クリスマスおめでとうございます
出水カトリック教会主任司祭主任司祭 
ヴィルヘルム・フリチエル
(出水カトリック教会報・アゴラ96号から)
 
まことにクリスマスはめでたい喜びを与える祝いであります。その上にキリスト信者だけではなく、すべての人に関係のある祝いです。なぜならイエス・キリストの誕生によって人類は救いを得ることができたのです。神から離れた人間が再び神の方へ戻ることができるようになって、いつか善意の人々のために準備された神の国に入ることができるのです。
 
クリスマスは本当にすべての人の祝いであります。だから、今どこの国でも人々がいろいろな方法・催しでクリスマスを祝います。これはとても良いことですが、クリスマスの本当の意味をよくわからなければなりません。クリスマスは単なる誕生会ではなく、すべての人々の救い主の誕生を祝うお祝いです。
 
70年の間、わたしは実に様々なスタイルのクリスマスを祝いました。駆け足で記憶をたどってみましょう。幼年時代、わたしの家はチェコ・スロバキアの大きな町にありました。町の広場には10メートルぐらいの大きなクリスマス・ツリーがあって、夜になるとこのツリーは電気ローソクで輝いていました。また、母は毎年12月になるといつもこっそりとクリスマスの準備をしたものでした。でも、クリスマスが近づくにつれて家中に何か、秘密の喜びが隅々まで行き渡ったものです。いよいよクリスマス前夜になると、父と母は、わたしと兄姉のみなは、応接間に呼び集められ、みんなが揃ったとき、ツリーのローソクに灯をつけました。ツリーの下にはわたしたちが互いのために準備したプレゼントがあり、ツリーの下で父は聖書を読み、続いてみんなでお祈りをして、クリスマスの歌を歌いました。
 
それが終わるとプレゼントを開いて、互いに「クリスマスおめでとう」の挨拶を交わしてから、きれいに飾った食堂に行くとご馳走がありました。真夜中には、クリスマスのお祝いのために町では花火も上げられました。教会の鐘が町に響いたとき、みんなで教会へ行って、救い主イエス・キリストの誕生を祝うミサに与りました。想い出すと子供時代のクリスマスはは本当に楽しいものでした。
 
もう一つ思い出すのは、神学生時代のクリスマスです。ここでも非常に家族的な雰囲気でした。校長先生は父のようであったことを懐かしく思い出します。この方は、すべての神学生のためにプレゼントを用意して配っていました。やはりプレゼントすることもクリスマスにはふさわしいことです。キリストによって全世界の人々は救いという大きな、また、人間のために必要なプレゼントを神様からいただきました。この意味でクリスマスにプレゼントを交換する習慣が生じました。また、神学校では、みんながそれぞれの楽器を使ってクリスマス演奏会も行いました。さらに、ミサのときには聖歌隊で賛美歌を歌ったこともありました。とにかくみんながクリスマスの喜びを表したかったのです。
 
でも、一番印象を残っているのは戦争のときのクリスマスです。終戦も近いころ、プレスラウという町の中で、(現在はポーランドの町)激しい戦闘が続いていました。クリスマスもだんだん近づいて来て、わたしも仲間もみんな「クリスマスはどうなるのだろうか。そのとき自分たちはまだ生きているのだろうか」と考えるようになっていました。幸いに、ロシアとドイツ両軍の司令官の話し合いによって、クリスマスの間は停戦ということになって、みんながうれしかった。そのクリスマス・イブの出来事は次の通りでした。突然ロシア軍の陣地からピアノの音が響いて来たきたです。わたしのグループはみんなしばらく息を殺して静かにこの音楽に聞き入りました。その後、ロシアの兵隊もドイツの兵隊もそのピアノの音に合わせて全世界に伝わっている「きよしこの夜…」という有名なクリスマスの歌を歌いました。敵でありながら、みんなが一つの心となったのです。そのままで平和になればいいのにと、きっとみんな考えたことでしょう。
 
イエス・キリストの誕生には世界の人々を結ぶ力があります。この戦場にクリスマス・ツリーやデコレーション・ケーキ、ご馳走、プレゼントなどはありませんでした。でも、キりスト様がわたしたちのうちにいらっしゃいました。どんなに豪華な、どんなに静かな、貧しいクリスマスであってもクリスマスの中心は、救い主キリストでなければなりません。この意義をよく心にとめてください。イエス・キリストの誕生はわたしたちに喜びと平和と愛を与えます。これを受けるために一つのことが必要です。すなわち、わたしたちは心の清い人、心の優しい人にならなければなりません。そして、人々に助けを与える心も必要です。クリスマス、この日のお祝いにあたって謙遜と素直な心をもって、幼子イエスを仰ぎましよう。そのときこそわたしたちの心は喜びと平和と愛とに満たされるでしょう。なぜなち、その夜、神の使いは「すべてを越える神に栄光、御心にかなう人に平和」声高らかに歌ったからです。