1980年2月24日(四旬節第一主日)に、教皇ヨハネ・パウロ二世は書簡『聖体の秘義と礼拝について』を教会の全司教、全司祭に宛てて送られました。その中で、教皇様は、更に細かい点については、秘跡と典礼の両聖省から追って出されるということを言われ、それが教書として、同年4月3日(聖木曜日)に典礼聖省より "Inaestimabile donum" (計り知れない賜物) として出されました。しかし、それから2年を経た今でも、日本で訳されていないために、それが実行されていない事は本当に残念です。日本の司祭、修道者、信者の中にも、この本の訳を望む声もありましたので、個人的にではありますが、今回の翻訳に踏み切らせていただきました。
カトリック司祭 ジョゼフ・マリ-ジャック
典礼聖省
御聖体の奥義の崇敬に関する教書
『イネスティマビレ・ドーヌム』
Inaestimabile Donum
(計り知れない賜物)
1980年4月3日聖木曜日
緒言
御聖体の計り知れない賜物を改めて考察した教皇ヨハネ・パウロ 二世は1980年2月24日にすべての司教たちと、彼らを通してすべての司祭にあてて書簡を送りました。また、この書簡のつづきとして、典礼聖省は、これほど偉大な奥義に対する尊敬の表わし方について、いくつかの規範を守るようにと、司教たちに、呼びかけているのです。以上の指示は、第二バチカン公会議についで、聖座が御聖体に関する文献の中でいわれたことの要約ではありません。
それらの文献は、いまなお有効ですが、主にMissale Romanum1(ローマミサ典礼書)De Sacra communione et de cultu mysterii encharistici extra missam2(ローマ儀式書のミサ以外の聖体拝領と聖体奥義の崇敬に関する儀式)、Eucharisticum mysterlum3(御聖体の奥義)Memoriale Domini4(主の記念)、Immensae caritatis5(計り知れない愛)、Liturgicae instaurationes6(典礼の刷新)などの教書を指しています。
典礼聖省は、典礼刷新に関する積極的で実り豊かなその成果に喜んでいます。つまり信者の典礼へのさらに能動的、意識的参加、それぞれの国語の使用、聖書朗読の豊富さをもって得られる教義や教理の豊かさ、典礼生活の共同体的感覚の深まり、生活と典礼、典礼的信心と個人的信心、典礼と民衆信心との間の溝を埋めるための効果的努力などです。
しかし、一方では、このような励みになる有益な面があったにもかかわらず、他方では、大いなる悪用と行き過ぎがあったことも、カトリック世界の多くの地域から指摘されています。しかも、これは大いに憂慮しなければならないところまできています。その行き過ぎと乱用は次のとおり。特に、司祭の奉仕と信徒の役割について、越えてはならない区別が曖昧にされていること、例えば、奉献文を無思慮に司祭と一般信徒とが共同で唱える、一般信徒が説教する、司祭が拝領させるべき御聖体を故意に信徒に配らせるなどです。聖なるものと、聖なる雰囲気に対する感受性をますます失っていくこと、例えば典礼の際に祭服を使わない、大した必要もないのに御聖堂以外のところでミサ聖祭をささげる、神聖な御聖体に対する不敬と礼拝の欠如などです。典礼の教会的特徴を無視すること、例えば個人的に作った式文の使用、無認可の奉献文の氾濫、社会的、政治的目的のためになされる祈りや典礼文の悪用などです。以上の場合は、文字どおり、カトリック典礼の偽造です。つまり、神の権利をもって教会が決定し、教会の伝統となっているものとは異なる方法で、しかも教会の名をもって神に崇敬を表わす人は、典礼を偽造することになります。7
このような典礼の偽造は、すべて、善い実を結ぶことができません。そして、当然、良くない結果をもたらすのを避けることができません。すなわち、教会における信仰と崇敬の不一致である教義に対して疑いと不安を招き、神の民につまずきを与え、迷わせ、ほとんどの場合避けがたい激しい反動を呼び起こすことになります。信徒には真正な典礼にあずかる権利があります。しかも典礼は、教会がこれを望み、決定した上で初めて正式の典礼になるのです。教会は、さまざまな場所によって、またさまざまな人々のグループによって生じてくる司牧的な要求に対していかに適応すべきかを予見しています。しかし、教会によらず勝手に行う試験的事柄、良からぬ変更、および発意はただ信徒を迷わせるだけです。その上、無認可の典礼文を使うことによって「祈り」と「信仰個条」との間にあるべき関係を無くしてしまいます。この点については、第二バチカン公会議の忠告を思いださねばなりません。「従って、他の何人も、たとえ司祭であっても、決して自分の考えで典礼を添削したり、変更したりしてはなりません」8そして、パウロ六世も、次のように言っておられます。「刷新を口実にして勝手な試みをする人は、教会のエネルギーを浪費し、また、教会の感覚を傷つけています」9。
A.ミサ聖祭
1 「ミサ聖祭を構成している二つの部分、すなわちことばの典礼と御聖体の典礼は相互に一つの礼拝行為として成り立つほど密接に結ばれています」10それで、まず、主のみことばの食卓につかない限り、主のパンを拝領する食卓に近寄るのもふさわしくないことです。11従って、ミサ聖祭における聖書には、もっとも大いなる重要性があります。そこから、教会が祭儀における聖書の朗読を一層豊富で一層多様で適切なものにしようとして決定したことを、なおざりにしてはなりません。12朗読の数にしても、また、特別な状況に関する指示にしても朗読集に定められている規定を、守らなければなりません。神のみことばを、いかなる人間のことばであってもそれととりかえることははなはだしい乱用をすることになるのです。13
2 福音の朗読は、叙階された奉仕者、つまり助祭か司祭に限られています。他の朗読は、なるべく、任命された朗読者あるいは霊的又は技術的素養のある信徒に任せるべきです。第一の朗読の後に答唱詩編が続くのですが、これは、ことばの典礼に欠くべからぎる部分です。14
3 説教の目的は、声高に朗読された神のみことばを信者に説明し、そのメッセージを具体化することにあります。従って、説教は司祭または助祭に限られる義務です。15
4 奉献文の宣言は、その本質から見れば祭儀全体の頂点です。従って司祭だけが叙階式の権能によってこれを唱えなければなりません。また、助祭やそれ以下の奉仕者および信徒に奉献文の幾つかの部分を唱えさせるのは乱用です。16aそうかといって、会衆は受動的であるとか、何もしないなどということにはなりません。なぜなら、会衆は沈黙のうちに信仰によって司祭に一致し、また奉献文の間にあらかじめ決められた応答によって自分の同意を表すからです。
応答とは、叙唱の対話での応答「聖なるかな」、聖変化の後の宣言、司祭だけが唱えることになっている「キリストによって、キリストと共に、キリストのうちに…」の後で唱える「アーメン」です。この「アーメン」は、特に歌うことによって強調し、その価値を高めるべきです。なぜなら、これはミサ聖祭の中で最も重要なアーメンだからです。16b
5 奉献文は、ローマミサ典礼書にあるものか、聖座から正式に認められたもののみを聖座が決めた方法と範囲を守りながら使わなければなりません。もし、教会によって認可された奉献文に手をつけて、変更を加えたり、個人が私的に作った他の奉献文を使うとすれば、これは最も重大な乱用となります。
6 奉献文を唱えているときに、他の祈りや歌を付加してはなりません。17司祭は、奉献文を宣言するとき、明確な語調で唱えなければなりません。それは、信者の理解を促す助けとなるためです。それはまた、「主の記念」の祭儀に熱心な注意を向ける、真の共同体を養成するためです。
7 共同司式のミサについて
西方典礼に再び使用されるようになった共同司式ミサは、特別な方法をもって、司祭団の一致を示します。従って、共同司式司祭たちは、一致を示すそのしるしに、注意しなければなりません。例えば、共同司式ミサの初めから参加すること、定められた典礼祭服を着用すること、共同司式司祭としての、自分の役割の席を占めること、俵式を威厳に満ちた態度で執り行うように他の規定も忠実に守ることなどです。18
8 ホスチアの材料
忠実に、キリストの手本に、ならうために教会は、主の晩さんを祝うに当たって、常にパンと少量の水を混ぜたぶどう酒を用いてきました。感謝の祭儀のための御聖体用のパンは、全教会の伝承に従って、混じりけのない純粋な小麦粉で作られたものだけを使うべきです。
また、ラテン教会特有の伝承に基づいて、「種なしパン」でなければなりません。「しるし」としての観点からいえば、ミサ聖祭に使うパンは、「本当に食物に適したものであるべきです」食物に適するというのは、パンの固さの問題であって、形のことではありません。かつ、形は今までの伝統的なものでなければなりません。パンの材料として小麦粉と水以外の材料が混ざらないように、ミサ用のパンを作るに当たっては細心の注意を払うべきです。御聖体用のパンとしてあるべき品位をおかすような作り方を避け、威厳をもってこれを割ることができるように心がけねばなりません。また割るときに断片が飛び散らないようにし、これをいただく信者の感受性も傷つけない配慮が非常に大切です。
感謝の祭儀のためのぶどう酒は、「ぶどうの果実から」(ルカ22・18)造った、天然の純精酒でなければなりません。つまり、他の成分が、まったく、混じっていないものに限ります。
9 御聖体拝領
御聖体拝領は主の賜物です。そういうわけで、任命された奉仕者の仲介によってこの賜物は信者に与えられるのです。一般信徒が自分で直接に聖変化されたパンとカリスをとることは許されていません。従って聖変化されたパンとかリスを一般信者が次々と手渡すようなことはなおさら許されるべきではありません。19
10 信者つまり修道者でも一般信徒でも、例外的には聖体奉仕者として認められた場合に限って御聖体を配ることができます。司祭、助祭および教会の奉仕者が不足している場合、司祭が身体に障害をきたした場合、または、高齢のため、御聖体を配れない場合、御聖体を拝領する信者の数が非常に多くて、ミサ聖祭の時間が余りにも長くなる場合などが例外に当たります。20従って、ミサ聖祭に参加していても、御聖体を配る役目を自分で果たさないで一般信徒にまかせる司祭の態度は非難されなければなりません。
11 御聖体を拝領するときの信者の態度について
教会は絶えず、御聖体に対して大いなる畏敬を示すよう要求してきました。聖体拝領の方法については、司教団の定める規定により、信者はひざまずくか、あるいは立ったまま受けることができます。21a
「ひぎまずいたまま信者が御聖体を拝領するときは、その他のどんな敬意のしるしも要求されません。なぜなら、ひざまずくこと自体が礼拝を意味するからです。しかし、立ったまま御聖体を受けるときは、行列を作って祭壇に近づきながら御聖体をいただく前に、適当な場所と方法で敬意を表わすことが強く勧められます。しかしそれは、他の信者たちの行き来を、防げない程度にすべきです」21b
信者は、聖体拝領をする前に「アーメン」と唱えます。これはキリストの現存に対する拝領者の個人的な信仰を証す行為です。
12 両形態による聖体拝領については、御聖体そのものに示すべき崇敬のためにも、御聖体を拝領する人の利益のためにも、事情、時、場所の相違を考慮において教会の定めた方法を守らなければなりません。22
各国の司教団と各教区長は、現状の規則によって定められた範囲を越えないよう注意すべきです。すなわち、両形態による聖体拝領は、識別なしに許可するのでなく、その祭儀をはっきりと限定しなければなりません。しかも、この許可を受ける団体は限られたもので、規律をよく守る、同質のものでなければなりません。23
13 聖体拝領後も、主はその形態のもとで現存しておられます。従って、聖体拝領が終った後残っている御聖体の小片はこれを拝領するか、あるいは任命された奉仕者が聖櫃に納めるべきです。
14 その反面、聖変化されたぶどう酒は保存することはできません。従って、聖体拝領が終るとすぐ残った御血は拝領しなければなりません。ゆえに、聖体拝領に当たっては、必要な分量のぶどう酒だけを聖変化させるよう注意しなければなりません。
15 カリスと、他の聖体器の浄めに当たっては、定められた規定を守らなければなりません。24
16 ミサ聖祭用のカリス、パテナ、信者の聖体拝領のチボリウムつまり、すべての祭器に対して特別な尊敬と特別な配慮を示さなければなりません。祭器の形は、典礼的用途に適したものであること、また祭器の材料は、堅固なもので、いかなる場合にも聖なる儀式に適したものであるべきです。これについては、各地方の司教協議会が判断することになっています。聖祭以外の一般用途にあてられた簡単なかごや他の容器など、組末な材料で作られたもの、また芸術的感覚のまったく欠けているものは、使ってはなりません。カリスとパテナは、使用前に司教か司祭によって聖別されたものでなければなりません。25
17 聖体拝領ののち、当然なすべき感謝の行為を怠たらないように信者に勧めなければなりません。この感謝の行為は、祭儀の間にしばしの沈黙、あるいは何らかの賛歌、何らかの詩編、何らかの他の賛美歌をもって示すことができます。26
あるいは、祭儀が終ってからも適当な時間、できるだけ黙想し、祈り続けることでその感謝の行為を示すことができます。
18 御存知のとおり、典礼の集いにおいて、女性の役割はいろいろありますが、中でも神のみことばの朗読と共同祈願の意向を唱えることができます。しかし女性には、教会奉仕者(侍者)の役割は許されていません。⑳
19 視聴覚機などを用いるメディア(ラジオ・テレビ)を通じてされるミサ聖祭には、特別な注意と配慮が必要です。放送の範囲は非常に広くなるので儀式の動きは完全であるように心がけねばなりません。28
個人の家で、御ミサを捧げる場合1969年5月15日付のActio Pastoralis(司牧活動)という教書の規定を守ることにすればよいでしょう。29
B. ミサ以外で御聖体に対して示される崇敬
20 ミサ以外にも公式にあるいは個人的に、御聖体に対する崇敬が強く勧められています。実際、信徒が御聖体の中に礼拝するキリストの現存は、いけにえにはじまり、秘跡的聖体拝領と霊的聖体拝領へと導くのです。
21 御聖体に対する信心業を準備するに当たっては、典礼の季節を、考慮せねばなりません。しかも、その信心業は、典礼によく調和したものでなければなりません。また、ある意味で 典礼からインスピレーションを受けて、神の民を おのずと典礼に向かわせるものであることが望ましいのです。30
22 御聖体顕示について
それは長時間なものでも短時間なものでも、また聖体行列聖体大会および御聖体に対する信心のすべての規定による祭式を準備するに当たって、ローマ儀式書に含まれる司牧的指示と規定を守らねばなりません。31
23 顕示された御聖体の祝福を受ける前には神のみことばの朗読と讃美歌と祈り、そしてしばらくの沈黙の祈りと、黙想のために適当な時間をそれにあてて捧げることを忘れては、なりません。32礼拝の終りに一つの讃美歌を歌い、ローマ儀式書にある種々の祈願の中から一つを選んで、唱えるか歌うことによってそれを結ぶのです。33
24 御聖体を保存する聖櫃は一つの祭壇の上に置くことができます。あるいは聖堂の中にある祭壇以外のよく見え、しかも、品位が保たれ、正しく装飾された場所、その他、個人的な祈りと礼拝にふさわしい小聖堂にも安置することができます。34
25 聖櫃は丈夫で、おかすことができないもの、不透明のものでなければなりません。35
聖櫃の中に御聖体が置かれてあるというしるしに御聖櫃の前に聖櫃のたれ幕、または資格ある権威者によって決められた他の適当な手段を用いるのです。
そして、聖櫃の前には、主に対する崇敬と栄光を表すしるしとして、絶えず、昼も夜も 消えないランプが、ともっていなければなりません。36
26 御聖体の前では、それが御聖櫃の中に安置され、こもられたままであろうと、公けに顕示されていようと、礼拝のしるしとしてひざまずくという伝統ある表敬の習慣を守り続けねばなりません。37
従って、深い敬意をもって、神のみ前に心がへりくだるためにひざまずく行為は性急に、またいい加減にしてはなりません。
27 もしも、以上の規定に反する何らかの習わしが入ってきたとしたら、ただちに改めなければなりません。
典礼、特にミサ聖祭の刷新を実現するに当たって、これまでに出会った困難の大部分は、幾人かの司祭や信徒が、公会議が決めた原則による刷新の神学的、霊的理由を十分に認識していなかったのではないかと思われます。司祭たるものは、教会の正しい感覚をますます、深めていかねばなりません。38典礼儀式、特にミサ聖祭はその教会の正しい感覚の生き生きした表現です。司祭たちは、聖書の適当な教養なしに、救いの歴史のしるしにおいて、具体化された典礼の意味を信者に提供して、説明することはできません。典礼の歴史に関する知識もまた、この変化の由来を理解するために助けとなるでしょう。これら刷新の理由は、新しいことをすることにあるのではありません。かえって、古代の純粋な、正真正銘の伝承を復興させ、適応させるためです。
その上にまた、典礼は、大きな均衡を要求します。なぜなら「典礼憲章」に言われているように、「典礼は、信者がキリストの秘義と、まことの教会の本来の性格とを、生活をもって表し、他の人々にも示すために、大いに役立つものです…人間的であると同時に神的であり、見えるものでありながら見えない要素に富み、活動に熱心であるとともに観想に励み、世の中にありながら、旅する者にすぎないものであることが、この教会特有のものです。しかも、そこでは、人間的なものが神的なものに、見えるものが見えないものに、活動が観想に、そして 現在が、我々の求める未来の国に向けられ、従属しています」39
この均衡なしに、キリスト教的典礼のまことの姿は、だんだん歪んだ方向に進むのです。これらの理想に、もっとたやすくたどりつくには、神学校や、教会立大学における典礼の養成が奨励されなければなりません。40また、司祭たちには、典礼コース、典礼研修会、典礼のつどい、一週間の典礼セミナーなどに参加するよう呼びかける必要があります。また、これらのつどいにおいては、研究と反省が模範的な儀式によって、力強く完成されなければなりません。こうして、司祭たちは、信徒の典礼的教理教授、朗読者の組織づくり奉仕者(侍者)の霊的、実践的養成、共同体推進者の養成、典礼讃美歌を次第に豊富なものとするに当たって、結局、典礼の一層深い知識を豊かにする、すべての発意に当たって、効果的司牧活動に挑むことができます。
典礼刷新の実現において、全国典礼委員会、各教区典礼委員会、典礼学院および典礼センターの責任は大です。特に典礼書の翻訳の仕事、そして公会議に望まれた刷新の精神を聖職者、信徒のうちに育てる仕事、その養成の仕事においてこそ責任は大です。これらの組織活動は、すべて教会の権威者に奉仕する者でなければなりません。これらの組織は教会の規定と指導に忠実に協力し、典礼刷新の実りを危険にさらす勝手な発意や、個人主義的な傾向に流れないものでなければなりません。こうして、教会の権威者はこれらの組織に、信頼することができます。
この教書は、第二バチカン公会議の規定に基ずいて、パウロ六世が発布したローマミサ典礼書発行後の十周年記念に神の奉仕者(司教、司祭)の手に届くことになっています。
では、典礼祭儀の規定を、忠実に守らなければならないことについて、当時の教皇のおことばを、ここで思い出すことにしましょう。「典礼に関して決められた規定に払わねばならない尊敬を否むことは、正に「キリストの愛が私たちを一つに集めた」というちょうどそのポイントである典礼とミサ聖祭に分裂を導入したことであって、これは非常に重大なできごとです。
わたしは伝統の名によってわたしのすべての子ら、カトリックのすべての共同体に向かい、刷新された典礼をそれに威厳と熱心を加えて行うようにと呼びかけます」41
「自分に委託された教会に於ける典礼全生活の統制者であり、推進者であり、また守護者である」42司教たちは、神のみ栄えと教会の利益のために、これらの規定を真剣にまた入念に実行できるもっとも適当な方法を見出すに違いありません。
ローマにて
主の晩さんの聖木曜日に
1980年4月3日
1 第2規範版、ローマ、1975年発行。
2 規範版、ローマ、1973年発行。
3 礼部聖省教書1967年5月25日。AAS 59(1967)539〜573。
4 典礼聖省教書1969年5月25日。AAS 61(1969)541−545。
5 秘跡聖省教書1973年1月29日。AAS 65(1973)264−271。
6 典礼聖省教書1970年9月5日。AAS 62(1970)692−704。
7 聖トマス・アタィナスSommetheologlque=神学全集」2の2.9.93.a・1。
8 第二バチカン公会議 典礼憲章」22.§ 3。
9 教皇パウロ六世、1973年8月22日 演説 「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」(1973年8月23日)
10 第二バチカン公会議「Sacrosanctum Conclllum=典礼憲章」56。
11 同56「Ⅰ わ1Verbum=神の啓示に関する教義憲章」21も参照。
12 第二バチカン公会議「Sacrosanctum Concilium=典礼憲章」35§ 1。
13 典礼聖省教書「Liturgicae instaurationes=典礼刷新」2、a参照。
14 「ローマ・ミサ典礼書総則36参照。
15 説教をするのは、「司祭でなければなりません。従って、信者は、ミサのなかで感想をのべたり、対話をするなどのことを、さしひかえねばならない」典礼聖省教書「典礼の刷新」2、a(1970年9月5日)参照。
16a 典礼聖省教令「Eucharistiae participationem=聖体参加」1973年4月27日、AAS65(1973)P340〜347、n、8。教書「典礼の刷新」4参照。
16b 総則191では、「奉献文の結びの栄唱は、主司式司祭がひとりで唱えるか、もしくは、共同司式司祭一同が、主司式司祭とともに唱える」とある〔「ミサ典礼書」(70ページ)〕。
135では、「…会衆がアーメンと応唱するまで…」〔60ページ〕
日本語のミサ典礼書では、歌うときに、最後のアーメンだけでなく、会衆は、「すべてのほまれと栄光…」から答えることができると書いてあるが、歌うときも、歌わないときも、会衆の応答が、「すべてのほまれと栄光…」から始まるのは、典礼の規定にそむいています(訳者註)。
17 「Institutio generalis missalis Romanl=ローマ・ミサ典礼書総則」12参照。
18 同156、161〜163。
19 同281−284。典礼聖省「典礼の刷新」5 NOTITIAE(典礼聖省公報)6(1970)37。
20 秘跡聖省教書「Immensaecaritatis=計り知れない愛徳」1。
21a 礼部聖省教書「聖体の奥義」34、ローマ・ミサ典礼書総則」244C、246b、247b参照。
21b ミサ典礼書の総則に出るすべての「ひざまずき」は、日本では聖座の許可をもって「合掌して深く礼をすること」になっていたが、この教書27番の規定、「もしも、以上の規定に反する何らかの習わしが、入ってきているとしたら、ただちに改めなければならない」によって、その許可も無くなります。ひざまずくことは、2000年のカトリックの伝統です。謙遜、へりくだり、礼拝の最高のしるしです。ここでパウロの言葉を思い出し、よく黙想しましょう。「たがいに、イエズス・キリストの心を心とせよ。かれは、本性として神であったが、神と等しいことを固持しようとはせず、かえって奴隷のすがたをとり、人間に似たものとなって、自分自身を無とされた。その外貌は人間のようにみえ、死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで、神はかれを称揚し、すべての名にまさる名をお与えになった。それは、イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめ、すべての舌が、父なる神の光栄をあがめ、「イエズス・キリストは主である」といい表すためです。フィリピ書2章 5〜11」「主はいわれる。私のいのちにかけてちかう、すべてのひざは私の前にかがみ、すべての舌は神を賛美する」とかきしるされています。こうして私たちおのおのは、神に自分のしたことを報告するであろう。ローマ書14章11.12」かくも偉大な秘跡を前にして、ひれ伏し、ひざまずくことは、真の人間の姿であり、行為です。
幸いに日本国内でも、ひざまずいて拝領している教会のある事は、うれしいことです。ひざまずく人以外の偉大な人はいません。主のみ前に小さきものとなってヘリくだり、ひざまずく行為は恐らく、天の門をくぐることにもつながるてしょう(訳者註)。
22 「ローマ・ミサ典礼書総則」241〜242参照。
23 同242の終りごろ参照。
24 「ローマ・ミサ典礼書総則」238参照。
25 同288、289、292、295参照。
典礼聖省教書「典礼の刷新」8。
「Pontificale romanum=ローマ典礼式の司教用定式書」中の「Ordo dedicationis ecclesiae et altaris=聖堂や祭壇の聖別式次第」125ページの3参照。
27 典礼聖省教書「典礼の刷新」7参照。
28 第二バチカン公会議「典礼憲章」20参照。
教皇立公報委員会の教書「Communio et progressio=コムニオ・エト・プログレシオ」 1971年3月23日、AAS・63(1971)593−656、n・151参照。
29 AAS・61(1969)806−811。
30 ローマ式書「Rituale romanum de sacra communione et de cultu mysterii eucharistici extra missam=ミサ以外の聖体拝領と聖体の奥義の表敬に関する儀式」79−80参照。
31 ローマ式書「ミサ以外の聖体拝領と聖体の奥義の表敬に関する儀式」
32 同89。
33 同97参照。
34 ローマ・ミサ典礼書総則」276参照。
35 「ミサ以外の聖体拝領と聖体の奥義の表敬に関する儀式」10参照。
36 典礼聖省教書「Eucharisticum Mysterium=聖体の奥義」57参照。
37 ローマ式書の「ミサ以外の聖体拝領と聖体の奥義の表敬に関する儀式」84参照。
日本で「すべてのひざまずきは、合掌して深く礼をすることになっている」という聖座の許可は、この26規定と次の27規定によって取り消されたことになります。どうか素直に、理屈なしに従いますように(訳者註)。
38 第二バチカン公会議「教会憲章」参照。
39 第二バチカン公会議「Sacrosanctumconcilium=典礼憲章」2。
40 カトリック教育聖省「In ecclesiaticam futurorum sacerdotum fomabonem=教会の未来の司祭の養成のために」ということばではじまる「神学校における典礼養成に関する」教令(1979年6月3日)参照。
41 教皇パウロ六世の演説(1976年5月24日)、AAS 68(1976)374。
42 第二バチカン公会議「Christus Domini=教会における司教の司牧任務に関する教令」15。
以上の教書は、典礼聖省が準備したもので1980年4月17日教皇ヨハネ・パウロ二世によって認可された。当教皇は、教皇の権威をもってこれを確認し発表し、関係あるすべての人がこれを守るように命じられた。
典礼聖省長官・枢機卿 ジェイムス R ノックス
第二秘書 ヴィルジリオ・ノエ
ヨハネ・パウロⅠ Ⅰ 世に尊敬.感謝.忠実.従順.素直に心よくただちにこの教皇様の指示に従いましょう。 訳者