日本カトリック教会の分裂

その癒しは教皇様との深い一致

(ヴァチカンの道23号に投稿した原稿) 

船員たちの悩み

 

わたしはポート・チャプレンですから、依頼があれば鹿児島港に来る船の中でごミサを捧げます。今年も船上でご復活のミサを捧げました。ミサのあと昼食をご馳走になっていると、非番の船員が三人自分たちの悩みを聞いてくれと言ってわたしの前に座り込んでいます。それは以下のようなものでした。

船員1・神父様、わたしの悩みを聞いて下さいよ。わたしは男の子が欲しかったのに家内は女の子ばかり六人も生んでしまって、六人目が生まれたときはもう神様にお祈りするしかないということで家族総出で男の子を下さるように願って祈り始めたんです。四年後やっと待望の男の赤んぼが産まれ、家内はクリスマスに生まれたこの子にイエズスという名を付けようとしたのに神父が反対。そんならキリストはどうだろうと迫ったら、それも駄目。結局Jesus Christの下線の部分を取ってジェクリという名前を付けることにしたんですよ。解決してしまったけどこれはわたしにとっては大問題だった。そのジェクリももう六歳になります。大きくなったら神父になるなどと言ってるけどどうしよう、神父様?

船員2・ぼくは女の子も欲しかったのに家内は男の子ばかり四人も生んでしまったんです。ところが今朝家内に電話してみると、見知らぬ女性が女の赤ちゃんをもらってくれないかと頼みに来たと言うんです。自分の一存では決められないからわたしに相談してからと言って帰ってもらったそうです。母親のそばにいた末っ子が大きな声で「父ちゃん、かわいい子だからもらおうよ」と言っているのが聞こえるではありませんか。神父様、どうしようか?

船員3・十四番目に生まれた末っ子のぼくは休暇が忙しくて、せっかくの休みだというのにへとへとに疲れてしまうんです。それがぼくの悩みなんだ。ぼくは十一人の姉や兄たちの家族を訪問しなければならないんですよ。その他に兄と姉が一人ずつフロリダに住んでいるからそこまでは訪問しなくてもいいからホッとするけど…何十人もいる甥や姪たちへのおみやげを準備するのは大変なんだから…

産めよ、殖えよ

「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』」(創世記 1・28)(創世記 9・1、9・7、35・11も参照)。これが聖書の教えであれば、わたしが若い夫婦とか結婚を控えたカップルに「少なくとも三人は生みなさい」と教えるのは当然であると思いませんか? であれば女性は神様の摂理と自然の仕組みによって、二人子供を産んだときにもっとも輝かしく、美しく、セクシーになる、つまり夫の目にもっとも好ましく見えるのではないかというのがわたしの意見です。そう思って世の中を見回すとこの説には説得力があり、自分では納得してしまうのですが、皆さんの意見も聞きたいものです。ところが、米国でこの持論を披露したところ、「神父様は間違っている」という人物が現れました。ウィンクしながら彼曰く「うちの家内は六人子供を産んだ今が一番美しい」と言うではありませんか! これは生命の賛歌、生命の文化そのものであると言えましょう。ちなみにその家族には他にもう一人養子がいます。一夜夕食に呼ばれて子供たちにも会いましたが、日本でよく見るひよわな一人っ子とか二人っ子と異なり、両親から無条件の喜びのうちに迎えられ、祝福されているその子供たちの愛らしさは紙面に書き尽くせません。ヴァージニア州フロント・ロイヤルと呼ばれるその小さな町には七人以上の多子家庭が何軒あるか主任司祭のビル・ルール師も知りませんでした。彼の怠慢ではなく、そういう家族が余りにも多くて数え切れないのです。

教会内の不一致

子供は少なくとも三人…というわたしのこの説を、今年四月北海道であった滞日外国人担当のあるフランス人宣教師に披露したところ、「あなたはそんなことを言うけど、結婚していないあなたにそんなことを言う資格があるのですか? 三人目の子供の学費をあなたが負担する用意があるとでも言うのですか? 結婚した人たちの生活は苦しいんですよ」と反撃を食らってしまいました。日本は世界で何番目に貧しい国なのでしょうか? 子供(特に三人目以降の子供)は重荷、神様からのたまものでなく、金がかかる呪いであると考える死の文化に彼が荷担していると思われても仕方のない言葉であると思います。こういう偏見があるといくら議論しても無駄というものです。その神父様は他にいい仕事をしておられるだけに残念でした。

同じく北海道でその会議に出席していらっしゃった某大司教(当時は司教)様は、わたしが回勅『フマネ・ヴィテ』の教えを大事にしようという意味の発言をしたところ、人工避妊については「神父によって答えが違うようになったので、信者はもう神父たちに相談しなくなりました。夫婦は自分たちで人工避妊するかしないかを決めるようになったのです。これは信者が大人になった証拠であり、良いことです。神に感謝!」とおっしゃったのです。大司教様、あなたは「教皇様の回勅の教えはエクス・カテドラではないから信仰箇条ではない」ともおっしゃいましたね? 大司教様、カトリック信者であれば教皇様の通常の教導職にも信仰をもって従わねばならないのです。ご存じ無かったのですか? しかも、人工避妊の悪については1930年12月31日に出された回勅『カスティ・コンヌビイ』以来諸教皇によって繰り返して教えられています。このように繰り返しがあるとき信者はその特定の教えを信仰箇条として受け入れなければならないのです。教会憲章25には以下のように書いてあります。「ローマ教皇の真正な教導職に対しては格別な理由で、たとえそれが教皇座宣言(ex cathedra loquitur)でないときにも、意志と理性のこの敬虔な従順を示さなければなりません。すなわち、教皇の最高の教導職を尊敬をもって認め、教皇の言葉に、教皇が示す考えと意向のとおりに、誠実に同意しなければなりません。なお、教皇の考えと意向は主に、文書の性質、同じ教えの繰り返し、表現方法などから明らかになります」教皇大使閣下、あなたは教皇様に司教候補を最終的に推薦する前に、彼が回勅『フマネ・ヴィテ』をどう思っているか、それまでに何回この回勅を擁護する説教をしたか、この回勅を弁護する論文をいくつ書いたか、司教としても回勅『フマネ・ヴィテ』の教えに忠実であることを約束できるかを確かめるのですか? わたしが教皇大使であればこの大司教は絶対にテストをパスしなかったはずです。冗談じゃなくて本気。わたしは怒っています。彼の改心のために祈りたい人にはここで名前を伏せているその方がどの大司教であるかをお教えしましょう。

回勅の重みについて付言します。二人の人が電話で話すとき、もしくは本人同士が向き合って話すときに、普通であればそれが本人であるかどうか、また話していることが真実であるかどうか疑うことなどしないものです。しかし、土地の売買とか会社の譲渡とかになれば、当然のこととして書面に契約文を書き、署名し、役所に登録された印鑑を押します。証人も陪席して同じように署名捺印するでしょう。前者は教皇様の通常の教導職に含まれる回勅の教えに当たり、後者は全世界の信者が信じるべきこととして教皇様が公に宣言なさる信仰箇条(エクス・カテドラ)に当たります。ニューマン枢機卿は「教会の教えはキリストの掟です」と教えておられますが、心すべき言葉ではありませんか? これはキリスト教の入門でもあり、その奥義であるとも言えるでしょう。これを守れない人はカトリック教会の中に分裂の種をまきます。

同じく北海道での出来事です。熊本にコムスタカというグループがあって、滞日外国人を支援しています。今までに共同でいくつかのケースにも当たってきました。昨年このグループは、離婚した日本人女性と子供がいる(従っておそらく妻もいると思われる)パキスタン男性が共に住めるように願う署名運動に協力を求める手紙を送ってきました。この男性は当時不法在留が判明して強制帰国させられていました。離婚していけないのはキリスト信者だけではありません。「だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マタイ19・6)。イエス様は「キリスト教徒である二人は…」と限定なさいませんでしたから、異教徒であるこの二人にもこのルールは当てはまるはずです。わたしが署名運動に協力しなかったのはもちろんのことです。せっかく、二人の同居を認めようとしない日本の入管行政の決定が、この二人がそれぞれの配偶者の許に戻るきっかけになったかもしれないのに、カトリック教会内の一団体が教会の教えと一致しないどころか、まさに逆行するような運動を展開していたのです。これはまったく余計なお世話と言わなければなりませんが、そこでわたしのこの理屈を理解できた人は一人もいませんでした。

そこには、「住民として地域で暮らすための情報——移住労働者——生活マニュアル」を発行したフランシスコ会の小林賢吾神父も来ていました。同マニュアルには人工避妊と人工妊娠中絶を希望する外人のために多くのページが割かれていました。一枚の紙切れがはさまっていて、その部分が教会の教えでないことに注意するよう書かれてありました。わたしたちはプロ・ライフ・ムーヴメントのジェリー・ノヴォトニ神父を中心にしてその回収を求める運動をしていたのですが、配るだけ配っておいて、それ以上は配らない、つまり回収はしないという中途半端な処理をしただけということが分かりました。反省の色は無! 横浜の司教様がお命じになったのは回収するということではなかったのでしょうか? 印刷と頒布の資金は全部教会持ちということでしたから、教会のお金が対日外国人の人工避妊と人工妊娠中絶の普及のために使用されたことになります。あるブラジル人男性を再度引用させていただきます。「神父様、日本の教会はわたしたち外人には死に絶えて欲しいのですか?」これはこういうマニュアルを認可した司教が引責辞任してもおかしくないほどの大事件です。この無神経、無感覚振りは日本の教会が教皇様と一致していないことを示す一つの兆候に他なりません。

ポート・チャプレンの集いということで、タイ国プーケットとバンコックに旅する機会を得ました。四人のタイ人司祭と話し合う機会があったのですが、異口同音にタイ人司祭の数は足りているので、外国人宣教師は不要であるという意見でした。タイでは自分もまさに外人でしたから、いささかそのような考えには反発を覚えたのですが、子供は宝であると信じていない宣教師であれば、それはもはや宣教師の名に値しない不良外人にしか過ぎません。日本で出会う外国からの宣教師の何人かについて考えてみると、タイ国カトリック教会の英知をうかがい知ることができます。

当教区で働く某ドイツ人司祭は選りに選ってこのわたしに受精卵はまだ人間でないどころか、三週間目ぐらいまでは人間でないと教えようとしたものです。その意味がお分かりですか? つまり、人間ではないから初期の人工妊娠中絶は人工妊娠中絶ではないと彼は言いたいのです。回勅『フマネ・ヴィテ』に対する猛烈な反対者として米国で著名であったベネディクト会のキーラン・ノーラン神父は東京の目黒教会にいます。彼から志願者募集の案内状が送られて来たので召命増加の秘訣として『フマネ・ヴィテ』研究会の案内に行ったところ、まったく考えが異なることが判明して失望しました。回勅『フマネ・ヴィテ』に関する日本司教団の声明(22号参照)について「あなたは日本司教団が未信者男性と結婚した信者女性に同情して決めたことが理解できないのですか?」と大声でわたしを怒鳴りつけたものです(わたしも怒鳴った)。一時メリノール会の幹部であったある神父はわたしに「回勅などというものは教皇が自分の影響力を試すために出すもの」であると教えようとしました。こういう宣教師らしからぬ宣教師であればむしろ来て欲しくないタイ人司祭たちの気持ちはよく分かります。こういう宣教師を抱え込んだ教会はまるで毒を飲み込んでしまったようなものではありませんか? もちろんすべての宣教師が悪いわけでもなく、日本の教会が宣教師たちによって形作られてきたことをわたしが否定するわけでもありません。

さらに宣教師でなくても、教皇様に忠実でない日本人聖職者も残念ながら負けず劣らずいることも事実です。それは司教様方の勇気の欠如、悪い模範、指導不足のせいです。教皇様の回勅をある信者からプレゼントされて「こんなものは要らない。教皇は教皇、日本の教会は日本の教会。もう日本の司教団にも不可謬権があるのだから」と言ってそれを投げて返されたのは東京教区のある司祭です。何たる愚かしい神学でしょう! 教皇様と一致できない司教団に不可謬性があるわけはありません。(そう言えば現代は神学者たちにも不可謬性があるというのがハンス・キュングを始めとする一部の神学者たちの意見のようです。)しかし、このような司祭を非難する前に、サレジオ会の故マンテガッツァ神父様から司祭団との会合の席上で、ローマと地方教会との関係について質問されて「ローマはローマ。地方教会は地方教会。わたしたちにローマからの干渉は不要」という意味のことを公言なさった森司教様がその方の長上であることを知っていれば、それほど驚くべきことではありません。その司教様はマンテガッツァ神父様から「ところであなたを任命したのはだれですか? ローマではないのですか? であればあなたは裏切り者です!」とまで大声で非難されたものです。居合わせた司祭たちはそれを聞いて全員拍手したと伝えられています。これは実に恥ずかしいことではありませんか? 司教様方のために真剣に祈りましょう。手作りの教会が人工避妊を時としては認めるなどとするローマと違う教えの教会であれば、それはまさに異端の教会に他なりません。

「キリスト信者はカトリックとプロテスタントに分かれていましたが、現代のキリスト信者は心の清い人とそうでない人(つまり神様が計画なさった子供たちをこの世に迎える純潔な人々と不倫とか同性愛とか人工避妊の誘惑に負けて滅びてしまう人々)とに分けられるようになりました」と言ったのは、一昨年ローマで開催された回勅『生命の福音』大会でお会いしたドイツ人医師ジークフリート・エルンスト博士です。博士は教皇様をより効果的に擁護するためにドイツ福音派のプロテスタント教会(ルーテル派)に留まっておられる方です。何人かの息子さん方はカトリックになっておられます。

ドイツと言えば、カール・ラーナーは人間化(hominization)という言葉を使用して、妊娠初期の人工妊娠中絶を容認しようとしました。これなどは教会の教えに反するだけでなく、生物学の常識にも反します。まさに快楽至上主義の避妊社会へのおもねりに他なりません。こういう間違った倫理神学のためにドイツは死につつあります。ドイツのこのような神学は日本の教会にも明らかに影響を及ぼしています。回勅『フマネ・ヴィテ』拒否の先頭に立った故ユリウス・デップナー枢機卿様はドイツ教会が犯したこの過ちを認めて、全ドイツ国民に国営テレビを通じて謝罪なさいました。しかし、時はもう遅すぎてドイツの人口学的凋落をくい止めることはできませんでした。人口学的な推移は大船と同じで小回りが利かないのが特徴です。自然に反したことをすると、自然は手痛いしっぺ返しをするものです。

現在日本司教協議会の会長であられる浜尾文郎司教様にかつて熱海の会合でご一緒したときに、回勅『フマネ・ヴィテ』に関して1968年日本司教団が出したあの致命的声明(21号参照)についてお尋ねしました。そのときのお返事は「そんなことは覚えてないなあ」ということでしたね? その後思い出して頂けたでしょうか? もし思い出して頂けたのなら早速回勅『フマネ・ヴィテ』への全面的従順を信者に勧める教書をお出しになられたらどうでしょうか? ところで最近日本司教協議会常任委員会がクローン人間反対の文書を出しました。文書自体にことさら問題はありません。しかし実は、日本の司教様方にはあのような文書を書く資格がないのです。回勅『フマネ・ヴィテ』に対する態度があいまいで、人工避妊に対して教皇様と百パーセントの一致がない間は、あのような文書をもうお出しにならないで下さい。見苦しいことです。特に、1968年に司教職にあられた方たちが人工妊娠中絶とかクローン人間に反対するのを聞くと、その一貫性の欠如に驚いてしまいます。人工避妊の容認は滑りやすい坂の一番上で滑って転ぶことに例えられます。その理由は坂の下まで間違いなく滑り落ちてしまうからです。坂の下にあるのは人工妊娠中絶、安楽死、老人殺し、不倫、離婚、その他の性道徳の退廃、いじめ、自殺、犯罪の増加、同性愛者の社会的認知、クローン人間です。これらの多くはアメリカに本拠を置いて世界的規模の生命擁護運動を展開しておられるポール・マルクス神父様が以前から予言なさっていたことです。人工妊娠中絶の八十パーセントは人工避妊に失敗したからである、という数字を司教様方はどうお考えですか? 回勅『生命の福音』の中で、教皇様は人工避妊メンタリティーと人工妊娠中絶メンタリティーは同一であると教えておられます。人工妊娠中絶だけに反対するのでは片手落ちです。日本の司教様方も教皇様と同じ勇気をお持ち下さい。まさか、そんなことを言えば改宗者が減るのではないか、献金が減るのではないかとお考えになっているのではないですよね? 実はその逆が真なのです。洗礼と召し出しは神の恵みですから、神様がお喜びになることを司教様方が教えていさえすれば、教会は何の心配もしなくていいのです。わたしたちは司教様方の現状に失望しています。

教皇様に反対して人工避妊ピルを祝福したドイツの司教団と回勅『フマネ・ヴィテ』の教えをあいまいにしてしまった日本の司教団は似たり寄ったりです。あなたたちは「日本の家屋は狭いので、禁欲を伴う産児調節はできない」と思い、そのような指導をなさっています(二十一号参照)。(たいていの夫婦は司教様方のこの見解を聞かされると、滑稽だと言って、噴き出してしまいます。)五人ほどの例外はあるものの司教様方は人工避妊の悪を大声で説こうとなさいません。あなたは何回人工避妊の悪について説教しましたか、とわたしに訊かれて返事ができなかった司教様もいらっしゃいます。その司教様は二度ほどはその趣旨の立派な文章を書いておられますが、それは決して十分でありません。「成相神父様、あなたがこの問題に詳しいからあなたがやりなさい」とおっしゃられたので、わたしは従順にこのような文章を書いています。しかし司祭のわたしがどれほど頑張ってみたところで、同僚司祭たちにとってはあくまでも自分たちと同じレベルの仲間が言ったこととしか聞こえないようです。ある司祭からは以下を聞かされました。「成相神父さん。あなたの言うことにわたしも全面的に賛成。だれもあなたに反対する人なんていないと思うよ。しかし、回勅『フマネ・ヴィテ』に書いてあることを実践するとなると問題は別」そのような司祭であっても、相手が司教様であれば同じような横着なことは絶対に言えないはずです。ここは一つ日本中の司教様たちの出番です。わたしたち下々の神父や信徒は司教様方からは教皇様とまったく同じ教えを期待しています。下手に右顧左眄なさらないよう伏してお願いいたします。その暁にはわたしたち『フマネ・ヴィテ』研究会会員は全員力の限り応援いたします。

お知らせ

二十号でわたしが批判したカトリック新聞は、一時その購読を止めさせる運動をしなければならないほど「異端的」(20号参照)でしたが、編集長が交代しても変化はおそらく無理でしょう。読者の皆さんは警戒しつつも購読なさって下さい。ただし「第三世界に関しては人工避妊を容認するべきである」と書いた横浜教区の芳賀芳子女史の記事を掲載することに編集会議で賛成した半数の記者たちは(悔い改めがなければ)辞任すべきか、解雇されるべきであることは明らかです。教会から給料を受け取りながら、教会の教えでないことを普及するような記者たちは泥棒であると言っても過言ではありません。獅子身中の虫という言葉もありますが、彼らはまさに教会に巣くう寄生虫です! フィリピン取材旅行に行ったエイズ問題研究班の男性は、取材したアウロラ博士の言葉の引用ではありましたが「エイズ予防のためにコンドーム使用を認めない司教たちは石頭である」とまで言っているのに、そういうことを掲載した新聞に対して何のお咎めもなかったとしたら、咎めない担当司教にこそ問題があります。エイズ研究班の班長であった鹿児島教区の小川靖忠神父からも公に何らかの釈明があってしかるべきでしょう。エイズ研究班の班長であれば、当然班員の発言には責任があります。自分の見解も同一であると思われても仕方ありません。

なお、わたしの書く文章中に名指しの非難があることで、ある司教様から注意を受けました。しかしこれは生命の文化と死の文化の間に繰り広げられる戦争です。銃撃したり、爆撃したりするときには狙いを定めなければなりません。名指しでなければただでさえ無視される非難が、ますます無力化されてしまうであろうことも考慮に入れて下さい。名指ししなければ、信徒はまるで霊的ゾンビのようなとんでもない司祭を霊的指導者に選んでしまいます。連れ立っての行く先はご想像に任せます。名指しで非難を受けて不満なら、反撃なさったらいいのです。死者の場合ですが、死者は天国か、煉獄か地獄にしか行きません。わたしの非難が正しいものであれば、天国と煉獄にいる死者はそれを喜んでくれるはずです。地獄にいる霊魂が怒り狂ったとしても、それは仕方のないことです。彼らはもはや決定的に神から離れてしまっていますから。地獄の霊魂を喜ばせる秘訣はわたしたちもそこに落ちるようなことをしたり、実際そこに落ちること以外にはありません。

いのちはだれのもの

不一致と言えば、ジャン・マリ・モレッティというフランス人のイエズス会司祭が書いた「いのちはだれのもの」という本が女子パウロ会から出版されました。読んでみると人工避妊と人工妊娠中絶に関して紛らわしいことが書かれてあります。女子パウロ会には抗議したのですが、突っぱねられてしまいました。詳しくは以下の書評を読んで下さい。■

書評

 

 

いのちはだれのもの

生命倫理、進化、創造について 

神父と若者の対話

 

著者 ジャン・マリ・モレッティ

訳者 中島公子

出版社 女子パウロ会

上記の本について若干の問題点を指摘いたします。全体的に見ると信者・未信者にとって役に立つと思われますが、その中に含まれるいくつかの点は不十分であるというより、むしろ誤解を招きかねません。その他の部分がカトリックの教えに沿っているだけに、十分にカトリック教会の教えを反映していない部分があると、判断力がなかったり、さほど深く考えない読者は誤った結論に導かれ得ます。従って、本書は危険であり、有害であると結論します。本書は市場から回収されるべきです。

問題点一 (三十九ページ)

ピルは、発ガン性があるどころか、逆にある種のガン(子宮頸ガン、乳ガン)に関しては予防性があるとまでいわれました。けれども、一方わたしは最近、アングロ・サクソンの国々での調査を読みましたが、結果は相互に矛盾しています。ただ、確信があるわけではありませんが、現在の低含有量のピルは、正常な女性にとって危険ではないように思われます。たばこを吸わない、脈管に問題がないという条件付きですが。

 

けれど、いずれにしても、三十五歳から四十歳頃にはピルを服用するのはやめなければならないでしょう。デリケートな生理サイクルを長年の間妨害して、支障をきたすことがないというわけにはいきません。

 

避妊にはなんであれ、医者による、きちんとした、定期的なチェックやコントロールが必要です。

 

反論

避妊ピルの人工妊娠中絶促進作用にまったく触れていません。母胎には無害であっても、着床を阻止された受精卵がどうなるかについて、つまり受精卵イコール一人の人間が母親によって殺されてしまう可能性についてまったく目を閉じています。本書は三十五歳以前ならピルの使用が認められるような印象を与えます。たとえ母胎の健康に害がなかったとしても、人工避妊行為が本質的悪であれば、いつでも、どこでも、だれにとっても許されないと教えなければなりません。つまり、人工避妊のためのピル使用はたとえ母胎に悪影響がなくても、使用者には間違いなく救霊の危機をもたらすということです。神様が一人の人間(例えば将来の司教、司祭、女子パウロ会の修道女、お父さん、お母さん、その他神様の完全性を反映する人々)を計画なさっているのに、ある夫婦がその赤ちゃんを人工避妊したり、人工妊娠中絶したりするたった一つの大罪は、例え神戸と北薩の大地震をもってしても償うことができないし、それほどの天罰を招いても不思議ではないとわたしは教えますが、間違っているのでしょうか? 地震の被害は計算できます。無限の善である神、無限に聖である神に知りつつ、強制を受けず、それほど重大なことがらに関して背く罪は少なくとも無限に限りなく近い大きな悪ではありませんか? キリスト信者になる前の公共要理で大罪については確かそのように習いました。

問題点二(四十二ページ)

女性がこの方法を当てにできないとき、たとえば生理周期がきわめて不順であるといった場合、彼女とその夫はどうしたらいいのか? わたしは、人に無理なヒロイズムを要求するほど愚かではありません。医者が、生理周期(原文のまま)を正常化してくれるかもしれません。しかし結局、避妊薬の使用がこの夫婦の性生活を救うために必要欠くべからざるものであると分かったら、安心してお使いなさい、といいます。

 

反論

ビリングス博士によると、性周期(生理周期という訳語は不正確であり、医学界では使用されません。性周期もしくは月経周期が正しい)の不順は病気ではなく、従って治療の必要もありません。不妊期間は子宮頸管粘液の観察によって知ることができます。従ってピル使用の必要はありません。出版社は歴代の教皇様が勧めておられるNFPつまり自然に基づく家族計画に関する著者の無知に気付いてしかるべきでした。回勅『真理の輝き』は殉教者は真理を証するために血を流した、と信徒を励ましています。本質的な悪である人工避妊はどんな犠牲を払ってでも避けなければなりません。教皇様が要求なさることがヒロイズムであるとすれば、教皇様は愚か者なのでしょうか? 本節はそう言っているとしか思えません。一神学者の意見と教皇様の教えと較べて、わたしたちがどちらに従わねばならないかは明らかではありませんか?

問題点三(五十から五十一ページ)

性的にもてあそばれた結婚前の少女に対しては、つまりレイプのことですが、同情と憐憫でいっぱいになります。追いつめられた状況での一回限りの行為の重みは、まったく平然とおこなわれた数回の行為の重みと同じではありません。判断するのはよしておきましょう。

 

反論

 「判断するのはよしておきましょう」という著者の態度は、果たしてカトリック教会の教えでしょうか? このような場合に同情するのは当然ですが、カトリック教会が「あなたたちは殺してはいけない」という十戒の教えを曲げることはできません。教会が駄目なものは駄目と判断してそう教えなければ、このような場合の少女は客観的には間違った判断を下すことでしょう。神父が書き、シスターが出版したのであれば、一般読者は当然このような過ちを教会の教えであると思ってしまいます。ところがこれは教会の教えとはほど遠いものでしかありません。この本のために犯されるであろう罪のことを思うとき、わたしは恐ろしさに震えてしまいます。レイプの結果であろうと、近親相姦の結果であろうと、そこに受精卵があれば、人工妊娠中絶の行為は殺人になります。同じ修道会ですが、ニューヨークにある聖パウロ書院のあるシスターは司教の出版許可があるカトリック百科事典が書棚に並べられたとき、真っ先に人工避妊の項を調べ、そこにあるのが教会の真正の教えでないことを発見しました。彼女は早速本部に報告し、その百科事典は全米の聖パウロ書院からの引き上げを余儀なくされたのです。日本の女子パウロ会もこのような精神に見習っていただきたいものです。シスター方、わたしたち『フマネ・ヴィテ』研究会会員と共に生命のためには妥協することなく戦いましょう。

 妥協の産物であるこのような本を書く著者に問題があったとしても、翻訳者とか出版社は問題を見抜くべきでしたが、彼女らの考えが著者と同じであれば無い物ねだりということでしょう。本書は教皇様が戦っていらっしゃる死の文化に余りにも譲歩し過ぎています。監督する役を受け持つ司教様たちはもっと目を光らせて、このようなまやかしを監視しなければなりません。しかし、1968年の回勅『フマネ・ヴィテ』に関する日本司教協議会の声明はある場合は人工避妊もやむを得ないという意味のことを言っているので、司教様方にも余り期待できないのかもしれません。ちなみに、鹿児島教区では司教様が婦人会に本書を良書として推薦なさり、純心女子大学教授で当教区の司教総代理某神父様は同大学で使用する教科書として本書を採用なさいました。

わたしの抗議に対する

女子パウロ会の反論

 女子パウロ会の担当者からは丁寧な言葉で書かれた抗議と反論の手紙を受け取りましたが、私信だからということで引用することは許可してもらえませんでした。しかしその内容をよく読むと、八ページに吉山登神父様が書かれた「この本を読むかたのために」とあちらこちら少しずつ変えてはあっても、丸写ししたのではないかと思われるほど一致しています。ですから以下には本書から引用しましょう。

科学の進歩により、人間は、人間の生命にまでかかわる技術を生み出しました…今多くの人々はそれが真に人間らしく生きることに通じるのか、本当に人を幸福にするものなのか、混迷の中で模索しています。フランスと…日本の状況とは違っているところもあることをふまえて読む必要があるでしょう。…

 

日本の一般の考え方では、生物学や合理主義的な人間の生き方をより重視する立場をとる場合が多いので、著者の説明が厳しすぎるように感じられたり、不可解に思われる点もあるかもしれません。…とくに第一章の生命に関する質問は、みな非常にむずかしい、デリケートな問題です。…個々のケースによって慎重に判断されるべきもので、一律には言及できないことがらもたくさんあると思います。しかし、このような生命の問題に関して指針になるものが少ない現在、本音は実生活の場で具体的な判断をしていくうえで貴重な助けとなるでしょう。

  

わたしの抗議に対する

女子パウロ会の反論への反論

「個々のケースによって慎重に判断されるべきで、一律に言及できないことがらもたくさんあると思います」。

第五戒であなたたちは殺してはいけない、と神がモーセにおっしゃったとき、神はレイプとか近親相姦で妊娠した場合は別だとおっしゃったでしょうか? 望まない子供を産む母親は悲惨かもしれませんが、殺されてしまう小さな胎児はもっと悲惨です。元人工妊娠中絶医で、昨年12月8日にカトリックの洗礼を受けられたベルナルド・ネイサンソン博士が監修して作成された「沈黙の叫び」(原題Silent Scream)というヴィデオを見られましたか? かわいそうな胎児が、中絶医が子宮内に挿入する器具を避けようとして、あの狭い胎内で逃げ回る様子が生々しく写されています。それを見てわたしは泣きました。こういう本を出版するのであれば、皆さんはおそらくまだそれを見ていないのでしょう。是非見て下さい。その後でも、人工妊娠中絶を例外的にではあっても容認するような本書を市場から回収しないのであれば、あなた方はもう人間ではありません。鬼です。貴修道会への召し出しは、それが神から来るものである以上、大幅に減少することを保証します。日本女子パウロ会の浮沈は、皆さん、特に責任ある地位におられるシスター方の決断にかかっています。神様はプロ・ライフですから、神様を敵に回すのは止めましょう。

以下はイタリアのある女学校での出来事です。宗教のクラスで学生たちがレイプの結果としての妊娠について討論していました。意見が分かれて結論が出せなかった学生たちは男性教師に助言を願ったのです。以下がその答え。「母はレイプされた結果わたしを生みました。産んでくれた母にわたしは心から感謝しています。わたしは生きていて毎日うれしい」ある人の「思い」がたまたま教会の教えと一致していれば何も言うことはないのですが、その人の思いとか意見とかが教会の教えと同一でない場合もあるでしょう。そういう場合必要なのは信仰による従順です。個々のケースによっておなかの中にいる赤ちゃんを殺して良い場合があったり、殺していけない場合があったりするわけはありません。慎重に判断さえすれば赤ちゃんを殺してもかまわないなどというものではありません。こう言えば、「一方的な断罪」などと言われそうですが、わたしは敢えて言います。一律に、赤ちゃんを殺してはならないのです。出版によって赤ちゃん殺しに間接的に荷担することも許されません。胎児の生存が絶望的であり、母親の生命に危険を及ぼす子宮外妊娠などの場合に実施される間接的人工妊娠中絶の場合だけが例外と言えます。

もし教会が本書のように物わかりの良いことを教えるとすると、望まれない赤ちゃんたちに対する攻撃はエスカレートの一途をたどるだけです。昨年四月米国のクリントン大統領が拒否権を発動したということで米国で話題になった部分分娩人工妊娠中絶についてはご存じでしたか? 人工妊娠中絶自体が許されてならないことではありますが、胎児を逆子にしてから鉗子で足を掴んで引き出し、頭だけを産道の中に残して置いて殺してしまうという技術です。全部生まれた瞬間から米国市民になって、法律の保護を受けるので、法律による禁止をかいくぐる手段です。日本ではまったく話題にもなりませんでした。著者とか某神父のようなヤワなことを言っていると、最後にはそこまで落ち込んでしまうのです。赤ちゃんは母親、その他の大人を攻撃するわけではありませんから、正当防衛という理由で攻撃の対象にしてはなりません。他人にして欲しいことをわたしたちもしなければならない、この掟を当てはめてみましょう。わたしたちはみな生かして欲しいし、殺されたくなどないのです。だったら、無防備の胎児をどんな事情があろうとも殺して良いわけがありません。赤ちゃんを殺そうとする女性に向かって、キリストが「人を裁くな。そうすれば、あなた方も裁かれることがない」(ルカ6・37)とおっしゃったので「判断するのはよしておきましょう」と言えば、それは「さあ、どうぞご自由に自分の良心の判断に従って赤ちゃんを殺しなさい」ということにならないでしょうか? 良心は人間の教師である前に、客観的真理の前で生徒でなければなりません。自己主張とか偏見とかでなく、神様が示される真理だけが輝かなければならないのです。回勅『真理の輝き』をもう読まれましたか? こういう場合の指針があの回勅にははっきり書かれてあります。キリストは「もう罪を犯さないように」ともおっしゃったのですが、この大事な部分を無視しているのが著者の立場であると見受けられます。社会に受け入れられるような主張を強化するために、聖書の言葉を曲げて利用してはいけません。まさかとは思いますが、シスター方は本書の回収のために生じる経済的損失のことを考慮なさっているのではないでしょうね? 神とマンモンの両方に仕えることはできません。それとも、出版の専門家であるあなたたちが無名の神父であるわたしからこのような苦情を言われて、プライドを傷つけられてかたくなになってしまったのですか? それとも顧問の司教とか神父から成相神父のことは気にしないように言われたのでしょうか? 連中とは手をお切りになることです。シスター方が「いのちはだれのもの」を出版なさったのはご自分たちの良心に従ってのことでしょうが、だからと言ってそれが必ずしも良いことであるとは言えません。オーム真理教の麻原さんにしてもサリンをまいたときには自分の宗教的確信と良心に従ってやったと推察されます。しかし彼がやったことは悪ではありませんか? 客観的真理に照らして、この本を市場から回収することを再度ご検討下さるように伏してお願いいたします。もっとも弱い立場にある胎児を大事にすることは、女性である女子パウロ会の皆さんには、男性であるわたしよりもはるかに理解しやすいはずであると思うのですが…。道徳的相対主義とはまさにこのような本のことを指すのではないでしょうか?

カトリック教会のカテキズムには以下のような指針があります。もうお読みになりましたか? 「良心は正しい情報に基づき、道徳的判断は照らされたものでなければなりません。よく形成された良心は高潔で誠実です。そのような良心は創造主の英知が望まれる真の善に合致する理性に従って判断します。いろいろな悪い影響を受けたり、自分の判断を優先させて、正当な権威を持つ教えを排斥することを選択する罪に誘われたりする人間にとって、良心の教育は欠くことができません」(1783)。「良心の形成に当たってわたしたちの道を照らす光は神の御言葉です。わたしたちはそれを信仰と祈りの中に同化し、実行に移さなければなりません。…わたしたちは教会の権威ある教えに導かれることが肝要です」(1785)。「…可能な限り、良心はすべての人の善を考慮しなければなりません(本論に関して言えば、母親と胎児両方の善)。…個人の良心と理性は道徳法とか教会の教導職に反対するものであってはなりません」(2039)。

非常に特殊な場合、つまりレイプの結果の妊娠ですが、そういうときには教会が何を教えているかに注目すればいいのです。わたしたちは個人の意見を教えるために神父になったり、シスターになったりするのではありません。ひたすら神の御旨が行われるように望むのであれば、この詰まらぬ、愚かな、物わかりのいい人間の意見ではなく、神の御旨を大事にしなければなりません。キリストはすでに語られました。聖書にキリストのみ言葉は記録されています。現代にあっては教皇様が語られるとき、わたしたちは安心して、それが神の教えであると知ることができます。人工避妊と並んで人工妊娠中絶が本質的悪であるということは教会の教えではなかったでしょうか? 1993年2月2日、教皇様がサラエヴォの大司教様に送られた手紙を引用しましょう。「たとえ、どのような事態が過去にあったとしても、そのことについて、生まれてくる子供たちにはまったく責任が無く、彼らは潔白です。それ故に、彼らが母親たちを攻撃している、とは決して考えられないことを強調しなければなりません。だから、全共同体は悲しみに打ちひしがれているこれらの女性たちとその家族を慰め、この暴力行為の悪を愛と受容の行為に変容させる手助けをしなければなりません。福音は、暴力に対して暴力で対抗してはいけないと教えています」(アントニー・ジンマーマン著、生命問題に関するカトリックの教え、80ページ参照)。こういう考えは余りにも保守的なのでしょうか?

この本には良いことがたくさん書いてある中に、良くないことが隠されているので、なおさら危険です。こことここが教会の教えと異なるから気をつけるように、と注意してくれる教師、司祭、シスターがそこにいれば読者にとっては良い本になり得るのかもしれません。しかし本は一人歩きします。この本を一人で読んで、的確に判断、批判することをすべての読者、特に若い学生たちに期待するのは無理でしょう。ですから本書は悪書であり、これ以上の害毒を振りまかないためにも市場から早急に回収されるべきです。