一章 すべての人工避妊は本質的に悪です

*『真理の輝き』は『フマネ・ヴィテ』に対する反対を封じ込めます
*良い意向は人工避妊が悪である事実を変えません
*ピオ十一世からヨハネ・パウロ二世までの関連文書
*確信的人工避妊実行者は御聖体を受けることができません
*確信的罪人も同じカトリック信者・彼らにも司牧的配慮が必要
*人工避妊に取り組むための司牧戦術
*相手が人工避妊をする場合
*人工避妊に関する聖トマスの洞察
*人間の本性は人間が内蔵する理性の法
*理性の法はマスターベーションを除外
*人工避妊は人工妊娠中絶への滑りやすい下り坂
*人工避妊が人工妊娠中絶より小さな悪であることは言い訳になりません
*「人工避妊は結婚の愛を破壊します」…マザー・テレサ

『真理の輝き』は反対への言い抜けを一掃します

回勅『真理の輝き』(一九九三年八月六日)に関するタイム誌の書評は、教皇が「人工避妊を含む諸悪を断罪し、従順を要求している。この回勅の強引な性格は、教会の進歩主義者たち全員を、間違いなく不安に陥れるであろう」と予言しています(一九九三年一〇月四日)。

わたしは、これでもおそらく言い足りないのではないか、と思っています。この回勅は、含蓄的に、複数の司教協議会にいくつかの過ちを含む過去の諸声明を見直すよう、挑戦しているからです。それは、いままで、説教台と告解室で、思い切って物が言えなかった司牧者たちを勇気づけるかもしれません。ピルの使用者たちは、何かもっとましな物、いや、もっと聖なる方法がないだろうかと、探し始めるかもしれません。また、タイム誌が、見過ごしがちなのは、いま、思いもかけない驚くべき神の恵みが、新しい舞台の幕を揚げるかもしれない、という点です。

一九六八年七月回勅『フマネ・ヴィテ』が発表された後の、波風高かった数ヶ月の間、複数の司教協議会が、信徒への同情の域を飛び越えてしまって、大急ぎでいくつかの解決を用意しました。オーストリアの司教団は、反則者たちが、その種の罪を告白することなく聖体を受けることを許可しました(一九八八年に撤回)。また、ある国の司教たちは、回りくどい文章で、人工避妊に反対する『フマネ・ヴィテ』の禁止には、許される例外があるのではないのだろうか、と提唱しました。その国の信徒たちは、司教たちが『フマネ・ヴィテ』の堤防にうがった抜け穴を見つけて、堤防全体を瞬く間に押し流してしまったのです。それ以来、その国の信徒にとって『フマネ・ヴィテ』は、死語同然になっています。『フマネ・ヴィテ』を邪道に導いたその国の司教協議会の声明を、ここに掲載しましょう。なぜかと言えば、不幸なことに、世界中で、特に、第三世界の神学校で使用している倫理の教科書に、ペシュケ神父が自説を強化するために、次に引用する部分を掲載しているからです。

この教えの実践が、数多くの夫婦にとって種々の困難をもたらすであろうことを、わたしたちはよく承知しています。その場合、善意を尽くして回勅(フマネ・ゲィテ)に従順であろうと努力しつつ、しかもやむを得ぬ実際的・客観的事情のため、万一、ある点において回勅の教えに沿うことができなかったとしても、それによって、神の愛から遠ざけられたと考えないよう、………お勧めします。」(カール・ペシュケ神父がChristian Ethics 第Ⅱ 巻、六版、一九九〇年、四七六ページで引用した一九六八年の某国カトリック司教協議会声明)。

しかし、明らかに、ペシュケ神父といえども、その国の司教協議会による一九六八年の声明の残りの部分を引用することができませんでした。引用されなかった部分は、次のようなものです。

「…神にさらに信頼し、教会の行事に熱心に参加し、秘蹟を受けるよう…」これは最悪の破滅的解釈に道を開くものです。つまり、人工避妊をしなければならないと感じている人たちは、司教たちから秘蹟、つまり、ゆるしと聖体の秘蹟に、生き方を改める固い決心をしないまま、近づくようにいざなわれていると理解され得るのです。明らかに、多くの人たちは、この分かりにくい文章を、まさにそのように解釈しています。マルティン・ルーテルは、かつて、信者に、“Pecca fortiter, et confide fortius(罪を犯しなさい。そして、それ以上に信頼しなさい)”という冒涜的な忠告をしたものです。カトリックの司教であればこのような忠告をしてはいけません。

人工避妊をする人たちに信仰を保つように勧めるのは、もちろん正しいことです。また、例えば主日のミサとか、愛徳の業のような教会行事に参加するよう励ますのも、適切な忠告です。しかし、人工避妊をする人たちに、悔い改めることなくご聖体を拝領するよう励ますことは、決して正しいことではありません。こういうことは回勅『フマネ・ヴィテ』を軽んじることであり、信者に罪を犯させるものでしかありません。

誤解を招くこの声明は、『フマネ・ヴィテ』の中で、教皇パウロ六世が明確に説明した神のおきての遵守が、ある人たちには不可能である、ということをほのめかします。しかし、後述するように、神のどんなおきてであっても、人にとって守ることのできないものはない、そして協力するものには、人間の力だけでは不可能なことでも、それが可能になるように、神は恵みを与えてくださることを、わたしたちは知っています。これは、すべての倫理神学の基礎の基礎ですから、その国の司教たちも、確かに、このことを知っているはずです。推定できるのは、一九六八年、その司教協議会のためにこの声明を起案した委員会が、人工避妊が本質的に悪であると信じていなかったということです。だから、人工避妊に反対する『フマネ・ヴィテ』の禁止に夫婦が従うことが「できない」ときには、神が人工避妊を許す、と示唆して、この点をあいまいにしてしまったのでしょう。いま『真理の輝き』が、このような偽・倫理神学を一掃しました。それは該当する司教団に回勅『フマネ・ヴィテ』全体を受け入れて、新たに、自らの責任ある決定をするように、呼びかけています。

現在、日本の司教たちの発言を聞いていると、おおむね、教皇への忠実さが顕著にみられます。一九九四年一一月二日の朝日新聞には、カイロの人口・開発会議に関して、自柳誠一枢機卿の(もし産児制限をしなければならないのなら・訳者)「人間らしい自然な形で制限すべきです。将来のことは、神をもっと信頼していい」という発言があります。日本の司教団も、オーストリアの司教協議会と同じく、一九六八年の声明を公に撤回して『真理の輝き』のガイドラインに従う日が一日も早く来ることを希望します。確かに、日本の多くのカトリック信者は混乱しています。

例えば、一九八〇年、カトリック医師を対象に調査が行われました。その回答者の大部分は、ピルとコンドームが、ある場合には許されると考えています(The Japan Missionary Bulletin 一九八八年、冬、二二一ページ)。もし、カトリックの医師たちがこのように考えるのであれば、一般信徒たちの考え方も容易に推測できます。

この点に関してカトリック医師たちの混乱をもたらした一因、ホアン・マシア神父は、すでに日本の教壇を去りました。彼は日本司教協議会の一九六八年の声明を引用し、強く弁護したものです(カトリック医師会福岡支部の報告、一九九〇年一一月号二四〜二五ページ・カトリックこぼれ話、一九八八年四四〜五五ページ参照)。マシア神父がこの誤りを弁護し続けたために、国外に去ることになったのであれば、日本の司教団は首尾一貫して、彼が弁護した一九六八年の声明自体も撤回するべきでしょう。

日本司教協議会の声明の一部を自分の教科書の中で引用したペシュケ神父も、すでにローマの教皇立ウルバニアナ大学を去りました。バチカンは、彼が偽りで、間違った意見を教えることを禁止したのです。日本のカトリック信者も、彼が繰り返すような偽りの情報から守られる権利があるはずです。日本のカトリック信者は、世界の多くの国で信者が聞いているのと同じ、本物の教えを聞く権利があります。彼らは、自分たちの司教団から真実の教えを聞くことを当然のこととして期待しています。

ペシュケ神父は一九九〇年版で、すでに無効になってしまったオーストリア、その他の司教協議会の声明も引用しています。しかし 『真理の輝き』は、すべての論争に終止符を打ちました。良い意向は、本質的に悪である行いを良くすることはできません。

行為が本質的に悪いのなら、善い意図、あるいは特殊な状況がその悪の度合を減らすことはできますが、取り去ってしまうことはできません。それは「取り返しのつかない」悪い行為なのです。それ自体によって、そしてそれ自体において、それは神とその人の善に向けて秩序づけられません。聖アウグスチヌスは「盗み、淫行、冒漬のようにそれ自体が罪である行為(cum iam opera ipsa peccata sunt)に関して、それらを善い動機のために(causis bonis)することによって、それらがもはや罪ではないとか、さらに愚かしくもそれらが正当化される罪である、とあえて言うものがいるであろうか」と書いています(『真理の輝き』八一)。

『フマネ・ヴィテ』が説く人工避妊禁止を擁護する『真理の輝き』は、日本司教協議会の声明…その他いくつかの司教協議会が、必死に抵抗しているかのような諸声明…を戒めます。同声明が主張するように、この点で、ある人たちは神の法を守ることが「できない」、また、ある夫婦には合法的に人工避妊を許すような「客観的かつ必要な情況」が存在する、と一九六八年の声明が示唆する前提の余地は皆無です。キリストは、まだ救われていない人間にとって、不可能に思われることも可能にしてくださいます。神は決して不可能なことを命じません。わたしたちは、それをキリストの恵みの助けによって、守ることができます。

わたしたちは、キリストのあがないの神秘のうちにのみ、人間の「具体的」な可能性を発見します。「教会の教えは、本質的には、『問題になる善の比較表価』に従って、人間のいわゆる具体的な可能性に順応され、適合され、等級づけられねばならない、ただの『理想』である……と結論づけるのは、非常に重大な誤りとなります。しかし、『人間の具体的な可能性』とは何でしょうか。そして、どのような人についてわたしたちは語っているのでしょうか。欲情に支配された人でしょうか、それとも、キリストによってあがなわれた人についてでしょうか。これはキリストのあがないの現実にかかわる問題です。キリストはわたしたちをあがなってくださいました。これは、わたしたちの存在のあらゆる真理を実現する可能性を、キリストが与えていることを意味します。キリストは、わたしたちの自由を欲望の支配から解放してくださいました。そして、あがなわれた人がいまだに罪を犯すなら、それはキリストのあがないのわざが不完全だからではなく、そのわざから流れ出る恵みを使おうとしない人の意志によるからです(一〇三、良心的産児についての教話からの引用、一九八四年三月一日)。

それでは、夫婦が、仮に人工避妊をする「必要がある」「どうしようもない」場合は、どうすればいいのでしょうか。回勅は厳しい愛の言葉で、殉教者たちが、どのような人間的な価値も、神の法を破ることを正当化しないことを、あかししている、と答えます。「それ自体において道徳的に悪である行為」をすることは決して許されません(『真理の輝き』九二)。二〇世紀もの間、人々を天国に導いてきた母である教会は、自分が変えることのできないものは、変えることができないことをよく承知しています。

しかし、もし日本人のカトリック信者の夫婦が、コンドームを使用することが許されると、いままで思っていたのなら、彼らは、いま立ち上がって、御父の家に帰るのでしょうか。もし、アメリカのカトリック信徒がピルを服用しているにもかかわらず、聖体を受け続けていたのなら、彼らには、自分たちの生き方を改める霊的な力が、残されているでしょうか。この回勅は、多くの人たちに、キリストによって格言の形で予言されたあのつまずきの岩との対決を迫ります。

「この石の上に落ちるものは打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」(マタイニ一・四四)。

どのぐらいのカトリック信者の夫婦が人工避妊をしているかは、大ざっぱに推測する他ありません。広範な統計が示すのは、世界中でいま、子どもを産める年齢にある八億八千万組の夫婦の中で三億四千万組が、現在、人工避妊・不妊手術をしているということです。それは四〇%という数字になります。九億のカトリック信徒だけをとれば、この数字がさらに低くなるであろうことは、ある程度予想されます。しかし、多数のカトリック信徒がもはや定期的にミサに来ない理由として、性道徳に関する教会の教えを挙げていることも事実です。

良い意図は人工避妊の悪を変えません

ベルナルド・ヘーリング神父は、「利己的な」マスターベーションと、おそらくは「利己的でない」理由のための射精前の性交中絶を区別しようとしていますが、それは無駄な努力でしかありません。「どのような責任ある動機もないのに、生命への奉仕を拒む利己主義から行動する夫婦だけが、その罪を、神が死をもって罰したオナン(創世記三八・九以下)と比較され得ます。

彼らの性交中断を『マスターベーション』と呼ぶのは、非常な寛大さで良心的産児の基本原則に忠実であろうとしている夫婦たちに、大きな不正を行うことになるでしょう」ペシュケ神父も、この不可能な立場を一九九〇年版までは採用していましたが(四七三ページ)、一九九三年の改訂版では、さすがに撤回してしまいました。

しかし、人工避妊を本質的に悪である行為の中に含める『真理の輝き』は、本質的に悪であるすべての行為は、たとえそこに良い意図があったとしても許されない、としています(特に四七と八〇を参照)。それは、ヘーリング神父の「だれかがそう言った」式の神学が主要点を外していることを暴露します。行為自体の悪が変わらず、何か良い意図によって、その悪をその行為から取り去ることができないので、それが利己的でない意図でなくても、性交中止を善に変えることができません。リンゴにオレンジであって欲しいと思う人にとって、リンゴがリンゴであり続けるように、マスターベーションは、ヘーリング神父が、彼らには良い意向があると言って、かばっている夫婦にとっても、本質的な悪であり続けます。聖書はオナンが利己的であったか、寛大であったかを問わず、その恐ろしい事実だけを伝えてくれます。ここに、わたしたちは、事実を学ぶべきです。神は、オナンを死でもって罰されました。なぜかといえば、彼は性交を中止して、その種を地にこぼしたからです。明らかに、人工避妊は創造主が忌み嫌われることです。

ついでながら、一時期、一部の学者たちが、神はオナンを人工避妊のためではなく、嫂婚法の義務を守らなかったために罰された、という説を支持したことがありました。しかし、これは聖書と合致しません。その反対を主張しているペシュケ神父の脚注にもかかわらず(一九九三年版五〇五ページ)、神は、単に嫂婚法を守らなかっただけの他のものたちを殺されませんでした。

聖書の中で、彼らの罰は、例えば公の恥辱のように、ずっと軽いものでした(申命記二五・九〜一〇参照)。申命記は、嫂婚法の義務の不履行にではなく、姦淫と強姦に死刑を適用します(二二・二二〜二三)。創世記三八章にユダ、シェラ、オナンの三人が、嫂婚法にうたわれている義務を怠ったことが記されています。神は、嫂婚法の務めを怠っていたユダもシェラも殺されなかったのですが、人工避妊をしたオナンは殺されました。聖書は、はっきりと、オナンのしたことが神の非常な怒りを招く特別な悪事であったことを指摘しています。「彼のしたことは主の意に反することであったので、彼もまた殺された」(創世記三八・一〇)。オナンの行為は、汚らわしいことをして、嫂婚法を乱用したということです。もっと詳しく知りたければJohn Kippley,Sex and the Marriage Covenant 三〇九ページ以下を参照してください。

人工避妊の禁止はどんなときでも、そして永遠に続きます

『真理の輝き』は、決して、人工避妊が常に悪であると宣言した最初の文書ではありません。

六五年前、ピオ十一世もはっきりとこの点について発言なさいました。それ以降のすべての教皇もそれと同様な、もしくはそれに相当する発言をなさっています。諸教皇による次の諸文書が、まったく一貫していることに注意してください。

教皇ピオ十一世・人工避妊は大罪です

結婚の行為またはその自然な結果の間に結婚している二人が、その中に潜んでいる力を奪い、新しい生命の誕生を妨害するすべての試みは、不道徳です。その「印」がなくても、または必要があったとしても、本質的に悪であることを道徳的、合法的な行為に変化させることはできません…

それ故に、常に守られてきたキリスト教の伝統から公然と離れて、あるものたちは、この問題に関して異なった教えを荘厳に宣言することができる、と判断しました(英国教会ランベス会議、一九三〇年八月一四日)。カトリック教会は、道徳の健全さと純粋さを守るように、神から委託を受けています。ゆえに、教会は、この腐敗した汚れによって婚姻の結びが汚されないように、まわりを取り巻く道徳的廃虚の中にあって、神から与えられたその任務を果たすために声を高め、ここに改めて、わたしの口を通じて次のことを宣言します。生命を生み出す自然の力を、熟慮の上で無駄にしてしまうような婚姻のどのような行使であっても、神と自然の法に反する違反であり、このようなことをするものは、大罪を犯します(ピオ十一世、回勅『カスティ・コンヌビイ』五六、一九三〇年一二月三一日)。

教皇ピオ十二世・人工避妊は本質的に悪です

(回勅『カスティ・コンヌビイ』の)この処方は、昨日と同じく今日も有効です。それは、単なる人間のおきてでなく、自然と神の法の表れですから、明日もいつでも変わりません(助産婦たちへの教話、二四、一九五一年一〇月二九日)。

教皇ヨハネ二十三世・すべての人間がこれらの法に拘束されます

人間の命は、人格的そして意識的に人間から人間に伝達されます。故に、この伝達は、神のいとも聖なる、永遠、不可侵のおきてにのっとってなされるべきです。例外なくすべての人間に、これらのおきてを認め、守る義務が課されます。したがって、動植物の生命を操作するときには許される方法や手順を使用することは、だれにも許されません(回勅『マーチル・エト・マジストラ』一〇三、一九六一年五月一五日)。

教皇パウロ六世・すべての人工避妊を退けます

同様に、生殖を妨げるすべての試み、つまり、性交の前の行為、性交の間になされる行為、さらに性交の自然な結果に向けられる行為は、それが目的を達成する手段としても、また、目的としても排除されねばなりません(『フマネ・ヴィテ』一四)。

教皇ヨハネ・パウロ一世・教会のすべての教義を教えなさい

教会のすべての教えを教えながら、また、キリスト教的家庭の最高の理想に向かって励ましつつ、婚約者たちのキリスト教的結婚の準備を手伝う人たちを、わたしは特別に支持したいと思います(『キリスト信者の家庭』、一九七八年九月二一日の教話)。

教皇ヨハネ・パウロ二世・人工避妊は常に重大な違法

このように、歴史を通じて教会共同体の生きた伝統と結びついて、最近の第二バチカン公会議と、特に回勅『フマネ・ヴィテ』に凝縮されたわたしの前任者パウロ六世の教導職は、わたしたちの時代に、結婚と生命の伝達に関して常に古く同時に常に新しい教会の教えと規範を明確に再確認、再提案する、真に預言者的な宣言を手渡してくれています。

この理由で、教会会議の教父たちは、その最後の集まりで次の宣言を発表しました。「聖なる教会会議は、信仰の一致においてペトロの後続者と共に集って、第二バチカン公会議(教会憲章五〇参照)、また後に回勅『フマネ・ヴィテ』で、特に夫婦間の愛は完全に人間的、排他的、そして新しい命に対して開いていなければならない(『フマネ・ヴィテ』一一、九と一二も参照)、と述べられていることを堅持します」(使徒的勧告『ファミリアーリス・コンソルチオ』、日本語訳は『家庭…愛といのちのきずな…』二九、一九八一年王であるキリストの祝日)。

故に、結婚した人たちが、人工避妊によって本来なら可能な生殖の力を結婚の性的能力から取り除いてしまうとき、彼らは神にだけ属する力、一人の人間の存在の始まりを、その最終的分析の段階で決定する力が自分たちの方にある、と主張するのです。彼らは、自分たちが、神の創造の力にあずかる協力者でなく、人間の生命の究極的受託者の資格を持つことを、当然と思っています。この観点から、人工避妊は、どんな理由があっても、決して正当化されてはならないもの、客観的にまったく不法なものと判断されねばなりません。そうでないと考えること、話すこと自体は、神を神と認めないことが許されるような状態が、人間の生活の中に起こり得る、と主張することになってしまいます」(司祭たちへの教話、一九八三年九月一七日)。

回勅『フマネ・ヴィテ』が教えるように、一つ一つの夫婦の行為は、生命の伝達に開いたものでなければなりません(一一)。この理由のために、人工避妊と人工的に避妊する目的の不妊手術は、いつも重大な罪の材料なのです(ベネズエラ・カラカスで百万人の聴衆を前になされた教話、一九八五年一月二七日)。

ここから大きな責任が生じます。議論の余地ない典拠に基づいて教会が教える神の法に公然と対立する人は、結婚した人たちを間違った道へと導いていることになります。人工避妊についての教会の教えは、神学者たちが自由に議論して良い、という部類のものではありません。その反対を教えることは、結婚した人たちの良心を誤りに導くことに他なりません(NFP大会での教話、一九八七年六月五日)。

人工避妊行為を本質的に許されない悪である、とすることによって、パウロ六世が教えることを意図したのは、この道徳規範は、例外を許さないものである、ということでした。どのような個人的または社会的状況も、過去はもちろん、現在、将来にわたっても、このような行為を、それ自体において合法化することはありません。常に、どんな状況の下にあっても、例外の可能性さえないほどの拘束力を持つ、この世の人間の行動に関する特定の規範の存在は、カトリック神学者によって疑問視されてはならない伝統と教会の教導職の普遍の教えです」(四〇〇人の神学者になされた教話、一九八八年一一月一二日)。

ジョン・キプリーが言うように、教皇ヨハネ・パウロ二世は、一九八八年の末までに、『カスティ・コンヌビイ』、『フマネ・ヴィテ』、『フアミリアーリス・コンソルチオ』の教えをはっきりと、少なくとも四〇回は再確認しておられます(Sex and Marriage Covensnt 一三一ページ)。そうすることによって、教皇は、教会憲章二五にある「同じ教えの繰り返し」の要件を満たして、信徒に特定の教えを受け入れる義務を負わせました。

ローマ教皇の真正な教導職に対しては格別な理由で、たとえ教皇座宣言(エクス・カテドラ ex cathedra loquitur)でないときにも、意志と理性のこの敬謙な従順を示さなければなければなりません。すなわち、教皇の最高の教導職を尊敬をもって認め、教皇の言葉に、教皇が示す考えと意向のとおりに、誠実に同意しなければなりません。なお、教皇の考えと意向はおもに、文書の性質、同じ教えの繰り返し、表現方法などから明らかになります(教会憲章二五)。

これらの引用のいくつかは、明確に、人工避妊が重大な事柄であると教えています。ペシュケ神父は、『フマネ・ヴィテ』が人工避妊を重大な悪であるとしていないので、教導職はこの点で明りょうではないかもしれないと示唆しますが(一九八七年版四七六ページ、一九九三年版五〇八ページ)、このような立場が排除されていることは明らかです。教皇諸文書は、それぞれが先行する回勅を引き継ぎ、再確認しているので、全体を一つのものと考えることができます。『カスティ・コンヌビイ』は明りょうに、人工避妊が重大な事柄であると教えます。『真理の輝き』は『フマネ・ヴィテ』が、人工避妊が重大な事柄であることを肯定していると解釈します(八〇)。これは倫理神学にとっては、当然の知識であり、ここでそれに触れるのは、ひたすら、本書が名指した倫理の教科書が繰り返す、おかしな示唆に反駁するためです。

人工避妊をする人たちは聖体を受けることができるでしょうか?

聖体(Communion)…英語の字の通りだと「ともに結ばれる」“Union-with”は、心の同意と一致を意味します。原則としてプロテスタントの信者は、カトリックの信徒と同じ聖体を受けることができません。それは、この秘蹟に表される一致の表示に先行する心の一致が、欠けているからです。聖体は、まだ修復されていない教会の裂け目を、紙でおおって隠すために使われてはなりません。これは、主観的な信仰と、個人個人のプロテスタントの信者の善意に基づいてなされる判断ではありません。また、彼らが恵みの状態にない、ということをゆがめた形で暗示するものでもありません。これは、教会が、特別な状況の下では、個人的に、プロテスタントの信者にも聖体拝領を許可することからも明らかです。

人工避妊をする人たちが聖体拝領をすることに対する障害は、プロテスタントの場合のそれと異なります。人工避妊をするカトリック信徒は一、聖、公、使徒伝承の教会との一致を捨てて組織されている派に属しているわけではありません。それではなぜ、性道徳に関するおきてに従わないカトリック信徒の聖体拝領のふさわしさについて、教皇が疑問を投げかけられるのでしょうか。次の教皇の言葉を読んでください。

時として、今日のカトリック信徒がいくつかの点で、特に性と結婚の道徳、離婚と再婚の問題で、教会の教えに従っていないと報道されます。あるものたちは人工妊娠中絶について、教会の明確な立場を受け入れないと伝えられます。また、教会の道徳の教えに従うとしても、一部のカトリック信徒は、好みの教えを選択して従っていると言われたりします。時には、教導職に不服を唱えることも「善良なカトリック信徒」であることと両立し、秘蹟を受けることの障害にならない、と主張するものもいます。このような考え方は、アメリカ合衆国でも他の国でも、司教たちの教導職に挑戦する大きな誤りです。キリストの愛において、わたしはあなた方が牧職を遂行するにあたり、勇気を出し、同意を呼び起こす神の真理の力、そして良い知らせを伝えるもの、また伝えられるものにも与えられる聖霊の恵みに頼って、この状況に対処するよう勧告します(ロスアンジェルスでの米国司教団との会合での教話、一九八七年九月一六日、John PaulⅡ ,Pastoral Visit to the United State, Ignatius Press,一九八七年)。

聖でない人工避妊は、聖体拝領の際に意図される良い効果を妨げます。人工避妊をする人たちは、この悪習に固執することで、聖体の中におられる真理、善、聖であられるキリストを怒らせ、困惑させます。聖体拝領はキリストと拝領する人との一致を意味し、普通であればこの両者を一致させます。しかし、人工避妊をする人は、主を無視し、罪に汚れているので、聖体拝領をするとき、イエスと確かに儀礼的な握手はしても、目を合わすことがありません。イエスと握手するというのに、目はよそを向いています。それは個人的なかかわり合いなしの政治的行為かもしれません。キリストとの本物の友情を望むというより、皆から自分も善良な人間であると思われたいのかもしれません。本当は裏切り行為をしているのに、友情を持つ振りをしているのかもしれません。人工避妊をする人…この本質的に悪い生活様式の中に生きている人は、聖体拝領をする資格がありません。殉教者聖ユスチノ(一六五年ごろ殉教)は、こう言っています。

わたしたちは、この糧を聖体と呼びます。わたしたちの教えの真理を認めたものだけが、その罪の許しを受け、再生の洗礼によって清められたものだけが、そして、キリストから与えられた規律にその生き方を合わせるものだけが、これを受けることができます(第一の弁明、六五)。

わたしたちは、一コリント二・一七〜二八で、聖パウロが聖体拝領について厳しい言葉を述べていることを見過ごしてはならないでしょう。

ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりするものは、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。

神との親しさ、つまり聖体拝領は、神とともに歩き、語り合うことによって達成されます。アダムとエバが罪を犯す前、神はエデンの園を風に吹かれて、彼らとともに喜んで散歩なさるのを常としておられました(創世記三・八参照)。彼らが罪を犯したので、このいつもの態度は劇的に変わってしまいました。禁じられた木の実を食べてしまったことに気づいたアダムとエバは、主なる神が園の中を歩く音を聞き、木の間に隠れて主なる神から逃げました。彼らが罪を認めると、神はまた優しくなられます。主なる神はアダムとエバに皮の衣を作って着せられました(創世記三・二一参照)。
神と悔い改めない罪人の間にある敵対の感情は、共通しています。人々が神に反逆した後、神はモーセに、彼らが約束の地に自分たちだけで行くように、言われました。「あなたたちはかたくなな民だ。わたしがひとときでも、あなたの間にあって上るならば、あなたを滅ばしてしまうかもしれない」(出エジプト三三・五)。神はそのことについて考えを変えられましたが、それは彼らが罪を悔やんだから、そして、キリストの象徴であるモーセが彼らのために劇的な、そして、強力な祈りをしたからでした。もし清くなければ神の近くにいることは危険であり得ます。

習慣的に人工避妊をする人もカトリックであり続けるべきです

しかし、まだ生き方を変えていないものも含めて、人工避妊をする人たちは、決して教会を去るべきではありません。教会は、彼らの母です。母であれば、彼女の苦しみの原因になる子らも含めて、すべての子を愛するではありませんか。一度母親になったら、永遠に母であり続けるのが母です。そして、もし、母である教会の一員が人工避妊をする人たちに対して愛に欠けることがあっても、神は彼らの帰宅を心から望み、彼らとの交わり、彼らがそこにいることを待ちこがれていらっしゃいます。マザー・テレサは、イザイアから次の二節を好んで引用します。

女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようともわたしがあなたたちを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。
(イザイア四九・一五〜一六)

人工避妊をする人たちは、どんなことがあっても、ミサに来て、祈らねばなりません。なぜなら、神がそれを望まれるからです。しかし、聖体拝領だけは控えなければなりません。正常でない同居をしている男女に関連して『ファミリアーリス・コンソルチオ』八四に述べられている原則は、現在、習慣的かつ意図的な人工避妊をしている人たちにも、同じく適用されます。ここに、その文書の二つの段落を少し書き直してみたものを読んでみてください。

しかし、教会は聖書に基づいて、離婚後、再婚している人たち(人工避妊をする人、と読み変える)が聖体拝領することを許しません。彼らの生活の状態と条件が、聖体によって表され、また、もたらされる、キリストと教会の間にある愛の一致に客観的に矛盾しているからです。その他、もう一つ特別な司牧的な理由があります。つまり、もし、これらの人々に聖体拝領が許されたら、信者たちは結婚の不解消性について(人工避妊の本質的悪について、と読み変える)の教会の教えに関して誤りと混乱に陥ってしまうであろうということです。

聖体への道を開くゆるしの秘蹟の中での和解は、契約の印とキリストへの忠実を守らなかったことを悔い改めた上で、結婚の不解消性に(人工避妊が本質的な、重大な悪であるという教えに、と読み変える)もはや矛盾しない生き方を始めるために、真剣な準備ができている人たちにだけ許可されます。
司牧者は、キリストが、神の優しいしもべであることを承知しています。「……彼は、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」(マタイ一二・二〇)。牧者の仕事は、小教区民の信仰と善意を無益な手段で吹き消してしまうことではありません。その道に、キリストはファリサイ人たちの偽善を大声で非難して、ご自分のメッセージの意味を明確になさいました。司牧者たちはその小教区で、教会のメッセージが妥協させられてしまうことを許してはなりません。司牧的な愛、賢明、忠実が、ここで発揮されるべきです。司教、主任司祭、聴罪司祭、カウンセラーは戦う教会の中の隊長であり指揮官です。罪人と同時に聖人も、傷ついた兵隊や水兵たちと同時に元気なものたちも世話する教会の中にあって、戦う教会の士官たちは、シェル・ショックにかかったもの、一時的に無断外出していたもの等々、処罰と更生が必要なものをも含めて、全員に必要な配慮をしなければならないのです。

キリストは迷った羊にとっても善い牧者

キリストは、教会の中にあって、毎日、罪人たちのために、いけにえとしてご自分をお捧げになります。だから教会は、善い牧者が迷った羊たちを探しに出かけて、長い時間を費やすのを、キリストが気になさらないことを知っています。若気の誤りで家を飛び出したあげく、困り果てていた放蕩息子の帰りを待ちこがれていた、あの盲目的な愛の典型であった父親のたとえ話も、キリストが語られたものです。息子が帰って来たとき、家にずっといて、とても忠実だった兄が苦情を言っても、あの父は心から放蕩息子を歓迎しました。

司牧者たちは、天の御父が「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせてくださる」というキリストの言葉を思い出します(マタイ五・四五)。このような牧者は、祈りには来るが、聖体拝領を遠慮する罪人には親切です。司牧者たちは、キリストがその僕たちによって畑の毒麦が、早まって、よい麦もー緒に抜かれてしまわないようにと言って、よい麦と一緒に育つのをお許しになったことを思い起こします(マタイ二二・二四以下)。

善い牧者は、元奴隷であったといわれる教皇聖カリスト(二二二年死去)の心を持っています。彼は、償いをした罪人は皆、信者の共同体に再び迎え入れられるべきであると裁定を下しました。エンクラティテス派は、洗礼を受けた後、罪を犯すものは、永久に共同体から追放されなければならない、という考え方を擁護していました。その他、偶像崇拝、殺人、淫行の三つの罪は、許しの対象外であるという考えを持つものたちもいました。

教皇カリストは、性的な罪を犯したものたちも、皆、規定の償いを果たした後、共同体に再び迎え入れられるべきである、と定めました。この点で彼は、ヒポリトゥスとテルトゥリアヌスから手厳しく、意地の悪い反対を受けました。カリストは彼らの怒り、学識、冷笑に降参することを拒みました。

ヒポリトゥス(二三五死去)については、いい最後の記録が残っています。しばらくの間、彼は、教皇カリストの対立教皇にさえなっていました。彼は、「不妊をもたらすために薬をいろいろ飲み始めたり、おなかの中に身ごもった子どもをおろすために、帯をきつく締める女性とか、名前だけの偽信者を軽べつしていました」(フィロソフメナ九・一二)。ヒポリトゥスは、聖人と罪人が交じっていない、清潔な教会が欲しかったのです。何年か経って、皇帝マキシモがカトリック信徒を迫害し、サルディニアの石切り場にカリストの二代後の教皇ポンティアンとヒポリトゥスを、ともに追放してしまいました。二人とも石切り場で、肩を並べて働いて、信仰のあかしをしました。ヒポリトゥスは、ポンティアンに和解と許しを願い、その願いはかなえられました。そして、二人とも、彼らが堪え忍んだ苦労が原因で、殉教者として死にました。彼らの劇的な話は、美しい最後で終わりました(Philip Hughes,History of the Church Ⅰ 、一〇三〜一〇八ページ参照)。教会は、悔い改めた罪人たちを教会の共同体に受け入れるかどうかの論争で勝ったのは、火のように熱心なテルトゥリアヌスとヒポリトゥスでなく、悔い改めた罪人たちの代弁者であった、元奴隷の教皇カリストであったことを忘れません。

回心は、通常、長い曲がりくねった道を通ります。多くの人々にとって、それは、ついに、やっとの事で、長い旅の後でたどり着く終点です。カトリックの全共同体は、兄弟姉妹的連帯、愛徳、祈り、犠牲によって、途中、落ちこぼれそうになる旅人、ミサには来るけれど聖体拝領は控える人工避妊をする人たちの荷物の一部を担って運びます。わたしたちに分かる限りでは、これらの人々は、聖アウグスチヌスと同じ道を歩んでいるかもしれません。彼の祈りを紹介しましょう。

「わたしに純潔と禁欲をお与えください、しかしもう少し後で」なぜならわたしは、あなたがわたしの祈りを聞き入れて、すぐにもわたしを情欲の病からいやしてくださることを恐れていたからです。わたしは情欲が消されてしまうことより、満たされることの方を望みました(告白八・七)。

ジェルメン・グリゼが、無効に「再婚」した男女について書いていることを、わたしたちは同じ司牧的愛徳をもって、ミサには来ても聖体拝領は控えている人工避妊中の男女に適用することができます。

自分たちの状況の真理を認め、キリスト教生活をその範囲内で実践しょうとして最善を尽くす人たちは、救いを望み続けることができます。彼らは、いま悔い改めて生活を変える意志がなくても、自分に正直であるので、彼らの罪を意識し続けることができます。そして、彼らは、このような意識なしに悔い改めることができません。彼らさえ回心の準備ができれば、神は、いつでも許す用意のあることを、このようなカトリック信徒に言い聞かせつつ、教会は、慈しみあふれる母親のように、彼らの死に至るまでの頑迷さでなく、回心を待ち望みます(Ⅱ 、七三七ページ)。

わたしはグリゼが、彼らの置かれた状況の中で、「最善を尽くす」という言い方でなく、「努力し続ける」と書けばよかったのにと思わずにはいられません。もし、彼らが「最善を尽くす」のであれば、いますぐにでも完全に主に従い、罪深い状態から回心できます。彼らは、しなければならないことを後日に延ばしたりしないはずだからです。しかし文脈から見ると、グリゼが言いたいのはこれと一致しているようではあります。

司牧的戦術

人工避妊をする人たちを助ける、いくつかの司牧的戦術を思い浮かべることができます。ある司牧者は、彼の忠告が聞き入れられるために、キリストの大きな力と恵みに頼って告解場を活用するでしょう。もし、告解する人が、ちゅうちょするようであれば、聴罪司祭は 『ファミリアーリス・コンソルチオ』八四の指針を適用することができます。つまり、「もしあなたがそのような生き方を変えないのなら、聖体拝領をしてはいけない」というものです。このやり方は、伝え聞くところによると、ポーランドで効果を挙げているということです。特に、結婚式とか葬式ですべての親せき、知人が聖体拝領をすることが期待される際には、自分もそうすることができるように、ゆるしの秘蹟を受けるために来るとき、この薬は強力です。それで、何人ものポーランドの聴罪司祭たちは、このような状況を有効に使っています。

もし、聴罪司祭がそう言った、ということで、ある著名な小教区民が聖体拝領を控えるようなことがあれば、彼、または、彼女は自分に対して、また共同体に対しても人工避妊の本質的悪をあかしすることになります。もし、その小教区で十数人の信者がそうするようなことにでもなれば、そのあかしのインパクトは、非常に大きなものになるでしょう。それは、小数区全体をよりよい生き方、神のおきてを守る決心に向けて、回心させるかもしれません。

また、特別説教者、もしくは特別説教者のチームを招いて、黙想会を開くのも一つの手です。外部からの訪問者は、かたくなな心を聞かせて、ゆるしの秘蹟に人々をより容易に招くことができるかもしれません。そして主任司祭もその後、説教台、応接間、告解場で同じメッセージを繰り返し続けるのです。

司教こそ、人工避妊に関して、いままでに確立されてしまったタブーを、まず打ち破ることができます。司祭たちを召集して、戦術を練るための会議を開けばいいでしょう。回勅とか教話の中の教皇の言葉を引用し、教区報で、そして小教区訪問の際、そのメッセージを伝えることができます。もし、司教がそのタブーを打ち破り、こんがらがった未開の地をぶち抜く道路を切り開けば、現場で司牧に当たる司祭たちは、もっと容易に、その道路を最後まで完成することができるでしょう。

人工避妊を禁止するおきてへの従順に人々を招く秘訣は、わたしが思うに、習慣的な人工避妊に固執する信者に聖体拝領を禁止することです。言葉だけより、行動の方が効果的であるということです。

聖体拝領をする信徒たちのプライバシーを確保するための配慮が、当然、ここで必要になってきます。聞いたことのある冗談かもしれませんが、ミサの時間が迫っているというのに、告解場の前には、長い列を作って、多くの人たちが、待っているのを見た司祭館のとても気の利く家政婦が、こうアナウンスした、というのです。「大罪のある方だけが、ミサの前に告解してくださいませんか。小罪だけの方は席にお戻りください」もちろん、全員が、あたふたと席に戻り、ミサは定時に始まりました。ある小教区の案内人たちは、今日、この家政婦と似たやり方で、聖体拝領をする信者の交通整理よろしく、前の列から順々に、通路の列に人々を誘導しています。聖体拝領をひかえている信者は、いきなり会衆の前に自分の心の奥の秘密をさらけ出す羽目に陥ってしまいます。聖体拝領をすることが許されていない信徒のプライバシーを確保するために、人々が聖なる食卓に近づくときは、順序不同の方がほるかに望ましいのです。

もう一つの賢い解決は、日本で働いている創意工夫に富んだある宣教司祭が、考え出したやり方です。クリスマスとか結婚式とか葬式、その他の機会に、大勢の非キリスト信者が、ミサに来るわけですが、信者が聖体拝領できるのに、なぜ自分たちにはそれが許されないのだろうと、うらやましがります。それで、この司祭は、このような会衆に、次のようなアナウンスをするのです。「洗礼を受けている人は、聖体拝領ができます。そうでない人は、前に出て来て、司祭の特別な祝福を受けてください」会衆の中で、洗礼を受けていない人たちは、喜んで前に出て来て、司祭から額に十字の印をしてもらうのです。子どもたちの喜ぶ顔は見ものです。

人工避妊に反する戦いの中での「再生」

ネブラスカ州リンカンの故グレノン・P・フラビン司教は、在任中、この問題に関して発言することへのタブーを打ち砕いて、司牧者と信徒が進むべき道をはっきりと、指し示したものです。一九九一年一〇月二日の教区報 The Southern Nebraska Register 紙上で、この立派な司教は、勇敢に「人工避妊の禁止は、教会が変更することのできない神のおきてである」と書きました。司教は、自分の教区にある八ケ所のNFPセンターのスケジュールと電話番号のリストも、掲載しました。
一人の主任司祭が、どのようにこの問題を取り扱ったかが、Homiletic and Pastoral Review に記載されています(一九九三年七月、七一〜七二ページ)。女医のバーバラ・P・マカルスキー博士はヴァーノン・シューファー神父の説教を、次のように報告しています。

なぜ人工避妊がいけないか、なぜわたしがその処方を出してはいけないかを彼から学んだことは、一生、忘れられません。司祭が、これほどの確信をもって話すのを、かつて、聞いたことがありませんでした…皆が心から親切な、シェーファー神父の小教区(ミネソタ州アイオワ)には多子家庭が多く、ミサの出席率も高く、侍者たちはしっかりと訓練されており、要理クラスも満員、聖歌隊も熱心です。確かに、ここは何か違う、と感じざるを得ません。
そこでわたしの信仰をこれほど深く感じることができたことを、神に感謝します。

ベネディクト会会員マシュー・ハビガー神父は、同会のポール・マルクス神父と、しばしば小教区の黙想会指導に行きます。その経験から、彼は「『フマネ・ヴィテ』への抵抗は強力で、その抵抗を排除するには、奇跡が必要だろう」とまで言います。以下も彼の言葉です。

もし、その小教区の司祭が反対の立場をとるなら、カトリックの性道徳について外部から優れた司祭を招いて、説教をしてもらっても、あまり意味がありません。小教区は、まっぷたつに分裂することになってしまいます…小教区は、教会の人工避妊、不妊手術、人工妊娠中絶の教えを受け入れることにするか、それとも、これらすべての点に関して、やりきれない沈黙に入ってしまうかです。こんな小教区には、もほや、頭と心の平和はありません…
他方、もし、わたしたちの道徳と霊魂の指導者たちが、道徳の全真理の提示に関して、キリストとその教会に一致していれば、そこには、本物の希望があります。ほとんどの信徒は、よい司祭についていくし、ほとんどの司祭は、よい司教に従うものです。一番効果的なのは、何と言っても、説教台から牧者が、はっきりと人工避妊、不妊手術、人工妊娠中絶に関する教会の教えを説明することです。もし、牧者が、その民を命の牧場に導けば、民はついていくでしょう。もし、小教区の神父がその民に、自分もそうするから、ということで小教区をゆるしの秘蹟に導くならば、信徒も反応するでしょう。司祭たちは、このような動きに対応するためにHLIの資料に頼ると良いでしょう。

『フマネ・ヴィテ』を受け入れ、推進する小教区は、国中に散らばっています。普通、少し努力すれば、このような小教区を見つけることができます」(アメリカ国内のこと。日本では、長崎教区(例えば仲知教会)に多子家庭が多く見られます。現在引退なさっている里脇浅次郎枢機卿は「五人の子供を生むまで、親づらをするものではない」と、信徒夫婦を激励なさったことで知られています・訳者)。

しかし、反対を唱える司祭たちと小教区を、再び、さくの中に連れ戻すには、どうすればよいのでしょうか。これは、多大の賢明を要します。人工避妊と不妊手術を擁護してきた大人にとって、余程の謙そんがなければ、自分たちの過ちを認めるのは、容易なことではありません。NFPを習得するには、いくらかの努力が必要です。定期的な禁欲には、悪徳の根絶と徳の意識的追求が要求されます。純潔は困難を伴いますが、決して不可能ではありません(“Ways to Promote HV at the Parish Level,”HLI Reports 一九九三年三月、“Is Contraception a Sin?”HLI reprint も参照)。

配偶者が協力を拒むとき

もし、例えば、妻がピルを使用して人工避妊をしているなら、そして、その使用を中止することを拒否するなら、夫は、いま、救われたアダムとして、説得しても効果がないのであれば、結婚の行為を拒否しなければなりません。彼が誘い、積極的にそれを望むとき、彼はその不道徳な行為の直接的な協力者、そして、おそらくは形相的な協力者にもなってしまいます。彼は、妻が人工避妊薬を使っている限り、合法的に妻と交わることはできません。
もし、夫が、コンドームのような人工避妊具を使用するのであれば、そして、それを中止することを拒否するのであれば、妻は、まずは、彼を拒まなければなりませんが、それが不可能なときは、性交の際、受動的に留まらねばなりません。意図する結婚の行為は、その中心的な意義を失っているからです。彼女の受動性は、その罪深い行為の際の彼女の形相的質料的協力を除外します。ですから、夫を怒らせたり、彼の不倫のきっかけになったりしないために、これが、もしそのような状況を切り抜けるために最善の方法であれば、彼女は、罪を犯さずにすみます。彼女は、賢明に、夫とともに聖体拝領をしないことによって、道徳に関する彼の考えについていけないことを示すことができます。

そんなことよりも、二人で、自然にかなった家族計画(NFP…Ntural Family Planning)を実行すればいいのです。この方法で、多くの人たちが回心し、諸秘蹟の意味ある拝受ができるようになっています。

もし、夫婦のうちの一方、または、両方が、人工避妊をするために、不妊手術を受けているのなら、回心と痛悔は、適当な償いの業で強められ、表されなければなりません。償いの業の一つの方法は、各周期の間、避妊するために不妊手術を受けていなければ受胎可能期間だったであろう十日の間、禁欲することです。一年間、このように償いをした結果、多くの夫婦が、壊れかかっていた彼らの結婚を修復することができました。
しかし、もし、不妊手術を受けた夫婦のうちの一人が回心しなければ、その配偶者は、性交を拒否することが許されるし、それが、妻である場合は、受動的に留まらなければなりません。なぜなら、そのような行為は、その性格と意図からして、人工避妊行為になり、故に、本質的な悪になってしまうからです。二人とも回心すれば、性交は、常に合法的なものになります。しかし、継続した禁欲が償いと痛悔の表れとして勧められます。

なぜ人工避妊は本質的に悪である行為なのか

教会は、人工避妊が、本質的に悪であり、それ故に、間違いであり、どんな場合でも、例外なく禁止されているという教えを受けて、それを次の世代に引き継ぎます。『真理の輝き』は本質的に悪である行為を、次のように説明しています。

神の姿に似せて造られた人間の善に根本的に反しているために、その性質からして神に「秩序付けられることのできない」人間の行為の対象があることを、理性は明示します。これらは、教会の道徳に関する伝統の中で「本質的な悪」(intrinsice malum)と名づけられる行為です。それらは常に Per se 言い換えると、その対象そのもののゆえに、そして行為する人の隠れた意図と状況とは無関係に、本質的な悪なのです。したがって、状況と、とくに、意図によってもたらされる道徳性への影響をまったく否定しないにしても、教会は状況とは無関係に、「per se つまりそれ自体によって、そしてそれ自体において、常にその対象の故に著しく間違った行為が存在する」と教えます(八〇)。

本質的に悪い行為に関して、そして、夫婦行為が意図的に不毛にされる人工避妊の行為に言及して、教皇パウロ六世は次のように教えています。「たしかにより大きな悪を避けるため、あるいはよりすぐれた善を促進するために、時としては、より小さな道徳的な悪を許容することはできますが、善を導き出すために悪を行うことは、もっとも重大な理由のためでも、絶対に許されません(ローマ3・8参照)。すなわち、本性上、道徳秩序に反し、したがって人間にとってふさわしくないと判断すべきことを、自由意志の積極的な対象とすることはたとえ、個人、家庭、社会の善を守り、また促進する意図による場合でも許されないことであります」(『真理の輝き』八〇の中で引用された『フマネ・ヴィテ』一四)。

『フマネ・ヴィテ』が述べているように、

夫婦が、あたかも、自分たちにとって何をすることが正しいかを、まったく主観的にまた強情に定めることが許されているかのように、自分たち自身の勝手な判断に従って行動することは、正しくありません。その反対に、彼らは、自分たちの行動を、結婚の性質とその行為自体、また教会の恒常的な教えによっても、はっきりと理解できる創造主である神の計画に、合わせなければなりません(一〇)。

(結婚の行為には)夫婦を一致させる意味と生殖に結びつく意味があります。この二つは、一つに結ばれていて、切り離すことが、不可能です。そして、これら両者は、結婚の行為の中に、本来、備わっています。この関係は、神によって定められたものですから、人間がこれを勝手に切り離すことは、許されていません」(一二)。

教会が、その民に、この明らかに重要である事柄を信じさせ、それに従順であるようにと、これほど一生懸命に話すとき、教会は間違ったことを教えていない、と信じることは正しい、とわたしは思います。その反対に、ペシュケ神父の教科書がそうであるように、人工避妊の本質的な悪を、大したことではないものとして、わい小化することは、絶対に間違いであり、醜聞であり、誤解を招くものです(一九八七年版、四七六ページ、一九九二年版五〇八ページ)。

異論の余地のないところでしょうが、よい管理について知らねばならないことを、すべてご存じのキリストは、もし、教会がこの件で間違うなら、もし、教会がこれほど公に知れわたり、人類にとって最重要である教えのことでわたしたちを誤りに導くことをお許しになるならば、その教会が、わたしたちの信頼性にふさわしくなくなってしまうことを、知っておられます。全教会と全世界のために、決定的な重要性がある問題を解決するために、教皇が、キリストに与えられたかぎを使うとき、間違うことはありません。

人工避妊の悪に関するトマス・アクイナス(一二二五〜一二七四)の考え

人工避妊の本質的悪について、他の人たちが、上手に書いていることを、ここで繰り返す必要はありません(例えばG・グリゼ、H、五一二ページ以下、J・スミス、六八ページ以下、J・キプリー、五〇ページ以下を参照)。しかし、これらに、トマスの議論もつけ加えましょう。手短に言えば、大罪である人工避妊の禁止は、神が人類のために意図する共通善の保存のために必要だからです。

性の合法的な享受には、聖トマスの教えに従えば、いくつかの条件があります。神は、人間が、次の二つの値を払うという条件のもとに、性の享受を許しました。第一は、合法的で生涯にわたる結婚です。第二は、婚姻の交わりの自然な結果に対する不干渉です。人類の幸福のために欠かせないこれらの条件を、人は必ず守らなければなりません。

何かが必要であればあるほど、人がそれに関して理性の秩序を保つことがふさわしくなります。そのゆえに、理性の秩序が見捨てられれば、それだけ罪は深くなります。さて、性行為は……共通善、つまり、人類の生存のためにもっとも必要です。ゆえに、このことに関して、理性の秩序を守る最大の必要があります。つまり、このことに関して、理性の秩序の命じるところに反して何かがなされるとすれば、それは罪になるのです。(神学大全Ⅱ 、Ⅱ 、一五三、三)

つまり、人類の幸福を守り、保つためには、神が合法的な性の享受にある種の条件、つまり、人工避妊を大罪とすることによってそれを禁じる法に罰則をつけ加える必要があります。神は、わたしたちが、ご自分と同じように聖であることをお許しになるため、そして人類の共通善を保つために、(一)理性にかなわない性と、(二)共通善の土台を崩す性の享受を禁止しなければなりません。

人工避妊を禁止する神の第一の理由は、それが理性と両立しない点にあります。つまり、それが、それ自体において、本質的に悪であるということが、この間題の表の面です。

人工避妊を禁止する第二の理由は、それを許すと、わたしたち皆を含む人類の共通善を土台からくずしてしまう、という点にあります。これがその裏の面になります。
わたしたちは、人工避妊を禁じるこの第二の理由の中に、命のたまものには代価を支払う義務と、人類の共通善に合致していない性の享受を控えることによって、わたしたちが受けている教育を見ます。わたしたちは、わたしたちの生命と教育を可能にする家庭生活の構造と社会の秩序を支えるとき以外、性の享受を差し控えることに同意することによって、これを達成します。

つまり、結婚の枠内で合法的配偶者がそれを望み、また、新しい生命を生み出す自然の可能性を閉ざす行為でもって干渉しない、という二つの条件のもとにのみ、わたしたちが性の快楽を享受することに同意する、ということを意味します。「生命の代償」の支払いがあって初めて、わたしたちは、人類の存続と、その必要とする社会の諸構造を維持することに寄与するのです。これが、生命のたまものと良い環境の中で大人になるための教育を神から受けたすべての人に、神が課している代償なのです。神は、性の享受の代価として人が払う価を、結婚、そして結婚の中で人工避妊をしないことと定められました。この価を払う義務は、人類の維持とその全般的福利を維持するために、神によって意図されたものです。

トマスは、淫行、姦淫、誘惑、近親相姦、涜聖(神に奉献された人が相手の性行為)は、一方では、理性の判断に反し、他方では、人類の共通善に反する、と見ます。同じことは、トマスが、自然に反するとみなすマスターベーション、つまり性交なしの性の快感の享受、獣姦、同性愛、そして最後に、「性交の自然な方法を守らないこと」についてもいえます。この最後にあるのは、人間の生殖を不可能にするような行為による性の快楽を意味します(神学大全Ⅱ 、Ⅱ 、一五四、一一)。
繰り返しになりますが、トマスは、人間の生殖を不可能にする行為、人工避妊の禁止が二つの理由のために必要であるとします。一方で、それは、理性、神の似姿としての人間と調和しません。それは自然と理性に反し、当然、自然から流れ出るわたしたちの理性的要求に反します。他方、この禁止は人類の福利を確保するためにも必要です。後者について、もう少し検討してみましょう。

結婚の中でのみ性行為を許し、その中で性の乱用を排除することで、神は結婚と家庭生活の存在と調和を図られます。性の本能的要求とこのように調和して形成された家庭にあって、夫婦は相互の愛、尊敬、扶助を特徴とする確固とした一致を達成します。そこで子どもたちは、人をはぐくむ社会的雰囲気の中に生まれ、育ちます。夫婦は、そのような家庭にあって心からの幸せを感じ、その尊厳と結婚生活からの満足を維持し、ますます高めていきます。これが可能であるために、夫婦は、姦淫と人工避妊という二つの大敵を、結婚生活に寄せ付けないことです。

人工避妊の禁止は共通善のために必要

結婚の中での性の相互的乱用の禁止は、十分な子孫でこの地を満たすという神の計画を支持します。実に、人類の生存は、人工避妊の禁止を人間が忠実に守ることに、大いに依存しています。わたしたちは、現在、狂ってしまったメディアのプロパガンダと、政府による間違った政策のために、厳しい人工避妊を実施している諸国の統計の中に、これらの国で、大人の世代を補充するだけの子どもたちが生まれてこない事実を観察することができます。これらの国々は老衰しつつあり、この傾向が続けば、最後には絶滅してしまうことになります。アメリカ合衆国商工省統計局が発行した一九九四年度世界人口白書(一九九四年二月)は、二・〇またはそれ以下の補充出生率の六〇の国々をリストアップしています。これらの国では、二人の大人を補充するために、たった二・〇もしくはそれ以下の子どもたちしか生まれていないことを意味します。そして、アメリカ合衆国を含むその他の六ケ国の出生率は二・一です。実際、HLIの統計学者ジェームス・ミラーが、白書を読んで指摘するように、これらの国々の、成人し、出産可能な女性たちが、平均的二・三人の子どもを生まない限り、国家の人口は人口学的には減衰します(The Cairo Examiner 一九九四年秋、四ページ参照)。

人工避妊の禁止は、人間の心の中に消すことができないように刻まれています。それにもかかわらず、世界人口の大きな部分は、すでに行き着く先が絶滅でさえあり得る人口学的下降旋回に入っています。その反対に、もし、人工避妊が、創造主のおきてに反していないと仮定すると、極めて短期間に全人類が、初めにいたとされる一組の夫婦になってしまう人類崩壊の可能性が、どれほど高くなるでしょうか。なぜなら、もし人工避妊が、神のおきてに反するのでなければ、人工避妊の実行を、合法と見なすだけでなく、徳の高い行為として褒めることの方が、正しいことになってしまいます。わたしたちが使っている要理の教科書も、その馬鹿げた仮定の下では、夫婦は人工避妊をすることによって徳を積むと教えるでしょうし、司祭は説教台から、そして告解場で、そういう指導ができることになるのでしょう。夫婦は鼻高に、子どもがいないことを自慢し、そのために自分たちは、小教区と共同体の他のメンバーより「もっとよい」人間である、と言い触らして歩き回ることでしょう。そして、神の「生めよ、増えよ」のおきては罰則なし、ということになります。以上が、人類の共通善の維持のために、特に必要な理性の諸義務が、大罪の罰則のもとに、神から人間に課されたものである、という聖トマスの、議論から論理的に帰結される言外の意味です。なぜかといえば、人工避妊を禁止しなければ、人類は、間もなく、この地球から消滅してしまうでしょうから。

家庭生活という制度自体も、人工避妊を禁じる普遍法に本質的にかかっています。なぜなら、性の快楽が、家庭という義務を伴うことなしに許されるのであれば、人間は結婚して、その中だけで結婚の喜びと快楽を味わう説得力ある動機がなくなってしまうからです。しかし、社会の基本的要請は家庭ではありませんか。そして、家庭がその存在理由を失ってしまったら、社会はその人口学的源泉を失ってしまうことになります。人工避妊を道徳的に肯定することは、不可避的に、社会と人類の終局を意味します。

自然に従った性交は、ボディー・ランゲージを通じて、夫婦を結婚のパートナーとして結びつける、真実に満ちた交わりです。人の心にもともと書き込まれている人工避妊の禁止は、この真実の交わりが家庭の構造を強めるために、効果的に作用することを可能にします。その反対に、いわゆる「許された」人工避妊は、彼らの身体的、そして、霊的な交わりの中での非人間的なうそのために夫婦を互いから疎外してしまいます。「許された」人工避妊でさえも、その内蔵されたうその交わりのために、自分の心の中にある相手の尊厳を微妙に傷つけてしまい、ついには、それがお互いへの尊敬の喪失になっていきます。明白に許されていると理解しても、それは、やはり、体と霊魂に感じられる真実とは反対なので、人工避妊をしている相手との結びつきをゆるめてしまう傾向があります。アメリカ合衆国では、ピルの使用が開始されてから、離婚統計が、爆発的に上昇したのをわたしたちは知っています。一九六〇年、人工避妊ピルがまだ入手できなかったころ、離婚統計は三九三、○○○組でした。一九七五年、ピルの使用期間わずか一五年で、離婚統計は、二六〇%の上昇を意味する一、〇二六、○○○組にもなりました(国連人口年鑑一九七六年版六三九ページ)。これは、ピルの宣伝にはなりません。

広く実施されている、いわゆる「許された人工避妊」…用語上の矛盾…は夫婦が体験するはずの、神と自然とのますます深まって行くべき結びつきを、必然的に、浅くしてしまいます。「許された人工避妊」が、人類の間に広まったら、それは、夫婦が普通、幸せで、お互いに助け合い、子どもたちは人間らしく育つためにふさわしい雰囲気を楽しむ、愛情にみちた家庭生活を奪い去ってしまうでしょう。

人工避妊をする夫婦は「神のち密な計画、すなわち、神が創造するはずだったのに、人間が取り消してしまった人間たちについての神の計画を、無にします」(C・ミッチ司教、Kippley 一三六ページ参照)。人工避妊行為は、特定の人間を創造しようとして前々から準備なさる神の計画に反対して、人間が発動する不法な拒否権といえるでしょう。これはまだ殺人とはいえません。人工避妊は、まだ生きてさえいないものを殺すわけではありませんから。むしろ、わたしたちはそれを人工避妊(Contraception)と呼びます。なぜならそれは、ご自分のスケジュールと選択、計画に基づいた考えを実現しようとなさる神の計画に反対し、それを妨害するからです。神に協力して子どもたちを生む夫婦は、生命を与える過程での神との一致を、神と自然との一体化の慰めを体験します。しかし、人工避妊は夫婦を神と自然から疎外し、生活の中では彼らに喜びと満足を少ししか与えません。

一九三〇年、英国教会は、人工避妊を不法とする神のおきてを廃止する、と主張しました(詳しくは、ヴァレリー・リッシュ、“Contraception`s Legacy・Down the Slippery Slope”HLI reprint を参照・邦訳あり・「人工避妊がもたらすもの」・『フマネ・ヴィテ』研究会)。それ以来、多くの先進国で、人工避妊が合法化されました。そして今日、これらの先進国では、例外なく、死んでしまう大人を補充するだけの子どもが生まれていません。人工避妊を禁じる神の法は、人々が、過度に禁止を無視しない限り、国々を死滅から守ります。

しかし、国々は、死に絶えつつあるかもしれませんが、これらの国々のほとんどどこでも、個々の多子家庭は、生命を祝い続けています。彼らは、生き延びるでしょう。人工避妊をする人たちが舞台から下りた後、彼らは、この地のゆずりで祝福されることになります。

人間の本性・内蔵された理性の法

『フマネ・ヴィテ』一二で述べられているように、夫婦行為の持つ「夫婦を一致させる意味と生殖を目的とする意味、この両者の切り離すことのできない関係」を作られたのは神ご自身なのです。ゆえに、人間が神の知恵の似姿であるというその事実からして、人は自分の中に認めるこの神の知恵を尊敬する義務があるのです。人は、自分のあり方に合致して行動するとき、初めて自分自身とその道徳的な本性を尊敬することになります。しかし、人が人工避妊をするとき、人が夫婦行為の中で、一致の意味を生殖の意味から切り離してしまうとき、人は自分自身の道徳的な本性に暴力を振るっているのです。彼は、自分に内蔵された理性が、それ自身と衝突するようなことをします。永遠から存在する神の知恵の創造された写しである自分の道徳的な存在でもって不道徳なことをします。故に、性の乱用はわたしたちが神から受けた本性、わたしたちが神の創造された写しであるよう要請されている本性の乱用なのです。人工避妊は道徳的自殺行為です。それは、正に自分の道徳的内部機構を共食いするような事態に他なりません。自分を乱用することは、わたしたちにその存在の世話を任された創造主の乱用に他なりません。

人間は、善悪の別を判断する神固有の知恵に似せて造られています。人間のその本性の中に、もし道徳的なシステムが存在しないと仮定すれば、人は道徳というかじを持たずに、果てしない大海をさまよう存在でしかないことになります。自然は、肉体的資質、本能的衝動、心理的傾向によってだけでなく、理性と自由意志によっても、人に一夫一婦制の結婚への傾きを与えました。確かに、一夫一婦制に対する本能には、いまだに粗野なところもあります。女性はともかく、男性の中には、あまりはっきりとその本能が認められないこともあります。しかし確かにいえるのは、こういう本能は男女の中に存在し、それは洗練されるにつれて確固としたものになっていく、ということです。新婚夫婦の初夜の後、彼らが性的に体験したことから、新たに自分たちの結びつきが、確かに一生続くよう運命づけられ、また二人とも、この結びつきを、自分たちが生きている限り、継続しなければなければならないと感じるものです。

理性の法はマスターベーションを排除します

両性とも、マスターベーショソには、本能的な嫌悪を感じます。思春期の若ものたちは、初めのうちは、自分たちのまだ初期にあるつぼみのような性機能を、試してみたがるかもしれません。しかし、最終的に、彼らは、自分たちの新しい責任に、すなわち、性は大人としての生活と同じ位の大きさがあるのだ、ということに気づいていきます。マスターベーションの後、彼らが感じがちな憂うつと、自分でも意識する自尊心の喪失が、マスターベーションを良しとしない本能を強力に支持します。このマスターベーションに対する本能的嫌悪感は、さらには、教育と自制の行為で、より強く、明確なものに育っていきます。かじのない性の衝動の強さに確固とした抵抗を示す十代の若ものたちは、自分たちの衝動に、理性のたがをはめることを学び、徐々に洗練された大人になっていきます。

それでも、人間が、マスターベーションによって得られる直接的な快楽への傾きを経験するのも、事実です。彼は、時としては、激しく選択を迫られます。それほ、快楽に対する直接的な傾きを満足させるか、それとも、理性の法に従うことによって、自己を治め、自己の管理を放棄しないという目的を追求し続けるために、そういうことを、きっぱり断念するか、の選択です。自然は、少年少女たちに、彼らが大人の男と女になるために、格別な心理的、霊的努力をしながら成熟に達することを厳しく要求します。
アメリカの新聞の人生相談欄の回答者に、アン・ランダースという女性がいます。セックスの相手にエイズを移されるよりも、マスターベーションを勧める彼女の回答は、長期にわたる人間の生存という観点から見ると、近視眼的である、と言わざるを得ません。彼女は「十代の若者から老人までのすべての人に勧めることのできる安全で、実際的な選択肢としてのマスターベーション」を提唱します。しかしこれは、わたしたちに文明と文化を放棄するよう勧めること、に等しいものです(AP、一九九三年一一月一日)。長期的に見ると、もし、マスターベーションが性の衝動を和らげ、家庭制度を捨ててしまうための実行可能な合法的選択肢として支持されるのであれば、人類はおそらく恐竜にならって絶滅の道をたどるでしょう。

人類が生き残るには、組織された文明文化が必要ですが、これは、家庭生活の中から育っていきます。わたしたちの道徳規範の導き手である理性が支配する本性に従って生きることは、人類生存戦略、つまり、わたしたちの環境の生態学的地位の中でこの地上での存在を継続させる戦略、の本質的要素です。これが、聖トマスが「あるものが、より必要とされるとき、それに関して理性の秩序に従うことが、より多く必要となる」と言ったときに、教えていることであると信じます(神学大全Ⅱ 、Ⅱ 、一五三、三)。理性の秩序は、人工避妊とマスターベーションの禁止を絶対的に必要とします。なぜかといえば、その禁止は、人類の福利と生存のために欠かせないからです。

人工避妊は人工妊娠中絶への滑りやすい下り坂

人工妊娠中絶の爆発的増加が、人工避妊を提唱する運動に引き続くことは、多くの国の統計によっても明らかなように、よく知られた事実です。人工妊娠中絶の疫病の大流行は、ほとんど例外なく、国家的な人工避妊による産児制限運動に引き続いて起きています。膨大な統計資料に基づいて、ベネディクト会員ポール・マルクス神父が指摘します。どの国でも国民に、人工避妊メンタリティーが植え付けられると、国民は必ず、膨大な数の人工妊娠中絶の落とし穴に突き落とされてしまいます(“From Contraception to Abortion”HLl reprint を参照・邦訳あり・「人工避妊から人工妊娠中絶へ」・『フマネ・ヴィテ』研究会)。「人工避妊は火花であり、人工妊娠中絶は、それを発火点とする大爆発です」マルクス神父はロシアとウクライナの厚生大臣たちに、人工妊娠中絶が人工避妊に必然的に伴うことを強調したことを報告しています。

わたしたちは、彼らに、西側では人工避妊薬と人工妊娠中絶促進剤が、膨大な数に上る合法的中絶、若ものたち、家庭、再生産と深い関係がある出生率の破壊に、どのようにつながっていったかを説明しました。唯一の解決は、純潔と女性の体に内蔵される自然にかなった産児調節を含む、真剣な結婚の準備講座だけであることを、わたしたちは彼らに指摘しました」(HIL Special Report,No.106`一九九三年一〇月)。

人工避妊が人工妊娠中絶になってしまう輸理

日本が、人工妊娠中絶を合法化して四五年経過した今日、人工妊娠中絶は、日本の大多数の家庭の悲劇的遺産となってしまいました。「人工避妊の適切な方法の普及と指導」(優生保護法二〇条、一九四八年七月一三日)を目的として優生保護相談所が法的に設立されました。しかしこれは無警戒だった日本を現在きつく締め付けている、人工妊娠中絶のわなの中に誘い込むえさだったのです(「科学」一九九四年五月に掲載された産児制限の記事は、人工避妊薬が四年後の一九五二年でなく、人工妊娠中絶が合法化された一九四八年にその発売が許可されていれば、人工妊娠中絶が急増しなかっただろう、と主張しています。産児制限は人工妊娠中絶でなく、人工避妊に頼ったはずである、というのです。しかし、優生保護法の発布と時を同じくして、政府は人工避妊器具の発売も許可していたのですから、この記事には事実誤認がある、と言わねばなりません。一例を挙げると、人工避妊器具合法化の翌年、一九四九年には八四、○○○、○○○個のコンドームが生産されました。本多龍雄、二九ページ、古屋芳雄、一八ページ参照)。

人工避妊を認めた(一五、二〇条)日本の優生保護法は、人工妊娠中絶も認めます(一四条)。後者は、「妊娠の継続または分娩が、身体的または経済的理由により母胎の健康を著しく害し害する恐れのある」妊娠を、人工的に終結することを、特定の医師に許可する、とうたっています。厚生省の幹部たちが、まず、びっくり仰天したことには、人工妊娠中絶の波は、まるで津波のように、全国を襲ったのでした。人工避妊の失敗は、例外というより、普通であり、人工妊娠中絶が、産児制限の主要な方法になってしまいました。規定通り届けのあった人工妊娠中絶の件数は、一九四九年の二四六、一〇四から一九五三年の一、〇六八、〇六六と、急速に上昇しました。実際の数は、もし公式に届けのなかった分まで含めると、そのうちに、毎年、二、○○○、○○○を超えるようになりました。最近、この数は、年間五〇〇、○○○まで下がっていますが、この数を信じる人はだれもいません。医師たちは習慣的に、所得税を節約するため、また、国の恥になるという理由で、彼らの手術のごく一部分しか報告しません。日本での人工妊娠中絶の実数は、年間約一、○○○、○○○の大台をなかなか下がろうとしない横ばい状態から、最近は、いくらか少なくなってきてはいます。

避妊リングを使用すれば、本当に、日本の人工妊娠中絶は減少するのでしょうか。日本で避妊リングは、決して、他の方法ほど広く使用されたことはありません。毎日新聞が、一九九二年に調査したところによると、家族計画をしている人たちの九%が、一九七三年に避妊リソグを使用していましたが、一九九二年には四・九%に落ちてしまいました。同年度のコンドーム使用者は、七五・三%という数値が出ています。ですから、避妊リングが、日本の人工妊娠中絶間題の解決になるとは思えません。
アメリカ合衆国では、九、○○○人以上の女性がダルコン・シールド避妊リングによって重大な、時としては致命的な損害を受けました。彼女たちの訴訟以来、避妊リングは市場からほとんど消えてしまいました(International Review of Natural Family Planning 一九八四年秋、一八一〜一八八ページ)。子宮内への避妊リング装着は、アメリカの経験が語るように、きわめて残酷な処置です。男性にはまったく危険なしに、女性にこういった辱めを加えることは、女性軽視の男性至上主義と言えないでしょうか。

実際問題として、避妊リングの失敗率が非常に高いことは分かっています。中国では一九八七年三、○○○、○○○件以上の人工妊娠中絶が、避妊リングの失敗のためであった、と報告されています(Studies in Family Planning 一九九三年五/六月、一九五ページ)。ですから、日本の女性が、避妊リングを一般的に使用しないのは賢いことです。

避妊リング、ピル、コンドーム、その他種々の方法の使用者による、計画外の妊娠の統計には極端なばらつきがあります。しかし、典型的なリポートはPopulation Report によるものでしょう。それによると、年間の計画外妊娠は、一〇〇人の女性につき、避妊リング使用者の場合六、ピル使用者の場合三、コンドーム使用者の場合一〇〜一五となっています(一九九〇年九月七ページ)。そして、きわめて頻繁に、これらの避妊方法を使用する人たちの計画外妊娠は、人工妊娠中絶に終わってしまいます。
さらに、避妊リングとピルは、人工妊娠中絶促進剤でもあることも判明しています。ある報告によれば、避妊リングを使用する女性の周期中には、妊娠の可能性が、一人当たり毎年一件の殺人に相当する、一二〜一九%もあるということです(マックリーン、二五ページ)。避妊リングは、これらの新しく身ごもったほとんどの胎児を、それが子宮内壁に着床するのを妨げることによって、死なせてしまう原因になります。ピルを少量服用しても、同様に、習慣的に、毎年、何百万という人工妊娠中絶を誘発させます。ピルの処方は、一般的にごく少量なので、必ずしも排卵を阻止しません。それで、もし受精した場合は、子宮内への着床を妨げる傾向があるので、妊娠が人工的に中絶されてしまうのです。後の章の統計に示されるように、ピルは、毎年、世界で六〇、○○○、○○○人ともいわれる使用者に、何百万という人工妊娠中絶をもたらします。実に、人工避妊は、人工妊娠中絶への特急列車に他なりません。

人工避妊は人工妊娠中絶に移行する…教皇ヨハネ・パウロⅡ 世

教皇ヨハネ・パウロⅡ 世は一九八七年六月一九日、オーストリアの司教たちに謁見しました。その際「そこ(『フマネ・ヴィテ』)でいわれている道徳の規定の有効性に関して、疑いを差し挟んではなりません」と繰り返されました。そして、多くの司教協議会の声明(とんでもない間違いであった一九六八年のオーストリアの司教団の声明も含めて)に反映されたように、一九六八年の時点でのある程度の混乱は理解できても、振り返ってみれば、あの回勅は「信仰の知恵に学ぶもの」であったことを指摘なさいました。教皇は、続けて、並みいる司教たちに、人工避妊と人工妊娠中絶のメンタリティーが、同一のものであるという厳しい警告を発されました。

例えば、人工避妊の推進によって人工妊娠中絶問題を克服しようと望むことなどは、愚かしいことであることが、ますます明白になっています。両性間の関係のいわゆる「無害な」方法であるとして、人工避妊を勧めることは、人間の自由の卑劣な否定に他なりません。それだけでなく、そういうことは、単にせつな的な、性の非人格化された理解を助長します。また、そのような理解から、人は究極的には、人工妊娠中絶に走ってしまい、そこから、人工避妊自体を絶えず奨励するようなメンタリティーが生じます。それだけでなく、既知のことかもしれませんが、最新の(人工的な)方法に頼ると、妊娠から人工妊娠中絶に極端に容易に移行しがちです(英語版週刊オッセルヴァトーレ・ロマーノ、一九八七年七月一三日)。

人工避妊は人工妊娠中絶よりもより小さな悪であるか

教皇が言われるように、人工妊娠中絶の温床になっている人工避妊のメンタリティーとは、どんなものなのでしょう。確かに、人工避妊薬、もしくは、器具の使用者は、赤ちゃんを望みません。計画に反して妊娠したとき、この赤ちゃんは、彼らの計画とスケジュールの邪魔になる外部からの侵入者になってしまうのです。真っ先に思いつくのは、この無抵抗の侵入者を排除してしまうことでしょう。

人工避妊と人工妊娠中絶の関係には、もっと深い理由もありそうです。神のおきての中の一つに背く人は、ある意味では、そのすべてのおきてを破るからです。一つの重大な事柄において神に背くことによって、人は、神との友情から自分を除外してしまいます。大罪は、神ご自身でなく、ある被造物を選択するということです。ひとたびその選択がなされてしまうと、深刻な結果が生じます。この大事な事柄において神に従わずに、知りつつ、また、望んで人工避妊をする人は、その道徳的健全さを喪失しているのです。人工避妊という致死的な階段を飛び降りてしまうと、子どもを殺すことは、もはや選択範囲外のことでなくなります。
ある司祭たちには、人工避妊を、「二つの悪の中のより小さい悪」として容認する傾向があります。しかし、人工避妊自体が、すでに大罪であるときには、人工妊娠中絶という大罪と比較するどんな基礎がある、というのでしょうか。一つの大罪は、もう一つの大罪と同じく、もし罪人が悔い改めないなら、永遠の罰を招きます。「のろわれたものども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」(マタイ二五・四一)。人工妊娠中絶をする代わり犯した人工避妊のために落ちた地獄での「より小さな」火は、決して魅力ある選択ではありません。「より小さな」悪を行うように、という司祭の忠告に耳を傾けた人は、「より小さな」火の中で焼かれながら、この司祭に感謝するでしょうか。

もちろん、人工避妊、人工妊娠中絶をする個々の人が、罪の度合いを軽減する事情のために、または、彼、彼女に反省するための十分な知識と能力がないために、大罪を犯していない可能性はあります。これは、多分、手術による人工妊娠中絶の場合よりも、人工避妊の場合には、もっとあり得ることではあります。母親、医師、まわりの同意による熟慮の上でなされる子どもの殺害は、人工避妊の行為より、さらに劇的、強烈な悪とのかかわりです。その証拠に、以下の事実を挙げることができます。多くの夫婦は、おそらく間違った良心に基づいて人工避妊をしてはいても、計画外の妊娠を受け入れ、人工妊娠中絶に走ることなくその子どもを生み、育てる喜びを体験します。このような経験が示すのは、人工避妊の場合、実に、正真正銘の悪とのかかわりが、人工妊娠中絶がそうであるよりは、深刻でないことを示しています。しかし、危険は常に背景にあって、そういう人たちをねらっています。人工避妊をする人は、その計画が失敗すると、簡単に人工妊娠中絶をしてしまいます。一九九二年の毎日の調査では、一〇二と一〇八ページに、例えば、すでに四回以上中絶の経験がある女性の八三・三%は人工避妊が失敗した場合、人工妊娠中絶に賛成すると答えています。

しかし、人工妊娠中絶の場合でさえも、確かに、経験がない多くの女性は、それが、どれほどの悪であるかを考えないで、同意してしまうケースが多いとは思います。なぜかといえば、世論がもたらした打ち勝つことのできない無知の中にあって、彼女たちの考え方が世論という拘束ジャケツの中に押し込められているからです。神は、放蕩息子の場合と同様に、忍耐強く、彼女たちが経験の中から学んで、賢くなり、立ち上がって、家に帰って来るのを待たれます。
毎年、五〇、○○○、○○○の人工妊娠中絶が、全世界で行われている、といわれますが、これは、正に、人工避妊という怪物が人工妊娠中絶という怪物にえさを与えるようなものだ、といえましょう。人工妊娠中絶と戦うためには、まず、人工避妊と、次いで、人口過剰の神話と戦う必要があり、また、自然にかなった家族計画の使徒職にかかわっていくことが肝要です。しかし、これらの主題については、別の章で詳しく見ることにしましょう。
厚生省は、治療の目的以外には、ピルを禁止しています。両親たちの選択で、生々しい性教育は学校で教えられていません。多子家庭が復活の兆しを見せ始め、自然にかなった家族計画の採用に興味を示す若い夫婦が、ますます増え始めています。最近のこのような日本の事情を概観して、この章を閉じることにしましょう。

日本はピルの合法化を拒絶し・自然にかなった家族計画を歓迎します

これこそ人工妊娠中絶防止の決め手である、と主張して、日本でもピルの市場導入を合法化しようとした人々は、国民の説得に失敗しました。日本では、両親たちが、これまでのところ、学校から生々しい性教育を、大体において、閉め出していますが、同じ両親たちは、賢明にも、ピルが市場に出回れば、若い人たちを不道徳に走らせるだろう、と考えたのです。最近のことですが、ピルを日本で解禁しようとする動きが、再度ありましたが、それも失敗に終わりました。

厚生省は、一九六〇年代の初め、日本では人工避妊ピルの使用を合法化しない決定をしました。その陰には、当時、政府に強い影響力があった、厚生省顧問の古屋芳雄博士の忠告がありました。博士は、当時の日本家族計画連盟の会長でもありました。わたしは、折に触れ、古屋博士を一人の友人として訪ねたものでした。そして、その都度、シカゴ市オークパークの公衆保健担当官ハーバート・ラトナー博士が提供した、資料の山を持参したものです。多分、まだ初期のそのころ、世界中のどこを探しても、ラトナー博士ほど、ピルの評判を落とした医師はいなかっただろう、と思われます。古屋博士は、他の理由があったかもしれませんが、政府の役人たちを強力に説得して、日本での産児調節ピル使用の合法化をくい止めました。彼と、その他のピルの反対者たちは、ピルが使用者本人だけでなく、その子ども、孫にまでもたらす健康障害について話したものです。彼らの反対は、実を結び、ピルを禁止する政府の決定は、いまに至るまで有効です。

日本は、それでも、まだ、絶望する必要はありません。少子家庭は…例えば、子どもが一人、まったくなし、または結婚すら考えない、などと…ますます小さくなりつつはありますが、多子家庭が、無いわけではありません。子どもたちの二〇%は、すでに二人以上の子どもがいる家庭に生まれてきます。一九八九年に二四一、一九三人の赤ちゃんたちを家で待ち構えていたのは、少くとも二人、または、それ以上のお兄ちゃんとお姉ちゃんたちでした。人口学的現実のゆっくりした旋回によって、多子家庭が、少子家庭より多数派になる傾向が見られます。彼らこそ、国を相続する人たちです。大家族の中で育った子どもたちは、人間と家庭生活に、企業が与えることのできない喜びを見いだします。彼らの、生命に対する健康で積極的な態度は、国の宝です。

最近、日本ではかなりの数の夫婦が、周期の中の妊娠可能日を知るために、体温法に頼っています。その期間コンドームを使用する人たちもいますが、他の人々は、その期間、禁欲しています。一九九〇年の毎日新聞の調査では、家族計画を実施している二〇〜二九歳の女性の一五・五%が体温法に頼っている、ということです。大学卒の女性であれば、この率は一六・五%になります。最近の記憶装置プリンター機能付き電子婦人体温計によると、簡単に妊娠可能日と、出産予定日までも知ることができます(商品名はLソフィア)。願わくば、日本が、人工避妊・人工妊娠中絶メンタリティーからいやされますように。そして、同じことを、他の諸国のためにも祈ります。

あるカトリック産婦人科医のプロフィール

人工避妊を処方しない産婦人科医は、珍しいといわれますが、ここにその一人を紹介しましょう。OUR SUNDAY VISITOR (1995.5.14)からの引用です。筆者・マーク・サリバン。

カトリック信徒にとって、今日、最大の問題は何でしょうか。こう聞かれて、真っ先に頭に浮かぶのは人工妊娠中絶とか、家庭の崩壊ではないかと思います。ところが、キム・ハーディー博士によると、それは大違い。正解は、人工避妊なのです。博士の説によると、そもそも、人工避妊が、離婚とか人工妊娠中絶問題等の根本にあるのです。人工避妊について、ハーディー博士は、詳しく知っているといえましょう。博士は、全米に4万人いるといわれる産婦人科医の中で、道徳的な見地から、人工避妊を処方しない数少ない医師の一人だからです。しかし、彼も、始めからそのような立場に徹していたわけではありませんでした。

人工避妊を患者に処方したり、自分でも実行したりすることによって、自分がカトリックの信仰にふさわしくない生き方をしていたことに気づいたのは、九歳になる息子、ブラッドの悲劇的な死に直面したときのことでした。そのとき以来、博士は、カトリック道徳の中心的教義を無視するぐらいなら、自分の経歴に傷が付いた方がいいとさえ思うようになりました。

「ブラッドが死んでしまう前、わたしは、外面的には、文句の付けようのない良いカトリック信者でした。わたしたちの家族は、ある年など、模範的カトリック信者の家庭として教区の新聞に紹介されたこともありました。小教区評議会の代表でしたし、聖体奉仕者、朗読奉仕者、教区財務委員会のメンバーでもありました。家内とわたしは教会の教えに百%従っていました…人工避妊に関する教え以外なら…」最近のインタビューに答えて、博士はこう語っています。愛息ブラッドは学校行事の遠足中、車にはねられて、死んだのです。その後、父親である博士は、自分の生き方について反省し始めました。「こういうことが、わたしに起こることをお許しになった神様にとって、何か、わたしの生き方の中で気に入らないことがあったのだろうか」博士は、こう自問し続けたものだと打ち明けてくれました。そして、自分と神様の間にある最大の障壁が、人工避妊であることに気づいたのです。奥さんのボニーも、人工避妊のことで悩んではいましたが、夫が、患者に人工避妊の処方を出しているのだから、彼には自分がしていることの意味が、分かっているのだろうと思っていました。

しかし、博士が「再回心」したその日、ハーディー一夫妻は、人工避妊を止めました。博士は、それ以来、患者にさえも、人工避妊の処方をしたことがありません。診療所も、アラバマ州ドータムからルイジアナ州ラファイエットに移しました。そこなら、「カトリック産婦人科医」を支持してくれる十分なカトリック信徒の患者を確保できると信じたからです。今のところ、ハーディー博士の賭は、成功したかのように見えます。「人工妊娠中絶、人工避妊を容認する医師が、どこかの町に新しい診療所をつくるときと、大体同じ数の患者が確保できているのではないかと思います」と博士は、語ってくれました。家族計画に関する教会の教えがもっと広く知られ、もっと喜んで受け入れられるようにすること、博士は、これこそ、自分に与えられた使命であると信じています。しかし、博士は、自分以外のカトリック産婦人科医たちにとっても、自分が、良い模範でありたいと願っています。特に、教会の教えに忠実であることが、決して患者の減少につながらないことを証明したいと考えているのです。

現代、カトリック信徒の間でも人工避妊は、決して珍しいことでなくなりました。神に背くことの重大さの感覚が、稀薄になってしまい、人々はそれをもはや罪であると思わなくなったと博士は嘆きます。「人工避妊を実行するカトリック信者は、それが自分たちの寝室の中だけの出来事であると見ています。他の人たちと関係があるとは、決して思いません。しかし、実は、大いに関係があるのです」と博士は強調します。ハーディー博士によると、夫婦の人工避妊は、まず、自分たちの子供たちに、さらには、社会に、連鎖反応を及ばします。

「教会の教えに忠実であることは、子供たちに、自己抑制の模範を示すことになります。子供たちにも、自分たちが結婚するまで、越えてはならない一線があることを教えるとき、自分たちをコントロールすることを求めているわけです」と博士は言います。また、それは、たとえ、犠牲を伴ったとしても、教会の権威に対して従順であることの貴重な模範を、子供たちに与えます。この点に関して教会の教えに従わないことは、教会の他の教え、例えば、不倫、婚前セックスに関する教えであっても無視していいと思わせることにつながる、博士はこのように推論します。「教会の教えに従うことは、カトリックの信仰、自分の救霊を、あなたが真剣に受け止めていることを意味します。なぜなら、そうするとき、あなたは、今、この世で、キリストの教会に従順であるからです」と博士は、言います。

人工避妊についての教会の教えは、あまり皆の興味を引きません。だから、博士は、教会内のいろいろなグループに話すとき、産児制限が社会に及ぼした結果を、話の糸口にします。博士は、人工避妊と離婚の間にある強い相関関係について話します。産児制限に関して、教会の教えに忠実であるカトリック信者の離婚率は、5%以下です。この数字は、自然にかなった家族計画運動を推進しているカップル・トウ・カップル・リーグの統計によります。同じ統計によると、人工避妊をするカトリック信者の場合、離婚率は、信者でない場合と同じく、約五〇%です。博士の説によると、全人工妊娠中絶の八〇%は、人工避妊の失敗の結果であるというのです。未婚者間のセックスが、今や「普通の」出来事になってしまいました。そして、その結果が、性病の急増、デイト・レイプ、「女性の対象化」であると、博士は説きます。そして、これらすべては、人工避妊をしている人たちが大罪の状態に陥ってしまうということを勘定に入れていません。自分たちが大罪の状態にあることを知っていれば、その罪を告白するまで、ご聖体拝領が許可されません。大罪の状態のまま、ご聖体拝領するとき、人は、さらに大罪を重ねることになると、博士は強調します。

ハーディー博士はこう言います。「人工避妊はあなたを自分中心の人にしてしまいます。それは、まさに、キリストの弟子であることに、真っ向から反する特徴ではありませんか。それは、自己抑制の徳を発達させることがありません。この徳があって初めて、より良い結婚が可能になります。また、自分の置かれた場で、神の力をより力強くあかしすることもできるようになります」人工避妊がそれほど重大な罪であるなら、そして、これほど多くの家庭に入り込んでしまっているのなら、なぜ、司祭たちは、説教台からそのことについて、話そうとしないのでしょうか。博士の答えは次の通りです。「司祭たちは、このような状況になるのを今まで見過ごしてきました。彼らは、人々が自分たちの思い通りにすることを、もう止めさせることができないと思いこんでしまっています。人々は、人工避妊が、そう大したことではないと考えます。しかし、まさに、それは一大問題に他なりません。なぜなら、人工避妊はわたしたちの生活の実に多くの分野とかかわっているからです」

司祭たちは、もし、ある夫婦が人工避妊をする許可を願えば、もちろん、とんでもないと答えるはずです。しかし、博士によると、司祭たちは、この問題で、人々との対決を避けているように見えます。教会から信者を遠ざけてしまうのではないかとの恐れが、その理由であると、博士は考えています。常識に従えば、夫婦がミサに参加しているのであれば、神は彼らの生活に、ある程度、影響を与えておられ、その内に、彼らも、カトリックの教えを十全に理解する日が来るであろう、というのです。しかし、多くの人々にとって、ミサに出席することが自分たちの受ける唯一の養成の機会なのです。ですから、もし、ミサの間に、人工避妊について聴くことがなければ、どこでそのような教育を受けることができるというのでしょう。不幸なことに、ある人たちは、人工避妊が間違っていることすら知りません。それどころか、ある人たちは、教会が人工避妊についての教えを変更することを待ち望んでいたりさえするのです。それが、まったくの無駄であることなど考えつきもしません。

ハーディー一博士は、人々が、長いこと、真理から離れて暮らしてきているので、その仕事の難しさについては、よく承知しています。「優しく、しかも、うむことなく、人々をキリストへの道に連れ戻すことが大事です」と博士は言っています。人々が博士に、自然にかなった家族計画について質問すると、博士は、決まって、間隔を置いて子供を産む必要があるのなら、それは役立つ、と答えます。

カトリック教会は、罪人の教会です。ですから、少なくとも、結婚生活のある期間、人工避妊をしなかった夫婦は珍しいのかも知れません。この点に関して、博士は「何年間も、わたしは自分が正しいことをしていると信じ続けてきました。夫婦に人工避妊の処方をするとき、自分が本当に、人助けをしていると思っていたものです。わたしのあの間違いについては、自分が盲目であったとしか、言えません。どう考えても、教会は正しいのです。世界を良くしたいのなら、あなたも何か劇的なことをしなければなりません。そして、それは夫婦一組一組に起こる出来事です。わたしたちは、神様が、わたしたちに与えて下さった恵みに目を開かなければなりません」と言います。(以上はOur Snnday Visitor からの引用)

「人工避妊は愛を滅ぼし、極めて容易に人工妊娠中絶に導く」マザー・テレサ

この章を締めくくるに当たって、マザー・テレサの忘れられない言葉を引用しましょう。彼女は、人工避妊は、初めにあった愛を滅ばしてしまい、すぐに、人工妊娠中絶になってしまうと言っています。一九九四年二月四日、彼女は、ワシントンDCでの全国朝祷会で話すよう依頼されました。彼女のスピーチが終わると、出席していた三、○○○人の上下院議員、百ケ国からの外交官、報道関係者たちは、立ち上がって、あらしのような拍手で彼女に賛意を示したものです。クリントン大統領とヒラリー夫人、ゴア副大統領夫妻は、困惑の表情を見せていた、と伝えられます。

夫婦が家族を計画しなければならないことは、わたしも承知しています。しかし、そのためには自然にかなった家族計画があります。家族を計画するのならこれこそ正しい道であって、人工避妊なんかではありません。人工避妊によって、生命を与える力を破壊するとき、夫もしくは妻は、相手でなく自分自身を愛しています。これは自分自身に関心を向けることであり、相手への愛の贈り物を打ち壊すことです。愛するとき、夫婦は、お互いに関心を向けるべきではありませんか。人工避妊をしているときのように、自分自身に関心を向けるのではなく、自然にかなった受胎調節は、相手に関心を向けることを可能にしてくれます。人工避妊によって、その生きた愛が破壊されてしまうとき、簡単に人工妊娠中絶したくなります(例えばThe Catholic World Report 一九九四年四月号参照)。