中心の再発見について
 
基礎的方向付け
 
過去四十年間に出版された
ヨセフ・ラッツィンガー枢機卿の論文集
 
  
編集責任グループ: 編集部員 Stephan Otto Horn, Vinzenz Pfnür, Vincent Twomey, Siegfried Wiedenhofer, Josef Zöhrer.
 
出版社 ヘルダー Freiburg, Basel, Wien
  
 
聖アウグスティヌスの教会論における
「神の民」と「神の家」
           
再版された博士論文のための序文
                    
[「中心の再発見について」Vom Wiederauffinden der Mitte. (Grundorientierungen: Texte aus vier Jahrzehnten). Freiburg: Herder, 1998. pp. 25-34. ISBN 3-451-26417-X]
 
翻訳 ヨセフ・ムイベルガー & 成相明人
 
 
 
わたしのこの論文(の再出版)が準備され始めたのは、四十年代の終わりにさかのぼります。そのころ、わたしはミュンヘン大学神学部の学生でした。当時はまだ二大戦間の期間に起こった霊的運動と神学論争が教会に影響を及ぼしており、次第に新しい形を取り始めていました。当時、神学的に多くの動きがありました。再発見された教会の概念は若い人たちから熱狂的に受け入れられていました。教会の単なる法律的、制度的理解は修正されつつあるように見えたものです。なぜなら、教会の概念は(それまで)しばしば位階制度という言葉で一括されていたからです。「キリストの体」という言葉は、教会を単に法律的・制度的概念からキリスト中心の神秘的世界に移行させました。教皇ピオ十二世が一九四三年に出した回勅『ミスティチ・コルポリス』は、それまでに至る実り多い二十年間に形成されたこの発展を取り上げ、教導職による教会の新しい理解を確認させることになりました。一見するとその回勅は出版当時このキリスト論的・神秘論的教会観を乗り越えて、新たな発展を暗示しているかのようでした。
 
三十年代の終わりに、キリストの神秘体という思想の過大評価について重要な発言がありました。イエズス会の高名な神学者エリッヒ・プルッツィワラ(Erich Przywara)は、種々の理由から、それまでにできあがっていた教会のイメージを批判したものです。ワルバベルグにあったドミニコ会修道院のM・D・コスター(M.D. Koster)の批判はもっと大きな影響がありました。彼は注目を浴びた小冊子「形成中の教会論」(Ekklesiologie im Werden)によって、わたしたちが「キリストの体」であるということが実際には教会論ではなく、恩寵論に属するという命題を定立しました。彼によれば、この言葉は教会が具体的に共同体的・制度的事実を指すのでなく、信者たちがキリストに内面的に帰属することを指し示し、その上「キリストの体」は比喩であり、単なる観念でしかないが、神学の使命は比喩を考察し、言葉を使って表すことです。また、この概念は「神の民」になってしまうようであり、「神の民」も、その他の点では教会を示す表現ではあっても聖書全体を見ると「キリストの体」という表現はパウロの特徴であり、彼によって作られた比喩です。コスターはその上に典礼を引き合いに出し、典礼文で「キリストの体」という表現が、信者の共同体を表すために使用される場合は非常に少なく、むしろほとんど一貫して教会を表していると主張します。
 
二大戦間にできあがった「キリストの体」である教会について、文献は異なる歴史的根拠に頼っていたのに、コスターはそれを取り上げていません。すなわち、教父たちの神学はパウロの比喩を中心にしています。E ・メルシュ(E. Mersch)とS・トロンプ(S. Tromp)の優れた著作は、教父神学のこの側面を詳しく取り上げていました。このような状況のもとでの論争の中にあって、ミュンヘン大学で基礎神学を教えていた指導教授セーンゲン(G. Söhngen)は、アウグスティヌス(Augustinus)に使用された「神の民」の概念を研究するようわたしに命じました。つまり、それまでに教父たちに関する研究において、(少数派の)一方的見方が、「キリストの体」という考え方に中心的意義を与えていたのではないか、ということを調べるように命じたものです。このような考察のために、トレント公会議の要理、つまりカテキスムス・ロマヌスにあったテキストはセーンゲンにとって重要でした。そこには教会についての問題に関して、教会を「全世界に散らばっている信者たちの民である」という意味で、アウグスティヌスのテキストが引用されています。コスターの論証との関連で、トレント公会議のこの文章はまさに新しい研究を呼び起こすはずでした。もし十六世紀のカテキスムスを書いた偉大な教父学者たちが、教会を定義するために「キリストの体」でなく「神の民」という概念をアウグスティヌスから取り出したのであれば、今までの命題に反して、実に、この概念は西ヨーロッパでもっとも偉大な教父が持っていた中心的教会観だったのではないでしょうか? わたしはアウグスティヌスにおいて、教父たちの教会観を一例として調べ、新たな問いかけによって新たな答えを出すために、この問題について調べるよう求められていたのでした。セーンゲンはもう一つ課題をつけ加えました。彼の考えによれば「神の家」という言葉は「神の民」の概念を包含し、補足しました。なぜなら、「家」は昔の人々の言葉の場合、家族(部族)を指し、そしてそれによって民の概念のプロトタイプを指すからです。つまり民は大きな家族、種族であると考えられていたのです。もし、教会が家として見られるのであれば、多分、わたしたちは「神の民」という概念の初期形態に出会っているのかもしれません。しかし、この形態には種々の方向に発展する可能性があります。このような考えに基づくと、わたしのテーマは広がってしまいました。家族という意味の他に、「神の家」には聖域とか神殿も、またそれによって教会の礼拝に基づく見方も視野に入ってきます。しかし、この見方と同時に礼拝概念の霊化が含まれている可能性もあります。キリスト信者にとって、実際の神殿は神に呼ばれている人々の共同体です。神殿の比喩と結ばれている捧げ物という考えに関連するのは神の住まいです。そこから、この概念の研究によって、典礼神学のための足がかりを見つける希望もありました。
 
わたしの課題にとって主なアクセントは、教父による教会のイメージを明らかにすることでした。「神の民」がその研究と新しい解釈の鍵になるものと思われました。ドミニコ会のコスターの書物から強い印象を受けていたセーンゲン教授は、わたしの研究によってコスターの主張が証明され、教父たちによるそれまでの教会論の解釈を見直すきっかけになることを密かに期待していました。このような課題をもらったわたしはテキストと取り組みました。しかし同時に、そのようなテキストが何を意味していても、それを無条件で受け容れる心の準備もありました。実際、コスターの意見のとおりではありませんでした。明らかになったのは、「神の民」という言葉が主に旧約聖書からの引用に現れ、もっぱらイスラエルの民もしくは旧約の民の教会を示していたという意味で、(総じて、他の教父たちと同様に)アウグスティヌスが新約聖書の線に従っていたということでした。キリストからそう呼ばれた新しい共同体はこれと異なり、終末論的かつ礼拝的側面を包含するエクレシアすなわち集会と呼ばれていました。終末に当たって、神は選ばれた者たちを新しい共同体として至る所から集められます。なぜなら、この集まりに神が話しかけ、契約を結ぶことによって人々をご自分の民にする集まりの原型は、イスラエルが神と出会う場所であるシナイ山だからです。それはわたしたちの課題にとって、「神の民」が直接イエス・キリストの教会ではなく、イスラエルの民つまり救いの歴史の第一段階を指します。まず、キリスト論的転換または言い換えれば霊的解釈によって、民は教会を暗示します。
 
ここで、わたしたちは教父解釈の根本問題を前にすることになります。そしてそのものとして新約聖書の出発点に忠実です。旧約聖書も教会の聖書です。新約聖書は旧約聖書のいわば鍵になります。なぜなら、それはわたしたちにキリスト、神の子の受肉、復活の神秘について伝えてくれるからです。ですから、旧約聖書の出来事と言葉は新約聖書の出来事と言葉に照して読まれて、あたらしい次元に上げられなければなりません。すなわち「神の民」は、キリストと聖霊によって新たに集められると教会になります。文字どおりに直接でなく、まずキリスト論的・霊的読み方をとおして、「神の民」は教会の概念になります。もっと実践的に言えば、もし、旧約時代の昔にアブラハムの家系とモーセの律法遵守が、人々を「神の民」として統一した、言い換えると、血縁共同体もしくは神に由来する共同生活の掟という概念の根本的内容を定めたのであれば、新約の場合は、聖霊によって与えられたキリストとの一致が、わたしたちをアブラハムの子孫にし、神の生き方に招くのです。聖霊におけるキリストとの一致によって、人々は「神の民」になります。もっと具体的に言えば、この一致は洗礼と御聖体の秘跡によってもたらされます。なぜなら、秘跡はわたしたちをキリストに完全に一致させるからです(ガラテア3・28 )。わたしは以上を、教会は「キリストの体」においてのみ、また「キリストの体」をとおしてのみ「神の民」であるという公式にまとめてみました。キリスト論的・霊的転換なしに、新約聖書または教父たちにだけ基づいて、教会に「神の民」の概念を当てはめることはできません。キリスト論と教会の概念には不可分の関係があります。他の場合、わたしはさらにこれをもっとはっきりした形で表現しました。つまり、教会を「神の民」と呼ぶと、それが旧約聖書ではわたしたちのために比喩的に使用される概念であるのに、「キリストの体」と言えば、それはわたしたちのことであると霊的に解釈(比喩)できる事実、つまり、キリストがなさったわたしたちのための行為、わたしたちが「神の民」でなかったのに「神の民」にしてくださった行為を指しています。
 
教父神学全体が基づいている旧新約聖書の関係を理解するようになるのが、わたしにとってもっとも重要なステップでした。この神学は聖書解釈にかかっています。教父たちによる聖書解釈の中核は、聖霊の中に、キリストによって伝わっている旧新約聖書の調和です。これを理解するために、アンリ・ド・リュバック(Henri de Lubac)の「コルプス・ミスティクム」という本は非常に参考になりました。ここに、わたしは教父神学における解釈基準だけではなく、典礼的・秘跡的次元も見ました。この次元は、二大戦間の期間にキリストの神秘体神学においてはほとんど見落とされていました。この神秘体神学は、神秘的という言葉を概念の現代的意味で取りあげていました。すなわち、神の世界を内観的見方として、または神との内面的、神秘的一致として解釈していましたが、教父たちの見方によれば、神秘的であることは秘蹟的であることを意味するのです。これによると、キリストの神秘体という言葉には内面性という性格が、どのような意味においても、存在しません。この性格があるとき、位階制の影響を受けた教会論を捨てる道として高く評価されましたが、コスターは、その後で、それは教会理解のためにはふさわしくない概念であるとして批判しました。神秘体の概念は、かえって教会が御聖体に具体的にはめこまれているものとして受け取られています。教会は、御聖体によって同時にまったく内面的、同時に公の事実として指し示されています。簡単に言えば、教会に対するアウグスティヌスの見方の二つの土台は、旧約聖書のキリスト論的読み直しと御聖体を中心とする秘跡的生活であるというのが、わたしの研究の結論でした。わたしは二大戦間の期間の教会論を訂正しました。しかし、それは、コスターの見方に従って、もしくはカテキスムス・ロマヌスの注釈に関連させて、教会論を訂正するべきではないか、と思っていたセーンゲン教授が希望したとおりではありませんでした。アウグスティヌスが、この根本的構造点に関して全教父の伝統と一致していることは簡単に証明できます。具体的に言えば、彼はこのようにして決められた教会のイメージを自分の経験を通して作り、そしてそれを霊的に豊かにしました。しかし、アウグスティヌスにとって、根本的問題に関して新しい神学をつくことは重要ではなく、カトリックの世界に信じられ、または教えられていることを理解し、理解させることが大事でした。本当の神学者の特徴はまさに、特異なものとか異なるものを作るのでなく、共通の信仰に仕えることです。なぜなら、共通の信仰は本物の神学者にとって自分の考え方に基準と形態を規則として与えているからです。それによって、自分の考えは共通の真理に導かれ、実りをもたらし、不変的なものを作り出すことができるのです。
 
(後に、間違った解釈によって比喩に過ぎないとして軽んじられた)キリスト論的・霊的に伝えられている旧約・新約聖書の一致が、教父神学のすべての根本的で共通の形態であるという洞察は、アウグスティヌスを解釈するために必要な鍵をわたしに与えてくれました。特に、彼の「神の国」、本当は神から与えられた市民権の定義が激しい論争の的になっていたからです。この洞察によって、ハルナック(Harnack)の指導に従ったハインリッヒ・ショルツ(Heinrich Scholz)に作られた概念の観念論的解釈が、人々を欺いていたことがわたしにとって明らかになりました。なぜかと言うと、わたしたちの近代的観念主義はアウグスティヌスにもその他すべての教父たちにも知られていなかったからです。それは教父たちが知っていたプラトンの観念主義とはまったく異なるものだったからです。同じく、教会を政治のために利用したり、神による世界支配を政治の土台に据えなければならないという祭政一致的解釈が、まったく不適当であることが明らかになってきました。それまでに、アウグスティヌスの最良の書物についての論争に影響を与えた観念主義と政治の間のこの選択は、両聖書の霊的一致を人々が理解していなかったので、克服されていませんでした。この一致は精神化と何らかの関係があってもそれは観念的ではありませんでした。なぜなら、この精神化には受肉が含まれているし、終末とも関連しているからです。ここでも「神の国」にある教えに関する場合にも、アウグスティヌスが根本的に新しいことを述べているわけではありません。実に、彼は教父たちがいかに一致しているかを取り上げているのです。しかし、(アラリッヒ支配下の西ゴート人によるローマの略奪という)四一一年の出来事は、その全テーマに新しい時局性をもたらしました。アウグスティヌスは、この問題を考察して書いたこの著作によって、それまでの思想を凌駕したのでした。わたしたちは、彼が著した二十二冊にも及ぶ書物によって、教父たちの基本的遺産の新しい総合に対峙することになります。その特徴は独自の教会論、恩寵論、終末論です。教父たちの場合、キリスト信者の政治倫理についての疑問には一つの役割がありますが、最後に至るまで考え抜かれているとは言えません。
 
これを実践的に言えば、次のようになります。「神の国」はすべての誠実な人々が構成する不特定の共同体でなく、歴史的に実在した共同体です。この意味で「神の民」は神がご自分のために世界中から集めた人々、つまり教会のことです。しかし、その際、アウグスティヌスにとって、教会とは秘跡に定められている制度的形態ではあっても、この形で完全に取りあげられてはいないということを忘れてはいけません。教会の本質には霊と文字の間にある対立関係が包含されています。つまり、教会は霊化もしくはキリスト化の途上にある文字です。教会は、いつも経験的にだけ民であることを霊によって超越して「神の民」という市民権のある集いになりますから、上述したことが重要になります。そういうわけで、教会自身は決して国家のようなものになることができません。教会は秘跡に基づいた共同体として具体的なものではあっても、その具体性とは経験的なものではなく、まさに秘跡によって与えられる具体性を備えています。教会の秘跡は契約の印として、いつも単なる出来事とか単なるもの以上のものです。秘跡として教会は決して制度的形態のないものではありません。しかし、目に見える法律的構造だけに限られるわけでもありません。アウグスティヌスの「神の国」という考え方を正しく理解するために、理想と霊、秘跡と体験の違いを理解する必要があります。そうすることで初めて「神の国」で取りあげられる事実の特別なあり方に近付くのです。しかし、それは十九世紀と二十世紀の博識(sic)にとってはほとんど理解不可能であるらしいのです。明らかに、この博識は観念的または体験的範疇を使用して考えられないし、考えたくないからです。しかし、そうすると上に説明された(観念的か政治的かという)選択肢になり、それは無意味になってしまいます。現在の考え方が教父たちの基本的範疇からどんなに離れているかは、聖書解釈にもっともよく現れています。なぜなら、聖書解釈に観念的とか体験的とかの対立は、比喩と歴史的解釈に置き換えられるからです。その上、比喩は乗り越えられた無意味になってしまい、歴史的説明だけが唯一正しく、有効な説明として残ってしまうからです。実際、こんなに限られた見方によって取りあげられた歴史観は、教会史の本当の豊かさを決して捉えることができません。わたしの研究は確かに手探りのようであり、不十分ではありました。しかしわたしは教父たちの考え方の本当の次元を発見し、それによって「神の国」を解釈しなければなりませんでした。ここで一般的に取りあげた範疇を理解するために必要な能力は、いまだに欠けています。そういうわけで、わたしの解釈が誤解されてしまうのはわたしにとって不思議ではありません。アンリ・ド・リュバックとジャン・ダニエルー(Jean Daniélou)の研究によって、教父解釈のための霊的基準と方法論的な理解がだんだん成長しました。それがアウグスティヌスによる神の市民権の解釈にも少しずつ役立つことをわたしは希望しています。
 
わたしの最初の本で簡単に暗示した根本的結論は、今でも正しく、有効であると思っていますから、わたしは四十年経った現在その再出版を許可しました。さらに、一九七八年にはイタリア語への翻訳も許可しました。当然のこととして、この本はその当時以来入手できるようになった文献のとてつもない膨大さに鑑みて、根本的に改訂され、ここで取り上げられる根本的範疇をもっと明らかにし、かつ理由を挙げて説明するように敢えて試みられる必要がありました。残念なことに、仕事の重圧のために、わたしはそのような計画に必要な時間を割くことができませんでした。この本に限界があることをわたしは心得ています。わたしは一九五〇〜一九五一年に学生として本書を著しました。一九五四年に出版されたものには少しだけ訂正と補足がなされています。その原稿は、ミュンヘンのルードヴィッヒ・マキシミリアン大学が募集した懸賞課題の応募作品として、提出されたために、執筆期間は非常に制約されていました。その上、大戦直後の時期であったために、図書館の蔵書は非常に少なく、ドイツでは外国の文献がほとんど入手不可能でした。上述の理由のために、わたしはこの書物が最初の形のままで新たに印刷されることを許可しました。そういうわけで、読者には、上に説明した限界を大目に見て、この本を資料としてのみ受け取るようにお願いします。なぜなら、この資料はアウグスティヌスと続けられた対話の一部として大事な意義を持ち、教父たちと、従ってわたしたち自身の神学的問題の理解につながるいくつかの洞察を与えてくれるからです。現代の神学論争に関して、本書は、ちょうど教会についてなされた公会議後の論争に、予期していなかった目下焦眉の話題を提供したように思われます。ご存じのとおり、公会議は「神の民」の概念に新しい重要性を与え、それに教会憲章の一章を割いたのでした。全テキストの文脈の中でこの章を読むと、「神の民」という言い方は、教会論的伝統にあるそれ以外のすべての大きなテーマと分離不可能な関係があり、それらと有機的に結ばれています。「神の民」という表現はこの大きなテーマと総合的に融合しています。わたしにはこの融合の中に本論の基本的結論または教会に関する根本的見方が肯定されているのが分かります。教会が秘蹟であると言えば、第二バチカン公会議は、二大戦間の期間の神学が教会を秘蹟として見たことを取り上げて、「神の民」の概念のキリスト論的・霊的転換をすることを明白に示したのです。また、第二バチカン公会議にとっても、教会論はキリスト論と聖霊論から切り離すことができません。このことによって同時に、三位一体の神が歴史に働きかけているという特徴が表されます。教会憲章はこの三位一体論の特徴を明示していますが、もっと決定的、結果的に「教会の宣教活動に関する教令(Ad gentes)」がそれを説明しています。
                
ただし、「教会憲章」で「神の民について」の章を採用したことと、それを「教会の聖職位階制度、特に司教職について」の章の前に置いたことを、公会議後のジャーナリズムは、教会のキリスト論的理解の否定、または相対化であるかのように説明したものです。「神の民」という言い方は文脈から分離され、そのことによって多かれ少なかれ教会を社会学的にだけ考察する道が開かれてしまいました。神秘がもうなくなってしまったのです。そのような考え方は教会から神秘性を排除してしまうのです。六十年代の終わり頃にできた文化的文脈が、公会議の選択的な読み方と教会観の新解釈に道を開きました。この新解釈には第二バチカン公会議に集まった司教たちによって大事にされた、その根本的問題点は消えています。わたしの研究のきっかけになった問題提起はこういう事情によって急進的なものになりました。ですから、実際には完全に歴史的研究は現代の戦いのただ中にあることになってしまいました。もし本書の再版が聖書と教父たちの伝統的考え方を深め、それによって第二バチカン公会議をよりよく理解させるのであれば、わたしの研究は与えられた使命を十分に果たしたことになります。
 
ローマにて
一九九二年七月二十四日
 
 
脚注
(原文のまま)
 
J. Ratzinger: Volk und Haus Gottes in Augustins Lehre von der Kirche (MThS.S7),
München 1954; Neudruck St. Ottilien 1992, S. XI-XX.
     
1)M.D. Koster, Ekklesiologie im Werden. Paderborn 1940. Neu gedruckt in dem von H.-D Langer u. O.H. Pesch unter dem gleichen Titel herausgegebenen Sammelband von Aufsätzen Kosters. Mainz 1971, S. 195-272.
2) E. Mersch, Le corps mystique du Christ. Etudes de théologie historique. 2 Bände. Löwen 1933.
3) S. Tromp, Corpus Christi, quod est Ecclesia. 3 Bände. Rom 1937-1960.
4) Cat. Rom. P I cap. X 2: "Ecclesia", ut ait S. Augustinus, "est populus fidelis per universum orbem diffusus"; in der kritischen Ausgabe von R. Rodriguez (Libr. Ed. Vat. - Ed. Univ. de Navarra 1989) S. 105, 38. Keiner der angegebenen Textbelege entspricht allerdings wörtlich dieser Formel; am nächsten kommt ihr En in ps 90, 2 CCL 39, 1266.
5) H. de Lubac, Corpus mysticum. Paris 19492.; deutch Einsiedeln 1969.
6) So zum Beispiel bei A. Wachtel, Beiträge zur Geschichtstheologie des Aurelius Augustinus. Bonn 1960; ähnlich auch in dem bedeutenden Werk von U. Duchrow, Christenheit und Weltverantwortung. Stuttgart 1970, S. 235f. Erste ergänzende Klärungen und Vertiefungen hatte ich schon in meinem Beitrag "Herkunft und Sinn der Civitas-Lehre Augustins "(in: Augustinus Magister II Paris 1954 S. 965-979) versucht. Ausführlich habe ich - auch im Gegenüber zu Wachtel und Duchrow - meine Sicht neu dargestellt in meinem kleinen Buch: "Die Einheit der Nationen". Salzburg 1971. Vgl. zu Duchrow auch meine Rezension im Jahrbuch für Antike und Christentum 16 (1973)185-189.