回勅『フマネ・ヴィテ』は時代遅れだろうか?
医学博士 ジークフリート・エルンスト 著
序言 ポール・マルクス O.S.B.
『フマネ・ヴィテ』研究会 成 相 明 人 訳
序 言
以下は、インスブルック(オーストリア)と全ヨーロッパで、今日でも話題になっているある出来事の報告です。オーストリア訪問中の教皇ヨハネ・パウロ二世は、ドイツ語圏の青年たちとの集いに出席なさいました。その日も午後になると、教皇は、性と純潔に関する教会の教えについて、彼らの苦情を延々と聞かされる羽目になりました。ご自分に発言の機会が巡ってくると、教皇は彼らの質問に常に短く答えられました。それを耳にした若い人たちはあざけり笑い、テレビ解説者はこれ見よがしに顔をしかめました。反対の立場を表明していた神学者たちは教皇をにらみつけてヤジを飛ばしたものです。
この小冊子の中で、ジークフリート・エルンスト博士は記念すべきあの日、教皇があざけり笑う青年たちになさった短い答えを強力に弁護します。本書は実にユニークで、意外性に満ちています。ルーテル教徒、職業からいえば医師である博士は、倫理神学者としてではなく一人の科学者として本書を執筆しました。
わたしは長年エルンスト博士とのつき合いがあります。彼は、わたしが思うにヨーロッパでも指折りのプロ・ライフ思想家でしょう。博士が読者のために準備した胸がすくような驚きの連続を今ここで公開するわけにはいきません。しかし、感謝の気持ちを込めて彼が発展させるテーマに少しだけ触れることにしましょう。
博士はまず、現代文化に見られる一貫性の欠如を指摘します。わたしたちの多くはこの現象の深い意味に気づいていません。現代人は科学とか技術に一連の厳密な規範を要求します。しかし、道徳と霊性に関しては、実にゆるやかな規範しか要求しません。進歩の名の下に人々は規範に対するこの二種類の要求を使い分けます。一方では、物質に関してより厳密な正確さと世界統一規格を要求します。他方、道徳に関しては、ますますの不正確、相対性を追求します。このような不釣り合いが許されていいものでしょうか? 進歩の名の下に、なぜ、このような分裂症が許容されるのでしょう?
自然科学において、現代人は自分が変えることのできない現実に直面します。しかし道徳に関して人々は自分自身の現実、つまり正邪の世界を勝手に構築しようとすると、著者は考えます。
博士はこの幻想を見事に打ち砕きます。博士は人間相互関係の巨大な構築物である社会が、人間の自然的本能から有機的に成長し、また人間のこれらの本能が不可変の現実でもってわたしたちに対峙することを示します。現代人はもし社会的、対人的結合が可能であるとすれば、社会構造と結合している、自然の他のレベルが必要とすることと、全く同じように客観的で正確なものが必要とされる「今までの伝統的なやり方」に満足しません。このように考えるとき、性の革命はその真の性格を見せ始めます。それは社会構造を支える役目を果たすどころか、ただ単にそれをけ散らし、破壊するだけです。それは自分たちの子孫に対する戦争であり、急上昇する離婚率が示すように男性と女性を反目させます。昔は家族と呼ばれた、確固とした構造が存在しました。今は壊れやすく、求心力のない、いわゆる「関係」しか残っていません。
次に、エルンスト博士は本物の対立ということを実に深く理解させてくれます。わたしは五十年前に哲学を学びました。当時、自然界における物理学的な絶対的対立はあっても、論理学的な対立とはそこまで厳しくないと理解したものでした。二個の磁石の同じ極を近づけると、それらは互いに反撥し合って、対立しますが、エルンスト博士はこの講話の中で、教皇に異議を唱えるカトリック信者たちが理解しないだけでなく、目を開いて見ることさえ頑固に拒否するような「対立」について語ります。つまり、避妊とキリスト教の間にある対立がそれです。
避妊の本質は人間の性的結合から生命の伝達を除外することです。しかし、生命のたまものをもっとも親密な男女関係から除外することは、このたまものの贈り主を除外することにほかなりません。創造主はわたしたちを性的に創造して下さっただけでなく、「生めよ。増えよ」とおっしゃいました。つまり、ご自分の計画の中での性の意味を説明なさっています。避妊は人間の世界からその創造主ご自身を除外することを意味します。わたしたち人間の愛を神の計画に開くとき、わたしたちは新しい人間のために新しい魂を創造する神が、わたしたちと共に働くことに同意します。わたしたちが男女の愛を神の計画の前に閉ざしてしまうとき、わたしたちは存在自体であるお方をご自分の仕事場に立ち入ることを拒否し、存在の創り主をそこから閉め出します。
性の快楽を新しい人間の創造と分離しようとすることの意味は、一体何なのでしょうか? それは自分たちの都合で神が計画した場を勝手に変更し、自分たちの意思で神との関係を変更することです。このような思い上がりはキリスト教と共存できません。それは宗教の異常な変形、近代主義となら共存可能でしょう。人間が「進化」を遂げ、偉くなり、契約更新の必要を感じる度に神と自分たちとの契約を再検討、再交渉できると考えるのが近代主義です。
現代、多くの人たちは宗教に興味を持ち、教会に復帰し、イエスとの一致を感じたいと望んでいます。しかし、これらの人が持っている宗教観は不十分で、せいぜい近代主義が多くの人たちの行き着く先になっています。神の目の前で乱暴に閉ざしてしまった夫婦の寝室の戸をもう一度神に開くまで近代主義は彼らにまとわりつき、離れようとしないことをどれほどの人が理解するのでしょうか? 神の恵みによって、ついに日本語にも翻訳されることになったエルンスト博士のこの小冊子によって、多くの夫婦が彼らの寝室の扉を神に開きますように。
ベネディクト会司祭 ポール・マルクス 一九九五年六月二十六日
ジークフリート・エルンスト博士の
プロフィール
医師、著名な哲学者、講演者・著述家であるジークフリート・エルンスト博士はヨーロッパのプロ・ライフ運動最強のリーダーです。ドイツ最大のルーテル教会バーデン・ヴュルテンベルク教会会議の前会長として、エルンスト博士は同教会内に強力なプロ・ライフ運動が確立されるにあたって大きな役割を果たしました。今日、博士は自分もその創立にかかわった人間の生命を大事にする医師の世界連盟副会長を務めています。博士がルーテル教徒であること自体がそのメッセージに限りなく重みを加えます。博士は六人の子供さんの父親で、その中の四人は医師になっており、二人はカトリック信者です。現住所はウルム。
回勅『フマネ・ヴィテ』は時代遅れだろうか?
ジークフリート・エルンスト博士のこの講話は、1988年9月、Medizin und Ideologie ("Europaische Arzteaktion" の機関誌)誌上で発表されています。
皆さんの中にはインスブルック訪問中の教皇ヨハネ・パウロ二世が、青年たちの数々の質問にお答えになったときの様子をテレビ画面上で目にした人がいるかもしれません。あのカトリック青年たちはたとえ善意からであったとしても、現代路線に教皇を引っ張り込もうとしていました。あの日の教皇は全く孤独に見えました。教皇が独り正面に腰掛けているのを見たわたしの胸は痛みました。後に教皇は質問に一言も答えようとせず、片手で頭をつっかい、座り続けていました。教皇はもちろんそれらすべての質問にそれまでに何度もきちんと答えておられました。最後に教皇は強い調子で「皆さんにお答えする代わりに、わたしはロザリオをプレゼントしましょう」とおっしゃたものです。
これが若い世代のいろいろな問題に対する答えになっていたのでしょうか? 教皇はここで、ご自分に与えられている不可謬権を行使して、古くなった「道徳の掟」を改訂することはできなかったのでしょうか? 若い人たち、数多くの倫理神学者、テレビ解説者が望んだような発言をして、進歩的教皇として歴史に名を残すこともできたのに…。避妊ピルと不妊手術なしに、人類は人口爆発によって必ず破滅してしまうことを教皇は知らないのでしょうか? 現代青年たちが教会に拒否反応を示していたとしても、本当は「宗教的」でありたいと望んでいることを教皇は理解することがあるのでしょうか?
(この理屈に従えば)宗教的感情が特に「愛」とか陶酔に結びつくとき、それは自我を極限にまで体験させ、考えられ得る最高の快楽をもたらします。そしてこれらの感情は必要なのです。それらは圧倒するような心の空虚に立ち向かうために欠かせません。それらは特に「自己実現」をとおして自己正当化を確認するために必要です。生活のすべての面においてそれらは欠かせません。
これらの質問はすべて従来にまして医師であるわたしたちにかかわる人間行為に関連しています。そのためにも、わたしはここで明確に自分の立場を表明したいのです。その背後にある理由としては、特にオーストリア・テレビの三人の解説者が、教皇のオーストリア訪問を厳しく批判したこと、いくつかの点で教皇が信頼に値しないかのように非難したことの二点があります。読者にはなぜ教皇の性の倫理が反動的であり得ないかお分かりでしょう。飛行機やロケットが飛び回る現代、重力の法則は反動的ではありません。教皇もそれ以上に反動的であり得ないことを賢明な読者なら理解できるはずです。
繰り返しになりますが、教皇パウロ六世が、25年以上も前(1968年)に発表なさった回勅『フマネ・ヴィテ』当時と現代の事態は全く変わっていません。現代青年たちとその性的「解放」、すなわち今日「愛」の名の下にもっとも売れ筋の消費物資である性的活動に対する、教皇サイドのいわゆる理解欠如がまたもや問題になっています。愛の最高の表現が性的結合であると青年たちは主張します。それは「友のために命を捨てるほど大きな愛はない」とイエスが教えた愛が最高の愛である事実と両立しません。イエスが教えたこの愛は性的感情と無関係です。教皇とオーストリア青年たちの集いの間、彼らのうちの何人かは再度教皇がこれらの「古くさい、融通の利かない道徳観念」を現代化するよう要請しました。教皇はそれに耳を貸そうとせず、その点に詳しく立ち入ることさえ拒否なさいました。
若い世代はすべての道徳的「抑圧」を意識的に放棄し、自分に享楽をもたらすものは正しいという原理に適応しきっています。教皇と教会は彼らに手をさしのべることができるのでしょうか? 一説によれば「ケルン宣言」に署名した163人の神学者たちはこのような青年たちを念頭に置いていたといわれます。彼らは以下の理由で教皇が反動であると主張します。新しい性行動はキリスト教徒を含むほとんどすべての人間がすでに受け入れています。心理学者、医師、神学者、教育者、法律家、青年組織、キリスト教民主党の家庭問題担当相(女性)さえもがそれを推奨しています。教皇は自分たちが今この新しい時代に生きているということさえ理解していないと、彼らは言うのです。(ケルン宣言はドイツ語圏の163人の神学者によって、1989年1月教皇とカトリック教会教導職への公的反対として署名されました—編集者)
このような性行動は諸教会と代々の教皇たちが大事にしてきた考えとは、真っ向から反対するものではないでしょうか? テレビだけでなく、その他ほとんどのメディアも四六時中人々の頭をこのような思想で洗脳しようとしています。それだけでなく学童たちでさえも現今は大がかりなコンドーム宣伝の攻撃にさらされます。
ヴュルテンブルグ福音教会会議は、若者の教会離れ問題に関して物わかりの良い現状分析をしました。教会の青年対策活動に関する若干の改善を勧告する二、三の提案もなされました。その他、これというほどのものは見られませんでした。しかしだれもこんなことで驚いたりはしません。原則的に新しいものは何もないということです。なぜでしょうか? 福音教会では長らく避妊ピルを当然のこととしてきました。同教会での礼拝や学会で、同性愛は異性愛と同様に許されなければならないと弁護されてきました。妊娠中絶にさえも — 例えばレーニッシュ教会会議ではそこの女性従業員のために — 教会が補助金を支出しています。
ですから、カトリック教会内のあるグループが福音派教会で信者離れをおこし、特に若い世代の集団離脱の原因となった性的規範の緩和を導入しようと望んでいることにわたしは驚かされます。信仰とその深みの喪失は部分的には性の自由放任に由来します。もし教皇がこの傾向を是認することになれば、もう取り返しの付かない事態になるのは明白です。
これら163人の神学者の意見によると、教皇の融通のなさといろいろな回勅による宣言が信徒が教会から離れる原因であるそうです。とんでもない! 避妊ピルの入手が可能になり、性は限りなく軽いものになりました。そのために以前の5倍の人々が福音派教会を離脱してしまったのは事実ではありませんか? この脱教会現象は何を意味するのでしょうか? 心の清さ、純潔、慎み、忠実、生涯続く愛、その他の理想はもう古くさいのではないでしょうか? 現代は心理学の時代です。少数の反動的聖職者と教皇だけがそれら昔の徳目を依然として捨て忘れているのではないでしょうか?
教皇は青年たちへの答えとしてロザリオをプレゼントなさいました。それはイエスの母に対して冷めた態度をとるようになってしまった多くのカトリック信者に対して無益ではないでしょうか? 特に、マリアに対して否定的態度をとる福音派教会の人間にとってそれは不可解な挑戦ではないでしょうか? 要点を繰り返せば次のようになります。教皇が言及する道徳的、霊的な掟は本当に回勅『フマネ・ヴィテ』が提示しているように自然法なのでしょうか?
福音派教会の信徒、医師であるわたしにはっきりした答えはありません。しかし、教皇が不可謬であるのなら、古い性行動の規範を新しい時代に自動的に適応させたという声明を出して、教会をすべての人々に再び魅力あるものにできるものでしょうか? 若いカトリック信者、テレビ解説者、ドイツの大半の神学者、ほとんどの医師たちは明らかにそう考えていたことが分かって、わたしは驚いてしまいました。
彼らは教皇がその役職柄何が正しく何が正しくないかを決定できると信じています。この教授たちの考え方には彼らが教皇に認めるよりもはるかに強い、権威主義的色合いがあります。その他、彼らが人間の定める規範の性質と人間の神に対する関係について恐ろしく無知であることが分かります。昨日の掟に反する掟を今日施行して、自己矛盾を犯す神が存在するわけはありません。
今日「現代的」「進歩的」であることは古い形や流行を単に捨ててしまうだけを意味するのではありません。古くさい行動、習慣、社会構造、教義、または、男女が果たす手垢の付いた役割が原因になっている「抑圧」からの「解放」の必要を人々は執拗に叫び続けます。
現代人には分子生物学、遺伝学、その法則についての知識があります。それにもかかわらず、多くの人々は統一された人間のタイプ、つまり権利があってもそれに相応する義務のない、統一された型を創造することが可能であると信じています。人々はそれが「社会的」不正であり、絶対的正義に反するとしてどのような相違も攻撃します。一本の木に全く同じ二枚の葉は存在しません。同様に、全く同じタイプの人間とか、全く同じようなタレントを持つ人間が存在するわけがありません。
しかし社会は十戒の古くさい、不正確な規範はそれに伴う種々の義務ともども牧畜社会と牧畜民にだけ適していると宣言し、ほぼ全面的にこれらの規範を廃止します。その結果、わたしたちの社会は道徳・倫理的規範の地滑り現象を引き起こしました。各種の問題は手のつけようもなく膨れ上がり、数々の難問を抱え込んでいない国はありません。
科学技術世界での絶対的基準
では、道徳的基準に関してはどんな処置が適切だったのでしょうか? 調整されていない、不正確な、昔からの基準が全面的に廃止されることのなかった科学・技術の分野と、全く同じにすれば良かったはずです。科学の分野ではむしろ現代電子工学によってそれらの基準が絶対的基準になるほどに洗練されました。実に、これらの基準が世界各国で認められるようになると科学、技術、経済の世界的有機体創造が可能になりました。道徳的、精神的分野における行動の規範に関して事情は異なっていなければならないものでしょうか?
人間行動の規範である絶対的基準
同じ分析は人間関係にかかわる行動基準にも適用します。基本的に、キリストはそれらをほぼ二千年前に絶対的基準に昇格なさいました。その山上の説教で、主はまだ形式的な感のする十戒を絶対的自然法の水準に引き上げられました。
「あなたがたも聞いているとおり『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも既に心の中でその女を犯したのである」。
つまり、ここでの基準は遂行しなかった行いの相対的な清さでなく、態度の絶対的な清さです。キュング、ベッケル、その他の現代倫理神学者の考えていることと較べるとそこには天地の差があります。
例えば第五戒「あなたたちは殺してはいけない」について考えてみましょう。キリストは霊的に殺すすべての思いと言葉の禁止をそこに含ませました。つまり、それをもっと厳しく解釈なさったのです。第七戒「あなたたちは盗んではいけない」も同じ。第八戒「あなたたちは偽証してはいけない」にしても同様。それらは完全な誠実の基準になりました。「あなたがたは『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」。主は隣人愛を敵への愛にまで、つまり絶対的愛にまで広げられました。
自然法の本質
自然法はより高い全体の中の諸部分が協力することを促し、新しい性質と新しい意義を持つ、より高度な組織の存在を可能にする行動の規範つまり掟である、と定義されねばなりません。「物理的法則」は原子とエネルギーの動きを規定します。原子の協力を規定し、分子に集合させる法則は「化学的法則」といわれます。「生物学的法則」は有機物の中の細胞と器官の動きを規定します。
これらの法則は人間によって発明されたのではありません。すべて、自然科学者たちによって発見され、現代の技術が発達することを可能にした厳密な公式によって広く知られるようになりました。法則は絶対ですが、それらの適用はその限りではありません。
さて、ハイゼンベルグの不確定性の原理によると自然法は絶対でも、部分がそれらの法に従順する度合いは絶対でありません。例えば、右もしくは左を運転するという道路交通法は絶対です。しかし道路使用者がその法に従うことに関して、この法は絶対でありません。同じことが家庭、共同体、会社、国、その他の中にあって、人間が平和、自由、正義のうちに生きることを可能にする道徳的、霊的な掟に関しても観察されます。これらの掟もモーセとかキリストによって発明されて、発布されたわけではなく、人間の性質の中に内蔵される神法としてわたしたちがそれらを認識するようになったに過ぎません。ですからそれらも同じく、人間社会を治める自然の掟であると言えるでしょう。
男女の関係に関する行動の基準に関して次の問題が生じます。いろいろな国家や民族には「道徳」や「習慣」の多様性があります。それにもかかわらず、なぜキリストが宣言した基準が世界的に有効であり、撤回不可能であると教皇が宣言できるのでしょうか。163人の神学者が仕掛けたあの攻撃によると、なぜ教皇は厚かましく(例えば避妊に関する)これらの基準が神からの啓示であり、神の掟であると宣言できたのでしょうか。彼らは聖書のどこにそう書いてあるか知りたがります。
さて、聖書には大事なことが実にたくさん書かれています。イエスの時代には結婚に関する種々の掟が遵守されていました。イエスはそれらの掟を攻撃なさったでしょうか。レビ記の15章28節は、妻に月経の出血がある期間とその後に続く7日間夫婦の交わりを禁止します。つまり、結婚している男女は生理周期の最初の12日間性交を禁止されていました。12日目はしばしば受胎の必須条件である排卵日に当たります。現代のわたしたちはそれを理解できます。しかし、当時そんなことはだれも考えつかなかったはずです。この待機期間には別の意味もあります。禁欲によって相互の魅力と肉体的愛の前提条件である夫婦双方の性的緊張が高まります。その他、禁欲は精子を完全に発達させます。男性が極端に頻繁な性交を要求された場合のように、精子が未熟であるために卵子の外壁によって排除されることがありません。これもまたどちらかと言えば最近分かってきたことです。つまり、ユダヤのこの掟はほとんどの夫婦にとって最高の受胎可能性を提供する処方でした。
この法が意味することがもう一つあります。もし「平均的」夫婦が夫婦の交わりをあと2日延期すれば受胎の可能性が低くなるということです。なぜなら、現代医学の発見によれば卵子は6〜24時間で死んでしまうからです(わたしはここで、この法則を極端に単純化して話しました。実行する際は、市販されている自然に適った受胎調節法「NFP」の解説書を参照)。もし、現代教会がこの法を完全に採用していれば、避妊の問題などは存在しようもなかったでしょう。それでもこれはそもそもどのように始まったか経験的に知りようもない神法です。その存在は啓示によります。男女間、親子間にあるもっとも個人的で親密な人間関係を支配する規範など存在しないと主張する人たちが、もっと大きな社会組織のために一定の行動規範を要求するとか、民族、階級、人種間に絶対的「正義」を要求するようなことは無意味でないでしょうか? これはだれにでもはっきり分かるはずです。平和行進とか平和会議がいくらあっても、わたしたちが性の革命に起因する戦争である男女間の戦争、子供に対する戦争を止めない限り、平和は全くの幻想に終始します。
新旧約聖書の基準は単に一宗教の基準つまり宗教的趣味ではないのでしょうか? 人間社会のために「自然法」 — いつでもどこでも有効な行動の規則 — というものが果たして存在するのでしょうか? もし、どのような行為が人間社会を破壊し、あるいは逆に、建設するかを考えてみると、この質問に容易に答えることができます。虚偽、詐欺、盗みは、どの民族、階級、人種にあっても信頼と一体感を打ち壊します。他方、社会的行動規範としての完全な誠実はどんな文化においても社会が支障無く機能するための前提条件です。(肉体的、経済的、霊的また政治的)搾取と他人、家族、国家、階級、人種を犠牲にする利己的野望の達成は社会を住み難いものにし、憎しみと戦争の原因になります。他方、生活と人間関係の全分野で純粋な動機と行為は相互信頼と心から生じる協力の前提となります。自分を省みずに奉仕する心と犠牲を惜しまない心は、より大きな全体の生存のために欠かせない条件です。
憎しみ、ねたみ、殺人は世界中で人間共同体を破壊します。その反面、愛はすべての共同体を一つに結びます。従って誠実、純潔、無私、愛はどんなところでも有効な基準であり、よりよい人間共同体の建設に欠かすことができません。技術や工業世界の重量や寸法の基準と同じく、倫理的基準と行動の規範も絶対必要です。実に、わたしたちの持つ現代心理学の知識によれば、この点でもその遵守が絶対的でなくても、絶対的基準が存在することを推測させます。
性犯罪法の「自由化」
性犯罪法の「自由化」は正邪の概念を廃止することを狙っています。それは男女関係と新しい人間生命の創造に関する夫婦の態度を、全般的に支配する規範をすべて撤廃することをも狙っています。夫婦の、人間としての最高の使命は本来人類の未来への全責任を預かり、神と共同で新しい人間の創造主になることです。こうして、もっとも基本的な点の一つで人間と創造主である神との関係がおかしくなります。
すべての人間関係の中で、もっとも深いこの関係から必然的に生じる掟と規範があるのは当然です。その廃止を教皇といえども単に宣言できるでしょうか。なんという愚かさでしょう! 聖座の仕事は神と人間の関係の内容と本質を教えることにあります。さらに聖座にだけ果たせる使命があります。それは人間が真理と生命への「不可謬の」道を見いだし、誤った基準や道しるべによって誤謬に陥ったり、自分が受けた生命の本当の目的を見失うとき人間に正しい道を示すということです。
能動的共存に必要な最重要規範
道徳再武装運動の創立者、フランク・N・ブックマン博士は能動的に共存するために誠実、純潔、無私、愛という四つの絶対的基準を提唱しました。これは永久に残る彼の功績であるとわたしは信じます。博士はこの四つを男女、諸国、階級、人種が共に生きるための共通基盤として他の宗教の代表者たちに示しました。将来の世界家族に共通する倫理基準として仏教、回教、ヒンズー教、その他の指導的立場にある代表者たちがこの基準を受け入れつつあります。
ブックマン博士は、人間行動のこれらの基準と掟は同時に人間と神との関係を決定するものであることを認めています。確かに教皇も、この点で、一致するはずです。これらは、たぶん、人間的な「平和」よりもっと大事なことでしょう。誠実、純潔、無私、愛という四つの絶対的基準を認めることのできない人に「神との平和」もありません。「悪人には平和がない」と予言者イザヤは今から2500年前に宣言しています。
消費物資としての神
明らかに、多くの倫理神学者と道を誤った青年たちには基本的に誤解しています。だから、性と純潔を単に性的関係の孤立した問題としてしか見ることができず、自動的にその規範の絶対的性格も疑問視するようになります。
しかし、もし神に対する人間の真実の関係が最重要視されるのであれば、経験が示すように、誠実と純潔は基本的前提条件になります。旧約聖書に一貫するテーマはこの関係を純粋に保つための闘争ではありませんか? 預言者たちと金の子牛に始まりバール、アシュトレト、モレルの崇拝に至る様々の性的偶像相手の闘争がそれに当たります。同様に、現代の若者と倫理神学者たちも教皇に、宗教的感情と性的陶酔が至上の感情にまで凝縮されるような神の概念を創り出すことを要求します。モーセがシナイ山上にいて、あまり長いこと留守だったとき何が起こりましたか? イスラエル人たちはアーロンにせがんで自分たちの偶像を造らせました。アーロンは言われるままに彼らのために神を造りました。民が泥酔し、抑制と規律を捨て、個人と民全体が「神」を経験し、消費することができるために、アーロンは宗教と性の死に至る混合の象徴である金の子牛を造りました。
幼児殺し
この性的倒錯、宗教的消費物資に成り下がった神への信仰は論理的に産児の拒否になります。当然の帰結として、その昔民は新生児をいけにえにしてモレク神を崇拝しました。今日、それは法律で認められ、費用国家持ちの胎児大量虐殺にほかなりません。自分の隣人、配偶者だけでなく、神と教会までもが消費物になってしまいます。
神の掟は絶対
教皇はアーロンのように「民の」圧力に屈するべきなのでしょうか? それとも、モーセのように頑固であるべきでしょうか? 神の基準と掟は絶対であり、現状に関係なく、人間と神との関係を反故にしたり、金の子牛とかモレクに譲歩したりできないと教皇は突っぱねるべきなのでしょうか?
避妊は創造主の排除
避妊の本質は、快楽と陶酔だけを手に入れるために人間の性から創造的性格を排除することです。もっとも親密な人間関係である男女の性は、新しい人間を造るにあたっての完全な肉体的、霊的一致ではありませんか? そこから創造を排除することが創造主ご自身の排除そのものであることは、どのように巧妙な心理学的理論とか言い訳をもってしても否定できません。熟慮の上で、創造主つまり神から離れることは常に罪です。教皇、司教、福音派教会会議といえどもこの事実を変更できません。
教皇は自然法を変更できるか?
報道関係者に支持され、倫理神学者たちに惑わされた心理学者や青年たちの方がもちろん間違っています。彼らは神と人間の関係を律する規範を教皇がその職権によって現代の傾向に適応することができると考えます。また、啓示された規範だけでなく自然法までも教皇には変更する権限があると考えています。何という盲目、何という愚かさ! ダイヤモンドの価値を決めるのはその純度です。水晶が透明なのはその分子の並び具合の規則正しさと純度によります。同様に、人間もそのすべての本能が(『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』)「神の愛」に向けられるとき神からの照らし、その霊感と導きに対して透明になり、世界に関して神が立てられた計画を達成なさる道具になります。そのとき初めて人は自分の至高の運命を見いだし、それを実現させることができます。
もし、テレビの音響装置が故障し、ブラウン管が汚いとどうなるでしょうか? 音声には雑音が入り、映像はぼやけます。神の声と計画を受けるわたしたちの脳の中の音響装置とブラウン管の受信能力に関しても、同じことが言えないでしょうか? 正しい番組は当然ノイズを消すことを前提にします。人は霊的に聞こえ、見えなければ、神の存在を本当に体験することができません。イエスは二つの掟にすべてがかかることを教えられます。
1.「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6・5)。
2.「あなたは自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19・18)。
しかし、もし人が神の声に耳を閉ざせば、主を「見る」ことがなければ、主の現存を感じなければ、この第一の掟は何の役に立つでしょうか? どのようにして、人は主を愛することができるでしょうか? 障害を克服するためにイエスは二つの前提条件について話されました。
1.「真理を愛する人はわたしの声を聞き分ける」。
2.「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る」。
ゆえに、霊的、宗教的分野でも「聞くこと」、「見ること」、「感じること」は神の存在を知り、主と接触するために欠かせません。このように、絶対的誠実、絶対的な心の清さは人間同士の真摯な関係においてそうである以上に、神とわたしたちとの関係、主の存在を本当に体験するため必要になります。その反面、不誠実、嘘、不純は人の耳を聞こえなくさせ、人の目を見えなくさせます。
間違ったプログラムの消去
どんな人が本当に真実を語り、純粋であるかをわたしたちは問わねばなりません。内的浄化、つまり心の清さを達成することの前提条件は間違いなく自分自身について完全に正直でありたい、という心からの願望です。ビデオテープ上に自分が消したいプログラムがあれば、だれでも消去ボタンを押してそれを消すか、それとも自分が希望するプログラムを上書きします。どんなに巧妙な精神分析も、わたしたちの「コンピュータ」である脳から消したいプログラムと行動様式を消すことはできません。それはわたしたちに問題がいろいろあることを意識させてくれるだけです。
しかし、新約聖書の筆者たちは十字架上でキリストがいけにえとして死んだことは間違ったプログラム(聖書はそのことを罪と呼びます)を消去すると主張します。「御子イエス・キリストの血はあなたたちをすべての罪から清めて下さいます」。予言者イザヤは、キリストの500年前、53章5−6節で将来の救い主についてこの事実を指摘しています。
「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された」。
それ以来、数限りない人々にとって罪の消去と内的再生の体験が可能になりました。そのほとんどの人たちが、そのような消去の前提条件は間違ったプログラミング、間違った思い、感情、行動を神の証人である他の人の前で語ること、つまり和解の秘蹟によって意識することであると認めています。少し調べるだけでも、数多くの人たちのこの経験が真実であるのは明らかです。
絶対的な心の清さは自然法
使徒パウロは霊感の前提として特に性的分野での心の清さを指摘しています。「あなた方の体は、神からいただいた聖霊が宿って下さる神殿であることを知らないのですか」。
しかし、心の清さはもっと包括的な概念です。「心の清さ」は、わたしたちにあるすべての動機、衝動、行動様式の清さを意味します。反面、汚れはわたしたちが利己的で、欲望に負け、倒錯して、身体を性的に乱用することを示します。また、わたしたちの兄弟姉妹を経済的、知的、政治的に乱用することも意味します。このように理解するだけでも、心の清さが単に聖職者による純粋な感情の「道徳的」抑圧、人間が性的であることの否定、または信者を抑圧したがる権力志向の聖職者による古くさい押しつけの理論などではないことが、分かるではありませんか? 心の清さはすべてのレベル、つまり元素、分子、細胞、器官、組織体の物質的、生物学的構造、人間の生物学的、霊的、倫理的生活において正当な根拠がある自然の基本法でもあります。
例えば、手術の前に手を消毒しない外科医のように、清さの掟を守れない者は罪を犯します。汚れは人を殺すからです。細胞群はそれらの完全な原型と身体の中の何十億という細胞のそれぞれの核の中にある正確な情報に、絶え間なく適合しなければなりません。また、体はどんな有機体でもそうであるように、すべての毒を常に排除し続けなければなりません。そうでなければ体は弱くなり、ついには機能しなくなります。それはもはやわたしたちの心の道具となって、そのより高い目的を果たせなくなります。
人間諸本能の倒錯
この点では、性本能もほかの本能と何ら変わりません。なぜなら生命を創造、維持するすべての本能の本質は、自然がその客観的目的をわたしたちが「不満」と呼ぶ「欲求」(渇き、飢え、その他)を満たすことによって達成する点にあるからです。この本能を満たすとき「欲求」は「快感」もしくは「陶酔」にさえも変化します。どの本能を取ってみても、わたしたちは客観的な、本能が命じる目的と別に、その目的を実際に達成することなく快感の方だけを味わう欲求を自分勝手に創り出すことができます。しかし、この分離はそれぞれの本能にある目的の喪失、倒錯の原因になります。生命を創造、維持したりする代わりに、倒錯した本能は死の本能に変身して、生命を破壊します。
失われた目的の探索は人を殺す衝動になります。渇きは人を破壊するアルコール中毒になります。食べる本能は暴食、所有欲はどん欲、逃避本能は薬物中毒とか自殺になります。共同体と成員の生命、理想を守るための攻撃・闘争本能は憎しみと復讐欲(人種偏見と階級闘争)になります。性本能は胎児虐殺を含む各種の倒錯を伴う好色になります。権力本能は自分の優位の渇望と独裁、美の本能は虚飾になります。宗教的本能は宗教的耽溺または中世ヨーロッパのむち打ち苦行派のような宗教的マゾヒズムになってしまいます。
わたしたちの一つ一つの細胞核中には、遺伝的に埋め込まれた人間諸本能の乱用と倒錯が潜んでいます。社会はまずそれら諸本能自体を「悪」であると宣言し、その後完全な「キリスト信者」、「社会主義の英雄」、現代であれば「非暴力的」、「妥協主義的」、「平和主義的」な人間を創り出すためにしばしばそれらを破壊したり、抑圧したりします。マニ教徒はまず性本能を断罪し、根絶しようとしました。しかし彼らがそれをしばらく抑圧した後、それは倒錯した形で再登場しました。マルクス主義者と共産主義者たちは所有欲を抑圧して、何百万、何千万の男女を抹殺しました。こうして彼らは、権力を握ったすべての国で経済的な成功を望む人間の意志を破壊しました。彼らが生み出したのは腐敗、詐欺、大規模な盗み、どうしようもない貧困でした。ナチは逃避本能を破壊しようとしました。彼らは一種の「疫病」 — つまり逃避本能を喪失した動物はもはや危険を認識することができなくなって滅びてしまうような条件 — を蔓延させました。戦後ドイツの諸敵国は愛国心、名誉、愛、信仰、その他すべての高貴な理想を攻撃して、ドイツ人の攻撃本能を根絶しようとしました。彼らの狙いはドイツを自分のためだけに生きる自由主義的消費社会に変貌させることでした。しかし彼らの攻撃本能は極端なスポーツ至上主義と社会秩序や社会構造(フェミニズムの中では男性に対する女性の集団的敵対心)に対する攻撃だけでなく、増加の一途をたどるテロリズムの形でも表現されました。
人間諸本能の最高到達点
人間諸本能には乱用に走る傾向があります。この点に関するキリストの答えはそれらに戦いを挑むことではありませんでした。むしろそれらが最高に実現されるとき、それらが神と人の出会いと一致に導く衝動になると宣言することでした。
キリストにとって答えは「所有欲を捨てなさい」ではなく、むしろそれに最高の目的を与えることでした。「あなた方は地上に富を積んではならない。そこでは虫が食ったり、さびが付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は天に積みなさい」。
キリスト教的応答は、性本能に生涯にわたる一夫一婦制度のうちにその神的目的を与えることです。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」。その召し出しを感じる人は神の国の霊的な子孫を「創造する」ために、その生殖エネルギーを振り向けることができます。
「攻撃精神はあなたの隣人をこの世の悪と不正から守るために使いなさい。あなたの敵の死をもたらす攻撃を生命をもたらす愛の攻撃に変えなさい。しかし『非・攻撃的』、『平和主義的』男女になってはいけない」。
「逃避本能と恐れの本能を使って神に対する尊敬と恐れを発達させなさい。それはすべての知恵の始まりであり、人間に対するすべての恐れをなくさせます」。実に、イエスは食欲という本能でさえもパンとぶどう酒をご自分の御体と御血に変化させ、わたしたちが神と隣人に出会う手段にして下さいました。このようにして、人は神と完全に、物理的にさえも一つになります。ですから、わたしたちの本能のすべての倒錯した使用とか中毒はこれらの本能から本来の目的を奪い、わたしたちを神から遠ざけ、生命を破壊します。
わたしたちの生命を創造、支持する諸本能の倒錯と乱用は人間生命の中にある最奥の本能さえも攻撃します。ジークムント・フロイトの後任としてウィーン大学で精神分析学を教え、ハーバード大学教授でもあるヴィクター・フランクルはそれを「意味への意志」と呼びました。自分自身の生命により大きな全体の部分としてより高い意味を付与し、生命の新しい質に参与しようとするこの衝動は、人間の最奥の本能であるだけでなく、すべての被造物の基本的な傾向でもあります。
生命の基本本能としての意味への意志
一定の条件下で、物質の極小構成部分が集まって、原子を形成し、新しい、より高度な性質を備えた高等な有機的組織体を創造することもこのように考えるとき初めて理解できます。原子も集まって分子と巨大分子を形成します。物質の極小構成部分、原子、分子は「細胞」というより高度な有機的組織体の中で結合されると存在の新しい意味の部分となり、その存在に貢献することができます。そして、これらの部分は器官や有機的組織体の中に組み込まれて、さらにより高い目的を達成できます。わたしたちの有機的組織体は精神と意志からその意味をくみ取ります。それはわたしたち自身の道具です。
わたしたちが知っているもっとも意味深い被造物である人間にとってこの法則は正当な根拠を持つと思いませんか? 人間がもっと高く、意味ある有機的組織体の一部になるために自分の孤立状態と「自己実現」を捨てて、その生命の意味をまっとうするには、より高い「情報」を必要としないでしょうか? もし現代自然科学がすべての物質の極小構成部分とわたしたちの有機的組織体の構成部分に、よりすぐれた全体によって発された「情報」に反応して、生命体の要素としてのわたしたちの身体に適合する能力があることを証明できれば、人間自身、自意識のある人格としてこの能力を持つことになるのではないでしょうか?
身体の健康
ここでも同じ法則が有効です。部分がより高い構図とその「情報」によく組み込まれていればいるほど、そしてその手本に正確に合致しないすべての構成要素がさらに根本的に排除されればされるほど、その有機体はますます清められ、「もっと純粋」になり、それ自身もっと健康になります。なぜかと言えば、健康は身体が心と意志に従うことによって、その意味と目的を遂行できるようなわたしの身体の状態を指すからです。逆に身体は自己浄化せず、その細胞と器官が汚れていると病気にかかりやすくなります。従って、それがより高い目的のための道具として奉仕することは困難になってしまいます。
ここでも清さは重要な原理であり、汚れは病と死を意味します。ガンに侵された細胞は細胞核中にある原型のとおり自己を適応する能力がないことで区別されます。その増殖するエネルギーは野放しになります。細胞が性の革命を起こしたというところでしょうか。ガン細胞はもはやより高度な組織を形成せず、「性の革命」によって有機体の組織を破壊するだけです。
その同じ法則は神からの「啓示」である「情報」の最高峰、神の「言葉」とその意志に反応し、従う個人の能力に適用されます(「人間が聞きさえすれば、神は語り、人間が従いさえすれば、神は行動する」フランク・N・D・ブックマン博士)。人間の心が清ければ清いほど、神からの情報を受け入れ、それに従う能力が高まります。人間の心が清くなく、人間が汚れていれば、神の情報と計画を受け入れ、それに応える能力は減少します。その結果は生きている意義の喪失、霊的死にほかなりません。
真剣にそれを試みた人ならだれでも、生命の意義を最高に実現すること、つまり至上の幸福は自分がこの世に関して神がたてられた計画の一部であり、主の導きを受け入れているという体験の中にあることを知っています。個人が自分の運命を存在の最高のあり方 —神の国 — の中に見いだすとき、その身体の全構成部分(物質の極小構成部分、原子、分子、細胞、器官 — 実に、全身)は生命の最高の実現に参与します。それらは新約聖書によると「聖化」されます。使徒パウロはローマ人への手紙の中でこの事実に触れています。「被造物は神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」(ローマ8・19)。使徒パウロはテサロニケ人への手紙の中でこうも言っています。「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り…」(1テサロニケ5・23)。
生命を無意味にする性中心の生活
これらの明白な真実・自然法を現代社会の進展と較べてみるとき、過去30年にわたって生じてきた道徳の崩壊が意味する狂気を初めて十分に理解できます。法律がポルノグラフィーを認可しました。一つの「行動様式」としてのそういう法律は実施に移されます。姦淫、婚前・婚外の性交渉、組織化された恥知らずのヌーディズム、同性愛、レスビアニズムの地位向上容認、メディア、特にテレビ上で日常的に目にする男色等々に悪魔的性格が無いとだれが言えるでしょうか? この悪魔主義はほとんどの現代人、特に若い人たち、そして熱心と思われているキリスト信者たちの感情と行動に変化をもたらしました。しかも本人たちがほとんど知覚しないうちにです。
性的快楽は人間の性に内在する客観的目的、つまり新しい人間生命の創造における男女の完全な一致から根本的に分離しました。その結果、多くの人たちにとって愛し、結婚することがほとんど不可能になりました。この分離は結婚と家庭の崩壊をもたらします。さらに、胎児を邪魔になる「寄生虫」として殺害することになりました。それはヨーロッパの結婚制度の崩壊、またイエス・キリストへの信仰への意識的攻撃さえも意味するものになりました。神との関係の喪失は自動的に生命のより高い意義の喪失を伴います。若い人たちも含めて、生命の意義を探求する人たちが増えてきた現象は以上に述べたより深い意義を喪失したことの徴候なのです。こういう大事なものが失われてしまえば愛、誠実、忠実、犠牲を惜しまない心、内的自由、慎み、高潔などの精神的価値はすべて滅びまます。特に、それはわたしたちの生命に唯一、意味を与えることのできる本物の霊感と神の導きを認識し、それに基づいて行動する能力を喪失させます。
過去の偉大な文明のほとんどは「社会のガン」、生殖のエネルギーである性の放縦、性とその生殖能力との分離つまり「性の革命」が原因で滅びました。ですから、教皇と教会に客観的な創造の本能から主観的な快楽の産出の分離を認めるよう要求する者は生き、話し、聞いておられる神を信じるのでなく、単なる一つの消費物資、意味を失った生命の代用品である神を求めているに過ぎません。
以上は抽象的な心理学とか神学理論の羅列ではなく、神体験のための条件を受け入れる準備のある人ならだれにでも達成できる何千という体験に基づいた分析です。
ここでは科学がわたしの説を支持します。有名な脳の研究者でノーベル賞受賞者ジョン・エックル卿によれば、わたしたちの「自我」もしくは「エゴ」は人間生命の決定的道具として、脳のプログラムを作ります。催眠術師が催眠術を使ってだれかを「プログラム」できるために、彼はまずコンピュータからその人の「エゴ」を追い出す必要があります。つまりその人を深い眠りに陥れねばなりません。これはわたしたちの脳の外の「エゴ」がわたしたちの脳の中の思想やプログラムを生み出せるということです。もちろん、わたしたちが催眠術師に自分をコントロールさせ、彼に耳を傾け、彼に従順であるという条件が満たされねばなりません。この過程を神に対するわたしたちの関係に当てはめてみましょう。それは、まさに本当の祈りの本質にほかなりません。主の祈りは、それを深く黙想するときこの点でわたしたちを全く明白に照らしてくれます。またそれはロザリオの本質的部分でもあります。
ロザリオは答え?
明らかに、自分たちの頭の良さに酔いしれた青年たちが(その点では163人の教授たちも変わりませんが)婚前性交渉、同性愛、避妊、その他諸々を認めるようにという要求で教皇を困らせたあの集いの終わりに、教皇は彼ら全員に返答としてロザリオを配りました。教皇は彼らの間違った振る舞いを説明しようとする、愚かしい心理学的言い訳でなく、祈りの実践の試み、つまり神の言葉に耳を傾け、それに基づいて行動し、計画するという全く別の方向に彼らを誘導しようとなさいます。
教皇は委託、従順、心の清さの模範である神の母マリアに彼らの関心を向けます。「恵みあふれる聖マリア、主はあなたと共におられます。主はあなたを選び…」。人間でありながら神の子の器になるには限りなく清くなければなりません。避妊ピルを服用するマリアを想像できますか? いくら頑固なプロテスタントでも、心の清さと「恵みあふれる」女性の体内に神が宿られることの間にあるつながりは明白に理解できるはずです。
イエスが神の子であり、乙女から生まれたという信仰をギリシア人であったルカが神話として創造したという説には信じる価値がありません。なぜかと言えば、この二つの事実は他のすべてに増して新約聖書のすべての筆者の基本的確信でもあるからです。例えば聖ヨハネはその福音の初めにこう書いています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1・14)。
神の御一人子が不浄で、性に飲み込まれた女から生まれたなどという考えは狂人の脳味噌からしかでてきません。マリアは女神ではありません。しかし、御子が最初に人々の前に公に登場なさったとき、他の人々のために御子に取りなしをなさったのはマリアでした。ヨハネ2章でマリアは「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言っています。
ですから、聖書を読むキリスト信者にとって仲介者、案内者としてのマリアの役割に異論の余地はありません。初代キリスト教共同体にとってマリアは心の清さと神の意志への委託の模範でした。「言の受肉」のためにもっとも決定的な役割を果たしたことを疑う人はいません。ルカはマリアの賛歌マグニフィカトにある預言「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」を記録しました。その意味は明らかです。それはマリアが初期のキリスト教共同体の中で尊敬されていたということにほかなりません。マリアにイエスの母としての役割を否定することはイエスが神の子であったことも否定することです。
心の清さは力
模範としてのイエスの母の今日的意義は、ダルムシュタットで活動している福音派聖マリア姉妹会の優れた活動を見ると顕著です。彼女たちは心の清さから多くの霊的、肉体的仕事を果たす活力を得ています。わたしは自分の母の中にもこの種の力が働いたのを体験しています。1945年、ドイツ帝国が降伏したときウルムは70%破壊されていました。駅舎はまるで月面上の景色のような有様でした。何千という引き揚げ者、子連れの被爆者、元捕虜、その他は真夏の焼け付くような日照りの中で線路の間に立ちつくし、アメリカの輸送列車に連結された無蓋貨車に便乗することをねらって何日間も待っていました。母は家にあった食料を残らずそこに持って行きました。彼女はお茶を沸かし、農民たちからミルクと卵を分けてもらい、古いトラックの上に野外炊事場を設置し、手伝い人を募集しました。3年半の間、彼女は無料で2百50万から3百万人に食べ物を、1万人に衣服を提供しました。与えた現金も少なくとも10万マルクにはなったでしょう。「キリスト教鉄道救済団」という名称こそありましたが、それは全くの個人事業でした。
1969年、母の死の3週間前、わたしがその病床の傍らに付き添っていました。その際、母が残してくれた言葉を皆さんと分かちましょう。「わたしが自慢できることが一つあるんだが、お前知ってるかい? 駅で何年も昼も夜もなく頑張ったあの頃のことだがね。わたしはいくらおなかが空いても自分のためにはパン一切れも受け取らなかったんだよ」。彼女の「心がきれい」だったからこういうことも可能でした。わたしたちの両親は清い心の模範を示してくれたのです。
しかし今日でも、その気になればだれでもカルカッタのマザー・テレサのように肉体的にはいかにも弱々しい一人の女性の中に示される心の清さの圧倒的力を見ることができます。マザー・テレサが死期の迫る天涯孤独の老人をみとっているときでも、何千人という聴衆を前に話しているときでも、彼女からは霊的エネルギー波が放たれていませんか? わたしたちは一度だけでしたがウルム近郊で8千人の青年たちに心の清さについて彼女が話すのを聞いたことがあります。彼女はその後半時間にわたってその青年たちと一緒にロザリオを唱えました。こういうことのできる人が現代彼女以外にいるのでしょうか?
キリスト教世界の分裂
ですから、キリスト教世界の分裂はもはや教派の間には起こりません。人々が分裂するのは心の清さとその模範であるイエスの母マリアについてでしょう。マリアの心の清さなしに受肉はありませんでした。マリア以外の人間は聖パウロが言う「聖霊の神殿」になれなかったでしょう。
しかし、もしイエスが神の子でなかったら、その十字架は歴史に残る夢やぶれた理想主義者たちの数多くの悲劇の一つ、そして復活は幻想にすぎなかったということになってしまったでしょう。キリスト教の信仰はすべて老子とか孔子の道徳思想と同列以上のものではなくなったはずです。
清い心なしにキリストの神性、その母マリアの意味、救いの奥義を理解することはできません。清い心を持たない人はキリスト教信仰を自動的に社会主義の進歩的神学に変貌させてしまいます。そのような人は世の「悪」を経済的、政治的な「圧制者」の中にしか見いだせません。貧しい人は自動的に良い人に、富んでいる人は自動的に悪い人になります。救いとはすべての圧迫、構造、権威からの解放を意味することになります。そして最後には妊娠中絶を含む完全な性の自由化、自制心の撤廃 — さらには再度、人間の完全な奴隷化、人間による人間の搾取になります。
神学者たちに扇動された若者と大人たちは、神と接触するためのアンテナを喪失しました。彼らは傲慢にも誠実と心の清さの規範を受け入れることを拒絶したのです。それは確実に生命から意味を奪い、内的汚染の蔓延をもたらしました。その行き着く先は地球、空気、水、食物などの外的汚染防止さえできなくなるということでしょう。消費に仕える神を信じない資本主義の奴隷は無神論の共産主義者、社会主義的イデオロギーの奴隷がそうであったように、絶望的状態に陥ります。神をもはや見ることのできない人は、神はいない、神は死んだなどと簡単に言います。ですからドロシー・ゼーレとかその他大勢の「神学者たち」が提唱する「神は死んだ」の神学は「無限の電波」を受信するはずの「ブラウン管」の汚染と破壊から生じると言えます。しかし、心の清さの欠如は「神の死」でなく、人類と世界の破滅と死をもたらします。地球はその時点で天国でなく地獄になります。
心の清さは生命の基本法
わたしたち医者は自分たちの職業的基礎、ひいては自分たちの存在の医学的意義を破壊しようとしています。婦人科医の40%はすでに人殺しを職業としています。この全面的危機症状に対して単に治療法を探るのは間違いであるように思われます。わたしたちは基本的問題と直面しなければなりません。意図的に目をつぶらない限り、だれにでもわたしたちの同業者とわたしたちの職業の規範の喪失の中にこの危機の原因が見えます。「回心!」わたしたちは生き残りたければ今の考え方を改めねばなりません。
消費イデオロギーの単なる役人であるわたしたちは実に社会がかかっている病の本質的部分にほかなりません。しかしわたしたちにとって癒すことこそ本来の仕事であるはずです。わたしたちの患者は避妊ピルを処方し、妊娠中絶手術を執行する医師たちの手にかかって死ななければならないのでしょうか? 神学者たちは大喜びするかもしれません。それとも、わたしたち医師は、プロテスタントもあの頭のいい神学者たちも含めて、教皇が青年たちにその答えとして提供した主の祈りと天使の挨拶から成り立つロザリオをとおして、未来への道を見いだすことができるのでしょうか? 親愛なる同僚の皆さん。ヴュルテンベルグの福音派教会会議の一員であるわたしがこのように「詳しく」またその言葉をその元の意味のまま使わせていただければ、これほどの「カトリック性」をもって、この長い論説で書いたことをどうぞしっかと受け止めて下さい。
ウルムにて
ジークフリート・エルンスト
プロテスタントが教皇を弁護
以下は、教皇ヨハネ・パウロ二世によって「不適格化された」と感じる163人のカトリック神学者にジークフリート・エルンスト博士が送った公開質問状。
皆さん、
わたしたちキリスト教諸派の医師は全員あなたたちカトリック神学者たちが、メディアの総力を動員した支持を背にあの公開声明文で、教皇ヨハネ・パウロ二世の権威をおとしめようとした試みに驚きあきれています。わたしたち医師が教会内の人事構造とか司教座にだれが任命されるかを決定するわけではありません。それでも、わたしたち一人一人にはっきり理解できるのは、司教座への任命つまり「保守派」と「進歩派」についてとやかく言われることが、すべて人間の性の意味と目的という重要な問題にかかわっている、ということです。
1963〜64年「反・赤ちゃんピル」が導入されて以来、この問題は人類学・倫理神学の議論の中心になっています。人間生命の受胎と誕生は人間が基本的に何者であるか、従って教会と信者のあるべき姿はどのようなものであるか、という理解に到達するためにどうしても避けて通ることのできない問題です。人は本当に神の似姿として造られたのでしょうか? 両親は彼らが男女であるということからしてこの「似姿」の共同創造者なのでしょうか? それとも、彼らは単に「子供を造る人間」なのでしょうか? 後者であれば子供が試験管の中で造られようが、両親の肉体的・精神的一致のうちに造られようが関係なくなってしまいます。
人類の歴史始まって以来、初めて反・赤ちゃんピルが基本的・根本的に生殖行為から快楽を切り離し、自動的にいわゆる「性の革命」の引き金になりました。この革命は今やわたしたちの私的、公的生活のほとんどの雰囲気を決定づけます。「安全」になったという理由で、「幸せな性生活」をしつこく勧める現代宣伝活動の結果として性活動は激増しました。「反・赤ちゃんピル」にもかかわらず — それとも、そのために — 「事故」も正比例して増えています。「望まれなかった子供たち」は論理的に妊娠中絶によって除去されねばなりません。
1964年以来、政府に要望して400人の医師と45人の大学教授が署名したウルムの覚え書きの中で、わたしたちは次の相互関係とその不可避の諸結果について注意を喚起しました。 — 反・赤ちゃんピルは反・赤ちゃんの雰囲気を生み出し、反・赤ちゃんの雰囲気は妊娠中絶増加の原因になります。
わたしたちは性の革命がもたらすであろう — 生物学的、社会学的、政治的、精神的、経済的 — 諸結果そしてドイツ民族の死滅を指摘しました。
わたしたちは、この種のピルが発展途上国に輸出されることは、当地でよりさらに破滅的な諸結果をそれらの国にもたらし、そこで家庭と個人の生命のすべての基礎が破壊されるとともに、性病の急速な増加を伴う性の乱用が蔓延するであろうことも指摘しました。
わたしたちは過度の性とポルノグラフィー、避妊ピル、妊娠中絶、不妊手術、その他の輸出は西側諸国へのもっとも激しい反撥の引き金にしかならないことを指摘しました…当時、わたしたちはイランの反・ポルノグラフィー革命を予言していました。それは事実、再度の世界大戦の危険にわたしたちをさらしたのでした。
1966年、回勅『フマネ・ヴィテ』発表の二年前、わたしはケルン宣言の発案者の一人であったボンのベックル教授と90分にわたるテレビ対談の機会に恵まれました。その際、わたしは仮に教皇が避妊と避妊ピルを認めたとすると、諸教会の崩壊を含めて大惨事を引き起こすであろうことを指摘しました。「なぜなら、自分の母親のベッドの脇にあるテーブルの上に避妊ピルがあるのを見て育った若者は、なぜ市役所に結婚届をしていないから女友達に避妊ピルを与えていけないか理解できるわけがない」とわたしは主張したものです。
夫婦に避妊ピルの使用を認可することすら、婚前の純潔の終焉を意味するとわたしは主張しました。性を単に一つの消費物として浪費するとき、人間は自動的に神と自分との関係を絶ちます。彼は神の存在を体験する能力を失い、聖書にあるすべてのメッセージに目と耳を閉じてしまいます。
それだけではありません。純潔と禁欲、共同体の基礎である教会内の青年グループも消滅するでしょう。
司祭職も滅亡の一路をたどることになります。 修道会にももはや志願者がいなくなるのは目に見えています。信仰と神の掟への従順のない教会は単なる宗教集団になってしまいます。これらの意義に対して、ベックル教授はケルン宣言があれほど自慢していた真正の「理屈」で反論することが全くできませんでした。
避妊ピル、避妊リング、その他の手段による一時的、永久的な不妊化で夫と妻の間にあるもっとも親密な男女の愛から創造作用を除外することは、創造主の除外を意味します。
神学者たちは、自分たちが独身であるにもかかわらずこの点を理解することができません。彼らの知性に問題があるのでしょうか? それとも彼らに善意が不足しているのでしょうか?
司祭が約束しなければならない生涯禁欲の誓願の動機は初期には強いのでしょう。しかし失望、孤独、その他によって年月が経つうちに、その動機が弱まってしまうのであればそれは重大問題です。そうなると誓願を自然に反する重荷と見なすようになるであろうことを、わたしたち医師は承知しています。残念ながら、結果は頻繁に誓願の破棄、二重生活、抑制の利かない性への隷属です。
皆さん方は厚かましくも、「これらの問題の数々に関して聖座が極端に停滞していることを残念に思う」などと主張します。しかし、婚前の性関係に関して厳しくない点、同性愛の容認、離婚、避妊、妊娠中絶を軽く受け止めることなどの点ではどちらの方が停滞しているのでしょうか?
ケルン宣言の署名者の一人だったハンス・キュング教授への公開質問状で、わたしは彼の主張のすべての点に詳しく反駁しました。それに付け加えて、彼自身とグリュンデル、アウアー、グラインナッヒェル教授など、彼と同罪の同僚たちのだれもこのような反論に答えようとしなかったので厳しく彼を非難しました。彼らからは返事さえ来ていません。ケルン宣言は、キュングが教皇ヨハネ・パウロ二世選出の一周年記念日に発表した手紙(1979年12月4日Timor Deiにテキスト掲載)、いわゆるキュングの中間声明にいくらか手を入れて繰り返したものに過ぎません。
これらの教授たちは、教皇が避妊を禁じるから人々は教会に行かなくなったと信じ込んでいるように見えます。それが本当なら福音派教会の出席率は変化しなかったはずです。後者においては、この点に関して…カトリック教会内におけるよりはるかにひどい性的放縦で…聖書にある明白な規範にほとんど従っていないからです。聖座が打ち建てた壁は今でも多くの人々を誤謬から守っています。
もし、神学教授たちの中にいる性の使徒たちが初戦で勝っていたら、カトリック教会の実体の喪失はさらに大きなものになったことでしょう。教会に対する彼らの反逆は教皇パウロ六世の回勅『フマネ・ヴィテ』の発表にさかのぼります。
心理学と神学に興味を持つ一介の医師として、これら163人の神学者たちが反対する「不適格化」つまり成熟した大人の権利の剥奪について、一言発言をお許し下さい。
「成熟した大人」とは、自分の本能的反応を人格と良心の制御の許に置くことを学んだ人のことを指します。これらの本能は性本能、食欲、逃避本能、闘争本能、所有欲、なわ張り意識、権力欲であり得ます。これら本能の本質的特徴は、例えば生命の創造とか維持のように、自然がそれらをとおして目指す本能的目的を達成することです。目的を達成することのない本能に従うことはそれが快感と陶酔だけで満たされることを意味します。このような解決は愛の深まりとも関係してきます。
どの本能を取ってみても、快感の主観的経験は本能の客観的目的から切り離されて、「陶酔」が享楽と消費のための孤立した手段にされることが可能です。客観的目的から切り離された本能はまず快楽を産出する手段になり、次に好色、暴飲暴食、アルコール中毒、どん欲、権力欲、その他いろいろな形を取りうる中毒になります。
中毒は本能が維持するはずの生命そのものを破壊します。それで、性の中毒は結婚と家庭の破壊のみならず体内にいる子供たちの大量虐殺をもたらします。この不可避的な一体関係があるからこそ、教皇と教会は単に対症療法だけでなく、勇気をもってそれらの原因を名指しで非難しなければならないのです。教皇ヨハネ・パウロ二世とその先任者たちがしてきたことはまさにそういうことでした。
自分の創造の力と性本能を神のコントロールの許に置こうとしないキリスト信者は、「成熟した」キリスト信者であるとは言えません。ですから、このような人から「成熟した大人としての権利を奪う」ことはできません。教皇によって「未成熟者」として遇されたと感じる神学者たちに、わたしはこの点についてもう少し深く反省するよう挑戦します。
医学博士 ジークフリート・エルンスト