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セックスとキリスト教

現代は弁解でなく護教論の時代

ジャネット・スミス

『フマネ・ヴィテ』研究会 成相明人訳

現代世界の性認識

現代社会が性的混乱によって苦しんでいるのはことさら目新しいニュースではありません。十代の妊娠、性病、離婚、エイズについて詳しくない人たちに、性の革命の結末を納得させようとして色々な統計を突きつける必要があるでしょうか? わたしたちの社会は性行動に関して急速に変化しています。それが良い方向に向かっての変化でないことはご存じのとおりです。今日、2組に1組の結婚は離婚に終わります。十代の若者に関して言えば、10人のうち6人には性体験があります。過去10年に行われた何100万という妊娠中絶、かつてないエイズの蔓延は性認識に関する重大な欠陥が現代社会に存在することを示しています。ここ一世代のうちに、婚外性行動は付随の諸問題とともに2倍、3倍、またはそれ以上増加しました。それでいながら、性に関連する問題がそのピークを越えたと信じる理由は何もありません。

性的不道徳に伴う疫病のような不幸を本当に把握できるような統計など存在しませんが、未成年のセックスとか複数相手のセックスが良い結婚、良い家庭生活の準備になるわけはありません。人間の幸せと安寧のために最も必要なのが健康な性認識と健全な家庭生活であることを否定する人はおそらくいないでしょう。多くの片親が一人で子供を育てるという感心かつ勇敢な任に当たっているのは事実であっても、悲しいことに片親しかいない家庭で育った人が犯罪に傾きやすく、アルコールとか麻薬の誘惑に弱く、心理的疾患の罹病率が比較的高いのは事実です。

以上の現実は生活のあらゆる面に関係し、友人、配偶者、子供と心を通じ合わせる能力を蝕みます。このような不幸な人たちは勉強でも、仕事でも自分の能力を発揮できません。現代の諸問題を克服するために社会は安定した頼りになる人物が必要であるというのに、そういう人物を少なくしているのが現代社会です。家庭や友人から愛されなかった人たちは、必死になって愛に似たものを求めます。この傾向のために非合法の性的関係に陥ってしまう、という悪循環が始まります。多岐に渡るセックスの乱用とその当然の結果は現在の世代を傷つけるだけでなく、将来の世代が幸福で満たされた生活を送る可能性にとっても赤信号にほかなりません。

性の革命がもてはやされた20年前、人々は社会に蔓延していた性に関する抑圧的態度から今や解放され、結婚のきずな無しに自分が愛している人たちとセックスする自由を手に入れることになったと主張したものです。多くの人たちは、キリスト教こそ性的抑圧の源泉であると主張していました。しかし、セックスのキリスト教的見方は正に英知そのものであり続けました。キリスト信者はもはや性道徳の重要性を主張するときにセックスは結婚のためでしかないと小声で言い訳がましく話す必要などありません。

この頃は政府高官の中にも結婚前の禁欲、互いに忠実な単婚を勧める人たちがいるぐらいです。彼らもこういうことがすばらしい実践的英知であることに気づき始めたのでしょうか? 

キリスト教のセックス観

ある意味で、キリスト教倫理、特に性倫理は、自然法の道徳もしくは常識的道徳と非常に似ています。なぜある種の性行動が間違っているかを判断するためにキリスト信者である必要はありません。キリスト信者は道徳的に生きようとする努力する責任においてはもっと期待されるかもしれませんが、彼らを教徒でない人たちと比較すると何が道徳的であるかについての判断にそれほどの差はありません。キリスト信者が何か悪事をしているとき、彼は自分が良識に反しているだけでなく、神の掟に反していること、神が自分に期待しているほど愛していず、責任も果たしていないことを知っています。このように性に関するキリスト教的護教論は性に関する常識の護教論とさほど変わらないように見えますが、キリスト教の伝統は性に関する常識的知恵を最も忠実に守り続けてきています。一般の人たちが性に関する常識的知恵について「忘れてしまったり」、混乱してしまったりすることはよくありますが、その点、キリスト信者には性倫理に関する啓示と伝統が大きな助けになります。

性的事柄に関する伝統的キリスト教の知恵を、キリスト教諸派が大方大事にしているにもかかわらず、キリスト教的視点に真っ向から反するセックスに浸った現代文化に影響されていないキリスト信者はおそらく存在しないでしょう。10分間MTVとか午後のメロドラマを観ると、また10分間ロック、ポップ、カントリー・ミュージック専門のラジオ局に耳を傾けると、街角にある本屋の雑誌コーナーの前に立つと、また2分間海水浴場にいるだけでも、現代社会には性的関係に対するキリスト教的道徳規準が欠落していることを思い知らされます。キリスト信者であっても、自分たちの伝統が大事にしてきたセックスの理解を見失い始めています。人間関係の中でもとりわけ性的関係は大事です。キリスト信者がその役割をどのように理解しているか、今やわたしたちは護教論的に説明する必要があります。護教論とは自分の立場を他者に熱心に説明する試みですが、キリスト信者は他宗教の人たちにこのメッセージを伝えるだけでなく、自分自身と仲間のキリスト信者のためにもこの種の護教論が必要であると思います。ゆがんだ現代によってゆがめられていない人間はほとんどいないとさえ思われますので、福音宣教は外側にも内側にも向けられなくてはなりません。

自分のセックスをコントロールし、そのために幸せな人たちに出会う必要に迫られている人たちに、キリスト信者が効果的な証しをするために、彼らはまず自分たちの伝統について知る必要があります。無秩序なセックスに起因する荒廃からわたしたちを自由にするキリスト教的真理は山ほどあります。現代はキリスト教倫理を売り込むには最適の時代であるように思えます。多くの人がエイズ感染を恐れて乱交を控えてはいます。しかし、エイズだけが性の革命にまつわる目覚めの原因ではありません。性的出会いは多くの人々にとって孤独感しかもたらさず、彼らはそれ以外の何かを探し求めます。自分の愛する人とのセックスにも興味を失う、という性的無関心を訴えるケースも数多く報告されています。今や婚前セックスと中絶に起因する不安が高まり、そういうことをなくしようという運動さえ見られます。性教育を質量ともに充実させることがその解決であると多くの人たちは考えています。しかし、そんなことよりも、わたしたちはセックス、結婚、赤ちゃんの間にある関係をもっとよく理解する必要があります。キリスト教は正に必要な情報を提供しているのです。

セックスに関する三つの真実

ひずんだセックスについてキリスト教的伝統が明らかにした三つの基本的真実に焦点を当ててみましょう。その一は性活動が許される唯一の場は結婚生活、その二は夫婦の愛が育つために両者の忠実が不可欠、その三は子供たちは神から両親への贈り物です。

なぜ、性の結合が結婚という場でのみ許されねばならないのでしょうか? 性的結合の結果、そういうことをことさら望まない人たちの間にさえも、強力なきずなが生じることはおそらくだれも否定できないでしょう。性的に結ばれる人たちの行為は相互への深い関わり合いに他なりません。教皇ヨハネ・パウロ二世はセックスに関する教えるときに「体の言語」という非常に興味深い言葉を用いられます。その理屈によると、口から出る言葉と同じく体の行為には意味があり、行為によってその意味を意図しない限りわたしたちはそのような行為をするべきではありません。つまり、意図しないことを口に出せば、その言葉がうそになるのと同じです。両方ともうそを「つく」ことになります。性的結合が意味するのは「君には魅力がある」、「愛している」、「君を幸せにしたい」、「君と深くつながるきずなが欲しい」などでしょう。性的に結合しても、ある人たちの行為自体がこういうことを語っていない場合があります。彼らが望むのは性的快感を満たすために相手を利用することでしかありません。自分の望みをかなえてもらうために「君を愛している」と偽る者と同じく、彼らは体でうそをつきます。

しかし、婚外セックスの場合でも、当事者たちは性的結合が暗示することをすべて意味し、自分たちの体でうそを付かないと主張する者もいますが、婚外セックスに溺れる者は自分たちの体の行為が意味する約束を実行できないので、偽りの約束をしているに過ぎません。彼らには相互の幸福のために苦労し、深い相互のきずなを作り出す約束をする準備ができていません。これらを達成するには一生かかるのですから、短い出会いの間にそういうことを実現できるわけがないのです。

結婚制度の存在は人間が幸せになること、結婚によって可能になる生涯続く無条件の愛がいかに重要であるかを示します。愛はそれ以外のいかなる力にもまして、人間の中にある善を引き出します。例えば、愛があれば自信を持ちやすくなります。愛は他人に関わり合う際に必要な自信を与えます。それは自分の中にある才能を発揮するための勇気を与えます。また、愛は過去の傷を癒します。ほとんどどのような形であっても、愛はこれらの恩恵を人類にもたらします。しかしそれが夫婦の愛であれば、それにもまして特別な恩恵を与えます。人間は複雑な存在であり、相互理解は簡単なことではありません。生涯続く関係があっても、ある人を知り尽くすには十分でないぐらいです。ところが性的親密は自分の中身までも相手にさらします。それは自分を相手に排他的に与えることを意味します。性的親密の本来の目的は結婚の中で初めて達成されます。

キリスト教は性的結合を結婚のために保留することを主張しますが、その一つの理由は性的結合が相互に対する深い献身的関係の願望を表現することを教えたいからです。このような関係は結婚生活の中でのみ可能になります。なぜなら、結婚は愛する人への忠実を誓う約束の上に建てられるからです。聖書、特に、旧約聖書はしばしば姦淫の罪を糾弾します。相互に忠実な結婚は、神の民が神に対して持つべきパラダイムとして使用されます。格言と知恵文学全体は不実な配偶者を厳しく糾弾します。結婚している人であればだれでも配偶者が、不実であった場合はもちろんのこと、自分以外の人を愛しているかもと考えるだけでも絶望的になります。忠実は、結婚から生じる他のすべての善にとって基盤になる信頼関係を築くために欠かせません。

結婚するときに男女は誓いを立てますが、その理由は困難が生じたとき人々は簡単に諦めてしまいがちだからです。実に、社会は一般的に言って結婚が大好きであるかのように見えます。結婚しないで同棲していても周りがことさら眉を顰めるわけでもない現代にあってさえ、多くの人たちは結婚の誓いを立てます。新夫婦は結婚の誓いがあるから相互に対する献身を表現し、実現することができると感じるものです。しかし、離婚率が示すのは、結局、現代社会はこの誓いを真面目に考えていないということ、少なくともこの頃の夫婦はこの誓いを守るつもりで結婚式に赴くのではないということでしょうか? 

結婚の準備

司祭との会話、婚約者たちのための週末黙想会、結婚準備クラスで若い人たちが結婚に向けて完全に準備されるわけではありません。結婚の本当の準備は結婚する何年も前に始まります。若い人たちは自分の将来の配偶者がこうあって欲しい、あああって欲しいと願って、好ましい性格のリストを作るったりします。しかし、相手にとってふさわしい配偶者になるためには、自分のためにこそそのようなリストを作ることを薦めたいものです。彼らは結婚に対して自分たちが何を期待するか深く考えなければなりません。多くの人たちは自分たちの期待が自己中心的であったことに気づくでしょう。わたしたちは自分たちが配偶者をどれだけ幸せにできるかでなく、配偶者が自分たちをどれほど幸せにできるかを考えがちです。

結婚は愛に満ち、忠実で、親切で、忍耐強く、許すことを知り、謙遜で、礼儀正しく、賢明で、わがままでない人たちを必要とします。このリストはまだまだいくらでも続けることができます。それで、若い人たちはこれらの性格を身につける努力をしなければなりません。結婚する前からこれらの特徴をすべて備えていることを要求するのは愚かしいことであると言わねばなりません。それは不可能というものです。実に、結婚の経験が間違いなくこれらの性格を育てます。しかし、結婚前からこれらの性格を身につけるよう努力しないなら、身に付いてしまうのは、結婚にとって死刑宣告にも等しい利己主義、高慢、不忍耐など、ちょうど反対の悪徳群なのです。

忠実は結婚の基礎ではありますが、結婚前から配偶者に忠実である必要について話すのはおかしいと思われるかもしれません。しかし、わたしたちは配偶者と結婚する前からどころか、その相手に出会う前から、その人を愛さなければなりません。つまり、結婚するまで相手がだれであっても自分を性的に与えることを控えることを意味します。なぜなら、自分のセックスは自分だけでなく、自分が出会うであろう配偶者のものでもあるからです。何世代か前なら、若い人々が結婚のために「自分を取っておく」という言い方をするのはそれほど珍しいことではありませんでした。現代そんなことを言えば笑われそうですが、この表現は愛、セックス、結婚を正しく理解していることを示します。わたしたちは結婚のために準備をするべきであり、結婚のために自分を取っておくべきです。つまり、純潔にとどまることです。しかしそれはそう簡単なことではありません。例えば、それは性的な思い、望みの引き金を引きそうな事柄に気を付けることであり、これらの刺激を避けることです。それは現今人気のある娯楽の多くを避けることですらあります。セックスを結婚のときに配偶者に捧げる贈り物であると考える人たちであれば、むざむざアメリカ人が毎日のように目にする絶え間ない性的刺激の犠牲者になってしまうわけにはいきません。わたしたちはどんな音楽に耳を傾けるか、どんな映画やテレビ番組を観るか、どんな洋服を着るかについて気を付ける必要があります。わたしたちは性的な思いと性的刺激を、それらが挫折でなく、配偶者との愛の一致への歓迎すべき序曲になるときのために取って置かねばならないのです。もちろん、現代社会は常に誘惑を提供し続けているので、わたしたちが性的誘惑を避けることはできません。わたしたちの中の心にある欲望は悪いというキリストの教えは、わたしたちに外的行為だけでなく、内的な清らかさを守らなければいけないことを教えています。

キリスト信者であってもなくても、婚約者が性的一致を初夜まで待つのは理にかなうことであると思う人は少なくなりました。多くの人は結婚まで待てば、それからの性的一致がぎごちないものになると思いこんでいます。ほとんどの人たちが、もうすぐ結婚の約束をするのだから、すでに感じている献身を単に批准するだけの儀式の前であろうが後であろうがあまり関係がないと考えます。

さて、どんな違いがあるでしょうか? そうですね。確かに誓いはそれが口から出なければ誓いではありません。口にしていない、批准されていない誓いを破るのはどれほど簡単でしょう! 実際的な理由もあります。ノートルダム大学のバーチェル神父はFor Better of Worse(どのような運命になろうとも末永く)というすばらしい本を書いています。結婚まで性的親密さを避けることがなぜ一番良いかをよく説明してあります。彼は雄弁に、結婚までの時期が婚約者にとってお互いを知り合うためにかけがえない時である、と説きます。性的親密さに突入することは偽りでしかない親密感を作り出します。それによってできたきずなは、結婚に至るまでの期間に解決すべき関係の中にある要素をうやむやにしてしまいます。婚約期間は互いをよく知り、夢と計画を膨らませ、心配と躊躇を分かち合う時期です。性的一致の快楽はこれら結婚の準備から婚約者の注意をそらせてしまいます。

また、もっと深い理由もあります。それは誠実と信頼の問題です。婚前に性関係があれば、特にそれがキリスト信者であれば、それを公にしたいでしょうか? つまり、このような関係にある人たちは必ずだれかをだますことになります。それは両親、教師、友人であるかもしれません。このように人をだます能力は自分が将来も誠実であることを予告するものではありません。女性は彼女の婚約者が上手に人をだましたのを観察し、その情報を記憶します。将来、彼女の配偶者が自分にうそを付かないかどうか、彼女には疑うだけの理由があろうというものです。彼が尊敬している人たちを平然とだましたのを女性は目の当たりに見るからです。多くのキリスト信者は自分たちの心の底にある道徳規律を無視したことで罪悪感を感じます。彼らは結婚した後もセックスにまとわりつくこの罪悪感から逃れることができないかもしれません。ある意味で、彼らの頭には、セックスがうさんくさい、みだらな行為であるというプログラムが組み込まれてしまうのです。

一方、結婚まで待つ婚約者たちには自分たちの性的一致に関して特別な幸福感があります。彼らは待ったので、性的快楽が結婚に許される特権的善であると感じます。彼らは深く、お互いに対する永続的信頼と思いやりをより容易に発展させます。互いに対する愛と尊敬のために待ち、性的禁欲の緊張に耐える彼らの意志は、性格の強さを証しします。彼らは、単に性的な魅力が自分たちの関係の中で最も大事な部分ではなく、性的一致がまだ許されなくても、お互いそばにいるだけで幸せになれることを証明しているのです。このような婚前の忠実と純潔は結婚してからのさらなる忠実と純潔を保証するものです。妊娠、病気、夫の出張などのために、すべての夫婦は結婚してからも禁欲する必要に迫られます。結婚前に自己制御を学んだ人たちにとってこのような禁欲は簡単なことです。

避妊メンタリティー

婚前の純潔、従って結婚してからの純潔も、避妊が容易になってから徐々に蝕まれています。実に、避妊は現代の性的放縦の大部分に責任があるように見えます。避妊が簡単になる以前に十代の妊娠、中絶、性病は現在よりはるかに少なかったのです。避妊は結婚、産児、育児の義務と関係なく性的結合を可能にすると人々は考えるようになりました。しかし、避妊薬が妊娠の可能性をゼロにするわけではありません。ですから避妊薬は妊娠の可能性に伴う責任から人々を解放したわけではありません。わたしたちは、若い人たちに、自分たちが親になる準備ができるまで、性交の準備ができていないことを啓蒙したいものです。性交は常に自分たちが親になる可能性を伴うからです。

若い人たちにセックスと妊娠を関連づけさせるのは簡単なことでなくても、必要です。実際、大事なことは親が若い人たちに自分たちと同じ立場に立って考えるよう勧めることです。若い人たちが自分たちの子供をどう育てようとか、子供たちに何を与えたらいいかとか考え始めるといいと思います。両親は子供たちに、自分たちが親にとって重荷などではなく、神からいただいた大事な宝物であるというメッセージを伝える必要があります。ところが現代社会の傾向がどうかと言えば、普通、子供たちは重荷であり、金がかかり、うるさくて、面倒くさいものであり、キャリアの邪魔になり、スリルに満ちた旅行の足手まといであるとみなされるのです。もちろん、このように考えても子供が産まれなくなるわけではありません。しかし、多くの人は子供たちが親の持ち物の一つにしか過ぎないとか、大人であれば一応子育ても経験しておきたいものだと感じます。多くの夫婦が欲しがるのは、子供たちの生命のためでなく、自分たちの生活の飾り物として一人か二人の「特注の子供たち」です。

キリスト教にとって子供たちとは?

神様には子供たちに対する特別な思い入れがあるかのようです。なにしろ、最初にお与えになった掟は「産めよ、殖えよ」でした。旧約聖書の各所で子供がたくさん産まれるのは神の恵みを示す繁栄の印でした。詩編127を見てみましょう。「見よ、子供たちは神から賜わった嗣業であり、胎の実は報いのたまものである。壮年の時の子供は勇士の手にある矢のようだ。矢の満ちた矢筒を持つ人はさいわいである」。詩編128はわたしのお気に入りです。以下に引用します。

すべて主をおそれ、主の道に歩む者はさいわいである。
あなたは自分の手の勤労の実を食べ、幸福で、かつ安らかであろう。
あなたの妻は家の奥にいて多くの実を結ぶぶどうの木のようであり、
あなたの子供たちは食卓を囲んでオリブの若木のようである。
見よ、主をおそれる人は、このように祝福を得る。

神の計画によると、親子は互いを必要とする存在です。子育ての経験は結婚の経験と同じく多くの徳を必要とし、また育てます。子供がいることで大人は成長します。ほとんどの人たちは子供が産まれると、犠牲をいとわず、忍耐強く、親切で、愛に満ち、優しい人になります。子供とともに暮らすことを学ぶ経験には、配偶者とともに暮らすことと同じ利点があります。人は嫌でも応でもそこで譲ることを学びます。また、常に自分には利己主義的傾向があることも分かってきます。子供たちがいると夜中にも起きなければなりません。子供たちと喜びも悲しみも分かち合い、彼らによい模範を示そうとすれば大人も成熟するのです。

子供たちについてキリスト信者は非キリスト教社会と根本的に異なる見方をします。キリスト信者は、子供たちが自分たちの果たせなかった夢を実現し、人々の賞賛を得るための手段でないことを理解しています。彼らにとって子供たちはむしろ神からの贈り物、いつの日か神に返さねばならない神から託された魂なのです。キリスト信者は神が生命を愛し、その栄えある創造を自分たちと分かち合いたいことを承知しているので、彼らには子供たちを重んじる風土があります。一般的に言って、キリスト信者は神にとって子供たちが大事であることを知り、神がお与えになった子供たちを育てるに当たっては神に信頼するので、彼ら以外の一般社会より子供たちをもっと歓迎します。

最近のことですが、わたしの親戚の一人が子供はたくさん欲しいけれど、経済的にそれが可能であるか心配であるともらしました。若い中に結婚し、子供が多くいて、ほとんどの妻が当然専業主婦である家庭をわたしがたくさん知っていることを予想して、わたしに相談を持ちかけました。彼らにはどうすればそんなことが可能であるのか知りたかったのです。答えは神様への信頼心です。彼らにとって不自由な生活が普通です。彼らも、初めの何年間かは、時としてもう一人子供が産まれるともうやっていけないのではないか、車が買えないのではないか、子供は増えるのに家の大きさが十分だろうか、食料費、医療費はどうなるのだろうか、などと心配することもありました。しかし、何年か経過する中に、彼らは自分たちの必要がことごとく満たされていることに気づいたのです。当然のこととして、彼らは節約し、切りつめたお金を貯蓄することを学びました。お下がりも見栄を張らずにもらえるようになりました。生活の隅々が少しむさ苦しくても我慢できるようになります。しかし、本当に必要なものには不自由することがありません。それどころか、彼らが思いも寄らなかった贅沢すら時として楽しむことができるようになるのです。こうして彼らは明らかに絶対安全な明日の保障とか貯蓄などはなくても、神様への信頼を学びます。この世への緩衝剤になる十分な金と物のように、アメリカ人にならだれにでもあるような完璧な保証の代わりに、彼らの保証は神様への信頼です。彼らは信頼に満ちた、弾んだ心で、だんだん大きくなる家族を楽しみ、大家族の特徴である愛に浸り始めます。大家族の特徴は特有な寛大さです。彼らは来客を歓迎し、飛び入りを邪魔者と感じることがないようです。大家族の一員はだれでも、自分のしたいことを止めてだれかを助けることを躊躇しないようです。少しずつ、しかし確実に、彼らはよりよいキリスト信者になっていきます。

キリスト教が大家族を大事にするという話の行く先はだいたい人工避妊という微妙で、論争の対象となる話題に発展します。避妊が神の意志に沿わないという信仰が、回勅『フマネ・ヴィテ』以来もっぱらカトリック教会と関連づけられるようにはなりましたが、事実はと言えば、1930年までプロテスタント諸派もこぞって避妊に反対していました。英国教会は1930年8月14日に道徳的に避妊が夫婦に許されると発表するまでに、今世紀初期二度も避妊を断罪していました。ですから、避妊の受容は比較的新しい現象なのです。カトリック信者は、おそらく、もっと忠実に避妊を悪とする教えを大事にしてきていますが、それは本来カトリック特有の教えというわけではありませんでした。

それと似て、プロテスタントは十分の一税をもっと忠実に守り続けていますが、これもプロテスタント特有の教えというわけではありません。多くのカトリック信者もプロテスタントの兄弟に見習って十分の一税の習慣を再発見しつつあります。この習慣を通じて、彼らは大きな霊的進歩を経験し、今彼らは、神への感謝と信頼を示すこの古来の習慣を友人たちにも機会あるごとに勧めています。十分の一税は、産児と育児において人が神に対して寛大でなければならない、という教えと類似していると思います。ある人たちは、自分たちの安泰のために必要であると思うものを神に捧げてしまうのは、馬鹿らしいと思うので、十分の一税を拒否します。しかし、十分の一税を実行している人たちは時としては自分に必要なそのお金を神に捧げなければならないことを知っています。彼らは神様がそれをお望みであることを承知しているから、神と神の教会に与え、そして必要なものを神がもたらして下さることを信頼します。産児に関する寛大さもこれとほとんど変わりません。幾組もの夫婦が、もう一人の子供を産むのが自分たちに負いきれないほどの重荷になるだろうと考えていたけど、そのもう一人の子供が自分たちにとってすばらしい恵みであり、すばらしい喜びの源になったことを打ち明けてくれるでしょう。

自然に基づく家族計画(Natural Family Planning=NFP)

もちろん、夫婦には時として、少なくともしばらくの間、産児を控えなければならないような状態があり得ます。多くの人たちは、産児に間隔を置いたり、延期したりする手段としてなぜ責任ある人工避妊使用がいけないか理解できません。彼らは人工避妊が現代技術が生み出したすばらしい発明であると信じ、責任をもってそれを使用することのどこが悪いのか分からず、カトリック教会が教える定期的禁欲の勧めが非合理的であると思いこんでいます。彼らは、自然に基づく家族計画も人工避妊も家族のサイズを制限するのであれば、最も効果のある方法をなぜ使用していけないのか、と主張します。

不思議なことに自然に基づく家族計画は、最も効果的ではないにしても、最も効果的な方法の一つです。NFPはもちろん今は古くなったリズム法と異なります。リズム法は月経周期に基づくだけのものでした。しかし、NFPは体が発する種々のサインの観察に基づいて、女性がいつ妊娠可能になるかを確定する非常に科学的な方法です。その信頼性の統計は最も高性能の避妊ピルに劣るものではありません。それだけでなく、NFPには健康に無害であり、避妊ピルにある道徳的問題も皆無です。避妊リングには中絶促進作用があります。つまり、その作用は初期の妊娠中絶に他なりません。排卵があり、それ故に妊娠があるかもしれません。避妊リングは受精卵つまり小さな新しい人間を子宮壁に着床させないのです。避妊ピルの最新版にも同じ働きがあります。それだけでなく、避妊ピルと避妊リングは種々の方法で女性の健康を害します。そして、その長期的な結果がどのようなものであるかを知っている人はまだいません。ですから妊娠中絶に反対し、女性の幸福を願う人であれば、避妊のためにこのような手段を使用したり、普及したりすることを望まないはずです。障壁法といわれるそのほかの方法は美的感覚がないとか、信頼性が低いとかであまり人気がありません。

NFPはもはやNot For Protestantsの頭字語ではありません。カトリック信者でない人たちも妊娠中絶促進作用のある避妊薬を使用したくないという理由で、NFPに転向しつつあります。彼らは人工避妊に起因する病気の危険を恐れています。そしてNFPを使用し始めると配偶者だけでなく、子供たちや神様との関係も改善されることに気づくのです。

多くの人たちは定期的禁欲になぜ結婚を改善する力があるのか不思議に思います。確かに、NFPを使用し始めた大多数の人たちには、特に結婚前に純潔でなかった人たちとか、それまで避妊していた人たちは、必要とされる禁欲がストレスと短気の原因になるでしょう。ダイエットとかその他の自己抑制と同じく、禁欲に困難は付き物です。しかし利点もあるのです。夫婦相互の意志疎通と性交に頼らない愛情表現が上達し、性欲を制御できるようになると、思いも掛けなかったことが起こります。つまり、性交を控える能力が自分たちを解放すると感じ始めるのです。多くの夫婦は禁欲期間中にロマンスの要素が自分たちの関係の中に再現されると感じます。そして、それには禁欲期間が終わったときのあのどきどきする感じが伴います。NFPを使用する夫婦は互いを以前にまして理解、尊敬し合うようになります。

当初、NFPが要求する禁欲を困難であると感じていた夫婦が、最後には熱狂的ファンになるのはどうしてなのでしょう? 答えの一つは、彼らがNFPの使用を通じて「自己制御」の徳において進歩するからでしょう。つまり、彼らは自分たちの性的衝動がある程度まで制御できて、結婚の善という目的のにそれを従属させることを学ぶからです。ですから、もし夫婦が、ある時点でこれ以上の子供を責任をもって産むことができないと決定すれば、家族のために善であると彼らが決定したことと相剋がないように、セックスをコントロールする能力をすでに備えているのです。

NFPを使用する夫婦は子供たち、特に目覚めたばかりの強力な性的衝動と戦っている十代の子供たちにいい模範になります。ある男性がわたしに打ち明けてくれたところによれば、自分のNFP使用が職場で若い人たちにとって純潔の模範になっているということでした。結婚しているから好きなときにセックスができるからうらやましい、などと言って若い人たちが冷やかしたのですが、彼は自分たちがNFPを実践しているので禁欲しなければならない期間があることを教えて彼らをびっくりさせました。彼は自分が愛する女性の傍らで毎晩就寝し、しかも禁欲できるのだから、彼らもその気になれば女友達とのセックスを結婚まで待つことができるはずだ、と論じたのでした。

NFPに人気があるもう一つの理由は、人工避妊の夫婦よりも、また人工避妊していた頃よりも、もっと強い夫婦のきずなを感じることが可能になるからです。人工避妊に頼らない性交にはさらに完全な相互の与え合いがあります。NFPを実践する夫婦に離婚が極端に少ないのはおそらくこのせいでしょう。

NFPを使用する夫婦は、それが自分たちを神に近づけてくれたと証言します。彼らの信じるところによれば、神は人間の体を創造したので、その人間の体が機能する方法を尊敬することが神を尊敬することにつながるのです。また、避妊薬は配偶者との一致だけでなく、神との一致にとっても障害になると彼らは信じています。彼らは神が愛と生命の源であり、自分たちにも愛の行為を通じて生命を伝達する特権を神が与えて下さったと信じるのです。彼らは神がお望みであれば、新しい魂を神が創造するための場を提供すると感じています。

キリスト教、人工避妊、純潔

人工避妊に関するキリスト教の教えは、忠実な結婚と結婚まで性的親密を待つ必要性に関するキリスト教的理解と堅く結びついています。性的行為と産児はつながっていることをわたしたちは決して忘れてはなりません。子供がいつ生まれてもいい準備ができている人たちだけが性的に交わるのであれば、現代世界の性的行動は根本的に変化するでしょう。

キリスト信者は忠実と子供たちへの責任が結婚特有の特徴であることをことあるごとに説明する必要があります。現代人は男女を問わず不忠実と薄く短い関係に飽きています。彼らはもっと意味のあるもの、もっと頼りがいのあるものを探し求めています。離婚などはもううんざりです。両親の離婚によって苦しんでいる子供に思い当たりのない人はおそらく皆無でしょう。確かに、わたしたちの多くは、自分たち自身の愚かさ、弱さ、邪悪さのため、または他人の愚かさ、弱さ、邪悪さのために、自分が望み、必要としているような結婚ができず、そのような家庭を持つこともできていません。わたしたちは神に助けを求める人たちのために神が十分な恩寵を賜るよう信頼しなければなりません。二十世紀にも及ぶ期間に蓄えられた英知を背景にするキリスト信者は、純潔な生活を送り、愛に満ちた結婚と家庭を作るようもっと努力すべきでしょう。正にこういうことが彼らの永遠の救いに、そして社会全体のこの世での幸福にも欠かすことができないからです。


ジャネット・E・スミス女史はダラス大学で哲学を教えており、またロックフォード・インスティテュートのメイン・ストリート委員会の一員です。The Family in America誌に掲載されたこの記事は一万ドルのエミー随筆賞を獲得しています。『フマネ・ヴィテ』研究会(代表・成相明人)はこれを翻訳・出版する許可を得ていることを心から嬉しく思います。

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