教皇ピオ十一世回勅
「ミゼレンティシムス・レデンプトール」

一、問題の提起

 あわれみ深い救い主は、十字架によって人類の救いを成し遂げた後、この世を去り、おん父のみもとにおのぼりになるに先だって、悲しむ使徒や弟子たちを慰め、「さて、わたくしは世の終わりまで常にあなたたちとともにいる」(マテオ28・30)と仰せになりました。

 この、実に喜ばしいみことばこそ、すべての希望と平安の源であります。わたくしは見張り台とも言えるこの聖座から、多くの悪や苦難に苦しんでいる全人間社会と、さまざまの攻撃や陰謀によって絶えず圧迫されている教会をながめるたびごとに、おのずと、あのみことばを思い出すのであります。この神のおん約束は、初め、落胆していた使徒たちの心を励まし、そして、福音の種を全世界にまく熱情に燃え立たせたように、地獄の門にうち勝つために教会を力づけたのであります。確かに、主イエズス・キリストは、常に、ご自分の教会を助けてくださいました。そして、特に、重大な危険や不利な事態に陥ったときに、「果てから果てまで力を及ぼし、すべてのものを慈悲深く計ろう」(知書8・1)神のおん知恵により、その時と事情に適した救済法を用いて、教会に援助と保護をお与えくださったのであります。

 しかし、近代、特に、誤った教えが忍び込み、あまりにも広まった結束、神との愛とその交わりから人々が取り去られ、ある程度、キリスト教的生活の源泉を枯らすのではないかと案じられるときにも、「主のみ手が短くなった」(イザヤ59・1)ことはありませんでした。

 至愛なるイエズスがマルガリタ・マリア・アラコクにご出現になったときのお嘆きと、人々の益のため、人々に期待なさった事がらを、ある人たちは、おそらくまだ何も知らず、また他のある人たちは無視しておりますでしょう。それで、わたくしは、至聖なるイエズスのみ心に対するわたくしたちの義務である償いの務めについて、少しお話しいたしたいのであります。そして、敬愛する司教の皆さまが牧しておられる信者たちに、わたくしが伝達したすべてのことを熱心に教え、またこれを実行するよう激励してください。

 信者たちの愛が冷えてきたとき、「知恵と知識のすべての宝が隠されている」(コロサイ2・3)イエズスのみ心の信心により、神の愛そのものが特別な崇敬の対象となり、その豊かな善性が広く明らかにされたことは、あがない主の限りない寛大さの特に顕著な印であります。

 神は、人類がノエの箱舟から、「雲の間に現われた虹」(創世紀9・13)を和約の印として輝かせたように、混乱と動揺のさ中にある近代に、あわれみ深いイエズスは、戦いにおける確実な勝利を予告する平和と愛の旗印のごとく、その至聖なるみ心を諸国民に高く掲げ示してくださったのであります。その混迷の時期は、神を父として愛すべきではなく、きわめてきびしい審判者として恐れおののかねばならないと考える、神の愛と仁慈に反する、あらゆる異端の中でももっとも悪質なヤンセニズムがはいってきた時代であります。

 したがって、わたくしの前任者レオ十三世は、その回勅「アンヌム・サクルム」の中で、み心の信心が時機に適していることを賛嘆され、ためらうことなく次のように書かれたのであります。「教会が、創立してのちまだ間もないころ、皇帝の重圧のもとに苦しんでいた時のこと、若い皇帝に対して、十字架が空高く現われたことがありましたが、これは、やがて教会がかちうる著るしい勝利の前兆であり、原因でもありました。今日、わたくしたちの眼前に示された、別の神聖な、また、もっとも幸いな前兆をごらんなさい。それは至聖なるイエズスのみ心であり、十字架を上にいただき、炎の中にあって、比類のない輝きを放っています。わたくしたちはその中にすべての希望を置かなければなりません。また、そこから人々の救いを求め、期待すべきであります」。

 この幸いな印、また、そこから生じたこの信心の中には、あらゆる礼拝方法と完全な生活への規範が含まれているのです。それは、容易に、いっそう深く主キリストを知るよう人々を導き、そのうえ、熱誠を込めて主を愛し、より正確に模倣するよう人々の心を強く動かすものであります。したがって、歴代の諸教皇がこのきわめてりっぱな信心を、その時と事情に応じて、常に、反対者たちの中傷から守ったり、口をきわめて賞賛し、熱心な努力を払ってこれを促進したことは、少しも不思議なことではありません。至聖なるイエズスのみ心に対する敬けんな熱意が日に日に増大していくのは、み旨によって行なわれることなのであります。それで、み心の信心を促すために、いたるところに愛に燃え立つ団休が作られ、また、イエズス・キリストのお望みによって、毎月の初金曜日に聖体を拝領するという習慣も現在あらゆる所で行なわれております。

二、神学上の説明

1 奉献

 しかし、み心の信心の特徴の中で、確かにきわだってすぐれているものは例の奉献であります。これによって、わたくしたちは、自己とその所有するすべてのものを神の永遠の愛に帰して、イエズスのみ心にささげます。わたくしたちの救い主は、人々がこの奉献の務めを果たすことをご自分の権利としてよりも、むしろ、わたくしたちに対する限りない愛に動かされて、切望なさいましたので、それを清い心のマルガリタ・マリアにお教えになりました。マルガリタ・マリアは、その霊的指導司祭クロード・ド・ラ・コロンビエール師とともに、最初にこの奉献を実現しました。そして、時がたつにつれ、人々が個別的に、あるいは家庭や団体が、そして、さらに為政者や都市や国家などがこれに続いて奉献を行なったのであります。

 ところで、前世紀および今世紀に、不信仰な人々の策謀によって、神法や自然法に反対する法律が定められたり、人民の決議が行なわれたり、また、「わたくしたちはかれが王になるのを望まない」(ルカ19・14)と叫ぶ人々の会議が開かれたりして、その結果、主キリストの支呪権が拒まれ、教会に対し、公然と戦いがいどまれたのであります。これに対してみ心を愛する人たちは、キリストの光栄を守りキリストの権利を主張するため、前述の奉献によって、声を合わせて、「キリストは支配すべきである、(コリント前15・25)み国のきたらんことを」と叫んだのであります。その結果、今他紀の初頭に、レオ十三世によって、キリスト教世界の歓呼のうちに、「すべてのものをそのご一身に集め」(エフエゾ1・10)全人類に対して生得的な権利をお持ちになるキリストのみ心に全人類が奉献されたのであります。

 わたくしが回勅「クワス・プリマス」で述べたように、非常に多数の司教や信者たちが長い間、懇望していたことを、わたくしは神のおん導きにささえられて承認し、この償いの年の終わりにあたって、全世界の王であるキリストの祝日を、全キリスト教世界において荘厳に祝うべきことを定めました。こうすることによって、わたくしは、すべての事物、また社会、国家、家庭、個人に対してキリストが最高の主権を有しておられることを明らかにしただけでなく、全世界が心から喜んで王たるキリストのいとも甘美な支配に服従する、あのもっともめでたい日の喜びを前もって、もはや受けたのであります。

 それと同時に、わたくしは、この奉献の成果がいっそう確実に、また、いっそう豊かに生ずるよう、そしてすべての国民が王の王、主の主であるキリストのみ心の中に、キリスト教的愛と平和のきずなによって一つに結びつくよう、新たに制定した王たるキリストの祝日に、毎年この奉献が更新されることを規定いたしました。

2 償い

a 償いの必要性

 しかし、これらすべての信心の務め、特に王たるキリストを祝う聖なる儀式によって、確認されたかくも実り豊かな奉献に関して、つけ加えておかなければならないことがあります。それについて、もう少し詳しくここでお話しいたしたいと思います。それは、イエズスのみ心に誠実な償いの務めをなすことであります。奉献において第一に重要なことは、創造主の愛に対して被造物の愛が返されることでありますが、それにはおのずからもう一つのことが伴っております。それは神の愛が、忘恩によって無視されたり、侮辱によって傷つけられたりした場合、これらのいかなる不正に対しても賠償をしなければならないということであり、このような義務を普通、償いという名で呼んでおります。

 奉献も償いも全く同じ理由に基づいて勧められるのではありますが、わたくしたちは償いの務めによっていっそう力強く正義と愛に結びつけられるのであります。正義の本分は、わたくしたちの罪によって神に加えた侮辱を倣うこと、また、傷つけられた秩序を痛悔によって回復することであります。愛の本分は、苦しみを受け、「恥ずかしめにあかされたもうキリスト」に同情し、わたくしたちの小さな力相応に、多少なりともキリストを慰めることなのであります。すなわち、わたくしたちは皆、かずかずの罪の重荷に押しつぶされている罪人なのでありますから、神の無上の権能を、ふさわしい奉仕をもってあがめ、神の最上の主権を祈願によって認め、その限りない寛大さを感謝し、賛美するなどの礼拝行為をもって、神を尊敬しなければなりません。それだけでなく、さらに正義に基づいて人々を処罰する神に対し、わたくしたちの「数知れぬ罪と侮辱と怠りとのために」(ミサ典礼、奉献の祈り)償いをすることが特に必要であります。ですからわたくしたちは、奉献によって神にささげられ、聖トマスが教えているように、(神学大全Ⅱ ・Ⅱ ・q・81・a・8c)奉献のもつ固有の聖性と堅固さによって、神にささげられる者と呼ばれますが、これに、罪を全く消してしまう償いがつけ加えられなければなりません。それがなければ、無限な神の聖なる正義は、ふさわしくないわたくしたちを拒み、わたくしたちの奉献を望ましいものとして受け入れず、かえって、いとわしいものとして遠ざけるでありましょう。

 この償いの務めは全人類に課せられているものなのであります。というのは、キリスト教の信仰がわたくしたちに教えているごとく、アダムの不幸な転落以後、人類は原罪の汚れに染まり、情欲のとりことなり、悪化し、永遠の破滅に落とされるべきであるからです。これこそ、現代のごう慢な人々が、昔のペラギウスの誤りに従がって否定するところなのであります。この人たちは、人間の本性は生まれながら善徳を有し、自力で、より高く絶えず進歩していると誇っているのであります。しかし、使徒パウロは、この人間の高慢な心の思いを排斥し、「われわれは本来は怒りの子であった」(エフエゾ2・3)と教えております。確かに人間は初めから、この一般の償いの義務をある程度認め、自然的傾向に導かれ、公にも犠牲を供えて、神をなだめたてまつろうと努めていたのであります。

b キリストとともなる償い

 しかしながら、神のおん子が贖罪のために人性をおとりにならない限り、人間のいかなる自然的力をもっても罪をあがなうことはできないのであります。これを人類の救い主ご自身が聖なる詩篇作者の口を通じて、告げてくださいました。「あなたは、いけにえも供え物も望まれない。ただわたくしのためにからだを準備された。あなたははん祭と罪祭とを喜ばれなかった。それでわたくしは言った。わたくしは来る、と。」(ヘブレオ・10・5−7=詩篇40・7−9)そして、このため「まことにかれはわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。かれはわれわれのとがのために傷つけられ」(イザヤ53・4-5)、ついに、「かれご自身、そのおんからだにわれわれの非を背負って木にかけられた」(ペトロ前2・24)。こうして、「われわれを責め、われわれに反するいましめの書を消し、それを取り去って十字架につけた」(コロサイ2・14)。「それは、われわれが罪に死に、正義に生きるためである」(ペトロ前2・24)。

 しかし、わたくしたちにとって、豊かなキリストの贖罪があふれるほど「すべての罪をゆるす」(コロサイ2・13)にしても、「キリストが罪人たちの名において神におささげになった」賛美と償いに、わたくしたちの賛美と償いを合わせることができ、また、そうしなければならないのであります。これは、わたくしたちが、神のおん知恵の驚くべき配慮に従って、キリストのからだである教会のために、わたくしたちのからだをもって、キリストのおん苦しみの欠けたところを満たさなければならないからであります」(コロサイ1・24)。

 しかし、わたくしたちの償いの価値は、常に、キリストの流血の犠牲にまったく依存するものであり、このキリストの犠牲は絶えることなく、わたくしたちの祭壇で、無血の方法をもって更新されているのであることを忘れてはなりません。なぜなら、「いけにえは唯一であり、現在もそれを司祭たちを通じてささげるものは、ご自身を十字架上にささげたおん者とまったく同一であって、ささげる方法だけが違っている」からであります。(トリエント公会議録S・22・C・2)。それで、ミサ聖祭の司式者たちも、これにあずかる信者たちも、「神によみせられる、生きた聖なるいけにえ」(ロマ12・1)となるよう、このいたって神聖な聖体の聖祭に、自分の犠牲を結び合わさなければなりません。

 さらに聖チプリアヌスは、「もし、わたくしたちの奉献と犠牲が主のご受難にこたえるものとなっていないなら、わたくしたちはミサ聖祭を正しく奉献していないのである」と、(書簡集63・381)はっきり断言しております。それで、聖パウロも次のようにわたくしたちをいましめております。「イエズスの死の跡をわれわれのからだに帯び(コリント後4・10)、キリストと一体になってその死にあやかり、葬られたわたくしたち(ロマ6・4〜5参照)、は悪徳や情欲とともに自分の肉を十字架につけ(ガラチア5・24参照)、「欲情が世の中に生んだ腐敗からのがれ」(ベトロ後1・4)るのみでなく、「イエズスの生命が、われわれのからだに現われるように」(コリント後4・10)、努め、また、キリストの永遠の司祭職に参与する者となり、「罪をあがなう供え物といけにえとを」(ヘプレオ5・1)ささげなければなりません。

 この神秘な司祭職に参与し、償いと犠牲をささげる務めに参与できるのは、ただわたくしたちの大司祭イエズス・キリストが、「日の出る所から日の没する所までいずこにおいても、きよいささげ物を神のみ名のためにささげる」(マラキア1・11)べき、役者としてたてられた司祭たちだけではありません。使徒たちのかしらから正当に「選ばれた民族、王の司祭職」(ベトロ前2・5)と呼ばれたキリスト信者全体も、あたかも、すべての司教、司祭らが、「人間のうちから選ばれ、神に関することについて、人間のために任命されている」(ヘブレオ5・1)のとほぼ同じように、自分たちのため、全人類のため、もろもろの罪に対し、償いをなし、犠牲をささげなくてはなりません。

 わたくしたちの捧げ物と犠牲が、キリストの犠牲により完全にこたえ奉るものであればあるほど、すなわち、自己愛と情欲とを犠牲にし、使徒の言う、神秘的くぎづけによって、自分の肉を十字架につければつけるほど、自分と他人とのために、和解と償いの実を豊かに受けるのであります。なぜなら、すべての信者たちとキリストとの間には、ちょうど、頭と、他のからだの部分とのような驚くほど密接な関係があるからです。そしてまた、カトリックの信仰が公言していますように、神秘的な諸聖人の通功によって、個人、国民同志が相互のみでなく、キリストにも結びつけられております。すなわち、「かしらであるキリストによって、全身はすべての節々の助けで強くなり、結びつき、おのおのの肢体に応じる働きによってそのからだは成長し、愛徳において自分自身をつくる」(エフエゾ4・15〜16)ためであります。そして、神と人との仲介者であるキリスト・イエズスが、そのご死去の前夜、おん父に願い求めてくださったのは、まさに「わたくしはかれらの中にあり、あなたはわたくしのうちにおいでになります。かれらが完全に一つになるように」(ヨハネ17・23)ということであります。

c み心の信心と償いとの関係

 したがって、奉献がキリストとの一致を現わし、確証するのと同様に、償いは、罪をぬぐい去ることにおいて、キリストとの一致の始まりであり、キリストのご苦難にあずかることにより一致を完成し、兄弟たちのため犠牲をささげることを通し、一致を成し遂げるのであります。

 キリストが受難と愛の焔を表わすみ心をわたくしたちに顕示しようとされたのは、全く、慈悲深いイエズスのご計画にほかなりません。つまり、それは、わたくしたちが罪の限りない感性に目を向けると同時に、あがない主の限りない愛を賛歎して、罪をいっそう強くいみきらい、ますます熱心に愛に対し愛を返すためなのであります。

 実際、償いの精神は、イエズスのみ心に対する信心の中で、常に第一のすぐれた役目を有しております。歴史と慣例、典礼や諸教皇の教書などが確証しているように、その精神以上に、この信心の起源や性質、特徴、あるいは信心業に、よく適合しているものはありません。

 キリストは、マルガリタ・マリアにご出現になったとき、ご自分の愛が無限に深いことを仰せになるとともに、悲しそうなご様子で、恩知らずな人々からどれほど多くの不義不正がご自分に加えられているかということを嘆き訴えられたのであります。この嘆きのみことばこそ、信者の心の中に深くしみ入り、決して忘れ去られるべきではありません。「この心を見なさい。これほど人々を愛し、あらゆる恵みを与え続けてきたのに、その限りない愛に対して感謝する心を見いださないばかりでなく、かえって、忘恩、侮辱、無関心などをもって報いられるのである。しかも、わたくしを特に愛さなければならない者たちからすら、たびたびそうされるのである」。

 このような罪をぬぐい去るために適した多くの信心業の中で、特に、ご自分の心にもっともかなった方法として、イエズスは次のことを奨励なさいました。それは、人々が罪を償う精神をもって聖体拝領をすること、それを「償いの聖体拝領」と呼びます。また、まる一時間続けて償いの祈りをささげること、これは「聖時間」というまことにふさわしい名で呼ばれています。以上の二つの信心業を教会は認可しているばかりではなく、さらに、多くの免償を賦与しているのであります。

d み心にささげられる償いの意味

 しかし、このような償いの行為が、天国で、永福の王位についておられるキリストを、どうしてお慰めするようなことになるのでしょうかとの問いに対し、聖アウグスチヌスのまことに適切なことばを引用し、「愛している人は、このような話をよく理解します。」(ヨハネ福音書注解24・4)と答えるのであります。

 神を深く愛している人はだれでも、過去をかえりみて、人々のため労苦し、悲しみ嘆き、もっとも激しい苦難さえ耐え忍ばれ、「わたくしたち人間のため、わたくしたちの救いのために」(使徒信経)悲哀と苦悩と侮辱にほとんど打ちのめされ、「わたくしたちの罪悪のために砕かれ」(イザヤ53・5)その打ち傷によってわたくしたちをいやしてくださった(ペトロ前2・24参照)キリストを、黙想のうちにながめ、観想するのであります。

 そして、人間の罪と悪業は、いつ、どんな時に犯されたものであっても、神のおん子を死に渡す原因となったのでありますから、これらすべてのことを正しくはっきりと信者は黙想しなければなりません。この罪は、今なお、キリストに苦痛と悲哀と死をもたらす力があると言えましょう。というのは、ある意味で、ひとりひとりの罪が、主のご受難を新たにしていると考えられるからです。つまり、罪を犯す人は、「みずから神の子を十字架にふたたびくぎづけて愚弄する者」(ヘブレオ6・6)となるのであります。

 したがって、将来、わたくしたちが犯す罪を予見なさったキリストの魂が死ぬばかりに悲しまれた(マテオ26・38参照)のであるならば、疲労ともだえにおしひしがれたイエズスのみ心を慰めるため「天からの天使が現われた」(ルカ22・43)とき、今わたくしたちがする償いを、予見なさって、多少なりとも慰めをお感じになったことは、疑いありません。

 ですから、忘恩な人々の罪により、絶えず傷つけられているみ心を、神秘的ではありますが真実な意味で、現在においても慰めることができますし、また慰めなければならないのであります。そういうわけで、ミサ典礼の中で読まれるごとくにキリストは詩編作者の口を通じて、ご自分がその友人たちからも見捨てられていることを嘆き訴えておられるのです。「わたくしの心は、侮りと悩みとしか期待できなかった。わたくしはだれかが、ともに苦しんでくれると期待していた。しかし、だれもいなかった。わたくしは人から慰められるのを待っていたが、慰めてくれる者はひとりもなかった。」(イエズスのみ心の大祝日のミサ奉献文=詩篇63・21)

 そのうえ、キリストの贖罪の苦しみはこの神秘体である教会において、ある形で繰り返され、継続され、完成されているのです。それゆえ、もう一度、聖アウグスチヌスのことばで言うなら、「キリストは、ご自分が受けるべき苦しみはすべてお受けになり、完了されたのであります。しかし、それは、神秘体のかしらにおいてだけ完了されたのであって、からだにおけるキリストのご受難は、なおまだ、残されているのであります」。主イエズスご自身、サウロが「主の弟子たちに対して、なおも威かくと殺害の気に満ちていた」 (使徒行録9・1)とき、「わたくしは、あなたが迫害しているイエズスである」 (同9・5) と仰せになって、教会に対してなされる迫害が、神である教会のかしらを攻撃し、苦しめることをはっきり示されたのです。このようなわけで、その神秘休を通じて、今なお苦しまれているキリストは、あたりまえのこととして、わたくしたちをその贖罪において友とすることを熱望なさっておいでになります。しかも、キリストとわたくしたちとの結びつきはそれを要求します。わたくしたちは「キリストのからだであって、各人はその一つの肢休」(コリント前12・27)でありますから、かしらが苦しめば、すべての肢体も、かしらとともに苦しむのが当然であります。(コリント前12・26参照)

e 現代の償いの必要性

 最初に述べたように、「悪者の配下にある」(ヨハネ一書5・19)この世をながめ、熟慮する人々は、このような償いの必要性が、特に現代において、どれほどさし迫った問題であるかとかならず悟るでありましょう。実際、いたるところから、諸国民の嘆きの叫びがわたくしのもとに届きますが、かれらの支配者たちは、主と主の教会に逆らっているのであります。(詩篇2・2参照)このような国家では、神の権利と人の権利は混同されているのです。聖堂は破壊され、修道士や修道女は修道院から追い出され、そしり、乱暴、飢え、投獄などの苦しみを受けております。青少年は、母たる教会のふところから奪い去られ、キリストを否み、冒涜をなし、よこしまな堕満にいざなわれております。なお、キリスト教徒は激しい試練を受け、追い散らされ、信仰を捨てるか、あるいは、死または残酷な虐待を受けるかの、絶え間ない苦境に立たされております。このように、「神と唱えられる者、崇敬される者の上に自分を立てる反逆者」(テサロニケ後2・4)によってもたらされる、あの「苦しみの初め」(マテオ21・8)が、予告されているのは、まことに悲しいことであります。

 さらに悲しむべきことには、洗礼を受け、汚れない小羊の血で洗われ、豊かな恩恵を与えられた信者たちのうちに、神に関する事がらについて、考え及ばないほどの無知に陥っていたり、謬説に染まったり、父の家を離れ、罪悪のなかに生活したりしている人々が、どの階級にも、多数おります。そして、あたかも闇と死の陰に座する人々(ルカ1・79)のように、まことの信仰の光に照らされず、未来の幸福な希望にも、愛徳の熱がもはや活気づけられ、温められることがないかのような状態をよく見受けるのであります。

 そのうえ、キリスト教的生活全体を生かす、家庭を治め、婚姻の聖性を保護する教会の教えと昔からの慣習を軽視する者が、信者たちの中にふえてまいりました。青少年の教育は、なおざりにされ、全く軟弱に甘やかされ、ゆがめられ、あるいは、青少年を教育する教会の権能が奪い取られ、また、キリスト教徒、特に婦人が、悲しむべき生活をなしたり服装の慎みを忘れていることもあります。はかない現世の富に対する、きりのない欲望、節度なく世間的な生活にひたり、むやみに人々の人気を得ようとしたり、正当な権威を傷つけ、そのために、信仰はくずれ去ってしまうか、少なくとも非常な危険にさらされ、神のみことばを軽んずることなど平気で行なうようになっております。

 これらの多くの悪に加え、数えあげなければならないことは、苦悩に押し潰され、悪魔の手下たちに取り巻かれておいでになるキリストを見捨て、眠りこけたり、ついには逃げ去ってしまったあの弟子たちのような、臆病や怠惰です。また、特に、裏切り者のユダにならって、必要な準備もなく、汚聖の聖体拝領をしたり、あるいは敵の陣営に脱走したりする人々の不誠実などであります。したがって、主が「不義が増すにつれて、多くの人々の愛が冷えるだろう。」(マテオ24・12)と予言なさった、あの時が、もう間近に到来しているのではなかろうかという考えが、いや応なしに、わたくしの心に浮かんでくるのであります。

 これらのことを、信者たちが、敬けんな心をもってよく考えるなら、苦しんでおられるキリストに対し、愛に燃え立つでありましょう。そのため、ますます熱心に自分の罪と人々の罪とを償い、キリストの栄誉を回復し、人々の霊魂の永遠のたすかりを促さずにはいられなくなりましょう。「罪が増したところには、それ以上に恩恵が豊かになった」(ロマ5・20)という使徒のことばは、ある意味で、現代にあてはめられます。つまり、人々の邪悪が非常に増大した一面、み心に対して加えられた多くの不義を償おうと、熱心に努力し、さらに、自らを生贄としてキリストにささげるのをためらわない、男女の信者の数が、聖霊のおん導きのもとに、おびただしく増加しているのであります。

 だれでも、わたくしが今まで述べたことを、反省し、心に銘記するなら、あらゆる罪を、最大の悪として憎み、遠ざけるでしょう。また、そればかりでなく、すべてを神のみ旨にゆだね、絶えず祈り、みずからすすんで苦しみを甘んじ受け、つらさ、困難を辛抱強く耐え忍び、あるいは、全生涯をこの償いのわざにささげることなどによって、傷つけられた神の栄誉を回復しようと努めずにはいられなくなるでしょう。

 こういうわけで、ゲッセマこの園においてイエズスを慰めた天使の役目を、何らかの方法で、自分たちも日夜果たそうと志し、その務めに身を委ねたいという抱負に燃えた、幾多の男女修道会が生まれたのであります。また、同様な償いの役目を引き受け、適当な信心行為と徳の実行を成し遂げるために、聖座から認可され、免償を与えられている信心会が創立されました。個々のキリスト教信者のみでなく、いたるところの、小教区、教区、都市などにおいて、神の栄誉を回復するために、特別な崇敬の行事が採用され、荘厳な償いのわざが行なわれていることも、申しておかなければなりません。

三、勧  告

 奉献の儀式が、このように、最初、ごくささやかに始められ、次第に広範囲に広がり、わたくしの認可によって、望み通りの輝きを獲得しましたように、ずっと以前から、敬虔に採用され、広められてきた償いの信心が、わたくしの使徒的権威によって確定され、全カトリック教会に、荘厳に行なわれることを、わたくしは熱望しております。

 そこでわたくしは、毎年、イエズスのみ心の大祝日に・・・この機会に、わたくしは、その祝日を、一級復唱の大祝日、「八日間」付きに昇格することを定めました・・・全世界のすべての聖堂において、わたくしたちの最愛の救い主に対し、この文書に付属した手本(訳注、公教会祈祷文の中に収められている「人類の忘恩に対する償いの祈り」)に従って、償いの祈りが、荘厳に唱えられることを、定め、命ずる次第であります。この祈願によって、わたくしたちは、すべての罪を嘆き悲しみ、最高の王であり、最愛の主であるキリストの権利が浸きれたことを償うのであります。

 実に、全教会に課せられ、敬虔に更新されるこの償いの信心業によって、多くのすばらしい恵みが、個人のみでなく、教会にも、家庭にも、国家にも与えられることを、どうして疑えましょうか。わたくしたちのあがない主ご自身が、マルガリタ・マリアに、「このみ心に対して、敬いの心を表す全ての者に、神の豊かな恵みが与えられるであろう」、と約束してくださったではありませんか。

 罪人たちは、「自分たちが刺し貫いた人を仰ぎ見」(ヨハネ19・37)、全教会のうめき嘆く声に心を動かされ、自分が最高の王に対して犯した不義を悲しんで、「回心するでしょう」(イザヤ46・8ラテン訳)。そうでないとすれば自己の罪の中にかたくなになっていて、自分たちが傷つけ刺したおん者が、「天の雲に乗って来る」(マテオ26・64)のを見るときもはや手遅れであり、無駄であっても、ようやく自分たちのことを、また、王のことを泣き悲しむでしょう。

 他方、「義人たちは義とされ、聖とされるでありましょう」(黙22・11)。そして、侮られ、攻撃され、かくもはなはだしく無礼な仕打ちを受けておいでになる、王たるキリストへの奉仕に、新たな熱意をもって、自分のすべてを、捧げるでありましょう。また、「わたくしの血になんの益があるでしょうか」(詩篇29・10)という、神である生贄の、あの嘆きの声と、同時に、「ひとりの罪人が悔い改めれば」(ルカ15・7)イエズスのみ心がどれほど喜ばれるかを深く考えるならば、特別、人々の救霊の事業を促進しようと熱心に燃え立つことでありましょう。十人の義人のためにソドムの人々を惜しんだほど、あわれみ深い神の正義が、まして、仲介者であり、かしらであるキリストと一致している信者の共同休により、あらゆる場所、あらゆる人々のなす嘆願になだめられ、全人類を惜しんでくださるように、わたくしは切に希望しているのであります。

 それゆえ、どうか、いと恵み深い神の童貞母が、わたくしのこの望みと企てに好意を示してくださいますように。聖母は、救い主イエズスをわたくしたちのため生み育ててくださり、十字架のもとで生贄をささげ、おん子と親密な結びつきと特別な恩恵によって、協贖者となられた御方であり、また、そう呼ばれるべき御方なのであります。ただ、ひとり「神と人間との間の仲介者」(チモテオ前2・5)キリストのみ前における、罪人の弁護者、恩恵の役者となった聖母のおん執り成しに信頼するわたくしは、父たるわたくしの好意と霊的な慰みの印として、敬愛する司教の皆さまおよび皆様が世話をゆだねられている全世界の信者たちに、教皇掩祝を送ります。

一九二八年五月八日
ローマ、ヴァチカン宮殿において
教皇在位七年
ピオ十一世