三章 生命の始まり

*教会の公文書
*受胎の瞬間から聖である生命
*人間の生命の始まり
*人間の生命の始まりについて遺伝学者ルジョンヌはどう考えるか
*人間の無性生殖は不可能
*人間の生命は最初の細胞の段階から遺伝学的な連続体
*人工妊娠中絶を促進する「人工避妊薬」
*第五戒に反する試験管内授精
*受精卵の早期死滅の頻度

教会の公文書

「わたしは、結婚に関する人間的、キリスト教的教義の諸原理に基づいて、産児数調整の合法的方法として、すでに開始されている生殖過程への直接的介入、特に、直接的人工妊娠中絶は、それがたとえ、治療の理由で行われるとしても、絶対に排斥されるべきであることを、再度、言明しなければなりません」(『フマネ・ヴィテ』一四)。

・・・受胎された存在が、すでに、人間であるかどうかについて、いくらかの疑問があるとしても、殺人を犯す危険に自らをさらすことが客観的な大罪であることは、道徳的観点から明白です。「人間になるであろうものは、すでに人間です」(テルトゥリアヌス、弁明、八・教理省、『人工妊娠中絶に関する宣言』、一九七四年一一月一八日・The Pope Speaks 一九七五年、二五〇〜二六二ページ)。

当教理省は、人間の生命の開始時期、人間人格の個人性と同一性に関して、現在種々の議論がなされていることを、承知しています。当省は、『人工妊娠中絶に関する宣言』中にある教えを思い起こします。

卵子が受精した瞬間から、父親のものでも母親のものでもない、新しい生命が、始まります。それは、独自の成長をする、新しい人間の生命であります。もしそれが、その時点で人間でなければ、それは決して人間にはならないはずです。この永遠の証拠に・・・現代遺伝学の結論は一致しています。最初の瞬間から、この生命体が何になるかの、つまり、一人の人間、すでに決定済みの特徴的な性格を持つこの個人についての、プログラムは、決定されています。受精の瞬間から、人生の冒険は、すでに始まっています。そして、その偉大な可能性の一つ一つが・・・作動を始めるための位置に着くまでには、時間がかかります」(宣言一二〜一三)。

・・・確かに、どんなに実験を重ねた結果のデータであっても、それ自体は、霊的な魂の確認に、わたしたちを導いてくれるには、不十分です。しかし、人間の胎児に関する科学の諸結論は、人間の生命のこの原初の出現の瞬間における、一つの人格的存在を、理性を駆使して、見極めるための貴重な徴侯を提供してくれます。実に、人間である個人が、どうして人間人格でないことが可能でしょうか。教導職は、いまだに、哲学的性質の断定的発言を明確にしたことがありません。しかし、それは、常にあらゆる種類の人工妊娠中絶を断罪し続けています。この教えにはどのような変化もいまだかつてなく、将来において変わることも不可能です。

このように、人間発生の実りは、その存在の最初の瞬間から、つまり接合体が形成されたその瞬間から肉体的、霊的な統一体における人間存在に、道徳的にふさわしい無条件の尊敬を要求します。人間はその受胎の瞬間から一人の人格として尊敬されねばなりません。それ故に、その最初の瞬間から人格としての諸権利が認められなければなりません。その中でも最たるものが、生命に対する、すべての無罪の人間の不可侵の権利です」(生命倫理に関する教理省からの指示、「起源における生命の尊重」、一九八七年二月二二日・The Pope Speaks 一九八七年、一三七〜一五六ページに掲載)。

生命は受精の瞬間から聖です

道徳の観点から判断すれば、極初期の生命を人工的に中絶することは、それがすでに人間であっても・・・理論的には・・・その存在のもっと発達した段階で、神が人間の魂を授与する予定であっても、神のおきてに反する行為です。もし人工避妊自体がすでに本質的に悪であるなら、すでに始まった人間の生命に対する介入が、ましてや悪でないわけがありません。新しい命が少なくとも、人間としてのすべての権利を備えた人間人格であれば、おそらくは人間人格であるものを故意に殺すものは、「殺してはならない」という第五戒に反する重大な罪に問われます。

これを説明するために、次の比較がよく引き合いに出されます。もし狩人が、やぶの向こうに何か動いているものを見ます。それがクマであるか、仲間の狩人であるかは確かではありません。しかし、もし、彼がそこにいる何ものかに向かって猟銃の引き金を引いて、仲間を射殺すれば、彼は、仲間である人間を故意に殺した罪に問われます。

新しく受精した人間の卵子が、すでに全能の神から直接創造された不滅の霊魂を備えた人間にまだなっていない、と証明することは不可能です。もろもろの生物科学は、神が受胎の瞬間に、神が、人間人格を創造しないと証明することができません。神は一人の新しい人間人格を創造するときに、人間の目に見えるようにその姿を現すわけではありません。そして、霊魂の霊的実体は、顕微鏡で見えるものではありません。

科学者と哲学者に分かるのは、生命過程は、初めに・・・つまり、受胎の瞬間に・・・始まるということです。わたしたちが、最終的に、人間として、わたしたちの種の一員として認める生命は、精子と卵子がその遺伝的材料を融合させるときの、たった一つの細胞から始まります。受精した人間の卵子が、まだ、人間人格でないと証明しようとするすべての試みには、説得力がありません。それ故に、わたしたちは少なくとも、おそらくは人間であろうものをすべての人間の諸権利を持ったものとして、また「殺してはならない」という神のおきてによって、他の人間からの意図された殺害から保護されるものとして、通さなければなりません。

人間の知恵、そして超自然の光によって照らされた信仰は、顕微鏡でいくらのぞいても見ることのできない、また化学的な反応をいくらさせても分かることのない、新しい人間の偉大さを見分けることができます。神ご自身が、その創造の力を働かせない限り、人間はその存在を始めることができません。

たとえ、限られたものであっても、キリスト受肉の真価を認めるとき、神が、遺伝的な材料から、人間人格を創造するときに何が起きるかを、わたしたちは理解できるかもしれません。キリストの人間性・・・体と霊魂・・・は、神の子の人格によって塗油されました。その瞬間、神は、天使たちに、「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」(ヘブ一・六)と言われました。神は、新しい人間を創造するときに、一人ひとりの新しい人間に守護の天使を定めてくださいます。わたしたちの知る限りにおいて、これが起きるのは、受胎の瞬間に他なりません。

神は、新しい生命を両親の愛と世話に託することによって、彼らに、尊敬を示します。人工妊娠中絶は、神が、両親に示したこの受託を、ひきょうにも裏切る行為になります。そして、それは、社会が同意してもしなくても、神から直接いただいた諸権利を持つ、彼らの子どもに重大な不正を働くことになります。それ故に、新しく身ごもられた生命への尊敬は、神への尊敬に他ならず、その子の諸権利の承認なのです。これは、わたしたちの信仰、人間の正義と文化の基本です。

いつ人間の生命が始まるか

ある人たちは、精子と卵子が結合する受精の瞬間に、人間人格が始まるのではない、と書いています。その理由として、彼らは次のようなことを主張します。

(一)彼らに言わせると・・・妊娠時と発達の初期には、まだ双生子になる可能性が存在します。始線条が出現して、双生児になる可能性が、もはやなくなるときに、つまり受精して一四日後に、初めてわたしたちは人間になる、と主張しています。

(二)特に、大脳皮質の原基が発生するのにしばらく時間がかかるので、人間としての生命が始まるのはその時である・・・と、彼らは推定します。

反論

一部の神学者による上述の主張は、科学によって裏付けられません。科学は、成長の過程において、非人間から人間に切り替わるどのような変化の徴侯も見つけることができないのです。そのような変化を認める科学者を見つけるのは困難でしょう。

もし双生児になるとすると、

(一)最初の子どもが、まったく変化することなく留まるか、神が、さらに、もう一人の人格を創造します。

(二)もしくは、神は最初の細胞の中に、二人の人格を創造し、その細胞が、二人の赤ちゃんになります。二人なのに、体はつながっているシャム双生児のことを、考えてみてください。

(三)もしくは、最初の人格が、死んでしまって(これは疑わしい)、神が、新たに双生児を創造します。

人間の生命の始まりについて遺伝学者ジェローム・ルジョンヌ博士はどう考えるか

遺伝学者ジェローム・ルジョンヌ博士は、人間の発達が、受精から出産まで継続的な過程であることを、説明してくれます。受精した第一の細胞の四六個の染色体の生きたDNAは、文字どおりに、初めから、この人間の生命の器官を「組織化」します。生きたDNAの中の生命力は、それ自身の生命でもって、原子核、原子、分子を活気づけます。生命は、体の構成部分になっていく相互に交換可能な材料に、活気を与えます。しかし、生命の指令は、それらを一つの生命体の生きた部分に、包括するのです。

染色体[らせん状DNA]は、交響曲、命の交響曲が録音されているミニ・カセットとよく似ています。さて、ちょうど、モーツァルトのアイネ・クライネ・ナハト・ムジークが録音されているカセットを、あなたが買って、それを普通のカセット・プレーヤーに入れて鳴らすと仮定しましょう。そこに、演奏家たちが出てくるわけではありません。楽譜が、再現されるわけでもありません。そんなことが、あるわけはありません。そこに再現されるのは、モーツァルトの天才を伝えてくれる空気の振動なのです。生命が、演奏されるのも、これとまったく同じであるといえましょう。染色体である小さなカセットには、人間という交響曲のいろいろな部分が、書き込まれています。そして、全交響曲を演奏するために、必要で十分な、すべての情報が入手できると、この交響曲は、自分勝手に演奏を始めます。つまり、新しい人間が、その経歴を始めつつあるということです」(ルジョンヌ、Testimony 四ページ)。

ルジョンヌ博士は、最初の細胞が、受精後、約二〇時間経過すると、二つに分裂し、さらに二〇時間経過すると、その二つのうちの一つが再度分裂して、三つの細胞があることになる、と説明しています。遺伝学者の間に、この事実は、広く知られています。しかし、なぜそうなるかについては、まだ、説明はありません。わたしたちは、三個の細胞が、それ以上発達する前に、何らかの生物学的な情報を交換した上で、共同の個性を最終的に整えていくのではないかと、思いたくなってしまいます。

細胞が、三個の状態でしばらく休んだ後、もう一つの第一世代の細胞も分裂します。これで細胞は、四つになりました。その後は、八個に、そして一六個に、と分裂していきます。そして、この段階で、ことによると、細胞が三二個の段階で、圧縮が起こります。初めに分裂した二個の細胞と、ことによると、遅れて分裂したあの細胞のうちの一個が、球体の内側に閉じこめられて、その中核になります。この三つが体を形成します。

これらの三個の細胞のまわりに、残りの一三個があります。七個は、三個の核になる細胞に対して衛星状または赤道上に位置します。残りの三個が上に、そして最後の三個が下に、つまり六個は両極に三個ずつ位置します。これらの七−三−三個が、胎盤を形成します。ルジョンヌ博士は、双生児の形成は衛星状のもしくは極にある細胞からは不可能であり、核になった細胞(または複数の細胞)からのみ、双生児化の始まりが可能である、と教えてくれました。双生児化は細胞が一六個もしくは三二個以上になると起こらないだろう、これも博士の意見です(私的会話から、ヒューストン、一九九三年四月一四日)。

ルジョンヌ博士は、人間生命の個性は極初期、大脳皮質の原始線条もしくは原基が形成される以前に区別され得ることも観察しました。一九八七年に、細胞がまだ四個もしくは八個しかない、年齢三日目の胎児のDNAが判別されるという発見がなされました。試験管内授精を研究していた人たちは、一つの細胞を、卵黄膜に細心の注意を払いながら、小さな穴をあけて取り出した後、再びその穴を閉じたのです。それから、この細胞のDNAが分析のために「鎖状重合体形成」によって複写されました」全世界にたった一人だけがこの個人を特徴づける独自のDNAのパターンを持っています。「各人独自のDNAはわたしたちがこの技法を使用した後、異なった距離にある異なった幅の、ちょっとしたしまの連続のように見えるでしょう。このようにして、一人ひとりの人間には特有なパターンが振り付けられているのです。「世界中でわたし一人だけが持っている」DNAのコードは、ちょうど、スーパー・マーケットでよく見るようなバー・コードによく似ています・・・」(“Genes and Human Life”in All About Issues 一九九一年秋)。もし、一人の個人が受精のたった三日後に識別できるのであれば、彼らの同一性はその後分裂することはないのです。

人間のクローニングは不可能

科学者たちは、発達の極初期にある胎児のクローン化を図ることさえしました。その実験は、研究者のチームによって、ワシントンDCにあるジョージ・ワシントン大学医学部で行われました。その実験が公になると、教皇ヨハネ・パウロⅡ 世は、一九九三年一一月二〇日、強い調子の声明を発表して、人間胚胎の法的承認を要求しました。そして、それが、分析とか実験の対象にされることから保護される権利を、次のように求めました。「胚胎は、諸国の法律によって保護されるべきものとして承認されなければなりません。そうしないと、わたしたちは人類を危機に陥れてしまうのです」(AFP−1・時事通信)。ですから、諸国の法律には、人間の胚胎に、科学者たちが、どこまで介入していいのか制限があるべきです。初期の人間に対するこのような実験に、常に反対してきたルジョンヌ博士は、この実験を次のように説明します。

彼らは、二個から八個の細胞にわたる成長度の異なった人間の胚胎を、一七個使って、四八個の生きた人間の胚胎を作りました。

研究者の最初の段階は、発達中の赤ちゃんを保護し、栄養を補給する固い、甲羅のようなおおいである、それぞれの胚胎の『卵黄膜』を、化学的に除去することでした。次に、研究者たちは、それぞれの胚胎を、胚盤胞と呼ばれる、個々の細胞に分離しました。

その結果生じた、四八個の新しい胚胎は、卵黄膜に似せて合成された物質によって包まれ、胚胎の成長を促す液の中に入れられました。それらの胚盤胞は、実際、分裂、成長し、独立した人間の胚胎になり始めました。それぞれは、それが取られた元の胚胎と、遺伝的には同じでさえありました。

新しい胚胎の群は、それぞれ二〜三二個の細胞という具合に、種々の段階にまで発達しました。研究者たちは、七日間の実験の後にそれらの胚胎を廃棄する予定でしたが、全部六日以内に死んでしまいました」(National Right to Life News 一九九三年一一月五日に掲載)。

一九九四年三−四月号のトム・プスの記事、“Embryon deshumanis”の中で、ルジョンヌ博士は、ワシントンでのこの実験について、もっと詳しい情報を、提供してくれます。つまり、一つの細胞が、細胞が八個の受精卵から取り出されて、隔離されたとき、それはたった三回分裂して、二、四、八個の細胞になるまで成長しても、その後、まったく成長しませんでした。もし、細胞が四個の段階で隔離されると、それはわずか四回分離を繰り返し、細胞が二、四、八、一六の細胞にまで成長して、停止しました。細胞が二個のときに、隔離されると、それは、五回分裂を繰り返し、細胞が二、四、八、一六、三二個の段階まで成長して、停止しました。博士は、最初の分裂の結果生み出された細胞が、もはや本来の能力を備えていないという理由で、人間のクローニングが不可能であると言います。

この記事中のルジョンヌ博士の示唆は以下のようなものです。おそらく、細胞一六個の段階での三個の体細胞が六個になり、そのために三個ずつの二つのグループに分けられることが可能になります。だから、双生児化は細胞が三二個の段階で起こる、と推測されます。それはおそらく、受胎したときすでに遺伝子の中に書き込まれている、指示された順番の分離時に起こるのでしょう。

ルジョンヌ博士のパリの遺伝学研究所での同僚、マリ・ペーテル博士は、男性と女性の遺伝子が、新しい人間の体を具体化するための、相互補完的なチームに合体するのだろうと言います。

発生学的そして実験的胎胚学の手法は、人間における胎胚の発達の至極重要な面を明らかにしてくれました。男女が、半分ずつ提供し合って、初めて完全になるゲノムは、それぞれが、異なって刻み込まれており、胎胚が、正常な発達を遂げるためには、父親からと母親からのゲノムが、絶対的に必要とされます。相違点のあるゲノムの刻み込みは、何か新しい本質的な情報を、ゲノムの連続体にすでに含まれているものにつけ加えるようです(モスクワでのHLI会議、一九九四年五月一二日)。

さらに詳しく説明した後に、ペーテル博士は、次のように結論づけました。「人間のゲノムは細胞は二個になる段階までに、すでに活発になっています。これが、本当の意味での人間のクローニングを不可能にします」(同書、六ページ) 二番目の体を作り始めるために、遺伝的な順序はゼロの状態に後戻りしないで、一つの体を形成するために分化し続けます。そこから、クローニングが細胞二個の段階では不可能であると、わたしたちが結論づけるのは論理的であると思います。それが正しければ、最初の細胞分裂の後でも、それが最初の細胞の中に初めから書き込まれているのでない限り、自然の力による双生児化も不可能です。

科学は、受胎の何日、何週、何ケ月後の細胞の群落の中で、わたしたちの人間としての生命が始まった、と信じるに足る理由付けをすることができません。その道に科学は、後に出現する生命が第一番目の細胞の、あの始めから発達し続けてきたあの生命と遺伝的に、組織的に同一のものであることを示しています。ある新聞記者から、胎胚は、子どもに相当すると彼が主張しているのか、と質問されたフランソワ・マテイ教授の回答は、それを簡潔に、手際よくまとめています(ル・モンド、一九九三年一〇月一二日)。

胎杯、つまり、極初期の胎児は、受精卵がそうであったのと同様に、また胎児、新生児、子ども、思春期の少年少女、大人、老人と同様に、一つの、そして同一の生命の形態学的変化に他なりません」(エリオ・スグレッキア司教による引用、オッセルバトーレ・ロマーノ、一九九三年一一月一〇日)。

神は、わたしたちの霊魂を直接的な行動でもって無から創造なさいます。神は、わたしたちの霊魂を、・・・わたしたちの生命を・・・前もってでなく、天国においてではなく、わたしたちの両親に提供された受精卵という生殖細胞の中に創造なさいます。全能の力でもって、神は、宣言なさいます。「我々にかたどり、我々に似せて、この人を造ろう」(創世記一・二六参照)。神が、無から創造なさったものを、だれであっても、あえて傷つけたり、殺したりすることは許されません。人間の受精卵という生殖細胞における神の最初の行為が、その後の創造的行為の準備であるとすれば、ただのちっぽけな人間が神の計画に介入するなどとはおこがましい限りです。神が人間として創造することに決定なさったものは、わたしたちにとっても人間なのです。

ペシュケ神父著の神学生のための倫理神学の教科書の中で、以上のような科学者による証言は皆無です。科学者たちの代わりに、著者は「受精卵の人間化」はもっと後で、「多分、受胎の一六日後で」起きると主張する、二〇人の神学者を列挙します。列挙された「権威者たち」の名前を以下に記します。M.Hudczek,P.Schonenberg,G.Siegmund,J.Donceel,J.Grundel,H.Rotter,W.Ruff,B.Haring,C.Curran,G.Lobo,J.Diamond,E.Chiavacci,G.Pastrana,F.Bockle,R.McCormick,J.Mahoney,J.F.Malherde,N.Ford,T.Shannon,A.Wolter(一九九三年版、三一七ページ)。ペシュケ神父は、もし、彼らが正しいのなら、「一六日が経過する以前であれば、厳密な意味で、人工妊娠中絶とはいえないのではないか・・・このような初期の段階での介入の禁止は、前・・・胎胚は、人格であるという理由には基づいていないことになる」と、結論づけます(三一九ページ)。

どのような目的のために、彼は、これらの「権威者たち」を列挙して、いわゆる前・・・胎胚の人間性に疑問を投げかけるのでしょうか。彼と、列挙された神学者たちは、未来の教皇が避妊を合法化し、次に、初期の人工妊娠中絶と試験管内授精・・・それには、多数の人間である「廃棄」製品を伴う・・・が、可能になるのを待っているのでしょうか。ここで頭に浮かぶのは、箴言の言葉です。

愚かものは英知を喜ばず、自分の心をさらけ出すことを喜ぶ。(箴言一八・二)

道徳の教科書の著者自身が、一九八七年の教理省の指示を引用して言っているように、「人間は、受胎の瞬間から一人の人格として尊敬され、取り扱われる必要があります」(前掲書三二〇ページ)。しかし、これらの反対者を引用することによって、著者は、おそらくは、人間であろうものを熟慮の上で殺してはいけない、という明白な道徳の原理をわかりにくくしてしまう傾向があります。本来、人の著作を非難するのはわたしの趣味ではありません。しかし、彼の教科書は、これら二〇人の神学者たちの科学的推定が間違っていることを証明する、遺伝学者のジュローム・ルジョンヌ博士とか、マリ・ベーテル博士を引用しません。もし、著者が、科学に頭をつっこむのなら、神学生のためにも、もっと科学者たちを引用すべきでした。しかし彼が引用するのは、人工妊娠中絶剤になる傾向のある人工避妊薬の広範な使用、その過程で多くの人間が破棄/操作される試験管内授精(以下を見よ)の慣行を正当化するのに熱心な多くの神学者たちです。

現在、市販されている成分低含有量のピル、その他種々の化学的人工避妊薬、避妊リング等を使用する女性たちは、時として、新しい生命を身ごもる可能性があります。この事実を考慮に入れた上でそれらを使用するのであれば、彼女たちは、避妊未遂行為だけでなく、客観的に人工妊娠中絶を実行することによって神のおきてに背きます。これらの、時としては人工妊娠中絶をもたらし得る手段の製造者、販売者、協力者、使用者たちは、故意に「殺してはならない」という神のおきてに背くわけですから、彼らが神の友人であろうとしていると思えるでしょうか。これらの方法を使用する女性が受胎し、受精卵が子宮に着床した後、発達することを、人工避妊薬で妨げるときには、新しい生命が吹き消されてしまいます。ですから、このような人たちは自分たちの仲間である人間を殺す罪を負います。

受精卵の早期自然死

ある人たちは、厳密な意味での発達の可能性が確立されて、子宮内に受精卵が着床するまでは、神がまだ人間を創造していないと考えます。彼らは、受精卵の四〇〜五〇%が成功裏に子宮内に着床する前に、自然によって廃棄されてしまう、と主張します。そこから彼らは、神が人間の生命を創造するにあたってそんな無駄なことをするわけがない、と言うのです。これにはどう答えたらいいと思いますか。

回答

受精卵の四〇〜五〇%が、自然によって廃棄されてしまうことが、たとえ本当であるとしても、わたしたちは、神が、彼らの中にも、人間人格を創造しない、という説得力ある証明をすることはできません。神は純粋に霊的な存在である無数の天使たちを創造なさいました。神は、受精卵が極最小の単細胞でしかなくても、霊的にご自分に型どり、ご自分に似せて、無数の人間を創造することができます。早期人工妊娠中絶で胎胚を殺すものは、上述したように、化学的もしくは機械的な手段で、神から創造されたこの人間を殺す罪を免れません。

同じことが、試験管内授精についても言えます。研究者が、彼らを子宮に移すにふさしくないと判断して、または、彼らが余ったからという理由で廃棄するとき、彼らは「殺してはならない」という第五戒を破ります。そしてもし彼らが、それらの受精卵を冷凍保存するとき、彼らは自分の仲間である人間たち、諸権利を備えた神の被造物を、考えられないような不正なやり方で操作することになります。そもそも試験管内授精が、なぜまったくの間違いであるかを、教皇庁教理省は一九八七年二月二二日「生命のはじまりに関する教書」の中で説明しています。その文書は、テルトゥリアヌスの次の言葉を引用しています。「人間になるであろうものは、すでに人間である」(護教、Ⅸ 、八)。そして、同文書は次のように続けています。

受胎の瞬間から、まだ生まれていない生命に対する尊敬とその保護の帰結として、法律は、子どもの権利の意図的侵害に対して適切な刑罰を規定しなければなりません。法律は、たとえ胎胚の段階にあったとしても、人間を実験の対象として取り扱うことを容認してはならないだけでなく、ほっきりと禁止しなければなりません(第三部)。

しかし、ペシュケ神父が主張するように、人間の受精卵のうち四〇〜五〇%が自然によって廃棄されて、子宮内に無事着床しないのでしょうか(一九九〇年版、三五ページ)。これはとんでもない誇張であると思います。彼は、厳密な科学的検証の洗礼を受けていない科学的な主張をしています。自然受胎した初期人間胎胚の諸研究は、八〜七八%という広いはばの数字を示しています。このような研究は、それがどのような性質のものであっても、協力する夫婦は普通の人々を代表するような人々でなければなりません。そして、その受胎がもたらされた方法は、科学的に健全でなくてはなりません。これらの要求をもっとも忠実に満たした研究が示した数値は、八%でした(J・マックリーン、二四ページ)。

どのようにして、彼は四〇〜五〇%でなく八%という数値を得たのでしょうか。胎胚は、受胎後六日経過すると、人コリオニック・ゴナドトロフィン(hCG)というホルモンを分泌し始めます。このホルモンは、母親の血液をモニターすれば確認できます。hCGレベルが上がっても、予定日に生理があれば、胎胚の自然流産があったことの徴侯です。

科学的にもっとも信ぴょう性のあった上述のテストで、九二例において妊娠を示すhCGレベルが上がりました。そのうち七例において、着床前に、妊娠状態が消失したことを示す平常通りの生理がありました。八五例では妊娠状態が続行しました。ですから、損失は九二例のうち七例または八%です(詳しくは論文を見よ)。

しかし、HCGが観察できる前の六日以前の損失はどうなるのか、と思うかもしれません。今日に至るまで、そのための適当な研究はなされていません。マックリーン博士は、妊娠極初期、多分二四時間以内の研究は、母親の赤血球の数を数えれば可能かもしれない、と指摘しています(二六ページ)。しかし、実際、このような研究は、これからというところでしょう。

医学文献をいろいろ調べた結果、H・J・フィジェ博士は、「早期の流産発生率は、一五%位のものではないか、と一般にいわれているが、完ぺきな疫学的研究は、まだない」と報告しています(フィジェ、六ページ)。これは、後期から初期にいたる流産を含むものです。着床前に四〇〜五〇%の受精卵が、死滅してしまう、というあの道徳の教科書が主張するような推定を支持する、しっかりした科学的な証拠は皆無です。広く流布されてきたこのうそは、過去五〇年間にもわたってこの根拠もない主張を引用し続けてきた多くの教科書から、取り除かれねばなりません。

早期に妊娠を発見する簡単な方法は、体温測定です。排卵日を境にして、体温は、低温状態から高温状態に移行します。およそ二週間後に、生理とともに体温は、再度低くなります。もし、妊娠すれば、高温状態は、その六日目か、その少し後、再度、少しだけ上昇するのが観察されます。そして、この高温状態は、生理の予定日を過ぎて、妊娠初期に引き続きます。もし、高温状態に妊娠の可能性を示すこの特徴的な変異があり、それが二〇日以上続き、再度下降して、遅れた生理があれば、その意味するところは、おそらく早期の流産があった、ということでしょう。

オーストリア・フェークラブルックの家庭相談サービスのヨセフ・レーツァー博士は、もう四〇年以上も女性患者の体温表を読み続けてきています。助手は娘のエリサベートです。ある女性が体温表を送ってくると、エリサベートはそれを詳しく調べ、コピーを取ってファイルに入れます。それから、体温表にコメントを書いて、患者に返送します。いままで、このようにして、二〇万枚の体温表の調査が、行われました。そして、記録は事務所内に一つ残らず保存されています。彼らは、体温表にある証拠から見ると、胎児の流産はきわめてまれ、まったく例外的であると証言します。レーツァー博士は、確かに、主張されている四〇〜五〇%の流産率は、確証はできないけれど極めて高いものであると言っています。もし、これが八〜一二%であれば、他の噂乳動物の間にも観察される範囲に落ちつきます。

解答は、それ故に、最近のほとんどの科学的テストは、着床前の胎胚の死滅の率は八%であって四〇〜五〇%ではない、ということです。しかし、たとえ、もっと多くが失われたとしても、それはわたしたちに、初期の胎胚を「人格を持たない人間の生命」であるかのように、扱っていい権利を与えるものではありません。おそらくは、人間であるものを、わたしたちは、人間として取り扱わなければなりません。「殺してはならない」という第五戒は、わたしたちがこの生命を尊敬をもって取り扱うよう厳しく命じています。