夫婦愛の真理と意味について
北コロラド州の人々に宛てられた
デンヴァー教区長 シャプート大司教の
司牧教書
1998年7月22日
『フマネ・ヴィテ』研究会 成相明人訳
1・1968年7月25日、教皇パウロ六世は回勅『フマネ・ヴィテ』で産児制限に関する教会の伝統的教えを確認されました。しかし、それは明らかに今世紀始まって以来最も誤解された教皇文書でした。それはカトリック信者、特に先進諸国のカトリック信者の間に、30年にもわたる疑いと反対に点火した火花のようでした。しかし時の経過はその預言的性格を明らかにしました。それが教えているのは真理に他なりません。
それ故にこの司牧教書の目的は簡単です。回勅『フマネ・ヴィテ』のメッセージは重荷ではなく喜びであると私は信じます。この回勅はさらに深く、豊かな結婚への鍵を提供しています。ですから当教区の司祭たちに私が求めるのは、批判者が見当違いであるとして一蹴してしまうこの文書を単に受け入れるだけでなく、積極的に研究し、教会で忠実に教え、信徒の夫婦たちにその教えを生きるよう励ますことです。信徒にも従順を求めます。
I・1968年以降の世界
2・早かれ遅かれどの神父も中毒患者と関わることになります。普通、それはアルコールとか麻薬中毒患者です。シナリオはいつも同じで、中毒患者は問題を認めても、自分がそれについて何もできないと訴えます。もしくは、中毒状態のため健康を害したり、職を失ったり、家庭が破壊されているにもかかわらず、自分に問題があると認めることを拒みます。神父がどれほど熱心に正しいことを言っても、それがどれほど命にかかわるほど危険であっても、中毒患者にはそれが理解できません。または、忠告に従うだけの力がありません。中毒はまるで防弾ガラスのように中毒患者と彼または彼女の助けになるものを隔てます。
3・回勅『フマネ・ヴィテ』を理解する一つの手だてはこの中毒患者の比喩を通じて過去30年を振り返ることです。先進国にとってこの回勅を受け入れることが困難である理由は、教皇パウロ六世の説得力不足ではなく、先進国が自分自身に課した中毒と矛盾のためであると思われます。実は、これもまさに教皇が警告なさったことに他なりません。
4・教皇パウロ六世はこの回勅の発表に当たって、産児制限に関する教会の教えを軽視すると伴うであろう四つの問題に関して警告なさいました(17参照)。教皇はまず、避妊の広まりに伴う姦淫の増加と道徳低下を警告なさいました。まさにその通りで、すべてがそうなりました。中絶、離婚、家庭の崩壊、妻や子に対する暴力、性病,私生児出生率は1960年台半ばから劇的に上昇しています。明らかに、避妊ピルだけに社会崩壊の全責任を押し付けることはできません。しかし、それが大きな役割を果たしたことに間違いはありません。実に、部分的には、性に関連する歪んだ考え方がなかったら、1968年の文化革命は不可能だったでしょうし、信頼できる避妊法がなかったらそれが長続きすることもなかったはずです。ですからこの点でもパウロ六世は正しかったのです。
5・次に教皇は、男性が女性に対する尊敬を失い「女性の肉体的心理的均衡に注意を払わず、女性をもはや自分の尊敬と愛に値する伴侶でなく、単に利己的快楽の道具としてしか考えようとしない」ようになると警告なさいました。つまり、教皇によると、避妊ピルは女性にとって開放のはずであっても、産児制限ピルの本当の「受益者」は男性だったのです。30年たった今、教皇パウロ六世がおっしゃったように男性はピルによってかつてないほど性的放縦に対する責任から解放されました。その間、避妊に関する議論の不思議な皮肉は、たとえば以下のようなものでした。すなわち多くのフェミニストたちはカトリック教会が女性を無視してきたと主張したのですが、実際はと言えば、そのようなメッセージが文化的主流になるずっと前から、教会は回勅『フマネ・ヴィテ』で女性の性的搾取を予告、非難していたのです。この点でも教皇パウロ六世は正しかったのです。
6・三番目に、教皇は避妊剤の広い使用は「道徳的要請を無視する諸政府の手に危険な武器を」渡すことになると警告なさいました。それ以来分かったことですが、優生学的思想は1945年、ナチズムとともに死に絶えたのではありませんでした。人口抑制政策は今やほとんどすべての発展途上国援助計画の一部になっています。それはしばしば援助金の前提であり、また、それらの地域の道徳的伝統に真っ向から反する工業国による避妊薬、中絶、不妊手術の第三世界への大規模輸出は、あられもない人口抑制戦争であり、文化操作です。この点でも教皇パウロ六世は正しかったのです。
7・四番目に、パウロ六世は、避妊は人間が自分の体に対して無制限の支配力を持つと考えさせるようになり、人間を自分の飽くことのない権力欲の目的にしてしまう、と警告なさいました。ここにもう一つの皮肉があります。中絶と避妊が提供する偽りの自由の中に逃げ込んだ極端なフェミニズムは、女性自身の非人間化に一役も二役も買いました。男女はそれぞれの役割を果たす際に、神とともに新しい生命を創造する力によって、それぞれ独自の方法で神の栄光に与ります。しかし、避妊の中心思想は、ちょうど抗生物質がばい菌を攻撃するように、受胎能力は私たちが攻撃、抑制しなければならない病気であるというものです。この態度の中に見えるのは避妊と中絶の間にある有機的つながりです。もし受胎能力が攻撃されなければならない病気であれば、新しい生命も同じ扱いを受けようというものです。どちらにせよ、女性の特徴、つまり新しい生命をもたらす能力は、気を付けて「治療」する必要がある欠陥として見られるようになりました。男性が責任を分かとうとしないときに、女性自分は解放と防衛のために頼りになるはずだった道具の奴隷に成り下がります。この点でも、パウロ六世は正しかったのです。
8・教皇様がおっしゃっているこの最後の点から、さらに多くの問題が派生しました。試験管受精、クローン人間、遺伝子操作、受精卵実験などはすべて避妊技術に関連しています。実に、私たちは、外的社会だけでなく、人間の尊厳に関わってくる技術進歩の諸結果を劇的かつ無防備に過小評価してきています。著者ニール・ポストマンが観察するように、技術の進歩は付加的ではなく、環境的です。際立って新しい技術は何かを社会に付け加えるのではなく、すべてを変化させてしまいます。赤い染料をコップの水に一滴落とすと、それは固まったままではなく、液体の最後の分子に至るまで全体に広がるようなものです。避妊技術はまさにそれが性的親密に影響するため、性、受胎能力、結婚自体の目的に関する理解を倒錯させ、それらを自然で有機的な人間人格の同一性から引き剥がし、人間関係という環境を破壊します。それは、ちょうど、傲慢がバベルの言語を混乱させたように、私たちの愛の言語も乱してしまいます。
9・もし教皇パウロ六世に、避妊がもたらすこれらの悪影響を正しく予言できたのであれば、それは教皇が避妊自体に関して正しかったからに他なりません。人間としてまた信仰共同体として健康を取り戻すために、私たちは回勅『フマネ・ヴィテ』を開かれた心で再読する必要があります。イエス様は「真理は私たちを自由にする」とおっしゃいましたが、回勅『フマネ・ヴィテ』には真理が溢れています。ですから、それは私たちが自由を回復するための鍵になります。
Ⅱ ・回勅『フマネ・ヴィテ』の真意
10・おそらく、過去30年に回勅『フマネ・ヴィテ』のメッセージを伝える際の欠陥は、そこで使用される言葉にあったのでしょう。結婚生活に伴う義務と責任は数多くあります。そしてそれらはどれ一つとっても重大です。それらはすべて前もって、注意深く、祈りの中に考慮されねばなりません。しかし、学問的に自分たちの愛を理解している夫婦は珍しいと言わねばならないでしょう。彼らは単に愛し合うようになってしまうのです。この言い方は簡単ですが、真実を語っています。彼らは互いに相手の魅力に降伏してしまうのです。互いに自分自身を与え尽くしてしまうのです。相手を残らず所有し、相手から残らず所有されるために相手の中にいわば落ち込んでしまう、という言い方がされますが、まさにその通りです。夫婦愛において、神の意図は、互いが相手を通じて、また相手の中に喜び、希望、生命の充満を見いだすことです。これはすべて、夫婦と子供たち、また周囲の人が神から愛されるものになるために神が意図なさったものです。
11・その結果、キリスト教的結婚がどのようなものであるかを次の世代に伝えるに当たって、私たちは少なくともその義務だけでなく、夫婦を充満させてしまうほどの喜びもはっきり話さねばなりません。性に対するカトリックの態度が清教徒的、抑圧的、反官能的であるなどと思えば、それは大間違いです。神は世界を創造され、人間はご自分に似せて造られました。故に、体はいいものです。実を言うと、私が大司教であることを知らない人たちが、口々にカトリック倫理神学が教えるいわゆる「抑圧されたセックス」とカトリックに多子家庭が多いことに対する不満を漏らすのを聞く機会が何度かあったのですが、おかしくて仕方がありませんでした。あの人たちは赤ちゃんがどこから来ると思っているのでしょうか? イエズス様と同様、カトリックの結婚はどれほど子供を生まないかでなく、どれほど子供に恵まれるかの方を考えます。不妊を目指すのでなく、結婚のきずなを作り出し、生命を生み出すあの愛の結晶である子供に恵まれることこそ神の恵みなのです。カトリックの夫婦が互いに愛するときには、常に新しい生命の可能性を意味します。だから、それは寂しさを追い出し、未来を肯定します。それが未来を肯定するので、絶望に傾きがちな世界の中にあっても希望の燃えさかる家庭を作り出します。カトリックの結婚観がこれほど魅力的である理由は、それが真理であるからです。それは神がこうあってほしいと意図された被造物、つまり交わりのために意図された人格に合致するように設計されています。神が男と女を結婚で結ばれるとき、彼らは神と協力して新しい人間を創造します。真実で、具体的で、自分たちに属している新しい生命である子供は、結婚の自然な表現であり、二人を結ぶ目に見える印です。教会がカトリックの夫婦愛について、それが夫婦のきずなと新しい生命を生み出すと教えるときに意味するのはまさにこのことであって、どちらか一方ということではありません。
12・しかし、結婚した人たちが結婚にあるきずなを生み出す方の意味だけを選択して、しばらくの間もしくは永久的にその生命を生み出す方の性質を閉め出してしまうことが許されないのでしょうか? 答えは、福音が簡単であるのと同じく簡単です。夫婦が、夫婦愛の性質自体が意味するだけでなく、要求さえするように、余すところ無く、正直に自分を相手に与えるとき、それは自分自身のすべてを含めて与えることを意味します。そして、各人にある最も内的で、強力な部分は自分にある授精能力であり、受胎能力に他なりません。避妊はこの授精能力もしくは受胎能力を否定するだけでなく、生殖自体への攻撃です。避妊する男女は必然的に夫婦のきずなも痛めつけます。避妊は「私はあなたに私のすべてを上げるけれども、授精能力だけは上げないよ。あなたのすべてを受け入れるけれど、あなたの受胎能力だけはごめん被る」と言うのと変わりません。自分をこのように留保すれば、それは必ず夫婦を互いから孤立させ、分裂させ、二人の間にあるはずのあの聖なる友情を…すぐそして明らかにではなくても、長い目で見ればしばしば結婚自体を深くかつ致命的に傷つけてしまいます。
13・だから、教会は「人工」避妊だけでなくすべての避妊に反対します。「人工」であるかどうかはこの点と一切関係がありません。実に、議論は体の有機的体系の中に機械的に何かを干渉させることについてであるかのような印象を与えるので、議論の焦点が不明瞭になります。そんなことではありません。教会は科学が病気を癒したり、体を健康にしたりすることに何の異論もありません。そうではなく、教会はすべての避妊は道徳的に悪い、いやそれどころかとても悪いと教えます。結婚の際にかわす契約はすべての交わりが新しい生命の伝達に開いたものであることを要求します。これがいわゆる「一つの体になる」つまり、キリストが十字架の上で死ぬことによって、花嫁である教会のために余すところなくご自分をお与えになったように自分を相手に与えることの意味です。生殖を妨げるようないかなる行為も秘跡的愛におけるパートナーである配偶者と神から自分を留保することを意味します。彼らは限りなく尊いもの、つまり自分自身を、配偶者と創造主から実際に盗むことになります。
14・そして、夫婦が子供の数を決定する際に選択する自然に基づく家族計画と人工避妊がそのスタイルだけでなく、道徳的にも全く異なる理由はここにあります。自然に基づく家族計画は避妊ではなく、受胎能力を意識し、大事にすることです。それは産児を計画するにしても、やり方が全く異なります。自然に基づく家族計画は受胎能力を敵視したり、自分自身を配偶者から留保したり、夫婦の交わりと切って離すことのできない生殖能力を抑圧しません。結婚の誓約は夫婦の交わりが例外なく完全に自分を与え尽くすこと、従って新しい生命の可能性に開かれていることを要求します。しかし、夫婦がそれなりの理由があって妻の受胎可能期に禁欲することは、神御自身が女性の中に創造した周期を利用しているに過ぎません。彼らはそれを破壊しているわけではなく、神の愛の掟に従って生きていることになります。
15・もちろん、自然に基づく家族計画にはすばらしい利点が数々あります。妻は体内に化学的異物を摂取したり器具を挿入したりする必要がなく、自分の自然な周期に忠実であり続けます。夫は自然に基づいて家族をつくる計画と責任を分け持ちます。両者ともさらに完全に自己統御を身につけ、相互をますます深く尊敬するようになります。自然に基づく家族計画が犠牲を要求し、定期的禁欲を必要とするのは事実です。時として、そういうことを難しいと感じる場合もあるでしょう。しかし、司祭とか修道者であっても、独身であっても結婚していても、真剣にキリスト教的生活を送ろうとすれば、困難が付随するのは当然です。それだけではありません。何万組という夫婦の経験は、祈りの中に、利己主義を捨てて生活すれば、自然に基づく家族計画は結婚を深め、さらに豊かにし、二人の愛をもっと強め、喜びをもたらすことを証明しています。旧約聖書を読めば、神は人祖に生めよ、増えよと命じられました(創世記1・28)。神は私たちに命を選ぶようお命じになりました(申命記30・19)。神は豊かに命を与えるために御子を遣わされました(ヨハネ10・10)。そしてご自分のくびきが軽いことを思い起こさせて下さいます(マタイ11・30)。故に、私はカトリックの聖職者と信徒が回勅『フマネ・ヴィテ』に諸手をあげて賛成していない背後には、性、教会の権威または道徳的一貫性の危機ではなく、信仰自体に問題があるのではないかと疑っています。私たちは神の全善を本当に信じているのでしょうか? 教会はその花婿であるイエス・キリストの代弁者です。そしてキリスト信者であれれば当然耳を傾けます。教会は信徒に永続する愛と生命の文化を指し示しています。しかし、ここ30年の歴史を見ると、悪い選択がなされていることが分かります。
Ⅲ ・私たちがしなければならないこと
16・回勅『フマネ・ヴィテ』のメッセージをすでに生きている多くの夫婦を賞賛します。真理に対する彼らの忠実は自分たちの家庭だけでなく、全信仰共同体を聖化するものです。教会の教えに励まされて、他の夫婦に自然に基づく家族計画を教えたり、責任産児のカウンセリングをしたりする人たちにも特に感謝します。彼らの仕事はややもすると無視されたり、高く評価されなかったりするものです。しかしこういう人たちこそこの混乱の時期に際しては教会の力強い代弁者です。
また、不妊という十字架を担う夫婦のためにも祈っています。彼らにはここで励ましの言葉を贈りたいと思います。子供を生まないことに熱を上げている社会の中にあって、このような夫婦は子宝を渇望しながら、子宝に恵まれていません。聞き入れられない祈りはありません。そして主に捧げられたすべての悩みと苦しみは何らかの方法で新しい命という実りをもたらします。このような夫婦にはできることなら養子をもらうことを薦めます。そして、いい目的であっても、悪い手段を取ることは許されないことを申し添えます。妊娠を避けるためであっても、達成するためであっても、結婚のきずなを作る次元と生殖の次元を切り離す技術は常に間違っています。受精卵を物に変え、機械的に夫婦の愛の抱擁にすり替えてしまう生殖技術は、人間の尊厳を冒し、生命をあたかも商品であるかのように扱います。意図がどれほどいいものであったとしても、このような技術は人間の生命を操作可能なただの物質にしてしまいます。
17・私たちの心を神に向けるのに遅すぎるということはありません。私たちは無力ではありません。私たちは夫婦愛と信仰を周囲の文化に証しすることによって、世の中を変えていくことができます。昨年の12月、私は「大いなる喜びの福音」という司牧教書ですべてのカトリック信者が福音を述べ伝える召命を受けていることについて話しました。私たちは皆宣教師です。1990年代の半ばも過ぎたアメリカは混乱したセックスの文化、離婚、崩壊家庭に浸っており、その最も緊急に必要とするのは福音に他なりません。教皇ヨハネ・パウロ二世はその使徒的勧告『ファミリアーリス・コンソルチオ』の中で、夫婦は互いに、そして自分たちを囲む文化に対してイエス・キリストを証しする決定的役割があると言っておられます(49、50)。
18・このような考え方に従って、当大司教区の夫婦の皆さんには使徒的勧告『ファミリアーリス・コンソルチオ』、回勅『フマネ・ヴィテ』、その他、結婚と性に関するカトリックの教えの大筋を伝えるカトリック文書に目を通し、祈り、話し合うようお願いいたします。これらの文書に見いだされる計りがたい知恵に気付かない夫婦は自分たちの夫婦愛の支えの源を利用していないと言えましょう。特に、人工避妊に関して夫婦は自分たちの良心の究明をして下さい。忘れてならない大事なことがあります。それは「良心」が単なる個人的な好きこのみの問題以上のものであるということです。ですから、私たちは教会がこの点について何を教えているか探し、理解し、自分たちの心を正直に教会の教えに一致させる必要があるのです。人工避妊の罪に陥っていたかもしれない期間に関しては、秘跡によって神との和解を探し求めていただきたいものです。今世紀も終わりに近づいた今、無秩序なセックスはアメリカ社会で主流となった中毒症状です。それは直接、間接に私たちに何らかの影響を及ぼさずにはいません。その結果として、多くの人々にとって教会のこの教えは受け入れがたいメッセージに聞こえるでしょう。しかし、勇気を失ってはいけません。私たち一人一人は罪人です。しかし私たち一人一人を神は愛して下さいます。私たちが何度転んでも、もし私たちが悔い改めて、神のみ旨を行う恵みを願うなら、神は私たちを救って下さいます。
19・兄弟である司祭の皆さん。これらのことに関して常に教会の教えを忠実に、かつ力強く提示することができるように自分の司牧のスタイルを反省してみてください。私たちに任された民は、性と結婚の尊厳に関して真理を聴く権利があります。これを達成するために、私は皆さんに結婚生活に関する倫理のいくつかの側面に関する聴罪司祭の手引きを読み、それを実行するようにお願いいたします。それだけでなく、結婚と家族計画に関する教会の教えをよく勉強するようお願いいたします。また強くお願いしたいのは、夫婦の愛と家族計画、特に自然に基づく家族計画に関する教会の教えの普及にあたる人々を任命することです。避妊は大罪です。結婚した人たちは正しい判断を下すために教会からいい薦めを聞く必要があります。結婚したカトリック信者であれば司祭の指導を歓迎するはずです 。司祭は自分が独身であるからといって決して尻込みしたり、教会の教えについて恥ずかしがったりしてはなりません。教会の教えを恥ずかしがることはキリストの教えを恥ずかしがることです。司祭の司牧上の経験と司祭の忠告は避妊のような事柄に関して夫婦の視野を広げ、また彼が全教会を代表して話しているので、非常に貴重なのです。それだけでなく、司祭が自分の召命に示す忠実は、結婚した人たちが自分たちの召命をさらに忠実に生きる助けになります。
20・教区長として、私は兄弟である司祭、助祭、信徒の協力者たちが、夫婦愛と家族計画に関する教会の教えの全体を提示できるよう手伝うのが、自分の任務であると思っています。この分野では聖職者と協力者たち、特に小教区で働くカテキスタたちは非常によくやってくれているので、感謝します。夫婦愛と家族計画に関するコースが定期的に当大司教区のさらに多くの人々のために設けられ、これらの事柄に関する神学的、司牧的側面における基礎的教育を司祭や助祭が受けることを希望しています。特に私は宣教とカテケーシス、結婚と家庭生活、カトリック学校、若者、青年と大学生、大人の求道者の事務所には、人々に夫婦愛についての教会の教えをさらによく伝えるよう、また、当教区内での結婚準備講座では自然に基づく家族計画の適切な指導がなされるよう指示します。
21・最後に二つのことを言いたいと思います。その一・避妊は神とともに歩むカトリック信者の生活において末梢的であるどころか、中心的かつ重大な問題です。知りつつする自由な避妊は大罪です。なぜなら避妊は、生命を生み出すというその性質からして自分を与え尽くす愛である結婚の本質をゆがめるからです。
それは、夫婦をきずなで結び、かつ彼らが生命を生み出す二つの側面からなる一つの全体として神が創造なさった結婚を引き裂いてしまうからです。まずは愛と生殖の間に、次に永久的献身を伴わない遊びであるセックスと愛の間にくさびを打ち込むことにより、避妊は個々の結婚に与える損害はもちろんのこと、社会全体にも膨大な損害を与えています。以下は私の第二点ですが、それにもかかわらず、私たちは常に忍耐、同情心、厳しさをもって真理を教え続けなければなりません。これはアメリカ社会の特徴ですが、それにはピューリタニズムと性的放縦の間を行き来する傾向があります。私の世代とこの国で教皇パウロ六世の回勅からの逸脱を画策した私の先輩たちの世代は、1950年代のアメリカ・カトリック教会の特徴であった厳格主義に反動して動いています。その大部分が教義ではなく、文化の産物でしかないあの厳格主義が消えてしまってからもう長い期間が経過しました。しかし懐疑主義の習慣は残っています。このような人たちに分かってもらうために、私たちの仕事は、人間の性の意味に関してこの世が教えこもうとするうその数々、さらにこれらのうそが隠してしまう病理現象に、彼らの猜疑心を向けさせることにあります。
22・最後になりますが、私たちは何十年の間に一度しかないような好機会を目の前にしています。30年前のこの週、教皇パウロ六世は夫婦愛について真理を述べられました。同時に、教皇はアメリカのカトリック信者生活の特徴とさえなった反対のきっかけとなられました。回勅『フマネ・ヴィテ』への反対は、引き続いて教会の権威と信頼度への幅広い反抗と不信に変貌しました。皮肉なことに、1960年代に教会の教えを軽んじた人たちは、間もなく、自分たちの子供に何か大事なものを伝える能力を失ったことに気づきました。その結果、道徳的混乱に囲まれて育ち、しばしば自分たちの道徳的遺産に気づきもせず、人生の意義、共同体、本物の愛に飢えている十代や青年たちの世界に、教会は福音を述べ伝えなければなりません。これほどの挑戦を前にして、教会は今大いなる可能性の時期にさしかかっていると言えます。そして今日の教会には、どの時代でもそうであるように、彼らの心の中にある神によって形作られた、空白な場所を埋めるための答えがあります。ですから私の祈りは簡単です。主よ、夫婦愛と人間の性に関する教えの中にある偉大な宝物を見いだす知恵、信仰、喜び、それを自分たちの家庭内で生きるための忍耐、教皇パウロ六世が新たに伝えたあの勇気を私たちにお与えください。
1998年7月22日
デンヴァー教区教区長 大司教 チャールス・シャプート、O.F.M.
訳者後記
特に第二バチカン公会議以降、司教や司祭たちの発言・指導、神学者たちの考え方、顧問神学者たちに頼る司教協議会の声明が、教皇様方の教えられることと一致しないのが珍しくなくなった昨今です。特に、人工避妊の問題になるとこの格差は顕著です。名前は特に伏せますが、日本のある高位聖職者と交わした会話を紹介しましょう。こともあろうに、これは私に対する指導という意味合いがあったものと思われます。今までに2度、以下の発言が繰り返されたのをこの耳で聞いています。
「(避妊の問題に関して)信者が相談すると、相談した神父によって違った答えが返ってきます。だから信者はこういうことで司祭の指導を仰がなくなりました。これは信者が大人になった証拠で、非常にいいことであると私は思い、喜んでいます」
ですから、私とこの方の意見が合うことは決してありません。一介の神父に過ぎない私に、このような指導的立場にあられる方の考え方を批判することが許されるのだろうか、と思われる方もいらっしゃるでしょう。私の言うことが単なる個人の意見であれば、当然、私より上位の方の意見に私の方が従うべきでしょう。問題はこの方の意見が教会の教えと一致しているかどうかということです。シャブート大司教は回勅『フマネ・ヴィテ』を明確に支持なさっていますが、シャブート大司教様とこの日本の高位聖職者の言われることがこれほどにも異なるとき、訳者は、一方が正しければ他方は間違っていると結論せざるを得ません。
こういう場合、もう一つ非常に有効な識別法があります。それを伝授しますから読者も大いに活用なさって下さい。それは、イエス様ならそういう場合何とおっしゃるだろうかと考えてみることです。その答えは必ず聖書中にあります。避妊に関して本書でシャブート大司教様がおっしゃることは、全部イエス様であればおっしゃりそうなことではないですか?
日本の各教区で司祭の平均年齢が毎年1年ずつ上昇しています。つまり、若い司祭、神学生が極端に少ないということで、これはお気の毒な司教様方の頭痛の種です。ある司教様などは後何年かで司教区が消滅するか、他教区との合併を迫られることになるとおっしゃいます。これは司教様方の問題であるより、司祭と信徒たちにも大いに関わってくる問題です。すでに、各地で司祭がいない場合に備えて、信徒による主日の礼拝が考えられ、またすでに実施されていますが、こんなものに与ってもミサに与ったことにはなりません。大神学校も小神学校も合併とか閉鎖が現実問題になってきました。わが鹿児島教区でもここ2年来小神学校入学者は一人もいません。多額の資金を投入して小神学校を建設したのですが、無駄なことでした。頭数だけ揃えようとした挙げ句、一時は全小神学生が母子家庭出身という時期もありました。統計上は神学生かもしれませんが、こういう子供たちに多くを期待できません。今でも、一握りの神学生が残ってはいるようですが、養成上も問題があります。鹿児島の小神学生募集時には、将来の信徒リーダーの養成にもなるからということで募集が行われましたが、これは司祭になる気がなくても小神学校に入学できるということで、小神学生の士気に関わります。なぜ、司祭になりたい子供だけを募集しないのでしょうか? ヴァチカンに報告する統計上の数字とか司教様の体面を考えてのことであれば、それは大きな間違いです。
召命が少ないのは募集の熱心さとか方法の問題ではありません。神様が永遠から司祭になるために予定して、20年、30年前に生まれるはずだった赤ちゃんが、司教様方や神父様たちの間違った指導、放任、無知のために、避妊されてしまったり、中絶されてしまったりしたからに他なりません。子供がいないわけではありませんが、少子家庭の子供が司祭になるのは心理的にも無理があります。今からでも遅くありません。日本教会の再生のために、教会の教えを自分の教えとして教え始めることが肝要です。
1998年7月25日は回勅『フマネ・ヴィテ』の30周年記念日でした。外国の雑誌には特集が組まれ、優れた論文が多数発表されましたが、日本のカトリック出版界はこの点に全く触れようとしませんでした。これはもう病気です。しかし、今からでも遅くありません。死の文化ならぬ生命の文化の側に立って、教皇様であればなさるような指導を司教様方と神父様方が始めると、20年も立てば大神学校は応募者を断らねばならないほど多数の志願者に悩まされることになります。こういう例は正統信仰に忠実な修道会とか教区に決して珍しくありません。カトリック教会が神様の教会であれば、これは当然のことです。
以下は最近私がインターネットを通じて入手した資料です。同様な手紙は日本のどの司教様が受け取ってもおかしくありません。何しろ、説教壇でも、公共要理のクラスでも、私的会話でも求道者と信徒は司教や司祭の口から避妊の悪について聞いたことがありませんから。そして避妊社会は必ず中絶と老人殺しの社会になるのです。
召命不足に悩むミルウォーキー大司教区長に宛てた
一信徒女性の公開書簡
カトリック・ヘラルド編集長に寄せられた彼女の書簡
1999年1月20日
親愛なるウィークランド大司教様
主の平安
近年、司祭職と修道生活への召命が減少してきたことに多くの人たちが気づき、その対策がいろいろ検討されているようです。当大司教区でも種々のメディアを通じて募集の宣伝を始めています。表面的にこういう努力はまことに結構なこととは思いますが、召命減少のミルウォーキー教区と信者に問題があることをだれも大きな声で言おうとしません。
私が言いたいことを皆さんお分かりでしょうか? 私は声を大にして言います。実を言うと、この問題に関しては私自身にも大いに責任があるからです。長年にわたって私は産児制限を実行してきました。説教壇からはどの神父様もそれが悪であると教えてくれませんでしたし、信者の間にはこの問題に関しては賛否両論がありました。それで私もほとんどのカトリック信者と同様、子供は生まないように努めてきました。私たち信者の考え方の方ががカトリック教会の教えよりも正しいと思ってきたせいで、いったい何人の司祭たちや修道者たちが避妊されてしまったことでしょう? 私たちが中絶は殺人であると大声で、勇気を出して言わなかったために、いったい何人の司祭たちや修道者たちが無惨にも中絶されてしまったことでしょう? 私たちは種をまかなかったのに、実りを期待しているのです。
神様は私たちに生み、増えるように命じられました。神様のこのお言葉は無条件の掟であり、また撤回されたという話も耳にしていません。召命問題に関して、私たちは神様に心を向けて祈るだけでなく、神様が望まれるように体も使わなければなりません。人工避妊は利己的行為です。私たちのこの罪を悔やんで、司祭たちに罪を告白して許しを受けましょう。どうぞお願いですから、司教様、神父様方は勇気をもって人工避妊が神に反する罪であるだけでなく、結婚、家庭、教会を破壊するものであると説教なさってください。ウィークランド大司教様、召命不足を心配なさるだけでなく、ご自分の司祭たちにもっと勇気を出し、選り好みをしないで福音全体を説教するよう指導なさってくださいませ。
かしこ
クリスティーヌ・ヴァンダーブレーメン
筆者住所:
Christine M. VanderBloemen
3455 Pilgrim Road, Brookfield, WI 53005, U.S.A.
Tel 1-414-781-0382 Fax 1-414-781-1294