賛同する神学者を見つけることができます。しかし、これは数の問題ではありません。時の人になる神学者たちの意見に従い始めるとき、私たちは教会の教えを信者に伝える義務に忠実でなくなります。

私たちには良心に従う義務があります。だからある夫婦の良心が特定の避妊法は彼らに許されると告げるのであればその方法を使用しても彼らは罪を犯しません。

これは基本的には正しいと言えます。私たちは知りつつ、自由に神に背くとき罪を犯します。私たちは神の禁止に無知であったり、悪を善であると思いこんだりすることがあります。そういうとき私たちの行為が実は神から禁じられていても、私たちは罪を犯しません。ですからもし私たちがここで止まるのであれば、反対者の理屈にはある程度力があると言えましょう。避妊が悪であると知らない人たちがそれを実行するとき神に不従順である訳ではありません。しかし彼らには、教会の教えにのっとって良心を形成する義務があります。何が善であり、何が悪であるかを見つけるために努力しなかったという点で、彼らの犯した罪の軽重を私たちは知る術がありません。

それだけでなく、もし人々が神の掟を知らなければ神に反する不従順は少なくなり、神に反する形相的罪もより少なくなることは事実です。しかし、神はそれにもかかわらず、ユダヤ人にご自分の掟をお与えになりました。それにもかかわらず、イエス・キリストはそれらの掟を確認し、敷延なさいました。神の掟がなければこの世に「形相的な罪」は少なくなるはずです。しかし、世界にはもっと苦しみ、痛み、悲しみが増えたであろうことは確かです。またなぜそうなのかを私たちはよく知るべきです。

神は私たちの創造主です。それ故に私たちのために何がよいことであるか、私たちにお与えになった生命から、私たちがもっとも多く、しかも最善のものを受けるためにどのように生きればいいかを神は知っていらっしゃいます。そして、私たちの慈愛深い御父として神は私たちを危害、危険、苦しみから守ることを望まれます。だから神は掟によって何が悪であるか私たちに警告なさいます。神は私たちがどのように生きればいいの教えられます。知りつつ神に不従順であるき、私たちは神に逆らい、神を侮辱し、罪つまり神に反する不従順という刑相的罪を犯します。悪い行為はこの世に苦しみを増やします。それは自分たち自身の苦しみ、もしくは直接的、間接的に私たちが傷つける隣人の苦しみでもあり得ます。

これらの悪い結果は、私たちが完全に知りつつ、自由に神に背き、不従順のために神の罰に値するときだけでなく、私たちがそれが悪であるとか、神に禁じられているとか知らないで行動するときも、常に私たちの悪い行いに伴います。それ故に、これらの悪い行為をする人たちが間違った良心によって自分たちは正しい、自分たちは罪を犯していないと考えるときも、彼らの「物質的に」悪い行為はこの世の人の苦しみを増すことになります。

私たちは、これを私たちの日常生活の中にも容易に見ることができます。父親がまだ小さな子供たちに道路の真ん中で遊ばないように、家の中で火遊びをしないように、近くの木に登ったりしないように命じるとき、彼は良い父親ならだれでもそうするように、子供たちに痛い思いをさせて危険を自分自身で発見させる代わりに、それらの行為に伴う危険について警告しています。ですから、息子の中の一人が父親の言いつけに背くとき、彼は死んだり、怪我したりする危険を冒します。妹がまねをするかもしれません。たぶんそのまた妹とか彼女のまねをするさらに別の子が怪我をしたり、火事を出して家を焼いてしまうかもしれません。息子が父親の言いつけを知っていても知っていなくても、悪い結果は − 父親の罰としてではなくても − 禁じられた行為に伴うでしょう。

だから教会は、自分の良心に従うとき私たちが罪を避けることができると教える一方で、正しい良心に従うことによってこの世の苦しみを避けたり、減らしたりすることができるように、何が本当に正しく、何が本当に悪いのかを見つけるべきであるとも教えます。教会は良心と判断が教会の教えのとおり、正しく神の掟にのっとっていることを確かめる義務があることを信者に教えます。なぜなら、もし良心が正しく形成されていないために私たちの行いが神の掟に背けば、それは私たちにとって悪になります。神が禁じる行為をするとき、私たちはたとえ「罪を犯して」いなくても、遅かれ早かれ自分たちが、もしくはまねをする人たちが苦しんだり、他人を苦しませたりするでしょう − たとえそれが神からの罰ではないにしても。

教会はその司教、司祭、彼らに協力して教える立場にあるすべての人たち、例えば教師、カテキスタ、両親に、人々が自分の行為に関して正しい判断をして、悪い行為で隣人を傷つけないように人々を助けるために、神の掟について教える義務があることを思い起こさせます。司祭の許に人々は無知と罪にまみれて来ます。司牧者である司祭は彼らが犯すことで他者を苦しめる罪には厳しくあり、同時にキリストの優しさを示さねばなりません。罪人の罪を憎みつつも、その人を愛することができるように、こう祈ればいいでしょう。「私はとがを犯した者にあなたの道を教え、罪びとはあなたに帰ってくるでしょう」(詩編五十一・十三)。

しかし、もし人々が回心できないことを知っているのなら、なぜ私たちは彼らの誤った良心を放置しておくことができないのですか?

そのとおり。時として司祭は悔悛する人たちの「間違った思いこみ」を放置しておくことが許されます。しかし、これは一般的な許可とはほど遠いものです。こういうことが許されるための条件は極めて限られています。倫理学者たちはこのことについて司祭たちに詳しく説明してきました。和解の秘蹟の外で人々を指導するとき、これらの条件の知識は有用です。司祭、協力者、カウンセラーたちは、どういう場合にその人が間違った思いこみの中に留まることを許すか判断する際、それは役立ちます。以下の場合は「だれかを間違った思いこみの中に」放置しておくことが許されません。

−もし、その人の無知が当人の責任でないとき、そして教育が有益であると予見されるとき。例えば、教会の教えをそれまでに聞いたことがなかった改宗者に教えているとき。こんな時または似たような時、私たちは質問の条件が満たされた、つまり「この人の考えを変えることができない」と早まって推定してはなりません。人間の自由、回心する力、神の恵みを早まって制限してはいけません。

−もし、その人が明らかに迷っているなら、つまり当人がしていることが正しいかどうか自信のないとき。その明らかな印は彼らが質問をするということです。これは彼らがもはや「間違って思いこんで」いるのではないことを示します。彼らには正しいことを教えるべきです。なぜなら彼らにはキリストが教会に与えた答えを知る権利があるからです。これは特に告解の際に質問する人たちに当てはまります。そして彼らを「間違った思いこみ」の中に放置しておくことは「神父様はそれが間違っているとは言わなかった…」と、ほかの人たちに話すことによるつまずきの危険を含みます。

−もし私たちが沈黙を守ることによって公共善が損なわれるとき。特に私たちが沈黙していたり、真理を説かないことによってある種の悪い行為がよい、もしくは許されていると考える誤りが、共同体の中に広まることに力を貸すことになるとき。

−もし、その人の無知もしくは間違いが、自分たち自身にもしくはほかの人々に大きな害を与えるとき。以上見たように、ある人の物質的に間違った行為は時としてはすぐ直接的に、またある時はしばらくしてから間接的に他者を傷つけるものです。

もし、以上の条件の中一つでも満たされたら、私たちには誰かの「善意の思いこみ」を放置しておくことが許されません。人々の行為がもっと目に見えて他者を傷つける人間生活のほかの分野でこれはもっと明白になります。

ある青年は麻薬使用が悪でないと思っています。むしろ自分がリラックスして、友達づきあいもよくなるのでそれが善である考えています。彼にはそういう「思いこみ」があります。それ故に、この危険な麻薬使用を開始した時点では、たしかに神の前で罪を犯していません。しかし彼の友人もしくは牧者が彼の「思いこみ」を放置していいのでしょうか? 彼が麻薬「中毒」で生命の危険に陥るのを無視していいのでしょうか? 彼がそこに至る前に麻薬使用を止めたとしても、彼のまねをしたために薬物中毒になって死んでしまう友人が何人いるか、彼自身にも分からないでしょう。彼らの友達もさらに同じ道をたどることが予想されます。

それが「悪い」ことであると知らないで同性愛行為に浸っている友人もしくは信者がいると仮定しましょう。彼にはそういう「思いこみ」があり、おそらく罪によって神に背いていないであろうから放置してよいでしょうか? 彼はエイズに罹り、他人にもそれをうつす可能性があるというのに。

第二次世界大戦後、ドイツの戦犯裁判で、強制収容所の多くの看守たちは自分たちのしたことが犯罪であるとして告発されたとき、自分たちは単に「命令に従っていただけ」で、何も悪いことをしていない、上官が死刑の判決を下した犯罪人を処刑しただけであると言い訳をしたものです。もし、彼らの言い分どおりであるとすれば、彼らには「思いこみ」があり、または「自分たちの良心に従っていた」だけです。それ故に神に反して「罪を犯さなかった」ことになります。しかし、彼らが殺した人たちは、それにもかかわらず苦しんで、死にました。犠牲者の家族も彼らとともに苦しみ、そして五十年経過した今に至るまで、彼らの苦しみは続いています。これら看守の友人とか牧者たちは、ことに相談を受けたのであれば、彼らを「思いこみの中に放置しておいて」もよかったのでしょうか?

原則ははっきりしています。もしその無知が打ち勝つことのできないものであれば、そしてそのようなときにだけ、また彼に教えようとしても無駄であることが予想され、教えないことが彼にとってもまわりの人にとっても害にならないと思われる場合に限って、私たちはその人が思いこみの中に留まることを許せます。適用は上に挙げた例から見ても分かりやすいはずです。しかし、教会の外、そして悲しいことには教会の中でも避妊を容認・推進する宣伝攻勢が絶え間なく、激しいので、この原則を避妊に適用するときそこは盲点になりがちです。

この理由で、私たちに託されたメッセージを宣言することはもっと困難になります。しかし以下に見るように、このほかにも種々の困難があります。

メッセージの伝達 ・ 困難と問題

人々が私たちの言うことに耳を傾けないとき避妊に反対することは困難です。

そのとおり。私たちの話を聞く人たちの中にはこの教えを受け入れようとしない人たちもいるでしょう。その方がもっと現実に近いのではなかろうかと思われます。目の前に避妊していると分かっている夫婦、おそらくは友人でもある人がいるとき避妊の悪を説くのは困難ではあります。しかし司祭の仕事が常に簡単であるとだれが思うでしょうか? 私たちが説教するどんなことについても同じことが言えます。私たちが説くことを受け入れない人、それを実践しない人は常にいるものです。しかし、ある人たちが、いや多くの人たちが不倫の罪を犯し、うそをつくからという理由で不倫とうそが悪であると説くのを私たちは止めるでしょうか? 真理を説き続けるのが私たちの義務です。ほかに道はありません。もし、私たちがその義務を果たさなければ、もっと多くの人たちが、不倫の罪を犯し、うそをつくことになるでしょう。

人々が神の掟を無視すればするほど、私たちは大声でそのことを糾弾し、掟を説明し、どうすればそれに従えるか示し続ける必要があります。聖パウロは、季節の如何にかかわらず、人々が耳を貸そうが貸すまいが常に説き続ける必要性を感じていました。イエス・キリストの新しい契約の使徒である私たちも旧約の予言者たち、洗者ヨハネと同じように反対に立ち向かわなければなりません。予言者の生活は当時と比べてもっと易しくなった訳ではありません。しかし、それは私たちがイエス・キリストから召された生き方、私たちが主のために感謝して受け入れた生き方です。

神は予言者エゼキエルに、彼がご自分の民の番人として任命されたことを告げ、次のように警告なさいました。「私が悪人に向かって『お前は必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたがその悪人に警告して、悪人が悪の道から離れて命を得るように諭さないなら、悪人は自分の罪のゆえに死ぬが、彼の死の責任をあなたに問う。しかし、あなたが悪人に警告したのに、悪人が自分の悪と悪の道から立ち帰らなかった場合には、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う」。

羊飼いたちについての説教の中で、聖アウグスチヌスはこれを牧者である自分の生活に当てはめます。そして、私たちも同じことができます。自分の教区民に語りかけて彼はこう言います。「黙っていることがどんなに危険であるが分かりますか…黙っていないのが私の仕事です。そして、私がたとえ沈黙していたとしても、聖書にある牧者の言葉に耳を傾けるのはあなたたちの仕事です」。

回勅『フマネ・ヴィテ』二十八で、教皇パウロ六世は司祭たちに「深い信頼をもって」話されます。教皇は教会の教導職に内面的にも外面的にも捧げることが義務である誠実な従順の模範を示すように、司祭たちに願い「真理を解釈するに当たって教会の牧者たちには聖霊の特別な光があります − そして彼らが提示する理論よりもこれがこれほどの従順をあなたたちに義務づける理由」であることを想起させられました。

ですから私たちの従順は、私たちがそれによって生きるキリストの啓示のほかのすべての部分について、私たちを照らしている同じ信仰に基づきます。しかし、自分たちが教えることの価値について確信を持てるためには、神がなぜ私たちをそのように導かれるか理解すれば、私たちの従順はもっと容易になり、もっと効果的に教えることができるでしょう。性的に放縦な現代社会の価値観をうのみにし、またそれに基づいた、絶え間ない、しかもその大部分が巧妙な偽装を施された宣伝攻勢のために、実際の人数よりはるかに大きな影響力を誇る頭のいい神学者たちの攻撃があるので、私たちの士気が低くなってしまう危険があります。私たちの周りで、大声でがなり立てる意見に嫌気がさして、私たちは「静かな生活のためにはどんな犠牲でも払いたい」と弱音を吐きたくもなります。ですから、独身である教皇と司祭たちが結婚している人たちに禁止する、避妊のすばらしさについて耳にすることを私たちは何でも信じたくなります。私たちはビリングス排卵法が主張していることを心を開いて受け入れなければなりません。そして、特にこの分野ですでに経験のある人たちの言うことに、よく耳を傾け、彼らを公に、効果的に支持することを恐れてはなりません。

このようにして、私たちは避妊に反対の説教をするだけで満足しなくなるでしょう。私たちの信者に積極的な助けを提供する種々の方法を私たちは探すつもりです。私は一九七〇年に「私たちにできそうもないことをするように、司祭が説教するだけでは十分ではありません。私たちにできることが何であるか見つけるよう手伝って下さい」と言ってくれたある既婚信徒に心から感謝しています。この時宜を得た一言が私の良心を動かし、私がその後自然に基づく家族計画(NFP)にかかわるきっかけになりました。

避妊を断罪するのはカトリック教会だけなのですか?

今世紀に入ってしばらく経過したころまで、諸キリスト教会はそろって避妊の習慣が悪であり、神から禁止されていると教えていました。

一九三〇年代初期のランベス会議まで、英国教会も避妊について教えを変更することはありませんでした。メソヂスト教会の公式変更は一九五〇年代後期になってからです。ですから質問を次のように変更することができると思います。「キリスト教諸派はこの点で立場を変えました。なぜカトリック教会だけが今でも避妊を断罪するのですか?」そうすると質問は変更した諸教派についてなされるべきでしょう。私の経験では、この小冊子の確信に基づく結婚講座を受けた混宗婚の非カトリック者は、その後ほとんど全員がカトリック信者になりました。信者である妻たちの公の証言によると、彼女らの夫たちは結婚講座に参加した後教会がそのほかにどんなことを教えているか知りたがり、結局は改宗に導かれたということでした。

さらに、私たちは避妊反対に関して、キリスト教以外の多くの宗教がカトリック教会と同じ考え方をしていることに気づきます。

回教徒は避妊とそれに伴う生活様式に強い反対を示しています。

種々の形を取る人工的家族計画はヒンズー教の基本的理想、特にブラクマチャリャつまり克己と地上的欲望からの浄化に反しています。ヒンズー教の司祭が書いた興味深いある小冊子には、彼らのあの有名な指導者マハトマ・ガンジーと教皇パウロ六世の回勅『フマネ・ヴィテ』からのいくつかの引用が、互いに向き合ったページに印刷されています。そこに見られる両者の類似点には驚かされます。

しかし、私たちはガンジーの方が教皇よりずっと厳しかったことを知るべきです。ジェルメイン・グリーアによると「彼は性交が子孫をもうけるために行われる場合に限り、愛は欲望でないと明確に教えるスミトリ典に従っていました」( Sex and Destiny 、九十九〜百ページ)何年にもわたって彼はインドに避妊を導入しようとする西欧世界の圧力に抵抗したものです。そして人間の弱さへの譲歩としてのみNFPつまり当時のリズム法を支持しました。

ラウトカで開催された世界保健機構のセミナーで私はフィジ島ヒンズー教の二つの主な流れ、サナタム・ダルムとアーリャ・サマジュを代表する二人のヒンズー教徒の主張を聞きました。二人とも産児制限には大反対でした。その主な根拠は若い人たちの責任感が減少し、自己抑制の必要性がなくなってしまうということでした。これは教皇パウロ六世が回勅『フマネ・ヴィテ』で強調していることでもあります。

そして、最近私たちは西欧社会が信じる「性の宗教」を退ける種々の現代グループの間にも、以下に列挙するように数多くの同士を発見しつつあります。

− 自然な生き方を追い求める種々の「自然保護団体」。

− 性、結婚、子供に対する西欧の性的放縦を容認する態度が避妊剤や器具とともに持ち込まれた地方共同体に及ぼす弊害に気づいた人類学者たち。

− 西欧先進国が人工的家族計画を第三世界に輸出する試みを、そこに住む何十億という人たちに彼らの高価な商品を売りつけるために市場を広めようとする、もう一つの金もうけの手段であると見る正義と平和のために働く人々。それは第三世界の当該国を経済的にますます先進国に依存させます。

− そしてこれはもっと新しい動きですが、避妊は男性にとって女性をいつでも「おもちゃ」として入手可能にするので、女性をますます男性に隷属させることに気づいた現代フェミニストたち。

以上はすべてジェルメイン・グリーアの「 Sex and Destiny 」に書かれてあることです。同書は現代の避妊推進論者の戦術と政策の暴露という点からも一読に値します。

避妊に関する教会の教えは、世界の人口問題解決を困難にするのではありませんか?

これは古くさい理屈です。最近フィリップ殿下、マルコム・ポット博士、その他、教皇に手紙を書いて公の注意を引いた人たちによって再登場を果たしています。教会を批判する人たちは「人口過剰」を教皇と教会の教えのせいします。今でもまだはやっている理屈は教会が教えを変更していたら人口過剰はなかったであろうに、というものです。これはもちろん真実ではありません。世界でもっとも人口密度が高い中国とかインドなどのアジア諸国などの地域でカトリックは少数派です。国連諸機関とその同盟諸団体の避妊運動がこれらの国で失敗したのは、教皇が人工的家族計画を断罪したからではありません。それは性よりも子供を大事にするこれらの国の人々の基本的な文化的確信によるものでした。

インドがいい例です。彼らには自分たちの文化と宗教、結婚と性交が持つ生殖力の聖性に対する尊敬心があります。そのためにインドは世界保健機構とその同盟諸団体の運動とわいろを受け付けようとしませんでした。それが私たちの運動の成果であればよかったのにと思うことさえあります。しかし事実は、インド、そのほかの類似した国々でカトリック教会はほとんど無視していい少数派に過ぎません。 Sex and Destiny は何ページにもわたって、特に九十八〜百二、三百三十九〜三百六十四ページで避妊センターがインドで避妊を広く普及しようとした試みと、その失敗について詳述しています。そのどこを読んでも、著者は「失敗」を教会のせいにしていません。

実を言えば、人口問題を克服するのを困難にしているのは教会ではありません。むしろ、第三世界諸国に彼らの文化と宗教になじまない方法を押しつけようとしている避妊論者たちの無神経なやり方です。もし彼らが本当に誠実であれば、これらの国々の人たちがビリングス排卵法のような「禁欲に頼る方法」なら、もっと喜んで受け入れるだろうということに気づくはずです。しかし、ビリングス排卵法は金になりません。売るものが何一つないからです。だからいくらそれを推進しても全くもうかりません。

さらに、私たちはこれら諸国の貧困が急速な人口増加の結果でなく、むしろその原因であり、「人口過剰の恐怖」はどちらかと言えば神話に過ぎない、と主張する強力な団体が経済学界にあることも記憶しておくべきでしょう。多くの先進諸国の人口増加率低下は、主に経済が豊かになり、女性が以前と比較して高度な教育を受けるようになったことに起因する晩婚の結果です。

また、ヨーロッパの多くの国は二十年間も避妊ピルを野放しにしました。その結果、その地域での人口問題は人口過剰ではなく人口不足です。諸政府は外国からの移民によって人口が入れ替わってしまうことを避けるために、大家族には補助金を出したりまでしています。こういうことを私たちは忘れてはなりません。

しかし、カレンダーとか体温計を使用するすべてのNFPと同じように、ビリングス排卵法は性行為の自然さを損なうことで、夫婦間の愛と一致の肉体的表現の妨げにならないでしょうか?

以上に説明しましたが、ビリングス排卵法はカレンダーも体温計も使用しません。この方法の修得中に限ってグラフが必要とされます。中にはグラフを常時使用する夫婦がいるかも知れませんが、グラフは本来ならこの方法の修得期間に限ってのみ必要とされます。この方法は月経周期中の一定の期間禁欲を要求します。しかし、この方法を利用して妊娠を延期したり、避けたりしている夫婦は、すぐにその受胎可能期間にも、ほかの方法で愛情を表現できることを発見するものです。そして実際に彼らが夫婦の交わりを望めば、この方法を使用している限り二人の間に不自然なものは何一つありません。コンドームとかダイアフラムを、説明書どおりに使用するために従わねばならないすべての使用法のことを考えて下さい。不自然さはむしろこういう人工的方法にこそ多いと言えませんか? 避妊ピルにしても、その数多い副作用の危険性を考えるとき不自然さが無いでしょうか?

現代世界に生きる夫婦にとって、禁欲は大き過ぎる要求ではありませんか?

結婚した人たちは結婚生活には「禁欲を要求する」要素つまり子供、泊まりがけの訪問客、病気、疲労、旅行、夜勤、そのほかいろいろがあることを承知しています。結婚した人たちはビリングス排卵法が要求する禁欲とともに、これらすべても当然のこととして受け入れます。特に、後者にとって、ほかの夫婦には単なる禁欲であっても、それが夫婦の愛の印と表現になり得るのであれば、なおさら我慢しやすいものになります。

どういう人たちがより頻繁にこのような質問をするかといえば、それは断然経済的に発展していても、堕落した性道徳に振り回されている先進国の人たちです。そういう地域では、現代、以前と比較しても、また現在のほかの諸国と比較しても、性交の重要性と価値、性の快楽が完全に誇張されています。

事業の困難さと容易さは主にその動機と予期される結果によります。オリンピック選手には何ヶ月、時としては何ヶ年もの間、堪え忍ばなければならない厳しい練習があります。そのために、彼らのことを自分たち自身そしてほかの人たちが可哀想だと思うでしょうか。

夫が酔っていて、協力してくれないときはどうすればいいのでしょうか?

酔っぱらった夫には別に結婚生活上の問題はありません。問題があるのは家庭に苦しみと痛みを持ち込むアル中の夫です。子供の数が多くても少なくても、彼が司牧者、医師、A・A・の助力に頼らない限り、彼の中毒は家庭と妻の苦しみと痛みの原因であり続けるでしょう。

妻がこのような問題を悪化、長期化させる最良の方法を伝授しましょう。それは、彼が協力しようがしまいが、絶対妊娠しないように不妊手術を受けてしまうことです。その反対に、もう一人子供を産むことになっても夫を信頼し続ける妻には彼に対する愛と信頼があるので、彼女は夫が自分の問題に直面して、立ち直るきっかけと励ましになります。このような場合、大部分の妻たちは子供が産まれないで夫の飲酒癖が直らなかったり、悪化したりするよりも、もう一人子供を産んで夫に立ち直ってもらう方がずっといいと思うのではないでしょうか? 

女性が、自分にコントロールできない理由−知的能力の欠如、感情的未成熟その他−のために妊娠を防止できない場合があります。すべての司牧的方法が功を奏しないときは、卵管結索が最良の方法と思うのですが?

卵管結索は、最良の解決ではありません。純粋に医学的見地からも、責任感がある医師ならこのような場合卵管結索を拒否するでしょう。この処置はおそらくもう一人赤ちゃんを産むより、もっと多くの問題の原因になり得ます。それは離婚を含むほかの諸々の問題に門戸を開く結果になりがちだからです。しかし、もしそうならなくても、よい結果をもたらすために悪い手段を用いることは決して許されません。

そして、この問題のほかの条件がいつ完全に満たされているか知ることは極端に困難です。いつそしていかにしてすべての司牧的方法が功を奏さなかったことを私たちが知り得るのでしょうか? 先週、それらの方法が功を奏さなかもしれません。来年、それらの方法は功を奏するかも知れません。ある場合は、来月、すでに功を奏するかもしれません。

どんな方法であっても家族計画は未婚女性を妊娠から守るために役立つのではありませんか? 彼女らが現代愛し合っている人たちにとって普通のことである性交によって愛を表現することを止めさせることはできないのですから。

これはもちろん完全に不道徳、異教的な前提に基づいた質問です。現代西欧の性的放縦社会は未婚の男女が「性行為以外に愛を表現することはできない」と思でしょう。しかし、それ以外の人たちはこんな理屈を認めないでしょう。この推定を自分たちにとっては本当であるとして受け入れる人たちがいるかもしれません。彼らは将来の生活に神の掟に従う自己抑制が要求する努力よりも、はるかに大きな悲しみと苦しみを引っ張り込みます。婚前セックスで表現される「愛」は自分たち自身の遊びと快楽に対する利己的、自分中心的愛にしか過ぎません。それは生涯続く二人の幸せのために必要な愛と異質なものです。

司祭が、彼らには性交を避けることができないなどと言って譲歩するとき、彼は神が不可能なことを命じ、ご自分の掟を守るために必要な助けを与えようとしないと主張することにならないでしょうか? 神に対するこのような信頼心の欠如を司祭が若い男女に漏らすことは、彼ら自身の中にある信頼心を失わせ、純潔でありたいと願う彼らの動機さえも打ち砕いてしまいます。

未婚女性との不妊期間中の性交は、実際に妊娠する可能性のある妊娠可能期間の性交と比較するとそれほど悪くないのではありませんか?

そうかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか? しかし、助言する立場にある司祭にとってこれは口にするべきことではありません。両方とも間違いではありませんか? どちらがもっと悪いかなどと考えること自体がおかしくないですか? それは一人殺すのと二人殺すのとどちらがもっと罪深いか議論するようなものです。

妊娠中絶と比較して、実際に胎児の生命を奪う訳でない避妊はそれほど悪くないのではありませんか?

上述の答えと同じくこれもあまり意味をなしません。だれかの手を切り落とすことはその人を殺してしまうほど悪くはないと主張するようなものです。しかし、だからといって、手を切り落とすことが許されるでしょうか。とにかく、ここで問題になっているのは、どのような避妊なのでしょうか? 上述したように、多くの「避妊法」には中絶促進作用があり、実際に胎児を殺します。質問した人はどのような避妊法を勧めたいのでしょうか? 

どのような形態の避妊をしていても、女性は後でその罪を告白すればそれでいいのではないですか?

それは本当です − しかし、彼女には再びそのような罪を犯さないという固い決心がなければなりません。つまりその罪を避けるために必要な手段は何であれすべて取るということが必要です。告白つまり赦しの秘蹟は決して罪を犯す許可を与えるものではありません。

メッセージの伝達・その手段

あなたが話している避妊の悪影響にはどのようなものがあるのですか?

一般的に言って、すべての種類の産児制限の最悪の結果は教皇パウロ六世が回勅『フマネ・ヴィテ』で預言なさっていたようなことです。それらは不幸なことにすべて現実になりました。教皇は「人工的な産児制限の手段とその理由がもたらす結果は…夫婦間の不忠実と、道徳の全般的低下に向かって開かれる」と指摘なさいました。教皇は、人間の弱さのゆえに人々、特に若い人たちは道徳の掟を守る動機を必要とし、そして「彼らがその掟を無視しやすくしてしまうのはよくないことである」と言われました。教皇は − フェミニストに先立って − 避妊手段を使用することを習慣とする男性が「女性に対する尊敬を忘れ、妻の肉体と精神の均衡を考慮せず、妻を尊敬すべき自分の伴侶としてではなく、単なる利己的快楽の道具とみなすようになる」危険について警告なさっていました(十七)。

性的放縦がますますはびこった七十、八十年代を生きてきた私たちは、この預言がこの世の中だけでなく教会の中、特にその教えが信者によって無視されてきた地域においてどれほど本当であったかを目の当たりに見ました。

私はここで、性と結婚に関して教会内における従順の欠如のために生じた二つの重要なかつ悲しい結果を指摘します。

− まず、カトリック信者の間に一致がなかったので、私たちは世界の性的放縦、特に多くの国の妊娠中絶合法化に効果的に立ち向かうことができませんでした。

− 次に、産児制限をしたカトリックの夫婦が多かったことは召命減少の一因となりました。それは一般的に性的放縦の増加に貢献してきました。その結果、多くの若い人たちが生涯を神に捧げる生活など考えることもできなくなるような罪深い生き方をするよう誘惑されることになりました。そして、現今の一般的傾向は過去多くの召命の温床であった多子家庭の劇的減少です。しかしおそらくもっと大事なことがあります。それは子供たちに与える自分たちの不従順の結果です。つまり、たとえそれが物質的にのみ罪であったとしても、子供たちは教会が教える掟を両親と友人たちが無視するどころか、公に反対さえしていると知れば、教会に生涯を捧げるようにはおそらくならないだろうということです。

種々の人工的産児制限法がもたらす悪影響にはどのようなものがありますか? それらはどのような害を及ぼしますか?

特に外科的妊娠中絶では明白に分かるように、人間を殺す中絶とか中絶を促進する種類の避妊法の悪影響を指摘する必要はないでしょう。しかし、生命尊重運動の雑誌とか書籍にしばしば書かれているように、中絶は母親に心理的な傷を残すことを記憶しておかねばなりません。

避妊ピルを服用する女性たちは、ピルのせいで赤ちゃんが中絶されてしまったことすら、おそらく気づかないでしょう。しかし、このような赤ちゃんがたとえ赤ちゃんの形をしていなくても、それが人間であったことは事実です。体内で赤ちゃんを殺すことは赤ちゃんが生まれた後に殺すことと変わりません。

しかし、不妊手術は中絶の原因にはなりません。どのような意味でこれは人々に害をもたらしますか?

精管切除術は男性にとって種々の苦痛を伴う結果があります。かなり以前から医師たちは一九七〇、一九八〇年代のようにそれが「すぐに済む、簡単な手術」などと言わなくなりました。補遺四を参照。

卵管結索はしばしば外科的、医学的副作用を伴います。そのうちのかなりのケースは将来再手術する必要があります。ここでは二つの研究だけを簡単に引用しましょう。        

「ヴァンダービルト大学病院ではウィリアム・ジョーンズとメリルが二百人の患者に関する追跡研究を実施しました。それにによると、卵管結索の後、患者の二四%には、何らかの婦人学科的不調が見られました。著者たちは、十ヶ年の追跡調査を実行すれば卵管結索手術を受けた患者の三一%には、何らかの意味で重要な婦人学科的問題が予測されるであろうと報告しています」( American Journal of Obstetrics , 百十五・千五十二〜千五十七, 一九七三年四月十五日号" Tubal ligation in perspective" から)。

「卵管結索の後、十年間にわたって合計三百七十四人の追跡調査がなされました。四三%は追加の婦人学科的治療が必要でした。二五%は、婦人学科的大手術を必要としました」( British Medical Journal 一九七二年一月八日号、M.J. Muldoon, Gynecological illness after sterilization)。

さらに深刻な、長期的影響もあります。それは卵管結索手術後の女性たちに性欲減退が著しいということです。その結果、彼女たちは夫と性に対する興味を失ってしまいます。夫は、彼女が不倫をしているのではないかと疑ったり、自分がほかの女性を求め始めたり、また両者ともに不倫に走ったりします。

以前の任地で家庭訪問中に分かったことですが、夫が妻と子供たちを残してほかの女性のもとに走ったケースが四件もありました。いずれも、妻が卵管結索手術を受けて四、五年後の出来事でした。そのほかの女性たちも性欲減退を訴えていました。教会外での結婚を直すための結婚講座グループ授業の際でしたが、一人の男性は公に自分がそれまでずっと心配していたことを説明してくれました。つまり、彼が妻に卵管結索手術を受けさせて以来、妻が別人のようになってしまっていたというのです。

これらの悪い影響があまりにも多いので、複数の医師がその実施に当たっていくつかのルールを提案しています。以下にその主なものを挙げてみます。

夫婦双方の合意が必要。「一方だけが熱心に見えるときは決定を延期しなければならない」。

医師が不妊手術を受けるように説得するのは厳禁。

出産の最中には決して不妊手術を行ったり、不妊手術の同意を求めてはならない。正にそういう際、女性はこれ以上の子供が欲しくないと思うものだから。

夫婦双方の宗教的観点からの反対を考慮しなければならない。

夫婦には少なくとも三人の健康な子供がいることが前提。

社会的適応、特に不幸で不安定な結婚の場合、手術は悪影響しかもたらさない。

私は読者が友人や教区民にこの手術を受けることを「許可」したりすることのないように、かなりのスペースを卵管結索に割きました。司祭がこういうことを許可することは正にそれを「勧める」ことにほかなりません。

ホルモン・ピルにはあまたの悪影響と副作用があります。それを枚挙するには紙数が足りません。しかし、これらについてはすでに数多くの記録もありますし、公に批判・攻撃されているので、ここでそれを繰り返す必要はないでしょう。特に、ピルの種類、その組み合わせが異なると、服用する一人一人の女性にその女性特有の作用を及ぼすので、ここで詳説することには意味がありません。回勅『フマネ・ヴィテ』以前に避妊ピル服用を始め、その発表後中止した女性がいます。私に(そしてほかの人たちにも)彼女が伝えてくれたことだけはここに紹介します。それは「まるで、妊娠状態がずっと続いているようなものでした。それなのに、いろんな不快さがいくら続いても報いはありません」。

ここでも、卵管結索と同じく性欲減退の可能性があるのは確かです。ですから、夫婦の不仲もしくは離婚の危機に際して、私はいつでも妻が卵管結索手術を受けているか、避妊ピルを服用、もしくはそのほかの避妊法を採用しているか知るように努めます。そういうことが問題の発端になった可能性があるからです。

注射によるホルモン避妊は一般的に言って三〜六ヶ月間効果があります。経口ピルに比較するとはるかに危険が多いことは否めません。その理由は、一回注射してしまうと期間が過ぎるまでは元に戻すことができないからです。ですから、その女性に例えば何らかの問題が生じた場合、おそらく血液凝固があったとすると、体内の薬物が何ヶ月か経って完全に消滅してしまうまで、全く対策が取れないからです。もし同じ副作用のある経口ピルであれば、何らかの悪影響があった時点で服用を停止できます。

障壁法はその失敗率の高さのほかにも、前に述べたように、着用が困難であったり、面倒であったりするという大問題があります。ダイアフラムと併用して使用される精子殺傷作用のあるジェリーは現在以前ほど使用されません。しかし、ダイアフラムが使用されなくなって残念に思う人がもしいるとしたら、補遺六、ジェルメイン・グリーアの報告を一読して下さい。役に立つはずです。

補遺二では、コンドーム使用の際に注意しなければならない六つの「規則」が引用されています。それらはすべて性的関係のもっとも親密な瞬間に際しての規則です。多くの人たちがそれらを、もしくは、その内のいくつかを無視してしまうのはもっともなことです。それがおそらくコンドームの失敗率が高いことを説明する一つの理由でしょう。ある調査によると初期のリズム法と失敗率は同じであると言われます。

一九七一年、「ルック」誌中で、ダヴィッド・M・ロルヴィック氏は、最新の(明らかに中絶促進作用がある)「プロスタグランディン」を含めて当時市場に出始めた新しい避妊ピルや避妊リングを調査した記事を書きました。その結論として、彼のコンドーム、ダイアフラム、避妊ピルについての考えを次のように表明したものです。氏は避妊剤の「種々の利点」について心配し過ぎて人々に禁止しようとする私たち無知な独身者たちを説得するために、避妊論者の宣伝を以下のように説明しようとしたものです。

「プロスタグランディンは現在入手可能などの製品よりも新しい世代の先駆け的な避妊薬です。それは避妊ピルでさえも、ダイアフラムのように古くさく、コンドームのようにぎごちなく、全く魅力の無いものにしてしまいます。これから先、すべての女性はより簡単で、安全で、確かな避妊ができるようになりました」。

しかし、エイズ予防のために現代コンドームは必要ではありませんか?

残念なことに、いわゆるエイズ「予防」の決め手としてコンドームが再登場を果たしました。これは悲劇的であり、犯罪です。機会さえあれば声を大きくしてこれが間違いであることを説明し、反対することにやぶさかであってはなりません。

百人のコンドーム使用者を一年間にわたって調査した結果、その失敗率は、二〇〜二五%もあることが分かっています。この数字から見ただけでも、それがエイズ「予防」になる訳がないことは明白です。キャリヤーとの性的接触によってHIVを伝染させるウイルスのサイズは、男性精子の三十分の一しかありません。コンドームの劣化とかその間違った使用法は妊娠の原因になり得る訳です。ですから、当然コンドームはHIVウイルスの侵入を許します。それは相手を妊娠させる危険があるどころか、はるかに高い確率でエイズ感染の危険にさらします。

さらに、妊娠は女性の月経周期の中で受胎可能期間にだけ起こり得る訳です。ですから、予定外の妊娠は受胎可能期間内に限ってしかあり得ません。受胎可能期間のおよそ三〜四倍の長期にわたる不妊期間にコンドーム使用上の事故があったとしても、妊娠につながる訳ではありません。しかし、同じコンドーム使用上の失敗があって相手がキャリヤーであればHIV感染は可能です。しかし、コンドーム製造業者はこの巨大な市場で巨額の利益を上げています。ニューヨーク市内の高校生に無料で配られる何百万のコンドームは氷山の一角に過ぎません。長い目で見ると、それは若い人たちの道徳心を低下させ、性的放縦を助長します。コンドーム使用はおそらくエイズ感染に寄与していると思います。

安全だからと勧められた人たちが、コンドームを使用したにもかかわらずHIVに感染することも十分に考えられます。おそらくそういう人たちが、該当製薬会社とか厚生省などが足腰立たぬほどばく大な法的損害賠償を勝ち取る日まで、エイズ予防のコンドーム使用推進運動は続くのでしょう。

しかし、ビリングス排卵法も「家族計画」です。以上で批判されてきたほかの方法と比較してどう違うのですか? また、それはもっと優れた方法なのですか?

上述したすべての自然に基づく家族計画と同様に、また人工避妊と異なり、ビリングス排卵法は結婚と結婚生活における愛に関する神の掟に完全に従っています。ですから、夫婦はこの方法に従う十分な理由があるとき、ビリングス排卵法を使用しても自分たちの結婚に何ら害を与えるものでないと確信できます。

確かに、夫婦はビリングス排卵法に従ってほかの方法と同じく受胎を避けることはできます。しかし、彼らは不妊時期を知り、二人で話し合った上でどの日を性交の日にするか決定するために神の創造による子宮頸管粘液の性質を利用するので、神が彼らに与えて下さった自然に備わる知性を使います。それで、彼らは自分たちが授かった体、もしくはその機能に何ら変更を加える訳ではありません。彼らは神がお与えになったたまものを使用しているだけです。これはパウロ六世が回勅『フマネ・ヴィテ』十六で明確に述べておられます。多くのカトリック信者は、神の掟とのこの一致がビリングス排卵法の最大の利点であると感じ、それを学ぼうとする第一の理由に挙げています。しかし、彼らはすぐにほかにもいろいろな利点を見いだすことになります。

妊娠を延期したり、避けたりする方法としての価値に関して世界保健機構の主導で行われた調査を含む多くの実態調査がなされました。それらは例外なくビリングス排卵法がおそらく卵管結索手術を除けば、ほかのどの方法と比べても遜色がないどころか、はるかに効果的であることさえも明らかにしています。

ビリングス排卵法開発以前の一九六〇年代に利用されたリズム法について言えば、決して私たちの友人であるとは言えない国際家族計画連盟でさえも、彼らの医学ハンドブックの中で次のように述べています。

「理論的に言えば、これは女性が安全な日と安全でない日を見分けることを可能にする、理想的避妊法であるように見えます…不幸なことに…排卵日を確実に知ることはまだできません」。

そして、彼らの一九七四年版のハンドブックで、彼らはかなり正確に当時の排卵法の技術的水準について述べ、次のように言っています。

「もっとも受胎しやすい状態、それほど受胎しやすくない状態、受胎しにくい状態を見分けることは女性が理解しなければならない大事な知識です」。

その後の版でどのような評価をしているか知るのは興味深いことです。しかし私が知る限り彼らはこの方法を世界のどこでも実践に移してはいません。

しかし、避妊法と比較してビリングス排卵法の優秀さを誇示するためには、以下に続くいくつかの質問に対する答えを読んでもらうのがもっと簡単かもしれません。

ビリングス排卵法は受胎防止のほかにどのような役に立ちますか?

ビリングス排卵法はほかの種々の方法と比べて、産児を制限する手段としても有効ではあります。しかし、その特有な価値はそれが、ほかの方法と比べものにならないくらい効果的な家族計画の手段であるという点です。それは計画という言葉を堂々と使える唯一の方法です。以上述べたことはもちろん基礎体温法と、それ以外に子宮頸管粘液の価値と意味を夫婦に知らせる方法があれば、それについても言えることではあります。すべての避妊は妊娠を避けるためにのみ利用されるので、実は家族を計画するのでなく、制限するものではありませんか? 夫婦はそれらの方法を子供が欲しいとき受胎するために使用することができません。それどころか、それらの中の多くの方法は女性の受胎能力を弱め、長期にわたって使用した後少なくとも一時的に女性を不妊化します。しかし、ビリングス排卵法をとおして夫婦は次の赤ちゃんを積極的に計画できます。また、多くの夫婦にとってもっと大事なことは、彼らが妻の受胎能力が低かったためにそれまでに子供に恵まれなかった場合でも、自分たちの赤ちゃんを自分たちとそれぞれの両親の大きな喜びの中に受胎できることです。

この方法に頼る夫婦は受胎の日を知ることができますから、当然、前回の月経の期日から推定する普通の方法に頼るより、もっと正確に赤ちゃんの誕生日を知ることができるようになります。そして、もちろん、特定の時期に誕生日が来るように、その九ヶ月前の受胎を狙うということもできます。ロスアンゼルスに在住するある夫婦は家族全員の誕生日が同じ月になるように計画し、成功しています。そのほか、私はフィジ島に住むある「勇敢な」女性を知っています。彼女は帝王切開を予想していたので、前回妊娠したときは赤ちゃんの誕生日が公務員であった彼女の有給休暇の時期になるように計画したのです。

何組もの夫婦から聞いたことですが、彼らが赤ちゃんの妊娠を計画できることは、彼らの夫婦愛にもう一つの次元を追加することになります。つまり、その赤ちゃんが受胎した愛の交わりを特定できることから、その子が大きくなるのを見守るにつれて、後々までもその夜のことを思い出すというのです。

そしてさらに、ビリングス排卵法は夫婦が望み、計画した赤ちゃんの性別を選択することさえも、妻の子宮頸管粘液の性質を見分けることによってしばしば可能にします。

ある人たちは、そのような知識があると、女の子より男の子を欲しがる地方では男の子の数が女の子の数より多くなることを心配します。そういう可能性は確かにあるでしょう。しかし、果たしてそうなるでしょうか? もし、そうなったとしても、その結果女の赤ちゃんが少なくなると、女の赤ちゃんの社会的価値が上昇することが考えられませんか? 人々はもっと価値があると考えられる女の赤ちゃんを産む方法をしっかと心得ているという訳です…。

夫婦はあまりにも繊細な、弱い精子によって卵子が受精することを避けることができます。強い精子による授精を望むのであれば子宮頸管粘液の粘度が最高の日に性交があればいいのです。

ほかのNFP法と同様に、ビリングス排卵法は夫婦の話し合いを要求します。その結果、夫婦愛は深まります。私がロスアンゼルス在住の精神科医から聞いた話を紹介しましょう。彼は時として結婚生活が難しくなってしまった夫婦にビリングス排卵法を教えます。この方法が彼らの夫婦関係を改善するので治療手段になると彼は語ってくれます。

赤ちゃんが望まれ、歓迎され、愛される文化では、ビリングス排卵法に伴うこれらのすばらしい価値は多くの夫婦を夢中にさせます。そして、ほかの宗教の人たちもますます興味を示し始めています。

補遺一 受胎可能期のほかの兆候

何年か前、受胎可能期には唾液に変化があるという研究がなされたことがありました。リトマス試験紙のような紙片を毎日口中に入れて色の変化を調べるものです。主に、色の変化があまりにも少なく、あまりにも微妙だったので結局は役に立ちませんでした。

受胎可能期前と受胎可能期中には尿に変化があります。それは非常に明白で、実証済みです。被験女性の毎日の尿の観察が子宮頸管粘液の検査と一致することも科学的に確かめられています。しかし、明らかに、このような実験室内での尿検査は普通の主婦にとっては不便です。しかし、近年、家庭用「卵巣モニター」がメルボルンの科学者ジム・ブラウン教授によって開発され、女性は実験室に尿サンプルを送らないでも、尿に含まれるホルモンレベルを測定できるようになりました。(私の知る限り)この方法は独立したNFP法としては使用されていません。しかし、あるビリングス排卵法の指導者たちは、時として患者が疑り深く、神経質であるとき、その受胎可能期間パターンをクロスチェックするために使用します。

受胎期における発汗の変化も医学的に知られた事実です。しかし、受胎可能期を探したり、確定したりするためにはそれほど役に立ちません。興味のある方は調べても構いません。ある女性たちは受胎可能期間特有の発汗のせいで指輪が幾分退色したり、変色したりするのに気づくことがあるでしょう。

排卵前後、女性は周期的に軽い痛みを下腹部に感じますが、これもほかのもっと確定的な印で確認される受胎可能性を興味のある人が確認できるという程度のものです。

これは、どちら側の卵巣から排卵しているか知りたい女性にとっていくらか役に立つかもしれません。排卵時には、太股と下腹部の間の恥部の脇にある分泌線が幾分か腫れるという現象があります。

子宮頸管自体の変化は女性が自分自身で知ることができます。指で触ると排卵時であることを知らせる子宮頸管の変化を観察できます。これは少なくとも何年か前のことになりますが、カナダを含むいくつかの国々で「子宮頸管触診法」と呼ばれるNFP法として教えられたものです。しかし、ほぼすべての文化圏の女性たちにこの方法は評判が悪く、ほとんどのNFP指導者たちはその必要性を認めません。さらに医師たちは、それが女性にとって非常に繊細な部分の細菌感染の原因にもなりかねないと警告しています。

補遺二 コンドームの使用法

以下は、国際家族計画連盟の医学ハンドブック三版九十三ページの引用(老婆心ながら付け加えるならば、以下はコンドーム使用がどれほど醜く、悪であるかを読者に知って欲しかったのであえて訳者が省略しなかったものです)。

コンドームは男性器官(ペニス)と産道(膣)が接触する前に着用すること。

勃起したペニスに丁寧にコンドームをかぶせること。精液溜めがない場合は精液を受け止めるためにペニスの先に六〜七ミリの余裕を残すこと。

膣口もしくはコンドームの外側、もしくはその両方に円滑剤を塗布すると、挿入が容易になる。またコンドームも破損しにくくなる。

性交の何分か前に相手は溶液状のペッサリー、泡タブレット、一定量の避妊ジェリー、クリームもしくはエアゾールを膣内に注入できる。

性交後勃起状態が続いている中にペニスを膣から引き出す。コンドームから精液が漏れることを防止するために、またコンドーム自体が外れてしまわないために指でコンドームの縁を保持すること。

容器に記されている使用期限期間が切れているコンドームを使わないこと。

補遺三 多数意見の客観的規範

中絶と中絶誘発的避妊剤、不妊手術を「一般的に」断罪した後、多数意見は次のように述べています。

さらに、自然法とキリスト教信仰に照らされた理性は、夫婦が望みのままにでなく、客観的規範に従って行動することを要求します。方法の正しい選択のためのそれらの客観的規範は、実りある愛の共同体としての結婚の本質的価値を維持し育成するための条件です。これらの規範が守られるとき、その目的、目的、状況に従った人間行為の正しい秩序が保たれます。

これらの規範の中には以下が含まれねばなりません。

(i)人間の生殖の全体的意義が真の愛の文脈の中に保たれるように、その人と彼の行為の性格にその行動が釣り合ったものでなければなりません(GS十一、 c・一 Part五十一参照)。

(ii)選択された手段は、一時的もしくは永久的に避妊する権利もしくは必要の度合いに釣り合った効果を持たねばなりません。

(iii)避妊のすべての方法には、 − 定期的もしくは永久的禁欲を除外することなく − 二人がそれとなく強く感じている何らかの肉体的悪の要素があります。肉体的悪のこの否定的要素は異なる側面から生じ得ます。生物学、衛生学、心理学的側面、配偶者の人格的尊厳、配偶者間の愛の人格的関係を十分にかつ上手に表現する可能性が考慮に入れられねばなりません。いくつかが可能であるとき、選択される手段は二人の置かれた具体的状況に応じて、可能な限り少ない否定的要素を持つものでなければなりません

(iv)具体的に種々の手段から選択するとき、特定の地方では、また特定の時期に、また特定の夫婦にとって、何が入手可能であるかということに多くがかかってきます。またこれは経済的状態によるかもしれません。

故に、自分勝手にではなく自然法と神法が要求するとおりに、夫婦は、すべての規範を考慮した上で、客観性に基づく判断を形成すべきです。彼らは、もし神の前に、通常のそして賢明な忠告をこいねがえば、それほどの困難無く、また心の平和の中にそうすることができます。しかし、彼らは可能な限りこれらの規範についてしかるべき人から教えを聞いて、規範の正しい適用についての教育を受けなければなりません。キリスト信者としてしっかりと教えを聞き、賢明に教育された人たちは夫婦と子供たちのために最善のことが何であるかを賢明に、静かな心で決定することができるでしょう。また、自分たちのキリスト信者としての個人的完徳に達すること、つまり自然法とキリスト教の啓示をとおして彼らの前に、実行すべく提示されたことを実行するのを怠ることはないでしょう。(一九六七年四月二十二日、ロンドンの Tablet 、四百五十二ページから引用)。

司牧者もしくはその協力者たちが、彼らの教区民をこれらの「客観的規範」について「適切に教育する」ために払うことになったであろう困難に注意を喚起するために、以上の文章に下線を施してみました。司牧者として、このような仕事を引き受けることにならなかったことをうれしく思います。しかし、この文書に署名した人たちの中のだれが実際にこんな任務を果たせたと思いますか。私の現在の思いは回勅『フマネ・ヴィテ』が出される前の一九六七年、初めてこの文書を Tablet 誌上で読んだときと変わりません。このようなあいまい、実践不可能な解決を教皇と教会が受け入れて、教えることができる訳がありません。

補遺四 不妊手術の結果についての報告

以下は、ジェルメイン・グリーアによる精管切除に関する研究( Sex and Destiny 七十八ページ)の要約です。

その点に関して、不妊手術推進論者たちが自分たちのしていることを十分に理解しているとは言えません。例えば、精管切除したその部分での睾丸肉腫の形成が原状に復帰する希望的な見通しがあるのかどうか、どちらとも言えないのでしょうか? それが、無意味なのか、それとも、痛みを伴い、衰弱の原因になるのか、不明です。精管手術を受けた約三分の一近くの男性には、肉腫が形成されます。その内の一〇%は性的興奮の際に痛みを感じます。おそらく興奮初期から続き、射精時に激痛を感じるか性交後疼痛として残ります。ある場合は化膿性の炎症になり、濡れた感じが残ったり、隠嚢の傷として残ったりします。精管切除後の症状を軽視する傾向は、ある一人の医者自身が生涯最大の激痛に苦しんで、二時間内に十五ミリグラムのモルヒネを、五回も注射しなければならなかったことを報告するまで続いたものです。彼が医師でなかったらモルヒネの利用はおそらく不可能だったでしょう。

補遺五 フィジ文化と家族計画

私たちの教区民のほとんどは、フィジ人です。ですから、ここに私は、 Pacific Perspective , Vol・七、 一& 二、一九七八年、三十一ページにあるUSPのアセセラ・ラヴヴ教授の論文を引用しましょう。教授は、政府と政府後援諸団体による家族計画がフィジの文化と家庭生活にとっていかに不適切、かつ有害であるかを指摘しています。

トカトカ、マタガリ、ヤヴサなどのフィジの広範な地域で、大家族グループの継続はフィジの家族グループの概念にとっては基本です。子供が多ければ多いほど夫婦は尊敬され、鼻が高いのです…子供が多いということは助け手、守り手の多さ、完璧な安全を意味します。マタガリの住民が多いことはそのグループの力が経済的、政治的にも強いこと以外の何ものをも意味しません。子供たちは家族の最重要な財産なのです…。

私たちは大家族と同時に、重荷でなく財産になることが期待される健康で強い子供たちを重んじます。子供というものは元気に走り回り、ほかの子供たちと仲良くし、幼い弟や妹がいれば、特にその下にまた赤ちゃんが産まれる前には「子守り」もできなければなりません。

両親は、初めに産まれた子供の「おむつがとれる前に」次の子が産まれると、それとない批判の眼差しを浴びる羽目になります。まだ乳離れの済んでいない子供のその後の健康の心配もせずに、両親が性にかまけているのではという推定に対する含蓄的嫌悪が島民の間には見られます。その母親が妊娠した結果、乳離れしていない、もしくは乳離れしたばかりの子供が出会う困難は、このような状態を言い表す「サヴェ」という島の伝統的単語に要約されます…。私たちは中絶を容認しませんが、その一方でサヴェの思想が示すのは産児に間隔を置く島独自の方法の存在です。

一九三〇年代、保健担当機関が、九ヶ月での乳離れを人々に勧めるようになりました。この変化はある程度伝統的な子育ての習慣を覆しただけでなく、伝統的な性的抑制の習慣も変えてしまいました。伝統的な性規範は生殖と子育てのあり方によって決定されたものです。性的抑制は一般的に女性が妊娠に気づいたとき始まりました。そして、子供が強制されることなく自分から乳離れしたとき、もしくは母乳が自然に止まるまで続いたものです。この期間中に夫婦が少しでも親密にしているのを見られることは、人々から嘲られることを意味しました。性は子育てに従属していました。性が乱用されることなどは耳にすることさえありませんでした。夫婦は次の子供を産んでもおかしくないときに限って一つ屋根の下に暮らしたものです。性的衝動は家族の福利のために厳しくコントロールされていました。

変化を望むいろいろな機関による強制は絶えることがありませんでした。そして性と大家族に対する態度を変化させようとする膨大な努力の数々は、島民の生活に容赦なくその恐るべき結果をもたらしました。計画と発展にかかわる諸機関は…公に家族規模の縮小と性生活の美化を強調します。「性は結構、しかし赤ちゃんは生まない方がいい」これが、 The Pacific Way という本のある章の見出しです。これは無責任そのものではありませんか? その意味するところは赤ちゃんは要らない、赤ちゃんは社会・経済的な重荷に過ぎないということではありませんか? かつて家族の誇りの源であった子供たちは、現今では家族にとっては恥であり、重荷であるということになってしまいました。

伝統に従えば、男女が一つ屋根の下に住まうことは受胎につながる訳ですが、現代思想によればそれは受胎につながる必要がありません。性的衝動は満たされ、楽しまれなければなりません。この「現代的」概念が不相応に強調されてきました…。

私たちは人口増加の調節、自己充足、どん欲のために人と分かち合い、人を大事にする人間的価値を犠牲にしてはなりません。フィジ島では個人的、個別的充足と幸せはほかの人間との関係の中にのみ楽しむことができるのです…。

補遺六 ダイアフラム使用者の悩み

Sex and Destiny 百三十三ページの以下の要約は、ダイアフラム使用者の経験の報告です。

主にダイアフラムに頼った世界最初の産児制限クリニックが、一八八二年、オランダに誕生しました。その国に因んでオランダ人の帽子(the Dutch cap)とも呼ばれるダイアフラムは、精子殺傷剤のゴム容器にしか過ぎません。装着感はぎごちなく、人差し指と親指で膣の中に押し込み、骨盤の後部まで挿入されたことを確かめた後も、膣内でピンと張った状態に留めるために、ギリギリの大きさにカットしたゴム片でした。「帽子」などと間違って呼ばれていますが、ダイアフラムの実態はゴム製の分離壁です。このかさばった、弾力のある物体に精子殺傷剤を厚手に塗りたくると、円形のバネを親指と人差し指の間に圧縮したまま保持するのはかなり困難です。この状態のダイアフラムは挿入時にしばしば指の間から飛び出して、四方八方にネバネバした物質を散布してしまうことになります。精子殺傷剤は普通冷たく、限りない粘着性があります。それは子宮頸管に塗りつけられるはずのものです。しかし、その冷たいヘドロが目的以外のものにくっついてしまうことが時としてあります。もし性交が長引いて、このヘドロが消失してしまう場合は、新たに塗り直すことになります。愛の夜はまるで精子殺傷剤シャワーの夜になるという有様です。口で生殖器に接触するなどとんでもないことです。特に、精子殺傷剤はまるで精子がネズミででもあるかのように、殺傷能力を持たせてありますから。

ダイアフラムとその中で泳ぎ回るものが、なぜあれほど醜悪でなければならないかは想像を絶します。もし歯磨き粉が精子殺傷剤と同じぐらい味が悪かったと仮定してみましょう。一国にあるすべての歯という歯は何年も前に一本残らず抜け落ちてしまったはずです。ダイアフラムは限りなくさえない、薄いゴムでできているので、ちょっと何かが当たると破れてしまいます。湿気があっても駄目になります。ですから、浴室の蛇口はいつでも乾燥中のダイアフラムで飾られており、トイレを使う羽目になった来客はそれを目にして肝をつぶすことになります。何年来、私と性の解放戦士たちは使用済みのこのゴムを儀式用の飾り、階級を象徴する勲章に使うことまでしたものです。そこまでして、私たちのダイアフラムを好きになろうとしたのに…。

著者ダーモット・ハーリー神父について★★★★★司祭とカテキスタのために書かれた本小冊子の著者はアイルランド出身のコロンバン会司祭です。師は一九四八年以来メルボルンとフィジ島の小教区で働いてきました。このほかにも、師には種々の著作があります。師は専門的典礼学者でもあります。そのほかに、何年にもわたって恵まれない人たちに住居を提供する事業も主催してきました。同時に、フィジ島での良心的産児計画連盟の指導者としてビリングス排卵法の普及に努めています。



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