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「典礼革命——パウロ六世の新しいミサ」XX章

聖櫃

マイケル・デイヴィース著

『フマネ・ヴィテ』研究会 成相明人訳

「 祭壇から聖櫃を分離することは、その起源においても性質においても一つであるべき二つのものを分離することです」

教皇ピオ十二世

キリストの御体と御血に対する尊敬は、四世紀ごろまでに非常に高まっていました。手で受ける聖体拝領の支持者がよく引用するイエルサレムの聖キリロに帰される文がありますが、そこで聖人はホスチアが地面に落ちないよう信徒に警告しています。

もしあなたたちが少しでも落とそうものなら、それはあたかもあなたの体の一部を落としたような損失を被ることと等しいでしょう。もしだれかがあなたに金の粉をくれたら、あなたは無くしたり、落としたりしないように、最大の注意を払ってそれを大事にしないでしょうか? だから、あなたたちは金とか宝石よりもさらに尊いものから、その破片がひとかけらであっても落ちないように気を付けないでしょうか?

発展した御聖体へのこの尊敬心の論理的帰結は、司祭が信徒の舌の上に直接御聖体を載せるという習慣の導入でした。

御聖体は、初代教会のころからミサ以外の時でも拝領が可能になるように保存されていました。しかし、十世紀に至るまではそれが特別に礼拝の対象として保存されていたわけではありませんでした。それ以前の信徒たちは祭壇の前で祈るために教会に来ていました。何しろ、祭壇はミサの間に司祭が唱える聖別の言葉によって主がいらっしゃるところだったからです。十世紀以降、御聖体は、普通、中央祭壇の上につるされたハトの形をした容器に保存されるようになりましたが、英国では宗教改革が主の現存を否定するまで、それほど一般的ではなかったものの、十三世紀末にはエグゼターの司教クイヴィルが定めた規則によれば、固定されて鍵のかかる聖櫃も使用されていたのです。一五四九年の宗教革命家たちによる要求の一つは「聖体の秘跡は中央祭壇上につるされて、元来そうしていたようにそこで礼拝すること」でした。

固定された聖櫃は次第に広まりましたが、祭壇上につるされた容器に御聖体を保存する習慣、もしくは別の場所にある御聖体の家に御聖体を保存する習慣は、一八六三年八月二十一日に典礼聖省がこのような容器の使用を禁止するまで、ドイツとベルギーのような国で続いていました。

教会法一二六八条と一二六九条は、御聖体が脇祭壇に保存される司教座聖堂とか修道院付属聖堂は別として、一般的規則として、御聖体は中央祭壇の中央(in media parte altaris posito)に固定された聖櫃に保存されるよう命じています。聖櫃の扉がmensa祭壇石から三センチ以上離れていることが望ましいとされます。扉は一枚でなく、二枚あった方が便利です。聖櫃の材料は、それが湿気を防ぐ物でさえあれば、材質を問わず丈夫なものでなければなりません。形は八角形でも、六角形でも、四角でも、円形でもよく、円屋根でもとがった屋根でもいいが、上部には十字架もしくは復活の主の御像が付いていなくてはなりません。それは祭壇にねじで固定されていなくてはなりません。内部は金か、白い絹で覆われた板でも構いません。

聖櫃内に御聖体が保存されているときは、それがヴェールで覆われていなくてはなりません。このヴェールは御聖体ランプより主の現存の本質的印です。聖櫃のヴェールが、正面の正面掛け布とともにその日の典礼色に従うとき、色の変化は言葉の力にも増して雄弁に、その神秘体のメンバーと共におられる頭として、祭壇の上、聖櫃の中におられる私たちの祝福されるべき主は聖人の祝日を喜ばれるのです。

教皇ピオ十二世在位の期間、教会内にはネオ・プロテスタントの傾向がすでに現れ始めていました。聖櫃の存在が犠牲から注意を逸らすと主張して、御聖体に当然帰せられるべき栄誉を減じようとする試みが何度かなされました。つまり、キリストがすでに祭壇上の聖櫃に存在するのであれば、司祭が聖変化の言葉を唱えたとき祭壇上にキリストが下ってこられることの意味がかなりの程度減じられてしまうと論じられたものです。教皇ピオ十二世はその典型的洞察力でもって、一九五六年九月二十二日、司牧典礼国際大会での教話で祭壇と聖櫃を分離したい人たちが隠していた真の動機を暴露されました。それから十一年も経たない中に、典礼聖省は教令『エウカリスティクム・ミステリウム』を発布し、教皇ピオ十二世の教えに反することも省みず、同教皇が断罪した神学者たちの教えを受け入れることになりました。この教令がネオ・プロテスタントによる教会内での乱暴狼藉を容認する大憲章になりました。

一九五六年、教皇ピオ十二世はキリストの現存についてのトレント公会議の教えを繰り返され、以下のように説明なさいました。

この教えを心から大事にする人であれば、祭壇上に聖櫃があることに反対するなど思いも寄らないでしょう。一九五二年六月三十日、聖省から出した教令『デ・アルテ・サクラ』の中で、聖座はとりわけ次のことを主張しています。「聖省は千二百六十八条の二と千二百六十九条の一にある指示が守られるよう厳しく命じています。つまり、『例外的に、ほかの場所がこれほど偉大な秘跡にふさわしい崇拝と礼拝のためにもっと便利でふさわしい場合を除けば、御聖体は教会の中でもっとも特別で栄誉ある場所、故に通常は主祭壇に保存されるべきです…いとも聖なる御聖体は祭壇中央に固定された聖櫃に保存されるべきです』」。

祭壇上に聖櫃が実際に存在すること以上に、皆さんの注意を促したいのは、聖櫃の中におられるキリストの存在と行為への尊敬が減少する点です。つまり祭壇では犠牲が捧げられればそれで十分であり、その犠牲を達成なさる方の重要性が減少させられるのです。しかし、礼拝においては、主ご自身が中心的位置を占めなければなりません。なぜかと言えば、主御自身が祭壇と聖櫃の関係をまとめ、それぞれに意味を与えられるからです。

主が御聖体の中に現存なさるようになるのは、まず、祭壇の犠牲を通じてです。そして主はご自分の犠牲と受難の記念  " memoria sacrificii et passionis suae"   として聖櫃内におられます。祭壇から聖櫃を分離することはその起源においても性質においても一つであるべき二つのものを分離することです。

以上引用した、教皇ピオ十二世があの教話の中で触れられなかった千二百六十八条のいくつかの部分は、公会議後の革命に特に関連しています。教皇が引用した教会法のあの部分は、聖櫃を置くためにもっと便利でふさわしい主祭壇以外の場所の可能性のことです。教会法は具体的に主祭壇で聖務日課が歌われる司教座聖堂、大学とか修道院の聖堂では御聖体が別の小聖堂に保存されることが望ましいとしますが、このような場合でも「御聖体が保存される祭壇は、信者をさらに効果的に礼拝と信心に誘うように、ほかのどの祭壇よりも美しく飾られなければなりません」。

このように、第二バチカン公会議以前の状態は次のようなものでした。普通の情況であれば、聖櫃は教会の主祭壇上に置かれることになっていました。この習慣には、それが犠牲の意義を減じるという理由で反対の声が挙がりましたが、ピオ十二世はこのような反対の裏には御聖体に対する尊敬を減少させる傾向があると警告なさいました。教皇は聖櫃と祭壇がその起源と性質からして一致しているべきであることを強調なさいます。

第二バチカン公会議文書に、聖櫃が主祭壇から取り除かれるべきであるとか、御聖体が保存される祭壇でミサを捧げることへの反対は一言も見つけることができません。祭壇に関する唯一の言及は典礼憲章百二十八条にあります。それをここに全文引用しましょう。なぜならそれはPope John's Councilで言及した「時限爆弾」のもう一つの例だからです。そこには祭壇をテーブルに換えてしまうこととか、御聖体を主祭壇から移動してしまうことなど一言も書かれてないにもかかわらず、聖域を荒らし放題に荒らすことのできる道が開かれてあり、各国司教協議会、否むしろ司教協議会任命の典礼委員会が好き勝手にできるための白紙委任状を司教協議会に渡してあります。

(教会芸術に関する法規)

聖なる礼拝に関係のある外的設備に関する教会法、および諸種の規定は、特に聖なる建物の正しく、ふさわしい建設、祭壇の形態と建造、聖ひつの品位と位置と完全性、洗礼堂の正しい場所と尊敬、聖画像と装飾と装備品の正しい配置に関して、第二十五条の規定による典礼書とともに、早急に改訂されなければなりません。刷新された典礼にあまりよく合致しないと思われる個所は、改正、あるいは廃止し、これを促進するものは、そのまま保存、あるいは採用します。

このこと、特に教会用具と祭服の材料、および様式に関しては、本憲章第二十二条の規定によって、土地の必要と風習とに応じて順応を行なう権限が地域的司教会議に与えられています。

一九六四年九月二十六日の教令『インテル・エクメニチ』は、祭壇に関する伝統的立場を繰り返しています。以下が九十五条です。

御聖体は主祭壇もしくは、もしそれが本当に大きく立派な物であれば、別の祭壇の中央に頑丈な盗難を防止できるような聖櫃に保存されなければなりません。その地方の習慣であれば、そして裁治権者の許可がある個々の場合には、御聖体が教会内の別の場所に安置されてもよい。しかし、それは際だって特別な場所で、尊い雰囲気があり、適切に装飾が施されていなくてはなりません。

祭壇上に小さな適切な聖櫃があっても対面ミサを挙行することは合法です。

聖櫃の位置に関する以下の宣言は、典礼に関して公会議後に出されたどの文書よりも権威のある文書、一九六五年九月三日に発布された教皇パウロ六世の回勅『ミステリウム・フィデイ』に含まれています。この文書は教皇自身の権威に基づいているもので、教皇は六十六項で伝統的な教えを繰り返しておられます。

典礼に関する規則は御聖体が教会の中でもっとも尊敬を受け、顕著な場所に置かれなければならない、と定めてあります。

明らかに、主祭壇は教会の中でもっとも顕著な場所にあります。ですから新しい教会であっても聖櫃を主祭壇以外の場所に設置すれば、それは既定の規則を繰り返しているに過ぎないこの回勅に挑戦していることになります。それはすでに存在している聖櫃を主祭壇からもっと目立たない場所に移動させるとき、さらにあからさまになります。

一九六七年五月二十五日、教令『エウカリスティクム・ミステリウム』が典礼聖省から発布されました。この教令は『インテル・エクメニチ』さらには『ミステリウム・フィデイ』の教えに逆行するものです。『エウカリスティクム・ミステリウム』は、聖櫃が通常主祭壇上のもっとも栄誉ある場所に置かれるべきであるとする規則を、それが通常主祭壇に置かれないようにという勧告に変更してしまうものです。五十三項には以下が含まれています。

故に、可能な限り、特に、結婚とか葬式が頻繁に執り行われる教会、もしくは芸術的、歴史的宝物があるために観光客が多い場所では、聖櫃が教会の中央から区別された聖堂に保存されることが勧められます。

興味深いことに、この項にはそれ以前の教会文書に全く言及していませんが、これは伝統を根こそぎにするような刷新ですから、それもそのはずです。逆説的に『エウカリスティクム・ミステリウム』五十四項は『インテル・エクメニチ』九十五項を繰り返しています。つまり、矛盾する指示が平行しています。しかし、こんなことは進歩的典礼学者たちが問題にするところではありません。彼らは五十四項を無視して五十三項が御聖体を降格する指令であると言い張るのです。

この勧告は、聖櫃が通常主祭壇に置かれることを規定している教会法千二百六十八条にも反しています。教令『エウカリスティクム・ミステリウム』は、聖櫃が通常付属小聖堂に置かれることを勧告しています。それはさらに、結婚とか葬式が頻繁にある教会とか聖堂ではそうであるべきであるという、極めて曖昧な規定をします。そこには「頻繁に」の説明もなく、また、なぜ結婚とか葬式があると聖櫃を降格する必要が生じるのかの説明もありません。芸術的、歴史的宝物があるために観光客が多い教会とは、教会法千二百六十八条が指する聖務日課が歌われる教会のことでしょうが、そういうところでは御聖体がすでに別の聖堂に移されています。

御聖体が主祭壇から付属小聖堂に移動されることに関して「降格」という言葉を使用するカトリック信者は、該当する教区の司教たちが、もし答えて下さることがあるとすれば、感情的になって、時としては怒りを込めて、それが降格であることを否定なさるはずです。司教様方の通常の戦術は例えば、御聖体が第二バチカン公会議以前から別の聖堂に保存されている、ロンドンのウェストミンスター司教座聖堂のような有名な教会を引き合いに出すことです。

このような論法は極端にずるいやり方であると言えます。コンサイス・オックスフォード・ディクショナリーによると降格つまり " demote" は「より低い地位もしくは階級に降ろす」ということです。主祭壇からそれ以外の祭壇に御聖体が降格させられた教会と、初めから特別に御聖体のために建造された聖堂に御聖体が保存されている教会とでは、比較の仕様がありません。これはミサの中で特に犠牲的性格があった奉献文の廃止のケースと類似しています。改革の支持者たちは、これらの祈りがミサ中に常に含まれていたわけではないので、強調が減少されることはない、と主張します。しかし、これらの祈りが含まれるようになる以前の状態と、宗教改革の際にそれらを廃止したプロテスタントの望み通り、奉献文が取り除かれてしまっている現在の状態は全く意味が異なります。

教令『エウカリスティクム・ミステリウム』は、御聖体が保存されている祭壇でミサが捧げられるべきではない、とさえ勧めています。以下(五十五項)を読んでください。

祭儀の性格上、聖変化の言葉の実りであり、そう受け止められねばならない御聖体におけるキリストの現存は、ミサの初めから聖櫃に聖体が保存されるまで、祭壇上にはあるべきではありません。

これは一つの意見の表明であり、法律的強制力を持つものではないことに留意すべきです。しかし、実体はと言えば、主祭壇から聖櫃が移動されたのは義務であったと普通の信徒に信じ込まさせるためにこれが利用されます。教令『エウカリスティクム・ミステリウム』が教皇ピオ十二世の教えと矛盾していることも見逃してはなりません。教皇ピオ十二世が教えられたのは、祭壇と聖櫃がその性格と起源からして一つでなければならない、ということでした。教令が教皇パウロ六世に認可されていても、それは必ずしも教皇がそれを読んだことを意味しません。教令『エウカリスティクム・ミステリウム』は教皇から発されたものではなく、回勅『ミステリウム・フィデイ』とも矛盾しています。つまり、カトリック信者は教皇ピオ十二世、教皇パウロ六世、教会法に矛盾するローマ聖省発の教令に従うより、教皇ピオ十二世に従う方が安全であるということです。教令『エウカリスティクム・ミステリウム』は、五十四項で『インテル・エクメニチ』九十五項の引用である五十四項「祭壇上に小さな、しかし適切な聖櫃があったとしてもそこで対面ミサを挙行することは許されている」と述べるとき矛盾を冒しています。

次に関連する文書は一九六九年に発布され、一九七〇年に改訂されたローマ・ミサ典礼書総則です。この教令二百七十六項には御聖体が、特別な小聖堂に保存されるようにという教令『エウカリスティクム・ミステリウム』の勧めが繰り返されています。日本カトリック司教協議会発行のミサ典礼書には「聖体を保存する場所は、信者の個人的な(礼拝と)祈りにふさわしい小聖堂の中に設置されることが切に勧められる」。「(礼拝と)」の部分は一九六七年発布の総則になかったことで、オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿から厳しく批判されたので、一九七〇年の改訂版で挿入されました。そのほかに数々の修正がなされた総則はカトリックのビニールで覆われることになりました(訳者註・日本語版の日付は一九六九年になっていますが、翻訳の遅れの関係で内容は一九七〇年版であると思われます)。繰り返しになりますが、これは法的拘束力を持たない勧めであるにしか過ぎないことに気づかねばなりません。それにもかかわらず、進歩派が『エウカリスティクム・ミステリウム』とミサ総則を引用するときは、カトリック教会内の聖域の荒廃とプロテスタント化に反対する人たちを沈黙に追い込むために、それらにあたかも法的拘束力があるような扱いをするのです。

最後になりますが、一九七三年六月二十一日、典礼聖省はミサ以外での聖体拝領と御聖体の秘跡礼拝について教令『エウカリスツィエ・サクラメントゥム』を発布しました。この文書には感嘆すべき点が多々ありますが、御聖体に対する尊敬を減じかねないような残念な譲歩も見受けられます。それは第六項で、ミサが挙行される祭壇には御聖体が保存されないように、という教令『エウカリスティクム・ミステリウム』五十五項をこの勧めの権威付けに利用してあります。

聖域に関してどのような規則があるか知りたい方は教会法千二百六十八条と千二百六十九条を見てください。教皇の明瞭な指示を知る必要があれば、一九五六年九月二十二日の司牧典礼国際大会と教皇パウロ六世の回勅『ミステリウム・フィデイ』を参照してください。回勅『ミステリウム・フィデイ』以降、この点に関して教皇による指示はありません。あるのは教皇から一般的承認を得ているヴァチカン聖省からの教令だけです。

不幸なことに、公会議後の教会は典礼革命を押しつけるに際して、伝統とか遵法性を無視しています。たくさんの例の中から、ここでは信者たちの反対にもかかわらず、また教皇パウロ六世の回勅『ミステリウム・フィデイ』と教会法に違反して、聖櫃が主祭壇から移動されたケースを紹介します。一九七八年、ロンドンのある小教区責任者になった司祭は聖櫃を主祭壇から取り除くことに決め、「その変更の提案」について討議するため信徒総会を招集しました。その変更と言えば、明らかに決定済みの設計家と建築会社の計画であり、質問には彼らが答えるというものでした。それはみんなで討議して決めるなどというものではなく、既成事実の押しつけでした。総会では明らかに大部分がその変更に反対でしたから、司祭は票決によって決定しないことにしました。なぜ聖櫃を移動するのか聞かれた司祭は、それが第二バチカン公会議の精神に沿うものであると答えたものです。一人の信徒が第二バチカン公会議は聖櫃を主祭壇から移動することを命じていないことを指摘しました。司祭の答えは第二バチカン公会議はそれを命じているから自分は満足しているし、これが司教の命令であり、自分は司教に従順の誓いを立てている、というものでした。

信徒のあるグループが、司教に手紙を書いたところ、司教はその設計図を見たこともないことを認めましたが、それは聖櫃が教会の中央部と異なる場所に保存されることを勧めるという典礼憲章の指令に沿うものであると答えました。司教は信徒の大多数がその設計図に賛成であるとも答え、そのグループとの面談も拒否しました。教区の最高裁治権者が、自分が見てもいない設計図が典礼憲章中の存在してもいない指示に従っているので、教区民と会うことを拒否し、さらに司祭が票決による決定をしないことにしたのは、そのグループが少数派に過ぎないからであるとしたのです。最終決定をするための集まりに参加するのを許されたのは、主任司祭から招待状を受け取った賛成派の信徒たちだけでした。反対派からは一人も招待されていなかったので、その計画は満場一致で可決されました。反対派の中のある者たちは、その美しい教会のためにそれまで長いこと、時間と財を寛大に捧げてきたのですが、その後は分裂をもたらす者としての扱いを受けるようになりました。彼らはそこまで頑張った挙げ句、結局は諦めるほかありませんでした。教皇大使つまり聖座に訴えてもおそらく返事はもらえないか、司教の決定に反対しないように勧められるかであったでしょう。公会議後の教会には信徒の意見を吸い上げる、ましてや公正な裁判を受けられるような仕組みがないので、彼らが伝統的信仰を保ち続けるために残された唯一の選択は、トレント公会議のミサを捧げ続ける司祭を支持するということでした。

西欧世界にあるほぼすべての教会で御聖体を脇聖堂に降格させたことの教義的意味のほかに、費用のことも忘れてはなりません。何万ヶ所で行われた、そして何のために遂行されたか理解に苦しむこのような蛮行にかかった費用は、天文学的なものになるはずです。自慢の種だった第二バチカン公会議の刷新も、典礼刷新のほかにはこれと言ってみるほどのものはありません。明らかに、ミサの変更は公会議のもっとも情けない結果の代表的なものですが、聖域内の変革は、カトリック教会に足を踏み入れる者にとってはもっとも顕著なものでしょう。これらの変革が公会議によって決定されたものなどでなかったどころか、回勅『ミステリウム・フィデイ』の教えに真っ向から反するものであったことを思うとき、カトリック聖職者たちの大部分は悲しい思いをします。明らかに、これは一人の司祭が、隣の教会でもしているからしたことです。そして結局、国中の教会でそうなってしまいました。少なくとも、自分たちがやってしまったことを残念がる人たちのいることを希望しましょう。

天よ、露をしたたらせ

雲よ、正義を降らせよ

大地よ、開いて救い主を生み

正義の花を咲かせよ

牧場に降りる露のように

地を潤す雨のように

王は来られる

王は来られる

民に平和をもたらすために

脚注

1. See Chapter XXII for a longer extract.
2. CE, vol XIV, pp.784-5
3. CGO, p. 121
4. CE, vol. XIV, p. 424, col.2.
5. The Liturgy (Boston, 1962), pp. 513-514
6. W. Abbott, The Documents of Vatican II (London, 1967), p. 176.
7. Complete text in OCT but not AF.
8. CTS edition, p. 43. No paragraph numbers are provided in AF.
9. AF, p. 244.