『フマネ・ヴィテ』研究会 成相明人
1999年11月12日
今日、一九九九年十月十三日は何の日か皆さんご存じですか? ザビエル上陸四百五十周年記念ミサの次の日? しかし正解は国連発表によれば世界人口が六十億人を突破した日です。この日午前零時少し過ぎに世界のどこかで、六十億人目に当たるこの赤ちゃんが産声を上げたはずです。A Happy Birthday to him or her! 国連人口基金、ユニセフ、家族計画連盟は、この喜ぶべき日を悪用して人口規制キャンペーンを繰り広げようとしています。人口過剰は欧米の利己的先進国が作り出した神話でしかありません。日本もそれに悪のりしています。マスコミに操られた大衆は愚かしくもそれを鵜呑みにしています。
三年ほど前にあった全国司教会議の報告にも、「人口爆発に対して日本カトリック司教団が具体的に何かしなければいけない」という記述がありましたが、その後司教団が方向転換をしたとか、この発言を撤回したという話は聞きません。一体どうなったのでしょうか? そして、何をなさるおつもりなのでしょうか?
昨日の記念式典で祭壇上に勢揃いした司教団の皆さんを眺めながら、わたしにはこういう思いが往来しました。そう言えば、会場には子供の数が極端に少なかったことに皆さんは気づかれましたか? 会場を満たす信徒の数にもかかわらず、信仰共同体の人口的アンバランスと衰えを目の当たりに見る思いがしました。信徒の平均出生率も日本人の平均出生率とさほど変わりません。わたしが若いころは、子供の多い家庭を見ると「あの家族はカトリックかしら?」などという冗談を聞いたものですが、もう長いことこういう言葉を耳にしていません。皆さんはどうですか?
人口減少が国力衰微につながるのと同じで、カトリック信徒人口が増加しないで老齢化すれば、カトリックの信仰も衰微の一途をたどります。昨日はその一端を垣間見た思いがしました。子供の合唱隊の聖歌に拍手を送る不心得者が信徒の間に、そして司祭団の中にさえいました。荘厳なミサ聖祭の最中でしたが、わたしはそばで拍手していたある司祭のところに歩み寄って、「拍手は止めろ!」と一喝しなければなりませんでした。さすがに同調しない人たちの方が多数で、拍手はすぐにやみましたが、これは本物のカトリック信仰が弱体化している徴候にほかなりません。ミサは人間を喜ばすためのエンターテイメントではありません。聖歌に拍手などもってのほかです。基本的に、ミサは神である御父に御子イエズスを捧げるいけにえの儀式であり、聖歌は人間が神様に捧げる祈りではありませんか? 聖歌に対して拍手していいのは神様だけですが、神様は普通拍手などなさいません。もっともこの頃はミサが人間主体になってしまい、神様が給仕をして人間が神聖な食事をする式である、という某教区長が書かれた文書を見せられたこともあります。信徒を指導するはずの高位聖職者にしてこの発言ですから、信徒の信仰がおかしくなるのも無理ありません。
信徒が拍手するその裏にあるのは聖歌隊が神様でなく自分たちのために歌ってくれているという思いこみ、神の不在です。主客転倒とは正にこのことではありませんか? コケッティッシュという言葉があります。女性が幼なさを装って男性の関心を買おうとする行為がコケットリーです。子供合唱隊の歌い方、特にあのエンディングはこのような言葉を連想させるものでした。神様に聴衆の心を向けさせるとか、聴衆の信心を深めるとかでなく、自分たちに聴衆を引き付けることに夢中になっている歌い方でした。指導者の小川神父がそのように指導したのでしょうから、子供たちの責任を問うのは酷かもしれませんが、指導者は猛省すべきです。子供たちの信仰の薄さ、指導者の愚かさが露呈された場面でした。後ほど反省会もあったようですが、このような反省はしたのでしょうか?
鹿児島のカテドラルにしても「市民に開かれた教会」などと称して、信徒の驚きと失望の中に、献堂式が終わると、御聖体は一階にある別棟の小さな聖堂に司教様が移してしまわれました。裸の王様のような司教様の耳には心ある信徒が口にする批判の声は入らないようです。先日などはある信徒から司教様の改心のために御ミサを捧げるよう依頼されました。神と民の間に立って民の祈りを取り次ぐはずの司教様の改心を信者が願うなど本末転倒です。
御聖体を大事にしないカテドラルは今後ますます信徒の信仰を弱体化させます。聖フランシスコ・ザビエルの聖腕について、朝日新聞の報道には次のような記述がありました。「聖腕は新築の講堂に安置されている」。朝日新聞の記者は無知であったためこのように書いたのか、悪意があったのか、それとも本能的にあの場所が聖でないことを感じ取ったのかは定かでありません。聖フランシスコ・ザビエルの聖腕が聖なる遺物であっても、聖人が来日したのは自分を売り込むためではありませんでした。日本人に神様を、キリストを、御聖体の中に日本人とキリストとの一致をもたらすためでした。しかし、そのザビエルが聖としたキリストの御体を聖なるものとして遇していないのがザビエル記念聖堂ですから、朝日新聞から「講堂」と書かれても仕方がありません。信じられない思いで「講堂」という活字をしばらく見つめたものです。御聖体のない聖堂は矛盾です。せめて、同じ階の脇に設けられた別室にあれば、それは認められていますが、鹿児島のカテドラルでは御聖体があるべき場所には司教様が座るいすがあります。そして入り口には、なぜか、ここは聖堂だからおしゃべりしないように、たばこを吸わないようにという注意書きがあります。これはどういうことでしょうか? なぜでしょうか? そう言えば、多目的ホール正面の左側通路には聖体安置室と書かれた、トイレと全く同じドアのついた小部屋がありますが、聖体ランプはついていません。そこにも御聖体を保存してあるらしいのですが、その前を通るたびに礼拝していいものか迷います。そこに御聖体があって、礼拝しなければ御聖体を無視することになり、そこに御聖体がなければドアを拝むという偶像礼拝になるからです。
ユダヤ教の祈りの場は会堂と呼ばれます。プロテスタント教会の祈りの場は礼拝堂と呼ばれます。カトリックの祈りの場は聖堂つまり聖なる家、神様の家と呼ばれます。その理由はパンの形色の中に、キリストがわたしたちと共に聖櫃に留まっていて下さるという信仰があるからではないですか? ところが新築のザビエル記念聖堂は多目的ホールと呼ばれ、そこには御聖体が安置されていません。御聖体は道路に面した入り口左方の受付か公衆トイレのような場所に安置されてあります。先日、わたしがミサの前に御聖体のある方の聖堂で祈っていると、通路までだれか入ってくる物音がしました。しばらくして外の空気を吸いに出ようとすると、真っ暗な通路では若い男女がうめき声を出しながら、抱き合っていました。わたしが予測し、警告したとおりです。「二度とここに来るな」と大声でその二人を叱って、追い出しながら思いました。この涜聖すれすれの行為の責任はこの二人にあるのだろうか? いや…御聖体のある一階の聖堂は床が壁から壁まで平らです。つまり、内陣も信徒席も同じ平面にあります。これが象徴的に意味するのは、神様も人間も同等である、神様の権威を認めたくない、神様に従わなくても構わない、という革命思想です。
昔、中学校の農業という科目で肥料の主要三元素について習いました。窒素、燐酸、カリがそうですが、その内どれか一つ不足すると、後の二つがいくらあっても、植物は順調に生育しないと聞かされたものです。カトリックの信仰も同じです。教えたくない、信じたくない教えを無視するようなことがあれば、ほかの大事な教えに対する信仰も衰えます。御聖体に対する尊敬が失われる背後にはこのような事情があるとわたしは見ています。信徒の皆さんの耳に回勅『フマネ・ヴィテ』の教えが聞こえてくるまで、日本の教会は衰退の一途を辿ります。このホームページはその意味でも大事な役を果たすことになります。皆さん、どうぞ応援してください。60億人目の人間から始まったこのページは何だか話がそれてしまいました。失礼。