使徒時代に起源がある司祭の独身制度
カトリック司祭 アントニー・ジンマーマン 著
カトリック司祭 成相明人 訳
パウロ六世は、キリストが、神と人への奉仕のために余すところ無くご自身をささげられたことを、禁欲によって世に示された、と書いておられます(『司祭の独身制度』1967年6月24日)。もし、キリストにとって独身であることが神と人への奉仕に欠かせないものであれば、第二のキリストとして生きるその司祭たちも同じく独身であることが欠かせない、とキリストが判断なさったとしても不思議ではないでしょう。
まず気を付けなければならないのは、現代、「独身」(celibacy)という言葉が誤解されやすいことです。「純潔」または「性的禁欲」と同じ意味で多くの著者や解説者が大ざっぱにこの言葉を使っています。狭い意味での「独身」は、単に結婚していないこと、特に、誓願によって独身生活を選択した人たちの身分のことです。しかし、そのもっと広い用法によれば既婚者が結婚の権利を断念することも意味します。
キリストに従った使徒たちは、自分たちの新しい生き方として本能的に独身であることを選んだのでしょうか。つまり、彼らは初めから独身であり続けたのでしょうか。それとも、彼らがもし結婚していたとすれば、結婚の権利をもはや行使しなかったのでしょうか。その辺の事情を福音ははっきり伝えてくれません。しかし、初代教会の数々の文書は、聖職者の独身制度が使徒時代にその起源を持つことを確認させてくれます。
わたしたちは聖書以外にそれらの文書を読んで、初代教会の独身制度についての知識を身につけてから福音の関連箇所を再読するべきです。そうすれば、わたしたちは、少なくとも行間に独身制度についての記述を読みとることができる、というのがわたしの意見です。例えば、聖ルカによる福音はまずペトロの義理の母のことに触れて、彼が結婚していたことを語っています(ルカ4・38)。そして後に、ルカは妻と子どもたちを捨てることについての段落を織り込みます。
するとペトロが「わたしたちは自分のものを捨ててあなたに従って参りました」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てたものはだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」(ルカ18・28〜30)。
わたしはこの箇所を読むとき、ペトロと彼の仲間がすでに持ち物、妻、子どもたちを断念していたか、またはそうするように徐々にではあっても、決心を固めつつあったのではないか、と確信してしまうのです。そうでなければこの段落からは、聖ルカの見事なスタイルと前後関係のなめらかな流れ、論理が突如姿を消してしまう、ということになります。聖ルカはいつも読者に行間を読むよう要求します。マタイ19・29とマルコ10・29の並行箇所は子どもを捨てることには触れるのですが、妻については何も語っていません。なぜでしょうか。それはたぶん後になって使徒たちが宣教の旅をしたとき、つき従ったのが、彼らの妻たちだったからでしょう。パウロは一コリント9・5で、このような伴りょのことを、αδελφην γυναικαつまり「姉妹である女性」とか、「姉妹である妻」などと呼んでいます。彼は、これからもっと詳しく見ていくように、これら使徒的チームの兄妹関係をこのように描写しています。
とにかく、教父、教皇、地方教会会議などによる初代教会の文書は、独身制度の伝統が使徒の時代にまでさかのぼる、という普遍的確信を伝えてくれます。その中のいくつかの文書をここに引用し、分析してみましょう。最近、聖職者の義務的な独身制度が、教皇聖シリキウス(384〜399年)によって4世紀になって初めて導入された、という主張が流行になってしまった感がします。しかし、すぐに分かるように、教皇シリキウスは伝統の中で彼の時代よりはるかに先立って、すでに確立していた規範を確認したに過ぎません。彼は規範を革新しようと試みたのではありませんでした。
何年か前「司祭の独身制度の使徒的起源」という本が出版されました。著者は、聖職者の独身制度の伝統が使徒たちによって始められたことを、原典を駆使して力強く論証しています。もしそれが真実であれば、強制的独身制度に反対する人たちは教皇でなく、十二使徒に反対することになります。イエズス会のクリスチャン・コッチーニ神父が書いたこの本(Ignatius Press・1990年、仏語から英訳)は、故アンリ・ド・リュバック枢機卿から次のように絶賛されました。「この本は第一級の重要度を持つものです。それは真剣また広範な調査の実りです。今世紀になって以来、この本にわずかにでも肩を並べられるような本はいまだに書かれていませんそして、バチカン図書館長アルフォンス・M・シュティックラー神父(現在枢機卿)は序文にこう書いています。「この権威ある著作は、高度な学識に裏付けられた使徒職の分野におけるイエズス会の伝統に、完全に沿ったものです本書も、以下、主にこの本に資料を求めることになります。
サラミスの聖エピファニウス(大体315〜403年)
315年前後、パレスチナのガザのあたりで生まれた聖エピファニウスは、4世紀を生き抜き、403年に88歳で死去しています。青年時代、彼はギリシア語、シリア語、ヘブライ語、コプト語、そして少しラテン語も習得しました。彼は旅に出て、エジプト周辺の大修道院を見学した後、335年ごろ故郷パレスチナに自分の修道院を創立し、三十年間その院長職に留まりました。その学識と成聖のゆえに評判が高くなった彼を、キプロスの司教たちはコンスタンツィアの司教に選びました。そこは使徒聖パウロがキプロスで最初の宣教旅行を行ったとき、サラミスと呼ばれていた所です。エピファニウスはそこで377年から死去した403年まで司教の職を果たしました。
聖エピファニウスは、長く続いた迫害も終わり、教会が新しい市民としての自由を満喫するようになったあの劇的な4世紀の教会の中にあって、ひときわ目立って優れた人物でした。それは、325年、教父たちが、" Deum de Deo, Lumen de Lumine, Deum verum de Deo vero" 、と歌いあげて、キリストの神性を決定的に宣言したニケア公会議の時代です。当時アリウス派はキリストが御父と同等でなく、真の神でもない、と主張し、その後何十年も教会の至る所で猛威を振るっていました。それにもかかわらず、東方では381年コンスタンチノープル公会議がこの異端にとどめを刺しました。西方ではアンブロジオ(大体339〜397年)がそれに決定的打撃を与えています。
エピファニウスが司教に叙階された377年、彼は80の異端一覧表を記載した著書パナリオンを書き終えました。後述のように、彼はその中で司祭の独身制度について極めて貴重な証言をしています。彼には百科辞書的な頭脳があり、論争に深入りしていくことを好み、当時の教会の指導者たちの中に多くの友と敵を作りました。例えば、彼は自分の教区を出てエルサレムに旅し、そこの司教エルサレムのヨハネと火の出るような大論争をしたものです。二人の司教は聖墳墓の教会の説教台から雷のような大声で、互いを論破しようとしました。司教エピファニウスは、オリゲネスを大異端者として非難しましたが、司教ヨハネは自分こそが正統派である、と言い張りました。聖ジェロニモは両者の言い分に耳を傾けた後、その場でオリゲネスの弟子であることを止めて、その敵となりました。その結果、オリゲネスの著書は焚書の憂き目にあい、その貴重な作品は永遠に失われてしまいました。聖エピファニウスはその何年か前、聖ジェロニモと連れだってローマに旅していました。聖ジェロニモは当時教皇ダマススの秘書でした。そして、自分がその後継者に選ばれなかったことに失望していました。これはすべて、聖エピファニウスが、この劇的な時期の教会の状態を、的確に知り尽くしていたことを示します(教父学—Patorology Ⅳ 、215〜217、ヨハネス・クアステン参照)。
エピファニウスは当時の大物たちと時として激しい論争をしていました。だから、もし司祭の独身制度に関してそのころ行き渡っていた規則について、彼が間違ったことを言おうものなら、論敵たちが大喜びでそのことを攻撃したに違いありません。パナリオンの執筆によっても分かるように、彼は当時の出来事について膨大な知識を持っていました。彼が非難する最初の20の異端はすべてキリスト教以前のものです。彼が描写かつ非難するキリスト教時代の第一の異端は、シモン・マグスのものでした。彼はその資料にリヨンの聖イレネウスその他の著作を駆使したものです。その一覧表の最後にある異端は彼の死後431年エフェソ公会議で公に非難されることになる、同時代の人物マサリアンのものでした。キプロスの司教たちは、上述したように彼の学識に深い感銘を受け、彼に自分たちの島で司教として仲間入りしてくれるように要請しました。彼がパナリオンの中で主張するのは、聖職者の独身制度が使徒の時代にまでさかのぼり、それがそれ以来教会にとって規範であり続けたということです。以下に、彼が聖職者と禁欲について言っていることの例を挙げておきましょう。
キリストの受肉以来、神のみ言葉は、一人の妻をめとったものたちが妻の死後再婚するのであれば、司祭の職に就くことを許さない…これは神の聖なる教会によって非常に厳しく、また間違いなく実行されている。しかし、その妻と共に住み続けて、子どもを生ませるものは、ただ一人の妻の夫であったとしても、教会によって助祭、司祭、司教に選ばれることはない。そして、一人の妻の夫であり、禁欲を保つ者もしくは寡夫[だけが助祭、司祭、司教に選ばれる]。[これは]、特に教会の規則が厳しい所では[遵守されている](GCS31、367・コッチー ニ229ページ)。
エピファニウスは、キリストの受肉によって始まった教会の一つの習慣について証言しています。彼は「神ご自身が司祭職のたぐいまれな栄誉のために、再婚をした人たちを司祭職に受け入れない。しかし教会は、妻たちとまだ共にいる一人の妻の夫たちであっても、禁欲を守るという条件があれば、彼らを司祭職に上げる」と言っています。
聖エピファニウスが証言する4世紀の習慣は、パウロが、テモテ(一テモテ3・2〜5)とテトス(テトス1・5〜6)にした指示と一致しています。つまり、「監督は一人の妻の夫でなければなりません」。しかし、エピファニウスは、パウロが、そこで詳しく言わなかったこと、つまり、司教に叙階される既婚の男性は、叙階の条件として禁欲しなければならない、とつけ加えています。教会の規則が厳格に遵守されている地方では、規定が以上のようなものであった、とエピファニウスはわたしたちに伝えてくれます。彼が言うところの教会の規則とは4世紀の文脈の中で理解されなければなりません。つまり、それらの規則は、まだ文書になった教会法ではなく、だれが叙階にふさわしいか、を決定する立場にある権威を持つ人たちによって守られる手続きの方法のことです。エピファニウスが言及している「規則」とは、だから、教会の管理者たちが従うことを期待されていた伝統ということなのです。
聖ジェロニモはエピファニウスの著作が「学識ある人々からは、その主題の故に、また一般の人たちからはその言葉の分かりやすさのために熱心に読まれていた」と言っています(De Vir. Ⅲ , 114)。以上、エピファニウスが、当時教会で起こりつつあったことをよく把握していたことが分かります。彼が伝えてくれる、叙階時から夫婦行為を断念するという条件のもとにだけ既婚者を叙階していた、という情報は間違いないものです。他の資料も同じことを伝えてくれており、エピファニウスと矛盾しません。それらの資料から、叙階の前には普通試しの期間があったことが知られています。その期間、叙階の候補者と妻は自分たちを試すことができ、叙階を授ける高位の者は彼らがふさわしいかどうか見極めることができました。
しかし、聖エピファニウスは、4世紀の時点で、この規則に反する罪が犯されていたことについても盲目ではありませんでした。彼はこう書いています。
しかし、あなたは確かに、ある場所には司祭、助祭、副助祭でありながら、まだ 子どもを生ませ続ける人たちがいるではないか、と訊くであろう。これは「規則」に従って、なされているわけではなく、彼らが勝手にそうしているからである。そして、[信徒の]数の多さを考慮に入れるとき、十分な数の聖職者がいないからである(GCS31、367〜368・コッチーニ、230ページ)。
なぜ当時聖職者の独身制度が厳しく守られていなかったのか
聖エピファニウスの時代、聖職者の独身制度の規律が、所によっては厳しく守られていなかった理由はなぜだろう、とわたしたちは考えます。このあらしのようなニケア公会議後の時代、アリウス主義者たちは、まずならず者どもを扇動して暴動を起こしました。その上で暴動を鎮圧するという口実でローマ帝国軍を導入し、引き続くどさくさまぎれに、各地で正当派の司教を追い出してアリウス主義の司教を着座させていたものです。また、当時の司教と聖職者たちは、ややもするとこういう点で自分たちの思い通りにする傾向がありました。忠実であり続け、一部の背信行為があったとしても、独身制度の一般的規則を守った聖職者たちをわたしたちは正当に尊敬します。背信行為は現代と同じく当時も一般的規則を明確化するためには益があったのです。
独身を守って生きることを誓う既婚者を叙階する伝統に反対するものたちにあてて、エピファニウスはそれを擁護する論文を書きました。それによると、聖なるカトリック教会が独身を誓う既婚者を叙階する一つの理由は、既婚者の身分に対する教会の尊敬を示すためでした。教会は決して狭い考え方に捕らわれているわけではなく、カタリ派のように結婚に反対しているわけでもない、だから教会は童貞と寡夫と並んで一人の妻の夫である男性を司祭職に受け入れる、と彼は書いています。これらの既婚者たちはその後叙階の条件として夫婦の性行為を断念しました。使徒たちも同じ慣行を続けるに当たってキリストにならいました。エピファニウスはこう続けます。今日の教会は賢明に、また妥協することなく、禁欲が既婚者を含むすべての聖職者によって守られるようにという使徒たちに制定されたおきてに従っています。「生涯童貞である男性の他に、神のみ言葉は…禁欲している既婚者を(選びました)。使徒たちは、同じ方法を踏襲して、司祭職に関する教会のおきてに、賢明に、しかし、妥協することなく従ったのです」(GCS31、231・コッチーニ、227ページ参照)。
エピファニウスによると、キリストは司祭職と両立する二つの生活様式を選択しました。これらの異なる生活様式を、司祭職の栄光をもって尊ぶことによってキリストはこれら二つの生活様式を尊びました。つまり、一方で童貞を選んで童貞性に名誉を与え、他方で結婚に名誉を与えるために — 叙階後は禁欲した — 既婚者を司祭職のために選びました。司祭たちをこのように選んだのはキリストです。使徒たちは、キリストが彼らに教えた通りに、つまり、童貞と並んで禁欲を守る一人の妻を持つ既婚者を叙階することによってその慣行に従った、とエピファニウスは証言しています。この証言は非常に意味深いものです。それはキリストが童貞と既婚者の双方を司祭職に受け入れたことを示します。そして、キリストが司祭として受け入れた既婚者が結婚生活の権利をもはや行使しなかったことを示していないでしょうか。さらに、キリストが彼らに示されたこの先例にならって、使徒たちも教会の中の聖職者が独身であることを規定したことが、当時の教会の普遍的な確信であったに違いないことを、あかししています。
別の箇所で、エピファニウスは当時の信者たちと同じく、童貞性に対する彼の高い評価を見せてくれます。彼は童貞性がキリスト信者たちをその根本で養い、支える偉大な霊的ダイナミズムである、とみなしていました。彼は、同時代の多くのキリスト信者の男女が、当時の信者たちからもっとも高く評価、尊敬されていた童貞の生活をしていた、と述べています。童貞の次の位は、[独身でもある]隠者であり、次に、[独身で共同生活を送る]数多くの修道者と観想修道者であり、その次は、禁欲する人と寡婦であり、そして最後に成聖の中に生きる既婚者である、と彼は書きました。これらすべての身分は教会の中で評価され、教会から尊敬されています。しかし次に、正に司祭職の位に他ならない教会の構造の頂点に触れます。エピファニウスは司祭職が教会を養う母である、とたたえます。「これらの頂点にあるのが、もしこういう言い方が許されるとすれば、母、すなわち、命の与え手である司祭の聖なる職位なのである。その動的な力は、主として[司祭たちである]童貞たちから流れて来る」(GCS37、522・コッチーニ、232ページ)。司祭職は、ですから、教会の冠、栄光であり、司祭職にその霊的な力を与えるのは主にそのメンバーの童貞性の身分から来るダイナミズムである、と彼は言います。また、前後関係からして、彼は叙階後の既婚者の禁欲をもこのダイナミズムの一部として考えています。4世紀の巨人、偉大な聖エピファニウスの洞察は以上のようなものです。
司祭と助祭は、彼らに対する必要に応じて、まず、童貞から、次に修道者、最後に一人の女の夫である既婚者から、この順位に従って募集される、とエピファニウスは続けます。
十分な数の童貞がいないときには、修道者の中から[彼らは募集される]。もし、奉仕のために十分な修道者がいなければ、妻に対して禁欲を保つもの、または一人の妻の夫であったもので、現在寡夫であるものたちの間から[募集される]のです。しかし…再婚した人を、司祭職に上げるのは許されない。たとえ禁欲していても、寡夫であっても、司教、司祭、助祭、副助祭の身分に[上げられることはない](同書)。
この引用の中ではっきり分かるのは、聖エピファニウスの時代、聖職者の選択にあたって決定的な資質は禁欲であったということです。コッチーニ神父は「司祭職を希望する志願者たちの、童貞、修道者、禁欲を申し出た既婚者という位階的な並べ方から、エピファニウスは完全な童貞性に教会が与えた圧倒的重要性をことさら強調する」と述べています。「このように、叙階の瞬間から要求される禁欲は童貞性の理想…そして、童貞性のさらに向こうにある…聖なる司祭職に向かう、キリスト信者共同体のすべての生きた活力を一つに集める大きな動きの中に置かれる」。独身の義務は「人間の力の及ばない重荷として…課された気ままな制約としてでなく…匹敵するもののない、せん望の対象となる状態に参与」するための条件です。それは「もはや、奇妙な要求ではなく…童貞性によってその中心が照らされる区域の周辺にあって、うっすら明るい境界のように見える」のです(コッチーニ、232〜233ページ)。つまり、カタコンブから出てきたばかりの4世紀の教会は、司祭職を教会の最高の栄誉とみなしたのでした。そして、この極初期の教会は禁欲を司祭職へのすべての候補者が通らねばならない狭い門にしたのでした。教会は、生涯禁欲の誓いの他に司祭職に達する回り道も、別な道も用意しませんでした。
独身制度/禁欲の伝統の他の証人
3、4、5世紀の聖職者の独身制の慣習の証人たちを、今、大急ぎで紹介しましょう。紙面の関係でこれらの引用を詳しく分析することはできません。しかし、多数の著名な証人の存在は、聖職者の独身制度が確実に、普遍的に確立していたので、当時正にそれが当然であった、と教会が受け止めていたことを、わたしたちは確信することができます。
アレクサンドリアのクレメンス(215年ごろ死亡)は、パウロが結婚していてその使徒的聖務の際にその女性を同行させていた、と信じていました。しかし、彼は、パウロが彼女とは兄妹のように夫婦関係を持つことなく生きていたに違いない、と確信しています。クレメンスがこう言うのは、彼が他の使徒たちに関しても、もし彼らが結婚していたとしても、妻たちとは夫婦行為がなかったであろう、ということを信じていたからです。もし、使徒たちが彼らの女性たちを聖務の際に同行したとすれば、「女性たちは妻としてでなく姉妹として遇された。彼女らは、仕事の関係で家を離れることのできない女性たちのための仲立ちとして遇された。彼女たちの取り次ぎのお陰で、使徒たちが悪口を言われたり、悪意の人たちから不当な疑いをかけられずに、主の御教えが女性たちの居場所に浸透することができた」(GCS52、220・コッチーニ、80ページ)。
アンブロジアステル(大体384年ごろ死亡)は、ペトロに妻子がいたにもかかわらず、キリストがためらうことなく彼を使徒たちの頭として選んだことを想起させます。また、同じく教会が当時も既婚者を司祭として選んでいたことをつけ加えています。使徒たちは彼らの妻たちと完全な禁欲を保ちながら生きた、そして、彼らにならって今日の司祭たちも妻たちとはもはや性的な交わりを持たない、とアンブロジアステルはつけ加えます。(CSEL50、414〜416・コッチーニ、82ページ)。
聖アンブロジオ(333(sic)〜397年)は教会の四大博士の一人ですが、彼は自分の司祭たちに完全な純潔を生き抜くよう強く勧めました。「皆さんは聖なる奉仕の恵みを完全な身体の中に永遠の清さと共に受けました。既婚者の夫婦の交わり自体と無関係である皆さんが受けたこの奉仕が、そむきと汚れから免れますように。それはどのような形、どのような程度であっても夫婦関係からの傷を受けてはなりません……司祭よ、助祭よ……これらの神秘の執行のためにあなた方の清い身体をささげなさい」(PL16、104b〜5a・コッチーニ、82ページ)。
聖アウグスチヌス(354〜430年)はもう一人の偉大な博士です。彼は夫たちに、事情があって妻から離れているときも純潔に生きるよう勧めています。彼らを励ますために、彼は自らは望まなかったのに(inviti)、彼らに授けられた叙階によって負わされたものとして、その後ずっと禁欲の規則を守っている司祭団のメンバーについて話しています。彼は、アンブロジオがどのように司教に選ばれたか、また自分自身がどのようにしてヒッポの司教になったかを、また人は一度叙階されると禁欲を保つ義務が伴ってくることを考えていたことでしょう。
それが、わたしたちが彼らを励まし…(そして)彼らに模範として、自分の意志に反してこのような重荷を担うことをしばしば強制された、これらの聖職者の禁欲について話す理由なのである。しかし、いったんそれを引き受けたら、彼らは死ぬまでその義務に忠実に留まる……もし、大勢の主の奉仕者たちが、キリストの相続のさらに光栄ある場を受けるために、突然、何の前触れもなく、彼らに負わされたくびきを担うのなら、ましてやあなたたちは神の国で少なく輝くことの恐れでなく、むしろ火のゲヘンナで焼かれる恐れから、姦通を避け、禁欲を守るべきではないか(GSEL41、409・コッチーニ、289〜290ページ)。
ペルージウムのイシドール(435年ごろ死亡)は助祭のイシドールに一コリント9・5を説明して、次のように書き送りました。もし、女性たちが使徒たちにつき従ったのなら「それは子どもを作るためでも、彼らと普通の生活をするためでもなかった。それはまことに、彼女らの持ち物で彼らを助け、貧しさの使者たちの食べ物の心配をするためであった」。パウロは彼女たちを姉妹である女性と呼びました。しかしそれは、彼が「『女性』という言葉によって、彼女らの性別を言い表す一方、『姉妹』という言葉によって、彼らが禁欲していたことを示したかったからである」(PG78、865d〜868c・コッチーニ、81ページ)。一コリント9・5の「姉妹である女性」という節を、彼がどう説明するかに注意して下さい。イシドールによると、パウロは、彼らが兄弟姉妹のように暮らしたことを示すためにこういう言葉を選んだ、というのです。
少しわき道に入る感じですが、現代のある翻訳者たちがこの節で「妻」という言葉を使用することに気がつきませんか。例えば、新共同訳は「わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか」と訳してありますが、この訳は誤解を招きます。初代教会の聖書の専門家たちは異なった考えを持っています。アレクサンドリアのクレメンス(215年ごろ死亡)、テルトゥリアヌス(220年ごろ死亡)、ジェローム(420年ごろ死亡)、ペルージウムのイシドール(435年ごろ死亡)、その他は皆、ここでパウロが兄妹関係のことを述べている、と言っています(コッチーニ、81ページ脚注参照)。
もう少し追加しましょう。その前後関係からこの節を読むと、パウロはここで結婚生活についてではなく自分の使徒職のために共同体から、食事とか他の奉仕を含む生活の支持を受ける権利について語っています。彼は、その権利を自分はだれの重荷にもなりたくない、という気持ちから自発的に放棄する、と言います。文脈は、結婚ではなく「姉妹である女性」、「姉妹である妻」(αδελφην γυναικα)によって提供される奉仕についてでした。現代であれば、このような女性をわたしたちはさしずめ家政婦と呼んだことでしょう。正しい翻訳なら、パウロがここで使徒たちの姉妹である女性、または姉妹である妻を指していることを伝えてくれます。もし、使徒たちの実際の妻たちが彼らと行動を共にしたとすれば、彼女らは姉妹である女性としてそうしたのであり、結婚のパートナーとしてではなかった、ということです。
エルヴィラ地方教会会議(305年ごろ)の法令集27条と33条を調べてみましょう。そこでは、4世紀の初めつまり312年コンスタンチンがミルヴィアの橋の戦いで勝利を収め、翌年ミラノの勅令によって全帝国に宗教の自由を広げたその以前に、聖職者の独身制度が遵守されていたことが明確に示されています。
27条・司教または司祭であったとしても、彼が伴うことのできるのは、姉妹もしくは神への奉献を誓った処女である娘だけである。その他の女性を伴うことを会議は厳しく禁止する。
33条・結婚が司教、司祭、助祭、または奉仕の職にあるすべての聖職者に禁止されること、彼らが妻たちから遠ざかり、子どもを設けてはならないこと、違反するものからは聖職者の地位の名誉が奪われることを決定する(カトリック教義の源泉—The Sources of Catholic Dogma、DS52bとc)。
4世紀の初めに開かれたこの初期の地方教会会議には19人の司教、24人の司祭、記録にはないがおそらく多数の助祭と信徒が出席していました。気づいて欲しいのは、聖職者の独身制をここで初めて義務制にした、という印象がまったく見られないことです。その逆に、この会議の参加者たちは、それ以前からすでに定着していた、と彼らが推定する義務的な独身制度の慣行が、正確に守られねばならないことを強調します。彼らは、地方教会会議の出席者全員とすべての信者が、以前からこの規律について承知していたことを前提にしています。独身制度を新しい規律にしてしまうような読み方はまったく文脈から離れてしまうものです。(コッチーニ、158〜161ページ)。
多くの聖職者が結婚していたか?
聖職者たちの中で、叙階の後、禁欲の義務を引き受けた一人の妻の夫であった司教、司祭、助祭(そして副助祭)たちの割合は多分時代によって変動した、と思われますが、少数ではなかったでしょう。そのころ、バチカン図書館の館長であったアルフォンソ・シュティックラー神父は「独身制度は一般信徒が考えるような結婚の禁止であるだけではない。それは禁欲つまり初代教会においてはかなり頻繁にあった、叙階以前は結婚していた人たちによる結婚の権利の使用の断念でもある」と書いています(コッチーニの著書への序文、1981年1月24日)。
コッチーニ神父は、ペトロや他の使徒たちの結婚にまつわる箇所を分析しました(65〜83ページ)。彼は次に、220人の結婚していたカトリックの司教、司祭または助祭のリストを掲載します(87〜122ページ)。その情報の源泉も丹念に記載されています。何人かの教皇や聖人たちも結婚していた聖職者たちのリストに挙げられています。例えば、ローマの司祭フェリックスは教皇フェリックス三世(483〜492年)の父でした。教皇フェリックス自身はペトロニアの夫であり、パウロとゴルディアヌスという名の二人の子どもを設けています。その他にもう一人女の子もいたと思われます。そして彼は、後の教皇大聖グレゴリオの曾祖父に当たります。ローマの司祭ユクンドゥスは教皇ボニファシオ一世(418〜422年)の父、ローマの司祭ペトルスは教皇アナスタシウス二世(496〜498年)の父でした。教皇ホルミスダス(514〜523年)は教皇シルヴェリオ(536〜538年)の父に当たります(コッチーニ、103、107、108、112ページ)。司教の位では、ナジアンズの司教聖グレゴリオの父は信者でなかったのに妻の影響で受洗し、老後は息子の先任者としてナジアンズの司教になっています。多分、叙階の日に始まった禁欲の献身的実践のために、これらの高名な教皇や聖人たちは彼らの妻たちには模範的な夫、彼らの叙階の前に生まれていた子どもたちには愛情深い父だったのでしょう。彼らの子どもたちの中のいく人かは結婚し、その後、独身を守る聖職者団の仲間入りをしました。このことが雄弁に示しているのは、聖職者たちの禁欲的な家庭生活がまったく普通であり、子どもたちも同じ生き方をしたくなったほど模範的でさえあった、ということでしょう。
妻たちは叙階された夫たちと一緒に住んだのだろうか?
聖職者たちと彼らの妻子の家庭生活が実際にはどのようなものだったかは、一概には言えません。独身の(性的に禁欲した)聖職者が、時としては同じ家に妻子と共に暮らしたことはわたしたちにとって奇異に見えるかもしれません。しかしわたしたちは、イエスの聖なる両親であったヨセフとマリアが完全な禁欲のうちに、ナザレトでおそらく同じ家に住まわれたであろうことを、思い起こすべきです。禁欲は神の恵みの力と光の中で生きる神のたまものです。もし完全な禁欲の中に神に献身する目に見えない壁が強く、周囲の共同体がそれを支持し、夫婦双方がそのような生き方を選択すれば、それは可能です。少なくとも、わたしたちは、このような生活様式がそれほど珍しくなかった教会の最初の7世紀間にはそれが可能であった、と言わねばならないでしょう。
教皇大聖レオ(440〜461年)は四大博士の中のもう一人ですが、テサロニケのアナスタシオに書簡を送って、叙階の候補者たちをまず完全な禁欲ができる能力と意思があるか試すよう忠告しています。「もし結婚生活の快楽にまだ終止符を打っていないのであれば、それがだれであろうとも、レビ的つまり司祭、または司教の職の尊厳にふさわしくない」(PL54、672b〜673a)。しかし、彼は、妻たちが正当に彼女たちの聖職者の夫たちと暮らし、神にささげられた禁欲を共に守りつつ、彼らを助けるように、と勧めています。
禁欲のおきては祭壇の奉仕者にとっても、司教、司祭にとっても同じである。彼らがまだ一般信徒もしくは読師であったとき、彼らは自由に妻をめとり、子どもを生ませてよかった。しかし、ひとたび上述した位階に達したら、以前許されていたことももはや許されなくなる。彼らの結合が肉体的なものから霊的なものになり、妻を家から出すことなく、結婚の愛が守られつつも夫婦の行為は許されない。これが、彼女たちとあたかも結婚していないかのように、暮らさねばならない理由である[quo et salva sit charitas connubiorum, et cesset opera nuptiarum; ナルボンヌのルスティクス(458〜459年)へ、PL54、1204・コッチーニ、262ページ]。
教皇聖レオの忠告は明らかに当時の状態を反映し、当分の間のモデルとなるものでした。コッチーニは次のように言っています(教皇レオの時から)「純潔は別居というより、聖職者と彼らの妻たちによる完全な禁欲的共同生活の体験を指すようになってきた。その経験は偉大さに欠けるものではなかった。それらの夫婦の毎日の英雄的行為、そして規則の静けさの中の厳しさは驚嘆に値する — しかし、危険がまったく取り去られたことを意味しなかった。だからこそ、わたしたちは数多くの警告をそこに見ることができる。彼らは兄妹のように振る舞うかめに同室しない賢明さを持つように……などが、それに当たる。徐々に、聖職者は別の家に住むよう — 忠告を受けるようになる — いや、命じられさえもする。そして、司教の住まいが一種の修道院のようになり、女性がいる家庭生活にとって変わって、複数の聖職者が共同生活をするようになった」(425ページ)。(ここでは、東方教会での発展について十分に触れることができません。)
司祭の子どもであって、聖職者の家庭生活をその内側から知り尽くしていた教皇フェリックス三世(483〜492年)と、教皇アナスタシウス二世(496〜498年)は教皇レオの命令を変更しようとはしませんでした。最後の大博士、教皇大聖グレゴリオ(590〜604年)も同じ路線を踏襲しました。彼も、聖職者たちが性的な禁欲を保ちながら妻たちと共に住み続ける習慣を認めています(MGH、Gregorii 1、Ⅰ 、76ページ・コッチーニ、373ページ)。
聖職者と妻たちが同じ家に住みながら禁欲しなければならない、という伝統の要請は、聖職者がその伝統に忠実でなければならない、という信者たちの期待でもありました。信者たちのこの期待が、聖職者と妻たちが彼らに期待されたようにに禁欲を守るという決心をそれとなく支えました。それは、聖職者と妻たちが同じ家に住みながら、賢明に振る舞うように、そしてそのような禁欲の生活を可能にし、生きやすくし、実際的にもする生活様式を生み出すように影響しました。妻は、禁欲に同意した配偶者として当然その注意と謹み深さで、その約束を守りやすいような条件を作り上げました。つまり、両者が協力して、自分たちを婚姻のベッドから遠ざける壁を作らねばなりませんでした。彼女にとって、そのような生活の成功とその地方共同体での良い評判はその新しい召命を、充実して、注意深く送ることにかかっていたのです。わたしたちは、厳しい視線が常に彼らを見張っていたであろうことを疑えません。妻が妊娠していることが発覚すれば、彼女は共同体の笑いものになったでしょうし、夫にとってもそれは同じであったでしょう。そして多分彼らはその身分と収入を失ったであろうと想像されます。教会を常に守る神は何百年もの間多くの聖職者がこのように生きるために十分な恵みを下さいました。
教皇シリキウスの業績(384〜399年)
スペインの司教ヒメリウスは384年、教皇ダマススにいろいろな件について指示を仰ぐため書簡を送っていました。ところが、教皇ダマススが死去したので、次の教皇シリキウスが、385年2月10日付で返書を送りました。その引用がPL13、1138a〜39aに、またDS89にも見いだされます。その長い引用はよく知られていますが、ここではDS89からの中心部だけに的を絞りましょう。
ゆえに、主イエスもその来臨でわたしたちを照らして下さったとき、福音の中でご自分が律法を滅ぼすためでなく完成させるために来た、と言われる(マタイ5・17)。彼が、使徒たちを通じて教会を作られたとき、それはしみやしわやそのようなものの何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためでした(エフェソ5・28)。全司祭とレビ人は、わたしたちの叙階の日から、わたしたちが心も体も禁欲と純潔にささげるためにこれらの規定の不解消の法によって縛られている……
しかし、これが古い法では彼らに許されていると主張して、禁じられた特権のための言い訳とするものは、ふさわしくなく仕えたすべての教会の任務から、教皇職の権威によって追放されていることを知るべきである。また、彼らは不純な欲望に身を任せている間は自分から奪ってしまった聖なる諸神秘に決して触れてはならない。
お分かりのように、教皇シリキウスは司祭や助祭たちを妻を持っているということで断罪してはいません。彼にとって、それは既成の合法的事実なのです。しかし、叙階の後、妻と共に子どもを作ること、結婚外の性交渉にふけることを断罪するのです。彼は、祭壇に仕えた旧約のレビ人たちには子どもを設けることが許されていた、という彼らの言い訳に反論しているのです。教皇シリキウスは、キリストが古い法をもっと優れた福音の規範で完成している、と言います。古い法は、神殿での奉仕の順番の期間中司祭たちとレビ人たちに一時的な性的禁欲を命じました。新しい法はその司祭たちに教会の中で一生の禁欲を守ることを求めます。
教皇シリキウスが、使徒的伝統にはっきりとは触れていないにもかかわらず、彼の話し方は、聖職者の独身制の規範が、教会の初めから彼の時代まで、有効であり続けたことをうかがわせます。教皇はこの件を自ら創設しようとしている規範というより、受け継いだ伝統として取り扱います。
わたしは、ここ日本で、神道の高位の神官は、伊勢神宮で所定の儀式を執り行う前に、一定期間、妻と別居しなければならないことを、つけ加えたいのです。彼は、自宅を出て、だれにでも禁欲の儀式が遵守されていることが、はっきりと分かるように、世間から離れた場所に住まねばなりません。このことを知ったのは、バチカンのさる高位聖職者を案内して伊勢神宮を訪れたときでした。案内人は、神道の高位神官が重要な儀式の前に一時的な禁欲をすることについて説明してくれました。自分が話しかけている人たちが生涯独身であることを意識して、彼はこのこのことを、いくらかの誇りをもって説明してくれたものです。
390年のカルタゴ地方教会会議
コッチーニ神父は、390年のカルタゴ地方教会会議のあの有名な宣言を特に重要視します。それは格調高い宣言で、アフリカ教会の規則とローマの文書にも採用されました。それは東方教会の伝統の中でも非常に大事にされました。教皇グレゴリオの改革の推進者たちも、彼らにとってもっとも頼れる歴史的論拠として、一度ならずそれを使用したものです(コッチーニ、4ページ)。それは分量的に小さく、言葉は少なく、人間的配慮にとっても異論の余地がなく、妥協せず、実に真剣で、読む人の警戒心を解いてしまうほどの謙そんを備えています。司教エピゴニウスが宣言を提案し、議長の司教ゲネトゥリウスがその表現形式に手を加え、すべての司教たちが賛成票を投じました。
ブルラの王領の司教エピゴニウスは、「禁欲と独身の規則は前の会議で論議されていた三つの位、つまり、司教、司祭、助祭たちは彼らが祝聖を受けた事実からして、同じ純潔の義務を負うものである。すなわち、彼らが純潔に生きることが、今、さらに強張されて宣言されねばならない」と言っています。
司教ゲネトゥリウスは「以前言われたように、神の聖なる司教と司祭たちは、この点ではレビ人と似ている。神的な諸秘蹟の奉仕に当たる人々が、神に願っていることを、ただちにかなえていただくために、完全な禁欲を守ることはふさわしい。使徒たちが教えたこと、昔の人たちが守ってことをわたしたちも守ろうではないか」と言っています。
司教たちは全会一致して以下のように宣言しました。「純潔の守護者である司教、司祭、助祭が、祭壇で奉仕するものたちが、完全な純潔を保つための模範として、彼らの妻たちとの[婚姻行為を]控えることに、全員賛成する」(CC149、13ページ・コッチーニ、5ページ)。
次の点に注意。
1.彼らは「司祭たちが祝聖を受けた事実からして」、すなわち叙階によって祝聖され、以前の身分から切り離され、神の特別な奉仕のために任命されたからこの義務を負う、と言っています。教会による規則をしっかりと基礎づけるこの祝聖の力と意味によって、彼らは自分たちが独身の状態に拘束されていることを認めます。
2.彼らは、司祭たちの純潔が今日であればあたかも神への直通電話であるかのように、神に特権的に近づく権利を与えるものである、と信じています。彼らはもはや神に時間をかけて特定の様式にはまった祈りをして願い事をする必要がありません。純潔が彼らに神への道を開き、彼らが祈り求めることは「ただちに聞き入れてもらえる」というような、純潔に基づく司祭の祈りの特別な力に対する確信は使徒時代からの伝統の一部であるように思われます。
3.彼らは、司祭たちが使徒たちと教会の伝承によってその時代まで伝えられてきた伝統を、ただ守るべきであるだけでなく、守ることが可能である、と信じています。「使徒たちが教えたこと、昔の人たちが守ったことをわたしたちも守ろうではないか」。これが意味するのは「彼らもそうしたのだから、わたしたちも、そうしようではないか」ということです。
4.彼らは挙手で採決したのですが、全員が挙手し、決定は全会一致によるものでした。純潔のバトンは過去から受け継がれ、当時実施されており、将来、つまり — 司教、司祭、助祭の次の世代に — 引き渡されようとしているのです。
390年に召集されたカルタゴ地方教会会議のこの記録の中には、その他にも含蓄的な意味がいくつかあることにわたしたちは気づきます。すなわち、集まった司教たちは、人々が彼らの所にいろいろな願い事を持って来て、司祭たちが彼らのために特別な祈りをしてくれることを要求する、という経験を承知しています。人々は司祭たちの祈りの特別な効果に信頼しています。
第二、彼らの独身制度の決定は集合した司教たちが、聖職者の純潔は自分たちにとっても、仲間の聖職者にとっても可能である、と信じていることを示唆します。彼らは第三者的な理論からでなく個人的経験から語っています。彼らはその戦いをよく承知しており、それにもかかわらず、その挑戦を進んで引き受けるのです。
第三、彼らは聖職者の独身制を彼らの世紀の発明であると思ってなどいない、ということです。彼らはそれが使徒たちの時代にまでさかのぼる伝統であると考えています。「使徒たちが教えたことをわたしたちも守ろうではないか」。
390年、カルタゴの司教たちが、使徒たちの時代にまでさかのぼって明白にした聖職者の独身の義務は、今日の聖職者にとっても栄誉と誇りです。ここで、1993年、教皇ヨハネ・パウロ二世が合衆国の司教たちに話された言葉を以下に記しましょう。
「この『独身』の要請は、ただ一時的な法的規定とか、叙階の条件として外的に課される条件ではありません。それは、花婿の体である教会の世話に、司祭も参与することと深く結びついています」(英語版週刊オッセルバトーレ・ロマノ、1993年6月23日Pastores dabo vobis, No. 50)。
実に、キリストと共に独身であることによって、司祭は、主と共にその花嫁である教会の世話に、さらに完全に参与することになります。昔から、これこそ、使徒たちにならって、キリストの召し出しにこたえて、独身生活を選ぶ司祭たちの確信、慰め、力でした。
今日もし既婚者が禁欲を受け入れるなら彼らを叙階するべきでしょうか?
コッチーニ神父は禁欲を受け入れる既婚者を今日叙階することは不可能ではない、というアルフォンソ・シュティックラー神父(1985年以来枢機卿)の意見を引用しています。しかし、シュティックラー神父は教会がその方向に動くであろうとは思っていません。彼は、歴史は、教会が少しずつ、その不便さの故にその種の叙階を減少させてきたことを示していると言います。「少なくとも現在の状況の下では、今はもう時代遅れになった習慣を復興させたい、と思う人がいるとは思えません。しかし、壮年、老年の独身者、寡夫の叙階がまったく不可能である、とは言えません。また、双方が聖別された生き方、従って禁欲を選択する決定をするなら、既婚者の叙階も不可能ではないでしょう」(オッセルバトーレ・デッラ・ドメニカ1979年4月8日、n.115、2ページ、聖職者への教皇書簡の解説・コッチーニ、45ページ)。
教会が、現代、妻と共に叙階後の禁欲を誓う既婚者を司祭職に叙階する習慣を復興させない、とする枢機卿の予測は正しいのでしょうか。教会がこの習慣を廃止してしまっている事実はそのような習慣に反対する強い理由があったからです。しかし一方、教会がこの習慣を7世紀も保ち、祝福してきたことはそれを肯定する印でもあります。
もしふさわしい夫婦が禁欲と叙階を志願した、と仮定して、この習慣を現代、復興することを支持する要素は何なのでしょうか。いくつかの理由が思い浮かびます。禁欲を守って生きる結婚した司教とか司祭は、
1.彼らのよい模範と、彼らの結婚生活と子どもたちの教育の経験から得られた司牧的知識で、教会を豊かにするかもしれません。
2.青少年が純潔を守るよう勇気づけるかもしれません。
3.結婚した人たちに人工避妊を止めさせ、その徴候があるときに、定期的な禁欲を実行する励みになるかもしれません。
4.同性愛とか小児愛などの司祭に原因する醜聞を相殺するかもしれません。
5.今日召命が十分でない地方で、司祭の供給を増加させるかもしれません。
多分、現代の司祭の数は、家族の同意があった上で禁欲生活を選択し、教会が司祭職に召し出すふさわしい既婚者によって補充される可能性があるかもしれません。多子家族が例外になってしまい、多くても、せいぜい2、3人が決まりになった感がする日本のような国で、司祭の数の不足が慢性的になることが予見されます。ほとんどの司祭たちは、伝統的に、ピオ十二世が「神からもっとも祝福され、教会からそのもっとも貴重な宝物として愛され、かつ大事にされた人々」と言われた多子家庭の出身です(1958年1月20日、多子家庭)。多子家庭は、日本と他の豊かな国で再び姿を見せるのでしょうか。彼らによって再び司祭の召命が多くなるのでしょうか。それとも、教会は再び、司祭不足に対処するため、教会の輝きを増し、ふさわしい家庭の生活を豊かにするために、禁欲生活を守るという条件で既婚者を叙階するという習慣を復活させるべきのでしょうか。
結論
司祭は特別な人たちです。聖エピファニウスが書いたように、彼は童貞性/純潔の確固とした基礎の上に立っていることから、教会を養う母なのです。世紀を通じて、司祭の階級は常に前進する鋭利な刃として、後に続く巡礼者のために安全な通り道を切り開き、巡礼者である教会の前線に立ってきました。司祭たちはいつでも、巡礼者の軍団の大部分の消耗が生じる、この吹きさらしの最前線にあって進みます。前線の司祭たちが良い兵隊であれば、彼らの勇気と忍耐は残りの全体にとっても幸先良いものとなります。司祭たちからなる前線がぐらつくとき、彼らの敗北は軍団全体に浸透します。使徒の時代以来どの時代でも教会の歴史は正にそういうものでした。
司祭たちが純潔でなければ、世界は混とんと非道行為に堕落していくでしょうし、司祭たちが再び伝統を守り、純潔であれば、世界は再び立ち上がって、秩序を取り戻し、美しくなれるでしょう。
東方教会の教会法学者ゾナラスは、司祭たちの霊的活力もしくは勇気の喪失は人間家族の幸せを左右する波及効果を持つ、という意見を述べています。彼は、司祭たちが、実に、神と人との間の仲介者であり、神と自分たち以外の信徒たちとの間を結び、全世界のために救いと平和を願うものである、と言います。ですから、もし彼らがすべての徳を実践し、神と全面的な信頼して語るなら、直ちに、すべての願いを聞き入れてもらえるでしょう。彼らがその落ち度で、その言葉の自由を失ったら、果たして他人の善のために取り次ぎ者としての役割を果たせるでしょうか(PG138、32c・コッチーニ、7ページ参照)。
ラビによるたとえ話に次のようなものがあります。神が、世界を創造したとき、嫌悪の情を催すその大規模な反逆を見てためらわれました。次に神の目は、忠実の岩アブラハムを見て輝きました。それで神はその悪にもかかわらず、世界を創造し、アブラハムの岩で強化することに決められました。以下の話は、ラッツィンガー枢機卿によって語られたものです。
ラビのテキストはこの点に光を当ててくれます。「『これらの神を恐れない人々がわたしに対して立ち上がり、背くであろうというのに、この世界を創造していいものだろうか』と、ヤーウェは言われた。しかし、神は、ご自分が創造することになっているアブラハムを見て、言われた。『見よ。わたしはその上に世界を造り、しっかり建てることのできる岩を見つけた』この理由のために、神は、アブラハムを岩と呼んだ。『あなたたちが切り出されてきた元の岩に目を注げ』(イザヤ51・112)。この信仰の故に、神は信じるすべての人の父アブラハムを、すべてを滅ぼそうとして脅かしてやまない原初の洪水であった混とんを押し戻し、創造を支える岩と呼ばれた。シモンは、イエスを最初に信じ、最初に復活の証人となった。彼はアブラハムにふさわしい信仰をキリスト教的に更新した。そして今、不信仰と、人間にふさわしいことに反対する、すべての汚い潮流に抗して建つ岩となった」(英語版週刊オッセルバトーレ・ロマノ1991年4月18日、教皇庁立ウルバノ大学での教話)。
現代の司祭たちと共に、ペトロは混とんを押し戻し、創造を強化する岩です。わたしたちは、御父がすでに「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」(マタイ24· 29)その日を決定しておられることを知っています。御父は、創造されたすべてのものが滅ぼされる「大いなる、はなはだ恐ろしい」(ヨエル3・4)主の日をどのぐらい延ばされるのでしょうか。御父は多分純潔の土台の上にしっかと立ち、天を支える司祭たちを見られます。司祭たちは「願いと祈りと取りなしと感謝とをすべての人々のために、王たちやすべての高官のためにも」(一テモテ2・1)ささげます。司祭たちこそ罪の混とんと戦う人たちではありませんか。この美しい宇宙を滅ぼすのを、さらにもう一世代待つように願うキリストの名でホスチアとカリスをささげる司祭たちを、御父は喜んで下さらないでしょうか。カルタゴの教父たちは390年に「使徒たちが教えたこと、昔の人たちが守ったことを、わたしたちも守ろうではないか」と言いました。現代、同じ心を持つ司祭たちを見て、御父はこの世界を罰する日を少し延ばして下さらないでしょうか。
参考文献と略語
( 外国文献は原文のまま)
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PG: J.G. Migne, Patrologia Cursus Completus, Series Graeca.
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SCh: Sources Chretiennes.
聖書—新共同訳、日本聖書協会、東京。
著者紹介
アントニー・ジンマーマン神父は、1917年10月30日米国アイオワ州ウェストファリアで、十人の兄弟の中の四番目の子どもとして生まれ、1946年8月15日神言会司祭として叙階されました。アメリカ・カトリック大学で1953年神学修士号を、1956年博士号を取得。名古屋の南山大学で英語の講師、米国イリノイ州テクニーのセント・メリース・カレッジで倫理神学の講師を経て、南山大学で倫理神学の講師、後に教授を務めています。
1960年から72年まで日本カトリック人口研究所の所長を務めました。1966年から69年まで名古屋にある神言会大神学院の院長、1972年から75年まで日本神言会の管区長、1975年から87年まで日本家庭生活連盟の専務理事でした。
その著作は数多く、主なものを挙げると、「人口過剰についてのカトリックの見方」、「自然な家族計画・自然の道—神の道」、「原罪—教義が科学と出会う場」、「アダムとエバの宗教」などがあります。その他、種々の雑誌等に少なくとも百の論文が掲載されています。
米国カトリック学士会、家庭生活推進国際連盟、人口の科学的研究のための国際協会、日本人口学者協会の一員でもあります。
現在、諸般の事情のため、ブラジル・ヴィアナのアダルベルト・ダ・シルバ司教から、職階権を行使する権能を付与され、その同意のもとに日本で家庭生活の使徒職に励んでいます。