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避妊と妊娠中絶は双子

回勅『生命の福音』へのコメント

アントニー・ジンマーマン

教皇様は、避妊がそれ自身に置いて間違っているだけでなく、その世界的普及によって妊娠中絶が減るどころか、増加する傾向がある(回勅『生命の福音』13)とみておられます。多くのカトリック聖職者は、教皇様のこの発言を受け止めるのに困難を感じるのではないかという気がします。わたしのこの直感が間違っていてくれるといいのですが。

複数の司祭たちから「避妊は妊娠中絶よりも小さな悪だから、妊娠中絶を防止するために、避妊を許してもいいのでは」とか「第三世界の経済的発展のために人口増加率の減少は欠かせない。NFPは一般の人たちには無理。だから避妊はいいのでは?」とか「教会は性の問題に関してはノータッチ。こういうことは夫婦の良心に任せておくべきだ」などの発言を耳にしています。

独身である司祭たちは、結婚している人たちがセックスの際に感じる本音への鋭い焦点を、自分自身、体験することがありません。しかし、慧眼の結婚カウンセラーは、結婚の行為が自分たちの体で真理を語っているか、それとも密やかに嘘をついているかを残酷と言っていいほど暴露してしまう夫婦愛のリトマス試験紙であることを知っています。一つ一つの避妊行為によって伝えられる体の嘘が、次第に相手に対する落胆、嫌悪、反発、そして憎悪の痛打、さらには自己イメージ低下からくる屈辱感の原因になることを知っています。こんなことを続けていると、結婚による男女の一致という絆自体がむしばまれてしまいます。その終点は、しばしば離婚にほかなりません。一例を挙げると、性科学者ワンダ・ポルタウスカ博士は以下のように証言しています。

避妊しながらの性交は一種の神経症的反発、つまり妊娠をおそれる雰囲気の中で行われます…男性と比較して、生物学的にもっと母親指向の強い女性は、このおそれによって麻痺させられ、性行為に溺れきってしまえなくなります。愛情が曖昧であるこのような状態の中で、性行為は女性に喜びを、ましてやオーガズムをもたらすことがありません。それどころか、非常に頻繁に嫌悪という神経症的反動が生じます。この嫌悪感は真っ先に妊娠の「危険」の源である男性の身体の部位に向けられます。不思議なことに、多くの女性は彼女らの夫の生殖器官に対して、そんなものに触れたくもない、見るのもいやという嫌悪感を示します(" The Psychology and Psychopathology of Fertility"  — 受精能力の心理学と精神病理学 — ジンマーマン、1980年、129ページ参照)。

オーストリアのエリザベート・ヴォーチック博士は、司祭たちが、NFPについて苦情を言う女性たちにあまりにも簡単に騙されてしまう、と言います。NFPに満足している女性たちは普通司祭たちに打ち明ける必要を感じません。しかし「NFPを知らない、もしくは、NFP使用を望まない夫婦がNFPなんて不可能だとか、いろいろ困難があるなどと司祭に苦情を言うのです」(" What some priests don't know about NFP"  — NFPについて司祭たちが知らないこと — ジンマーマン、1982年、32ページ)。回勅『生命の福音』の中で、教皇様はNFPの方法に対する旧来の偏見を打破するように求めておられます。「NFPの効果の真摯な評価は、今でも広く信じられているある種の偏見を打破するはずです」(97)。教皇は、司祭たちを含む全ての人にNFPに対する時代遅れの偏見を捨てるように要求なさいます。NFPについては、別の機会にもっと詳しく取り扱いましょう。

一般的に言って、避妊の善悪について仏教の態度は中立であるといえるでしょう。仏教思想において「宗教と多産は無縁です」(Le Fleur,115)生あるものを傷つけてはならないという仏教の教えに含まれる妊娠中絶を禁止する立場にしても、厳しさを欠き、日本仏教寺院のドル箱になっている水子供養を容認しています。仏教徒には、なぜ教皇が避妊を道徳的悪と見なすか、また妊娠中絶を減少させる手段として採用されることすら敗北主義的戦術に過ぎないかを理解するのは、かなり困難でしょう。

わたしが知る限り、マスコミは「自然的、道徳的な違いにもかかわらず、避妊と妊娠中絶はしばしば、同じ木に実る果実として緊密に関係しる」という回勅『生命の福音』13の言葉に、ほとんど注意を向けませんでした。しかし、教皇とマスコミはこの点に関して間違いなく対立しています。もし、避妊が安全で全ての人にとって入手可能になれば、妊娠中絶にとってもっとも効果的対策になるであろうと、しばしば主張されます。そして、カトリック教会は避妊が不道徳であると頑固に教え続けるので、実際は妊娠中絶を推進していると非難されます(13)。

アメリカ家族計画連盟は、教皇様とは正反対のことを喜んで、宣伝することでしょう。しかし、わたしたちはアメリカ家族計画連盟の従業員と協力者たちが、自分たちの論争点を見るときは、ドル色の色眼鏡を通してであることを忘れてはなりません。避妊、妊娠中絶、不妊手術、とんでもない性教育という彼らの「企業」は、例えば1992年度は、合計1億5,100万ドルの手数料をもたらしました。その内3300万ドルは132,000件の妊娠中絶によるものです。いろいろな財団の援助とか寄付金が1億2,100万ドルもありました。さらに、米国人が納める税金の中から1億4,500万ドル吸い上げています。ですから1992年度の総収入は4億4,600万ドルになります(ジム・セドラック、HLI Reports、1994年11月)。この驚くべき非政府組織は、家族計画政策に関して、特にカイロと北京の会議では、実質的に国連スポークスマンの地位に上り詰めたと言えるでしょう。一人前の主婦であれば、口先達者に「便利な」新製品を売りつけようとする個別販売のセールスマンたちを撃退するはずです。世界の人々も同じく家族計画連盟の遇し方を学ばねばなりません。本来なら尊敬に値する国連が、いつの日か、その家族計画政策を乗っ取ってしまったこの強力な非政府組織を黙らせることを期待します。家族計画連盟はカッコウのように国連を騙して自分の卵をかえさせようとしているのです。

教皇様は、正に、慎重に事態の推移を見守り、避妊推進の行き着く先がどうなるかを見極められます。避妊には否定的価値観しかない、それどころか避妊の種をまいた結果として刈り取るものは妊娠中絶しかない、と教皇様は主張なさいます。

おそらく多くの人々は、後で妊娠中絶の誘惑に陥らないために避妊するのでしょう。しかし — 結婚行為の全真理を尊重する責任産児とは大違いの — 「避妊メンタリティー」が内蔵する否定的諸価値観は、望んでいない妊娠をしたとき、この誘惑をさらに強めます。実に、避妊に関しての教会の教えがなおざりにされている正にそういうところで、妊娠中絶文化は猛威を振るいます(13)。

避妊は、多くの人から誤ってそう思われた地平線上の空中楼閣 — 妊娠中絶を減少させるために相応しい方法であるというかげろうのような、まやかしの約束 — に向かう世界中の放浪者の先頭に立ったのが日本でした。1948年7月13日、避妊と制限があるとは言え、妊娠中絶が合法化されました。その後、専門家たちはすぐに産児制限の主な方法として人々が妊娠中絶を選択するようになったことに気付き、当惑を隠し切れなかったものです。それで日本政府は、1951年7月26日、閣議決定により妊娠中絶を減らすために、必要とあればさらに避妊を推進するよう声明を発したのでした。

妊娠中絶の件数が毎年のように増加しています…政府は、すでに、優性結婚相談所を設け、避妊教授法の専門家たちを配備しました、等々。しかし、国民の福祉のためにこの情報はさらに広く普及されねばならないし、それをさらに効果的にするための方法が研究されるべきです。

勧告・妊娠中絶は母胎の健康に悪い影響があります。故に、これらの悪影響を減ずるために避妊の知識を普及する必要があります(本田ちかお、35〜36ページ)。

これは、燃え上がった妊娠中絶の炎に、油を注ぐ結果にしかなりませんでした。厚生省が作成した統計(本田25ページ)によれば、妊娠中絶を減少させるために避妊が推進されたちょうどその時期に、妊娠中絶数が爆発的に増加しているのが見られます。

年度 報告のあった妊娠中絶数
1949 246,104
1950 489,111
1951 638,350
1952 798,193
1953 1,068,066
1954 1,143,059

          

妊娠中絶の報告件数が1,099,000であった1958年、古屋義男博士は、ある地域で避妊の集中的トレーニングをした結果、そこでは妊娠と妊娠中絶数が減少したと論じたものです。しかし「もし、出産数を減らしたい女性が偶発的に妊娠すると、これらの女性に妊娠中絶を止めさせることはできない」(古屋、9ページ)とも書いています。古屋博士の研究の序文にダッドリー・カークは次のように書いています。

古屋博士が研究した社会・経済的に低い層においても、彼自身(医学的見地から)妊娠中絶を好まず、妊娠中絶を繰り返さないよう勧めたにもかかわらず、女性たちは産児制限の決心が固く、おおかた望まれない妊娠に人工的終止符を打つのを止めさせることができませんでした。

避妊推進の特訓を受けた政府機関と社会工学の専門家たちが、むちと棒で、大衆を妊娠中絶の柵の中に追い込む羊飼いに似ていなくもない1948年以来の日本の経験を、いま、他の諸国も国民の苦しみの中に繰り返しています。哀れな国民に一子政策の災難を押しつけるために、避妊リングと避妊ピルの竜の歯を着けた中国は、何と年間1,000万件という大嵐のような妊娠中絶政策を実施しています(The Wanderer、1995年9月14日、マシュー・ハビガー神父O.S.B.が執筆した周辺の諸結果の恐怖を参照)。

家族計画連盟の道徳ぶった泥棒どもが、騙されやすい十代の子供たちに「セックスは決して悪いことではない」という宣伝をするために、学校所属のクリニックで教育家面をしている米国ではどうでしょう。そこでも同じように、避妊・妊娠中絶の暗い陰は全国的に流行し、慢性化しています。回復の兆しは見えていません。ひとたび、避妊メンタリティーが、入り込むやいなや、その仲間で相棒の妊娠中絶も、必ずそこにいると思って間違いありません。ピーター・J・リガが、最高裁判所ケネディー判事の考え方を引用して、この点を主張しています。

避妊と妊娠中絶が、互いに関係ないと思っている人たちは、家族計画連盟対ケーシー(1992)のケネディー判事による多数意見を読むべきです。このケースはあのロー対ウェード裁判を再確認したものです。「…経済的、社会的発展があったここ20年の間、人々は、避妊が失敗した場合、妊娠中絶をする可能性に頼って(自分たちの)親密な関係を組立て、自分たちと社会における自分たちの場の考え方を定義する選択をしてきたという事実に直面する(必要があります)」(Linacre Quarterly、1995年8月、31ページ参照)

教皇様が回勅『生命の福音』13で、指摘なさるように、「避妊の習慣と妊娠中絶の間にあるメンタリティーの緊密な関係は、ますます明白なものになりつつあります」。もし、世界で4億組の夫婦が現在何らかの避妊をしているということが本当であれば、そしてもし、彼らが年間、5,000万の外科手術による妊娠中絶をするということも本当であるとすれば、両者の関係は実にはっきりしてきます。女性から母性の誇りを奪い去り、コンドームとピルを使用してのセックスに追いやった結果、何がの残ったというのでしょう? それは毎年5,000万件という悲しい妊娠中絶です。

なぜ避妊は大罪なのでしょうか

避妊は「夫婦愛の正しい表現としての性行為の全的真理に反します」(回勅『生命の福音』13)。教皇様は、ここで避妊についてもっと詳しい教義を展開することが必要であると思われませんでした。むしろ、教会は「避妊が道徳的に許されないことを教え続けている」(13)と、軽く触れておられます。教皇は「続けています」という言葉を戦略的に使用なさいますが、それには意味があります。教皇パウロ六世が、以前、次のように宣言なさっています。

     (回勅『フマネ・ヴィテ』14)

ピオ十一世は、避妊を重大な悪であるとして、明白に断罪なさっていました。教皇は、1930年8月14日、ランベス会議で、一定の条件付きでとはいうものの、避妊を認めてしまった英国国教会に、この回勅で応えたものです。教皇が、避妊を「重大な罪」と呼んでいることに気を付けましょう。(回勅『カスティ・コンヌビイ』56、1930年12月31 日)

ピオ十一世、ピオ十二世、ヨハネ二十三世、パウロ六世、そして現在のヨハネ・パウロ二世は、避妊が悪であり、しかも重大な悪であるとするカトリックの伝統を、一貫して証しし続けてきました(もっと詳しい文献を読みたければ、例えば、愛と家庭と生命の倫理神学、ジンマーマン、1996年、4〜8ページ参照)。現在の教皇様は、一例を挙げると、次のように宣言なさっています。

回勅『フマネ・ヴィテ』が教えるように、一つ一つの夫婦の行為は、生命の伝達に開いたものでなければなりません(11)。この理由のために、避妊と人工的に避妊する目的の不妊手術は、いつも重大な罪の材料なのです(ベネズエラ・カラカスで百万人の聴衆を前になされた教話、1985年1月19日)。

なぜ避妊はその根本から悪であるか?

教皇様は、例えば回勅『真理の輝き』80で、避妊が根本的に悪であることを一貫して宣言してこられました。「避妊は客観的にはなはだしく不法であるので、どんな理由があっても決して許されません。これに反することを考えたり、話したりすることは神を神として認めないことが許されるような状態が人間の生活の中にあり得ると主張するに等しいのです」(司祭たちへの講話、1983年9月17日)。しかし、神はいつでも神なのですから、避妊はいつでも本質的に悪なのです。そして、わたしたちは神の似姿ですから、わたしたちは、2と2を足せば4であることが確かであるのと同じように、避妊が本質的に悪であるか分かるはずです。