間違ったメッセージ

フランス司教協議会によるコンドーム使用容認は

教導職の権威に対する恥知らずの挑戦
フィリップ・ローラー

The Catholic World Report March 1996 から

イエスは「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける」(ルカ10· 16)と、カトリック教会の最初の司教たちにおっしゃいました。イエスはペトロに「わたしの子羊を飼いなさい」(ヨハネ21· 15)とも言われました。

昨年11月、ペトロの子羊たちは彼らの羊飼いたちが、コンドーム使用推進の試みを断罪するのを聞きました。教皇家庭委員会は「より安全な性」を目指す運動が「コンドームをエイズ予防に役立ち得る、と位置づける間違った理論は危険で不道徳な政策である」と警告したのです。

彼らは、今年2月、フランス司教協議会の一委員会がこの声明に反論するのを耳にしました。フランス司教協議会社会委員会は、エイズ予防の戦争では「コンドームが唯一の予防法である」という声明を出しました。「であれば、それは必要である」というコンドーム使用を紛れなく容認する追加説明もありました。

ペトロの子羊たちは混乱しています。もしかすると、彼らは、主のもう一つの警告「国が内輪で争えば、その国は成り立たない」(マルコ3· 24、マタイ12· 26とルカ11· 17も参照)を思い起こしているのかもしれません。

自分たちの司教が明らかに不従順であるとき、信徒はどうすればいいのでしょうか。わたしたちは、ここに簡単なテストを提案します。司教たちのどの声明がイエスの口から聞こえてくると思いますか。司教たちは、互いに反対のことを言うかもしれませんが、全納の神の中に矛盾はあり得ません。

さしあたって、エイズ予防が当面の問題ですから、これら二つの文書を調べてみましょう。わたしたちは、一方に「結婚外での禁欲と結婚における忠実は、この伝染病の予防に役立つ唯一の、真の、そして安全な方法」であると教えている教皇委員会の主張を知っています。他方、フランスの司教たちは、人々が性欲を思いのままに満たすのを止めさせることができない、と説明しています。フランス司教協議会の結論は「コンドーム使用は、性活動をすでに始めているある人たちが、重大な危険を避ける必要があるときには理解できる」ということです。

この二つの結論の中どちらが「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれるない方がましである」(マタイ5· 29)と言われたキリストから来ると思いますか。

(わたしたちはここで、少なくとも、コンドームが「唯一」の予防法であると暗示するのは医学的ナンセンスであることを、軽く指摘するべきでしょう。その理由は、コンドームは時として役に立たないだけでなく、唯一の信頼に値する予防法が性的禁欲であれば、コンドーム使用が無意味なものになってしまうからです。しかし司教たちのメッセージの科学的不正確さはわたしたちの関心事ではありません。)

第二の教導職?

司教の権威に関しては、もう一つはっきりしたテストがあります。「わたしは言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。隠府の力もこれに対抗できない」(マタイ16· 18)。ペトロと並ぶ司教が果たして存在するものでしょうか。

一方に、教皇から任命を受けた司教たちからなる教皇家庭委員会があって、ペトロの後継者がしばしば発表している考えを、ペトロの後継者の承認を受けて、声明として発表します。明らかにその反対になりますが、フランスの文書は、それがフランス司教協議会の名前で発表されていますが、ポアティエのアルベール・ルエ司教の署名しかありません。

しかし、アルベール・ルエ司教は、ひたすらに自分の考えだけを述べたわけではありません。彼は、フランス司教協議会に属する「社会委員会」の議長を務めます。この団体は、ニューヨーク・タイムスによると「社会問題に関してはフランス教会の最高の権威」であるそうです。

少しでも教養のあるカトリック信者なら、タイム誌の言っていることの馬鹿らしさにすぐに気付くはずです。フランスの教会は、世界中のキリストの体から切り離されているから、彼らの「最高権威」はポアティエとかパリにあって、ローマにないのでしょうか。そして「フランス教会」は、社会問題に関して教えを垂れる一人の権威がいるかと思えば、もう一人の別の権威は、教義上の問題について発表したりするのでしょうか。イエスは福音化の使命を、種々雑多な委員会に託されたのでしょうか。もちろん、そうではありません。

不幸なことに、すべてのカトリック信者が適切な教育を受けているわけではありませんし、ニューヨーク・タイムスの読者が、全員かトリック信者であるわけもありません。ですから、多くの人たちは、ルエ司教の声明に関するタイム誌の記事(それ以外にもたくさんの同様な記事があるでしょうが)を読んで、おそらくフランスのカトリック教会は、教皇ヨハネ・パウロ二世のカトリック教会から、少なくともこの件に関して、分離してしまったと結論することでしょう。

ロイターニュースは、フランスの司教たちが「バチカンの線から一歩離れた」と読者に伝えています。この報道にも問題があります。なぜなら、フランスの司教の中何人がルエ司教の声明に賛成しているかが、明らかでないからです。教会の教えを「バチカンの線」と言い切ってしまっているのは、ピタゴラスの定理を「幾何学の先生の意見」であるというようなものではありませんか。それでも、ロイターの記事は、議論の核心に触れてはいます。普通の読者であれば、フランスの文書を、その前に出たローマからの文書と比較して、フランスの司教たちが、確かに道を誤ったという結論に到るでしょう。

わたしたちは、ついに、明白な離教の時代に入りつつあるのでしょうか。フランス・カトリック教会の指導者たちは、実際に、ローマとたもとを分かちたいのでしょうか。他の司教たちはルエ司教に反対の発言をして、教皇ヨハネ・パウロ二世を支持するのでしょうか。わたしたちが「フランスの教会」とか「アメリカの教会」とかはよく耳にするのに、一つであり分割され得ないキリストの体について、あまり聞くことがないのは、単なる偶然でしょうか。こういうことも、もはや、聞き捨てにできない疑問です。

(また、わたしたちは脇道に入って行きそうです。わたしたちはここで、フランス教会が、自分の信者をつなぎ止めることができなかったという事実を、指摘できるかもしれません。その大失敗は、ルフェーヴル分離教会に流れた信者の数が、教会に留まって忠実に信仰を守る信者の数に迫る、という事実からも明らかです。その反面、コンドーム使用には断固として反対することで知られる教皇聖下が、公の場でミサをなさるとき参集する信徒は何百人にも、何千人にもなります。もし、フランスのカトリック信者がローマからの独立を考えているのであれば、ペトロの船から沈没船に乗り移るようなものであることは明らかでしょう。しかし、これは本論の論点ではありません。)

ニュアンスなしの不同意

このごろばやりの神学者であれば、フランス司教協議会の声明の微妙な点を理解しなかったと言って、わたしたちを責め立てるであろうことは、明らかです。確かに、人工避妊薬に青信号を出しておきながら、その文書は「使用者を区別して考えなければなりません…」などと警告もしています。その後、フランス語の原文でも、英訳でも、歯がゆくなるような文章が延々と続きます。ここ何年もの間、教皇に反対を唱える神学者たちは、自分たちが教会の教えを否定していることを隠蔽するために、このような「ニュアンス」を使用し続けてきました。 しかし、フランス司教協議会の声明は、それでも何とか理解できる学識ある専門の神学者たちにあてられたものではありませんでした。また、問題のある信者の夫婦たちの悩みを聞いて、指導する立場にある司祭とか相談員にあてられたものでもありませんでした。この声明は、世間の報道関係の人たちが呼ばれたパリの記者会見で発表されたのです。司教たちは、自分たちのこのショッキングな発表に記者たちがどんなに反応するか、まったく考えが及ばなかったのでしょうか。そうであれば、彼らの無知は驚くべきものであり、責任があり、犯罪でもあります。

明らかに、フランスの司教たちは、メディアがどう反応するか知っていました。文書を書いた本人は、自分たちがバチカンからの離反を強調することを意図していました。いま、忠実なカトリック信者は、はっきりと発言するべきです。この問題をあいまいにしてしまう彼らの巧妙なやり方に惑わされてはなりません。これらのフランスの司教たちは、越えてはならない線を越えてしまいました。彼らはペトロとカトリック教会の教えに反対します。どんなに上手に料理してあっても、いやなものはいや、そんなものは地獄に堕ちてしまえ、と言う野菜嫌いのアメリカ人の男の子のように、わたしたちもいやなものはいやなのです。そんなものは地獄に堕ちてしまえと言いたくなるのです。

わたしたちが、劇的効果を狙って乱暴な言い方をしている、と思わないでいただきたいのです。その反対に、わたしたちは、気をつけて言葉を選んでいます。わたしたちは、キリストの聖なる教会に対する反対に「いやなものはいや、そんなものは地獄に堕ちてしまえ」と言いましたが(わたしたちは、反対者でなく、反対にこの乱暴な言葉を向けています)、それは、反対が起こるのは地獄の底からであると、わたしたちがひたすら信じているからです。

ご自分の弟子たちに彼らの確固とした権威を保証なさった後で — わたしたちがこの論説の皮切りに引用した聖ルカの福音の同じ箇所で — いえすは「…あなた方を拒むものは、わたしを拒むのである。わたしを拒むものは、わたしを遣わされた方を拒むのである」と続けておっしゃいます。神を拒むことはそれほど軽い問題ではありません。

しかし、区別しなければなりません。ある人たちは決して聖霊の教えを聞くことがありません。他の人たちは聞いても理解しません。しかし、ある人たちにとっては、聞き、理解し、その上で明白な、疑うことのできない声の調子で「わたしは従わない」と応えることも可能なのです。■

 

以下、訳者から一言

4月2日のカトリック新聞には、フランス司教協議会もエイズ予防のためにコンドーム使用を容認とか、報道されていました。この論説を読まれた皆さんは、いま、ことの真相がお分かりでしょう。どうしにシリーズで掲載された、エイズ研究班の週刊誌並みのルポルタージュにも、若干、ここで解説を加えることができます。研究班がつきまとったあのHIV感染患者がそう言った、モンシニョール・タントコがエイズ予防のためにコンドームの使用を容認したなどと言うのは「だれかがそう言った」式の神学というのです。なぜ、そういう人たちでなく、聖書にはこう書いてある、教皇文書にはこう書いてある、と言えないのでしょうか。

モンシニョール・タントコに関しては、本人にも会ったことがあるので、まずは事実を疑いました。しかし、調べてみると、何年か前、スウェーデン・カリタスから多額の寄付を受け取って以来、彼はコンドーム容認派になったということで、周りからは、軽蔑され、悪口を言われていました。なぜ、こういうところまで突っ込んで取材できなかったのですか。主とマンモンと両方を拝むことは不可能であるとよく分かります。西ヨーロッパ10ヶ国の教会は、回勅『フマネ・ヴィテ』を拒否したことで知られています。彼らが飲んだ毒には伝染性があるようです。

カトリック新聞も、もっと見識を持って、間違った意見は断固として排除して、信者を惑わさないようにしていただきたいものです。それとも、あなたたちも、エイズ予防の錦の御旗の許なら、断固としてコンドーム使用容認に傾くおつもりでしょうか。カトリック教会のカテキスムをもう一度よく読んでいただきたいものです。