未完の翻訳ファイル
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両形色による聖体拝領はエキュメニズムの名の下での降伏
マイケル・デイヴィース
目次
Ⅰ |
歴史的背景 |
---|---|
Ⅱ |
第二バチカン公会議 |
Ⅲ |
ローマの司教に裁治権なし |
Ⅳ |
抵抗の義務 |
Ⅴ |
ずる賢いプロパガンダ |
Ⅵ |
衛生の問題 |
Ⅶ |
積極的反応 |
補遺 Ⅰ |
バチカンが譲歩した際のテキスト |
補遺 Ⅱ |
聖体特別奉仕者 |
Ⅰ 歴史的背景
信徒が両形色の下に御聖体を受けることに神学的見地から反対しているわけではありません。この件についての論争は、パンの形色だけでの聖体拝領に神学的見地から反対した人たちによって引き起こされています。
十二世紀頃まで、信徒はどこの教会でも御聖体を、普通、両形色で受けていました。その習慣は現在に至るまで東方教会、つまり正教会でも東方帰一教会において保たれています。ラテン典礼のカトリック信徒が、例えばウクライナ典礼にあずかることがあれば、御聖体をその典礼特有な方法、つまり、御血に浸された小さなホスチアをスプーンで舌の上に載せるという方法でいただくことができます。
ラテン教会で、パンの形でのみの聖体拝領への変化は実際的、または規律上の理由によって促されました。この変化に教義上の意味はありません。カトリック・エンサイクロペディア1によれば、おそらくその理由は、このもっとも尊敬されるべき秘蹟への畏敬の心、御血をこぼす可能性、その他の不敬の可能性、また不便さとか多くの信徒が御血を拝領する場合かかる時間の問題、ミサが終わった後の御血拝領のために保存できないこと、同じカリスから御血の拝領をする際に起こる衛生上の問題などでしょう。両形色の拝領を主張する者たちは、ラテン語の両方を意味するウトラクイストと呼ばれます。
十三世紀に聖トマスは御体が信徒に与えられても、御血が与えられなかったのは「多くの教会での習慣」であった、とはっきり書いています。これは先述の実際的配慮によるものであるに違いありません。信徒に御血の配慮をを拒むことに教義上の意義はありません。聖トマスは、ミサの本質が、二重の聖変化によってもたらされる主イエズスの御受難の再現であると明記しています。つまり、二重の聖変化は犠牲のためになくてはなりません。
主の受難は、御血なしに御体だけが聖変化されるのでない、この秘蹟の聖変化によって示されます。2
しかし、ミサは犠牲であると共に秘蹟でもあります。犠牲への完全な意味での参与は、神的犠牲を参加者が受ける秘蹟の拝領によって達成されます。神的犠牲は片方の形色の下に受けるより、両形色の下で受ける方がもっと完全に受けられるわけではありません。だから、司式者は両形色の下に聖体拝領をしなければならないが、他の人たちまでそうする必要はありません。
秘蹟の側から言えば、御体と御血両方が拝領されることはふさわしいのです。なぜなら秘蹟の完全さは両方に存在するし、従って、聖変化させて拝領するのは司祭の義務です。司祭が御体だけ拝領して、御血を拝領しないことは決して許されません。
しかし、拝領者はこれほど偉大な神秘にふさわしくない不敬が起きないように、最大の尊敬を示さなければなりません。さて、そのような不敬は御血の拝領の際に起こりやすいのです。不注意であれば、御血はすぐにこぼれてしまうかもしれません。そして、キリスト信者が増加しており、その中には年寄りも、若い人も、子供もおり、その中にはこの秘蹟にふさわしいだけの注意ができない人たちもいるでしょう。そのために、ある教会で信徒が御血をいただかないで、司祭だけが御血の拝領をするのは賢明です。御血なしに御体だけの拝領であっても、そのために秘蹟が不完全になることはありません。なぜなら、司祭が全員を代表して御血を捧げ、かつ拝領しますし、また、キリストはどちらの形色の下にも完全に存在なさるからです。3
両形色の聖体拝領が広く行われていた時代にも例外はありました。テルトゥリアヌスと聖シプリアヌスは、三世紀、私的聖体拝領のために聖なるパンのかけらを信者が自宅に持ち帰る習慣があったことを証言しています。おそらく迫害があった時代に起源のあるこの習慣については、四世紀、聖バジリオと聖イェロニムスも証言しています。東方教会でこの習慣は八世紀に至るまで存続しました。また、病人とか子供の聖体拝領もパンの形においてのみでした。東方教会のある地方では幼児洗礼の場合は御血が与えられています。隠修士には秘蹟を保存しておいて、御体だけの聖体拝領をすることが九世紀まで許されていました。聖金曜日に、前もって祝別された御聖体を司祭も信徒も拝領するのは、四世紀にさかのぼる習慣の名残であり、元々、聖金曜日だけに限定されていたのではありませんでした。一つの形色の下での聖体拝領が広く、そして長期にわたって行われてきたことが証明するのは、教会がそれを神学的に反対すべきものである、と考えていなかったと言うことです。
十四世紀初頭、ボヘミアのヨハネ・フス一派がパンの形色だけでの聖体配慮を、それが涜聖であるとさえ主張して、問題視し始めました。教会がその権威をもって認めてきたこの習慣が涜聖であるということは受け入れがたく、フス派は一四一五年、コンスタンス公会議で断罪されました。
初代教会で、信者が両形色の下にこの秘蹟を拝領していたのは確かではありますが、ある種のスキャンダルとか危険を避けるために、この秘蹟を聖職者たちは両形色の下で、信徒たちはパンの形色の下にのみ拝領する習慣が導入されることになるのです。なぜなら、パンの形色の下にも、ブドウ酒の形色の下にもキリストの御体と御血が欠けることなく含まれている、ということを固く信じなければならないし、少しでも疑ってはならないからです…この決まりもしくは習慣が?聖であるとか間違いであるとか主張することは、間違っていると考えられなければなりません。ですから、以上述べられたことに頑なに反対する者は、異端を調査する任務がある司教またはその代理者たちによって、異端者として扱われ、厳しく罰されなければなりません。4
1 Catholic Encyclopedia (New York, 1907), vol. IV, p. 175 , col. 2.
2 Summa Theologica, III, Q. LXXX, art. 12.
3 ibid.
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