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Call to Action と Call to Holiness
そして日本のカトリック教会は?

(ヴァチカンの道 22号に掲載した記事を手直ししたもの)

「フマネ・ヴィテ」研究会 成相明人(鹿児島教区司祭)

Call to Actionは行動への招き、Call to Holinessは聖性への招きと訳しておきましょう。それぞれの頭文字を取ってCTA、CTHと呼びます。なお、以下の文を書くに当たっては最近のCatholic World Report, HLI Reports, Human Life International SpecialReport等から材料を得ました。

CTA

CTAは、アメリカ・カトリック教会のヴィジョンを造るために米国の司教たちに任命された千人以上の代表者たちによって1976年に創立されました。この団体は一部の司教たちのバックアップもあって当初から暴走し、産児制限、司祭の結婚、女性の叙階などを主張しています。自分たちで新しい教会の規則を作る自由を要求しながら「自分たちこそカトリック教会である」と主張し、カトリック教会に底辺から変化をもたらして改造してしまうことを望む人たちの集団です。教会の本質を脅かす存在であると言えましょう。彼らがまだカトリックであるのなら、彼らこそ獅子身中の虫、教会内部の敵です。彼らは今や教導職への反対を真理と同一列に置くことを司教団に要求する反乱グループに成り下がってしまいました。このグループと密接に関わったのがシカゴのジョセフ・ベルナルディン枢機卿です。彼を聖人扱いにする伝記ビデオとか伝記が日本でも出回っているのが気になります。CTAは昨年11月15〜17日デトロイトで大会を開催。参加者は五千人程度。これほど過激ではなくとも、手作りの教会などを主張する日本のナイスがこれに相当するのでしょうか? それとも少しだけ似ているのでしょうか? どなたかわたしに決してそんなことはないと反論して、わたしを納得させていただきたいものです。

CTAの参加者の中には教皇様から解任されてしまったフランスのジャック・ガイヨー司教を含む四人の司教が含まれます。講師陣には反対者として教皇様からカトリック大学で教職に就くことを禁じられているハンス・キュング神父とかチャールス・カラン神父がいます。もちろんネクタイ姿。(そう言えば昨年1月わたしが参加した東京での司祭生涯養成講座の講師陣もほとんどがネクタイ姿でした。以来、参加しないようにしています。)参加者は昔ヒッピー風の男女、修道服を付けていないけれど胸に付けたバッジでそれと分かる修道女、還俗した司祭、ニュー・エイジ思想の指導者たち。特徴は一般的に言って参加者たちの高年齢化、赤ちゃんや子供が見られないこと(五千人の参加者に対して九人の子供)、衰退の道をたどっている修道会に属する修道者の多さ、ゲイとレスビアン等、まさに死の文化を担っている人たちの集まりと言えるものでした。新しい生命、新しい召命、未来の欠如はまさに死の文化の申し子、避妊文化のなれの果てです。連中は第二バチカン公会議直後のあの混乱した時代に今でもしがみついているという感を与えます。彼らの生きる唯一の道は異端を捨てて母なる教会に帰ってくる以外にはありません。

COR

CTAは創立以後、Catholic Organization for Renewal(再生を目指すカトリック組織)CORを創立しています。この組織は第二バチカン公会議に霊感を得てカトリック教会を作り直し、正義と平和をもたらすと主張していますが、真実はと言えば秘跡、生命、結婚、家庭などカトリック教会が大事にしているものをことごとく熱心に破壊しようとするものです。1996年6月25日彼らはクリントン大統領に面会し、離婚、人工避妊、人工妊娠中絶、同性愛、安楽死に賛成するカトリック信者こそが米国カトリック教会の主流であると大統領に保証したものです。ニューヨークタイムスの全ページ広告で、教皇様に「あなたは人工避妊については間違った指導をしている」とか「ほとんどのカトリック信者は結婚した司祭、女性司祭、離婚に賛成している」などと通告したのもこの団体です。CORを構成する団体をいくつか挙げると、人工妊娠中絶を選択する権利を主張するCFFC(Catholic for Free Choice)、司祭の独身制度を攻撃するCITI(Celibacy Is the Issue)、女性同性愛者の団体であるCCL(Conference for Catholic Lesbians)、結婚した司祭たちの団体Corpus、もう一度公会議を開いて教会を自分たち好みに変えてしまおうとするFriends of Vat III、女性の叙階を主張するWOC(Women's Ordination Conference)。これらのグループがかなり重傷の異端であることがお分かりでしょう。

CTH

CTHはこれに対抗して、教皇様との一致、教導職への従順を大事にしてカトリック教会の伝統的教義を守ろうとする団体です。地元デトロイトのエドゥアルド・ペローネ神父がCTAに対抗して配下の信徒、その他の協力を得てわずか数カ月で組織した団体です。CTAと時を同じくして開催したCTHの大会には、チケット販売期間がわずか六週間しかなかったにもかかわらず二千四百人余の参加者がありました。参加者の中には若い夫婦、青年、子供たちが多く見られましたし、司祭、修道者は司祭服、修道服を着用していました。三十五人以上の司祭がこもる告白室前には常に長い行列が見られ、数多くのミサが行われ、永久聖体礼拝も午前六時から午後十時まで行われていました。

講師陣は例えば、CTAは道徳的相対主義への招きと説いたノートルダム大学のチャールス・ライス神父、現代は殉教者の時代であると主張したイエズス会のジョン・ハードン神父、正統カトリック出版物で知られるイグナシオ・プレスのジョセフ・フェッシオ神父、「フェミニズムと教会内の反乱」の演題で講演したドンナ・シュタイヘン女史、教会内での権利を知り、行使し、守る必要性を説明した新進気鋭の教会法学博士のリチャード・ウェルシュ神父、聖性への招きを説いたEWTNのマザー・アンジェリカ。EWTNは米国カトリック司教団が全米カトリック・テレビネットワークの設立に失敗した後、成功裏に設立された草の根カトリック・ケーブルテレビで、マザー・アンジェリカが創立者。

ハードン神父は「キリストの教会は繁栄するためだけでなく生き延びるためにも殉教者を必要とする。現代の殉教とは元カトリック信者であった人たちの下に生きること」、「平均的な司教、司祭、信徒でなく、英雄的カトリック信者だけが生き延びる」、「現代文化は『神は唯一であり、わたしがその神である』と教える異教的考えに冒されている」と説きました。同神父によると、教会が滅びることはなくても、多くの教区が壊滅してしまう可能性はあるのです。現代カトリック信者はまさに殉教者のように死に、殉教者のように生きる覚悟を必要とします。

マザー・アンジェリカの講演は勇気、ユーモア、楽観主義に満ちたものでした。司教会議で自分たちがインタビューされないことに不満を持った司教たちの一人が彼女に「あなたはどのような権限でだれをインタビューするか決定するのですか?」と質問。「わたしですよ。わたしがオーナーですから」と彼女。「だけどあなただっていつまでも生きているわけではないでしょう?」とその司教は食い下がります。「ええ、そのとおり。だけどあなたに局を引き渡す前には全施設を爆破してしまうつもりですがね」と答えたことを報告したマザーには拍手と爆笑が止みませんでした。かようにもはや信徒の期待と尊敬に応えなくなって軽くあしらわれる司教たちが少なからず存在するということでしょうか?

講師の一人マイケル・ジョーンズ博士によると、ノートルダム大学学長のテオドール・M・ヘスバーグ神父と(ロックフェラー財団から財政援助を受けている)Population Councilの委員長の間には密約があり、人工避妊に関するカトリック教会の教えを変更するために何度も会合がありました。「人工避妊がないとアメリカはカトリックの国になってしまう」というのがその理由でした。ロックフェラー財団は豊富な財政力を利用して産児制限と人工妊娠中絶を世界的に推進した団体ですが、後にヘスバーグ神父を理事に任命しています。あまり知られていないことですが、南山大学学長を勤めていた故ヒルシュマイヤー神父も人口抑制論者でした。自然に基づく家族計画(NFP)は定期的禁欲を伴うので開発途上国の人たちには実行不可能であるというのが彼の持論でした。当時NFPを推進していた同大学のアントニー・ジンマーマン神父などはそういうことを教えないように学長命令を受けたものです。

自分たちはカトリックであると言いながらカトリックの教えに心の底から、そしておおっぴらに反対する人たちはどうなるのでしょうか? 歯に衣を着せない発言で知られるエドワルド・ガンニョン枢機卿は以下のように言います。「彼らは自分自身を断罪しているのでわたしたちがことさらに裁く必要はありません。彼らは多くの人たちを伴って地獄に行きます…わたしが思うに、今日の問題の一つはわたしたちが地獄について話さなくなったということでしょう。これは多くの人たちが教会を去る原因になりました」。

日本カトリック教会は?

CTAとCTH両者の違いを見ながら、日本カトリック教会がどこに位置するのかも少しだけ考えてみたいものです。万事が曖昧な日本のことですから、アメリカのように激しく、おおっぴらに教皇様に反対する司教たちがいるようには見えません。しかし、密かに反対したり、教皇様の回勅を無視したり、自分に都合のいい箇所だけを信じる司教や司祭や信徒ならいくらでもいるように思われます。最後に挙げた種類の人たちはカフェテリアカトリック信者と言われ、彼らは特に回勅『フマネ・ヴィテ』にある人工避妊の絶対禁止の教えを敬遠します。ヴァチカンの道20、21号の拙稿参照。おおっぴらにであれ密かにであれ、教皇様に対する反逆と不忠実のもたらす実りは回心しない限り、死と地獄しかありません。その前にそれぞれが自分の周りを見回せば教会衰退の徴候、士気の低下はいくらでも見ることができます。洗礼を授ける前には要理の仕上げとして、教導職に不忠実な司祭に気を付けて、避けるよう指導しなければならないのはやりきれない気持ちがするものです。

特に、人工避妊に関してであれば反対者は日本の教会内にいくらでもいます。当地にもいるその中の一人は「どうせみんながやっているから、そしてどうせ最後は神様が許して下さるから」と恥ずかしげもなく言っています。この避妊司祭の回心のために特に祈りたい人には彼の名前を教えます。連絡して下さい。教皇様が自然に基づく家族計画をよく学び、教えるようにおっしゃっても、要理や結婚講座ではそれについてまったく触れようとしない司祭たちなら掃いて捨てるほどいます。(ホント!)人工避妊と人工妊娠中絶の悪について話す司祭の説教を皆さんは聴いたことがありますか? それでも人工妊娠中絶の悪についてなら耳にするかも知れません。しかし人工避妊になると司教協議会で過半数を占める司教様方がそれを容認なさっていると推察されるのであれば沈黙が当然かも知れません。緊急アピールである回勅『生命の福音』で「人工避妊メンタリティーと人工妊娠中絶メンタリティーは同じもの」であると教えられる教皇様と共にもっと強力に生命の文化を擁護し、死の文化に立ち向かう姿勢を日本の教会内にも見たいものです。

わたしの記事を読んだある女性からの手紙をここに引用しましょう。「六年前に洗礼を受けたものです。1968年に日本カトリック司教協議会が人工避妊を容認するとも思われる声明を出していることを貴紙21号で知り、ことの重大さに驚きました。生命が神のたまものであればこういう声明があってはなりませんでした。どんなに困難な環境にあってもカトリックの信仰があるのであれば、回勅『フマネ・ヴィテ』にある教えは妥協することなく守られなければなりません。日本カトリック司教協議会が教皇様の教えに立ち返ることを祈っています…」人と神をつなぐ役割を果たすはずの司教様たちの回心のために信徒が祈るのはどうも本末転倒であるような気がしますが、現状ではそれが火急の必要事かもしれません。八十五歳になるわたしの母などは、わたしが世界と日本教会の現状と問題を説明してやると、ぼろぼろ涙を流して悲しみます。母を不必要に悲しませることは本意でありませんが、悲しむ母は司教様方のためによりいっそう熱心に祈ってくれると思い、敢えて実状を話すのです。

多数決で方向が決まると思われる司教協議会であれば、少なくとも六人ほどはいらっしゃると思われる教皇様に忠実な司教様方の意向が反映されないのが現実であろうと思われます。この際、日本の司教様方も米国のようにはっきり色分けができると司祭や信徒も混乱しなくて済むと思うのですがいかがなものでしょう? はっきり言いましょう。「(他にもいろいろありますが)いつでも、どこでも、だれにとっても悪である人工避妊の禁止は神様と教皇様の教え、カトリック教会の教えですが、時と場合によって人工避妊を容認すべきであるというのがわたしの意見です。この世での犠牲を嫌い、利己的に生きたい人はわたしの意見に従って下さい。永遠の生命が欲しい人、天国に行きたい人はわたしの意見でなく、教会の教えの方に従って下さい」と教えるのが誠実・正直というものです。

回勅『フマネ・ヴィテ』を拒否したカナダ司教協議会についてある改宗者が書いた記事を昨年Catholic Insightというカナダの雑誌で読みました。彼がプロテスタントからカトリックになって分かったことは、カトリック教会では司教たちがカトリック信者の敵であることだったというのです。もし、日本の司教様たちが教皇様と完全に一致できていないのなら同じことは日本の司教様方についても言えるのではないでしょうか? 司教様方、わたしがとんでもない間違いをしているのであれば、どうぞ叱って下さい。

前号に掲載した司教協議会への公開質問状の「人口爆発」「食糧危機」「環境破壊」ですが、実を言えばこれらはわたしの「取り越し苦労」なんかでなく、司祭たちに配布された司教協議会の報告文書中に実際にあった言葉です。司教様方の名誉を守るために本誌ではああいう書き方をしましたが、あの公開質問状は今に至るまでまったく無視されています。いささかなりとも司教協議会に圧力を加える意味でここに真実を公表しました。あれは司教様方の本心でしょうか? それともこの世とまったく同じ考え方をするだれかが勝手に挿入してしまった文章だったのでしょうか? 以下はあの公開質問状への添え状(追加と訂正があります)。


日本の司教様方(少々追加と訂正があります)

" Praedicatoribus non est praedicandum." (説教をする人に説教してはいけない)これは教会内で守られるべき大原則です。わたしごとき無名の一司祭が司教様方にこのような手紙を差し上げるのは心苦しいことですが、どうぞこの原則を敢えて破ることをお許し下さい。同封したのは司教様方への公開質問状と生命問題に関する何編かのつたない翻訳文(「フマネ・ヴィテ」研究会の会員に頒布されています)です。

司教様、1968年日本司教協議会が出した回勅『フマネ・ヴィテ』に関するあの声明はもういい加減に撤回していただかねばなりません。1968年日本司教協議会は、極端な言い方ではありますが、土曜日に避妊行為をしても日曜日にはご聖体拝領を許しました。少なくともあの声明はそう解釈できます。あの公式声明は今日に至るまで撤回されていないので、今でも有効であると受け取られています。あの声明は神様に反する罪に他ならず、日本カトリック信者の躓きになっています。

1968年のあの声明以来、日本カトリック教会はぬるま湯にどっぷり浸っています。日本カトリック教会は、避妊社会である世間の考えと人工避妊に関しては大して違いがありません。司教協議会には困難な立場の信者女性への同情がありすぎて、また余りにも物分かりが良すぎて、回勅『フマネ・ヴィテ』の教えを尊重しているとはいえません。しかし、日本のカトリック信者には真理を知る権利があります。わたしたち「フマネ・ヴィテ」研究会会員には、司教様方がその信徒の権利を侵しているように思えてなりません。司教様方が教皇様のように力強い指導者でないことにわたしたちは失望しています。

最近わたしども司祭に渡された「諸委員会への質問書・回答まとめ」を読むと大聖年の準備として「日本の教会共同体が、教皇の呼びかけを真摯に受け止める」(1ページ)と書いてありますが、「21世紀に向けて、『人口爆発』と『環境破壊』『食糧危機』が深刻化することが予測される中で、地球環境問題や人口問題、女性の権利にかかわる問題などについて、現代社会に於ける使命と役割として、責任のある回答と解決策を打ち出す」(7ページ)とも書いてあります。この二つの文章にはどうしようもない矛盾があります。日本のメディアではあまり報道されませんでしたが、インターネットによるニュースなどを読むと、最近のローマ食料サミットでのこの問題に関する教皇様の楽観的見通し、現代社会に対する挑戦は「この世の代表者たち」からひどく非難されました。あたかも教皇様とカトリック教会が存在しなければみんながもっと幸せになれるのに、と言わんばかりの雰囲気でした。日本の司教様方は果たして教皇様と同じ側に立っていらっしゃるのでしょうか?

どうぞ同封した文書をお読み下さい。この文書は日本の全司教様とヨセフ・トムコ枢機卿様に送られました。他にもお読みいただきたい文書がたくさんありますが、これは断りのお手紙でもいただかない限り今後も送致させていただきます。お叱りの手紙、励ましの手紙、反論、何でも構いません。どうぞ皆さまの僕を無視なさらないようお願いいたします。(ヴァチカンの道8月号に書いたカトリック新聞への批判は現在に至るまで完全に無視されています。わたしたちはその正常化を願って、信徒にカトリック新聞の購読を止めさせる運動をしているのですが、「他に情報源がないから購読を続けなければならない…」とあちこちで聞かされます。しかし、すでに多くの信者はカトリック新聞の問題に気がついています。「あんな新聞は読みたくもない」、「あの新聞はおかしい」鹿児島の心ある人たちが漏らす不満です。こういう事情を知らないのは司教様方だけなのでしょうか?

Our Sunday Visitorこれはアメリカの非常に正統的なカトリック新聞です。この新聞も以前はリベラルであることで知られていましたが、編集者を更迭して以来今の姿になりました。同社発行のカトリック百科辞書はことさらにImprimaturが無くてもその正統性で有名です。他の二社の場合Imprimaturはあっても反乱神学者たちが執筆しているために非常にリベラルで、教皇様との一致を大事にする信者にとっては使いものになりません。ニューヨークにある聖パウロ書院のシスターから直接聞いた話を紹介しましょう。そういう悪い百科辞書が店頭に並んだときそのシスターは真っ先にContraceptionの項を見ました。そこにはカトリックの教えでない個人の意見、つまり、「人工避妊が許される場合もある」という意味のことが書かれてあったので、このシスターは修道会本部に報告しました。その結果、これら二つの百科辞書の会社は全米にあるパウロ会経営の書店からこれら百科辞書の引き上げを余儀なくされました。

日本でも研究社から新カトリック大事典の第一巻が出版され、白柳枢機卿からの推薦状も送致されてきました。しかし第三巻に掲載されるであろう人工避妊の項目を見届けてからでなければそれを購入する気になれません。日本の司教協議会、日本のカトリック教会、日本の神学者たちはそれほど信頼性が無くなっています。それが日本司教協議会の公式見解に忠実であるとすれば、回勅『フマネ・ヴィテ』の指針とは異なる解説、つまり時としては人工避妊が許されるという解説がなされるはずです。それとも、真理は一つしか無いというのに、ローマはこう教えるけれど、日本の司教協議会はああ教える、日本は例外であるとでも書かれることになるのでしょうか? 何たることでしょう! 執筆者がわたしであれば決してそういうことは書かないのですが、その依頼は受けていません。もしわたしに書かせてもらえば、日本司教協議会が公的に言っていることに従ったら救霊は危ういとでも書くことになるのでしょうか? 新カトリック大事典の購入は来年まで待ってこの点を確かめることが肝要です。他に類書が無くてやむを得ず購入する場合でも、間違いがあれば大きく赤鉛筆などでその箇所を塗りつぶすことです。

日本の司教様方、平凡で無名で全然偉くないわたしからここまで言われて悔しくはありませんか? 悔しかったらわたしに沈黙を命ずるとか、わたしを査問委員会に召還するとか、国外追放するなどなさったらどうでしょうか? どちらにしてもわたしを黙らせることはできません。死刑になれば黙るしかありませんが…わたしは迫害はおろか殉教さえ覚悟しています。ところで悪法は法でない、これが真実であるとすれば、1968年に出されたあの日本司教協議会の声明は初めから無効であったとわたし自身は思っているのですが、現実問題として日本カトリック教会はあの声明の精神にどっぷり浸っています。しかし、最近のカトリック新聞に掲載された島本要大司教様の発言を押し進めて考えると、このように信徒の信仰道徳に関することがらについて指導するのは各教区の司教であってカトリック中央協議会=日本司教協議会ではないと考えられます。とすれば、少なくとも1968年のあの声明を受け入れることをはっきりと拒絶する教区は回勅『フマネ・ヴィテ』を百パーセント受け入れることにはなります)。

1968年のあの声明によって、日本司教協議会はパウロ六世の回勅『フマネ・ヴィテ』を、完全に無視とは言えないまでも、曖昧にしてしまわれました。大聖年である紀元2000年に備えて日本カトリック教会も教皇様と完全に一致することが肝要です。司教様方が何とおっしゃろうとも1968年のあの声明の撤回がない限り、日本司教団は接吻でイエス様を裏切ったユダと同じ立場にとどまります。大聖年を迎えようとする今こそ、日本の司教協議会は回勅『フマネ・ヴィテ』を無条件に支持する新しい声明をお出しになり、その中で1968年のあの声明を撤回して下さるよう謹んでお願いいたします。「フマネ・ヴィテ」研究会会員及び協力者はヴァチカン当局と共に、日本の司教様方の動きを注意深く見守っています。

〒891-21鹿児島県垂水市中央町26
Tel& Fax 0994-32-0313
E-Mail: janariai@po.synapse.ne.jp

「 フマネ・ヴィテ」 研究会

代表者 成相明人


正統信仰がなければ破産しかない!

皆さん、難しい時代は興味深い時代でもあります。正統カトリック信仰擁護のために力を合わせましょう。このホームページがそのためにいささかでも役に立ったら幸せです。米国では「男と女の結婚だけが結婚ではありません。同性愛の人たちの同棲も結婚と認める寛容さを持ちましょう」というような説教も、すでにあちこちで聞くことができます。そんな場合信者はどうするのでしょうか? 昨年New Oxford Reviewで見た投書には笑ってしまいました。リベラルなシカゴ教区ではそういうひどい説教を聴いた場合とか、これがカトリックのミサだろうかと思われるようなひどいミサに与った場合に献金する百ドルの偽札があるのです(図—Orthodoxy or Bankruptacyは「正統でなければ破産」の意)。別の雑誌で見た記憶によれば、確か反対の面にはビル・クリントン大統領がニタッと笑っているはずです。ちなみにクリントン大統領は史上最悪の大統領と言われ、その人工妊娠中絶容認への傾斜は止まるところを知りません。まあ、日本ではそこまでしなくてもいいとは思いますが、維持費とか献金などは主任司祭の正統度が低い場合、うんと加減する自由が信徒にはあります。巡礼などの海外旅行が自由にできる世の中になりました。そういう司祭のミサに与る場合は使い残した外国の小銭とか一円とか五円のような少額貨幣を献金するのも一つの対抗手段ではあります。もちろん、浮いたお金は教皇様と真に一致していることが分かっている司祭に回して、ミサを依頼するなどすればいいのです。

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