回勅『フマネ・ヴィテ』は愛への挑戦  — ジャネット・E・スミス

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避妊は性行為に付随するきずな形成の側面を侵す

 複数相手のセックスを望むのはたやすいことでも、普通であれば、赤ちゃんを作る相手は一人の人間とだけにしておきたいものです。「君とはセックスしたいだけなんだ」もしくは「君と一緒になって子供の親になりたい」という体の言葉には全く異なる意味が込められます。

 避妊が間違っているのは、それが性行為にある産児の側面だけでなく、きずなの側面も冒すからです。教皇ヨハネ・パウロ二世は、避妊をする夫婦がなぜ性行為の際に真の夫婦の一致に至らないかを熱心に説明なさいます。教皇によれば、性行為は自分を与え尽くす行為であるはずです。ですから自分の受胎能力を配偶者に拒むことは相手に自分を与え尽くさないことになるです。教皇は「体の言語」という興味深い言い方を駆使してそれを論証なさいます。その主張によれば、体の動作には言葉と同様に意味があります。わたしたちの行為に意味が込められていないのであれば、言葉でうそをついてはいけないのと同じく、そういう行為は控えるべきであると言われます。両方の場合とも、うそをつくことになるのです。

 性的一致にはだれでも認める意味があります。それが意味するのは「君は魅力的だ」、「君が好きだ」、「君を幸せにするよう努力するよ」、「君との間に強いきずなが欲しい」ということです。ある人たちは性行為の際にもこういうことを言うつもりがありません。彼らは単に自分の性的欲望満たすために相手を利用したいだけです。彼らは自分の体でうそをついています。それはちょうどある人にひたすらに何かをしてもらいたいから口先だけで「あなたを愛しています」というのと同じです。

 複数相手のセックスを望むのはたやすいことでも、普通であれば、赤ちゃんを作る相手は一人の人間とだけにしておきたいものです。「君とはセックスしたいだけなんだ」もしくは「君と一緒になって子供の親になりたい」という体の行為は同じに見えても、その言葉は全く異なります。一般的に、わたしたちは一緒に子供を産み、育てたいと思う人を真に愛し、全生活がその人の生活とかかわることを望むものです。わたしたちは子供がいることで互いに一つになるような方法でそのような人と一つになりたいのです。わたしたちは全生活がその人の全生活と絡み合うほどに一つになることを望みます。その人と共におしめを買いに行きます。その人と共に御誕生会をします。その人と共に子供たちを学校に出し、彼らの結婚式の準備をします。避妊などしない性行為の意味は「幸せなときもそうでないときも、病気のときも健康なときも、死がわたしたちを分かつまで」という結婚式の誓いの言葉のとおりです。共に子供を設けることはその人と一生の仕事を分かち合うことにほかなりません。

 産児の可能性に開かれた性行為は配偶者が同意したあのきずなを象徴しています。人工避妊はその反対に、性交は欲しても、相手との永久的きずなが欲しくないというメッセージを伝えます。永久的なきずなの可能性が、正にそのようなきずなの望みを最もよく表現するはずの行為から、意図的に取り除かれてしまっています。その性行為はうそになってしまいます。ですから、避妊は自分の体、自分の神、自分自身の配偶者に対する反逆行為です。

『フマネ・ヴィテ』研究会 成相明人訳