拝復

御著書並びに請願書確かに拝受いたしました。

さて、ヨゼフ・マリ・ジャック神父様のご帰国については、初めて承り、驚いています。もし、師のご帰国が昨年の司教会議の議題に取り上げられた聖体拝領の問題と関わりがあるとすれば、まったく悲しい事です。

ご承知と思いますが、教区に働いている宣教会所属の司祭の移動については、教区長と管区長が同等の権限を持っていて、第三者がくちばしを入れる余地はありません。しかし、神父様の帰国が「手による聖体拝領」の問題が原因になっているとすれば、残念至極です。

実を申しますと、「手による聖体拝領」は、日本の司教団に聖座から実施を許可されたものです。従って、そのような拝領の仕方は義務ではありません。それで、「手による聖体拝領」を実際に許可するかどうかは各教区で司教が自由に決める事ができます。私は従来の舌での拝領を原則的には守らせています。このような拝領の仕方が、今のパパ様の要望に合っている事も承知しています。

実は先日古くから知り合いのドイツ・ミュンヘン大司教区の一老司祭の来訪を受けましたが、この方の話しによると、同教区では、現在、一人の司祭が五つの小教区を受け持っているケースもあるとの事です。ご承知のように、ドイツでは手で聖体を拝領する習慣のある国です。このような習慣と現在の司祭不足との間に何か因果関係があるような気がしてなりません。聖別されない手でご聖体を扱っているうちに、手の聖別(司祭叙階)の必要が忘れられたのかもしれません。

とにかく「手での聖体拝領」は、あくまでも許可によるもので、従って、それを実施するかしないかはそれぞれの教区で事情に応じて決めるべき事柄です。ローマや聖地では「舌での拝領」が守られているとの事です。皆様同様、ジャック師の離日を私も残念に思っています。しかし、前にも申しましたように、私としては打つ手がありません。幸い同師の強い信仰を皆様は十分ご承知の事と思いますので、同師のように真にカトリックの信仰の○○(判読不能)に生きる事が、今最も要求されている事のように思われます。ご自愛のほど…

一九八三年四月二十二日

○○○○様

枢機卿 ヨゼフ 里脇浅次郎