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転載の許可あり

エンリコ・ゾッフォリ神父著
『新求道期間運動の異端』の付録より

最近、フランスにおられる友人の神父様から『ローマ通信』紙の1991年2月号を送っていただきました。その中にローマ在住の御受難会司祭であるエンリコ・ゾッフォリ神父様が著した『新求道運動の異端』という本の要約が載っていました。またエンリコ・ゾッフォリ神父の著書の付録がそのままフランス語に訳されて転載されていましたので、以下にそのまま日本語に訳してお知らせします。

ゾッフォリ神父様は同書の8ページでキコ・アルグエヨ(本名フランシスコ・アルグエヨ)とカルメン・エルナンデスの秘密の「カテキスム」の本は、何も変えられていないと証言しています。ゾッフォリ神父様は、新求道期間運動は現代世界の「非キリスト教化」に対して反対しようとするかのように見えながら、実は「キリスト教を根底から覆すことをねらったもの」であると書いておられます。『ローマ通信』の記事を書いた方は、「しかも教皇様の祝福をもって」この運動が奨励されていることを嘆いています。

以下の訳は、新求道期間に参加されている方を誰一人として攻撃するものではなく、ただそこで教えられている内容が、わたしたちの知りうる限り、またわたしたちの理解が正しい限り、カトリックの教えと乖離していることを指摘することを目的としています。

この本をお求めになりたい方はエンリコ・ゾッフォリ神父に直接申し込んで下さい。
Don Enrico Zoffoli, Piazza San Giovanni in Laterano 14, 00184 Roma, Italy

また、『ローマ通信』紙をイタリア語で購読なさりたい方は、以下に申し込んで下さい。
Si si no no,
Via Madonna degli Angeli, 14, 00049, Velletri (Roma) Italia,

フランス語で購読なさりたい方は、以下に申し込むことが出来ます。
Courrier de Rome, (Edition en francais du Periodique Romain, Si si no no),
B. P. 156, 78001, Versailles Cedex, France

カトリックの公教要理と
新求道期間の「要理」との比較

キリスト教の信仰が肯定する原則とそれに対立する新求道期間運動のえせ神学

公教要理

新求道期間の「カテキスム」

キリストはこの世を贖った。

キリストはいかなる贖いも成就しなかった

キリストの贖いの業の基本的な前提は罪という歴史的現実である。

人は罪を避けることが出来ないので罪と言うことはあり得ない

聖寵は、人間に必要でありながら、人間の自由選択を尊重する。

人は罪を犯し得ないので聖寵と自由選択能力の間の関係には、いかなる問題もない

イエズス・キリストは罪深い人間という家族の仲介者として天主の正義を宥め満足させた。

天主は憐れみ深く罪を赦す方なので、イエズス・キリストは天主の正義を宥め満足させることが出来無い

イエズス・キリストは十字架の祭壇の上で世の罪のためのいけにえとして自由に自らを捧げることによって天主の正義を宥め満足させた。

イエズス・キリストは世の罪のためのいけにえとして自らを捧げなかった。十字架の上でキリストはいかなる「犠牲」も捧げなかった。

イエズス・キリストはその御受難と御死去との功徳をもってこの世を救った。

イエズス・キリストはその御復活の力によってこの世を救った。

イエズス・キリストは目に見える位階制度をもった社会としての教会を通して救いのみ業をお続けになる。

教会は裁治権的に位階制度を持つ社会ではなく、カリスマ的社会である。

教会は位階制度の基礎となる司祭職の力によってその使命を果たす。教会は品級の秘蹟によって受けた礼拝の役務者としての「司祭職」と洗礼によってキリストの神秘体の一部となった平信徒の「司祭職」とを区別する。

洗礼は皆を唯一の最高司祭であるキリストの肢体の一部として属させるのに充分であるから、教会において品級の秘蹟に由来する「司祭職」というのは授与されない。

教会は祭壇の上で、イエズス・キリストによって十字架の上で捧げられた唯一の最も完璧な「秘蹟」として真の現実の「いけにえ」を捧げる。

イエズス・キリストはいかなるいけにえも捧げなかったので、祭壇の上ではいかなるいけにえも捧げられない。

ミサは、平信徒が参列・参与しているいないに関わらず、目に見える役務者を仲介としてキリストによって執行される真実の犠牲である。

「御聖体(ユーカリスチア)を宣言する会衆無しに御聖体はあり得ない。御聖体(ユーカリスチア)が生じるのはこの会衆からである」

御聖体の犠牲は、本質的に、パンとブドー酒がキリストの御体と御血とに全実体変化する2つの区別された聖変化による。

「全実体変化」というのは信仰の教義ではない。これはキリストの現存の「様式」を説明するために神学者たちが考え出した単なる試みである。

教会は聖別されたパンとブドー酒との形色の下に真に、現実に、実体的に、御体、御血、御霊魂、御神性において現存し給うイエズス・キリストを礼拝する。

御聖体(ユーカリスチア)におけるキリストの真の・現実の・実体的な現存は受け入れることが出来ない。また同様に「全実体変化」という奇蹟を推定することは信じるに値しない。祭壇に留まる、或いは、祭壇から落ちる聖体のかけらはこの「現存」を含んでいない。従ってこれを礼拝することが出来ない。

教会によって教えられた御聖体の現存は、いとも聖なる御聖体に対する礼拝を正当化している。ここから頻繁な聖体拝領、聖体訪問、聖体降福式、聖体行列、荘厳な聖体礼拝、聖体大会などの実践が生じた。またここからキリストの現存において取るべき態度の規定、また平信徒の御聖体に対する信心を増加させるべくあるすべての規定を旬する義務が生じる。

御聖体の現存は否定され、そこから生じる礼拝に関するすべての実践は、虚しく馬鹿馬鹿しい。

悔悛の秘蹟は洗礼の秘蹟とは現実に区別される。

悔悛の秘蹟は洗礼の秘蹟に収斂される。両者の区別は、初代教会には存在しなかった。

悔悛の秘蹟の前に起こる罪人の「回心」というのは、非常に個人的なことである。

「教会が…回心へと運び導く」

天主は、司祭の赦しによって罪の赦しを与える。

「重要なのは、司祭の与える赦しではない」「悔悛の秘蹟の…本質的な価値は、共同体的であり、宗教的であるということである。

自分の罪を弾劾して告白することは秘密に司祭の耳元でなされる。

罪の告白は公であり、共同体的である。

死にかかっている頑固な罪人は地獄に落ちる虞があると、教会は地獄という現実を信じている。

天主の憐れみのお陰で、時の終わりには、皆が救われるだろう。

教会の外に救いはない。

救われるために、すべてが教会に属する、或いはキリストの唯一の牧場の中に入るかのように教会に入ろうと努力する必要はない。

イエズス・キリストは唯一の贖い主であり師であるように、すべての信者が模倣するように務めなければならない聖性の唯一の範型である。

イエズス・キリストは人生のモデルとして提示されてはいない。

第2バチカン公会議は、その定義宣言が変更されることのあり得ないトリエント公会議と、全く調和している。[1]

第2バチカン公会議は今日と明日の教会のために有効な唯一の公会議である。他方でトリエント公会議は教会の生命において後退を意味する。

教会の教導職だけが聖書を解釈する資格を持つ。

「聖書はその類似(parallelismes)を通してそれ自体で意味が解釈される」

[1] この点で、わたしたちはゾッフォリ神父様に同意することは出来ません。第2バチカン公会議は、確かにキコが第2バチカン公会議をして言わしめようとしたことをすべて言ったのではありませんが、かといって現在教会を襲っている教義上、規律上の腐敗の起源となったことは確かです。第2バチカン公会議無しに、新求道期間運動のようにカリスマ的で異端的ないろいろな運動が世界中に蔓延することはなかったでしょうから。