聖体拝領の仕方について
浦和教区長 ペトロ 岡田武夫
†主イエス・キリストの平和が皆さんとともにありますように。
尊敬する神父様、修道院長様、「キリストの聖体」の祝日を迎えるにあたり、皆さんに挨拶を送るとともに、聖体拝領の仕方について一言述べさせて戴きたいと思います。
最近、聖体拝領の仕方について若干の議論が行われ、教皇大使カルー大司教も昨年9月、各司教宛に聖体拝領についての「メモ」を送られました。そこでわたくしは、浦和教区長として、あらためて、浦和教区における聖体拝領の仕方を確認することが大切であると考え、この手紙を皆さんにお送りすることと致しました。
とはいえ、これからお伝えすることは決して新しいことではなく皆さんが既にご存じのことです。わたくしは、以下の事項を、神父様方、院長様方に確認して頂き、その内容を各共同体に伝えていただきたいと切望します。
(1)日本のカトリック司教協議会は1970年、教皇庁・典礼聖省(現典礼秘跡省)より、日本の教会において、聖体を手で受ける許可を受けました。この方法を申請した理由は、日本の文化・伝統においては、聖なるもの、尊いものを受けるときは、まず手で恭しく受けることが礼儀にかなったことであり、直接、口で受けるのはかえって失礼にあたるからです。そこで、成人がカトリックに入信するとき、できるだけ違和感を持たせないように、との配慮も加わり、各司教の判断と責任の下に、信者が手で聖体を受け、さらにそれを自分で口に持っていく、という聖体拝領の方法を採用する道を開きました。
(2)そこで日本の教会では聖体拝領について二つの方法が併存することとなりました。信者は自由にどちらかを選択することができます。新しい方法を導入するにあたって、教皇庁・典礼聖省と日本カトリック司教協議会・典礼委員会は、新しい方法を強制しないよう特に注意しています。そこで、浦和教区としては、先任の司教方に従い、従来通り、初聖体を受ける信者にはまず手で聖体拝領をする仕方と精神を説明し、そうするように勧めていただきたいと思います。しかし、その場合も、直接口で聖体を受けることを希望するものがいる場合は手で受ける方法を強制しないよう、配慮してください。
(3)キリストの聖体の祭日に際し、聖体の意味をあらためて説明し、聖体への信仰と尊敬を深めるように訴え、また必要があると判断するならば、聖体拝領の仕方についての日本の司教協議会の決定の趣旨をあらためて説明し、聖体拝領をめぐって無用の混乱と疑いが生じることのないよう、配慮してください。
22年前、聖体を手に授けることが許可されたとき、教皇庁・典礼聖省と、司教協議会・典礼委員会(当時の委員長は長江恵司教)より「聖体を手に授けるための手引き」が発行されています(典礼委員会秘書局編「典礼ニュース」6)。資料として、この指針と手引きを同封しますのでどうか参考にしてください。
6月17日は昨年、わたくしが浦和教区司教に任命された日であり、また、6月29日はわたくしの洗礼名であるペトロの祭日となっております。どうか皆さん、この機会にあらためて、弱きしもべであるわたくしのためにお祈りください。わたくしもこの機会をお借りして、皆さんのご健勝を願いながら、皆さんに使徒的祝福をお送りいたします。
(1992年6月17日、「司祭、修道者とともに」から)
岡田武夫司教様(日本カトリック司教団)への反論
成相明人
マリ・ジャック神父様が書かれたものが既に十分な反論になっていますが、以下に少しく付け加えることにします。
人となられた三位一体第二のペルソナ・イエズス・キリストをわたしたち罪人が食すること自体が、驚天動地の出来事です。これは日本人にとってだけでなく、世界のどの国のカトリック信者にとっても同じことです。ですから、御聖体におけるイエズス様の現存とその意味をよりヨリ深く理解するようになった教会は、御聖体を舌の上に受けることを世界的規範とするようになりました。日本の文化・伝統をことさら持ち出して手での聖体拝領の許可を願ったのは、日本は他の国と違う、日本は特別…という司教団の幼稚なナショナリズムがさせたことでしょうか。それとも、御聖体に対する不理解・不敬がさせたことでしょうか。
口で受ける聖体拝領も理論上は温存されています。でも、実際は多くの教会で禁止になっています。現に、舌の上に載せていただく聖体拝領を希望した信者は、司祭から耳を握られて無理矢理立たされ、手の上に御聖体を載せられるという暴挙もありました。これは十年ほど前、アメリカのカトリック新聞The National Catholic Registerに掲載されていました。舌の上に受ける御聖体拝領を拒否される信者がいても不思議ではありません。手での御聖体拝領を拒否したある鹿児島の信徒は、会衆の面前で司祭から大声で異端者呼ばわりされています。手での御聖体拝領導入以来、御聖体に対する尊敬は薄れ、聖堂内での飲み食い、喫煙、おしゃべり、服装の乱れは珍しくなくなりました。それは当然の結果です。御聖体のない教会、カテドラルも各地で建立されています。
典礼聖省の許可がある…と司教様方はおっしゃいますが、当時、典礼聖省を牛耳っていたのはアンニバーレ・ブニーニ大司教。彼はカトリック教会の破壊を図るフリー・メーソンでした。このことはイタリアの新聞などでも公にされています。日本司教団の請願にブニーニ大司教が許可を与えたのは当然のことです。当時、秋田で、シスター笹川かつ子が御聖体を受けるはずの左手の掌に神秘的な傷を受けて苦しんでいたのはあまり知られていないことです。日本の司教団は、秋田での諸々の出来事を喜びを持って受け止めていません。安田貞治神父様が書かれた「日本の奇跡 聖母マリア像の涙」(エンデルレ書店・定価2200円)をお勧めします。マリア像の涙、シスター笹川の左手にできた不思議な傷のことなどを考えるとき、わたしは日本に当時導入された手で受ける聖体拝領のことを思わずにはいられません。