2901〜2980:シラブス(近代主義者の謬説表:ピウス9世の数多くの演説,回勅,書簡による大勅書)(1864年12月8日発表)

ピウス9世は,当時の誤謬を攻撃した回勅「クワンタ・クーラ」の公布と同じ日,すなわち,1864年12月8日に,次の表に述べる種々の文書によって排斥された80の命題を追加した。それぞれの命題の価値は,それの源泉である文書(回勅,教書,演説)の価値から判断すべきであり,その正確な意味を知るためには,それらの文書の文脈をも調べなければならない。法的情勢および教会と国家の関係についての命題の一部分が当時の状況から理解されなければならない。次の「謬説表」は枢機卿団によって作成されたものである。起草の任にあたった枢機卿たちは,主としてペルピニャンのジェルベが自分の管区内の聖職者にあてた『司牧指針』(1860年)を使った。その『司牧指針』には85の命題が謬説として指摘されていたが,それが61命題に縮少されて『謬説表』に掲載された。ピウス9世は,ヨアキノ・ペッチ枢機卿(後のレオ13世)およびウィーンの教皇大使に勧められて,聖母マリアの無原罪の受胎の教義決定と同時に,謬説表を公布することを考えていた。しかし,そうすることができなかった。ASS3(1867/68)168ss;ASy11 pg.Ⅰ Ⅹ ss;PiiⅠ Ⅹ Acta1/Ⅲ ,701ss;Katholik45/Ⅰ (1865)13ss参照。

謬説表の基礎となったピウス9世の文書一覧表

1’1846年11月9日,回勅「クイ・プルリプス」(*2775〜2789)。命題4〜7,16,40,63。

2’1847年10月4日,演説「クイスクエ・ベストルム」。命題63。

3’1847年12月17日,演説「ウビ・プリムム」。命題16。

4’1849年4月20日,演説「クイブス・クワンティスクェ」。命題40,64,76。

5’1849年12月8日,回勅「ノステイス・エト・ノビスクム」。命題18,63。

6’1850年5月20日,演説「シ・センペル・アンテア」。命題76。

7’1850年11月1日,演説「イン・コンシストリアーリ」。命題43〜45。

8’1851年6月10日,書簡「ムルティプリチェス・インテル」,Franc.G.Vigil,Defensa de laautoridad de los gobiernos y de los obispos contra las pretensiones de la curia Romana(Lima1848)を排斥した書簡。命題15,21,23,30,51,54,68。

9’1851年8月22日,書簡「アド・アポストリチェ・セディス」Iob.Nep.Nuytz,iuris ecclesiastici institutiones(Tn,1844)およびIn iuseccl.universum tractationes;Prolegomena; De rebus; De matrimonio; De personis(Tn.1846;1847;1848;1850)を排斥した書簡。命題24〜25,34〜36,38,41〜42,65〜67,69〜75。

10’1851年9月5日,演説「クイブス・ルクトゥオジッシミス」。命題45。

11’1852年9月9日,サルデニアの王にあてた書簡。命題73。

12’1852年9月27日,演説「アチェルビッシムム」。命題31,51,53,55,67,73〜74,78。

13’1854年12月9日,演説「シングラーリ・クワダム」。命題8,17,19。

14’1855年1月22日,演説「プロベ・メミネリティス」。命題53。

15’1855年7月26日,演説「クム・シェペ」。命題53。

16’1855年7月26日,演説「ネモ・ヴェストルム」。命題77。

17’1856年3月17日,回勅「シングラーリ・クイデム」。命題4,16。

18’1856年12月15日,演説「ヌンクワム・フォーレ」。命題26,28〜29,31,46,50,52,79。

19’1857年6月15日,ケルンの大司教にあてた書簡「エクジミアム・トゥアム」(*2828〜2831)。命題14注。

20’1860年3月26日,教皇書簡「クム・カトリカ・エクレジア」。命題63,76注。

21’1860年4月30日,ブラツラフの司教にあてた書簡「ドローレ・ハウド・メディオクリ」。命題14注。

22’1860年9月28日,演説「ノーボス・エト・アンテ」。命題19,62,76注。

23’1860年12月17日,演説「ムルティス・グラビヴスクエ」。命題37,43,73。

24’1861年3月18日,演説「ヤムドゥードゥム・チェルニムス」。命題37,61,76注,80。

25’1861年9月30日,演説「メミニット・ウヌスクイスクェ」。命題20。

26’1862年6月9日,演説「マックシマ・クイデム」。命題1〜7,15,19,27,39,44,49,56〜60,76注。

27’1862年12月11日,ミュンヘンの大司教にあてた書簡「グラビッシマス・インテル」(*2850〜2861)。命題9〜11。

28’1863年8月10日,回勅「クワント・コンフィチアームル」(*2865〜2867)。命題17,58。

29’1863年9月17日,回勅「インクレディビリ・アフリクタームル」命題26。

30’1863年12月21日,ミュンヘンの大司教にあてた書簡「トゥアス・リベンテル」(*2875−2880)。命題9〜10,12〜14,22,33。

31’1864年7月14日,フライブルグの大司教にあてた書簡「クム・ノン・シネ」。命題47〜48。

32’1864年9月29日,モンレアールの司教にあてた書簡「シングラーリス・ノビスクェ」。命題32。

謬説表の諸命題

(各命題のカッコの中の数字1’〜32’は,上に掲げた教皇文書一覧表の数字である。)

1 汎神論,自然主義,厳密な理性主義

2901(1701)1 宇宙と区別される最高者,全知,すべてを計画している神は存在しない。神は自然と同一である。したがって,変化するものである。事実,神は人間と世界の中に成立っている。すべてのものが神であって,神の本質を持っている。神と世界は同一のものである。したがって霊と肉,必要と自由,真と偽,善と悪,正義と不正義は同一のものである(26’)。

2902(1702)2 人間と世界における神のすべての働きを否定しなければならない(26’)。

2903(1703)3 人間の理性は,神とは無関係に,真理と虚偽,善と悪を判断することができる。人間の理性自体が法則であって,その自然な力だけによって,人間と国家の福祉をはかることができる(26’)。

2904(1704)4 宗教上の真理はすべて人間の理性に内在する力から生れる。したがって,人間は理性によってあらゆる真理を認識することができるし,また認識しなければならない(1’17’26’)。

2905(1705)5 神の啓示は不完全なものであって,人間の理性の進歩にともなって絶えず無限に進歩するものである(1’26’)。

2906(1706)6 キリストの信仰は人間の理性に反するものであり,神の啓示は無益なばかりでなく,人間の完成にとって有害である(1’26’)。

2907(1707)7 聖書に記録されている預言と奇跡は詩人の作り話である。キリスト教信仰の諸秘義は哲学的探究の結論である。旧新両約聖書の中には,神話の作り話が記録されており,イエズス・キリスト自身も架空の人物である(1’26’)。

2 半唯理主義

2908(1708)8 人間の理性は宗教と同格である。したがって,神学も哲学と同じように取扱われなければならない(13’)。

2909(1709)9 キリスト教の教義はすべて同じように自然科学または哲学の対象である。充分に発展した人間の理性は,その自然の力と諸原則によって,最も深遠な教義が理性の対象となる時には,このような教義さえも認識することができる(27’30’〔*2878をみよ〕)。

2910(1710)10 哲学者と哲学とは全然別のものであるから,哲学者は自分が正しいと判断した権威に従う権利と義務がある。しかし哲学は,どの権威にも従うことはできないし,また従ってはならない(27’30’〔*2856〜2857をみよ〕)。

2911(1711)11 教会は哲学を判断してはならないだけでなく,哲学の誤謬を黙認し,哲学自体でその誤謬を修正するようにしなければならない(27’〔*2860をみよ〕)。

2912(1712)12 使徒座と教皇庁の諸聖省の教令は,学問の自由な進歩を妨げるものである(30’〔*2875をみよ〕)。

2913(1713)13 昔のスコラ学派の学者たちが神学の研究に使った方法や原則は,現代の要求と科学の進歩に全く合わないものである(30’〔*2876をみよ〕)。

2914(1714)14 哲学の研究においては,超自然的啓示を無視しなければならない(30’)。

(注)19’と21’で排斥されたアントン・ギュンテルの誤謬の大部分は理性主義に関連がある。

3 宗教無差別主義と宗教寛容主義

2915(1715)15 自分が理性の光に基づいて真理であると認めた宗教を承認し,信仰することは,各人の自由である(8’26’)。

2916(1716)16 人間は,どの宗教を信奉しても永遠の救いの道を見出し,また永遠の救いを獲得することができる(1’3’17’)。

2917(1717)17 キリストの真の教会に属していないすべての人々が,永遠に救われることを少なくとも期待しなければならない(13’28’〔*2805〜2806,2865以下をみよ〕)。

2918(1718)18 プロテスタントは同一の真のキリスト教の異なった形であって,カトリック教会と同じように神の心にかなうものである(5’)。

4 社会主義,共産主義,秘密結社,聖書結社,自由聖職者結社

2918’(1718a)1’4’5’13’28’において排斥されている。

5 教会とその権利についての誤謬

2919(1719)19 教会は真の完全な社会でないし,完全に自由でもない。また教会は,神である創立者から与えられた独自の永久的権利を持っていない。国家権力が教会の権利の範囲を決め,その範囲内でだけ,教会はその権利を行使することができる(13’23’26’)。

2920(1720)20 国家権力の認可と同意がなければ,教会はその権力を行使することができない(25’)。

2921(1721)21 教会は,カトリック教会が唯一の真の宗教であるということを信仰箇条として定義する権威を持っていない(8’)。

2922(1722)22 カトリック教師と著者は,教会がその不可謬権によって,すべての人が信ずべきこととして定めた信仰箇条だけに従う義務がある(30’〔*2879をみよ〕)。

2923(1723)23 教皇と公会議はその権力を超えていることをした。諸侯の権利を侵害し,また信仰と道徳に関することの定義においてさえも誤っていた(8’)。

2924(1724)24 教会は武力を行使することはできないし,世俗のことについて直接または間接の権力を持っていない(9’)。

2925(1725)25 司教職に固有の権力の他に,他の世俗的な権力は,国家の権威者によって明白にまたは暗黙のうちに与えられたものであって,国家権力が望む時には何時でもそれを奪うことができる(9’)。

2926(1726)26 教会は財産を取得し所有する固有の正当な権利を持っていない(18’29’)。

2927(1727)27 教会の聖職者と教皇は,あらゆる世俗の財産の管理から完全に除外されなければならない(26’)。

2928(1728)28 政府の許可なしには,司教は教皇の書簡さえも公布することはできない(18’)。

2929(1729)29 教皇によって与えられた特別の恩典は,政府が申請したものでなければ無効である(18’)。

2930(1730)30 教会と聖職者の免税特権は,国法から生れたものである(8’)。

2931(1731)31 世俗のことについての聖職者の民事訴訟または刑事訴訟に関する教会の裁判権は,使徒座に相談することなく,または使徒座が反対しても絶対に廃止しなければならない(12’18’)。

2932(1732)32 聖職者が兵役に服する義務から免除されている個人的特権は,これを廃止しても基本的人権と正義に反することはない。社会の進歩が,特に自由主義政体の国家においては,この特権の廃止を要求している(32’)。

2933(1733)33 神学上の問題の教理を指導する権限は,教会だけに固有の自然的権利として属しているものではない(30’)。

2934(1734)34 世俗の君主と同じように,教皇が自由に全教会を支配できるという主張は中世紀の教えである(9’)。

2935(1735)35 公会議の教令または全人口の決議によって,教皇職をローマとその司教から他の都市と他の司教に移すことができる(9’)。

2936(1736)36 全国教会会議の決定について討議することは許されない。国家はこの決議を実行することを要求することができる(9’)。

2937(1737)37 教皇の権威から完全に独立,分離した国民教会を設立することができる(23’24’)。

2938(1738)38 東方教会と西方教会の分裂には,諸教皇の独断的な行動は大きな責任がある(9’)。

6 国家自体,国家と教会との関係についての誤謬

2939(1739)39 国家はすべての権利の起源であり源泉であるから,どのような制限も受けない権利を持っている(26’)。

2940(1740)40 カトリック教会の教理は人間社会の善と利益に反する(1’〔*2775をみよ〕4’)。

2941(1741)41 政府は,たとえその指導者が不信仰者であっても,宗教上の問題について間接に否定的な権力を行使することができる。したがって「認可状」と呼ばれる権利だけでなく,いわゆる「権利乱用の訴訟権」を持っている(9’)。

2942(1742)42 教会法と民法との間に紛争が起った場合には,民法が優先する(9’)。

2943(1743)43 俗権は,教皇(使徒座)と国王(政府)との間の政教条約の中で,教会の免除特権に関する条項を使徒座の同意なしに,または使徒座の反対があっても,これを破棄し,無効と宣言することができる(7’23’)。

2944(1744)44 国家権力は,宗教,道徳,霊的のことについても干渉することができる。したがって,教会の司牧者が,良心の指導のために公布する通達を批評することができる。国家はまた,諸秘跡の授与とそれを受ける準備についての法令を制定する権利を持っている(7’26’)。

2945(1745)45 一国内で,キリスト教信者の青少年を教育している公立学校の管理は,完全に国家の権限に属することができるし,属さなければならない。ただし司教設立の神学校はある程度免除される。この権利は絶対的なものであって,他のどのような権威も学枚の規律,教科課程について,資格免状授与について,教師の選択と認定について干渉することはできない(7’10’)。

2946(1746)46 聖職者養成のための神学校においても,教授方法は国家の方針に従わなければならない(18’)。

2947(1747)47 完全な国家であるためには,あらゆる階級の子供たちに開放されている国民学校,および文学または上級課目を教える青少年教育のための公共施設はすべて,教会の権限と管理と干渉から開放され,為政者の望みと時代の共通の要望に応じて,国家または公共団体に従わなければならない(31’)。

2948(1748)48 カトリック信者は,自然的な知識と地上の社会生活のためだけのもの,または少なくてもそれを主とする学問については,カトリック信仰と教会の権限から離れた教育制度を認めることができる(31’)。

2949(1749)49 国家の権力は,教会の高位聖職者や信者が教皇と自由にそして相互に交流することを妨害することができる(26’)。

2950(1750)50 俗権は司教を推薦する自然権を持っており,教会法の規定による使徒座からの任命と教書を受取る前に,司教区の統治を司教に要求することができる(18’)。

2951(1751)51 政府は司教を司牧任務から解任する権利さえも持っており,司教区の設立と司教の任命に関することがらについて教皇に従う義務はない(8’12’)。

2952(1752)52 政府は独自の権限によって,教会によって定められた男女の修道誓願の年齢を変えることができる。そして終生誓願を立てるためには政府の許可を求めることを,すべての修道会に要求することができる(18’)。

2953(1753)53 修道会規約およびその権利と義務を保護するための法律は廃止しなければならない。いやむしろ,政府は修道生活を放棄し,誓頸を破ろうとしているすべての者を援助してもよい。政府はまた,修道会を閉鎖し,共住聖職者団と定住義務のない聖職禄,聖職授与権を撤廃し,これらの財産と収入とを国家の管理に移管することができる(12’14’15’)。

2954(1754)54 王侯諸侯は教会の裁判権に属さないだけでなく,裁治権についての問顆を解決する場合に,教会の上位にある(8’)。

2955(1755)55 教会は国家から,国家は教会から分離されなければならない(12’)。

7 自然道徳とキリスト教的道徳についての誤謬

2956(1756)56 道徳律は神の批准を必要としない。実定法を自然法に合わせて作る必要もなけれは,拘束力を神から受ける必要もない(26’)。

2957(1757)57 哲学と倫理学と実定法とは,神と教会の権威から離れていることができるし,離れていなければならない(26’)。

2958(1758)58 物質的な力だけを認めるべきであって,あらゆる方法で富を蓄積,増加し,快楽を追求することだけを倫理の正しい基準としなければならない(26’28’)。

2959(1759)59 権利は物質的事実にある。人間の義務はすべて言葉の上だけのことである。人間が作ったすべての既成事実は権利の力を持つ(26’)。

2960(1760)60 権利は数と物質的力との総体である(26’)。

2961(1761)61 正義に反する一つの行為が成功すれば,その行為は神聖な権利を侵害するものではない(24’)。

2962(1762)62 「不干渉」(注1)と呼ばれる原則を宣言し,守らなければならない(22’)。

2963(1763)63 正当な君主に服従を拒むこと,反抗することさえも許される(1’2’5’20’)。

2964(1764)64 公式の誓いを破ることも,永遠法に反する悪意に満ちた恥ずべき行為も,それが愛国心から行われたものであれば責められないだけでなく,完全に合法的であって称賛に価するものである(4’)。

8 キリスト教的結婚についての誤謬

2965(1765)65 キリストが結婚を秘跡の尊厳にまで高めたということは絶対に証明できない(9’)。

注1 フランスのナポレオン3世皇帝は,約束を守ることから逃げるために,さらに,教皇領を侵略するイタリア軍に対して,ピウス9世を援助しなくてもよいようにこの原則に額った。

2966(1766)66 婚姻の秘跡は契約の付属品にすぎず,この両者は分けることができる。秘跡は結婚の祝福だけで成立するものである(注1)(9’)。

2967(1767)67 自然法によれば,結婚は不解消のものではない。公権は数多くの場合に,本当の意味での離婚を認可することができる(9’12’)。

2968(1768)68 教会は結婚の無効障害を定める権利を持たない。この権利は公権に属するものであり,この公権によって障害を取除くことができる(8’)。

2969(1769)69 教会は時代とともに無効障害を定めはじめた。この権利は独自のものではなく,公権から貸りたものである(9’)。

2970(1770)70 教会は結婚の無効障害を定める権利を持たない,と主張する者を破門するトレント公会議の規定は(*1830〜1831),教義ではない,またこの貸りた権利によるものと理解しなければならない(9’)。

2971(1771)71 公権が別の形式を定め,その新しい形式によって結婚が有効であると定めた時には,トレント公会議が定めた形式(*1813〜1816)を守らなくても無効になることはない(すなわち有効である)(9’)。

2972(1772)72 叙階の時の貞潔の誓願によって結婚が無効になる,と最初に宣言したのはボニファチウス8世である(9’)。

2973(1773)73 キリスト信者間の結婿は,単なる民法上の契約だけによって有効である。キリスト信者間の結婚はいつでも秘跡であるとか,秘跡なしには契約はないというのはまちがいである(9’11’12’23)。

注1 この命題の第2部に表明された意見については,たとえば,メルキオル・カノ De locis theologicis 1b.Ⅴ Ⅲ ,c.5(Vn.1759)196s参照。この意見によれば,キリスト者間の結婚は結婚の祝福だけによって,厳密な意味での秘跡となる。

2974(1774)74 結婚や婚約についての訴訟は,その性質上民法に属することである(9’12’)。

(注)ここに司祭の独身制の廃止と結婚生活が独身生活よりすぐれているという二つの誤謬をつけ加えることができる。この二つに対する反論として1’と8’参照。

9 教皇の民事権についての誤謬

2975(1775)75 世俗の権力と霊的の権力の両立性について,キリスト信者およびカトリック信者の間の意見の対立があり,論争されている(9’)。

2976(1776)76 使徒座が持っている世俗の権力の廃止は,教会の自由と繁栄に大いに役立つであろう(4’6’)。

(注)この問題について,4’6’20’22’24’26’も参照。

10 現代自由主義に関する誤謬

2977(1777)77 カトリック教を国家の唯一の宗教とし,他の諸宗教を禁止することは現代には通用しない(16’)。

2978(1778)78 名目上カトリックとなっている一部の国々では,移住者には彼らの独自の礼拝様式に従って公式の礼拝が法によって許されているが,これは賢明な策である(12’)。

2979(1779)79 あらゆる形式の宗教に法律上の自由を与え,あらゆる意見や思想を公表する権力をすべての人に与えることは,道徳と人心を乱し,宗教無差別主義の疫病を伝播させるというのはまちがっている(18’)。

2980(1780)80 教皇は進歩,自由主義,現代文明と和解し,妥協できるし,またそうしなければならない(24’)。