第三部 聖務日課と典礼暦年

第一章 聖務日課

§ 1 聖務日課の起源と発展

<絶えざる礼拝>

136 キリスト教生活の最高の理想は、絶えず皆が神と密接に一致していることである。したがって、感謝の奉献〔ミサ〕と秘跡を中心に、教会が永遠の神にささげる礼拝は、聖務日課によって、一日のあらゆる時間、週、一年の全過程を含み、四季と人間生活のさまざまな状況にまで及ぶよう配慮されている。〔典84参照〕

<キリストの勧め>

137 神である師が、「気を落とさずに絶えず祈る」(ルカ18・1)よう命じられたので、教会はこの勧めに忠実に従い、絶えず祈り、諸国民の使徒〔パウロ〕のことばによってわれわれを励ましている。「イエズスを通して絶えず神に賛美のいけにえを奉献しょう。」(ヘブライ13・15)

<初代教会からの伝統>

138 初期のころには、皆が一つになって神にささげる公の共同体的な祈りは、特定の日の特定の時間に、荘厳にささげられていた。もちろん、神への祈りは、集会の時だけでなく、家庭においても、時には近所の人や友人といっしょにもささげられていた。まもなく、キリスト教世界のいろいろな所で一定の時間を祈りにあてるという習慣が広まっていった。たとえば、夕やみが迫りあかりがともされる一日の終わりの時とか、夜が終わりにわとりが鳴き日が上る一日の始めの時などである。聖書の中には、その他の時間が、ユダヤ人の伝統や日常生活の習慣から、祈りにふさわしい時間として示されている。使徒行録によれば、イエズス・キリストの弟子は、第三時にともに祈るために集まったとき、「みな聖霊に満たされ〔573〕た」(使2・1〜15参照)。使徒のかしら〔ぺトロ〕は、「第六時ごろ祈るために屋上にのぼった」(使10・9)。ぺトロとヨハネは「第九時の祈りのために神殿にのぼった」(使3・1)。「真夜中ごろパウロとシラスは神に祈り賛美の歌を歌った。(使16・25)。

<祭礼に採り入れられる>

139 このような種々の祈りは、特に修道士や修徳の規則に従っていた人々の努力と実行によって、時代とともにしだいに完成し、少しづつ教会当局により教会の祭礼の中に採り入れられていった。

§ 2 聖務日課の本質

<聖務日課はキリストのからだ全体の祈り>

140 したがって、「聖務日課」と呼ばれる祈りはイエズス・キリストの神秘体の祈りであり、全キリスト者の名において、全キリスト者の益のために神にささげられる。なぜなら、聖務日課は、教会の命令そのものによって委託されている司祭、教会の他の奉仕者、修道者によって行なわれるからである。〔典84〕

<聖務日課の精神>

141 神にささげられるこの賛美のあるべき姿と価値とは、各時課の祈りを始める前に唱えるよう教会が勧めていることばから読み取ることができる。そのことばは、「ふさわしく、注意深く、敬謙に」祈るよう命じている。

<聖務日課はキリストの祈り>

142 神のみことばは、人となられたとき、天上で永遠に歌われているあの賛歌を、この追放の地上にもたらされた。キリストはみずから全人類共同体をご自身に結びつけ、全人類とともにこの神の賛歌を歌う。〔典83・1〕われわれは、「どのように祈るべきかを知らない」と告白しなければならないが、「霊は、ことばに表わせないうめきによって、わたしたちのためにとりなしてくださる」(ローマ8・26)。キリストも、その霊を通してわれわれのために願ってくださる。〔典7・2〕「神は人間にこれ以上大きなたまものを与えることはできなかった。……イエズスはわれわれのために祭司として祈っておられる。……キリストのうちにわれわれの声を、われわれのうちにキリストの声を聞こう。……神の姿をしたキリストは祈りを聞き、奴隷の姿をしたキリストは祈りをささげる。神としては創造者〔574〕であり、奴隷としては被造物である。変わることのないおかたが、変化する被造物の姿をとり、自分をわれわれと一致させ、かしらとからだをもつひとりの人間となられた。」(聖アウグスチヌス詩編注解85・1)

<心をこめて祈れ>

143 この教会の祈りは崇高な価値を有するものであるから、これにかなった深い信仰心をもって祈らなければならない。祈る人の声が、聖霊のいぶきによって書かれた歌、完全無欠な神の偉大さを宣言したたえる歌をくり返すとき、われわれの心の内的な動きをこの声に合わせなければならない。こうして心を天にまで高め、三位一体を礼拝し、ふさわしい賛美と感謝をささげるのである。「立って詩編を歌うとき、心をことばに合わせよ」(聖ベネディクト修道規則19)。〔典90・1参照〕聖務日課は、たとえ音楽や典礼の規則に完全に合っていたとしても、単に朗読や歌が耳に響くというだけであってはならない。心と魂を神にあげ、イエズス・キリストと一致して、われわれ自身とそのすべての行ないをまったく神にささげなければならない。

<キリストを通して祈る>

144 祈りの効果はこのことに少なからずよっている。それゆえ、祈りは人となったみことば自身に向けられないで、「主イエズス・キリストによって」ということばで結ばれる。キリストは、われわれと神との仲介者として、天の父に対して栄光に輝く傷あとを示し、「われわれのために取りなそうとして、常に生きておられる」(ヘブライ7・25)。

§ 3 詩編

<詩編が中心である>

145 周知のように、詩編は、「聖務日課」の大部分を占めている。詩編は、一日全体を包み、聖化し、飾っている。カッシオドルスは、当時の「聖務日課」に配列されていた詩編について美しく語っている。「詩編は、朝の喜びによって新たな一日を整え、第一時を奉献し、第三時を聖化し、第六時をパンをともに割くことによって喜ばせ、第九時には断食を解き、一日の終わりをしめくくり、夜になると魂をやみから守る。」(詩編注解 序文P.L.70,10この句の一部をカッシオドルスの作と認めない者もいる。)

<詩篇は啓示であり同時に賛歌でもある>

〔575〕146 詩編は、選ばれた民に神が啓示した真理を思い起こさせる。ある場合には恐るべき真理を、ある場合には心地よい甘美さに満ちた真理を心に思い起こさせる。詩編は約束された解放者への期待を喚起し燃え立たせる。かつて人々は、家中集まって詩編を歌い、神殿で荘厳に詩編を歌ってこの希望を新たにした。詩編は、くすしくもイエズス・キリストの栄光を前もって示し、その最高にして永遠の力を預言する。詩編は、キリストがこのさすらいの地上へ来て、身を低められること、王的な尊厳と祭司としての権能、キリストが人のために働いてわれわれの救いのために血を流されることなどを預言している。また詩編は、心の喜び、悲しみ、希望、恐怖、神への全き信頼、神の愛に愛をもって報いようとする心、神の幕屋へ神秘的に高められることを表現している。

147 「詩編は、……神の民への祝福であり、神の民の賛美、賛辞、称賛であり、会衆の答え、教会の声、信仰告白の歌、神に対する完全な献身、解放の喜び、歓喜の叫び、喜びの響きである。」(聖アンプロジウス 詩編注解1・9)

§ 4 聖務日課への信徒の参加

<少なくも日曜晩課に参加すること>

148 昔は、ずっと多くのキリスト者が聖務日課の祈りに参加していた。しかしこの習慣はしだいにすたれ、右に述べたように、今では聖務日課を唱えることは教役者と修道者だけの務めになってしまった。したがって、信徒に対して法規上は何の規定もないが、主日や祝日の夕方に自分の小教区の教会で行なわれる時課の祈り〔晩課〕を唱えたり歌ったりすることは、非常に望ましいことである〔典100〕。尊敬する兄弟の皆さん、この敬謙な習慣がなくならないように、またすでに廃止された所ではそれをできるだけ再興するように、あなたがたとその教区民にせつに勧めたい。晩課がふさわしい尊厳のもとに荘厳に歌われ、さらにいろいろな方法でキリスト信者の信仰心を快く鼓舞するならば、確かに大きな益を得るであろう。

<日曜と祝日の聖化>

祝日は、特別に神にささげられ聖化された日であるから、公にも個人的にも厳格に守ら〔576〕れなければならない。使徒たちが聖霊に導れて、安息日(Sabbata)〔土曜日〕の代わりに定めた主日は特に守らなければならない。ユダヤ人が、「六日の間は仕事をすることができるが、七日はヤーウェにささげるべき聖なる全き休みの安息日である。安息日に仕事をする者はだれであろうと死刑に処する。」(出31・15)と命じられていたように、キリスト者も主日や祝日に肉体労働を行なったり、主日、祝日の休みを信仰心や宗教心のために用いず、世俗的な快楽に際限なくふけるとしたなら、どうして魂の死を恐れずにいられようか。主日と他の祝日は、神のものとして聖別された日であり、それによって神を礼拝し、魂を天のかてで強めるのである。教会はキリスト信者が肉体労働を慎み感謝の奉献〔ミサ〕に出席することのみを定め、晩課については何も規定していないが、信徒が晩課に参加することを強く勧め、望んでいる。そのうえ、われわれひとりひとりが、神と和解し、神の恵みをいただかなければならないのであるから、単に規定を守るだけでは足りないのである。

<日曜の晩課の勧め>

キリスト者が主日の午後をどう過ごしているかを知ってわたしの心は深く悲しんでいる。劇場や遊技場は大繁昌であるのに、教会にはほとんど人がいない。このようなことでよいのだろうか。皆が教会に行き、カトリックの信仰の真理を学び、神を賛美し、司祭から聖体の祝福を受けたりして、不幸な生活に対して天の助けによって強められるようにならなくてはならない。皆が晩課の歌い方を覚え、その意味を心に刻むように全力を尽くさなければならない。そうすれば、この祈りのことばに鼓舞され動かされて、聖アウグスチヌスが自分について述べたことを体験することができるであろう。「わたしは聖歌や賛美を聞き、あなたの教会で快く歌う声を聞いてどれほど涙を流したことだろう。その声は わたしの耳に流れ込んで、真理をわたしの中に注ぎ入れた。心からは信仰心がわき起こり、流れとなって溢れ出た。わたしは幸福だった。」(告白9・6)

第二章 典礼暦年

§ 1 キリストの神秘に生きる

<一年を通じてキリストの神秘があらわれる>

〔577〕149 感謝の祭儀と聖務日課は、一年を通じて、「特にイエズス・キリストの回りを回っている〔典102・2参照〕。それは、われわれの救い主の謙遜と、救いのわざと、勝利との神秘がきわだつように、巧みに組み合わされている。

<キリストの神秘を生きる>

150 教会の祭礼は、イエズス・キリストの諸神秘を思い起こさせ、皆がこの神秘に参加し、神秘体のかしらがその枝体であるひとりひとりのうちに、完全な聖性をもって住まうよう努めている。キリスト者の心があたかも祭壇のようになり、大祭司のささげるいろいろないけにえが次から次へといわば新しい生命をうるところとなるように。罪を清め償う痛悔と涙や、天にまで上る神への祈りを奉献し、広い熱烈な心によって行なう献身と自己奉献、さらにわれわれ自身とそのすべてを神に任せ、神のうちにいこう緊密な一致をこの祭壇にささげよう。「宗教の本質はあなたが礼拝するかたにならうことなのだから。」(聖アウグスチヌス 神国論8・17)

<キリストにならう>

151 教会の祭礼がイエズス・キリストの生活を一定の時期に従って黙想させるこの方式と目的とにふさわしく、教会はならうべき模範を示し、獲得すべき聖性の宝を示している。口で歌うことを心で信じ、心で信じることを私的公的な生活に現わさなければならないからである。

§ 2 典礼暦年

<待降節>

152 待降節の聖節には、不幸にも犯してしまった罪を思い起こし、情慾の抑制と、自発的な肉体の苦業とによって、敬謙に黙想して自分を反省し、いきいきしたあこがれによって神のもとに帰り、神の恵みによって罪の汚れと罪から生まれる恐ろしい不幸から解放されるよう勧めている。

<降誕祭>

153 救い主のお生まれになった日を迎えるとき、教会はわれわれをいわばべツレヘムの洞〔578〕窟へと導き、新たに生まれて根本的に自分を改めることが必要不可欠であることを教える。そのためには、人となった神のみことばと緊密にいきいきと結合し、われわれがすでにそこまで高められているキリストの神性に参与しなければならないことを教える。

<公現祭>

154 公現の祝祭によって、諸国民がキリスト教の信仰に召されていることを思い起こさせ、このように大きな恵みに対して日々永遠の神に感謝し、強い信仰によっていけるまことの神を求め、天上のことを深く敬謙に理解し、沈黙と黙想を愛することによって天のたまものをよりよく知りそれを得るようにと望んでいる。

<四旬節>

155 (七旬節と)四旬節の間に、母なる教会は、われわれが自分のあらゆるみじめさを深く考え、生活を改めるように積極的に努力し、特別に罪をきらい、祈りと償いとによって罪を清めるように強く望んでいる。絶え間のない祈りと罪の痛侮とによって天の助けを得ることができるのであり、それなしにはいかなる行ないも無に帰し、無意味なものになってしまうのである。

<受難節>

156 受難節には、イエズス・キリストの苦しい受難を典礼によって提示し、教会はわれわれをカルヴァリオに招いている。神である救い主の血にまみれた足跡に従い、喜んでともに十字架をにない、罪を償い神と和解する心を呼び起こし、皆が主とともに死ぬように勧めている。

<復活祭>

157 復活祭には、キリストの勝利を記念し、われわれの心を深い喜びで満たす。われわれ自身も、冷い怠慢な生活から、より熱心できよい生活へと救い主とともに復活したことを深く考え、自分をまったく神にささげ、この不幸な地上を忘れて天の国のみに心を向けなければならない。「あなたがたは、キリストとともによみがえったのですから、上にあるものを求めなさい。……上にあるものに心を向けなさい。」(コロサイ3・1〜2)

<聖霊降臨祭>

158 聖霊降臨にあたって、教会は教えと行ないとによって、聖霊の働きに敏感に従うよう勧〔579〕めている。聖霊はわれわれの心を神の愛で燃え立たせ、日々熱心に徳の進歩に努め、主・キリストと天におられるその父が聖であるように、われわれも聖となるようにとひたすら望んでいる。

§ 3 典礼暦年の意味

<典礼暦年はキリストを通じて父にささげる賛歌である>

159 したがって典礼暦年は、キリスト者の家族が、仲介者であるイエズスを通して、天の父にささげるすばらしい賛歌のようなものである。われわれは熱心に秩序正しく努力し、日ごとによりよく、神である救い主を知り、賛美しなければならない。また、キリストの神秘にならい、その苦しみの道を快く歩み、いつの日かついにその栄光と永遠の至福に参与するために、真剣に力強く努力し、たゆまず実践していかなければならない。

<「霊的キリスト」に関する誤解>

160 尊敬する兄弟の皆さん、以上述べたことから、現代の著述家が純粋で真の祭礼の精神からどれほど逸脱しているかを明らかにすることができる。ある者は、ある種のより高度な神秘主義なるものに欺かれて、われわれは歴史的キリストでなく、「霊的キリスト」または「栄光を受けたキリスト」に注目すべきだと主張してはばからない。またある者は、キリスト信者の信心業の発展の結果、キリストは変化させられ、いわば王座から追い払われて、父の右に座し永遠に生きて支配する栄光のキリストは締め出され、その代わりにこの世に生活されたキリストが座を占めていると、考えもなく主張している。それゆえ、十字架上で苦しむ救い主の像を聖堂から取り除くことを望むものさえ少なくない。

<祭礼はキリストのあらゆる婆を示す>

161 このような誤った考え方は昔から伝えられてきた健全な教えにまったく反している。聖アウグスチヌスは、「肉をとって生まれたキリストを信ずれば、神から生まれたキリスト、神とともにある神〔を信ずる〕に至る。」(聖アウグスチヌス 詩編注解123・2)と書いている。教会の発礼はあらゆる生活状況におけるキリストの全体像を示している。永遠の父の〔580〕みことばであるキリスト、神の母おとめマリアから生まれたキリスト、真理を教え、病者をいやし、悲しむ者を慰めるキリスト、苦しみを受け、死んだキリスト、そこから死に打ち勝って復活し、天の栄光のうちに治め、われわれに弁護者である霊を送り、絶えず教会のうちに生き続けるキリストを示している。「イエズス・キリストはきのうもきょうも、永遠に変わらない。」(ヘブライ13・8)さらに、祭礼は、ただならうべき模範としてキリストを示しているだけでなく、耳を傾けるべき師、従うべき牧者、救いのための仲介者、聖性の源、神秘体のかしら、枝体の生命の泉であるキリストを示している。

<受難の神秘>

162 キリストの十字架の苦しみは、われわれに救いをもたらした神秘の主要な要素をなしている。この神秘を強調することはカトリックの信仰にかなっている。それはまさに礼拝のいわば中心である。なぜなら、感謝の奉献は日々それを再現し、更新するのであり、あらゆる秘跡も十字架と緊密に結びついているからである。(聖トマス 神学大全Ⅲ ・49および62・5)

<典礼暦年におけるキリストの現存>

163 このように典礼暦年は、教会の信仰心によって養なわれ守られてきたもので、単なる過ぎ去ったできごとの、冷い、力のない表現でも、昔の物事の単なる想起でもない。それはむしろキリスト自身であり、キリストが教会の中に生き続け、限りない愛の道を歩んでおられる。キリストは、地上の生活において、各地を巡って善を行ないつつ(使10・38参照)この道を始められた。人の魂がキリストの諸神秘に触れ、いわばそれによって生きるよう慈悲深く配慮されたのである。実に諸神秘は、最近一部の著述家が言っているように、あいまいでばく然としたものではなく、カトリックの教えが示しているように、常に現存し、働いている。〔典35・2〕〔典102・3参照〕教会博士たちの解釈によれば、諸神秘はキリスト教的完徳のすぐれた模範であり、同時に、キリストの救いの恵みと取り次ぎによる神の恵みの泉である。それぞれの神秘はおのおのの性格に従いそれぞれ独自の形でわれわれの救いの原因となり、われわれのうちに効果を及ぼし続けている。さらに、母なる教会は、救い主の〔581〕諸神秘を観想のために示すだけでなく、祈りによって天上のたまものを祈り求め、そして教会の子らがキリストの力によってこの神秘の精神に深く満たされるよう願っている。キリストに鼓舞され、キリストの力を受け、そしてわれわれ自身の意志的な協力によって、あたかも枝が幹から、枝体がかしらから養分を取るように、生命の力を取り入れることができる。こうして刻苦精励することによって、しだいに「満ち満ちたキリストの背たけ」(エフェソ4・13)にまで達することができるのである。

§ 4 聖人の祝祭

<典礼暦年は聖人の模範を示す>

164 典礼暦年の中では、イエズス・キリストの諸神秘だけでなく天の国の諸聖人も祝われる。聖人の祝祭は、より価値の低い副次的なものであるが、教会は聖人の模範をキリスト信者の前に示し〔教50・1〕、信者が神である救い主の徳で飾られるよう常に努めている。〔典104参照〕

<聖人にならう>

165 天の国の諸聖人はイエズス・キリストの徳をさまざまな形で反映している。諸聖人がキリストにならったように、われわれも聖人にならわなければならない。ある聖人は使徒的熱意を反映し、ある聖人は血を流すことも恐れない英雄的な勇気を示し、ある聖人は神である救い主を待って絶えず目ざめ、ある罪人は魂を貞潔に保ち、つつましいキリスト教的な謙遜を輝かせた。そしてすべての聖人は、神と憐人に対して激しい愛を燃え立たせていた。教会の祭礼は聖性のすべての輝きを眼前に示し、われわれがそれを見つめて救いに近づき、「聖人たちの功徳を喜び、その模範によって奮い立つ」(ローマ・ミサ典礼書復活節以外の多数殉教者のための第三ミサ集会祈願)よう促す。「単純さの中には潔白を、愛の中には一致を、謙遜の中には慎みを、仕事をつかさどるときには勤勉を、苦しむ者を助けるときには覚悟を、貧しい者を助けるときには慈悲を、真理のために戦うときには堅固さを、規律を守るときには厳格さを守り、よい行ないの模範を欠かしてはならない。これこそ聖人たちが祖〔582〕国〔天の国〕に帰る途中残して行った足跡であり、われわれはその道に従い、聖人と喜びをともにするのである。」(聖べダ説教70 諸聖人の祝日)われわれの五感も救いに向かって励まされるように、教会は聖堂の中に天の聖人の像を置き、「聖人の像を尊び、その聖人の徳にならう」(ローマ・ミサ典礼書 ダマスコの聖ヨハネの祝日 集会祈願)よう望んでいる。

<聖人の助けを願う>

166 キリスト者が天の国の諸聖人を敬うことにはもう一つの理由がある。つまり聖人たちの助けを願い、「聖人の賛美を喜び、聖人の保護によってささえられる」(聖ベルナルドゥス説教2 諸聖人の祝日)ためである。教会の祭礼の中に、天の国の聖人の取り次ぎを願う多くの定まった祈りの文があることは、これによって容易に説明がつくのである。

<マリアへの尊敬>

167 天の国の市民の中でも、神の母であるおとめマリアは特に尊敬されている。神から受けた使命によって、マリアの一生はイエズス・キリストの諸神秘と固く結びついている。確かに、マリアほど密接に効果的に、受肉したみことばの跡に従ったものはなく、マリア以上に神の子のみ心とともに、また心を通して天の父とともに、その恵みと力とを受けているものはない。マリアはケルビムよりもセラフィムよりも聖であり、その栄光はすべての天の市民よりも大きい。マリアは、「恵みに満ちた者」(ルカ1・48)であり、神の母であり、マリアの幸いな出産によってわれわれは救い主を得たからである。マリアは、「あわれみ深い母、われらのいのち、慰め、希望」であるから、「この涙の谷に泣き叫び」(「サルベ・レジナ」)つつ、マリアに呼びかけ、自分とそのすべての持ち物を信頼をもってゆだねよう。神である救い主が自分をいけにえとしてささげたとき、マリアはわれわれの母となり、その称号によってわれわれはマリアの子となった。マリアはすべての徳を教え、その子〔583〕を与え、子とともに必要なすべての助けを与えられる。神は、「すべてを、マリアを通じてわれわれに与えようと望まれた」(聖べルナルドゥス 聖母マリアの誕生日に7)からである。〔典103参照〕

結論

<典礼暦年はキリストを通じる父への道>

168 毎年新たに繰り広げられる典礼の道を通じて、聖性をもたらす教会の働きに促され、天の国の諸聖人、特に無原罪のおとめマリアの助けと模範に強められて、「良心のとがめをすすぎ、清い水で洗い、まごころとあふれる信仰をもって」(ヘブライ10・22)「大祭司」(同10・21)に近づき、ともに生き、心を合わせ、大祭司を通じて「幕屋のうちにまで」(同6・19)はいり、天の父を永遠にたたえよう。

169 これが教会の祭礼の本質と意味である。それは、奉献、秘跡、および神にささげる賛美を含んでいる。その目的は、われわれの心をキリストに一致させ、神である救い主によってそれを聖とし、キリストを賛美し、キリストを通して、キリストのうちにあって、聖なる三位一体を賛美することである。「栄光は、父と子と聖霊に。」

第四部 司牧上の指針

第一章 祭礼以外の宗教行為について

170 尊敬する兄弟の皆さん、以上述べてきた真理に対する誤謬と異端とを教会からたやすく遠去け、キリスト信者が正しい規律に従って典礼使徒職を実行し、豊かな実りを得るように、すでに述べた教えの実践に役だつことを以下に記したいと思う。〔教会の祭礼と信心業との関係について、典13参照〕

§ 1 信心業

<祭礼とその他の宗教行為とは矛盾しない>

171 純粋なまことの信仰心について説明したところで述べたように、祭礼とその他の宗教行為との間には、それが正しい規律にかない正しい目的に向かっている限り、ほんとうの矛盾はありえない。それどころか、教会が教役者と修道者に特に勧めている信心業さえある。

<信徒への勧め>

〔584〕172 わたしは、信徒も、これらの信心業に無縁であってもらいたくない。重要なものだけを取り上げてみても、霊的なことの黙想、注意深い自己反省と究明、永遠の真理を考えるための静修、聖体訪問、おとめマリアをたたえる祈りや嘆願、中でもロザリオの祈り、などがある(教会法125参照)。

<信心業の意味>

173 これら多くの信心業は、聖霊の導きと働きを欠いているわけではない。さまざまな方法によって、魂を神に向かわせ、罪から清め、徳へと促し、ひと言で言えば、まことの信仰心に向かって努力するよう励ます。永遠の真理を黙想するよう慣らし、キリストの神性と人性との神秘を観想するよう促す。さらに、キリスト信者の霊的生活を養い、公の礼拝に、より効果的に参加するよう導き〔典13・3参照〕典礼の祈りが無意味な儀式に陥らないよう守っている。

<信心業を促さなければならない>

174 尊敬する兄弟の皆さん、これらの信心業は、あなたにゆだねられた民にとって確かに救いのために有益なものであるから、それを勧め促進する司牧的努力を怠ってはならない。特に、典礼を改革するという口実をもって、または典礼行為のみが力と価値を有しているという誤りに基づいて出されている要求に屈してはならない。たとえば、すでにある地方では行なわれていることであるが、公の礼拝が行なわれていない時間は聖堂を閉鎖するとか、尊い秘跡の礼拝や聖体訪問を怠るとか、信仰心を表わすためになされる告解〔信心告解〕を拒むとか、聖人たちが「救霊予定」のしるしとまで考えていた神の母おとめマリアへの尊敬を、〔585〕特に青年時代に軽んじ、それをしだいに薄め消えるようにするとかいう傾向を許しておいてはならない。これらは健康な木の病気の枝に成った毒ある実であり、キリスト教の信仰心にとって非常に有害なものである。木の生命力が甘いよい実だけを養うように、こういう実は切って捨てられるのである。

<頻繁な告解について>

175 しばしば告解することについて述べられている意見は、キリストとその汚れなき花嫁〔教会〕の精神にまったく反し、霊的生活を事実破壊するものであるから、わたしがすでに回章「ミステチ・コルポリス」〔回勅シリーズ6 122ページ〕の中でこの問題について悲しみをもって書いたことを思い出してほしい。このことを、あなたの牧する信者、特に司祭志願者や若い教役者に伝え、かれらがまじめに熟考し、喜んで従うよう指導することをくり返し勧めたい。

<黙想会など>

176 毎月の静修や、信仰心を深めるために決った日に行なわれる霊的な修業に、教役者だけでなく、信徒の身分にある者、特に修道会やカトリック・アクションに属している人もできるだけ参加するよう特に配慮してほしい。すでに述べたように、このような霊的な修行は、非常に有益なものであり、魂に真の信仰心を植えつけ、祭礼をより有効に、より恵み豊かにし、生活を聖とするために欠くべからざるものでさえある。

<多様性の尊重>

177 このような修業のためのさまざまな方法については、地上の教会には天の国の教会と同じように多くの住家(ヨハネ14・2参照)があり、修道規律についても特定の形態が支配すべきでないことを、皆に理解してもらいたい。霊は一つであるが、霊は「思いのままに吹き」(ヨハネ3・8)、さまざまなたまものとさまざまな道を通じて魂を照らし、聖性へと導く。各人の自由と、各人における聖霊の超自然の働きは、最も聖なるものであって、いかなる理由によっても、それを妨害したりおかしたりしてはならない。

<イグナチウスの霊操>

〔587〕178 しかしながら、周知のごとく、聖イグナチウスの方法と規律によって行なう霊的な修業は、そのすばらしい効果のために、わたしの前任者によってまったく承認され熱心に進められてきた。わたしもそれを認め、勧めてきたし、今ふたたび明らかにそれをくり返したいと思う。

§ 2 信心業と祭礼との関係

<正しい信心業は人を祭礼に促す>

179 ある特定の信心業を行なうよう導く動機は、すべてのよい贈り物、すべての完全なたまものの与え主である光の父(ヤコブ1・17参照)から出るものでなければならない。それを判定するしるしは、その信心業が、神に対する礼拝を日ごとにより深く愛し、より広く発展させる効果があるかどうか、またキリスト信者がより熱心に秘跡の祭式に参加し、信仰に関することすべてにふさわしい従順と尊敬の心を持つよう促す働きがあるかどうかということである。もしある信心業が、神に対する礼拝の原則や規定と抵触したり、それを妨害しじゃまになるならば、それは確かに、正しい目的や賢明な熱心によって秩序だてられ導かれたものとは言えない。〔典13・3参照〕

<その他の信心業>

180 このほかにも、いくつかの信心業があり、厳密な意味で祭礼に属しているものではないが、特別な力と意味とを持ち、ある程度祭礼のわくの中に組み入れられて、使徒座や各司教によって常に承認され、称賛されてきた。それは、神の母であるおとめをたたえる五月の信心と至聖なるイエズスのみ心に向けられた六月の信心、九日間の祈り(ノヴェナ)、三日間の祈り、イエズス・キリストの十字架の道を留によってたどる十字架の道行きなどである。

<それらも人を祭礼に導くもの>

181 信仰心によるこのような行ないは、キリスト信者を鼓舞し、告解の秘跡に絶えずしばしばあずかり、感謝の奉献〔ミサ〕と神の食卓〔聖体拝領〕にふさわしい信仰をもって参〔587〕加し、救い主の諸神秘を黙想し、天の聖人の模範にならうよう励ます。したがって、それらはわれわれを典礼祭儀に参加させるという豊かな効果を持っている。〔典13・3参照〕

<祭礼の精神にかなった信心業を破壊してはならない>

182 これらすべての信心業を自分かってに変更し、ただ典礼的なやり方と形式のみに帰着させようとすることは、破壊的な行為であり誤りである。必要なことは、祭礼の精神と原則が信心業に健全な影響を与えるよう努め、不適当なもの、神の家の美しさを汚すもの、祭式を妨げるもの、健全な信仰心に反するものを絶対に導入しないことである。

<多くの信心業よりも正しい信仰心を深めよ>

183 尊敬する兄弟の皆さん、真実の正しい信仰心が日ごとに増大し盛んになるよう注意深く配慮してください。時にキリスト教的な生活とは、さまざまな祈りや信心業を数多く行なうことではなく、キリスト信者が霊的に進歩し、それによって全教会の成長に貢献することであるということを、たゆまず皆の心に印象づけてください。永遠の父は、「み前に清く汚れない者となるように、世の造られる前から、キリストのうちにあってわたしたちを選ばれた」(エフェソ1・4)のであるから、あらゆる祈りと信心業の目的は、われわれのすべての霊的な力をこのすぐれた最も高貴な目的を実現するために用いることでなければならない。

第二章 祭礼について

§ 1 基本原則

<祭礼の理解>

184 尊敬する兄弟の皆さん、誤謬と欺瞞を除き、真理と正しい秩序に反するものを避けるばかりでなく、信者が教会の祭礼を深く理解し、キリスト者としてふさわしい心構えをもって、よりよくよりたやすく神への祭式に参加することができるよう努力することを強く勧めたい。

<規定の遵守>

185 そのためまず第一に、注目すべきことは、トリエント公会議、諸教皇、礼部聖省の布〔588〕告、および典礼書が公的な礼拝の動作について定めている規定を、皆がふさわしい従順さとふさわしい信仰をもって守らなければならないことである。

<三つの特長>

186 典礼に関するあらゆることの中で、先任者ピオ十世が語っておられるように、三つの特長を明らかにしなければならない。それは、世俗的精神が嫌う聖性、真に美しい芸術に奉仕する正しい絵画と彫刻、各地の正当な習慣を尊重しながら、カトリック教会の一致を表わす普遍性の三つである(教皇自発勅令Tra le sollecitudini 一九〇三年一一月二二日)。

§ 2 装飾

<清潔な装飾>

187 聖堂と祭壇を飾るよう望み、強く勧める。「あなたの家を思う熱意はわたしを食い尽くす」(詩69(68)・10。ヨハネ2・17)ということばを皆が心にとどめ、聖堂についても、祭服や典礼用具についても、豪勢ではなくとも、すべて神の威光にささげられたものとして清潔に整えておくよう努めなさい。わたしはさきほど、古代の習慣を復活させるという口実のもとに、聖堂から聖画像を除くよう望んでいる人々の誤った考えを非難した。〔61番〕しかしここでは逆の誤った信仰心を非難しなければならない。神への礼拝のために造られた聖堂の中や祭壇の上にさえも、正当な理由もなく数多くの絵や像を崇敬のために置く者、合法的な権威から認められていない遺物を陳列する者、重要で不可欠なことを怠りながらつまらないことにこだわる者などは、宗教を物笑いの種にし、神への礼拝の尊厳を汚すのである。

<禁令の遵守>

188 また、「礼拝や信心の新しい様式を始めないこと」という教令(聖省教令一九三七年五月六日)をよく心に留め、それが忠実に守られるよう常に注意していただきたい。

§ 3 音楽

<グレゴリオ聖歌>

189 音楽については、使徒座が定めた、典礼に関する明確な規定を忠実に守るべきである。〔589〕グレゴリオ聖歌は、ローマ教会に固有なものとみなされ〔典116・1参照〕、古代から受け継がれ、幾世紀にわたって特別に保存されてきたものであり、キリスト信者に固有のものとされ、典礼のある部分では必ず歌うよう規定されている(ピオ十世教皇自発勅令Tra lesollecitudini 参照)。グレゴリオ聖歌は、諸神秘の祝祭をより美しく荘厳にするだけではなく、参加者の信仰と信仰心を深めるために非常に役だつ。これについて前任者ピオ十世とピオ十一世が命令されたことを、わたしも自分の権威をもって力強く保証する。すなわち、グレゴリオ聖歌は、神学校や修道院において、注意深く熱心に行なわれるべきこと〔典115・1〕、および少なくとも主要な教会においては、多くの所で成功しているように、昔のスコラ・カントールム(聖歌隊)を復興させるということである(ピオ十世前揚書、ピオ十一世憲章Divini Cultus 2,5 参照)〔典114〕

<会衆の典礼音楽への参加>

190 さらに、「信者が神への礼拝により行動的に参加しうるように、グレゴリオ聖歌の信者が歌うべき部分は、信者が歌える形に復興しなければならない。信者が、無関係な無言の傍観者のように見物するのではなく、祭礼の美しさに深く感動して祭式に参加し、……定められた規則に従って、自分たちの声を司祭や聖歌隊の声に合わせて歌うことは実際必要なことである。もしこれが実現すれば、共同の祈りが典礼言語〔ラテン語〕や国語で行なわれているとき、会衆がまったく答えなかったり、かすかなささやきの声しか出さないようなことはなくなるであろう。」(ピオ十一世 憲章 Divini cultus 9)われわれの救い主が、その神聖な血であがなった子とともに、限りない愛の婚宴の歌を歌われるのであるから、その祭壇上の奉献に心から参加する共同体が、黙っていることはできない。「歌は愛する人のもの」(聖アウグスチヌス説教336・1)であり、古いことわざにも、「よく歌うものは二倍祈る」と言われている。このように、戦う〔地上の〕教会は、信者も教役者もともに、勝利の教会〔590〕の歌や天使たちの合唱と声を合わせて、ともに神聖な三位一体に偉大な永遠の賛歌を歌い続けるのである。「わたしたちも、これに合わせて、つつしんでたたえましょう。」(ローマ・ミサ典礼書 叙唱)

<現代音楽の採用>

191 しかし現代音楽や現代歌曲をカトリックの礼拝からまったく排除すべきであると考えてはならない。俗的なもの、聖堂や典礼行為の聖性にふさわしくないものでない限り、また珍しい奇妙なものを求める心からなされるのでない限り、むしろ教会はためらわず現代音楽に門を開くべきである。現代音楽も、祭式をより美しいものにし、人の心を高め、まことの信仰心を養うのに大いに貢献しうるのである。〔典116・2参照〕

<会衆の歌を盛んに>

192 尊敬する兄弟の皆さん、会衆が聖歌を歌うよう励まし、〔典118〕ふさわしいものを保ち、尊厳をもって注意深くそれを行なうよう切望する。大ぜいで歌うことによって、キリスト者の信仰と信仰心はたやすく燃え立つようになる。まとまった信者の力強い歌声が、海の大波のどよめきのように(聖アンブロジウス Hexameron 3,5,23 参照)天に上り、一つにまとまって天に上る歌声が、一つの心、一つの魂(使4・32参照)を表わし、同じ父の子である兄弟にふさわしいものとなるように。

§ 4 芸術

<その他の現代芸術も採用できる>

193 以上音楽について述べたことは、他の芸術、特に建築、彫刻、絵画についてもあてはまる。今日用いられる新しい材料により適合した様式をもつ現代的な絵画や彫刻を、先入観によって一般的に排斥したり除外したりしてはならない。〔典123〕単なる「写実主義」や極端な「象徴主義」に陥ることなく中庸の正しい秩序を保ち、芸術家の個人的な判断や好みよりもキリスト者の共同体の必要性を重視するならば、現代の芸術は、聖堂や祭式にふさわしい尊敬と栄誉をさらに高めるものである限り、聖堂の中で使用することを許されなければなら〔591〕ない。こうして現代の芸術も、幾世紀の天才がカトリックの信仰をたたえて歌い続け来た驚くべきすばらしい大合唱に加わることができるのである。〔典122〕

<ふさわしくない芸術>

しかし同時に、最近広まってきたある種の絵や像を、わたしの職責にかけて嘆き非難しなければならない。それらは健全な芸術を歪曲し堕落させるもののように思われるし、時にはキリスト教の荘厳さ、慎み、信仰心に反し、真の宗教心を深く傷つけるものである。このように「神聖な場所に有害なものはすべて」(教会法1178)教会から締め出し、追放しなければならない。〔典124・2〕

<芸術家に対する指導>

194 尊敬する兄弟の皆さん、諸教皇の出された規則と決定を固持しつつ、戦争によって破壊されたり内部が損傷している多くの教会を再建し修復するために働かなければならない芸術家・建築家の心と魂を照らし導くよう努めなさい。礼拝の必要に最もふさわしい様式と計画を自分の信仰からくみ取ることができるように、そしてそれを望むよう導きなさい〔典127〕。こうして、人間のわざはいわば天からのたまものとなり、天からの光に輝き、人間の文化を促進するだけでなく、神の栄光と魂の救いのために大きく貢献する。すぐれた芸術は、「神への礼拝に高貴な侍女のごとく仕える」(ピオ十一世憲章Divini Cultus)時、信仰と和合するのである。

§ 5 司祭・信徒の教育

<外面より祭礼の精神がたいせつ>

195 尊敬する兄弟の皆さん、ここでさらにたいせつなことを、特に注意し、皆さんの使徒的熱意に訴えたい。外的な宗教儀式は確かにたいせつなものであるが、最も重要なことはキリスト者が、典礼的な生活をし、超自然の力に鼓舞されるよう養いはぐくむことである。

<司祭の教育>

196 したがって、神学生に、修徳的、神学的、教会法的、司牧的養成をはかると同時に、祭礼を理解し、その荘厳さと美しさを認識し、典礼注規(ルブリカ)と呼ばれる規定を熱心に守るよう教えなければならない。これは単なる教養のためでなく、神学生が将来ふさわしい〔592〕秩序と美しさと威厳をもって祭式を行なうことができるためであり、特に祭司キリストと緊密に一致し、神聖なものの奉仕者となって自分自身も聖となるためである。〔典14・3〕

<信徒と司祭の一致>

197 また、あらゆる努力を傾け、適当と思われる手段と方法を用いて、教役者と信徒とが心と魂を一致させるよう配慮しなさい。そうすれば、キリスト者は、教会の祭礼に行動的に参加し、祭礼は、司祭(特に小教区を持ち信者の世話をする司祭)と信者とが一致して永遠の神にふさわしいささげものを奉献する真に神聖な宗教行為となるのである。

<侍者の教育>

198 この目的のために、社会のあらゆる階層から、よく訓練されている善良な少年を注意深く選び、かれらが自発的に喜んで、規律的に熱心に祭壇に仕えるよう導くことは、大いに助けとなる。この務めは非常に尊いものであって、両親はいかに地位が高く、教養があろうとも、それを尊重しなければならない。このように若者が正しく教育され、司祭の注意深い配慮によって自分の務めを規則正しく、敬謙に、時間を守って果たすよう勧めるならば、この青少年の中から、司祭職への候補者が生まれることになるであろう。またこうすれば、カトリック教国においてさえ聞かれる、尊い奉献〔ミサ〕に答え、仕える者がいないという教役者の嘆きも聞こえなくなるであろう。

<ミサヘの行動的参加>

199 あなたがたが第一に熱意を注ぐべきことは、キリスト信者が皆感謝の奉献に参加し、それから最大の成果を得るためにも、以上述べたような正しい方法で信仰心をもってミサに参加するようたゆまず勧めることである。祭壇上の荘厳な奉献〔ミサ〕は神に対する礼拝の第一のわざであり、キリスト教的信仰心の源泉であり、いわば中心でなければならない。〔典10・1参照〕あなたの牧する子らの多くがしばしば天の祝宴〔聖体拝領〕に近づくようになるまでには、あなたの使徒的な熱意がじゅうぶんであると思ってはならない。聖体拝領は、信仰心の秘跡、一致のしるし、愛のきずな(聖アウグスチヌス ヨハネ13章注解26参照)だからである。

<信徒の教育>

〔593〕200 キリスト者が、この超自然のたまものを絶えずより豊かに得るように、教会の祭礼の持つ信仰心の宝を、適当な講話や、特に特定の時期に開かれる会合や集会、一週間にわたる研究会などによって、注意深く教えなさい。カトリック・アクションの会員は、イエズス・キリストの国を広げるために教役者を援助するよう常に準備ができているから、そのような場合にあなたの助けになるであろう。

<誤った考えが広まらないように>

201 しかしながら、敵が主の畑に侵入して、麦の中に毒麦をまかないように(マタイ13・24〜25参照)よく注意しなければならない。誤った「神秘主義」や、かってわたしが否定した(回章「ミステチ・コルポリス」〔回勅シリーズ6〕)有害な「静寂主義」などのような危険な誤りが、あなたの群れに紛れ込まないように、また危険な「人間中心主義」が魂を迷わせ、カトリックの信仰の根本を動揺させる欺瞞的な教えにまどわされないよう、また行き過ぎた尚古趣味を祭礼の中に取り入れたりしないように、注意しなければならない。また、栄光化されたキリストの人性が「義化された者」のうちに現実に常に住み、数として一つの同一の恩恵がキリストと神秘体の成員とを結びつけているという誤った説が広まらないよう注意深く警戒しなければならない。

<司教の務め>

202 困難に会っても、勇気を失ったり、司牧的配慮を怠ったりしてはならない。「シオンでラッパを吹きならせ。……集会を召集し、民を集め、集会を聖別し、老人を集め、子どもと乳飲み子を呼び寄せよ。」(ヨエル2・15〜16)全世界のキリスト信者が、教会にそして祭壇にぞくぞくと集まり、生きた枝体として神であるかしらのもとに結合し、秘跡の恵みに養われ、キリストとともにキリストを通して尊い奉献〔ミサ〕を祝い、天の父にふさわしい称賛をささげるよう、あらゆる努力を尽くしなさい。〔教会における司教の司牧任務に関する教令15・2〕

結 語

<この回章の目標>

〔594〕203 尊敬する兄弟の皆さん、以上がわたしの書きたかったことである。わたしの目標は、わたしの子でありあなたがたの子〔であるキリスト信者〕が、教会の祭礼に含まれている貴重な宝をよりよく理解し、その価値をよりよく把握するようになることである。十字架上の奉献を再現し、更新する感謝の奉献〔ミサ〕、神の恵みと神の生命の川である諸秘跡、そして天地が日々神に歌う賛歌〔聖務日課〕をいっそう深く理解してもらいたい。

<怠慢な者に対して>

204 わたしがあえて望むことは、以上のべた訓戒が、怠慢な者や反対する者を、教会の祭礼をより深く正しく研究するよう導くばかりでなく、「霊を消すな」(一テサロニケ5・19)という使徒のことばに従って、かれらの生活の中に超自然的な影響を与えることである。

<行き過ぎた者に対して>

205 残念ながら賛成しかねるような行き過ぎたことを時々述べたり行なったりする者に対しては、聖パウロの勧めをくり返そう。「すべてを試してよいものを選びなさい。」(一テサロニケ5・21)そしてイエズス・キリストの花嫁であり、諸聖人の母である教会の教えるキリスト教の教義に従って考え行動するよう、父として忠告する。

<指導者に従え>

206 すべての人に、自分の牧者に心から忠実に従うべきことを思い起こしてもらいたい。牧者は、教会生活のすべてを、特に霊的生活を規正する権利と義務を持っている。「あなたがたの指導者の言うことを聞き、それに従いなさい。指導者は、いつか責任を問われる者として、あなたの魂のために警戒しているのです。指導者が嘆かないで、喜んで務めを果たせるようにしなさい。」(ヘブライ13・17)

<地上の祭礼は天上の祭礼の予表>

207 われわれが礼拝する神は、「不和の神ではなく、平和の神である」(一コリント14・33)から、われわれ皆が一つの心一つの精神をもって、この地上のさすらいの間も、いわば天上〔595〕の祭礼の準備であり、その予表である教会の祭礼〔典8参照〕に参加させてくださるように。天上においては、神の母わたしたちの最愛の母〔マリア〕とともに、「玉座にいますかたと、小羊とに、賛美と誉れと栄光と権力が世々に」(黙5・13)と歌うことができるように。

<祝福>

208 尊敬する兄弟の皆さん、こうした喜ばしい希望に強められ、あなたがたひとりひとりと、あなたがたの配慮にゆだねられた群れに対して、天のたまものの保証として、またわたしの特別な善意のしるしとして、心から使徒的祝福を送る。

ローマ近郊、カステル・ガンドルフォにて
教皇登位第九年目
一九四七年十一月二十日
司教にして、教皇、ピオ十二世