to the index page !

日本司教協議会が心配する

『人口爆発』『環境破壊』『食糧危機』

無視された日本カトリック司教協議会に対する公開質問状

「フマネ・ヴィテ」研究会 鹿児島教区司祭 成相明人

(ヴァチカンの道21号にほぼ同じ文章が掲載された)

「二十一世紀に向けて、『人口爆発』『環境破壊』『食糧危機』が深刻化することが予測される中で、地球環境問題や人口問題、女性の権利にかかわる問題などについて、現代社会における教会の使命と役割として、責任のある回答と解決策を打ち出す(文責・大聖年準備特別委員会)」。最近当地の司祭たちに配られた司教協議会のこの資料を見て驚きました。今でも信じられないという思いに打ちのめされています。司教様方は本当にカトリック教会の司教様方ですか? 

「ご参考に」とか「内部資料」などと書いてありますけれど、これはいったい何を意味するのでしょうか? おそらくはこれが最終的なものではなくて、読んだ司祭たちの感想とか意見を聞きたいということでしょう。ですからここにわたしの考え、というよりもこれがカトリック教会の教えであるとわたしが理解するところを述べさせていただきます。司教様方、あの書類はあまりにもお粗末です。司教様方、これはカトリック教会の教えのどこにもない新しい教えです。あなた方はプロテスタントにでもなってしまったのですか? いや、待って下さい。もしかするとカトリック中央協議会で働いている秘書とか一部の司教様たちが自分たちの考えをあそこにこっそり忍び込ませたのかも知れません。

神学校時代、説教学の実習として食堂で説教をしたものです。与えられたテーマは「教皇様」でしたから、次のように説教したものです。「もし、教皇様と司教様が異なった教えを教え始めたら、わたしは躊躇なく教皇様に従います」。指導司祭からは「そんなことがあるわけがない」と厳しい叱責を受けました。副助祭の叙階も「あなたは司祭に相応しくない」ということで、しばらく延ばされました。司祭とは司教が間違っていてもひたすら従うものであれば、まさにそのとおり。しかし、司教様(方)が明らかに間違っているときには批判し、反対するのが良い司祭の義務です。

資料1、2はまさにその頃、日本の司教様方によって書かれたものです。説教の実習中に、「万が一、仮にそういうことがあれば……」と思って言ったことが、実は現実に存在していたのです。そう言えば、わたしを叱責した指導司祭は還俗してしまいました。

『人口爆発』?

日本カトリック司教協議会が言うところの『人口爆発』とは、いったい何を意味するのでしょうか? それは「人間が増えすぎる、つまりこの赤ちゃんとあの赤ちゃんは余計な人間だから生まれない方が良かった、この国とあの国には人間が多すぎる。神様が予定なさる赤ちゃんたちであってもわたしたちは彼らを望まない」と、司教様方がおっしゃったとわたしは理解するのですが、司教様方ご自身もそう理解なさっているのでしょうか? まさか! では、それ以外に理解の方法があるのでしょうか?

人間は生まれてくるその前の永遠から神に予定され、知られ、愛されているのではなかったのですか? 神が、ある赤ちゃんの存在をお望みになるとき、イエス様が幼子をわたしの所に来させなさいとおっしゃるとき、日本司教協議会が「人口爆発」などという言葉を使ってはいけないと思うのですが、どうお考えでしょうか?

第二次世界大戦後、一部に例外的地域はあったものの、世界的に見て衛生・医療・食糧事情が改善されたため、人類の平均寿命は長くなりました。これは喜ぶべきことで、人類が神様に自慢しても良いほどの慶事です。映画を二回、三回も見る人がいれば、後から入場する人たちの座席は当然足らなくなります。簡単に言えば、人口事情にも同じことが言えます。爆発するように見える現象は平均寿命が延びたために、当然、一時的に起こります。これを第一次人口革命と言います。第二次人口革命とは、工業化して発展した国では子女の教育にかかる費用、高等教育のために婚期が遅くなるとか、その他の理由で多子家庭を望まなくなることを意味します。これは自然による人口調節と言えましょう。人工避妊、人工妊娠中絶、不妊手術等による変数が存在しなくてもこれは起こる現象です。

実際には、性教育の氾濫、家族計画連盟の暗躍、人工避妊手段の入手可能性、物質主義、快楽至上主義、その他利己的な動機のために、先進国の人口はほとんどどこでも壊滅的な状態になっています。日本も例外ではありません。カトリック信者もこの点に関しては決して潔白でありません。

人工避妊ピルを容認したドイツ司教協議会の会長ユリウス・デップナー枢機卿は、亡くなられる前に、国営テレビに出演して全ドイツ国民に自分が間違っていたことを告白し、赦しを乞われました。神様はお赦しになったでしょう。ドイツ国民も許したかも知れません。しかし、自然は決して赦しません。純粋に統計的に言えば、今のままだと後わずか三百年でドイツ人は地上から消えてしまいます。日本の教会も含めて日本は遅くとも千年後に消滅します。それなのに…

電力という文明・文化が、ある日突然なくなったあのニューヨーク大停電の九ヵ月後に赤ちゃんがたくさん生まれたのをご存じと思います。今年の冬、米国では大雪が長期にわたって降り積もりました。今、またたくさん赤ちゃんが生まれたと聞いてわたしは喜んでいます。発展途上国とかまだ発展の途上にさえない国では、まさにこういう状態が一年中続くのです。それに付け加えて、大人になるまで生存する子供が少ないので、そういう地方では赤ちゃんをたくさん産まなければ、自分たちは子孫を残せないと人々は感じるのです。人口調節が必要であるとすれば、生活水準の向上こそ鍵になります。

世界のどこに司教様たちが心配なさる人口爆発があるのですか? それがワールド・ウォッチのレスター・ブラウン氏、アル・ゴア米国副大統領とか、国連人口基金のナフィス・サディック女史、家族計画連盟の頭の中にあるのは確かですが、司教様方の頭の中にもそれがあるとはいったいどういうことですか? 人は神の似姿に創造されたからこそ、神は人を見て「とても良くできた、生みなさい、増えなさい」とおっしゃったのではありませんか?

アメリカでジェームス・ミラーという統計学者の講演を聴きました。「世界中の人間をテキサス州に集めても、各家族が高層アパートでなく、庭付きの一戸建て住宅に住める」と彼は説明しました。人口ヒステリアに司教様方は同調なさっています。迷いから覚めて下さい。司教様方が心配なさるような『人口爆発』はどこにも存在しません。司教様方は教皇様よりも、あの時代遅れの英国国教の聖職者トマス・マルサス師を信用なさるのですか?

この点で教会が教えるのは責任産児と自然に基づいた家族計画ではありませんか? それどころか教皇様方はしばしば多子家庭を賞賛さえなさいます。何人子供を産むかは両親が決定することであり、これは結婚した人たちの基本的人権に属すると言えるでしょう。政府とか国連が口出しすべき問題ではありません。ましてや日本カトリック司教団が「『人口爆発』に対して責任ある回答と解決を打ち出す」のは余計なお世話というものです。

洗礼と召しだしが神様からの恵みであれば、日本教会の発展のためには神様が送られる赤ちゃんを歓迎しなければなりません。日本人の赤ちゃんは歓迎するが、発展途上国の赤ちゃんは過剰であり、爆発であるとおっしゃるのなら、それはもっとも非キリスト教的な人種偏見に他なりません。わたしたちにとってのどから手が出るほど欲しい神様の恵み、特に洗礼と召命の恵みを日本の教会がいただくために、司教様方はもう少しましな進路をわたしたちに示して下さる必要があります。この文書の意味するのが、上記した意味での生活レベルの向上、自然に基づく家庭計画、責任産児ということであれば話は別ですが、それならそれで誤解のないような文章を書くべきでした。

日本もアメリカも人口増加に伴ってその経済を発展させました。同じことがアジアの多くの国で起こりつつあります。極貧に苦しむアフリカで同じことが起こらないという保証はどこにもありません。もちろん、戦争がないとか、政府が教育に力を入れる、政府が腐敗していないなどの条件は満たされなければなりません。貧しい国は子供が多いから貧しいのではなく、貧しいから子供が多いのです。純粋に経済的見地からも土地、建物、工場、機械、天然資源、資金などでなく、人間こそもっとも貴重な資源です。

ノーベル経済学賞受賞者でシカゴ大学教授ゲーリー・ベッカー博士は、上記の諸資源の中で人間が生み出す富の割合を、82%と計算なさっていました。大きく伸びた日本経済に比例する労働力が足らないから日本の労働力は高くなり、日本経済は競争力を失いつつあります。これは経済学が教える簡単な需要供給の原則であり、高校生でも理解できることです。アジアに発展が期待されるのはそこに人口があるからです。それなのに『人口爆発』とはいかにもお粗末でした。

『環境破壊』?

『環境破壊』についてもごく簡単に触れましょう。環境は破壊されない方がいいに決まっています。人間と自然との調和にはだれもが賛成するでしょう。しかし環境破壊を声高く叫ぶ人たちがしばしば考えているのは、人間が多すぎるから環境が破壊される、ということなのです。いつかNHKでこの種の人たちの議論を聞いていて驚きました。地球の適正人口は何とたった一億人だというのです。

人類と環境は共存できます。これはアメリカの調査ですが、現在は水も空気も以前に増して改善されているのです。政府の適切な規制があれば環境は保たれます。共産主義、全体主義的国家では政府が事業主である場合が多いので規制が難しく、環境汚染は避けられません。地球の温暖化現象に関しても、確かに温暖化はありましたけれど、平均気温がすでに下降し始めている事実は環境論者とメディアにとって都合が悪いので、なかなかわたしたちの耳に入ろうとはしません。平均気温は年によって上下するので、上昇しっぱなしということはありません(Population Research Institute Review, A review and analysis of worldwide population control activity, Volume 6, Number 5, September/October 1996, p. 16参照)。サンディエゴ湾の汚染はここ十年、周辺の人口が三倍増えたにもかかわらず半減しています。

『食糧危機』?

『食糧危機』についても基本的に言えるのは、人間には口は一つでも手が二本あるということです。自分が食べる以上のものを生産するのが人間です。富裕な国がそうでない国に一人立ちできるよう援助する義務があるのは当然のことです。司教様方はこのような意味で食糧危機について語っておられるのでしょうか? あのコンテキストではどう読んでもそのように受け取れません。日々の糧を得るために努力しつつもわたしたちには神様への信頼がもっとあっても良いのではないでしょうか? 悲観論者でなくもっと楽観論者でありましょう。「我らの日用の糧を今日我らに与え給え」と毎日わたしたちが祈っているのに、神様は人類全体が餓死するような事態をお望みになると思われますか? 

『女性の権利』?

以上の問題に関する司教協議会の発言を聞いていると、女性の権利についても司教様方が何を考えておられるのか不思議になります。女性の権利が尊重されることにはわたしも何ら異存がありません。それどころか大賛成ですが、フェミニズム全盛の昨今、先進諸国では女性の権利が避妊とか中絶の権利を含む権利であり、受精卵とか胎児の生存権をまったく無視するものであることをご存じでしたか? それとも、1968年の声明を敷衍して、人工避妊の権利を認めようということでしょうか? 日本の司教様方にはもうそれほどの期待を持てなくなっています。もちろん、教皇様に絶対的な忠誠を示す司教様方がいらっしゃるのを知っていますが、そういう司教様方は少数派であると理解しています。

ローマに送った

日本司教協議会メモランダム

このように司教様方に対する不信を示す裏には根拠があります。資料1を見て下さい。日本司教協議会が「十分な安全性があり、あまり困難でない、道徳的にも許容される何らかの産児制限の方法」と言っているのは、定期的禁欲を否定しているのであれば、明らかにピルとコンドーム使用を含み得ます。なお、今年帰天なさった里脇浅次郎枢機卿様はこういう動きに一貫して抵抗なさったと理解しています。「あなたたちは子供を五人生むまで親づらをしてはいけない」枢機卿様はよくこう言って、信者夫婦を励まされました。このような励ましを受けた止めた家庭から召し出しが出ています。司教協議会であれば多数決で議決がなされるので、少数派はたとえ正しくても無視されてしまうのでしょう。現在、これが司教団の本音でないことを心から願います。

教皇パウロ六世は産児制限に関する意見を広く聴くために産児制限に関する委員会を設立なさっていました。日本からも二人出席しています。この委員会が提出した答申を無視して教皇は1968年7月あの予言的な回勅『フマネ・ヴィテ』を出されたました。その内容を簡単に書けば、性は結婚した人たちのものであり、結婚した人たちの性は新しい生命の可能性に対して開かれていなければならない、つまり人工避妊が禁止されるということです。同年中に日本の司教協議会はこの回勅について以下の声明文を発表しました。

1968年司教協議会声明

「この教えの実践が、数多くの夫婦にとって種々の困難をもたらすであろうことを、わたしたちはよく承知しています。その場合、善意を尽くして回勅に従順であろうと努力しつつ、しかもやむを得ぬ実際的・客観的事情のため、万一、ある点において回勅の教えに沿うことができなかったとしても、それによって、神の愛から遠ざけられたと考えないよう……神にさらに信頼して教会の行事に熱心に参加し、秘跡を受けるように……」

回りくどくて分かりにくい文章ですが、簡単に言えば本質的な悪である人工避妊によって聖寵の状態を失っていても御聖体を受けなさい、生活を改めるつもりがなくても赦しの秘跡にあずかりなさい、ということではありませんか? 少なくともそう理解することが可能です。確かルーテルも「罪をうんと犯し、それ以上に神に信頼せよ」という意味のことを書いています。

困難な状況にある信者女性に対する同情と理解から、こういう文章を書いたのであろうことは察せられます。わたしがそれを理解しないと言って、ある神父は大きな声でわたしを怒鳴りつけたことさえあります。多くの友人も失いました。新しい友人もそれ以上にできましたから、失った友は惜しくありません。しかし、これは根本的に間違っており、日本の司教様方はこの声明を公に撤回して、そろそろ回勅『フマネ・ヴィテ』に見られる教会の教えに徹底した従順を示すべきです。それができなければ直ちに辞任することが日本の教会のためにもっとも望ましいのです。回勅『真理の輝き』はまさに多くの司教様方のそういう煮え切らない態度を戒めるものでした。回勅『生命の福音』はそれに追い打ちをかけるものと理解すればいいのです。

ある司教様方の反応

個人的には直接何人かの司教様方にもこの点についてお聞きしました。当時からの司教様(ここで名前は一切伏せます。それぞれの司教様は自分でおっしゃったことには記憶があるはずです。)は「そんなこと覚えていないなー」とおっしゃいました。これほどの重大問題は覚えていていただかなければなりません。司教様、思い出して何とかして下さい。

別の司教様は「成相神父様、あなたは多くの司教たちがフマネ・ヴィテに反対していることを知らないの?」とのたまいました。もちろん知っています。だから困っているのです。さらにもう一人の司教様は「もっと説明すればいい」つまり、説明さえすればこの声明と回勅の立場に違いがないことを理解してもらえる、とおっしゃりたいのです。少なくともこの文書を信者が誤解する可能性は山ほどあるではありませんか?

ある司教様は「日本の教会に改めるところは何もない。すでに完全に教皇様と一致しているから」とおっしゃいます。司教様方と教皇様の完全な一致があれば、司教様方ももっと人工避妊の悪について話されるはずではないでしょうか? 教皇様は機会がありさえすれば、世界各地で避妊の悪、中絶の悪について話されます。司教や司祭の説教を通じて人工避妊の悪をカトリック信者が知っていれば、信者の人工妊娠中絶経験率はもっと低いはずです。人工妊娠中絶を経験している女性は全国平均で25%います。カトリック信者(求道者も含む)の場合だと15%という数字が出ています(英知大学松本信愛神父の調査による)。

教勢の不振、召命の減少、教会の教えでない個人の意見を教会の教えのように見せかけるカトリック新聞、一番大事な生命問題に触れようとしないカトリック雑誌、回勅『フマネ・ヴィテ』を聞いたこともない信者、どうせみんなやっているからという理由で人工避妊を容認する避妊神父たち、エイズ予防のためならコンドーム使用も認めるコンドー神父、これらを見るとき日本教会丸は沈没しつつあると判断するのですが、わたしは間違っているでしょうか?

故人ですから名前を出しますが、北海道の富沢孝彦司教は1968年頃ドイツを旅行中に各地で記者会見を開き、回勅『フマネ・ヴィテ』を受け入れることはできないと宣言なさっていました。当時、ドイツで休暇中であったレデンプトール会のヨルダン・ハンマー神父が新聞でその記事を読んで驚いたと語ってくれました。

世界中を旅行なさる教皇様が人工避妊と人工妊娠中絶の悪を説かれなかったのは、日本と英国でだけです。英国の場合はウェストミンスターのヒューム枢機卿がこのことに触れないで欲しいと要請なさいました(Human Life International Special Report No. 140参照)。日本でも1981年来日前の教皇様をマニラにお迎えに行かれた二人の司教様が同じような要請をなさいました。こういうことが実際にはなかった、とわたしは思いたくて仕方ありませんが、司教協議会の文書などを見ていると、それが本当であったとしても驚くに足らないというのがわたしの感想です。そう言えば、日本を訪問なさった教皇様は戦争と平和の話に終始なさったのは事実です。

一国の司教団がこういう大事なことで間違いを犯すことがあり得るのでしょうか? 十六世紀のイギリスでは一人の例外を除いてすべての司教様が間違いを犯しました。

日本では死文になった

回勅『フマネ・ヴィテ』

回勅『生命の福音』の中で教皇ヨハネ・パウロ二世は人工避妊メンタリティーと人工妊娠中絶メンタリティーは同一であると断言なさいます。ある司祭は「中絶しないために避妊するんでしょう?」と大声でわたしに教えようとしましたが、相手が悪かったようです。避妊する人は赤ちゃんが欲しくないわけですから、人工避妊に失敗すれば当然中絶したくなるのです。もちろん、生まれるまでには望まれる赤ちゃんになっている場合もありますが…

日本司教協議会のこの声明文のために、回勅『フマネ・ヴィテ』はこの国では死文になってしまいました。「フマネ・ヴィテって何か知っている?」わたしは信者にしばしばこう聞くのです。「知っている」と答える信者はごく少数です。司祭がこの回勅に触れようとしないからです。この回勅ではっきりと人工避妊が禁じられていると司祭が教えたくても、司教様方が「やむを得ぬ場合もある」と声明なさっているのでは、よほど勇気がないと回勅通りの指導はできません。

一昨年鹿児島各地で黙想指導をなさった東京教区の岸神父様も「フマネ・ヴィテってそれ何ですか?」とわたしに聞き、彼からそんな質問をされたわたしは恥ずかしくて顔を赤らめたものです。このような司祭の指導を受ける信徒は哀れなものです。

微力ながらもこうした事態を打開しようとして、ささやかな署名運動を始めました。資料2をご覧下さい。この署名運動は今までのところあまり成功していません。わたしが説明をしてから署名を願うと、返ってくる返事は「主人に訊いてから」とか「聖霊の光を祈り求めてから」とか「できません」とかいうものです。何しろ司教様方の声明に反対しようというのですから、一般信者がためらいたくなる気持ちは分かります。

面白いのは赤ちゃんが大歓迎される国フィリピン人たちの反応です。「恥ずかしい! 日本の司教様たちはこんなことを本当に言ったの?」(フィリピン人ダンサー)、「喜んで署名します。カトリック教会にはしっかりしてもらわなければ…」(フィリピン人プロテスタント)。これは日本人ですが、中学時代の恩師はこう言って励ましてくれました。「成相君、君は日本のルーテルになりたまえ!」これはちょっと見当はずれ。わたしの運動は革命でなく反革命ですから。

司教様たちの断固とした指導がなければ、人工避妊メンタリティーは大手を振って教会の中を闊歩します。横浜教区滞日外国人と連帯する会(代表 小林健吾神父)が発行した「住民として地域で暮らすための情報—移住労働者—生活マニュアル」第一版、75〜90ページには、人工避妊と人工妊娠中絶の方法が詳しく記載されています。「外国人のわたしたちの子供なら死んでしまってもいいと教会は教えるのですか? 外国人のわたしたちには滅びを望むのですか?」これが何人かからの反応です。中にはお断りの黄色い紙が一枚はさんであります。「このマニュアルに掲載した第3章の避妊、人工妊娠中絶に関する内容は、カトリック教会の教義とは一致するものではありません。現実に起こっている問題に対応する一般的な情報として、すでに出版されている印刷物から紹介しました。カトリック教会の関係者の方で、上記の問題にかかわる方は、今の教会の立場を十分にご理解した上で対応されるようお願いいたします」。この紙がいつか失われるときこの異端的マニュアルは一人歩きします。

なぜカトリック教会が、教会の教えと相容れることない家族計画連盟の提灯持ちのようなことをしなければならないのでしょうか? その地区の司教様や外国人司牧担当の司教様は(処罰を含んだ)指導をなさらないのでしょうか? 昔は焚書が実行されて、異端的な書物は焼かれてしまいましたが、このマニュアルはまさにそのような扱いが必要です。ちなみに、もう一枚はさんであった白い紙には「同封させていただきましたマニュアルを教区内で滞日外国人の問題にかかわる皆さまに紹介していただければ幸いです。下記に必要事項をご記入の上当会までお申し込み下されば、無料でお配りいたします…」と書いてあります。その資金がどこからでるのか不思議に思いませんか?

前号でカトリック新聞を攻撃しましたが、それに対する釈明とか反論は何もありません。担当の司教様は見解を発表なさって下さい。そう言えば、福音宣教という立派な名前の雑誌(オリエンス宗教研究所)1996年7月号にも援助修道会の山路雅子修道女が29ページに次のように書いています。「(自分は)コンドームの使用も場合によっては奨励してきた。わたし自身コンドームが避妊具であることは知っているが、時と場合によってこれを予防具、コミュニケーションの道具と見るからである……」彼女は電話相談や講演でこういう個人の意見を、カトリックの修道女と名乗って普及するのでしょうか? 神様に一生を捧げた司祭や修道女であれば、個人の意見でなく教会の教えこそ大声で話さなければなりません。世間が聴きたがっているこの世の知恵を話して皆に喜ばれるのでなく、キリストの弟子でありたければこの世にとっては脇腹に刺さったとげでなければなりません。回勅『真理の輝き』には、「聖人たちは真理をあかしするためには血を流された」と書かれてあります。

十月来日なさったビリングス博士ご夫妻は、エイズ予防のためのコンドーム使用に関して次のようにおっしゃっています。「英語で言えばたった六つの単語ですべて言い尽くすことができます。" Chastity before marriage. Fidelity in marriage." つまり結婚前の純潔と結婚後の忠実です。これ以外のエイズ予防法はありませんし、これさえ守れたらエイズとかそれ以外の性病もことごとく地上から消滅させることが可能です。

コンドームを使った人工避妊でも失敗率が五〜十五%なのに、精子の四十分の一の大きさしかないエイズウイルスの通過をコンドームがくい止めることができるのでしょうか? 若い人たちは真実を聞く権利があります。真実を知った若い人たちは純潔を大事にするようになるでしょう」。もちろんこれは天国、地獄、永遠の生命を信じない人たちにも通じる議論であり、(少なくとも本物の信仰のある人には)コンドーム使用が神の望まれぬことであるのは明白です。

人口抑制論者に関して博士は次のようなことも言っておられます。「西欧の人たちは子供に対する態度が違います。彼らは赤ちゃん恐怖症にかかっており、赤ちゃんに対して敵意を持っています。これは心の病気の一種ではありませんか? 彼らは、赤ちゃんが自分たちの欲しいものにとって邪魔になると思いこんでいます」博士が西欧といわれるときには当然日本も含まれます。わたしたちは心して耳を傾けなければなりません。

厳しいことを書きましたが、わたしは皆さんの忠実なしもべに過ぎません。この文書が日本の教会と司教様方のお役に立つことを心から希望しています。

資料 1

以下は、1966年3月日本のカトリック司教協議会が教皇庁に送った要請の原文(ラテン語)。これは、教皇パウロ六世が幸いにして無視することを決定なさったいわゆる「多数意見」に属します。当時の司教様方のために弁解をするとすれば、避妊ピルは当時まだ新しく、司祭、信徒は言うに及ばず司教や神学者の見解にも混乱がありました。その部分訳がラテン語原文の後に続きます。

MEMORANDUM EPISCOPORUM JAPONIAE

De problemate populationis et regulationis numeri prolis in Japonia

1. Problema populationis in Japonia, quod aliquo mode jam antea diu discutiebatur, peculiariter a fine ult1imi belli attentionem omnium a se direxit. Japonia enim omnia territoria extera perdiderat et pro populatione, quae tunc erat fere 80,000,000, panem et laborem providere debuit intra arctos limites suarum insularum, i.e. in territorio 370,000k㎡, ex quo tamen ob indolem montanam et vulcanicam nonnisi cir. 15% sunt terra utilis pro agricultura.

2. Populatio post bellum ulterius aucta est et intra biennium praevidetur excedere centum milliones. (Secundum statisticas Gubernii die 1 Octobris 1965 Japonia habuit 98,274,961 habitantes et augmentum ab anno 1960 fuit 4,856,460, i.e. 5.2%) sustentationi hujus poulationis Japonia providere potuit solum per rapidam expansionem variorum ramorum industriae. Quae industria tamen dependet ab importatione materiarum primarum, quae in Japonia deficiunt, et a mercatu in exteris gentibus; requirit insuper formationem technicam semper altiorem in vasto mundo operariorum. Modesta vero prosperitas oeconomica, magnis conatibus totius nationis obtenta, non pari gressu progreditur cum incremento populationis.

3. Inde secuta est immensa agglomeratio populationis in magnis centris industrialibus, specialiter in illius maximis Tokyo (in qua sola civitate die 1. februarii 1966 numerabantur 10,917,774 habitantes), Osaka, Nagoya, Kita­ Kyushu, et progressiva urbanizatio Japoniae. Simul ingravescebat problema difficile providendi habitationes pro tot hominibus et familiis; pro quo problemate solvendo Gubernium et variae Institutiones publicae et privatae nunc magnos quidem conatus faciunt, quamvis solutio vere sufficiens et digna vires humanas fere excedere videatur. (Ita v.g. post contructionem novorum aedificiorum pro multis familiis destinatorum=apartment houses=sortibus decidi debet quisnam ex multis petentibus ingredi possit.)

1. Ob varia ista phaenomena a fine ultimi belli opinio publica et gubernium non sine forti influxu potestatis tum Japoniam occupantis, timorem manifestaverunt de periculo explosionis demographicae et necessitatem proclamaverunt limandi efficaciter naturale incrementum populationis. Secutae sunt notae leges permittentes media anticonceptiva et abortum; inde praxis abortus maxime diffundebatur (aestimantur nunc quot­ annis circ. 1,200,000 legaliter et 800,000 clandestine peracti; i.e. totaliter 2 milliones). Similiter provisiones practicae pro salariis et novis habitationibus supponunt limitationem numeri filiorum universaliter in praxim deductam esse ideoque saepe conditiociones pro familiis numerosis mediae classis (de salario viventibus) fere impossibiles redduntur. (v.g. variis in locis magnae officinae provident habitationes pro suis operariis cum condicione quod numerus filiorum duos vel ad summum tres non excedat. Medici officinae visitant familias et distribuunt remedia ad limandum numerum prolis.) ­ Accedit factum quod propter altum gradum educationis generalis in Japonia, educatio conveniens filiorum parentibus magna onera imponit.

Sub influxu istarum rationum limitatio numeri filiorum in tota natione celeriter diffundebatur et sic de facto obtenta est diminutio naturalis incrementi annui populaitonis; nihilominus anno elapso incrementum naturale numerum unius millionis denuo excessit similisque proportio in annis proximis futuris perdurare videtur.

Notatur quidem apud viros magis cultos et influentes crescens agnitio malitiae abortus sub variis aspectibus (morali, sanitario...); tamen major motus contra abortum solum successum habere praevidetur, si pro regulatione numero prolis alia via, non nimis difficilis et satis secura, suaderi poterit. (Difficultates notae continentiae periodicae in hac terra aggravantur angustia habitationum.)

5. Catholici Japoniae, qui nonnisi parvus grex sunt in tota natione (i.e. 330,000 inter fere centum milliones), in hac societate vivunt et ejus difficultates concretas quotidie experiuntur. Multi eorum insuper vivunt in matrimoniis mixtis, quae hic vitari nequeunt tum propter paucitatem Catholicorum tum propter modum pecularem quo saepe matrimonia ineuntur, i.e. quia praeparantur a familiis. Si ergo Catholicis non monstratur aliqua via moraliter licita et practice non nimis difficilis et satis secura pro regulatione numeri prolis, multi eorum cadent in talia dilemnata ut exitum tutum ex iisdem non jam videant. Ita, testante experientia pastorali, oritur periculum, ne, dum in ceteris rebus sincere Ecclesiae adhaereant, in hac re tantum suo proprio arbitrio se regant confidentes Deum omniscum sibi misericordem fore. Patet eadem problemata existere pro Catechumenis et decisionem recipiendi baptismumin Ecclesia catholica pro multis difficilem facere. Sine dubio diminutio baptismorum adultorum hisce ultimis annis notata etiam cum tota hac quaestione intime connexa est.

6. Ex supra expositis elucet quanti momenti sit pro pace conscientiae multorum Catholicorum in Japonia atque pro tam desiderata expansione Ecclesiae in hoc populo et pro influxu benefico Catholicorum in societatem Japonensem ut aliqua via moraliter licita, satis secura et non nimis difficilis ostendi possit pro regulatione numeri prolis.

Tokyo, Mense Martio 1966 

        Conferentia Episcoporum Japoniae

4…もちろん、教育があり、影響力のある層は種々の側面(道徳的、医学的)から人工妊娠中絶の悪についての意識が深まってきています。しかし、人工妊娠中絶に反対する大きな運動を起こすのであれば、あまり難しくなくて安全性が十分に確保できる他の産児制限の方法が認められるのであれば、成功するであろうことが予見されます。(この地で定期的禁欲が認められる困難性は、住居の狭さもあってますます大きなものになります。)…

6…以上から、日本の多くのカトリック信者の心の平和のために、また、わたしたちが切望して止まない日本教会の発展、カトリック信者の日本社会に対するよい影響のためにも、十分な安全性があり、あまり困難でない、道徳的にも許容される何らかの産児制限の方法が提示されることが、どれほど大事であるかがはっきり分かります。

                            東京にて、1966年3月

                            日本カトリック司教協議会

資料 2         日本カトリック司教協議会への請願書

以下にある二つの立場を比較して下さい。教皇パウロ六世が1968年回勅『フマネ・ヴィテ』を出されたとき、日本カトリック司教協議会はただちに以下のような声明を出しました。回勅『フマネ・ヴィテ』の教えがこれで明白に分かるでしょうか? 残念なことに人工避妊に関する両者の見解は対立していると解釈できます。日本のカトリック信者には教皇様と日本の司教様方から同じ教えを聞く権利があります。この声明を回勅『フマネ・ヴィテ』、『真理の輝き』、『生命の福音』と読み比べるときいつも思うのは、日本の教会はこれで良いのだろうかということです。当時、司教協議会のメンバーであったある司教様に聞いてみたところ「それは記憶にない」ということでした。さらに、その後叙階された複数の司教様方は「見直しの必要はない。ただ、もっとよく説明する必要はある」「多くの司教たちは反対なのだよ」「すでに100%従っている」などと、おっしゃっています…

 

以上の理由で、わたしたちは日本カトリック司教協議会が回勅『フマネ・ヴィテ』の要請に沿うことのなかった1968年のあの公的声明を、今や公的に撤回なさることを希望します。各司教様はそれぞれの教区で、この声明と異なる方針を持っていらっしゃるかも知れませんが、公式の声明は公式に撤回されねばなりません。日本カトリック司教協議会は、あの声明の撤回によって教皇様と一つの心になることができます。

ここに署名するわたしたちは、日本の司教協議会が回勅『フマネ・ヴィテ』、『真理の輝き』、『生命の福音』のガイドラインに従って、1968年日本カトリック司教協議会が出した回勅『フマネ・ヴィテ』に関する公的声明を公的に撤回なさるよう謹んでお願いいたします。

  名前 年齢 職業  日付     住所   コメント
           
           
           
           
           
           
           
           
           
           
           
           

発起人・責任者  「フマネ・ヴィテ」研究会 司祭 成相明人

〒891-21 鹿児島県垂水市中央町26カトリック教会 

添え状

『フマネ・ヴィテ』研究会

〒891-21 鹿児島県垂水市中央町26 

Tel & Fax 0994-32-0313
 

1997年11月29日大聖年準備期間第一日夜

日本の司教様方 

" Praedicatoribus non est praedicandum." これは教会内で守られるべき原則です。わたしごとき無名の一司祭が司教様方にこのようなお手紙を差し上げるのは心苦しいことです。どうぞ今回に限ってこの原則を敢えて破ることをお許し下さい。

司教様、日本の教会はもうこれ以上落ちぶれることは許されません。1968年日本司教協議会が出したあの回勅『フマネ・ヴィテ』関する声明はそろそろ撤回していただかねばなりません。

1968年日本司教協議会は、極端な言い方ですが、土曜日に避妊行為をしても日曜日にはご聖体拝領を許しました。少なくともあの声明はこう解釈できます。あの声明は今日に至るまで撤回されていないので、今でも有効であると受け取られています。あの声明は神様に反する罪に他ならず、日本カトリック信者の躓きになっています。

1968年のあの声明以来、日本の教会はぬるま湯の中にどっぷり浸っています。日本のカトリック教会は人工避妊に関してはこの世の考えと大した違いのない立場をとっています。物わかりが良すぎるのです。わたしには司教様方が日本のカトリック信者の真理を知る権利を侵しているように思えてなりません。司教様方が教皇様のように力強い指導者でないことにわたしたちは失望しています。

最近わたしども司祭に渡された「諸委員会への質問書・回答まとめ」を読むと大聖年の準備として「日本の教会共同体が、教皇の呼びかけを真摯に受け止める」(1ページ)などと書いてありますが、「21世紀に向けて、『人口爆発』と『環境破壊』『食糧危機』が深刻化することが予測される中で、地球環境問題や人口問題、女性の権利にかかわる問題などについて、現代社会に於ける使命と役割として、責任のある回答と解決策を打ち出す」(7ページ)とも書いてあります。この二つの文章にはどうしようもない矛盾があります。日本のメディアには報道されませんでしたが、インターネットによるニュースなどを読むと、最近のローマ食料サミットでのこの問題に関する教皇様の楽観的見通し、現代社会に対する挑戦は「この世の代表者たち」からひどく非難されました。あたかも教皇様とカトリック教会が存在しなければみんながもっと幸せになれるのに、と言わんばかりの雰囲気でした。(要請があれば関係報道を翻訳いたします。)

どうぞ同封した文書をお読み下さい。この文書は日本の全司教とヨセフ・トムコ枢機卿に送られます。他にもお読みいただきたい文書がたくさんありますが、これは断りのお手紙でもいただかない限り今後も送致させていただきます。お叱りの手紙、励ましの手紙、反論、何でも構いませんから、どうぞ無視だけはなさらないようお願いいたします。

1968年、日本司教団はパウロ六世の回勅『フマネ・ヴィテ』を無視とは言わないまでも、曖昧にしてしまわれました。大聖年である紀元2000年に備えて日本のカトリック教会も教皇様と完全に一致することが肝要です。司教様方が何とおっしゃろうとも1968年のあの声明の撤回がない限り、日本の司教団は接吻でイエス様を裏切ったユダと同じ立場にとどまります。大聖年を迎えようとする今こそ、日本の司教協議会は回勅『フマネ・ヴィテ』を無条件に支持する新しい声明をお出しなり、その中で1968年のあの声明を撤回して下さるよう謹んでお願いいたします。

「フマネ・ヴィテ」研究会会員一同

                         代表者 成相明人

 to the top of this page !