百瀬文晃著 『イエス・キリストを学ぶ — 下からのキリスト論』を読んで
以下は、上智大学神学部教授でイエズス会士の百瀬文晃神父の『イエス・キリストを学ぶ — 下からのキリスト論』(初版1985年、サンパウロ発行)の読後感です。
著者は、そのはしがき(p1)に、この本は「過去数年間にわたって、上智大学神学部で行ったキリスト論の講義の要旨をまとめたものである」と書いています。ですからこの本を読むことによって、日本を代表するカトリック大学の神学部で何が教えられているかを知ることができます。以下、引用文の後の数字は特に指摘のない限り、上記著作のページ数です。またここでは、上記の本で主張されている内容の吟味を趣旨としており、著者の意向や人柄にふれるものではありません。ここでは特に「下からのキリスト論」の方法論を中心に論じたいと思います。
そこで著者の方法論について意見を述べます。あらかじめ申しておきますと、残念ながら「下からのキリスト論」は、客観的で歴史的・批判的・学問的な体裁を取りつつも、実は極めて主観的な「わたしの」キリスト論であり、キリスト教をその主観的な「わたしにとっての」キリストに基づかせるものであって、カトリック教会から既に異端として排斥された近代主義の焼き直しでしかありません。
キリスト論
わたしの理解が正しければ、著者はまず「歴史の中で一定の時間と空間に存在した具体的な人物ナザレのイエス」(p14)すなわち「歴史学的な研究の対象になる史的イエス」(p15)と「後の教会によって礼拝の対象とされたいわゆる『信仰のキリスト』」(p15)とを区別します。そしてキリスト論とは、この歴史上実在した「ナザレのイエス」が誰かという問い、つまり「自分はイエスを誰というのか。自分にとってイエスは誰なのか」と言う問い(p11)に対する「信仰者の答えの試み」である、と言い、「『イエスはキリストである』と答える、これがキリスト教の信仰の答え」(p14)であって、キリストという尊称は「自分にとって誰であるかを言い表すもの」と言っています。(以下強調、下線は筆者による)
そして「この述語に用いられている『キリスト』は、主語であるイエスが誰であるかを言い表そうとして信仰の表現である。だから、…この述語はその時代と場所のそれぞれの歴史的状況に応じて、そのつど新しく翻訳し直さなければならないものだ、…イエスが誰であるかという問に対する答えとして、その時々の歴史的状況の中で、新たに表現しなければならないものなのである」(p15)、従ってキリスト論の課題は2面あり、その1つは「ナザレのイエスの人格と使信についての研究」(p16)であり、「ナザレのイエスの人格と使信をまず歴史的・批判的に確かめること」(p16)であると論じています。
「下からのキリスト論」
著者が指摘しているように、伝統的教義のキリスト論では、わたしたちが使徒信経で唱えるような「まず三位一体の神が前提にされ、その神の第二位である子が、時の満ちるに及んで、人間の救いのために父のもとから遣わされて受肉したこと、さらに人間の罪をあがなうために、十字架上で犠牲をささげ、神と人間との和解をもたらしたこと、復活を通して父の右に上げられ、神の国の完成の暁には再び栄光をもって現れるであろうことを、その内容としている」(p19)と言えるでしょう。
しかし、著者は、このように教義化された「上から」のキリスト論でなく、下からのキリスト論を提案します。それは「ひとまずありのままの歴史の出来事に出発点を取り、ナザレのイエスとはどのような人格であり、何を意志し、どのようなメッセージを告げたのか、彼の死と復活という出来事は何であったのかを探求することを通じて、…ナザレのイエスの弟子たちが、イエスと親しく接し、その死と復活を通じて彼をキリストであると信じるに至ったように、その同じ課程を、『下からのキリスト論』はいわば追体験することを試みる」(p20)のです。
ですから、「下からのキリスト論」にとって「イエスがどのような人物で、どのように生きたか、何を語り、何を行ったかを、ありのままにとらえ、これを出発点にして、イエスの弟子たちがイエスに対して抱くようになった信仰を理解する」(p93)ことが重要になります。
「史実のイエス」
しかし、注意しなければならないのは「ありのまま」というのは、「聖書に書かれてあるそのまま」をとらえるのではないということです。
なぜなら著者によれば「新約聖書とは、現代的な意味での歴史の証言なのではなく、むしろ信仰の証言である。…イエスの弟子たちが、…その信仰を自分たちの言葉によって表現したものであり、…新約聖書の記述は、イエスをキリストであると信じる人々の信仰の表現であって、決して中立不偏の史実の報道ではない」(pp25-26)し、「福音書はあくまでも神の救いの業に対する信仰の証言であって、直接には歴史の資料ではない」(p29)からです。
著者は「新約聖書は、イエスの弟子たちによって、しかもずっと後になった書かれた」(p36)と言います。ですから「聖書に書かれてあるまま」は、真の史実ではなく、信仰という眼鏡を通して書かれた、歪められたキリストにすぎないのです。
ですから「聖書学的な無知から[ソノママ]、新約聖書の記述をそのまま歴史的な記述のごとく考えていた時代があったが、…私たちは信仰の記述の中から、今日の聖書学の歴史的批判的な研究の助けを借りて、史実のイエスを、苦労して取り出そうとするのである」(p26)と言います。なぜ苦労して取り出すのかと言えば「今日の歴史的な研究の常識から言って、…真に史実と確かめられる資料があまりにも乏しいから」(p29)だそうです。
新約聖書は「今日の聖書学の歴史的・批判的な研究によって」(p27)確実な歴史史料ではないと断言されています。しかしながらそれと同時に、フラヴィウス・ヨセフスの著述やタルムード、死海文書などは無批判に確実な歴史の史料として認められています。著者は福音書を「史料」とは書かずにあくまでも「資料」と書いていますが、これは誤植ではなく、意味があってのことなのでしょう。
更に「事実、既に新約聖書それ自体の中でも、わたしたちには信仰のキリストから全く切り離された形の史的イエスなどに到達することは不可能である」(p18)し、また「史的イエスと信仰のキリストとを完全に分離して考えることは出来ない」(p28)と論じ、もともと福音書からだけでは、本当の「史実のイエス」を完全には知り得ずに、おぼろげながらにしか本当のことは知り得ない、と主張されています。かといって、全くのでっち上げだと言いきるのではなく、何らかの「史実の核」だけは認めざるを得ないと主張してます。
推測にすぎない「史的イエス」
ですから「信仰が伝えているキリストの姿は、少なくともその本質的な諸点では、真の史的イエスに基づいていると言うことを、ある程度の確実性をもって主張しうると言って良い」(p28)のです。しかし、まず新約聖書の記述をそのまま受け入れるのではなく「この信仰の証言の背後に、歴史の事実を…推測する」(p29)のであり、それらの推測にはある程度の確実性しかありません。
それ故にこそ「下からのキリスト論」では、ひとまず福音書の史実性を疑い、どれが史実に近かったのかを探し出そうと推測します。このような例は枚挙にいとまありません。だからあるところでは「後にイエスに対する訴訟の理由として、神殿に対する不敬が挙げられているが、これは史実に近いものと推測される」(p61)と、また別のところでは「このような福音書の描写が後のキリスト者の信仰の表現であるにせよ、自分を通して神のゆるしがもたらされているという主張をイエスが事実上なしたことは、おそらく史実であろうと推測される」(p120)と述べています。
こうして、著者は「アバ、父よ」という表現についても「この言葉が、史実のイエスの口になる言葉(いわゆるイエスの肉声ipsissima vox)として確かめられる数少ない言葉の一つ」である、しかし、その他の表現は、弟子が自分たちにとっての「信仰のキリスト」の理解に従って、「史実のイエス」に言わせているものにすぎない、と考えています。例えば「人の子」と言う表現について「おそらくは黙示文学の伝統に立って、イエスの弟子たちはイエスこそ終末における神の支配の代理人であると理解し、この尊称をイエスに応用したのであろう」(p90)と言うのです。また別の箇所では、「上に引用した聖書箇所は、必ずしもイエスの口になるものだとは証明できない」(p141)などと断定しています。「下からのキリスト論」によれば、福音書が史実の記述ではなく信仰の表明であるので、別のところでは「大祭司の『あなたは、ほむべき者の子(=神の子)、キリストであるか』という問いは、すでに後のキリスト者の信仰宣言の言葉を用いており、訴訟の史実の叙述と言うよりは、マルコ福音書の記者が大祭司の問いと、これに対するイエスの答えというドラマを通して、キリスト者の信仰を表明しているのである」(p212)と断言しています。
「イエスの幼年時代の物語」と文学類型
例えば、「マタイとルカが伝えているイエスの幼年時代の物語は、…ずっと後代になって、改宗したユダヤ人の共同体の中で形成された。文学類型としては、ラビ文学のミドラシュに属するものと考えられる。ミドラシュは読者の信仰を深めるために、聖書の言葉や出来事を物語の形で粉飾し展開する」(p31)と語っています。
ですから「マタイとルカが伝えているイエスの幼年時代の物語」は後世の創作であって説話であり、物語であるというのです。そこから「…福音書の記述を科学的に証明しようとする試み、…いわゆる「歴史としての聖書」を…証明しようとする動き」は、「聖書の『物語』の文学類型をそのまま史実の記述と結びつけようとしている事実無根の前提からなされている」(p31)と主張します。
「福音書の歴史的・批判的な読み方に通じていなかった古代教会の教父たちは」(p44)聖書の記述をそのまま信じたが、むしろ「イエスこそダビデの子であるという信仰が、ベツレヘム誕生の物語を通して表現されているのである」と言い、新約といういわば「歴史史料ではない物語」を通して、史実ではなく信仰を読むべきであるとされます。
実際の出来事が起こったあとの「事後予告」
わたしたちの主イエズス・キリストの預言の言葉についても、著者は実際の出来事が起こったあとで、実はわたしたちの主イエズス・キリストがその事件が起こる前にそのようなことが起こるだろうと預言をしていたかのように、福音書がわたしたちの主イエズス・キリストに言わしめた、いわば偽の「預言」であったとしています。
例えば、エルサレムの滅亡の預言については「その言葉自体は、むしろ実際の出来事を経験した後に、福音書の記者がイエスの口に語らせた、いわゆる『事後予告』に属するものと考えてよいであろう」(p51)と言っています。また主の御受難の予告についても「これらの受難予告は、少なくとも福音書に伝えられている形においては、イエス自身の口になるのではなく、むしろことが起こった後に、それに基づいて福音書記者が構成した予告、すなわち「事後予告」(vaticinia ex eventu)と言うべきものであろう。とりわけ、その受難と死の模様を詳細に描く第3の予告については、そのできごとを体験した弟子たちが、これをイエスの口にのせて語っているものだ、と言うべきだろう」(p133)と主張します。
美化され変容された物語
著者によれば、福音書の記事はあくまでも脚色された「物語」なのです。つまり「幼年期物語」(p43)であり、「奇蹟物語」(p111)であり、「受難物語」(p148)なのです。あるいはまた「復活物語」(p162)であり、「出現物語」(p167)なのです。ですから「イエスの死のありさまを物語る伝承は、時代を経るに従って美化されていった」(p157)と言うことになります。
従って、例えばわたしたちの主イエズス・キリストが奇跡を起こしたことについて語って、「福音書の奇蹟物語の真意を理解するために根本的なことだが、それらが全てイエスの復活という出来事を体験した弟子たちによって、いわば色ガラスを通してみるように、復活信仰を通して生前のイエスの行為を思い起こして描かれて」(p115)おり、福音書の「イエスの生前の言葉と行動についての記述も、弟子たちが彼の死と復活というできごとを通してこれを新たに理解しなおし、その信仰によって書き記したもの」(p146)にすぎないのです。
「もちろん受難物語が多分に神学的な動機による叙述であり、神学的な関心…によって脚色されていることは疑いの余地がない。…そのようなキリスト論的なモティーヴが受難物語の全体を貫いている。
福音書の記者たちは、イエスの復活の光のもとに、イエスの受難と死をヤーウェのしもべの受難と死として、また神の意志による人類のあがないのための受難と死として描くのである。それは、決してそのまま史実を報告する記述ではない」(p148)、福音書によって史実を知ることは出来ないが、推測ならできるとして、「その(受難物語の)内容はかなり史実を忠実に伝えるものだと推測することができる」(p148)と言います。
復活についても「四福音書の最後の章に記されているイエスの復活についての物語…は、復活のケリュグマに比べてずっと後の時代に、様々の言い伝えの過程を経て、しだいに形成されたものである。福音書の記者は、彼らなりの編集の仕方で、言い伝えられた伝承を集め、脚色している。イエスの復活への信仰内容をいきいきとした、心に訴えるようなしかたで物語っている」(p163)と言い、「マルコによる空の墓の物語を分析すると分かることだが、これは多分に編集者の特定の意図によって構成されたものであり、決してそのまま史実の報告ではない、と言わなければならない…この物語が伝えられた背後には、偉人の墓を敬うという当時のユダヤ人の習慣に従って、キリスト者たちも毎年の記念の日にイエスの墓に集い、イエスの復活を通してなされた神の救いのわざをたたえ、その喜びを告げたのではないかと考えられる。そのような典礼の由来を説明する説話として、空の墓の物語がしだいに形成されたのだろう」(p165)と言っています。
聖書の主要な著者は神である
ところで、「今日の聖書学の歴史的批判的な研究」、あるいは以前の「高等批評」が何と言おうと、教会は常に聖書を神の言葉として受け取り、そう伝えています。教父たちにとって、聖書は神の言葉であって、聖書記者たちは聖霊の道具でした。これは、カトリック教会の通常教導権によって伝えられた信仰です。それは今日の聖書学の歴史的批判的な研究の無知からではありませんでした。
カトリック教会は特別教導権によっても繰り返し聖書の著者が神であることを宣言しています。例えば、フィレンツェの公会議(1441年)は、こう言います。
「聖なるローマ教会は、…同じ聖霊が霊感を息吹き、両聖書の聖人たちが語ったのであるから、唯一の同じ神が、旧・新約の、すなわち律法と預言及び福音の著者であると宣言する」(“Sacrosancta Romana Ecclesia … unum atque eumdem Deum Veteris et Novi Testamenti, hoc est lesis et prophetarum atque evangelii, profitetur auctorem, quoniam eodem Spiritu Sancto inspirante utriusque Testamenti sancti locti sunt.”)。
トレント公会議も(1545−1563年)も「唯一の神が両聖書の著者である」(“cum triusque unus Deus sit auctor” ) と言います。
第一バチカン公会議(1870年)も「聖霊が霊感を息吹いて書かれ、神が著者であり、そう言うものとして教会に伝えられた」(“Spiritu
Sancto inspirante onscrpti, Deum habet auctorem, atque ut tales ipsi Ecclesiae
traditi sunt.” )と宣言しています。
と言います。
第一バチカン公会議は、さらに「トレント公会議が聖なる正典と決定した聖書の中のすべての書物とそのすベての部分を認めない者,および神の霊感によって書かれたものであることを否定する者は排斥される。DzS 3029」と定義します。
聖書が見せかけだけの歴史書であることについての聖書委員会の決定
これは、1905年6月23日 DzS 3373、教皇聖ピオ十世の承認を受けています。聖書委員会は、1905年6月23日、聖書が見せかけだけの歴史書であることについて、こう返答しています。
問: 聖書の歴史書としてある諸書を、全面的に、或いは部分的に、固有の意味で言われ且つ客観的に正しい歴史ではなく、歴史の外見を取って言葉の固有の文字通りの意味以外或いは歴史的な意味以外の何らかのことを意味するために叙述されている、という命題を、正しい聖書注釈学の原理として認めることができるか?
解答:否定。但し、これは簡単に或いは軽率に認めるべきではないが、教会の反対しない見解があり、教会の判断により、確実な議論によって、聖書記者が真の固有の意味で言われた歴史を伝えるのではなく、歴史の外見と形式のもとに喩え、比喩、或いは固有の意味で言葉の文字通り或いは歴史的な意味から離れた何かの意味を提示しようと望んだと証明される場合を除く。
教皇聖ピオ十世の教令「ラメンタビリ」
教皇聖ピオ十世は、教令「ラメンタビリ」(1907年7月3日)で次のような命題を排斥しています。
排斥された命題9 神が本当に聖書の著者であると信じる者たちはあまりにも単純で無知な者である。
排斥された命題11 神の霊感(inspiratio divina)は、その全てと各々の部分を全ての誤謬から守っている程、聖書全体に行き渡るのではない。
聖書の不謬性(Inerrantia)
聖書の主要な著者が神であり、聖書記者が神の道具であること、聖書の全ての内容は霊感を受けて書かれていることからわたしたちは聖トマス・アクイナスと共にこう言わなければなりません。
「聖霊によって伝えられた聖書には誤りがあり得ない」(Scripturae enim divinae a Spiritu Sancto traditae non otest subesse falsum. (De Potentia, q. iv, art. 1, ad 6um) と。
なぜなら、真実であり真理そのものである神が間違ったり騙したりすることはあり得ないからです。神が嘘をつくことはあり得ないので、聖書の中に嘘がありえません。古代より教父たちはこう考えていました。特に聖イエロニモは聖書のいろいろな部分の間にはお互いに矛盾がないと言うことを説明しています。聖アウグスチヌスも「福音記者にはいかなる誤りもあってはならない」(“Omnem falsitatem abesse ab evangelistis decet, non solum eam quae mentiendo promitur, sed etiam eam quae obliviscendo.”)と言います。
確かに、カトリック教会は聖書の不謬性ということを特に荘厳に発表したことはありません。しかし多くの教皇文書を見ると、これは信仰の遺産の一部であると考えることができると思います。
聖トマス・アクイナスも「聖書に含まれていることは何でも真理であると取らなければならない、そうではなくその反対を取るものは異端である」( “Hoc tenendum est quod quidquid in Sacra Scriptua continetur verum est, alias qui contra hoc sentire esse haereticus.”(Quodlib. XII, q. 16, art. 2) と言います。
ありのままのイエズスを伝えるのはカトリック教会である
わたしたちは聖書をカトリック教会から受けました。しかも、聖書を誤ることも騙すこともない神の御言葉として受け取りました。カトリックの信仰をわたしたちの言葉で正確に伝えようとした、岩下壮一神父は次のように書いています。わたしたちは岩下神父の著作の中に、カトリック教会の変わらない教えを見出しますので、ここに引用したいと思います。
「救主(すくいぬし)イエズス・キリストの御生涯は、福音書に録されている。カトリック信者がこの記録を誤謬(ごびゅう)なきものとして受け入れ、その教訓を信仰道徳の規定とするのは、この書が神感によって録された神の言なることを教会の権威によって保証されているからで、単に歴史的詮索に基づくものではない。」(『カトリックの信仰』講談者学術文庫p380)
「福音書はイエズスの面影(おもかげ)を髣髴(ほうふつ)せしむるに止まって、主の生ける御姿をそのまま伝えうるものではない。いわゆる高等批評の混乱と個人的解釈の矛盾が、このことの最もよき証拠である。…我等は全きキリストを、聖書からではなく、全教会の普遍的な信仰生活から学んだからである。アウグスチヌスが「カトリック教会の権威が余を動かすにあらずんば、福音を信ぜじ」(Contra eq. Manichaei, c. V)と言ったのは、このいける事実を指した」(岩下壮一著『カトリックの信仰』講談者学術文庫p697)
福音書の成立
著者は、福音書は、四つのうち、マルコ福音書が最初に出来、マテオとルカがそれを参照したと考えているようです。それは「マタイとルカは、このマルコ福音書の構造に依存している」(p32)とか、「ルカが参照したと思われるマルコ福音書」(p51)という表現から分かります。
そして、伝承は、人から人に言い伝えられていくうちに、少しずつ強調され、大げさな描写に発展するのだから、福音書は史実ではないと言おうとされます。
「福音書の伝える奇蹟物語の伝承に関して、今日の歴史的・批判的な研究は、幾つかの重要な事実を指摘している。… 伝承史の研究が明らかにしているように、奇蹟物語の諸伝承が、古いものから新しいものへと時代がたつにつれ、その内容を拡大し、発展させている、と言う事実である。…たとえば、冒頭に引用したマルコの記述(注「イエスは、さまざまの病をわずらっている多くの人々をいやし、また多くの悪霊を追い出された」(マルコ1・34)のこと)では、イエスは「多くの」病人をいやすと言われる(1・34)が、マタイ福音書の平行箇所では、「夕暮れになると、人々は悪霊につかれたものを大勢、みもとに連れてきたので、イエスはみ言葉をもって霊どもを追い出し、病人をことごとくおいやしになった」(8・16)とあるように、「すべての」病人をいやすと言われる。またヤイロの娘をよみがえらせる話では、マルコ福音書では、ヤイロがイエスに、「わたしの幼い娘が死にかかっています。どうぞ、その子がなおって助かりますように、おいでになって、手をおいてやって下さい」(5・23)と言うが、マタイ福音書の平行箇所では、「わたしの娘がただ今死にました。しかしおいでになって手をその上においてやって下さい。そうしたら娘は生き返るでしょう」(9・18)と言う。あるいはまた、エリコの盲人をいやす話では、マルコ福音書では、一人の盲人とされている(10・46-52)のに対して、マタイ福音書の平行箇所では、二人の盲人ととされている(20・29-34)。伝承は、人から人に言い伝えられていくうちに、少しずつ強調され、大げさな描写に発展していくものである。」(pp113-114)
「マルコの伝える空の墓の物語は現存している最古のものであり、他の福音書はマルコを資料として用いている。」(p165)
聖マテオによる福音書の成立
しかし、聖伝はこれについて何と言っているでしょうか? 19世紀に至るまで、正確に言うとシュライアーマッハーがこれを最初に否定するまで、聖マテオが最初の福音書をヘブライ語あるいはアラマイ語で書いた、とされてきました。
例えば、フリジアのヒエロポリスの司教であった聖パピアス(紀元110年頃)が最初に聖マテオが最初に福音書を書いた人であることを伝えています。聖パピアスは、聖ポリカルポの友で聖ヨハネの弟子弟子でした。残念ながら聖パピアスの書物とされているものはわたしたちまで伝わりませんでしたが、エウゼビウスの著作の中にその断片が保存されています(Migne Grec XX col. 300)。エウゼビウスによると、パピアスは「マテオは(わたしたちの主の)御言葉(logia)をヘブライの言葉で(Hebraidi dialekto)集めsynetaxato(或いは「書きsynegraphato」)、それぞれがそれを翻訳した」と伝えたとあります。
聖イレネオ(紀元?年—202年)は、リヨンの司教で聖ポリカルポの弟子でした。聖イレネオは「マテオはヘブレオ人の中で(宣教しながら)彼らに書いて彼らの固有の言葉で福音書を与えた。他方でペトロとパウロはローマで福音を宣教し教会を強めた」(Migne Grec VII col. 844-845)と書いています。
オリゲネス(185年-254年)は、聖マテオが誰よりも先に改宗者のユダヤ人たちのためにヘブライ語で最初の福音書を書いたことを伝えています。(Migne Grec XX col. 581)
引用は、ここで止めますが、聖伝は一致して聖マテオが最初の福音を書いたことを主張しています。聖書委員会は1911年6月19日に、聖マテオによる福音書についての教令を発表し、聖伝を確認しています(第一、2の質問と答え)。
聖マテオの書いた福音書は、非常に早い時期にギリシア語に訳され、そのギリシア語はヘブライ語原文と、実体的に同じものでした。(聖書委員会の1911年6月19日に発表した、聖マテオによる福音書についての教令の第5の質問と答え)
1994年の12月、英国のオックスフォード大学のマグダレーン・カレッジにある写本の断片Magdalen Greek17の年代研究が、ドイツ人のカーステン・ティーデ (Carsten Tiede) によって発表されました。(Papyrus Magdelem Greek 17 (Gregory A Land P 64). A reappraisal, Zeitschrift Fur Papyrologie und Epigraphik 105 (1995) p. 13-20) ティーデは、結論として、これを「マテオの福音の最古のパピルスである。そして、これは二世紀末であるというよりも、むしろ1世紀末、イエルサレムの神殿の崩壊の後暫くしてからのものだ」としています。もし、エジプトに「1世紀末、イエルサレムの神殿の崩壊の後暫くしてからの」ギリシア語写本が既に伝わっていたとするなら、原文は当然それよりもずっと早い時期に発表されたものでなければならないと言えます。
聖書委員会の1911年6月19日に発表した、聖マテオによる福音書についての教令の第3の質問と答えは、いわゆるエルサレムの崩壊の「事後予告」についての説を否定しています。もし、これが「事後予告」であったとしたら、わたしたちの主イエズス・キリストのしたエルサレムの崩壊の予告とこの世の終わりとが、もっとよく区別されて書かれていたことでしょう。ですから、聖マテオの福音はティトゥスがエルサレムを陥落させる前に発表されたはずです。
またこれは、聖ルカによる福音書の発表(紀元62年)以前に出されたことになりますし、もしテサロニケ人への第一の手紙が聖マテオの福音書の後に書かれたものと言うことができるなら、聖マテオの福音書は、紀元51年の前に書かれたことになります。
ヘロデ・アグリッパの迫害(41年-44年)が起こり、使徒たちやキリストの弟子らが各地に散らされたのですから、聖伝が伝えているように、丁度そのころ聖マテオの福音書がおそらくパレスチナでパレスチナのユダヤ人らのため(聖イレネオ(Migne grec VII col. 844-845)アレクサンドリアのクレメンテ(Migne grec XX col. 265)オリゲネス(Migne grec XX col. 581) 聖イェロニモ(Migne latin XXIII col. 613)に書かれたのではないでしょうか?
聖マルコによる福音書の成立
聖伝によると一致して、第2の福音は、聖ペトロの弟子であり通訳であった聖マルコが書いたものであることを伝えています。聖書委員会の1912年6月26日に発表した、聖マルコと聖ルカによる福音書についての教令の第一の質問と答えも、これを確認しています。
聖伝(パピアス(Migne grec XX col. 300)、アレクサンドリアのクレメンテ(Migne grec XX col. 552)、オリゲネス(Migne grec XX col. 581-584)、エウゼビウス(Migne grec XX col. 172)、聖イェロニモ(Migne latin XXIII col. 621)など)と、聖書委員会の1912年6月26日に発表した、聖マルコと聖ルカによる福音書についての教令の第8の質問と答えは、聖マルコの源泉は聖ペトロの口伝えの教えであることを教えています。
聖アウグスティヌスは個人的な意見として聖マルコによる福音書の二次的な源泉として第一福音書のギリシア語或いはヘブライ語を挙げ、聖マテオを「まとめたもの」(Migne latin XXXIV col. 1044)と言っています。聖マルコはローマ教会のために、ラテン人のために、おそらくローマでこの福音書を書いたのでした。
3つの福音書の検証
では、著者の権威とするところの「今日の歴史的・批判的な研究」が指摘している重要な事実と「伝承史の研究が明らかにしている」ところを今、簡単に検証してみましょう。
本当に「奇蹟物語の諸伝承が、古いもの(マルコ)から新しいもの(マテオ・ルカ)へと時代がたつにつれ、その内容を拡大し、発展させている、と言う事実」があるかどうかを、少し調べてみることにしましょう。もし著者の主張が正しいなら、マテオの記述はマルコよりも、ルカの記述はマテオよりも大げさになっていてよいはずでしょう。では、実際はどうなっているでしょうか。
ここではバルバロ訳を参照し、マルコ・マテオ・ルカの順に引用してみます。順に話に尾ひれが付いて誇張されているかどうか、読み比べてみましょう。
悪魔払いの話
「夕暮れになり、日が落ちてから、人々は病人や悪魔つきをみなつれてきて、町中の人が戸の前に集まった。イエズスは、いろいろな病人を数多く治し、多くの悪魔を追い出された…」(マルコ1・34)
「夕ぐれ時になると、人々がたくさんの悪魔つきをつれて来たので、一言で悪霊をおい出し、病人をみなお治しになった。」(マテオ8・16)
「日が暮れてから、いろいろの病気にかかった病人をかかえていた人々が、その病人たちをイエズスのみもとにつれてきたので、イエズスは一人一人に手をおいてお治しになった。悪魔も多くの人から追い出されて…」(ルカ4・40-41)
ヤイロの娘をよみがえらせる話
「会堂の司の一人であるヤイロという名の人が来て、イエズスを見るとそのおん足下にひれ伏し、『わたしの小さい娘が死にかけております。あの子がなおって助かるように、家へおいでになって、おん手をおいてください』と切に願った。」(マルコ5・22-23)
「一人の司が近寄ってひれ伏し、『わたしの娘が、いま死にました。ですが、あの子のうえに、あなたの手をのべにおいでくだされば、あの子が、生きかえりましょう』といった」(マテオ9・18)
「会堂のかしらの、ヤイロと言う名の人がイエズスの足もとにひれ伏し、自分の家に来てくださいとたのんだ。かれの、十二歳ばかりのひとり娘が、まさに死にかかっていたからである。」(ルカ8・41-42)
エリコの盲人をいやす話
「ティメオの子バルティメオというめくらの乞食が、道ばたに座っていたが、ナザレトのイエズスだと聞くと、『ダヴィドの子イエズス、わたしをおあわれみください!』と叫びだした。」(10・46-52)
「道ばたに座っていた二人のめくらが、イエズスがお通りになるのだと聞いて、『ダヴィドの子よ、わたしたちをおあわれみください!』と叫んだ。」(マテオ20・30)。
「めくら(単数)は『ダヴィドの子イエズス、わたしをおあわれみください!』と叫びだした」(ルカ18・38)
これを読み比べてみて、果たして、「少しずつ強調され、大げさな描写に発展して」(p114)いると本当に言えるのでしょうか?
「下からのキリスト論」?
「下からのキリスト論」は、「ナザレのイエスの人格と使信をまず歴史的・批判的に確かめる」(p16)ために「信仰の記述の中から、今日の聖書学の歴史的批判的な研究の助けを借りて、史実のイエスを、苦労して取り出そうとする」(p26)のですが、ひとまず取るべき出発点である「ありのままの歴史の出来事」(p20)が、最初からもはや「ありのままの歴史の出来事」ではないのではないでしょうか。
なぜなら、福音書を最初から信じないからです。福音書を読んで、自分にとっての「史実のイエス」を取り出し、新約聖書を「今日の聖書学の歴史的批判的な研究の助けを借りて」読み、聖書成立以前の使徒たちが体験したとおりの「ありのまま」の「ナザレのイエスの人格と使信」を知ろうとするからです。
しかし、プロテスタントのパウル・ド・ラガルドは既にこう言っています。「一の明らかに限定され、且つそれ自身の確信ある教団によって提供される書籍の集成から、その集成に先立つ時代の教義を完全に知ろうとするのは全然不可能な業である。…新約聖書より教会教義の全体を導き出し得ざることは、あたかもドイツ商法法典よりドイツ国には刑法なしとの結論を為し得ざるがごとくである。…しかるが故に、我等はこれらの諸書(新約聖書)に矛盾することをキリスト教的と見なしてはならぬと同様に、単にそこに記録してないとの理由によって、その事を非キリスト教的と看倣してはならない。」(岩下壮一著『カトリックの信仰』p393からの孫引き)
岩下壮一神父はかつて、聖書の自由解釈と現代の高等批評の立場を論じてこう書きました。「プロテスタントの立場では、聖書はどうにでも勝手に解釈のできるものである。聖書の明文が邪魔になるときには、その史実性を疑えば足りる。而(しこう)してかかる疑問とその衒学的弁護とを、現代の否定的高等批評はいくらでも供給してくれる。これを遠くに求める必要はない。塚本氏のよんで「権威」とするハルナック、ジャクソン、レーキの諸家にゆけばいいのである。」(『カトリックの信仰』講談者学術文庫p390)
わたしたちはこれをもじって次のように言いたくなるのではないでしょうか。
「下からのキリスト論の立場では、聖書はどうにでも勝手に解釈のできるものである。聖書の明文が邪魔になるときには、その史実性を疑えば足りる。而(しこう)してかかる疑問とその衒学的弁護とを、今日の聖書学の歴史的批判的な研究はいくらでも供給してくれる。これを遠くに求める必要はない。著者のよんで「権威」とするモルトマン、カスパール、パネンベルク、ラーナーの諸家にゆけばいいのである」と。
福音書の歴史的価値の問題
岩下壮一神父は、福音書を一時仮に信仰の立場を離れて、これを単に普通の史料と看倣して、歴史的に信憑されうる性質を備えている書物か否かという、福音書の歴史的価値の問題について『カトリックの信仰』講談者学術文庫p399 et sq. に詳しく語っています。
「果たして彼らは忠実なる叙述者として、ありのままの史実を伝えたのであろうか。自分らの主観的の信仰なり思想なりに煩わされたり、時代精神に知らず知らず影響された結果、彼らがこうありたい、かくなくてはならぬ筈である、だから確かにそうだと信じた事柄を史実の枠にはめて描き出し、無意識ながらも宗教的熱情の産物を我等に残したのではあるまいか。」(pp439-440)
このような疑問に対し、岩下神父は「福音書ほど、全体にわたって作為の痕跡を留めぬ書は稀である」(p440)と言います。さらに、詳しく理由を述べ、福音書を想像の作品とする矛盾を指摘し、「普通の著述者が最も主観に煩わされやすき諸点について、かかる正直な保証を提供しうる福音史家を、史実に忠実ならずとは公平なる何人も考え得ぬところである。単にイエズス伝の史料と見ても、共観三書は吾人の信憑に値するという結論は、充分根拠あるものと言わねばならない。」(『カトリックの信仰』講談者学術文庫p444)と言います。
福音書に対する偏見
岩下壮一神父は更にこう書いています。「学者は一般に、ヘロドトスやツキジデスの歴史を大体において信憑するに足ものとしてギリシャ史を編み、批評家も未だ嘗(かつ)てこれを怪しんだことがない。然るに、ある物好きな詮索家(せんさくか)の研究によると、ヘロドトスの名を書中にはじめて載せたのはアリストテレスであって、これは前者の死後百年ばかりのことであり、第二の記載はローマの弁舌家キケロの著述中に見出され、これはさらに三百年を経た後のことで、すなわち著者の死後四百年を経ているそうだ。ツキジデスの名をはじめて典籍に発見するのも死後三百年、同じくキケロの書中にあるという。一般にその歴史的価値が認められているその他の古典についても、大略類似のことが言える。これを福音書の…内証外証に比すれば、雲泥もただならぬ差異がある。かくのごとく福音書よりは何百年かの昔に書かれ、その歴史的価値の外証がかくのごとく薄弱な史籍が議論もなく受け入れられるに反して、福音書に限って例外的の特殊扱いを受けるのは、何か別に理由がなくてはならぬ。ある論者のごときは、福音書の記事をほとんど同時代のユダヤ人史家ヨゼフスの歴史によって批判せんとする。その言うところを聞くに、福音書は最初から怪しい信用のならぬ書で、ヨゼフスは絶対に信憑するに足るかのごとき語調である。…昔パスカルは言った「余は、その証言のために己の首を差し出すことを辞せぬ証人は、喜んで信用する」と。古代において、福音書に記された事実の真理を証するために命を捨てた人は、数限りなくある。ヨゼフスの諸説のために死んだ者は、古往今来ただの一人もあるまい。…」(『カトリックの信仰』講談者学術文庫p448-449)
これについて、茨木晃神父も同じことを言っています。「新約聖書そのものは、古代文学の唯一の例として、早くから筆写され、広く伝えられた。そして古(いにし)えから諸言語への翻訳が出来、多くの著書に引用されている。写本と言えば、あらゆる古代の名著と比較にならないほど、多く保存されている。その数は4270までに上る。写本の古さから見れば、4世紀まで遡る写本であり、…これらは羊皮紙に書いてある。パピルスの破片は、2世紀の初め頃まで遡る。…これに対して、古代文学の幾つかのデータを見るだけで、新約聖書の歴史的な価値を確認できる。…ヘロドトス(Herodotus 484?-425?BC)は、優れたギリシアの歴史家である。ところが彼についての最も古い言及は、ヘロドトスの死後100年以降で、有名なギリシア哲学者アリストテレス(Aristoteles 384-322 BC)の著書の中にある。第2の言及は、死後400年以降のローマの文学者チチェロ(Cicero 106-43 BC)によるものである。しかし、誰もが、ヘロドトスの実在を疑ったことがない。…トゥキュディデス(Thukydides 460?-400? BC)という、もう一人の歴史家についての最初の言及は、彼の死後300年以降、キケロの著書の中に見られる。…ヨーロッパの全部の図書館に保存されているあらゆるローマ文学の写本は、紀元4世紀以降のもので、同4世紀に属する写本は30だけである。…ローマの最も優れた雄弁家キケロ…の演説の最も古い写本は、紀元8世紀のもので、バチカン市国の図書館に保存されている。」(『新約聖書の成立について…その27巻は、誰に、いる、どういうきっかけで書かれたのか…』中央出版社発行1990年p141-143)
(ここで、茨木晃神父の言う「トゥキュディデス」と「チチェロ」は、岩下壮一神父のいう「ツキジデス」であり「キケロ」のことです。)
フラヴィウス・ヨゼフス
著者は、こう書きます。「今日の歴史的な研究の成果として、次のような基本的データは、ある程度まで確かなものとして、肯定することができる。ナザレのイエスは、おそらく紀元前6年か7年頃に生まれ、紀元後30年まで生きていた。ルカ1・5とマタイ2・1は、イエスがヘロデ大王の統治下に生まれたことを記しているが、これが史実であるとすれば、イエスの誕生はそれ以前でなければならない。…ルカ2・1には、「アウグストの命によってシリアの総督クレニオが行った人口調査」とあるが、…シリアの総督クレニオという人物の方は不明である。フラヴィウス・ヨゼフスの『ユダヤ古代史』によれば、クイリニウス(クレニオ)の人口調査は紀元後6年に行われている。これはヘロデ大王の統治の時と一致しない」(p30)と。
フラヴィウス・ヨゼフスはユダヤの司祭の子で、自分自身も司祭でした。外交官としての名を勝ち得て追放されたユダヤ司祭達を守るため、紀元後65年、ローマに派遣されました。67年にユダヤ人たちがローマに対して戦争を起こし、ヨゼフスはガリレアの領土の担当となり、ヨサファトの谷に閉じこもりました。ローマ軍によって包囲されると、軍を率いていたヴァスパシアヌスと会い、ヴァスパシアヌスがローマ皇帝になるだろうと預言し友好を結びます。70年にエルサレムがティトゥスによって包囲されると、ユダヤ人たちに降伏を呼びかけ、幾人かの命を救いますが、裏切り者という名を受けてしまいました。ヨゼフスはエルサレムの神殿と都市の大部分の崩壊を妨害しようとはせず、ローマ軍と共にローマに戻ります。ヴェスパシアヌスが果たして皇帝となると、皇帝の名前からフラヴィウスと言う名を自分の名に付け加えるようになりました。ヨゼフスはヘブライ語で執筆を開始し、後に自分の著作をギリシア語に翻訳します。主要な作品は『ユダヤ戦記』『ユダヤ古代史』『自叙伝』『アピオン論駁』です。
中世には『ユダヤ戦記』『ユダヤ古代史』の写本が12ありました。しかし全てそれぞれかなり大きな食い違いが存在していました。1881年にはドイツ人のニーゼ(Niese)がベルリンで『ユダヤ戦記』『ユダヤ古代史』に関して現在最も確実だと考えられている批判版を出版しました。
フランスでは1902年と1932年の間にテオドール・レナック(Theodore Reinach)が、このニーゼの批判版を元にこの2冊をフランス語に翻訳しました。
ラドミロの百科事典(La Grande Encyclopedie de Ladmirault, Paris, 1893)には、ヨゼフスについて「自慢家で傲慢、気取り屋で自分の都合の良いように歴史を改竄する…」とあるそうです。
ヨゼフスの誤り
ヨゼフスがよく知っていると言っている聖書について例えば、テオドール・レナックは次のような誤りが指摘しています。
(1) エズラの書(6: 15)によると、神殿は、ダリオの統治の6年目、アダルの月の3日目に完成したとあります。これは、紀元前515年の4月1日のことと計算されます。『ユダヤ古代史』(11巻179章)によると「全てはクセルクセスの28年の第9の月に完成した」とあります。もしこれが本当なら、聖書の記述よりも45年も後のことになります。しかし、これは不可能なことなのです。なぜなら、クセルクセスは21年(ある人によると14年)しか統治しなかったからです。
(2) ヨゼフスはノエの方舟の残骸が、エデッサ(現在のウルファ)の南東にあるカレス(Carrhes)と言うところに今でも見えると言っています。しかしこれはアララト山から600km離れた所にあるのです。
(3) マカベオの書(上6章)によるとアンティオコは「歩兵10万、騎兵2万、戦いに慣れた象32頭」の軍勢となっていますが、『ユダヤ戦記』(1巻41章)によると、歩兵5万、騎兵5千、戦いに慣れた象80頭となっています。しかもヨゼフスはアンティオコ5世とアンティオコ6世とを混同しています。
その他の誤りもいくつか指摘されています。例えば
(1) 『ユダヤ古代史』(12巻9章366節)には、マカベオの書(上6章)の記述のまま、アンティオコは「歩兵10万、騎兵2万、戦いに慣れた象32頭」の軍勢としていますので、『ユダヤ戦記』(1巻41章)で書いていたことを自己矛盾をおこしています。
(2) 『ユダヤ戦記』(1巻2章68節)では、「ヒルカノは33年統治した」とあります。しかし『ユダヤ古代史』(13巻299節)ではヒルカノは31年統治したことになっており、『ユダヤ古代史』(20巻)では30年しか統治しなかったことになっています。
(3) 『ユダヤ戦記』(1巻3章70節)では「アリストブロは追放から戻って471年後に王位に就いた」ことになっています。『ユダヤ古代史』(13巻301節)では481年の後となっています。事実は490年後のことでした。
(4) 『ユダヤ戦記』(1巻4章93節)では、アレクサンデルには騎兵千、傭兵八千、ユダヤ人一万あり、その敵には騎兵三万、歩兵一万四千あったとあります。しかし、『ユダヤ古代史』(13巻377節)では、アレクサンデルには騎兵六千二百、傭兵二万、ユダヤ人二万あり、その敵には騎兵三千、歩兵四万があったことになっています。
(5) 『ユダヤ戦記』(1巻4章105節)には、アレクサンデルはガマラを占領しそこからデメトリオ総督を追放した」とあります。しかし、『ユダヤ古代史』(13巻394節)には、アレクサンデルはデメトリオの「服をはぎ取る」あるいは「殺す」ことになっています。
(6) 『ユダヤ戦記』(6巻4章270節)では、ヨゼフスは神殿の建設からその崩壊まで1130年を数えています。しかしその数ページ後(440節)には、ヨゼフスは「1179年の年月が流れた」と書いています。
(7) 『ユダヤ古代史』(15巻11章1節)には「ヘロデは、その統治の第18年目に神殿の復元・修復(epeskeuaze)を開始する」となっています。しかし『ユダヤ戦記』(1巻21章401節)によれば、「それは第一5年目のことである」となっています。
(8) 『ユダヤ古代史』(14巻158節)には紀元前47年にヘロデは25歳ではなく15歳であったとあります。しかしこれは明らかな誤りであり、ヘロデは25歳であったはずなのです。しかしニーゼはここの批判テキストを作るときヨゼフスが誤りを犯したことを認めています。なぜなら、ギリシア語版にはpente kai dekaすなわち15とあり、続いてgeos pantlpasinつまり「極めて若い」であったと言っているからです。古代において15歳というのは「若者」や「青年」でしたが、25歳はすでに「若者」はなかったからです。
またヨゼフスによればヘロデは神殿を美化し、神殿正面を高くしそこにカエサルに捧げられた金の鷲を付けました、これは修復であって、第3の神殿を再建築したわけではありませんでした。しかもヨゼフスはこの事業には1年と5・6ヶ月がかかったと言っています。また、ヨゼフスによると、神殿の修復は、最終的にはローマ軍によって破壊される直前に完成したことになっています。
ですから、これはわたしたちの主イエズス・キリストとの話し相手が言っていた46年(ヨハネ2: 20)と言うこととは関係がないと言わなければなりません。ヨゼフスをよく読むと、通説の「神殿の再建が、ヘロデの15年目(すなわち紀元前19年)から私たちの主イエズス・キリストの公生活の始まる(紀元後27年)まで続いていた」というのは、不正確です。
また、福音書にも「この神殿を建てるのには46年かかったのに、あなたは3日で建て直すのですか」(ヨハネ2: 20)と書かれており、ギリシア語では、Tessaraconta kai ex oikodomete o nao kutosであり、ブルガタ訳では、Quadraginta et sex annis, aedificatum est templum hoc.となっています。これをもって「46年かかって神殿を今やっと建て終わったばかりだ」と読ませるのは、勝手な想像だと言わなければならないからです。
クィリニウス
聖ルカの福音によるとクィリニウスQuiriniusは、聖家族がベトレヘムに行くことになった人口調査の時シリアの総督だったとされています。「そのころチェザル・アウグストゥスから、全世界の人口調査を命じる詔勅が出た。この人口調査は、キリニオ(クィリニウス)がシリア総督だったときに行った調査の前のことだった。」(ルカ2: 1-2 バルバロ訳による)
ブルガタ訳では、Haec descripio prima facta est a Praeside Syriae Cyrino. となっています。
ギリシア語では、Aute apographe, prote, egeneto egemoneuentos tes Surias, Kuriniou.となっています。
ギリシア語のテキストでは、固有名詞に他の読みがあってKuriniouの他にKur(e)inouと読むものもあります。またproteと言う単語はprotera(「の前の」という意味)でもあり得ると認められています。
フラヴィウス・ヨゼフスはクィリニウスの命令を紀元後6年にしています。もしこれが本当だとすると、キリストは紀元後6年に生まれたことになります。しかし、ヨゼフスの提示する数字はあまり信用にならないことは既に見てきたとおりです。
もちろん著者は、「今日の歴史的の研究の成果として」(p30)また「今日の聖書学の研究」(p31)の権威を持ち出し、あくまでフラヴィウス・ヨゼフスを疑うことはせず、むしろ福音史家であるルカの方が間違っていると疑います。「フラヴィウス・ヨゼフスの『ユダヤ古代史』によれば、クイリニウス(クレニオ)の人口調査は紀元後六年に行われている。これはヘロデ大王の統治の時と一致しない。ルカはクイリニウスではなく、他の総督のことを間違って言っているのであろうか」(p30)と。
エウゼビウス(Migne grec XIX, col. 530)と聖イエロニモ(Migne latin XXVII, col. 557)によると、Cyrinusは、「キリストの生まれた年に」(聖イエロニモ)あるいは「キリストの生まれる前の年に」(エウゼビウス)人口調査を実施するために、カエサルの命令とある元老院勧告 (senatus consultus) によってユデアに派遣されたと言っています。
ヨハネス・マララス(Migne grec XCVII, col. 351 et sq.)は、Cyriniusは、執政官でキリストの生まれるときにシリアの長官であったと言います。
聖ユスティニアヌスは、ハドリアヌス皇帝(在位117-135)に捧げられた『護教』の中で「イエズスはベトレヘムすなわちエルサレムから35スタディオン(1スタディオンは約180m)離れたところにある村に生まれました。それは陛下のユデア初代総督(Preside)であったCyriniusによって実施された人口調査の古文書をご覧になっても分かる通りです。」と言っています。
わたしたちの主イエズス・キリストの聖誕の年
話題が少し逸れてしまいますが、わたしたちの主イエズス・キリストの聖誕の年について、少しふれておきます。
カイサリアのエウゼビウス(265年-340年 Migne grec XIX, col. 530 et sq.)は、わたしたちの主イエズス・キリストが第194回目オリンピック大会の第4年に生まれたこと、またキリスト降誕の第3年目にヘロデはベトレヘムの全ての2歳以下の男の子を殺したこと、わたしたちの主イエズス・キリストの御受難は第203回目オリンピック大会の第1年目(西暦33年に当たります)、すなわちヘロデ(アンティパス)の統治第一8年目、ティベリウスの第18年目(ティベリウスは現在の数え方で西暦14年の8月末に皇帝になったので、ティベリウスの18年は、厳密には西暦33年8月から34年8月まで)であったことを報告しています。また、ヘロデ(大王)はオクタヴィアヌスとローマ元老院によってユデア人の王と任命され、その時以来37年間統治し、現代の数え方で西暦5年に死んだ、と書いています。
カイサリアのエウゼビウスは、さらに( Migne grec XIX, col. 287.)カエサル・アウグストゥスは56年と4ヶ月統治したと書いています。因みに、アウグストゥスの第42年目は、現代の数え方で紀元前1年の4月から西暦1年の4月までに当たると言われています。
聖イエロニムス(347年-420年 Migne latin XXVII col. 559 et sq.)によると、ヘロデ大王の32年、アウグストゥスの42年に、神の御子、イエズス・キリストはユデアのベトレヘムに生まれた、と述べています。彼によると、現代の数え方で西暦30年にわたしたちの主イエズス・キリストは洗礼を受け、33年に御受難を受け、34年には聖ステファノの殉教と聖パウロの回心があり、41年には聖マテオがまず最初に福音を書いた、とあります。
聖ユスティヌス(100年-163年 Migne grec VI, col. 383 et sq.)は、ハドリアヌス皇帝に提出した『護教』の中で「陛下がポンシオ・ピラトの報告書を参照してもお分かりの通り、ピラトはティベリウスとローマ元老院にキリストの受難と復活について、またキリストによって、或いはその名によって、または彼の弟子らによってなされた不思議な業について報告しています。」と書いています。彼によると、キリストの受難はティベリウスの17年(西暦32年8月から33年8月まで)でした。ピラトがティベリウスにキリストについての報告書を書いたこと、それが記録文書として保存されていたことは、テルトゥリアヌス(155年-222年 Migne latin I. Apologetica Lib I, c XXI.)も、アンティオキアの聖ルチアノ(235年-312年)も記しています。
テルトゥリアヌスは、『ユデア人論駁』(Migne latin II, col. 630)に、キリストの死に際して太陽が真っ昼間に暗くなり、地上は闇に包まれたと言います。
異教徒の歴史家フレゴン(Fragmenta Historicum graecorm, Didot, Paris, 1849, tome III, Phlegon, L. 13, c 14)は「第202回のオリンピック大会の第4年目(これはローマの暦では第203回オリンピック大会の第一年目と同じ年で、現代の西暦33年に当たります)、今まで見たこともなかったような異常な日食があり、昼の第6時(現代の数え方で昼の12時から午後3時までの間のことです)、星が見えるほどの夜となった」と言っています。
ヨハネス・マララス(491年-578年)は、ギリシア語で『クロノグラフィア』を書きました。その第一0巻に「アウグストゥスの第42年の第4の月、ヤヌアリウスの月(1月)のカレンダエの第8日前の日(12月25日のこと)、昼の第7時にわたしたちの主イエズス・キリストはベトレヘムでお生まれになった」と言っています。
スルピチウス・セヴェルス(360年-420年 Migne latin XX, col. 144)も、ヘロデの33年、ヤヌアリウスの月のカレンダエの第8日前の日、キリストが生まれたこと、キリストがヘロデ・アンティパスの24年(24歳のこと)に十字架に付けられたこと、と記しています。
聖エピファノ(315年—403年 Migne grec XXIII, col. 902 et 978)も、キリストはユリアヌスの45年、第194回目オリンピック大会の4年目に生まれたと言っています。
ここではこれ以上引用しませんが、多くの教父や古代の歴史家たちは、わたしたちの主イエズス・キリストが紀元前1年の12月25日にお生まれになったことを証言しており、これはルネッサンスの頃まで1500年間の伝統でした。
わたしたちの主イエズス・キリストの聖誕の年やフラヴィウス・ヨゼフスについては、Sur les dates de naissance et de mort de Jesus par Hugues de Hanteuil, Edition Tequi (Paris) 1988を参照にしました。上の引用はここからの孫引きです。
死海文書
著者は、「当時のユダヤ教の内部に存在した宗教的派閥として、見落としてはならないものにエッセネ派がある。エッセネ派については、福音書の中では一度も言及されていないが、キリスト教以外の古文書、中でもアレキサンドリアのフィロンやフラヴィウス・ヨゼフスなどの著述の中では、かなり詳しく述べられている。とりわけ今世紀半ばに発見された死海文書と、それを所有していたクムランの宗団(エッセネ派に属すると考えられている)についての研究を通して、彼らの生活と思想がイエスの在世時のユダヤ世界に大きな影響を及ぼしていたこと、さらに原始キリスト教団と新約聖書の成立にも深い関わりを持っていたことが明らかになっている」(p72)と書いています。
しかし、これは単なる仮説にすぎないのではないでしょうか。たしかに通説では、紀元前1世紀からエルサレムの陥落(紀元後70年)まで、エッセネ派と呼ばれるユデア人の宗教団体が存在し、クムランにある共同体本部を中心に「修道的な共同体」(p73)を形成し、「エルサレムの神殿を中心とするユダヤ教とその指導者たちとは別個に…一種の修道生活を送っていた」(p72)ことになっています。紀元後68年、第一次ユダヤ戦争においてヴェスパシアヌスの軍隊が南下してきた際に(或いは紀元後70年、ティトゥスによってエルサレムが包囲された時)エッセネ派の人々は自分たちの大切にしていた巻物を洞窟に隠したとされており、それが1947年以来発見された死海文書であるとのことです。死海文書にしばしば出てくる「義の教師」と呼ばれる人物が「クムラン宗団を創立若しくは指導した人物であったと考えられ…彼の周りに、律法に忠実な司祭達や信徒たちが集まって宗団と作った」(p74)のであり「エルサレムの大祭司と対立しこれを『悪しき祭司』と呼び、…非難している」(p74)のです。
ところで、わたしたちがエッセネ派についてもっているテキストは、アレキサンドリアのフィロンの1つのテキストと、フラヴィウス・ヨゼフスの2つのテキスト、古プリニウスの編纂したものが1つ、ユダヤの砂漠の写本と紀元後7世紀の総大司教ティモテオの1通の手紙だけなのです。
アレキサンドリアのフィロンは、ローマ皇帝カリグラのもとに派遣され、ユダヤ団体を弁護する任務を受けていた1人でした。このユダヤ団体は自分たちのことを「聖徒」と呼んでおり、アレキサンドリアのフィロンは、このことをギリシア語でessaioi或いはessenoiと訳していました。しかし、アレキサンドリアのフィロンは彼らについては直接は知らず、伝聞としての知識しかありませんでした。彼は修道生活についても、修道院についても、洞窟に住んでいる修道士についても、「義の教師」についても語りません。彼はただ紀元後1世紀中葉に存在していたある一つの共同体のことを語っているのです。それだけです。
フラヴィウス・ヨゼフスは、人からの伝え話ではなく、自らバンヌスというエッセネ派のグループに身を置き、1年を過ごしました。しかし、ヨゼフスは一度も食事の儀式に参加することを許されず、バンヌスから離れます。しかし、彼のエッセネ派に対する証言は直接のものである故に、信頼するに値すると言えるでしょう。
そしてそれと同時に、わたしたちがここで注意を喚起したいのは、たとえ1年しかエッセネ派と接触していなかったとしても、もし直接証人であるが故に、ヨゼフスの証言を信頼するとするならば、わたしたちの主イエズス・キリストを直接に見て、直接に話をし、直接その御体に触れた弟子たちの書いた福音をどうして直接の証人の史料として信頼することが出来ないのか、と言う点です。例えば、聖ヨハネはその第一の書簡でこう言っています。「初めからあったこと、わたしたちの聞いたこと、目で見たこと、眺めて手で触れたこと、すなわち命の御言葉について、…そうだ、この命は現れた、わたしたちはそれを見て証明する。御父のみもとにあって今わたしたちに現れた永遠の命をあなたたちに告げる。…、あなたたちをわたしたちに一致させるために、わたしたちは見たこと聞いたことを告げる」(1ヨハネ1: 3)と。
ユデアの砂漠の写本は、共同体の人たちは自分たちのことを「聖徒」あるいは「聖徳の人」と呼び、或いは「選ばれたもの」「貧しきもの(ebionim)」とか「義人の子(bene sedec)」と呼んでいたことを書いています。彼らは「義の教師(more sedec)」の弟子らで、この「義の教師」は油を注がれたものであり、自分自身は予言者ではないのですが、全ての予言者を「解釈するもの」と言います。食事の儀式に関しては、フラヴィウス・ヨゼフスの描写とほとんどそっくりです。
いくつかの疑問
わたしたちは、死海文書とエッセネ派について、次のような疑問を投げかけることができます。
エッセネ派についてわたしたちが知っているテキストは、むしろ紀元後1世紀のある共同体について当てはまるのであって、エッセネ派が紀元前に存在していたとは言えないのではないか、という疑問です。なぜなら、
(1) 新・旧約聖書がエッセネ派について何も語っていないこと。
(2) ユデア教のラビによって書かれた文書もエッセネ派について、何も語らないこと。
(3) 4世紀に至るまで、教父も教会の歴史家もエッセネ派について沈黙を守っていること。
(4) 教父で最初にエッセネ派について語ったのは聖イエロニモでしかないこと。(これらの沈黙のためにデル・メディコは『エッセネ派の神話』という本を書いている程です。H. E. Del Medico: Le Mythe des Esseniens des origines a la fin du Moyen Age. (Plon, 1958) 参照)
(5) 「義の教師」に当たる人物がマカベオ時代の敬虔なユダヤ人の中に存在していないこと。
(6) 洞窟の中或いは荒れ野で一人で隠遁生活をすると言うのが宗教家の普通の生活様式の国であるにもかかわらず、エッセネ派は共同生活による修道生活を送っていたことになっていること。共同生活による修道生活はむしろキリスト教によるものであること。
以上の点があるからです。
ですから、「原始キリスト教団の宣教や生活にも、新約聖書の記述にも、クムラン宗団の生活や思想が大きな影響を及ぼしたことが疑い得ない」(p77)というよりも、事実はその反対だったのではないでしょうか。特に「貧しきもの」「聖徒」などによって書かれた写本は、むしろユデア・キリスト教徒(ユデア教を捨てきれずその律法に固守したキリスト教の異端者)だったと考えられるのではないでしょうか。なぜなら、超ファリザイ的な形式主義で、律法の汚れを忌み憎み、あまりの「規律」主義を標榜しており、これはあまりにもわたしたちの主イエズス・キリストの教えとは反対であるからです。原始キリスト教団の宣教や生活また新約聖書の方が、エルサレムの大祭司と対立しこれを「悪しき祭司」と呼んで非難するけれども、律法にしがみついたままのクムランに住むユダヤ教徒たちに、大きな影響を及ぼしたというのが事実だったのではないでしょうか。
わたしたちは、キリストを知るためにこれらの疑問をもった文書に頼る必要はないと思います。
カトリック教会が教えるキリスト
カトリック教会は、使徒信経で唱えるように「天地の創造主、全能の父なる神を信じ、又その御一人子、わたしたちの主イエズス・キリスト、すなわち聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ、ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架につけられ、死して葬られ、古聖所に下りて三日目に死者のうちよりよみがえり、天に昇りて全能の父なる神の右に座し、かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来たり給う主を信じ奉る。…」と信じることを教えています。
ですからイエズス・キリストが誰であるかと問われれば、わたしたちは教会が教えたように答えるのです。すなわち以前の公教要理がわたしたちに教えているとおり「イエズス・キリストとは人となり給うた神の御子すなわち三位(みつのペルソナ)の中の第2位であります」と答えるのです。そして教会はこのキリストの神性の信仰を絶えず固守してきました。「アリウスの異端が生じるに及び、325年ニケア公会議はキリストが『神よりの神、光よりの光、神の神よりせる真神』なることを厳に宣言して、キリストの神性が天父のそれに全然同一なることを、『父と同じ本体を有す』という歴史的になれる一句を追加することにより、疑いを入れる余地なからしめ、子は父に劣ると主張せし従属主義を一掃し去った」(岩下壮一著『カトリックの信仰』講談者学術文庫p292)のです。わたしたちがキリストについて何を信ずるべきかは、教会によって精密に定義されているのです。
カトリック教会は、この歴史上実在したナザレトのイエズスを、自分は誰というのか、自分にとって誰なのか、「私のみたキリスト」は誰なのか、ではなく、真に・現実に・本当に(アーメン、アーメン!)イエズスは真の神であり真の人であると言い、わたしたちの主イエズス・キリストと言うのです。
「自分にとってのキリスト」や「私のみたキリスト」を追究する人たちについて岩下壮一神父が既にこう書いています。
「現実のキリストとそのメッセージに対しては、全然風馬牛(ふうばぎゅう)である。教会の信条は、初代信徒の熱情的想像の所産にすぎないという。彼らは、新約聖書の物語るキリストによって教えられることを欲しない。キリストの真理はすなわち、彼ら自身がキリストについて勝手に作る真理(?)なのである。救主(すくいぬし)は自分自身である。まず「信仰のキリスト」と「歴史のキリスト」と言う対立を作っておいて、各自勝手にその間に自分に一番都合のいい説明を付ける。ある時は歴史の名によって、また場合によっては高等批評をかざして、四福音書を勝手に改竄(かいざん)する。…それであるから、自らはカトリック教会の信者だと称する近代主義者(モデルニスト)が、いわゆる『信仰のキリスト』と『歴史のキリスト』とを対立せしめて、歴史的にはキリストは単なる人間にすぎず、この歴史的人物を神格化したのは、初代信徒の情熱的瞑想の作為だと主張するのは、結局キリスト教全部を何ら客観的現実に基礎を有せざる宗教的想像に帰するもので、教会から異端として排斥されたのは当然の運命である」(岩下壮一著『カトリックの信仰』講談者学術文庫pp336-339)と。
以上から「下からのキリスト論」は、その方法論からして近代主義的であり、カトリック教会の教えとは相容れません。