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「典礼革命——パウロ六世の新しいミサ」XXII章

手で受ける聖体拝領

マイケル・デイヴィース著

翻訳   『フマネ・ヴィテ』研究会 成相明人

これらの秘跡を信徒の手に置かない慣行が二重の迷信から導入されたことに間違いはありません。つまり、一つはこの秘跡に対して示す偽りの尊敬、もう一つは聖別の聖香油によってキリストの民よりもさらに聖なる者であると主張する司祭たちの傲慢がそれです。(マルチン・ビューサー

手で受ける聖体拝領を大方の西側諸国に導入したやり口は、正に典礼革命の典型的やり方です。そのようなことは、教皇庁承認の典礼運動指導者たちの手でそれまで進められてきた計画とは無関係でした。第二バチカン公会議文書のどこを読んでも決してこのような改革には触れていません。公会議前、ほとんどの司牧者と信徒たちはこういうことを望むどころか、考えてさえいませんでした。それが導入された国がどこであっても、それは反逆行為によって始まったことの追認ということで導入されています。しかし、その反逆は第二バチカン公会議の精神に基づいているという触れ込みで、教会公認の慣行になってしまいました。

手で受ける聖体拝領について、私はすでに五十二ページの小冊子を書いているので、詳しく知りたい方はそれを読んで下さい。1  この慣行の導入を提唱した人たちは、最後の晩餐の使徒たちが手で受ける聖体拝領をしたと言い張りますが、彼らが絶対に言わないのは、使徒たちがその前に司教の位に上げられていたということです。しかし御聖体を手の上に置く慣行が、実は、初代教会にすでに広まっていたという証拠はあります。それでも六世紀の終わりごろには、少なくともある地方の信徒が御聖体を舌で受けていた形跡もあります。2  六五〇年、ルアン教会会議は信徒が手で聖体を受けることは乱用であるとして禁止しています。それが意味するのは、その地方では舌で受ける聖体拝領が長らくの慣行だったということです。3  九世紀のローマ司式書は、舌で受ける聖体拝領を一般的慣行として認めています。4

学者たちは、その移行がどのようにして起こったかについてまだ解明できていません。種々の説明がなされていますが、おそらくはそのほとんどに幾分かの真実があるのでしょう。しかし正確な理由を私たちは必要とするのでしょうか?  大事なことは、その移行が聖霊の導きによって十分な理由があってなされたに違いないということです。種なしパンへの移行があったことも一つの理由であると考えられます。乱用のおそれもあったでしょう。ユングマン神父がその決定的理由として挙げるのは「御聖体に対して高まってきた尊敬心」でした。5

教父たちと中世初期の資料を研究すれば、キリストの真の御体と御血である御聖体に対して日毎に高まってきた尊敬心がその説明であると思われます。御聖体は単に霊的糧としてだけでなく、礼拝の対象としても尊敬され始めたということであり、またミサの性格が、第一義的には、全能の神に対する礼拝である荘厳ないけにえの儀式としてより深く理解され始めたということです。本質的にそれがいけにえの儀式であれば、有効に叙階された司祭、小麦粉でできたパンとぶどう酒が必要でした。それはキリストに成り代わって儀式を執り行う司祭によって捧げられました。信徒はそのいけにえの儀式に怖れつつ臨席する特権を持っていましたが、典礼は自然にまた論理的に、司祭本来の役割といけにえの荘厳さを強調するようになりました。全米司教協議会典礼委員会が発行した、手で受ける聖体拝領を広めるための宣伝文書The Body of Christ(キリストの体)では、そういうことをあたかも断罪に値するかのような書き方をしています。

八、九世紀に、信徒はほとんど完全にこの式から排除されていました。彼らはミサ中に捧げものを祭壇に運ぶことを許されず、ミサが始まる前にそれを済ましておくよう要求されていました。聖歌を歌うのも聖歌隊だけでした。共同祈願も消滅しました。信徒はもはや祭壇上で何が起こっているか見ることもなくなっていました。それは司祭が祭壇の前に立ちふさがっていたからです。時として、祭壇は聖画によって完全に囲まれ、信徒の目から隠されてしまったのです。典文は小声で読まれ、すべては沈黙のうちに、もしくは人々が理解することのない言語で唱えられていました。

これはまるで十六世紀プロテスタントの苦情のようにさえ聞こえます。そしてその始めから終わりまでが、ギリシア正教と東方典礼カトリック教会で実施されている現行典礼の断罪です。このパンフで暴露されたいい加減な知識、また手で受ける聖体拝領の宣伝の一例として「信徒はもはや祭壇上で何が起こっているか見ることもなくなった」というくだりがあります。そのことを見る必要は当時のキリスト信者にとっては考えも及ばぬことであったことを指摘しておきましょう。これはロンドンにあるオラトリオ会管区長ネイピヤー神父も指摘しています。6  同じく、キリスト信徒が初めて教会を建てたころから、ほとんどの場合、ミサは東の方角を向いて捧げられていました。そのために、司祭は常に祭壇の前で会衆に背中を向けて立っていました(XIX章を見よ)。

信徒に現在強制されている慣行は、初代教会の慣行とは異なることを知って欲しいものです。当時の女性はホスチアを直接手に受けるのでなく、ドミニカルと呼ばれる布で手を覆うことを要求されていました。新しいやり方を正当化するために、エルサレムの聖キリロがよく引用されますが、各国司教団が信徒を洗脳して伝統から引き離すために準備されたパンフを読むと、その内容は細心の注意を払って編集つまり取捨選択されているのが分かります。その意味で、公式のプロパガンダは手で受ける聖体拝領を提案するにとどまらず、はるかに望ましい選択とか「成熟した」カトリック信徒の選択として勧めていることを強調したいのです。

聖キリロはエルサレムの司教で、主に彼の講義シリーズ(カテケシス)によって知られています。それは(おそらく三五〇年の)復活祭に受洗する求道者たちを対象とするものだったのでしょう。導入の講義とそれに続く十八の講義は古典的神学書であり、カトリック信仰主要点の際だって明白かつ説得力に富む提示を含みます。これらの講義集を私たちの時代にまで伝えた文書のいくつかには、そのほか五つの講義が含まれています。それは聖週間に同じ聴衆が聞いたと推定されるもので、洗礼、堅信、聖体、つまりあの偉大な秘跡の神秘への入門でした。ここから、これらの五講義は秘跡のカテケシスと呼ばれます。これらの文書自体は、秘跡のカテケシスを聖キリロ以外の著者に帰していますが、それ以降の著者たちはこれを単にそれに先行する講義の補遺として扱い、真正文書と見なしています。現代の学者の中にはその典拠について疑う者もいます。ともかく、この本物かどうか疑わしい文書は、手で受ける聖体拝領を正当化するためにしばしば引用されます。しかし単に議論のためなら、この文書が真正なものであることを認めても構わないでしょう。さらに、聖キリロが描写する諸特徴は、後で書くようにほかの教父の著作によっても確認されています。全体を読んで明白になるのは、著者が本質的にいけにえであるミサの性格、および御聖体におけるキリスト現存の完全な現実性に関する、明白に定義され、力強く論証された信念を示していることです。それがどれほどのものだったかは、十六世紀プロテスタント革命の当事者たちにとって、聖キリロが困り者だったことからもうかがわれます。彼は実体変化の教義を想起させるような書き方で、元素の中での実体変化について書いています。

以下がその翻訳。

それ故に、手のひらを前に出したり、指を開いたりして前に進み出てはならず、左手を王様を今から受けようとする右手の座のようにしなければなりません。手のひらでくぼみを作り、アーメンと言って、キリストの体を受けなさい。それから注意深く両眼に御聖体を触れさせて清めてから、それをいただきなさい。その際こぼしたりしないように気をつけること。もし、そういうことがあれば、あなたの体の一部を失うのと同じような損失を明らかに被ることになります。もしだれかがあなたに金の粉をくれたとすると、あなたはそれをこぼしたりしないように注意深く取り扱わないでしょうか?  だから、あなたは金よりも宝石よりも尊いお方の一部が落ちたりしないように気を付けないでしょうか?

そして、御聖体をいただいた後、御血の杯をいただくために進み出なさい。手をいきなり前に差し出したりしないで、従順を示すために恭しく礼拝しなさい。「アーメン」と言ってそれを受け、聖なる者になりなさい。唇がまだ濡れているうちに、手でそれに触れ、自分の目、額、そのほかの感覚器官を濡らしなさい。最後に祈りがあるからそれまで待って、これほどの神秘にあなたがふさわしいと思って下さった神に感謝しなさい。

感覚器官を御体と御血で触れる習慣は、少し珍奇ではあっても、それほど害はなさそうに見えます。しかし、そういうことには明らかに危険が付きまといました。それは拝領した人がいただいたそのホスチアに対する大げさな、たぶん迷信臭い信心とか、それにも増す過度の信心になりかねなかったからです。そして実際そのとおりになり、ホスチアに接吻する習慣は広がりました。アレキサンドリアの聖キリルは聖餐でいけにえになった子羊の御血で感覚器官を濡らすことを、エジプトに捕らえられたユダヤ人がほふられた子羊の血を戸の側柱に塗ったことに比較しました。彼はこれがユダヤ人たちを守ったように、感覚器官を御血で濡らすことが感覚的誘惑から来る危険な悪から守るものであると考えました。

この奇異な風習が地理的に広まっていたもう一つの証拠があります。5世紀前半、シリアにあるキリュスのテオドレ司教が、ホスチアに接吻する行き過ぎが広まっていたことに言及しています。

聖なる神秘の最中に私たちが配偶者の御体を受けて、それに接吻し、抱きしめ、目に当てることを思うべきです。9

これはたまたま見いだされた行き過ぎではありません。ダマスコの聖ヨハネ(675-749)の証言によれば、手で受けることによって可能になり、ゆがめられた現存の神学を導入することになったホスチアに接吻する習慣は、少なくとも八世紀の終わりまでは続いていました。

十字架に掛けられたお方の御体をいただき、それを私たちの目、口、額に当てましょう。神から来る燃える炭火を受けましょう。10

このような行き過ぎを見るとき、聖霊が、御聖体を舌で受けて、ふさわしい尊敬と礼儀を確保するための変革を促されたことは驚くに足りないのです。

十三世紀半ばまでに、御聖体に触れるのは聖別された者だけに許されることが確立された伝統になりました。聖トマス・アクイナス(一二二五〜一二七四年)は次のように書いています。

キリストの御体を配るのは三つの理由のために司祭に限定されます。第一。上記のように、彼がキリストに成り代わって聖別します。キリストは最後の晩餐でその御体を聖別なさり、それを弟子たちが受けるために配られました。従って、キリストの御体への聖変化が司祭によってなされるように、彼のみがそれを配ることはふさわしいのです。第二。司祭は神と人との間の仲介者に任命されて、人々の捧げ物を神に捧げることが彼の仕事であるように、彼が捧げられたたまものを人々に配るのもふさわしいのです。第三。この秘跡への尊敬からしても、聖別されていない物がそれに触れることはふさわしくありません。同じように、この秘跡に触るために司祭の手は聖別されています。故に、例えばそれが地面に落ちてしまったときとか、それ以外の緊急時を除けば、司祭以外の者が御聖体に触れることは許されません。11

手で受ける聖体拝領を広めるプロパガンダには、御聖体に触れることに関する特別の権能が司祭に与えられるものではない、という意味のいくつかの主張が含まれています。 Take and Eat (取って食べなさい)は米国司教協議会の権威の下に出されたパンフではあるが、それには、

最近、司祭の手が聖であるということが盛んに強調されたかもしれませんが、司祭叙階の際、手に聖香油を塗ることは御聖体に触れる特権と結びつけられるものではありません。

しかし、聖トマス・アクイナスは、アメリカ大陸発見の何百年も前から、明らかにそのような関係があると考えていました。それだけではありません。それは彼の時代までにはすでに広く受け入れられた伝統でした。それがこの習慣の始まりを説明する正確な、かつ唯一の説明ではなかったかもしれません。しかし千年以上の間そのような意味を与えられていた習慣にこの特別な意味がないと今更言うことは、「シンボル」という言葉に何の意味もないと言うようなものです。ローマ儀式書にある伝統的な司祭叙階式書には、司教が新司祭に言う次の勧めが掲載されていることも心すべきです。

あなたがすることに気を付けなさい。あなたが触れるものに見習いなさい。そしてあなたが主の死の神秘を祝うたびに、あなたたちの体がすべての悪徳と肉の快楽に死ぬようにしなさい。

これは明らかに叙階を受けた人たちが、特権としてキリストの体に触れる事実を指し示しています。もし、カトリック信者であればだれでも御聖体に触れることができるのであれば、ここでそんなことにわざわざ触れる必要はありません。

パンフ Take and Eat は以下のように続けています。

手が特別に聖香油で塗られることの意味は、司祭が隣人に仕える公の奉仕を意味します。

だけどこれは本当にそうでしょうか?  こんなナンセンスの典拠がどこにあるのか引用してもらいたいものです。郵便配達夫、医師、ゴミ収集人、教師、道路掃除人夫、兵士は皆 「隣人に仕える公の奉仕」をしていないでしょうか?  彼らも手を聖香油で清めてもらわなければならないのでしょうか?

聖香油の塗布が御聖体に触れる特権を何ら与えないことのさらなる証拠は、助祭の奉仕を考えると分かります。それは常に御聖体と関連していましたが、助祭の手に聖香油が塗られることはありません。

6世紀に遡るギルダスへの手紙とか、8世紀に使われた記録のあるヨークのギルベルトの儀式書が証明しているように、少なくともある地方で、助祭の手は聖香油で清められていたことを指摘することもできます。初代教会時代からある場合は助祭がホスチアに触れて奉仕していたことは例証として挙げることはできるものの、助祭と御聖体の関係は伝統的にカリスに関連しています。これは聖トマス・アクイナスの引用からも明らかです。彼は助祭が普通の状況の下でホスチアに触れることを明白に除外しています。Catholic Encyclopediaには次の記載があります。

カリスの世話は現代に至るまで助祭の特別な領域であり続けました。今でも荘厳ミサでは、ルブリカによれば、カリスが捧げられるとき、助祭はカリスの足の部分か司祭の腕を支えて、司祭と共に主よ、救いの杯を…の言葉を唱えます。最初のオルド・ロマヌスを詳しく点検すると、教皇ミサの主席助祭はある意味でカリスを支配しているかのように見えます。彼と彼の助手を務める助祭たちが、人々がパンの形での聖体拝領を終えた後で、御血の入ったカリスを提示します。12

教皇ヨハネ・パウロ二世ご自身が司祭の手の塗油と御聖体に触れることの間に関係があることを認めていることも忘れてはなりません。一九八〇年二月二十四日の使徒的書簡Dominicae Cenae(ドミニチェ・チェネ)中に、教皇は司祭が御聖体を扱うことに叙階式の典礼が言及していると書いておられます。

福音宣教の使命への献身にもまして、私たちの最大の献身は救い主の御体への神秘的権能を行使することにあり、私たちの中にあるものはすべて決定的にこのことに秩序づけられねばなりません。私たちがこの奉仕の権能に向けて秘跡的に聖別されていること、また私たちが「人々の善のために」人々の間から選ばれていることを記憶しておくべきです。私たち、特に、その叙階式の儀式に、司祭の手に聖香油を塗る習慣が何世紀も前から付け加えられるラテン典礼教会の司祭たちは、このことについて思いをはせるべきです。

いくつかの国では手で聖体拝領をする習慣が導入されています。この習慣はそれぞれの司教協議会からの願いに応じて聖座の許可があるものの、御聖体に対する嘆かわしい尊敬の欠如が報告されています。これは個々の信徒に責任があるだけでなく、御聖体に対する信徒の態度に関して十分気を付けていなかった牧者たちの落ち度でもあります。

教皇は司祭の手の塗油と御聖体の配布に関係があることを単に認めるだけではなく、できることなら御聖体の配布が司祭にだけ許されることを好むことも明白になさりつつ、両者の関係を強調なさっています。

しかし、私たちは司祭たちの第一の義務を忘れてはなりません。司祭は叙階によって司祭キリストの代理を務める者として聖化されています。そのために、彼らの言葉、意志はキリストが直接使う道具となっています。この事実を通して、つまり、彼らがパンとぶどう酒を捧げて聖化し、希望する参加者にそれを配布するという完全な責任でもって御聖体に仕える者として、彼らには御聖体に対する特別の責任があります。助祭は信徒の捧げ物を祭壇に運ぶことができますが、彼らは司祭に叙解されると御聖体の配布が許されます。古くからの習慣ではないとしても、ラテン典礼での叙階式で手に聖香油を塗る行為は、これらの手のために聖霊の特別の恵みと力が必要であるかを、何と雄弁に語っていることでしょう!

御聖体に触り、彼らの手でそれを配布するのは叙階を受けた者の特権です。それは御聖体の奉仕において能動的参加を示します。

プロテスタント革命

聖霊が教会を見捨てたと結論するのでない限り、手で受ける聖体拝領から口で受ける聖体拝領に移行したのは神的導き、典礼の真の発展だったと推定できます。伝統的習慣を大事にするために布告されたパウロ六世の教書Memoriale Domini(メモリアーレ・ドミニ)は以下のように説明しています。

聖体神秘の真の意味、その結果、その中におられるキリストの臨在が深く研究された後、この聖なる秘跡に対する尊敬の念と、聖体拝領が要求する謙遜の念から、司祭自身が聖別されたパンを信徒の舌の上に置く習慣が導入されるようになりました。13

プロテスタント革命家たちは、聖別の言葉がパンとぶどう酒に新しい意味を持たせる、つまり、パンとぶどう酒がキリストの体と血の象徴になる以上の変化を認めようとしなかったのです。キリストは天にいるので、地上にはいないと彼らは考えました。だからパンとぶどう酒に礼拝を捧げること(パンの礼拝)は偶像崇拝になると彼らは教えました。マルチン・ビューサーはプロテスタントの共通理解を彼の著Censuraに書いています。それは一五四九年の祈祷書への批判であり、その目的はキリストの臨在、またはミサにおける聖なるいけにえに対するカトリック的信仰を暗示すると思われる祈りとか儀式を根絶やしにすることでした。クランマーと彼の師ビューサーの信仰の酷似は、彼が祈祷書一五五二年版でCensuraの提案をどれほど採択しているかによって証明できます。ビューサーは一五四九年の聖餐式ルブリカに反対しました。それには司式者が、彼の後でそれを受けようとする人たちのためにちょうど十分なだけのパンとぶどう酒が残る程度に食するように定めてありました。彼はこう説明します。

これは、もしパンとぶどう酒が少しでも聖餐式の後に残るようなことがあれば、あたかも、聖餐式での使用から離れて、何か霊的で聖なるものがこのパンとぶどう酒に残っているかのように、その残り物を日常の使用に使用することを許すのが間違っている、という迷信のきっかけになってはいけないからです。だから、人々には、主キリストがパンとぶどう酒においてでなく、その言葉とこれらの象徴によって、信心深い人たちの頭の中で捧げられるのであり、故に、パンとぶどう酒はそれが主の食卓の上に置かれたとしても、主が制定した聖餐式での使用が終わったら、もはや普通のパンとぶどう酒よりも聖であるわけがない、と教えられるべきです…ローマの反キリストたちを通じて、悪魔が何世紀もの間人々に拝ませるためにキリストなどではなく、ただのパンを押しつけて、我らの救い主キリストに対するすべての感情と彼に対する崇拝を盗んできた、あの効果ある疫病的欺瞞を見るとき、すべての教会からいつまでも、また教義の純粋さでもって反キリストによって彼らが使用し、人々の単純な心の中に保存することを望んだあのパン礼拝のいかなる形であっても、これを廃止することが私たちの義務となる…パンとぶどう酒は私たちに自分を捧げるキリストの体と血の象徴です。この使用法から離れると、それらはほかのパンとぶどう酒と何ら変わるところがありません。なぜなら、それらの性質が変わることはないから、また主キリストがそれらの中でなく、信仰深い人々の心の中でのみ捧げられるだけであるからです。14

クランマーはこの批判に応えて、ビューサーが反対したルブリカを一五五二年版聖餐式からは削除しました。そこにはもしパンとぶどう酒が余ったら牧師がそれを自分たちで使用するために家に持って帰るようにという規則も含まれていたのだ。

ルーテルも含めて、すべてのプロテスタントは、叙階が牧師の役職を勤めるために人々が認証する式にしか過ぎないと教えました。叙階を受けた人と受けていない人の間に本質的差はないのです。叙階は、それ以前に持たなかった権能を与えるのではなく、彼らにとって消えることのない司祭の秘跡的印など存在しないことは疑いありませんでした。15  このようにして、司祭が信徒の舌の上に御聖体を置く習慣は、ビューサーによれば、聖餐のパンが普通のパンではなく、また、それを触ることが許される司祭に、一般信徒が持たない権能があることを意味しました。それ故に、彼は、クランマーが書いた一五四九年聖餐式で受領者の舌に聖体を置く習慣を非難したのでした。クランマーはおとなしくビューサーの要求に応え、一五五二年の祈祷書には手の上に聖体を載せる習慣を導入したのでした。ビューサーが変革を要求した理由はあいまいです。

これらの秘跡を信徒の手に載せない習慣は二つの迷信から生じたことに疑いありません。その一はこの秘跡に彼らが示そうとした偽りの栄誉。もう一つは、聖別の油の力によってキリストの民よりも自分たちの方が聖であるとする司祭たちの邪悪な傲慢です。主は間違いなくその聖なる象徴であるこれらを使徒たちの手に渡したでしょう。そして昔の記録を読んだ人であれば、これこそが、疑いなく、反キリストの到来までは教会で守られていたやり方だったでしょう。

故に、ローマの反キリストが信じるすべての迷信が忌み嫌われなければならないように、キリスト、使徒たち、初代教会の単純さは思い出されなければなりません。牧師と人々の教師たちは、それぞれがキリストを真に信じる人々の手が彼らの口より清くない、とか牧師の手が信徒の手より聖であるとか考えることは、迷信であり邪悪であると教えるよう命令されることを望みます。つまり、信徒がこれらの秘跡を手で受けることが悪いことであるとか、ふさわしくないことであると以前は信じられていたので、牧者だけが秘跡に触って、信徒にはそうさせずに彼らの口の中にそれを置く、というこの邪悪な信仰の印がなくなるように。これは主が定められたことと異なるだけでなく、人間理性にとっても受け入れがたいのです。

そのように、善良な人たちはすぐに皆これらの聖なる象徴を手で受けるようになり、皆が揃って同じ方法でそれを受けることになるので、秘跡を人の眼を盗んで不敬に扱うことも防止できるでしょう。なぜなら、彼らがほかの人たちと同じく秘跡を手で受けるようにしてほかの人たちと同じになるよう、注意深く教えることができれば、しばらくの間、信仰の弱い者には彼らがそう望めばその秘跡を口に入れてやることもできるからです。

読者は、司祭の手の聖別がホスチアに触る特権を指していると考えられていたことに気付くでしょう。しかし、これは宣伝パンフ Take and Eat では否定されていることにほかなりません。プロテスタント革命家たちが、とりわけ司祭職と御聖体におけるキリストの現存というカトリックの教義を否定するために手で受ける聖体拝領を導入した事実は、それ以来現在に至るまで、その習慣に反カトリックの意味合いを持たせることになりました。であれば、このような習慣はカトリックの礼拝には全く採用不可能になってしまい、採用されてはなりませんでした。現代プロテスタントがカトリックに迎合するために舌の上に載せる聖体拝領に切り替えるわけはないので、カトリック信徒は表面的エキュメニズムのため、このとりわけプロテスタント的習慣を受け入れて、御聖体に対する外面的尊敬の最後まで残された一かけらさえも、つまり、御聖体がパンに過ぎないと考えている人たちにとって、侮辱的であるかもしれないこの習慣を捨て去ってしまうよう強制されつつあります。これは驚くほどのことではなく、教皇ピオ五世のミサ廃止に始まったパターンの論理的結末でしかありません。

不従順と欺瞞によって助長された乱用

手で受ける聖体拝領は、第二バチカン公会議直後、反逆行為としてカトリック教会に再導入されました。それはオランダで教会の合法的権威を無視する行為として始まりました。従う義務のある典礼規範は平然と無視され、いくつかの教会で宗教革命以来典型的にプロテスタントのやり方で御聖体が配られるようになりました。それは乱用であり、司教たちによって直ちにしかるべく取り締まられるべき行為でした。教会の規則に従おうとしない司祭たちは聖職停止になるべきだったのにそうならなかったのです。この習慣はドイツ、ベルギー、フランスへと広まり、これらの国でも司教たちは自分たちの義務を果たすことなく、乱用には目をつぶったままでした。このようにして、御聖体に関する教えを否定する象徴としてプロテスタントが採用したために、カトリック教会には受け入れ不可能になっていたこの習慣は、進歩的聖職者たちによる教会権威否定の象徴になった今、心ある人たちには受け入れることが二重に不可能になってしまったのです。

この反逆の結果があまりにも深刻だったため、教皇は世界中の司教たちに助言を求めた。彼らの意見を聞いた後で、教皇は一九六九年、教書「メモリアーレ・ドミニ」を公表しました。その要点は以下の通り。

(1)世界中の司教たちは圧倒的にこの新奇な習慣に反対でした。

(2)聖体拝領の伝統的慣習は保持されねばなりません。

(3)それは尊敬の印であり、決して聖体を拝領する信徒の威厳を減じるものではありません。

(4)このような改革は不敬、冒涜、正しい教義の衰退につながります。

聖座は教会の共通善に対する配慮からも、司教、司祭、信徒たちに、この有効でカトリック司教の大多数の判断によって再度確認された規則、つまり、聖なる典礼の現在の儀式が使用する形式を熱心に遵守することを勧めます。

それにもかかわらず、不幸な判断ミスがすぐに起きました。この習慣が「すでに始まっているところでは」どこであっても司教協議会で三分の二が同意すれば、聖座にその乱用を合法化する許可を願うことができることに同意がなされました。実に明白に、「すでに始まっているところでは」という言い方は一九六九年五月二十八日までにということを意味しました。その習慣がその日までに採用されていない国は明らかにこの譲歩から除外されていると考えるべきであり、英語圏の国すべて(日本も — 訳者)がこの範疇に属していました。しかし、いくつかの国にいた進歩的司祭たちはもし自分たちが法を犯せば、聖座が彼らの不従順に規則の方を合わせてくれることを学んだのでした。ほかの国の進歩派はもし自分たちもそれに倣ったら、バチカンは再度降伏するだろうと推定したのですが、彼らの判断は正しかったのです。そして、それは手で受ける聖体拝領だけにとどまりませんでした。しかし、「メモリアーレ・ドミニ」以前と以後の状況には大事な違いがあります。一九六九年五月以降、最初は黙認していた司教たちが、次には同意し、最後にはこの乱用を信徒に押しつけようとしています。これはパウロ六世のはっきりした望みに対する明白な挑戦であるにもかかわらず、彼らは教皇ピオ五世のミサ挙行の許可を拒否して臆面もなく教皇に対する忠誠心があると言い張るのです。実に、教皇の希望を尊重するか否かについて、司教たちには明白かつ一貫した基準が存在しました。信仰を破壊するために教皇の希望が無視されるときにはそれが許され、信仰を守るために教皇の希望を無視すると、それは許されないのです。

興味深いことに「メモリアーレ・ドミニ」が出版されなかった国もあり、そこの信徒たちは教皇の希望については知る由もありませんでした。このようにして、信徒たちは、長年の伝統と当時の教皇の明白な希望に反してプロテスタントの習慣を信徒に強制するために作られた公式プロパガンダに抵抗する根拠に欠けていました。米国でこれを実施するために取られた主な手段がThe Body of Christ(キリストの体)と呼ばれたパンフでした。その内容を一般に広めるためにジョセフ・M・チャンプリン神父による Preaching and Teaching about the Eucharist(聖体についての説教と教え)という小冊子形式の説教シリーズが準備されました。これらの説教集があれば、ちょうどプロのセールスマンたちが製品を売るために準備されたマニュアルに従うように、主任司祭たちも信者にこの革新を売り込むことができました。チャンプリン神父が会衆に手で受ける聖体拝領の復活をどのように説明したかを以下に掲載します。

第二バチカン公会議のころ、あるカトリック信徒たちは司教たちに認可された典礼の原則に従って、手で聖体を受ける古来の習慣を選択肢の一つとして復活させようとしていました。このような希望が強まるにつれて、パウロ六世は、直接に舌で受ける聖体拝領に加えて一つの選択肢として、これを再導入することの是非について世界の司教たちの意見を聞かれました。彼らの考え方に応えて、教皇は現在の方法は保たれるが、特定の国の司教団は手で受ける聖体拝領を選択肢として再導入することに関して投票してもよいと決められました。数年も経過すると、五十六ヶ国の司教たちがこのようにして投票したが、米国の司教たちはつい最近投票したばかりです。17

これは第三帝国のやり方にそっくりなプロパガンダです。ヨセフ・ゲッペルトでもこれより巧妙にはできなかったでしょう。そこに直接的うそがあるわけではないことに注意。ジョセフ・M・チャンプリン神父は主任司祭たちが信徒に、あるカトリック信徒たちが古来の伝統の復活を希望したからそうなる、と説明して欲しいのですが、各地で進歩的な司教や司祭たちがすでに聖座の許可もなくそれを始めていることには全く触れようとしません。教皇が「意見を聞かれた」のは本当です。しかし、チャンプリン神父は圧倒的多数の司教たちがその革新に反対だったことを会衆に知って欲しくありません。背景にある情報を何も知らない普通の信者であれば、司教たちがそれに同意したと思うほかありませんでした。「メモリアーレ・ドミニ」は特定の国にいる司教たちが乱用を合法化するために投票で採決することを許す譲歩はしています。手で受ける聖体拝領がすでに非合法的に導入されている国では、それを導入するのでなく合法化しかできませんでした。しかし、チャンプリン神父は、この譲歩が一九六九年五月までに乱用が確立されてしまっていた国にのみ適用されることを、一般信徒が知る必要はないと判断しました。さらに彼は教皇が司教、司祭、信徒たちに古来の習慣を守るよう強く勧めていたこと、この改革が導入する可能性がある危険について警告していたことを信徒に知らせることは賢明ではないと判断していました。この乱用を導入した反逆者たちが「第二バチカン公会議の期間の教父たちから認可された典礼の原則に従っていた」と、チャンプリン神父は言っていますが、これなどは限りなく真っ赤なうそに近いと言えます。繰り返しになりますが、背景になる情報を持たない一般信徒であれば、第二バチカン公会議で直接に決められたものでなくとも、手で受ける聖体拝領は教父たちが賛成票を投じた改革のことだろうという結論に達するでしょう。第二バチカン公会議の典礼憲章には、それとか類似の革新を匂わせるようなことは一言もありません。公会議の教父たちはそういうことを考えるだけでも震え上がったでしょう。どれほど彼らがその同意から遠かったかは、一九六九年の圧倒的反対投票を見れば分かります。しかし、そういう主張をして、ジョセフ・M・チャンプリン神父はPope John's Council(教皇ヨハネ二十三世の公会議)十六章の正確さを証言してくれています。そこで私は、公会議後の乱用の種はすべて憲章自体に含まれていることを示しました。それは公会議後に爆発するよう巧妙に仕掛けられた不明瞭さであり、騙されやすい司教たちが賛成するように諸文書の草稿を書いた「専門家たち」によって仕掛けられた「時限爆弾」でした。

ジョセフ・M・チャンプリン神父は、カトリックの典礼をプロテスタントの習慣に迎合することを正当化するために、プロパガンダを徹底的に利用した典型的扇動者です。それが古来の習慣を復活させることであると繰り返し主張して、改革のエキュメニズム的動機は信徒に分からないようにしています。これは正にプロテスタントの改革者が利用した理屈でした。実に、原始教会に訴えるのは異端の常套手段です。

一九四七年、ピオ十二世は回勅『メディアトル・デイ』を出されましたが、そこには、原初の習慣に戻ることを口実に信仰破壊を試みる者たちに対する緊急警告があります。教皇は「天の御父への道に養子の群を導く典礼が聖化し、救う行為を麻痺させる傾向のある邪悪な運動」について警告なさっています。邪悪な運動は、それがもっと古いという理由だけですでに廃れている典礼の慣習を復活させることを指すのです。ピオ十二世は次のように説明しておられます。

初期の典礼は尊敬に値します。しかし昔の習慣が、それ自体において、または後からの時代や環境と比較して、それが古いというだけの理由でもっとすぐれていると考えるべきではありません。もっと新しい典礼にも、それが教会と常に、否、世の終わりに至るまで共におられる聖霊の導きの下で導入されているのですから、尊敬と敬意を払うべきです…見境なくすべてを昔のとおりに復活させる希望は賢明でなく、称賛に値するものでもありません。例えば、祭壇を古代がそうだったからという理由でテーブルに換えてしまうとか、典礼の色から黒を除外してしまうこととか、御絵と彫像を教会から除去してしまうことなどは間違いでしょう…このような態度はピストイアの偽教会会議が始めた「古代主義」を復活させようとする試みです。それはあの教会会議の開催のきっかけになり、またその結果でもあった多くの陰険な誤謬を再導入しようとするものでもあります。神的創立者によって託された「信仰の遺産」の注意深い守護者である教会が、この会議を断罪したのは正しいことでした。18

しかし、一九四七年に断罪したのが正しかったことが、一九七七年に強制されることは正しくありません。ピオ十二世は信徒の聖体奉仕者、手で受ける聖体拝領などには言及されていません。当時最も激越なプロテスタント化運動家でさえもこれほどの成功は想像もしていなかったでしょう。

古代の儀式と習慣

教会史最初の八世紀を手早く見るだけでも、後の時代に廃止された数限りない儀式とか習慣があったことに気づきます。洗礼志願者たちには七日間続く試験期間がありました。また、長々とした悪魔払いの式の間ひれ伏していなければなりませんでした。司祭は彼らの唇と耳に自分のつばを塗りつけていました。頭のてっぺんから足の先まで悪魔払いの油が塗られていました。もちろんこの式で女性には女性助祭が当たりました。洗礼の後で志願者たちには香水入りの油が塗られました。初聖体後に一口の牛乳と蜜が与えられました。ミサの間、洗礼志願者たちは御言葉の祭儀(求道者のミサ)が済むと外に出されました。洗礼を受けた赤ちゃんたちは御血を拝領しました。ある種の罪には長く、厳しい償いが課されました。改悛者たちは教会に立ち入ることが禁止され、袋を身にまとい、灰をかぶって、教会の外で人々の祈りを求めなければなりませんでした。四旬節は断食、禁欲などの実に厳しい償いの時でした。特に寡婦と乙女たちはしばしば断食して教会のために祈るよう要請されました。寡婦を食事に誘う者はそれがだれであっても厳格に規制されていました。聖ヒポリトゥスは「それは老人でなければなりません。また日暮れ前には家から出るように」と書いています。洗礼を受ける資格がないとされた者たちは例えば彫刻家、画家、役者、演劇をする者はだれでも、戦車の御者、道楽者、宦官、ペテン師、布の縁を切る者、兵士たちでした。妾たちはもし主人に忠実であれば資格ありとされました。

昔の習慣のリストは延々と続けることができます。復活しているものとか、後に発展したが禁じられているものとかを調べて、共通項を調べるとなかなか面白いです。そしてそれほど苦労しなくてもその共通項が何であるかは分かります。それはカトリックの礼拝をプロテスタント諸派の礼拝に近づけるという点です。祭壇とテーブルの入れ替え、両形色による聖体拝領、それぞれの国語を使用し声を出して読み上げる典礼、黒い祭服、ことさらにいけにえを想起させる祈り、ウェイファーのようなホスチアの廃止などですが、詳しくはXXV章を読んで下さい。そこには現在の典礼革命が、クランマーのそれと同一のものではないにしても、信仰を大事に思うカトリック信者ならだれでも怒りを覚えるほどの証拠が列挙されています。しかし、主キリストの現存に欠ける彼自身の儀式でも、聖体拝領をさせるのは叙階を受けた聖職者にしか許さず、クランマーも聖体拝領が荘厳である必要を十分に認識していた事実を示し、少なからぬ皮肉を感じさせます。クランマーにとって信徒聖体奉仕者は存在しなかったのです。

不正な手順

「メモリアーレ・ドミニ」が明確に意味したのは、一九六九年五月までに手で受ける聖体拝領が確立してしまっていたところでは、その乱用を黙認しようということでした。しかし、バチカンは譲りに譲って、その習慣が確立される所ではいつでもどこでもそれを認可するようになりました。繰り返しますが、「確立された」がどんな意味であるか決めるために何の基準もないのは公会議の教会に典型的なやり方です。それは米国全体でたった一人の司祭がたった一人の信者に手で受ける聖体拝領を許す、という意味なのでしょうか?  それとも、各司教区にある小教区の半分がそうしていることを意味するのでしょうか?

この最重要点はイリノイ州ジョリエットのブランシェット司教によって提示されました。全米カトリック司教協議会が一九七七年この問題を討議した際、ブランシェット司教はバチカンが認可したこの手順は、もし逆の習慣が普及していれば聖座に許可を願えるかというものでした。司教たちがまず第一の段階を踏まないと第二の段階に進めないことを彼は指摘しました。つまり、「メモリアーレ・ドミニ」は「もし、反対の習慣がすでに普及しているなら」司教協議会の構成員に投票することを許しています。これが意味するのは一九六九年までにそれが普及しているなら、という意味です。

私たちは今聖座に請願を出したいのかどうかについておそらく討議し、投票するのでしょうが、私たちは反対の習慣が普及していることをまだ確認していない、と発言しました。そうするための簡単な方法は教区長たちに自分たちの教区で反対の習慣が普及しているかどうか尋ねることである、と付け加えました。教区長は教区の牧者であるから知っているはずでした。彼は従順であることを要求されており、彼の司祭たちも同じく従順であることを要求されているわけですから、もし反対の習慣が普及していることをだれかが知っているとすれば、彼が知っているはずです。それで、私は議事案が修正され、第一の段階つまり反対の習慣が普及しているかどうかを調べ、その確認ができてから次の段階に進むことを要求しました。もし第一の段階が確認できなければ、どうして次の段階に進むことができるでしょうか?  私の質問はこのようなものでした。19

ブランシェット司教の動議は五人の司教が書面でも支持し、会議の議長も承認しました。規則によれば、投票用紙を使用して投票するはずでしたが、改革の支持者たちの反対があって、結局は挙手によって議長を責から外すことを決定したのです。クロール枢機卿さえも、後日、これほど重大な問題に関する動議を無効にした議会張りの駆け引きを非難しました。故に、この投票がどれほど合法的だったか疑問に思うことは道理に叶っているように見えます。

それから、もちろん、この改革が採用されるためにほかにもいくつか異常な手段が使用されました。引退した司教たちは投票することが許されませんでした。また、必要な過半数に届かないときには、必要数に届くまで、欠席司教たちの賛否を確認しました。改革に対して批判的だった司教たちは「些細なこと」に口うるさい、と非難されました。さて、その問題がそれほどつまらないものであれば、改革を遮二無二実現するためには何と大げさな手段が採られたものでしょう。

反対の習慣がイングランドとウェールスで普及してはいたものの、その範囲はごく限られたものでした。その乱用が確立されていたのは全国でもわずか何十かの小教区とかセンターにおいてだけでした。カトリック信徒全体としてみるとき、そのようなやり方に対する興味も希望も明らかに存在しませんでした。しかし、英国人には独特のやり方があります。司教たちは秘密裏に許可を願ったのです。それを知っていた主任司祭と信徒の数はごく限られていました。このように、司教たちは反対の習慣が普及していることを確認した方法を公にせずに済み、恥をかくことを免れました。前述したように、その普及度は限られた反乱のセンター以外では非常に低かったので、このやり方は彼らにとってまことに便利でした。司教たちは、反対の習慣が普及していようがいまいが、不面目な立場にあります。そしてこれはすべての国に通じます。もしそれが普及していれば、彼らは聖座の権威に対する野火のような反逆を黙認していたかどで有罪であり、もしそれが普及していなければ、彼らは教皇を騙してうその口実の下に許可を得たかどで有罪になります。もし、英国の司教たちがその習慣がすでに広まっている、とかそれが広く望まれていたと報告したのであれば、そこには虚偽があったことになり、教会法四十の条件の下で許可は無効であり得ます。つまり、ある種の恩恵とか免除を与える許可には「請願の内容が真実であれば」(si preces veritate nitantur)という条件が付いています。どのような請願であれ、真実が有効性の条件になるのです。

カナダの情況も同様です。あるカナダ人司祭がこの習慣が導入された方法を説明した膨大な文書を私に提供してくれています。カナダの司教たちは自分たちが許可を願った理由の公表を拒否しています。

新聞には、ある信徒たちに初代教会と同じような方法で聖体拝領をしたい、という希望があったので許可を願うことになった、と報道されています。もしこれが本当であれば、いったい何人がそんなことを希望したのか聞きたくもなります。一万人に一人もいなかったのではないでしょうか?  私たちはそのような調査があったなどと耳にしたことはありません。ある大司教区でこの問題を話し合った十二人の主任司祭たちは、調査の要請を受けていなかったと証言しています。百五十の小教区がある大司教区で手で受ける聖体拝領を実施していたのはその中のわずか二、三の教会であったに過ぎません。その習慣が広まっていたのは神学校、黙想の家、修道院、高校、大学においてです。許可された後もカナダのある司教たちは手で受ける聖体拝領を許可しませんでした。またほかの司教たちも嫌々ながら許可を与えました。また、ある司教たちは、例えば堅信を受けているという条件付きでないと許可しませんでした。ある大司教はその許可を与えるに際して「私の知っている限り、この典礼改革に関する幅広い要求が司教、司祭、信徒たちの間にはなかった」と言っています。さらにある司教たちは許可があったことで自分たちが失望している、また許可の理由として、隣接教区で許可されているからとか、他教区に行ったときに驚くことのないために、とさえ言っています。

このようにどこでも同じパターンが見えてきます。乱用を合法化するために聖座に許可の請願が送られます。しかし、ある程度それが普及しているという許可を得るための前提条件を確認する試みもしないままにそうするのです。もし反対の習慣が普及していることを証明する証拠があればそれは秘密にされます。何かを秘密にしたい人たちには当然隠しておきたいことがあります。

イングランドとウェールスの司教たちは、さらに一歩進んで、許可を願ったということすら隠していました。大部分の信者たちは一九七六年五月二十一日のカトリック新聞などを開いて、プロテスタントの習慣に肩入れする宣伝とその発表を読むまで、そういうことがなされていることさえ知りませんでした。一方、カトリック・トゥルース・ソサイエティーは、新聞などによる宣伝を応援するために、パンフやポスターを大量に準備して、たまたま発表があったその日にそれらを配布したものです。ある教区では、主任司祭がわずか一日か二日前に通知を受けたが、多くの司祭たちは信徒と同じ日に通知を受けるという扱いを受けました。これを私自身が十人以上の司祭に聞いて確かめてあります。北方のある教区の司祭は次のような手紙をくれました。「私がそれについて知ったのはテレビのニュースを見たときでした。つまり司教たちがその習慣を許可するというニュースです。ショックでした」。

この乱用の強制が多く立派な司祭たちに与えた苦悩について、私は強調し過ぎることができません。ウェストミンスター大司教区のある司祭は、乱用の合法化と教区司祭たちに隠れてそれがなされたやり方は、自分の五十年に渡る司祭生活が冗談でなかったのかと思わせるほどのものだった、と言っています。司教と司祭たちを結ぶはずの固い絆について信徒はあまり知りません。この場合、司教たちのやり方は妻と子供たちに何も相談せずに、父親が転職し、家屋を売却し、彼らには単に既成事実をいきなり突きつけ、わずか数時間内に引っ越しを迫るようなものでした。私はそのような習慣を強制されるよりも引退することを選択した司祭を個人的に十人以上知っています。一般信徒には、少なくとも理論上、聖体拝領の方法を選択することが許されたにもかかわらず、聖職者にこのような選択は許されませんでした。司教たちは要求する信徒にはだれにでも手で受ける聖体拝領をさせるよう彼らに命じたのでした。しかし、神は曲がった線でまっすぐな線を描くことがおできになります。ある司祭たちは、伝統を重んじるカトリック信者のためにトレント公会議のミサを捧げるようになりました。またほかの司祭たちは、御聖体に対してこれほどの不敬を伴う行為に参加して、妥協するより、むしろ引退することを選択しました。また、その習慣に反対して引退することを強制された司祭たちもいます。修道院付きのある英国人司祭は修道女たちに「メモリアーレ・ドミニ」を読み上げた後で御聖体を手に乗せて拝領させることに同意していたにもかかわらず、それを読んだこと自体でお払い箱になってしまったのです。彼が望んだのは、教皇パウロ六世が伝統的習慣を保持することを望まれたことを、修道女たちに理解させることだったのに…ある米国人司祭は、拙著Communion in the Hand and Similar Frauds(手で受ける聖体拝領と類似した詐欺行為)を信徒の目に触れさせたかどで、引退することを司教に命じられました。司教のその際の説明は「司祭には自分の意見を持つ権利はない」ということでした。多くは司教の独裁に従う決心をして教会に残っていますが、ミサは彼らにとって苦悩の種になりました。彼らの気持ちは、一九七七年十月二十三日のOur Sunday Visitorに掲載されたジョン・E・コーマー神父の手紙が代弁しています。

今や手で受ける聖体拝領が、私たち伝統を重んじる司祭たちの感情と意見を無視して強制されるようになっています。カトリック教会内の「進歩派」には心からの祝意を送らねばならないのでしょう。

あなたたちはしばしば何でも自分たちの思うままにすることができました。あなたたちは全司祭に、望もうが望むまいが自分たちと同じく考えるよう強制してきました。そしてもし私たちがそうしなければ、司教に対する厳重な従順の名の下に、すべてを受け入れなければならない、と言うのです。ところであなたたちは従順を信じているのでしょうか?

私はそうしてきました。しかし今私は自分がどう感じるかも言わねばなりません。このような条件の下に司祭であることはもはや私にとって何ら特別なことではありません。それはもはやただの「職業」つまりどこにでもある職能になっています。これはもはや私が知り、愛してきた司祭職ではありません。これは私が学び、昔私の生涯を捧げた司祭職ではありません。

私は自分の司祭職をだれかのためにとか、どんなことがあっても放棄するつもりはありません。しかし今、こんな条件の下で働かされるのであれば、以前とはとても違っています。

だから、進歩派の皆さんに言いたいのです。私の司祭職から喜びと愛を抜き取り、空っぽの苦い感情のほかに何も残してくれなかったことを感謝します。私はそれでもあなたたちのために祈り続けます。しかし、意向は今後異なります。私はあなたたちがこれ以上の害を教会に加えないように祈ります。

英国では、これでもかと言わんばかりのカトリック広報委員会が司祭と信徒の間で広く相談があったという声明を出しました。20  乱用を強制するために英国の司教たちが利用した衣の下のよろい方式は、英国で最も極端な典礼改革の主張者たちの代弁役 Music and Liturgy(音楽と典礼)一九七六年夏号に、反対意見が掲載されるきっかけにさえなりました。当然のことながら、手で受ける聖体拝領について有頂天になりながらも、次のような記事が見られます。

それが導入されたやり方は遺憾でした…全国典礼委員会は明らかに反対を予期していました。それが、全く隠されていたあのばかばかしい秘密主義の説明である以外に理由を考えることができません。何しろ、司祭たちは実施のわずか数日前になって通知を受けました。そして「何日の〇〇・〇一時までは」秘密を保つよう厳命されたものです。同じ考え方はあの長すぎて退屈なカトリック・トゥルース・ソサイエティーのパンフに関しても見られます。議論と典拠のあの膨大さ!  同じことを何度も何度も何度も繰り返しているのは、反対派が強大になる前に彼らの気勢をそぐためだったに違いありません。この宣伝にいくつかの事実誤認と誤った引用があったのは残念!  反対派はそこを熱心についたものです。お陰で賛成派にはそれが皮肉な娯楽になりました。

これらの事実誤認の中でも最悪だったのは、カトリック・トゥルース・ソサイエティーによるパンフ中で、東方教会では手に載せる聖体拝領が今に至るまで保持されている、というものでした。これは全くのナンセンスです。なぜかと言えば、司祭がスプーンに載せた両形色の御聖体を信徒の舌の上に置くのが、東方教会つまり東方帰一教会と正教会のやり方だからです。正教会の典礼ではミサが終わった後、時として祝福されたパンが信徒に配られることもあります。これはまだ祝別されていないから手で受けるのです。正教の信徒でない人たちがそれを見て手で受ける聖体拝領と勘違いしたのかもしれません。このパンフを書いたのは、イングランドとウェールス典礼委員会事務局の秘書アントニー・ボイラン神父でした。これなどは典礼専門家と自称する多くのやからにある典型的無知の一例です。

カトリック・トゥルース・ソサイエティーのパンフにある間違いに関して、私は教皇大使を含めて、何人かの高位聖職者に手紙を書き送りました。大使の秘書からはそれが残念ながら過ちであることを認め、改善を約束する返書を受け取りました。それは一九七六年のことだったのに、同じ過ちが現在に至るまで店頭で売られています。

信徒の洗脳

不幸なことに、この改革を広めるために使用されたこの種のプロパガンダは成功することが初めから分かっていました。このプロパガンダはキリスト教的倫理はおろか、自然法に基づく基本的倫理にも反します。偽りのもしくはゆがめられた情報でも、プロパガンダを絶え間なくくり返すと、それ以外の情報源を調べることができず、またその気力もない普通のドイツ人なら最後には信じるようになることを、ナチは証明しました。スターリンには、ほとんどの人間に批判的精神は存在しない、という発言があります。21  ほとんどの人たちは公の情報は正しい情報であると信じ込んでしまうのです。それで、一九七六年五月二十一日の英国最大のカトリック新聞 The Universe は読者のために以下のようなお知らせを掲載しました。

教皇パウロ六世は、司教たちと一致して、それが私たちの主の御体と御血である御聖体の聖なる性質だけでなく、聖霊の神殿、拝領者の聖なる性質も強調すると信じておられるので、手で御聖体を受けることを許可なさいました。

普通のカトリック信者であれば、これを読んで「それは本当だろうか?」と自問するでしょうか?  彼はそれがThe Universeに書いてあったというだけで信じてしまうでしょう。それ以外の反応を彼に期待するのは現実的ではありません。それ故に彼は、教皇が信徒に伝統的な仕方で御聖体を受けて欲しいと望んでおられることを知らずじまいに終わります。また、少数ではあっても英国の司教たちがこの改革にできる限り抵抗をした事実も、聖体拝領の伝統的方法が聖霊の神殿、つまり洗礼を受けたキリスト信者の尊厳を減じるものでなく、むしろキリストの体である御聖体の性格を強調するものであることも、知らずじまいに終わるでしょう。プロテスタント革命家たちは聖体がキリストの体でないとする彼らの信念を強調するために、伝統的慣習を廃止したのです。ああ、それなのに The Universeは説明抜きでこの改革がキリストの現存を強調すると主張したものです。その根拠に欠くナンセンスな主張が挑戦を受けることがない、挑戦を受けても押さえ込めるので一般読者の知るところにはならない、と彼らは確信していました。

米国司教団が使用した主なプロパガンダ文書 The Body of Christは、これでもかこれでもかと手で受ける聖体拝領の利点に関する全く根拠のない主張を繰り広げます。しかし、根拠がなくても挑戦を受けなければそれでいいのです。挑戦を受けたとしてもその事実は関係者から隠しておくことができます。この小冊子によると…

主を手のひらに受けることは私たちがこれらの儀式によって清められ、聖別され、イエスの司祭職を分かち持つ者であり、新しい創造であるという事実をはっきりさせます。

こんなナンセンスに応じるためには以下の質問をすることです。「これが真実であればどのようにしてそうなるのですか?  だれがそう言っているのですか?  なぜ今までのやり方が同じ明瞭さでその事実をはっきりさせなかったのですか?  もし、同じ明瞭さでその事実をはっきりさせなかったのであれば、なぜ聖霊は舌で受ける聖体拝領に発展したまま千年もそれが続くことをお許しになったのですか?  なぜ、聖霊はこの真理が東方教会とカトリックの東方典礼では今日に至るまで暗闇にとどまることをお許しになるのですか?  なぜ、典礼運動を提唱していた偉大な神父様方が手で受ける聖体拝領の導入を提案なさらなかったのでしょうか?  なぜ第二バチカン公会議文書の中に手で受ける聖体拝領のことが一言も書かれていないのでしょうか?  なぜ、パウロ六世はこの真理を見えなくしてしまう習慣を『メモリアーレ・ドミニ』では支持なさったのですか?  なぜヨハネ・パウロ二世は手で受ける聖体拝領をローマでは禁止なさったのですか?  なぜ、一九七九年十月十九日のThe Pilotに書いてあるように、一九七九年アメリカ訪問中の教皇は何度も手で受ける聖体拝領を拒否なさったのですか?」。

しかし、これらの質問がなされることはめったにないでしょう。普通のカトリック信者は自分の司教の命令に対してあまり質問はしないものです。質問したくても、普通、司教が主張する根拠のない説に挑戦するに足る背景になる知識がないことが多いのです。質問をする者たちは反逆者であるとか離教者であるとか言われて無視されてしまうのです。なぜなら、手で受ける聖体拝領は今や成熟した、知的で、上品な、第二バチカン公会議の精神に沿った、旅する神の民的な、大人のやり方なのだから!  同意しない者は呪われよ?  すでに手で受ける聖体拝領が確立されてしまったので、その支持者はそれほど挑戦を受けることもないでしょう。この改革に賛成する者は、当初は少数派、否ごくごく少数でしたが、そんなことは進歩派の運動とは関係ありません。この乱用に反対していても、それに対して立ち上がるカトリック信徒は少数でしょう。いわゆる保守派とされるほとんどの人たちの傾向は、新しい乱用があるたびに互いに愚痴を言い合い、そのうち諦めてそれを受け入れることです。皮肉なことに、この分離の原因になる習慣を強制した人たちに分離をもたらす者というレッテルが貼られることはありません。カトリックの一致の源であり、象徴である御聖体は(まだ残されているところがあれば)聖体拝領台で不一致の源になっています。

ディートリッヒ・フォン・ヒルデブランドは手で受ける聖体拝領に勇敢に反対しました。この章はヒルデブランド教授の言葉で締めくくることにします。説明は不必要でしょう。

不幸なことに各地で手に御聖体が置かれるようになりました。これがどの程度の刷新と御聖体拝領の深まりになるのでしょうか?  この知り尽くすことが不可能なたまものをいただいていた際のあの恭しい畏敬の念は、私たちがそれを聖別された司祭の手からでなく、聖別されていない私たち自身の手に受けることで、以前よりも高まったのでしょうか?

聖別されたホスチアのくずが床に落ちる危険とか、恐ろしい冒涜の危険が比較にならないほど増したことを見るのは難しくありません。また、 手による接触がホスチアをもっと現実的にするという主張は間違いなくナンセンスに過ぎません。ここで大事なのはホスチアの現実性でなく、ホスチアが本当にキリストの体になっているという信仰によってのみ達することのできる意識です。司祭の聖別された手によって私たちの舌の上にキリストの体を受けることは、私たち自身の聖別されていない手に御聖体を受けるより、もっとこの意識を強めるのに役立ちます。聖トマスはその賛歌アドロ・テ・デヴォテの中でVisus, tactus, gustus in te fallitur, sed auditu solo tuto creditur(視覚、触覚、味覚では理解できませんが、耳で聞いたから安心して信じます)と歌い上げているではありませんか?  22

Index

Chapter XXII

1

On Communion in the Hand and Similar Frauds, available at $2 post included from The Remnant Press, 2539 Morrison Ave., St. Paul Minn. 55117, U.S.A.

2

St. Gregory, iii, 3. PL, LXXVII, col. 224

3

Some Authorities place the Synod of Rouen in the mid-ninth century. Others speak of two synods. It is the fact that Communion in the hand was condemned as a abuse which matters, not the exact date of the Synod.

4

PL, LXXVII, col. 994

5

The Mass of the Roman Rite (London, 1959), p. 510.

6

The Clergy Review, August 1972, p. 628.

7

On the question of the dubious authorship of this lecture see: J. Quasten, Patrology, vol. III (Utrecht, 1963), pp. 364-366.

8

St. Cyril, Catechesis mystagogica V, xxi-xxii, ed. Touté e-Marian, pp. 331-332. Reproduced in PG, XXXIII.

9

Theodoret of Cyrrhus in Canticum Canticorum, interpretation I, p.1.

10

De fide orthodoxa IV, 13. PG, col. 1149b.

11

ST, III, Q. 82, Art. 13.

12

CE, vol. IV, p. 649, col. 2.

13

The full text of Memoriale Domini is available in the booklet mentioned in Note 1.

14

E.C. Whitaker, Martin Bucer and the Book of Common Prayer (Essex, 1974), pp. 40-42. This book contains the complete text of the Censura in Latin and English.

15

See The Order of Melchisedech, Chapter II, for a detailed examination of the Protestant concept of the ministry.

16

This is an original translation. The relevant passage occurs in the Whitaker text (op. cit., note 14), pp. 34-36.

17

J.M. Champlin, Preaching and Teaching about ther Eucharist, (Indiana, 1977), p. 15.

18

Mediator Dei (CTS edition), paras. 66 and 68.

19

National Catholic Register, 12 June 1977.

20

The Tablet, 22 May 1976, p. 507.

22

The Great Terror (Pelican edition), p. 740.

23

DV, pp. 67-8.