「典礼革命——パウロ六世の新しいミサ」XIX章
マイケル・デイヴィース著
翻訳 『フマネ・ヴィテ』研究会 成相明人
「 祭壇の代わりにみすぼらしいテーブル
キリストの代わりにはただのパン」
一九七四年、ロンドン西南地区のある主任神父は小教区週報に、たまたまそこに働きにきていたあるプロテスタント石工から聞いた、憂うつな話を掲載しました。この石工はロンドン北部地区のある修道院でそれはそれは見事な石造りの祭壇を叩き壊して、その代わりに、彼に言わせると、二つの大きな石にしか過ぎないテーブルの設置を仰せつかったというのです。この仕事はプロの石工である彼にとっては我慢ならないものでした。特に、現在英国でこれほど芸術的な祭壇を作ることのできる石工はもはや存在しないので、彼は自分が取り返しの付かない間違いに加担したと感じていたのでした。その破壊行為が第二バチカン公会議の精神に基づく偉大な典礼刷新の一部であるなどと聞かされたら、このプロテスタントの石工は疑いなく困惑してしまったはずです。ロンドン・オラトリオ会の責任者ネイピアー神父はClergy Review一九七二年八月号に、このような破壊行為が対面ミサ実行のため英国各地のカトリック教会で行われた、と書いています。
いわゆる「第二バチカン公会議の決定」に祭壇と周辺の聖域を合致させるために、建築家が呼ばれなかったカトリック教会は国中に一つもなかったぐらいに、十年前には聞いたこともなかったような習慣が、今や完全に受け容れられるようになってしまいました。…改革された典礼を祝うためにこのような変更が絶対に必要であると、ほぼすべての聖職者が納得してしまったように見えます。
一九七八年の時点でこの傾向にまだ抵抗している教会がいくつかはありました。ネイピアー神父がいたロンドンオラトリオ会も例外的存在でした。
The Wanderer は一九七四年四月、インディアナ州アール・パーク洗者聖ヨハネ教会の主祭壇の祭壇撤去に反対するアラン・ファンク氏の以下の投書を掲載しました。
バジリカ風ロマネスク様式の聖ヨハネ教会は一九〇二年に建立されました。当時から今日に至るまでこの教会は平原の町アール・パークと五百人の住民にとっては目印であり、心のより所であり続けました。すばらしい主祭壇は、カトリックとプロテスタントの仲が決して良くなかった今世紀当初、教会完成を祝ってある裕福な篤志のプロテスタント女性が友情の印に寄贈してくれたものでした。この祭壇の撤去は町の人たちが大事に思っていた歴史的な記念が消え去るだけでなく、教会が機能主義一本槍を最優先にして大方の美と審美的価値を捨て去る最近の傾向を示しています。
The Wanderer同号には、九〇%の信徒が古い祭壇の保存に賛成していると主張するある小教区民の投書も掲載して、この論争を報告していました。しかし、主任司祭ドナルド・グロス神父は教会の規則で祭壇の撤去が決められていると主張しています。「教会には従わなければならない規則というものがあります。その規則に従えば、私たちはどうしてもこの祭壇を撤去しなければなりません」。
信者が元からの祭壇撤去に反対するときには、決まって教会の法律がそうなっているからという説明を受けます。
教会破壊者の熱意を非難する者たちには、普通、グロス神父が答えたような説明がなされます。それだけではありません。伝統を大事にして欲しいと主張しようとする人々は、しばしば伝統主義者であるどころか、教会がその英知を傾けて決定したことより自分たちの主観的判断を重んじるネオ・プロテスタントである、という非難を受けます。破壊主義者たちは臆面もなく反対者たちにその命令がどこから発されているか通告するのです。英国最大の読者数を誇るカトリック新聞The Universe編集長テレンス・ウィンヌ氏は公然と「第二バチカン公会議に集まった世界中の司教たちが、信徒がもっと積極的に奉献に参加するためにそれが必要な典礼変革であると決定したので、祭壇は信者に対面するべきである」と説明したものです。1
ウィンヌ氏は、対面ミサ支持者が切り札として使うようになった「ミサの間、司祭たちが代理を務めるキリストは、最後の晩さんで使徒たちに背中を向けて座らなかった」という論法を導入しました。
十六世紀プロテスタント革命と比較しようものなら、彼らは、いやそうではない、これは初代教会の習慣に立ち返ることだと主張します。クスベルト・スミス神父は対面ミサがローマの聖ペトロ大聖堂で昔から常に行われていたと説明して、伝統主義者たちを説得したものです。
いわゆる「大聖堂」方式の古い建造物はイタリア各地、そのほか古い都市に見られます。
これら全てのことからして、対面ミサは宗教改革と無関係であり、カトリック教会の昔からの習慣であることが明確になるであろうと信じます。2
しかし実際のところ、意図的に会衆に対面する儀式という概念はマルティン・ルーテルの発明であり、決してカトリック教会の昔の習慣などではありません。スミス神父が混乱してしまった「大聖堂」様式の建て方は、ほぼ普遍的な規則の中でも例外的存在でしかありません。
立派な祭壇を壊してみすぼらしいテーブルに置き換えた人たちは、刷新の利点について長々と説明します。その中でもよく言われるのは、祭壇上で行われることを会衆が以前よりよく見ることができるようになったという点です。イングランド、ウェールズ地方の全国典礼委員会は(聖リチャード・グウィンには一言の弁解もなく)以下の主張をするのです。
対面ミサのお陰で人々は聖なる行為を見ることができるようになりました。司式者との対話も改善され、一つの共通した儀式にあずかる司祭と人々との一致を明らかに示しています。
対面ミサの利点を以下にまとめると、
1 それは最後の晩さんと合致している。
2 それはカトリック教会の古来の習慣である。
3 それは教会の規則である。
4 この規則は第二バチカン公会議に基づく。
5 司牧的見地からも、この方式は視聴覚的に有利である。
以下に各点を詳細に検証しますが、これらの主張が全く事実に基づかない自分勝手な主張でしかないことが明白になるでしょう。この点はその他の典礼改革を支持する宣伝と何ら変わりません。
1 対面ミサは最後の晩さんと合致
ラテン語でなくそれぞれの国語でのミサについてしばしば主張されるのは、最後の晩さんもそうであったということです。実を言うと、過ぎ越しの儀式のほとんどの部分ではヘブライ語が使用されていました。ヘブライ語は当時日常的に使用されていたアラマイ語とは、現代フランス語がラテン語と異なっている以上に異なっていました。世界に散らばるユダヤ人たちは今でも礼拝用語としてヘブライ語を使用します。テレンス・ウィンヌ氏はほかの典礼革命支持者たちと同様、最後の晩さんの席でキリストが使徒たちに背中を向けて座らなかったと主張したとき、自分が間違っていないとおそらく確信していたはずです。厳密な意味で言えば、彼の言うとおりです。しかし、最後の晩餐で対面ミサは正当化できません。その反対です。最後の晩さんで主はテーブルを隔てて使徒たちと向かい合われなかったでしょう。The Clergy Review でネイピアー神父はその点を説明しています。
最期の晩さんを含めて、どのような晩さんでも客は全員、少しく内側に曲がったテーブルの同じ側に座り、反対側は給仕が自由に近付けるように空けてありました。古代教会で主人と客がテーブルを挟んで座るという概念はあり得ませんでした。食事を分かち合うという共同体的特徴はむしろその反対の座席配置、つまり参加者が全員テーブルの一つの側に座るという配置によって強調されました。3
最期の晩さん、その限りではその他の荘厳なユダヤ教儀式の参加者は、だれがだれの前に座るかでなく、皆がエルザレムの神殿の方角に向かって座ることを気にしていました。これが方角に関する習慣、普遍的宗教現象でした。キリル・フォーゲル教授は以下を主張します。
方角は常に普遍的宗教現象です。どの方角を大事にするかによって宗教は二つのグループに分類できます。
a 第一グループは地理的もしくは地方的方角を採用する宗派を含みます。従ってその信者が住む地域によって方角は変わります。例えば回教は信徒がメッカのカアバに向かって礼拝することを求めます。ユダヤ教ではもし信者が神殿の近くに住むのでなければ、エルサレムに向いて礼拝することが求められます。
b 第二グループは天文学的もしくは宇宙的方角を使用します。これはほとんどの古い宗教とキリスト教を含みます。4
このように、キリストとその弟子たちは皆特別に聖なる意義がある同じ方向を向いて座っていました。そしてこれが公会議前のミサが採用していた方角だったのです(この方角は今でも東方教会つまり正教会と東方帰一教会が採用しています)。ですから、対面ミサは最期の晩さんで採用された習慣を捨て去ることになります。
2 それはカトリック教会の古来の習慣
レーゲンスブルグ典礼研究所所長クラウス・ガンバー師は、この主張に以下のように答えます。「東方教会でも西方教会でも対面ミサは存在しませんでした。実際にあったのは東を向くという習慣でした」。5
これは歴史的事実であり、まともな学者の間では意見の一致があります。ルイ・ブイエ神父は著書 Architecture et Liturgie(パリ、一九六七年)で、古来から聖体祭儀が対面方式で祝われた証拠が存在しないことを決定的に証明しています。そのほかにもこの件に関する重要な研究には、キリル・フォーゲル教授が一九六四年に L'Orient Syrien で発表した記事とか、J ・ブラウンの Christliche Altar(ミュンヘン、一九三二年)も含まれます。四世紀後半に書かれたと言われる教会法令集ディダケは、教会が「頭」を東に向けて建築するように定めてあります。フォーゲル教授によると、「二百年頃から、もしかすると二世紀の初めから、東西両教会でキリスト信者は太陽が昇る方角である東に向かって礼拝しました」。7 彼は司祭が背中を会衆に向けたというのは正しくなく、むしろ「人々と共に東の方に向かって礼拝していました」と主張します。8 フォーゲル教授はこの習慣が十二月二十五日頃ある冬至が示す不敗の太陽または不敗の太陽誕生の礼拝に関係する、異教の礼拝から直接「借用した」ものなどではないと断言します。東方に向かって礼拝する習慣の採用は、初代教会を取り囲んでいた当時の文化の影響です。ユダヤ人が大事にした地上のエルサレムに対抗して、東方は天にあるエルサレムの方向を象徴していました。一度東の方向が採用されると、この習慣には霊感溢れるキリスト教的シンボリズムが豊かに付与されることになりました。それでも初めの数世紀の中はキリスト教の礼拝と異教の礼拝における方角について混乱が起きないよう、しばしば警告がなされたものです。大聖レオ教皇は両者の間にある相似の見かけにさえも注意するよう警告しています。キリスト信者は王である太陽でなく、太陽自身の王を拝んだのです。なぜなら、太陽はキリストによって創造されたからです(Non est Dominus Sol factus, sed per quem Sol factus est)。
初代教会のキリスト信者は、東を向くことの中に豊かであたかも限りないシンボリズムを見いだしました。主は十字架上で人類を救われたとき西に面しておられました。十字架上のいけにえがミサ中に再現されるのですから、会衆が東の方角を向くときには主と対面することになります。異教徒が信じていた不敗の太陽は死とこの世の王である悪魔の征服者である不敗のキリストの象徴になっていました。救いの太陽であるキリストはマラキア四・二にある正義の太陽でもありました。聖トマス・アクイナスは東の方向が失われた楽園と同時に再び獲得された楽園の象徴であると教えました。「楽園は七十人訳の創世記二章によると東方にあったので、それは楽園に復帰する希望を意味しました」。10
ミサの間神と人の間にあって取り次ぐ司祭は人々と祭壇の前に立ちます。御子を祭壇に迎えていけにえが捧げられ、天と地が最接近するそのとき、司祭は人類の中で最も天に近い取り次ぎ者なのです。司祭は後ろから追い立てるのでなく、前に立って羊を導く東方の羊飼いのようでもあります。羊たちは羊飼いを知り、彼も羊をよく知っています。会衆はこの世の砂漠を通って、正義の太陽であるキリストによって勝ち取られた、東という特定の方角に象徴される約束の地に向かって進む神の民なのです。正義の太陽が東から西に向かって走る稲妻のように再臨なさるのは、ミサ聖祭が祝われている最中であろう、という言い伝えもあります。東の方向にひとみを凝らす司祭も会衆も共にキリストをお迎えする準備が整っているのです。キリストの再臨を初代教会の信徒たちは熱心に待ち望んでいたものです。彼等はイザヤの預言を知っていました。
だれが東から人を起したか。彼はその行く所で勝利をもって迎えられ、もろもろの国を征服し、もろもろの王を足の下に踏みつけ、そのつるぎをもって彼らをちりのようにし、その弓をもって吹き去られる、わらのようにする(イザヤ四十一・二)。
エゼキエルの預言もあります。
その時、見よ、イスラエルの神の栄光が、東の方から来たが、その来る響きは、大水の響きのようで、地はその栄光で輝いた(四十三・二)。
新約でこれらの預言が成就しているのが分かります。「これは私たちの神のあわれみ深いみこころによる。また、そのあわれみによって、日の光が上から私たちに臨み」(ルカ一・七十八)。メシアの誕生は東方の星によって告知されました。「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。私たちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」(マタイ二・二)。聖トマス・アクイナスはキリストの再臨が東方からであることに関連するとして「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう」(マタイ二十四・二十七)を引用します。
考古学の証言
フォーゲル教授は、キリスト信徒が初めて教会建築を許されて以来、彼等が東西の軸に沿って教会を建ててきたことを一点の疑いもなく証明します。彼はこれらの教会を二つのタイプに分類します。第一のタイプは東に入り口があり、西に後陣があるものです。第二のタイプは西に入り口があり、東に後陣があるものです。12 彼によると、四世紀初頭の時点で西方にある大方の聖なる建造物において後陣は東にあり、東方ではその逆でした。13 四世紀の終わり頃までに東方の全ての教会でも後陣が東に位置するようになり、五世紀初頭以降これがルールになりました。14 少し速度が遅かったものの、西方の教会にも同じような傾向がありました。五世紀半ばまでに西方のほとんどの教会で、後陣は東に位置するようになりました。15 ローマにある聖ペトロ大聖堂のような大聖堂では、後陣が西にありますが、これなどはそれが普通のやり方であった極初期教会建築を思い起こさせるものです。
学に乏しい対面ミサ提唱者が犯した過ちは、聖ペトロ大聖堂のような大聖堂にある祭壇の方向は古代教会で対面ミサが実行されていたことを証明すると結論したことでした。対面ミサは初代教会では考えつきもしなかった概念でしょう。会衆と対面する儀式を最初に行ったと記録されるのはマルティン・ルーテルその人です。フォーゲル教授は以下を書いています。
儀式にあずかる信徒がさらに深く参与する目的で、司式者が会衆に対面することは念頭にありませんでした。会衆が儀式の動作を見なければもっと深く式に参加できないというのは最近の考えでしかありません(中世期に始まるホスチアを見たいという望みは全く別の原因に発しています)。(現代東方教会でもそうですが)初代教会で儀式に参加することは参加している人々のグループがそれぞれの身分(祭司、聖歌隊、会衆)に応じる言葉を唱え、それに伴う行為を果たすことを意味し、決して儀式の全ての行為を視覚的に見るということではありません。司式者は人々に対面しなかったのでも、彼等に背中を向けたのでもなく、単に東の方を向いていたのです。17
後陣が教会の西側にあった場合、会衆は祭壇の前でなく、男女が別れて両脇に立っていました。祭壇は必ずしも後陣にあるわけでなく、後陣と身廊(ネーヴ)の間にあることもありました。祭壇が半円の中心点であり、聖体祭儀の間、司式者と会衆は東つまり開けたままの入り口の方向を向いていました。しかし、例えば司式者が説教をするとき、会衆は司祭の法に向き直るのでした。いくつか昔の儀式書が残っていますが、普通、助祭によって、ここで会衆が東の方向、またはしばしば神の方向に向き直るようにといった指示が書かれてあります。フォーゲル教授によると、
Conversi ad Dominum oremus つまり神の方向に向き直って祈りましょう、という表現は、ヒッポの司教聖アウグスティヌスの真正説教四十七の結論の部分に見られます。アウグスティヌスが conversi という過去分詞を使用するときは「東の方に向き直りなさい」という意味です。18
後陣が教会の東側にある場合、儀式全体は東の方角に向かって執り行われました。司式者は会衆に直接語りかけるとき、例えば説教とか Dominus vobiscum のような挨拶のときには会衆の方向に向き直るのでした。ドイツの考古学者J・ブラウンはその著書 Der Christliche Altar(ミュンヘン、一九三二年)で、対面ミサが少なくとも中世期の頃まで行われていたという説が想像の産物にしか過ぎないことを証明しました。アルプスの北には紀元千年頃からの祭壇が元のままの位置に百五十ほど残っています。そのうち対面ミサに使用された可能性があるものは二つ以下です。更に、東方教会で祭壇を聖画壁で隠す習慣が発達したこと、更にこれらの教会が常に伝統に忠実であり続けたことには、深い意義があります。ヨセフ・ユングマン神父は以下のように書いています。
種々の東方典礼は、このような向き(対面)での儀式挙行に好意を示したことはありません。これらの典礼は教会に伝わる原初の伝統的習慣を忠実に保存しており、また彼らは今日に至るまで活発かつ緊密な会衆の参加を保持していることからも、留意するに値します。19
聖画壁の存在は会衆が典礼行為を全て見ることが必要でないどころか、彼らの目に触れてはならない部分もあるという信念を示します。現代、ローマ教会の典礼専門家が主張するほとんどの原則は、東方教会の習慣を遠慮会釈もなく断罪しているのですが、その事実をだれも指摘しようとしません。東方教会では聖体祭儀が礼拝行為であるという古代教会の考え方が今も保持されています。聖アウグスティヌスの Conversi ad Dominum の精神は今も生きています。司祭と会衆は主の方角に向かい、主に荘厳ないけにえを捧げ、この世のことをしばし忘れ、天のエルサレムに目を向けるために集います。現代西方教会はミサを毎日の生活に関連づけることを要求します。しかしミサは毎日の生活にでなく、永遠の生命に関連づけられます。この点を東に向く伝統は実にはっきりさせてくれます。ユングマン神父によれば、これこそが初代教会の習慣でした。
さて、司祭は会衆の指導者として一般的に石造りの祭壇の前に立ちます。会衆は司祭と祭壇を見上げ、司祭と共に東の方角に向きます。全会衆は司祭に先導されて東の太陽の方角、主キリストに向かって進む巨大な行列のようになります。20
3 対面ミサは教会の規則
ローマ典礼に対面ミサを規定する規定、典例法規、規則、法律は存在しません。実にミサの総則百七、百十五、百十六、百二十二、百九十八、百九十九項を見ると、そこで前提とされているのは伝統的習慣であり、司祭には定められた箇所で会衆の方を向いた後で祭壇の方向に向き直るよう指示しています。
しかし、対面ミサを命じる規定は見当たらないものの、二百六十二項を読むと、それは従来の祭壇を破壊するように命令しているようにも解釈され得ます。公会議前の教会が「法律一点張り」であったという批判をよく耳にします。公会議前の教会には確かに規則とか法律があり、それを普遍的に、かつ公平に守らせました。公会議後には別種の法律主義がまかり通っています。しばしば伝統的信仰を揺るがしたいときに規則とか法律が持ち出されます。進歩主義者がそれらを無視しても罰されることはほとんどありません。ですから、トレント公会議のミサを捧げる司祭が罰されても、バチカンから許可がでる以前から御聖体を手で受けさせていた司祭が罰された話など聞いたこともありません。祭壇の破壊に関して言えば、公会議後の教会の法律主義は次のようなものです。そのスポークスマンが対面ミサを命ずる法律が存在しないことは認めても、ミサ総則の二百六十二項に、対面ミサをしないとしても、そのようなミサが可能になるように主祭壇が作られるように書いてあると主張するのです。二百六十二項の背景は次に説明します。
4 第二バチカン公会議に基づく規則
対面ミサと第二バチカン公会議の関係を考察するときには以下の文書を念頭に置かねばなりません。
a 一九六三年十二月四日の典礼に関する公会議文書(Sacrosantum Concilium)典礼憲章。
b 一九六四年九月二十六日、典礼聖省発行の典礼憲章の適切な実施に関する教書「インテル・エクメニチ」(Inter Oecumenici)。
c 一九六九年四月六日、ローマ教会ミサ典書の総則(Instructio Generalis)初版。これは一九七〇年三月二十六日の再版で訂正され手います(四版は一九七五年に発行)。
実は、第二バチカン公会議の文書のどこを読んでも対面ミサへの言及は皆無です。対面ミサが最初に登場するのは教書「インテル・エクメニチ」においてです。「司式者が困難を感じることなくその後ろを通ることができるように、また対面ミサにも使うことができるように(peragi possit)、主祭壇は壁から離れて作られることが望ましいのです(praestat ut)」(九十一)。
祭壇建築への言及は、この条項が新しく建築される教会にのみ適用されることがはっきりしているように見えます。しかし、この前にある九十項は「新しい教会の建築と古い教会の修理と改築」にも言及しています。この項は第二バチカン公会議の典礼憲章の百二十四項に基づきます。しかし、よく見るとそこでは古い教会の「修理と改築」については全く触れていないことに気付くはずです。典礼憲章の実施に関する諸文書を読むときには、憲章自体を調べると、憲章にもそれらの文書が主張することが本当に書いてあるかどうかを知ることができます。
ミサ典書の総則が一九六九年四月に発行されたとき、この操作はもう一歩進んだものです。その二百六十二項は教書「インテル・エクメニチ」の九十一項と全く同じですが、一つだけ決定的例外があります。それは「望ましい」(praestat ut)が、「司式者が困難を感じることなくその後ろを通ることができるように、また対面ミサにも使うことができるように主祭壇は壁から離れて作られるべきである」に置き換えられています。そして参照箇所として挙げてあるのは、教書「インテル・エクメニチ」の九十一項なのですが、上記の通り、そこには対面ミサにも使うことができるように(peragi possit)、主祭壇は壁から離れて作られることが望ましいとは書いてありますが、主祭壇は壁から離れて作られるべきであるとは書いてありません。
もう一つ興味深い点は「インテル・エクメニチ」にしてもミサ総則にしても、教皇の署名があり、典礼聖省発行になってはいても、執筆責任者はブニーニ大司教(当時神父)のコンシリウムであるということです。壁から離れた祭壇と対面ミサに関する公会議の方針をコンシリウムがどのように「発展させた」かを知ると、彼らのやり方がよく見えてきます。以下にそれをまとめてみます。
i 第二バチカン公会議は壁から離れた祭壇とか対面ミサについては何も言っていません。
ii 典礼憲章百二十四項には「また、聖なる建物の建設にあたっては、それが典礼行為を行ない、信者の行動的参加を容易にするために適したものであるように細心の注意が払われなければならない」という勧告がありますが、祭壇については触れていません。
iii 一九六四年、コンシリウムは上の文章を拡大解釈して、古い教会の改造に言及し、祭壇の問題を持ち出し、それが壁から離れている方が「もっと望ましい」と発言します。
iv 一九六九年、コンシリウムはミサ総則中に主祭壇は壁から離れているべきであると書き、権威付けのためにその典拠として自分たちが出したインテル・エクメニチを挙げますが、実はそこには何もそのようなことは書かれていません。
5 司牧的見地から見た視聴覚的利点
a 視覚的に
フォーゲル教授が指摘しているように、会衆が典礼行為の全てを見る必要があるというのは現代的な考え方であるに過ぎません。そのようなことは東西両教会にある典礼の慣習になじまないし、たとえそれが子供たちのためであっても、何ら司牧的利点があるわけでもありません。その反対に、会衆の集中度を深めるどころか、会衆の注意は散漫にさえなりかねません。司祭が祭壇を隔てて会衆の方を向くとき、興味を呼び起こすような変化は乏しくなります。司祭はそこに立って会衆に話しかけるだけです。そして新しいミサではひざまずいたり十字架を切ったりする所作が劇的に少なくなっています。ノックス師が指摘したように、伝統的ミサは変化に富む一種の聖なる舞踏でした。21 司祭はしばしば会衆に挨拶するために向きを変えます。Ecce Agnus Dei(身よ、神の子羊を)では会衆の方に向き直ってホスチアを見せます。ホスチアとカリスを奉挙して二度もひざまずきます。これら全てに奉献の間保たれる沈黙と鈴の音というコントラストが加わります。東方教会は聖画壁の後ろで典礼の最も聖なる行為を行う感嘆に値する司牧的洞察を保っています。司祭が神である御子を伴って聖画壁の後ろから出てくれば、劇的インパクトは高まるのみです。もちろんそれだけでなく、司祭と会衆が荘厳ないけにえを捧げるために共に天のエルサレムの方向である東に向く行為が付け加えられます。
多くの聖職者、特に若い司祭たちは会衆の顔に明らかな退屈と無関心を見て、何か劇的パフォーマンスで彼らの関心を呼び起こそうと誘惑されるのは明らかです。もし彼らが成功すれば、それは典礼行為でなく、しばしば全く芳しくない司祭の演技のせいです。八章が演技者としての司祭なので、ここでこれ以上立ち入ることはしますまい。
b 聴覚的に
マイク、スピーカー、アンプの問題は別として、司祭が会衆の方を向いていれば聴覚的に有利であることに間違いありません。そうするとミサの全文が聞こえる必要があるのであろうかという問題になります。ここで、神に向かって話す部分と人々に向かって話す部分を区別することが重要になってきます。改革の必要があったのはこの後の側面です。ミサのある部分の目的は会衆の教育です。書簡と福音の朗読などはそのいい例でしょう。公会議以前、これらはまず司祭が祭壇でラテン語のテキストを読み、後で人々に対面してその土地の言葉で読まれたものです。もしルブリカが書き改められて信徒を教育するための部分が直接土地の言葉で読まれるようになったのであれば、それは教皇ピオ十二世が始めた典礼改革の納得いく延長だったでしょう。このような発展に反対する人たちがいたとすれば、彼らは伝統主義者でなく、むしろ極端な保守主義者であったと言う方がいいでしょう。こういう人たちはどのような変化にもそれが変化であるという理由で反対します。多くの伝統主義者たちがローマ典礼の破壊を見て当然悲しみ、極端に保守主義的態度をとり、いかなる変化にも反対するのは分からないではありません。ですから、そのような態度をとるとき、彼らは奉献祈願文の廃止のように重大な教義的意味合いのある部分の変化と、会衆が歌ミサでパーテル・ノステルを歌うことのように、それほど教義的意味合いのない変化の違いに気付こうとしません。対話ミサはフランスの伝統主義者にとっては当然な慣習です。ところが一部の英国伝統主義者にとってそれは近代主義に相当します。近代主義者たちはこのような彼らの態度を最大に利用して、本物の伝統主義をやゆすることになります。
聴覚の問題に関して取るべき最も理にかなった立場は、十七章に書いたように、人々の教育を目的とする箇所は彼らに向かって直接その土地の言葉で読まれるべきです。神に向かって語りかける部分は祭壇の方に向かって言われ、必ずしも会衆に聞こえたり、その土地の言葉で唱えたりする必要はありません。そのような場合、会衆も参加できる栄光唱のような祈りと、キリストに代わって司祭だけが唱え、会衆に必ずしも聞こえる必要のない奉献文との区別が必要です。もしこの原則が受け容れられると、聴覚的に有利な対面ミサの価値はそれほど大したことではありません。
典礼運動の先駆者ドム・ランベルト・ボードウィンが主張した対面ミサは、正に聖書朗読が会衆に向かってなされるためであったことをネイピア神父は指摘しています。22 対面ミサの挙行は、聖ペトロ大聖堂のような祭壇の存在を意識した、ピオ五世のミサ典書にあるルブリカと完全に両立し得ます。これらの朗読が会衆の方に直接向かってなされ得ることになれば、対面ミサを挙行するという愚かしくも非カトリック的な慣習は正当化できなくなります。
みすぼらしいテーブル
「ですから、ミサ、司祭、祭壇は、主の晩さん、奉仕者、聖なるテーブルに置き換えられ、東を向いていた司式者は西を向くようになりました」。
英国教会地方執事 ダグラス・ハリソン
テーブルのような祭壇を導入する問題は、祭壇の方向とは一応分けて考えることにしましょう。理論的に言えば、司祭と会衆共々東の方に向くミサのためにテーブルを使用することは可能です。しかし、対面ミサとみすぼらしいテーブルはカトリックの典礼をプロテスタント化する同じ現象の一部です。それは宗教改革で起こったことの繰り返しです。読者はCranmer's Godly Order(クランマーの神的秩序)九十五〜九十八ページを読んで下さい。そこには祭壇からテーブルへの移行が改革者自身がこの移行に付与した意義と共にくわしく書いてあります。これはリドリーの説明によくまとめられています。
まず、テーブルの形が教皇派のミサの迷信臭い考え方から抜け出して、主の晩さんの正しいあり方に気付かせるでしょう。祭壇の使用はその上でいけにえを捧げることであるのに対して、テーブルの使用は人間がその上で食事をすることにほかなりません。24
このように説明するリドリーは、全ての改革者に共通する意見を述べているに過ぎません。このように、東の方を向く習慣の廃止と祭壇代わりのテーブル導入はいけにえの拒否を意味しました。つまり、反カトリックの意味が込められていたのです。ここから、テーブルの使用がカトリックの礼拝には決してふさわしいものでないことが分かります。ヨーロッパでは対面ミサの習慣が第二バチカン公会議以前にも増えてきていましたが、前述のとおり、これは必ずしもプロテスタントへの迎合ではなく、単に信者が朗読をもっとよく聞こえるようにという希望から受け容れられていたものです。しかし、高教会派の聖職者がこの習慣をまねし始めたとき、カトリックに近い考え方をする英国国教徒はまゆをひそめたものです。非国教徒から国教徒に改宗したヒュー・ロス・ウィリアムソンが、まだ英国国教徒であった時代に、そのような習慣がカトリックの信仰に反するとしてこれを拒否したものです。
子供時代から、わたしは非国教派の聖餐式に慣れ親しみ、会衆に向かい、助祭を左右に従えて神父が聖なるテーブルの後ろに座り、記念のパンとぶどう酒が会衆に配られる前に最後の晩さんの箇所を読むのを見てきました。わたしが真剣に考え始めるころに始まって、ロムジー、トローブリッジ、ホーヴではこれが毎月繰り返される儀式でしたが、わたしには何かおかしいと思えたものです。彼らが舞台の上でわたしたちのために晩さんの演技をしているように見えたからです。ミサにあずかるようになって安心したことの中の一つは司祭が会衆と共に祭壇のこちら側にいて、神がわたしたちにとって共通する主人役を果たしているということでした。それだけでなく、実際的な面では、助祭たちの顔を見て気が散ったり、彼らがどれほど使徒たちと似ていないか、という邪念を心から追い払う必要がなかったことです。
本物のプロテスタントである非国教徒には、そのほかにも教義的違いがありました。それは、聖餐は礼拝者たちに「永遠の生命の糧」を配る前に、司祭が実体変化の奇跡によって会衆を代表して神にキリストの真の体と血を捧げる、神秘的いけにえではなく、家族がテーブルを囲んで食事をする以外の何ものでもありませんでした。
ラウド大司教と清教徒が互いに戦った十七世紀の激しい闘争がここでは中心でした。ラウド大司教が教会儀式に「尊厳と品位」を復活させようとした試みとしてしばしば提示されることは、「聖なるテーブル」を「祭壇」にしようとする彼の決意に過ぎませんでした。25
ヒュー・ロス・ウィリアムソンは、会衆との対面を正当化しようとする高教会派の司祭たちが「ヨーロッパのカトリシズムに後れを取らないようにしており、英国のカトリック教会もそのうちにおそらくわたしたちのまねを始めるであろう」と主張していたことを知っていました。26 不幸にして、この予言は的中してしまいました。
さてここで、わたしたちの典礼をプロテスタント化しようとしている人たちが問題にする点をいくつか挙げておきましょう。彼らは初代キリスト教会では信徒が「主のテーブル」という言い方をすると主張しますが、それは正にそのとおりではあります。「祭壇」という言葉を彼らが避けた理由は、それに異教的ニュアンスが付きまとっていたからです。しかし五世紀になると祭壇(altare)もテーブル(mensa)も使用されるようになります。その後、信徒が聖なる晩さんのために近付くテーブルとして使用されるときは「祭壇」という単語だけが使用されるようになります。キリスト信者の祭壇は祭壇のテーブルであると言えばもっとも的確に実態を指すのかもしれません。ユダヤ教徒の過ぎ越の祭りでは羊が神殿の祭壇でほふられた後、各礼拝者の家庭に持ち帰られ、過ぎ越の食事が祝われました。祭壇とテーブルは別でした。キリスト信者の過ぎ越で、キリストのいけにえは祭壇の上に存在するようになり、その後、その祭壇は信者が恐れおののきながら近付き、キリストの御体を受けるテーブルになります。ですから、初期キリスト信者が使用する「テーブル」という言葉と、リドリーがそこでいけにえが捧げられるのではないことを明示する意味で使用する「テーブル」とは比較できません。ヒュー・ロス・ウィリアムソンが主張するように、聖なるミサのいけにえでなく、プロテスタントの主の晩さんであることを否定しようもなく、公に示す象徴であるテーブルの使用は、宗教改革前であれば使用可能であった言い方ですが、革命後は使用不可能になりました。教皇ピオ十二世は「祭壇を初期のテーブルの形に戻そうとすることは間違いである」と明確に教えておられます。27
進歩主義者たちのもう一つの主張は、初期キリスト信者が聖体祭儀のために木のテーブルを使用したというものです。これには反対のしようがありません。しかし、四世紀になって教会を建築できるようになるまで、初代キリスト信者は家庭か、まれにはカタコンブで礼拝していたのです。自由な時代に迫害が普通であったころしていたとおりにすることは非現実的でしかありません。教義と同様典礼も静的ではありません。何世紀か経過してからやっと三位一体の玄義が更に明確に理解、定義されたように、典礼に関しても段階的に、もっとはっきり外的しるしによって、それが荘厳ないけにえであることを示すようになったのです。キリスト信者に教会建築が初めて許されたころ、彼らは祭壇を殉教者の墓の真上に作ったものです。この習慣は、カタコンブにある殉教者の墓を覆っていた大理石の板の上でミサを捧げていた習慣に直接由来することに間違いはないでしょう。それはまた、教会が成長するにつれて祭壇石の中に二人の殉教者の遺物を納めるようになったことの説明にもなります。ラテン教会では八世紀まで木の祭壇も部分的には使用されていましたが、大理石板は五世紀には祭壇に使用されるようになりました。九世紀以降、ラテン教会では石の祭壇が一般的になりました。正教会では祭壇の材料として木、石、金属を許可しています。
一部では木のテーブルの使用も見られますが、ほとんどではなくとも、多くのカトリック教会で現在永久的な石のテーブルが使用されています。しかし、だからと言って改革がより受け容れやすくなるわけではありません。リドリーによれば、テーブルの使用は人間がそれを使用して食事をするためです。彼はそれが木のテーブルでなければならないとは言っていません。教皇ピオ十二世も木のテーブルだけを断罪したわけではありません。教皇が言われたのは、「祭壇をその古代の形であったテーブル」に戻そうと望むのは間違いであるということです。現在多くのカトリック教会を見苦しくしている永久的テーブルでも、教皇ピオ十二世はこれを断罪なさるはずです。
もちろん、祭壇をテーブルに換えてしまった司祭が全てリドリーの聖餐神学を採用しているわけではありません。ほとんどの司祭たちは、おそらく同僚の司祭たちが皆やっているから、またはそうすることが第二バチカン公会議の精神だからという理由でそうしたのでしょう。また、司教から命じられてそうした司祭たちもいることでしょう。確かに、皆がすれば自分もそうした方が安全だという感じはするものです。時としては貧しい信徒たちから個人的に寄付を受けて作った、美しい祭壇を破壊することを拒んで、「進歩」に反対する変人扱いを受けているのも彼ら司祭たちであるかもしれません。祭壇をテーブルに換えてしまった司祭たちの信念とか動機がどのようなものであろうと、彼らが典礼のプロテスタント化にまた一歩譲歩して、プロテスタントがそれを歓迎していることは事実です。
NOTES
1 The Universe, 5 March 1971.
2 The Universe, 26 February 1971.
3 The Clergy Review, August 1972, p.627.
4 OS, pp. 4-5.
5 Theology Digest, vol. 22, no.2, Summer 1974,p.154.
6 CE, vol.XI, p.305,col.2.
7 OS, p.3.
8 OS. p.8.
9 OS, pp.6-7.
10 ST, II,II,Q.LXXXIV, ad.3.
11 Ibid.
12 OS, pp. 15-16.
13 OS, p.16.
14 OS, p.23.
15 OS, p.22.
16 Op.cit., Note 5,p.154.
17 OS, pp. 13-14.
18 OS, pp.11-12..
19 J.A.Jungmann, The Early Liturgy (London,1966),p.138.
20 Ibid.
21 Ronald Knox, The Mass in Slow Motion (London, 1961),p.3.
22 Op.Cit., Note 3, p.625.
23 D.Harrison, The First and Second Prayer Books of King Edward VI (London, 1968),p.vi.
24 See CGO, p.97, for a longer extract.
25 H.R. Williamson, The Walled Garden (London, 1956), pp.164-165.
26 Ibid., p.165.
27 Mediator Dei (CTS edition), para.66.