同性愛に関する日本カトリック教会の公式見解?

『フマネ・ヴィテ』研究会 成相明人

以下は「カトリック部落問題委員会ニュースレター第65号2000.1.1」の引用です。くれぐれもお間違いのないように! カトリック部落問題委員会事務局から発行されています。編集人は橋本瑠璃子。皆さんは日本カトリック教会の公式見解とも思われそうなこの文章についてどう思いますか? カトリックというラベルが付いているようですが、中身も本当にカトリックでしょうか? 判断してみてください。さて、わたしの見解は引用文の後に続きます。

壁を壊す

本柳孝司

先日、部落問題委員会の常任・運営委員会において、同性愛についての学習会があり、東京都立日野寮護園に働くかたわら、「HIVと人権・情報センター東京、GAYによるGAYのための電話相談」の世話人をしておられる岡崎一裕さんを講師に、同性愛としての自らの体験を伺いました。岡崎さんは、自分自身の同性愛者としての体験、思い、憤りを淡々と語ってくれたので、全体的には、暗く、重い専門的な話とはならず、素直に話を受け取ることがでさたように思います。その中で私が気になったのは、彼がしさりに「世間」ということを強調していたことです。世間からの冷たい目、偏見のために、いかに自分が同性愛者である、と気がついた多くの若者が悩み苦しんでいるか。それは、自らも体験したものでもあるのでしょう。

GAYの若者たちが共通して感じることは、自分は、異常なのではないか。変態ななのではないかということです。自分が同性に興味があり、同性を愛してしまうことは、間違っていることであると思い込んでしまうということです。そのような原因で、自殺をする人も多いのではないかと述べています。

この話を軌、て、私を含めて、この社会には、同性愛者への理解に対して、何か乗り越えがたい大きな壁があるように感じました。しかし、それは、壊さなければならないものであります。「大きな壁」とは何か。今回の話の中で、繰り返し同性愛者に対する世間の冷たい目、偏見を強調されていましたが、私たちの考え方の中にそのような態度をとらせるような「常識」というものが染みついているように思います。私たちの社会の中には、人間というものは、異性間で愛し合うということが自然なことであり、当然のことであるという常識が絶対的なほどの力をもって存在しています。ですから、自分が同性愛者であると気づいた思春期の若者にとって、想像以上の苦しみがあるのだと思います。

しかし、同性愛者は、本当に異常なのか、と岡崎さんは問いかけています。医学的には、現在、同性愛は何らかの病気ではなく、精神障害ではない、ということが言われています。最近、同性愛をテーマにした映画が多く作成されたり、テレビ、新聞、雑誌等でも、同性愛に関する話題が取り上げられ、情報としては、多くのことが手に入るので、私もそのことは知っていました。しかし、同性愛者本人の口から、このことを聞かされると、あらためてこのことを真剣に受け止めていかなければと強く感じます。とはいっても、現実には、医学的な扱いに関わらず、同性愛を嫌悪し、異常とするある種の絶対的な常識、倫理観といってもよいかと思いますが、それが存在していることは、紛れもない事実です。残念ながらカトリック教会もそれに支配されているように思います。

岡崎さんは、カトリック教会の信者であり、そして、自分が同性愛者であることをカミングアウトしています。しかし、教会(小教区)の中では、司祭だけには、話をしたそうですが、全体としてはカミングアウトしていないそうです。世の中以上ににカトリック教会には、同性愛に対して根強い偏見があります。それは、多分に従来の聖書理解、人間理解、そして、倫理的な側面等からきているように思われます。しかし、それが教義(実際には直接同性愛に関してのものはないと思うのですが?)にまで関わる問題なので、大変難しいのです。自分の生き方、自分そのものを否定されるような教会の中で信仰者として歩んでいくことは、大変なことだと思います。それでも、大きな重圧を感じながら教会に行きつづけるようです。しかし、人口の比率では、同性愛者が3〜10%はいるということですので、1000人の信徒がいる小教区であれば、単純に計算して少なくとも30人はいるということになります。このことからも、特別なこととして捉えることはできません。

実際に教会の中に、自分が同性愛者であるということで、罪人だと感じ、自己を否定しながら悩み、苦しんでいる方がいるのでしょう。私自身教会の中で同性愛者にも出会ったことはありませんが、公表していないだけで、もしかしたら出会っているのかもしれません。自分が同性愛者であると表明することで被る痛みを考えると、一歩を踏み出すことができないのでしょう。その気持ちはよく理解でさます。彼らが自分らしく活きられる場を教会の中に作り出していけるように、私も自分自身の中にある大きな壁を壊していかなければと決意したいと思います。

今、私たちに必要なことは、現実から出発するということなのでしょう。同性愛者ということで苦しんでいる方々の声を聞いていくこと、今、現実にそのことによって悩み、苦しんでいる人がいるということを真剣に受け止めていくこと、そして、どんな理由があるにせよ、同性愛者であるという立場を明確にしていくことが大切です。このことが変革していくための原動力となるのです。そして、もうひとつ、私たちがキリストの弟子としてできることは、このような現実を出発点として、同性愛について神学的に深めていくことだと思います。少なくとも、医学的には、正常であると広く認識されているわけです。ですから、神学的にも認知の方向へと回心する必要もあるのでしょう。医学的には、壁は壊されました。神学的な大さな壁を壊し、乗り越えなければ、と強く願っております。

カトリック大船教会(横浜教区)

さて、サルヴァトール会のロバート・ニュージェント神父とノートル・ダム教育修道女会のシスター・ジャニーヌ・グラミックもほぼ同様な考えと態度で、ゲイとレスビアンにかかわってきました。しかし今年の七月、バチカンの教理省は二人の活動を禁止しました。ニュージェント神父は自分は教会の子であるし、従順の誓願もあるので従う、という表明をしました。シスターの方は「わたしも従うけれど、自分が教会とゲイ・レスビアン共同体の架け橋になるいう神が与えたこの使命を果たすために、バチカンが最後にはわたしの活動を認めるでしょう」と言っています。つまり、一応は従うけど不服である、全面的降伏ではないわよ、教理省の方が間違っていて、正しいのはわたしよ、ということでしょう。

バチカンがシスターの言いなりになることはありません。おそらく十年以上検討した結果の決定でしょう。この二人がバチカンのお咎めを受けた理由は二人が教えた内容です。つまり、同性愛が自然なものであって、同性愛の行為が必ずしも間違っているわけではない、というのが彼らの指導でした。喜んだのがゲイ・レスビアンの人たちです。何しろ、カトリックの神父とシスターが自分たちの行動を祝福してくれるのですから、こんなにありがたい話はないと思ったことでしょう。ところが二人の教えた内容はカトリックではなかったということです。不勉強な日本の教会はまだでも本柳孝司さんのような主張を公のものとして全国教会に送りつけるのです。これはよくありません。

同性愛の傾向があるのは本人のせいでないかも知れません。ですから、それだけで罪になるわけはありません。しかし、同性愛を実践するとこれは大罪になります。これが教会の伝統的で公の教えではありませんか? 同性愛の人たちも自分たちの病的傾向には抵抗する義務があります。正常な人たち、つまり異性に惹かれる人たちが、自分が異性に惹かれるからと言って、異性に襲いかかったり、異性を誘惑したりすることが許されないのとまったく同じように、同性愛の人たちも自分の中にある悪しき傾向には打ち勝つ必要があります。

正常な人たちが自分たちのセックスをコントロールできるのと同じく、彼らには自分たちの傾向に打ち勝つ義務がありますし、祈り、秘跡、カウンセリングなどの手段もあります。司祭であれば彼らの告白を聞きますから、わたしの言っていることが理解できるはずです。事実、アメリカとカナダには彼らを助けるCOURAGEと呼ばれるプログラムがあり、成功しています。本柳さんももう少し勉強なさったらいかがなものでしょうか? The Truth about Homosexuality - The Cry of the Faithful - A Comprehensive View of the Issues Involved in Homosexuality by John F. Harvey O.S.F.S., Ignatius Press は読まれましたか? この本は377ページもありますが、あなたは全国のカトリック信徒を指導する立場にあると思っておられるようですから、是非このような重要な本には目を通しておいて下さい。